『最後のウマ娘がゲートに入りました』
テレビからはアナウンサーとして日本一の知名度を誇る赤坂アナの声が聞こえてくる。ウマ娘のレースの実況においては現役屈指の実力派と名高い女性である。
ゲートに入ってゆくウマ娘たち。今回は模擬レースとあって、彼女たちはそれぞれのゲート番号を示すゼッケンをつけた体操着姿だった。ウマ娘の代名詞ともいえる個性的な勝負服姿が見られるのは大レースであるG1の時のみ。さすがにそれは本番の有馬記念までのお楽しみといったところか。
『ここトレセン学園には朝早くからたくさんの観客が詰めかけております。人々が見守るなか――』
模擬レースは学園関係者のみで行う場合と一般客も呼び込んで開催される場合がある。今回は後者だ。
テレビ局としては満員の観客席のほうがテレビ映えするとの都合もあって、大々的な告知が行われていた。
生中継の映像に映し出されたレーストラックの観客席には一万人を軽く越える人々が集まっていた。スターウマ娘が出走するとはいえ、たった一回の模擬レースに朝からこれだけの観客が集まるというのは国民的娯楽、一大エンターテイメントの名を欲しいままにするトゥインクルシリーズの面目躍如といったところである。
『各ウマ娘、ゲートイン完了』
各ウマ娘がスターティングゲートで身を沈める。全身に力を漲らせ、集中力を張り巡らせてゆく。
観客席のざわめきも減ってゆき、レースの始まる瞬間を今か今かと待ちわびる期待感が醸成されてゆく。
『スタートしました!』
かしゃん、という音とともゲートが開く。十四人のウマ娘が飛び出してゆき、一気にトップギアまで加速する。人間離れしたパワーにより芝が抉れ、風が唸り、少女たちは髪をなびかせ、駆け抜けてゆく。
わあ、と歓声が起こった。
『内から内から! 先頭を伺うのは――』
先頭に立ったのは有馬記念にも出走予定のウマ娘だった。短い鹿毛の髪、右のウマ耳に耳飾りをつけている。目の下から頬にかけて白い入れ墨で戦化粧をしていた。
彼女の脚質は逃げ。その逃げ脚は重賞クラスのレースでもたびたび上位を取るほどのもので、まさしく強豪ウマ娘といってもいいだろう。内を突いて加速してゆく。彼女はちらりと後ろを見た。
『それを追うようにマヤノトップガンが競りかけてゆきます!』
そのウマ娘を追うように小柄な少女が競りかけてゆく。長い栗毛の髪をなびかせ、肢体をぐっと沈め、一気に加速する。先頭を奪おうとしていた。そのクチナシ色の瞳に気力がみなぎっている。差を縮めてゆく。ついに並んだ。
マヤノトップガンだった。学園内でも有名な天才少女。その飛ぶような走りからは間違いなくトップエースたる器の気迫が伝わってきた。
『どちらが先頭争いを征するか!?』
だが、相手のウマ娘も決して弱くはない。
むしろ、並みのウマ娘ならマヤノトップガンに抵抗すらできずに交わされるところだというのに先頭を譲らない。スピードをあげてポジションを死守する。
無理に抜かないほうがいいのか、と判断したマヤノトップガンが加速を止めようとすると今度はギアを緩め、抜かせそうな雰囲気を作る。
それならば、と誘いに乗ってマヤノトップガンが抜かそうとするとまたギアを上げて追い上げを阻止。
二度、三度、四度――。
それを繰り返す。
何度も何度も繰り返すうちにマヤノトップガンは完全に自分のペースを守ることも忘れて、突っかかりはじめた。
『マヤノトップガンが仕掛けてゆく! しかし! 交わせない!』
マヤノトップガンが抜かそうとするたびにギアを上げ、抜かせない。マヤノトップガンという超一流のウマ娘を相手にしてそんな芸当が出来るのだから、あの逃げウマ娘はチームのエース格の存在なのだろう。
とはいえ、さすがにこれは無茶だ。
トレーナーはそう思った。
必死の表情。逃げウマ娘はマヤノトップガンを釣り上げることに執念を燃やしていた。
このままでは勝利は難しそうだが何か意図があるのか――あるいはこれも本番に向けた心理戦の一環だろうか。
『激しい先頭争い! 前の二人は後続を引き離してゆく! これはペースが速くなりそうです!』
先頭を走る逃げウマ娘はマヤノトップガンにそのポジションを奪わせようとしない。マヤノトップガンからすれば追い抜けそうで追い抜けない、もどかしい状態のまま最初のコーナーに入ってゆく。
『レースは間もなく第一コーナーに差し掛かろうというところ! 各ウマ娘――』
マヤノトップガンという少女は学習能力の非常に高いウマ娘ではあるのだが、いくら学習能力が高かろうとそれだけで初見の搦め手を克服できるほどレースは甘くない。
それに天才少女にも弱点はある。それは――。
『最初のコーナーを駆け抜けてゆきます! 順位は変わらず、以前、先頭は――』
精神面で幼い部分があるのだ。
失敗体験の少なさがかえって仇となって、逆境に陥った際のねばり強さに欠ける傾向がある。
『――その横にマヤノトップガンがつけています!』
マヤノトップガンがウマ耳をぺたんと伏せている。しっぽが必要以上に揺れている。苛々しているのが伝わってきた。ウマ娘にとって、競争心とは本能的なものだ。
先頭を取りたいのに、取れない。
自分の思うような走りが、できない。
これはウマ娘ならば誰でもフラストレーションが溜まる状況だ。頭ではわかっていても、身体が自然に前に前に行こうとしてしまう。我慢がどんどん効かなくなる。
マヤノトップガンは遠心力に逆らうように上体を内側に傾けて、コーナーを曲がってゆく。
右には逃げウマ娘がいる。誘うようにギアを緩めたのが見えた。交わせるかもしれない。今度こそ交わせるかもしれない。苛々する。すごく苛々する。
本来は減速して息を入れなくてはならないポイントなのだが――マヤノトップガンはむしろ、加速することを選んだ。
少女の長い栗毛の髪が弧を描いた。
まるで風を掴み離陸しようとする戦闘機のように、そのスピードが緩む気配はない。
しかし――。
それでも、それでも交わせない。マヤノトップガンが加速すると同時に逃げウマ娘も加速したのだ。カーブの内側にいる彼女のほうが走る距離は短くて済む。
その差が距離損となり、交わせそうだったのに交わせないという結果をマヤノトップガンにもたらした。
順位は変わらず、スタミナを浪費し、ストレスだけがもたらされる。冷静さが失われてゆく。
よく見れば逃げている相手のウマ娘も歯を食いしばり、明らかに無理な逃げをしているのだが、マヤノトップガンはそれに気付く余裕もなさそうだ。
『――――っ!!』
マヤノトップガンが何かを叫んでいる。といっても中継画面なので口パクしか見えないが。首を一度二度振るとさらに脚を前に前に進めようとする。明らかなオーバーペース。
「たぶん、マヤノ癇癪を起こしてるんだと思う」
「だろうなあ……」
ナイスネイチャがあちゃー、と頬をかいた。
トレーナーも同じ印象を受けた。
おそらくマヤノトップガンは「もーーっ!」とか叫んでいるに違いないし、現地で観戦しているであろう彼女の担当トレーナーは胃の辺りを抑えているに違いない。
とっくにスタート付近のポジション争いは終わったというのに、頑なに先頭を奪うことに固執しているマヤノトップガンを引き連れて、その逃げウマ娘はコーナーを曲がりきる。そのままレースは中盤に入ってゆく。
『競り合うようにしてマヤノトップガン二番手。これはちょっと掛かり気味か? 少し離れて三番手は――』
三番手につけたウマ娘の背中を風避けに使いながら、マーベラスサンデーも四番手で追走していた。長い黒髪のツインテールをなびかせて、先団で脚を溜めている。
おそらくラップタイム的な意味では、マイペースな逃げに近いスピードで走っているのはマーベラスサンデーの前を走る三番手のウマ娘だろう。
遅かれ早かれ、前の二人は暴走状態で潰れる可能性が高い。つまり、相手としては度外視していい状態だ。
十四人立てのレースから、前の二人は脱落。改めて、十二人立てのレースを送っているのだと仮定すれば――。
『――の背後にぴったりとつけて、マーベラスサンデー!』
つまり、いまのマーベラスサンデーのポジションは逃げウマ娘の直後につける先行。
そんなスタイルでレースを進めているようなものだ。
逃げウマ娘の直後につける先行、というのはレースの定石としては模範生に近いレーススタイルである。
勝率が比較的に高い戦法だ。
もちろん、前をゆく逃げウマ娘が常識的なペースで逃げてくれるなら、という前提はあるが。
逃げ同士で競り合ってハイペースで暴走して勝利できるウマ娘など、学園内で有名な某爆逃げコンビぐらいなものだろう。逃げ同士での潰し合いなどというのは本来やってはならない作戦といえる。勝ちを捨てるようなものだ。
『マーベラスサンデーはここにいました。四番手でレースを進めています。今回の模擬レースでは視聴者投票で断然の人気を集めています! 遅れてきた大器という二つ名に恥じない走りを見せられるか! 大注目のマーベラスサンデーです! 続いて――』
マーベラスサンデーは意外なほどレースに対しては真面目なウマ娘である。普段の自由奔放な言動ゆえに周りからは誤解されがちだが、いったん走り出すとレースに対する高い集中力を発揮する。
ゆえにその競走成績は四着以下のない非常に安定したものである。
いつもは能天気な笑顔と元気いっぱいに走り回っている印象の彼女だが、いまは菜の花のような色合いの瞳を輝かせて、何かをたくらむように口元を引き締めている。
言うなれば、これはまるで獲物に飛びかかる寸前の猫。一瞬の切れ味で前を交わし、そのまま加速し続けてゴールまで粘り込むのが彼女の得意戦法だった。
マーベラスサンデーは風除けにしているウマ娘の背中ごしに先頭争いをする二人を見つめていた。
交わすタイミングを伺っているのである。そこに緊張は――ない。真剣ではあっても悲壮感や使命感とは無縁で、ただただレースを楽しんでいる。
むしろ周りのほうが緊張しているといっていい。何故ならば、いまこのレースを支配しているのはマーベラスサンデーだからだ。このレースの起点といっていい。
彼女ほどの有力ウマ娘がラストスパートに向けて動き出せば、後続のウマ娘はそれを無視できない。抜け出されてしまえば、追い付くのは至難の技だ。
現にマーベラスサンデーの周囲にはウマ娘たちが固まっている。そのウマ娘たちはマーベラスサンデーの小さな背中を睨んでいた。いつ抜け出すつもりなのか? 交わすタイミングはどうするべきか? もうひとりの有力ウマ娘のマヤノトップガンはあの様子では潰れるだろう。だから、こいつさえ交わせば勝てるに違いない――そんなウマ娘たちの思惑が伝わってくるようであった。
マーベラスサンデーという少女が仕掛けるとき、レースの流れが変わる。逆にいえば、彼女が動かないとレースが動かない。周りは受動的な対応を迫られてしまうのだ。たったひとりの挙動に振り回されているともいえる。渦中の少女であるマーベラスサンデーは気持ちよく走っているだけだというのに。
『まだ前の二人がレースを引っ張ってゆきます! 緩みのない展開になっています!』
トレーナーは思う。
彼女のいうマーベラスな走りとはいったい何だろう、と聞くたびに首をかしげたものだが、わかった気がした。
つまり、自分にとって最も理想的なレース展開を掴み寄せる力「レースメイク」が彼女のいうところのマーベラスな走りなのかもしれない。
「なるほど、な」
「どうしたの、トレーナーさん」
「いや、いま最も理想的なペースで走れているのはマーベラスだ。これが彼女のいうマーベラスな走りなんだな、と」
それを聞いたナイスネイチャは苦笑いをするとないないとばかりに手を振った。
「あはは……トレーナーさん、考えすぎ。たぶんあの子そんなこと考えてない。きっとさ。レースを楽しんでるだけじゃないのかな?」
「そうなのか?」
「うん……まあ、それで結果を出せるんだからマーベラスは本当すごいよねー」
ふたりはテレビ画面に目を戻す。
『後方二番手の追い込みのポジションでレースを進めるのはヒシアマゾン! そして最後方は――』
ウマ娘たちが駆け抜けてゆく。晴天の青空の下。
少女たちのレースは間もなくクライマックスを迎えようとしていた。
『おーっと! ここでマーベラスサンデーが前との差を詰め始めた! 後続のウマ娘もつられて上がってゆく!』
マーベラスサンデーの小さな身体が弾むようにターフを切り裂いてゆく。両腕を伸ばしてバランスを取るように身体を前傾姿勢で傾けて、風避けにしていたウマ娘をあっさりと交わす。体力ぎりぎりで走っていたところを並ぶ間もなく抜かれたショックで心が折れたのか、三番手のウマ娘はずるずると後退していった。
マーベラスサンデーをマークしていたのだろう。何人かの少女たちもまた差し切るために加速を始める。
だが――。
『間もなく最終コーナーにさしかかります!』
小柄な黒髪の少女が、ターフを蹴りあげるたびに土が抉れ、風は唸りをあげ、加速してゆく。
後続のウマ娘たちも脚に力を込めて、必死に追い付こうとする。だが、全力で走っているはずなのに、その差は縮まらない。
『マーベラスサンデーが上がってゆく!』
ラストスパートというのは全速力で走ってきたあとに、そこからさらにギアを上げて、地獄のような苦しみのなかで己のスピードの限界を振り絞る行為である。
追い付けない、追い越せないという現実の前に、やがて心が折れて脱落してゆくウマ娘も現れてくる。
また一人、また一人と後退してゆく。
このレースに出ていたある一人のウマ娘がいた。
学園側からエントリーした有志のひとりで得意戦法は差し。自分の走りには自信があった。
彼女はレース前、こう思っていた。
――なによ、なにが遅れてきた大器よ。
ちやほやされているマーベラスサンデーが気に入らなかったのだ。しかも聞く話によると、ご褒美のおやつが食べたいからなんて理由でトレーニングをしているそうではないか。
ふざけるな、と思った。
自分は練習にも真面目に取り組んでいるし、クラスでの成績は上位だ。マーベラスサンデーとも持ちタイムはそこまで差はない。あの娘なんて偶然勝ち続けられただけ。ただ、運が良いだけのウマ娘でしょ?
だから、今回の模擬レースで差しきってその舐めくさった態度をあらためさせてやるのだと思っていた。
――そう、思っていたのに。
自分の呼吸が乱れているのがわかる。取り込んでも取り込んでも酸素が足りない。頭がくらくらする。
周りのウマ娘はとっくに脱落していた。
だが、それに気付く余裕すらなかった。目の前を走る黒髪の小柄な少女を睨み付け、必死に脚を動かす。
ラストスパートのなかでそのウマ娘は限界を迎えようとしていた。すでに全速力を振り絞っている。同じクラスの子たちには凄い凄いと言われた自慢の末脚だって、いつも通り出せている。間違いなく、トップギアだというのに。
追い付けない。
黒髪のツインテールをなびかせながら前を走る、その小柄な少女に追い付けない。
なぜ! なぜ! なぜ!
自分より前を走っていたのだから体力を消耗しているはずだ! もう脚が残っているはずがない! 自分がこんなにも苦しいのだから、この娘はもっと苦しいはず!
だからもう間も無くこの娘の方から下がってくるに違いない! 交わせるはずだ! 交わせるはずなんだ!
だが――。
苦しみの中で顔を上げたとき、見えてしまった。
黒髪の小柄な少女は、笑っていた。
それはもう、じつにじつに楽しそうに笑っていた。
え? あ? 笑っ……えっ?
脳裏に混乱がよぎる。
苦しいのに、苦しいはずなのに。
なんでこの娘、ワラッテルノ?
声が聞こえた。
ううううう……!
前をゆく少女はバネを押し込めるようにぐぐっと上体を沈み込ませて、
マーベラース!
そんな意味不明な叫びとともに。
トップギアをさらにもう一段階、上げた。
信じられない速さだった。
それはまさしくターフに現れた黒い嵐。
突き放されてゆく。抉れ、飛んできた土が頬を殴りつけてくるようだ。その衝撃が、とんでもないパワーで大地を蹴り上げているのだと伝えてきた。
自分の心が折れる音がした。
無理だ、無理だ。
こんなの追い付けるわけが……ない。
そして、そのウマ娘はずるずると後退していった。
『さあ、レースは最終コーナーを曲がって直線に入ってくる! マヤノトップガン! いま! ようやく先頭を交わした! 二番手から押し切ろうとするが伸びが苦しい! じりじりと後退! 後方から追い込んでくるのはヒシアマゾン! 脚色が良い! しかし!』
ヒシアマゾンが伸びてくる。長い黒髪の褐色の肌の少女がその瞳に闘志を漲らせ、加速する。
だが追い付くには直線の距離が足りなさそうだ。
残り1ハロン。
マーベラスサンデーは完全に抜け出した。
『ここでマーベラスサンデーだ! マヤノトップガンを並ぶ間もなく交わして先頭に立った! 強い強い! マーベラスサンデー先頭! これは完全に決まったかっ!? マーベラスサンデー! マーベラスサンデー! いま一着でゴールイン!』
マーベラスサンデーという名の黒い嵐が螺旋をまとい、ターフを焦がし尽くさんばかりに通り抜けてゆき――その勢いのままゴール板を先頭で駆け抜けた。
『走破タイムは2分34秒2! 上がり3ハロンは37秒1です! マーベラスサンデー! 両手を振ってファンにアピール! 有馬記念の大本命はやはりこの子なのか! 遅れてきた大器にふさわしい走りでした!』
テレビ画面の中ではマーベラスサンデーが黒髪のツインテールを風になびかせ、その瞳を勝利の喜びできらきら輝かせながら、両手をぶんぶん振っている。
マーベラース! マーベラース! という上機嫌な声がこちらにまで伝わってくるようだった。
圧巻の走りだった。
ライバルをねじ伏せ、レースを支配してみせたその実力。有馬記念に出走予定のナイスネイチャにとって、最大のライバルになるのは彼女かもしれない。3ハロンのタイムがやや遅いのは全体的にペースが早い消耗戦のレースだったからだろうか。底力がないと勝ち切れない展開でもあるともいえる。
間違いなく、マーベラスサンデーというウマ娘は強い。
トレーナーは顎に手を当てた。あとで対策を練らないとな、などと考える。今のレースはもちろん録画してある。何度も観返すことは半ば確定した未来といえよう。
「うっはー……容赦ないなー」
ナイスネイチャが肩をすくめた。
「勝つのは骨が折れそうだなー。マーベラスも本番に出てくるんだよね」
「そうだな。……トレーニングたくさんしないとな」
トレーナーが頭のなかで今後のトレーニングプランを組み立てている横で、
「うん、そうだよね。生半可な今のアタシじゃ……また」
ナイスネイチャがささやくような声音で呟く。見れば、その瞳には寂しさが宿っていた。まるで、どうしようもない現実に打ちのめされているような。
「ネイチャ?」
トレーナーが話しかけるとはっとしたように目を開き、両手を振った。
「あ、いや、なんでもないよ! ってほらほら! インタビュー始まるよ?」
ナイスネイチャはトレーナーから視線をそらし、テレビを指差す。
そこにはウィナーズサークルに立つマーベラスサンデーの姿が映っていた。輝くような笑顔。現実の楽しさを満喫しているような雰囲気。
男性のリポーターがマイクを向けた。
『勝利者インタビューです――それでは本日の模擬レースを見事素晴らしい走りで勝利しましたマーベラスサンデー選手にお話を伺ってみましょう――まずはおめでとうございます』
『マーベラース! ありがとー!』
マーベラスサンデーがカメラに向かって、元気いっぱいに両手を広げた。次に握りこぶしを作って胸の前に持ってゆき、ゆらゆらと上体を揺らす。彼女のウマ耳もしっぽも機嫌がよさそうに踊っていた。ちらりと横に立つ男性のリポーターを見つめる。
『本番の有馬記念も期待が持てますね?』
『そーなの! アタシすっごく楽しみなのー! だってね! 有馬記念にはね! ネイチャが出てくるんだよ!』
『ナイスネイチャ選手……ですか?』
『うん! だってね! アタシ、ネイチャと走るのが夢だから!』
リポーターは戸惑ったようだった。
『夢……ですか? ですが、すでに一回走っていますよね? 秋の天皇賞で……。そのときのナイスネイチャ選手はえっと……着外でした。正直いまの飛ぶ鳥を落とす勢いのマーベラスサンデー選手を相手どるには……』
その先の言葉をにごすリポーターにマーベラスサンデーは身体ごと向き直って声をあげた。
『あ! もしかしてネイチャが強くないと思っているの? 違うよ! ネイチャは強いの! すっごく強いんだから! それにすっごく頑張っているし! とってもマーベラスなウマ娘なんだよ! 考えてみて! トレセン学園に通う生徒は約二千人! つまりネイチャがチャンピオンになれる可能性は二千分の一! それなのにチャンピオンになったんだよ! すっごいことだと思わない!?』
『ナイスネイチャ選手は確かにURAファイナルズのチャンピオンに輝いたこともありますが……もう四年前のことですよね? あと、部門別だから二千分の一とは……』
『細かいことは気にしない! ねえねえ! これって日本中に放送されているんだよね!』
『え、まあ……』
それを聞いたマーベラスサンデーは再びカメラのほうに身体ごとその向きを変える。花の咲くような笑顔が溢れだす。両手を握りしめて身を乗り出した。
『ネイチャー! 見てるー? 有馬記念は一緒に走ろうね! アタシ待ってるよー! マーベラース! マーベラース! マーベラーースッ!!』
そんな彼女の後ろで放っておかれてしまう形となったリポーターは困惑を隠しきれないまま、
『えーと……以上! 意気軒昂なマーベラスサンデー選手の勝利者インタビューでした!』
と、まとめるのだった。
画面が切り替わる。
番組の出演者たちがあれこれと感想を語り合っている。
トレーナーはテレビを消した。辺りの音が忽然と消失し、冬のぱりぱりとした大気が室内に入り込むような静寂がふたりの間に流れ込んだ。吐息。熱。気配。それだけを感じることが出来る静かな時間が訪れる。
「あははぁ……まいったなあ」
ナイスネイチャが頬をかく。呟いた。
「マーベラスはアタシをご指名か……」
と、口をつぐみ黙り込んでしまう。
やや間があって、
「……ねえ、トレーナーさん」
「ん?」
「……勝てるかな、アタシ」
ナイスネイチャはトレーナーの袖を掴んでいた。視線を床にさ迷わせている。そんな彼女の様子を目にしたトレーナーは柔らかい吐息をついた。微笑む。
「大丈夫。ネイチャなら勝てるよ」
「……ふふっ、ありがと。そうだよね、勝つつもりで挑まないとね。もう二年近く勝ててないけど……」
そうなのだ。
かつては有馬記念や天皇賞(秋)も制覇し、URAファイナルズの中距離部門チャンピオンにも輝いたことがあるナイスネイチャだったのだが、それ以降は徐々に成績を落としてゆき、以前のような善戦はするけど勝てないウマ娘に逆戻りしてしまったのだ。
いや、それどころか最近では善戦どころか掲示板にも乗れない惨敗を喫することも増えてきていた。
ナイスネイチャのやる気が落ちたわけでも、努力を怠っているわけでもなかった。走力も現役トップクラスを維持している。まだまだ走れそうな気配があるのだ。
ただ、何故か勝てない。
――まるで何か見えない力に引っ張られているかのように、レースでは上手く走れなくなってしまったのだ。
世間ではさまざまな無遠慮な言葉がささやかれる。彼女は能力のピークを過ぎたのでは? これ以上だらだらと現役を続けるべきではない、さっさと引退してはどうか?
そんな声も無くはない。だが、それ以上にナイスネイチャの走りをずっと見ていたいという声も大きい。ナイスネイチャのファンはその復活を夢見ているのだ。
もちろんトレーナーもそのひとりである。
「ねえ、トレーナーさん。勝てなくなってきてるアタシに……その……がっかりさせちゃってたらごめんね?」
心はまだ折れてはいない――のだが、負け続けるという現実の積み重ねがナイスネイチャの心に淀みとなって溜まり始めていた。自信を失いかけているのだ。
ナイスネイチャはうつむいた。髪先をいじる。
「……弱気になってるのかも、アタシ。情けないよね……ちょっとだけ頼ってもいい?」
と、すがるようにトレーナーを見つめた。迷いと不安の色がその瞳には宿っていた。トレーナーは袖を掴んでいたナイスネイチャの指先に自らの手を重ねた。自然と彼女と向き合うような姿勢になる。
トレーナーはナイスネイチャの瞳を覗き込んだ。誠実なまなざし。ゆっくりと諭すように話しかける。
「……頼っていいんだよ。俺がネイチャの逃げ場所になってやるって言っただろ。大丈夫だ。たとえネイチャにどんなことがあっても、ずっと隣にいるから」
「……ありがと。トレーナーさん。ちょっとだけ気が楽になった。本当に……ずっと一緒にいてくれる?」
「もちろん」
沈黙が流れる。
二人は至近距離で見つめ合う。
しかし――。
ふと、ナイスネイチャは気付いた。
(あれ、これ近くない?)
トレーナーの顔がすぐ近くにある。吐息が触れそうな距離とはこのことか。これはあれだ。いわゆる口付けを交わすときの姿勢というやつなのでは。
(いやいやいやいや! なに考えてんの! アタシ! べつにトレーナーさんとはまだ、そんなんじゃないし!)
アータシだけにチュゥするー、とうまぴょい伝説の歌詞が頭に流れ出す。頭のなかの特設ステージでマヤノトップガンとマーベラスサンデーがうまぴょい! うまぴょい! と踊り始めた。
ネイチャちゃんオットナー!
マーベラース☆
(煽るなしッ!)
顔に熱が集まってゆく。ウマ耳がぴょいぴょい忙しなく動き始める。そしてナイスネイチャは、
「……って、こ、こ、こ、告白かい! いやー、ネイチャさんもさすがに照れるわー! えっと! アタシ! そうだ! 午後のトレーニングの準備しなきゃ! じゃ……じゃあ、そーいうことで!」
恥ずかしさに耐えきれなくなって走り去るのだった。