一途な恋の弓矢   作:樂川文春

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第3話 シラオキ様の伝説

 

 

 

 

 午後になった。

 

 トレセン学園のトレーニングジムにナイスネイチャとトレーナーの姿はあった。

 ナイスネイチャは学園指定の赤いトレーニングウェアを着ており、トレーナーは長袖のシャツに丈の長い綿パンというラフな格好をしていた。すぐそばのベンチにはトレーナーのジャケットや鞄、それと大学ノートが置かれている。大学ノートには猫のシールが貼られていた。吹き出しの落書きには「練習メニューにゃ」と書かれている。猫好きなナイスネイチャが貼りつけたものだった。

 

 室内にはさまざまな機材がある。ルームランナーやエアロバイク、クロストレーナーといった定番の有酸素運動の機械をはじめ、チェストプレスやラットプルダウンといった筋力強化の機材も多数そろえられている。

 

 周囲にはほかのウマ娘たちもいて、それぞれがトレーニングに励んでいた。時速七十キロで走り込みをする者。両手に持ったハンドルを左右に動かしている者。

 

 ほかにも天井から吊り下げられた巨大なサンドバッグに打ち込みをしている某ダービーウマ娘などもいる。思いっきり殴り付けて、弧を描くようにぶっ飛ばし――振り子運動で戻ってきたサンドバッグに逆襲されていた。

 

「ぶっふぇっ!」

「す、スペちゃーん!?」

 

 ちなみにウマ娘というのは見た目は華奢で可憐な美少女であるが、その身体能力と丈夫さは一般的な成人男性をはるかに上回っている。

 たとえば、未勝利クラスから抜け出せないような比較的弱いウマ娘でも何十キロものダンベルをひょいひょい持ち上げたりするのだ。だというのに、容姿はか弱そうな乙女のままなのである。世の中は不思議で満ちている。それゆえ世間では魔法の力、超常的なエネルギーといったものの存在はわりと受け入れられやすい傾向があった。

 

 とはいえ、いくらそんなウマ娘でも鍛えていないとその力は衰えてゆく。そこは人もウマ娘も変わらない。ゆえに日々のトレーニングの積み重ねが大切なのである。

 

 ナイスネイチャもまた、トレーニングに励んでいた。傍らには彼女のトレーナーが立っている。

 プレスベンチに横たわったナイスネイチャはダンベルを持ち上げていた。ゆっくり上げて、静かに降ろす。それを繰り返す。上半身を鍛えることによって走る際にフォームが崩れにくくなるという利点がある。今日はその部分を重点的に鍛えようとしていた。明日はまた別の部分を鍛える予定だ。部位ごとに適度な休憩を挟むことによって、トレーニングはより効果的になるからである。

 

「ゆっくりだ! そう! いいぞ!」

「うぐぐ……」

 

 歯を食いしばって、ダンベルを持ち上げてゆくナイスネイチャ。そのダンベルの重量は並みのウマ娘では持ち上げられないような重さだった。しかし、重力に逆らってじわりじわりと登ってゆく。ナイスネイチャとて最初から持ち上げられたわけではない。七年も諦めずに努力をし続けた。歩み続けた。その結果なのである。

 

「ネイチャ頑張れ、あと十回だ!」

「ぐぅぅ……キツぅー……」

 

 やがて、最後のセットを終えたナイスネイチャはダンベルを元の位置に戻す。叫んだ。

 

「終わったー!」

「よく頑張ったネイチャ! この努力がきっと明日に繋がってゆく! すごいぞネイチャ!」

 

 ナイスネイチャは寝っ転がったまま、トレーナーを振り向いた。お腹が上下している。

 

「はいはーい。そんなに褒めても何も出ないぞー?」

「褒めるさ。ネイチャがすごいのは本当のことだからな」

「もー……」

 

 ナイスネイチャは「よいしょっと」と言いながら、上体を起こしてベンチに座り直した。ベンチをまたぐようにくるんと向きを変える。足を揃えた。ウマ耳としっぽが小さく揺れている。こちらを見上げてきた。

 

「そうやってすぐ乗せようとするー……」

 

 唇を尖らせながら上目遣いでトレーナーを見つめていたナイスネイチャだったが、次の瞬間には照れながら、

「だけど、まあ、頑張んないとね、うん」

 と、口元をほころばせた。

 

「頑張れば、有馬記念だって優勝できるさ」

「そんなこと言ったって……相手強いからなー……でも、やってみないとわかんない……よね?」

「素晴らしい精神だ。その粋だぞ、ネイチャ。それでこそ商店街の――」

 

 その時、トレーナーのスマホに着信があった。ポケットから取り出して画面を見る。そこに表示されている名前は『駿川たづな』だった。

 彼女はこのトレセン学園の理事長秘書を勤めている才女である。理事長秘書の仕事だけではなく、事務作業や各種受付手続き、掲示物の管理から夜の見回りまで学園内の業務を一手に引き受けている。

 いくらなんでも仕事が多すぎるが、これは彼女自身が望んでやっていることだった。彼女自身が優秀すぎるゆえにどれもそつなくこなしてしまう。ウマ娘に対する熱意と愛情と仕事中毒っぷりにかけては右に出るもののいないトレセン学園内の有名人であった。

 

 そんな彼女から着信。なんだろうか? トレーナーはナイスネイチャに一言断るとスマホをフリックして電話に出た。その様子をナイスネイチャが眺めている。

 

「はい――ええ、大丈夫です。はい……え、書類に不備? あちゃー……すみません。すぐ行きます。はい、はい。わかりました。いえ、そんなこちらこそ。はい――ありがとうございます」

 

 スマホをポケットにしまったトレーナーはナイスネイチャに振り返った。

「すまん、ちょっと用事ができた。しばらく一人で続けといてくれるか?」

 ナイスネイチャはベンチに座ったままパッと片手をあげた。

「ほいほーい。それにしてもトレーナーさんって忙しいよね。トレセン学園ってそんなに仕事多いの?」

 と、首をかしげる。

「いや、そうでもない。せいぜい平日は二十四時間トレーニングメニューのことを考えて、指導して、土日はレースを見学して、休日も出勤して、夢の中でもうまぴょい伝説の振り付けを練習しているぐらいだ」

 と、飄々とした様子で告げるトレーナー。

「いや、それフツーに真っ黒なんじゃ……?」

 ナイスネイチャが呆れたように額に手を当てた。

「楽しいからいいんだよ」

 トレーナーがベンチに置いていた冬用のジャケットを取り出して着込み始める。ナイスネイチャが立ち上がり、トレーナーの鞄を持ってきて彼に差し出す。

「ムリしないでよ?」

 トレーナーは鞄を受けとると小脇に抱えた。

「大丈夫大丈夫。じゃあ、行ってくるから」

「いってらっしゃーい」

 トレーナーは足早に立ち去ってゆく。それをナイスネイチャはひらひらと手を振って見送った。

 

 ナイスネイチャはひとりぼっちになった。

 

「……さ、続きやろ」

 ナイスネイチャはベンチの近くに置いていた練習メニューの書かれた大学ノートを拾う。ベンチに座る。ページをめくってゆく。

「えーっと次は……」

 

 ――見てよ、ナイスネイチャ先輩いるじゃん。

 ――わ、ホントだ。あの人まだ学園にいたんだ?

 

 ナイスネイチャのウマ耳がぴくりと動いた。顔を動かさずに視線だけ向けるとトレーニングジムの出入り口にウマ娘たちの集団がいた。どうやら下級生たちのようだ。こちらを指さしながら、ひそひそと会話を交わしている。

 彼女たちの目には皮肉めいた色が宿っていた。いや、皮肉だけではない。そこにあるのはどす黒い嫉妬だ。

 

 ――諦め悪いよね? 頑張りすぎちゃってさー。さっさと引退したらいいのに。

 ――聞いた? ナイスネイチャ先輩がトレーナーに我が儘を言ってチームを作るのを妨害してるらしいよ?

 ――うわ、サイアクじゃん。根性悪ー。

 

 ナイスネイチャは下級生のウマ娘たちを睨んだ。

 下級生たちのウマ耳が怯えたように伏せられる。びくっ、と肩を震わせた。後ずさる。しっぽがピンと跳ねた。

 

 ――ひっ!

 ――こわっ!

 

 周りで練習していたウマ娘たちも手を止めると迷惑そうな表情を彼女たちに向けた。下級生のウマ娘たちは気まずい様子でお互いの顔を見合わせる。

 

 ――な、なによ。落ち目の元チャンピオンのくせに。

 ――いこいこ。外で走り込みでもしてこようよ。

 ――さんせーい。

 

 慌ただしく下級生たちが立ち去ってゆく。トレーニングジム内に平穏が戻ってくる。気が削がれてしまったナイスネイチャは大学ノートを閉じるとため息をついた。

 

「はぁ……」

 

(アタシが言われるのは……まだ、べつにいいんだ。負け続きなのは事実だし、さ)

 

 ナイスネイチャは自分自身の心に蓋をする。何も感じないわけじゃない。本当は悲しいし悔しい。だけど、傷付いてないふりをするのは慣れている。そうなのだ。みんながみんな自分を愛してくれるわけじゃない。なんでも肯定してくれるわけじゃない。時にはこういうことだってある。

 

 それに自分がトレーナーの横を独占しているのは本当のことなのだ。あの下級生たちの言うようにチーム作りを妨害しているわけではないが――。

 

 ただ、彼がいよいよチームを作った場合、ナイスネイチャがそこに居続けられるかどうかは極めて怪しい。

 

 なぜか?

 ここでネックになってくるのがトレセン学園が抱える慢性的なトレーナー不足問題である。

 トレセン学園は年々、入学希望者が増えている。だというのに、それら生徒を指導するトレーナーが足りていない。需要に供給が追い付いていないのだ。

 

 それゆえに優秀なトレーナーというのは貴重だ。学園としては優秀なトレーナーには複数のウマ娘を担当してほしい。ウマ娘からすれば優秀なトレーナーに導いてほしい。そう願うのは当然のことだった。

 

 新人の頃ならば、たった一人のウマ娘だけを担当することは何の問題もなかった。ノウハウもない新人に複数のウマ娘を担当させるのはリスクが大きいと学園側も判断しているので、二人三脚の関係を容認している。

 

 だが、もうナイスネイチャの担当トレーナーである彼も七年目だ。若手の新人といえる時期は過ぎている。ついでにいえば、決してトップクラスの才能を持つウマ娘とはいえなかったナイスネイチャをURAファイナルズ中距離部門の優勝にまで導いた実績もある。

 

 なんだかんだと理由をつけながら、チームを作ることを避けてきていたのだが、それも今年が年貢の納め時。

 来年からは彼の元、新しいチームが発足する予定になっている。まず確実に加入希望者が殺到するだろう。

 

 そこにナイスネイチャがいられるかはわからない。成績の悪いウマ娘が限りあるチームの枠を埋めているというのはいささか外聞が悪い。トレーナーは気にしないかもしれないが、ナイスネイチャが気にする。自分のせいで彼の悪評が発生するなんて嫌だった。

 

 自分の悪口を言われるのはべつにこれが初めてのことじゃない。ウマ娘の耳は聴力が優れているので、ひそひそと陰口を叩かれていても聞き取れてしまうのだ。

 

 過去に思いをはせた。どこからともなく聞こえてくる悪口。向けられた悪意。ほの暗い記憶の底で反響する。

 

 ――優秀なトレーナーを渡したくないから、ナイスネイチャ先輩がチーム作りを妨害しているんじゃないの?

 ――ありそー! きっとそうだよ!

 ――最近、負け続きじゃない。諦めたらいいのに見苦しいったらありゃしない。過去の栄光にすがっちゃって、ヤな感じ。優秀で若いウマ娘に世代交代されるのがそんなに怖いのかしら?

 

 自分の悪口だけなら我慢できる。だけど、ほかのトレーナーたちからも批判や文句は出ているのだ。その矛先はナイスネイチャのトレーナーに向けられていた。

 

 ――まぐれでたまたま早熟型のウマ娘を担当できただけの運が良い男。大したトレーニングプランも組めないから、いまの成績なんだろう? これが真の実力ってわけだ。

 ――新しいウマ娘を担当したがらないのは、自分の本当の手腕を知られたくないからかもしれないぞ?

 ――言えてる。今なら担当ウマ娘がピークを過ぎただけだからと言い訳できるもんな。ウマ娘が弱いだけってね。

 ――よりにもよって、自分の無能っぷりを担当ウマ娘のせいにしているってことか。そんな奴がトレーナーとは世も末だな。嘆かわしいよ。

 

 悲しかった。悔しかった。

 

(アタシの大好きなトレーナーさんを悪く言わないで)

 

 自分がもっともっと強くて、レースで結果を出せていれば、こんなことにはならなかったんじゃないか。

 そう、ナイスネイチャは思い悩んだ。

 

 そんな日々が続いたある日、ナイスネイチャはとうとう自責の念に耐えられなくなった。

 

「ねえ……トレーナーさん。チーム作りなよ。ほら、アタシのことなんて気にすることないって……」

 

 強がりだった。平気なふりをしていた。でもそんなナイスネイチャにトレーナーはこう言うのだ。穏やかに包み込むように。優しさをその目に宿して。

 

「俺はネイチャとずっと組みたいんだ。君は最高のウマ娘だ。俺は信じてる。ネイチャが一番のキラキラウマ娘だって。だから、これは、俺のわがままだ。責められるべきなのはネイチャを輝かせてやれない俺なんだ」

 

 ナイスネイチャはうつむいた。頬に涙が伝った。

 

「……そんなん言われたら何も言えないじゃん」

「ネイチャ。またいっしょに二人で輝こうな」

「……うん」

 

 

 記憶の扉がさらに開いてゆく。

 時間がさかのぼってゆく。

 

 

 あれは――URAファイナルズを優勝したばかりの頃だ。トレーナーと二人で出掛けた時にナイスネイチャは訊いたことがある。

 

「アタシのこと、どれくらい大事?」

 

 めんどくさい女の子だな、って自分でも思う。こんなこと言ったら嫌われるんじゃないかと恐れた。でもどうしても不安だったのだ。自分に優しくしてくれるのは、ただトレーナーとしての義務感からじゃないか、と。

 

 そんなナイスネイチャにトレーナーは微笑んで、

「ネイチャが一番だよ」

 そう応えてくれたのだ。

 

「だからさ……ずっと一緒にいるよ」

「……ホント?」

「うん、本当。約束する」

 

 本気で言ってくれていたことはすぐに証明された。

 

 トレーナーはその後、決してナイスネイチャ以外のウマ娘を担当しようともせず、周りからいくら苦言を申されようとも頑なに二人三脚のスタイルを崩そうとしなかった。

 

(トレーナーさんはあのとき言ってくれたキミが一番大事という言葉を守ってくれている)

 

(ずっと一緒にいるよ、といってくれた約束を守ってくれている)

 

 来年にチームを結成するという話を初めて聞かされたときもトレーナーは申し訳なさそうにしていた。

 責められるはずがない。どれだけ彼が無理を押し通してきたかは知っている。本当にどうしようもなくて、話を受けるしか無かったのだとわかった。

 

(ふがいないアタシのせいなのに。それでも文句一つ言わずに、ずっと)

 

「はあ……」

 と、ため息をついた。ふと考える。

 

(トレーナーさんはアタシのことをどう思ってるんだろう。たぶん嫌われてはない……はず。好かれている、のかな。それともただの担当ウマ娘?)

 

 頭のなかに浮かぶのは午前中の光景。

 

 ――頼っていいんだよ。俺がネイチャの逃げ場所になってやるって言っただろ。大丈夫だ。たとえネイチャにどんなことがあっても、ずっと隣にいるから。

 ――ずっと一緒にいてくれる?

 ――もちろん。

 

「良い雰囲気だったのになー。なんでアタシはひよっちゃうんだろネー……はー。七年ですよ七年。奥手にも限度があるっていうか。さすがにもうちょっとさー」

 

 このままじゃいけないのはわかっていた。だから胸に秘めた想いを告げるつもりだ。日にちは決めている。今年の有馬記念はクリスマスに行われる。男女が告白して、カップルになれる確率の高い日といわれるクリスマスだ。そんなジンクスでもシラオキ様のお墨付きでも、背中を押してくれるものにはなにかと頼ってみたい恋心。

 

「……さ。トレーニングトレーニングっと」

 

 頭を振って雑念を追い払い、トレーニングを再開しようと立ち上がりかけた瞬間のことだった――。

 

「んん……?」

 

 ふと脚に違和感を覚えて、足元に視線を送る。

 軽く動かしてみる。右、左、右、左。

 なんの問題もなく動いた。

 

「気のせいかな」

 

 べつに痛みもなければ、一瞬感じた違和感もすでに感じられなくなっていた。念のため、精密検査したほうがいいのだろうかと考えたナイスネイチャだったが。

 

 ――トレーナーさんは嬉しいの? その、有馬記念に連続出走してくれるの。

 ――嬉しいよ。

 

 トレーナーの言葉が脳裏をよぎった。

 

 彼にこのことを告げたら有馬記念を回避させようとするに違いなかった。

 あの人はそういう人だ。ナイスネイチャにはよくわかっていた。伊達に七年も付き合っていない。

 

(トレーナーさんはきっと……)

 

 自分の名誉よりもナイスネイチャの身体を何よりも優先する。だから、たぶん――いや、絶対にあの人は回避させようとしてくるに違いない。それだけ大切にされているのは嬉しい。嬉しいんだけれど――もどかしかった。

 

 ナイスネイチャは思う。

 

(だって、アタシは何もトレーナーさんにお返しできてない。アタシが負け続けているから、トレーナーさんが陰で悪く言われているのも知っている。力になってあげたい。アタシのトレーナーさんは日本一なんだと証明したい)

 

 二人で挑む最後の有馬記念、なんとしても出走するんだ。連続出走記録を取らしてあげたい。あわよくば、優勝トロフィーだって持ち帰ってあげたい。

 

(そして、有馬記念が終わったら、アタシはトレーナーさんに――)

 

 

 

 

 

 トレーナーは庭園を歩いていた。

 書類の不備の訂正はすぐに終わった。理事長秘書の駿川たづなに提出をしてきた帰りだった。

 

 この学園は広大なので、何処に行くにしてもとにかく時間がかかる。セグウェイとかに乗って移動する関係者もいるとかなんとか。だが、トレーナーは出来るだけ歩くようにしている。トレセン学園に勤めるものに必要なのは一に体力、二に体力、三に体力、四に忍耐力などという説もあるのだ。体力作りのためだった。

 

 噴水の辺りに差し掛かる。噴水の中央には三女神の石像があった。その手に持った水差しから水場に清らかな流れを注ぎ込んでいる。ウマ娘の始祖とも言われている三人のウマ娘をかたどった像だ。

 高所から落ちてゆく水流が水しぶきを作り、風が水滴を煙らせる。水面が陽の光を湛えていた。

 

 トレーナーはおぼろ気になりつつある三女神に対する知識を頭の片隅から引っ張り出す。

 

 ウマ娘の魂は異世界にあると言われている。

 その魂は三女神いずれかの魂の欠片が組まれている。

 三女神は気まぐれにウマ娘に力を授ける。

 

 ……だったか。トレーナー養成学校で習った内容を思い出す。もう十年近く前のことだ。

 いささかファンタジックな話ではあるのだが、実際にウマ娘というのは不思議に満ち満ちている。人並み外れた身体能力、可憐な容姿、神秘的な不老性、人々の心に響くその歌声。超常的な力が働いていてもおかしくはない、と感じさせる何かがある。

 世界の歴史を紐解けば、ウマ娘が妖精のような存在として崇められていた時期があるのもうなずける話だ。

 

 もっとも、その当の本人であるウマ娘たちは人と同じように笑い、怒り、泣き、楽しむ。時には悩むこともあるし、胸をときめかせて恋だってする。

 レースに対する強い執着心があったり、にんじんを異様に好んだり、変わったところももちろんあるのだけれども、その実態はごくごく普通の少女となんら変わらない。

 

 歩く。噴水が近くに見えてくる。

 気付いた。誰かがいた。

 

 トレセン学園指定の冬の制服と黒いニーハイソックス(余談だが足元の保護に効果があるらしい)の姿。

 小さな身体に黒い髪。ボリュームのある髪をツインテールにまとめており、右のウマ耳にはトレードマークの大きな赤いリボン。よく知っている少女の姿だった。

 

「あははははっ☆ マーベラース!」

 

 話していると時おり語尾に星マーク(?)が見える気がすると一部で評判のマーベラスサンデーがいた。噴水の近くにしゃがみ込んで、なにをしているのやら――その水面を指先でぱしゃぱしゃとかき混ぜている。

 

(マーベラス、か。なにをしているんだ?)

 

 トレーナーはそんな彼女の様子が気になったので話しかけてみることにした。

 彼にとって、担当するウマ娘であるナイスネイチャのルームメイトかつその親友ということもあり、ナイスネイチャの次によく話をするウマ娘であった。

 だから、気軽にマーベラスと呼んでいる。

 

「マーベラス」

「あ! ネイチャのトレーナーさんだー! やっほー! マーベラース!」

 

 パッと身体の柔らかさを感じさせる機敏な動きで立ち上がる。空でも受け止めそうなぐらい元気よくバンザイ。

 

「なになに? アタシに用事ー?」

 

 バンザイの体勢から今度は両手をぐーにして胸の前に持ってくる。しっぽをホウキのように振りながら、ゆらゆらと上体を揺らす。

 ぱあっと咲いた笑顔。興味津々といった瞳の輝き。

 なんとも落ち着きがない。

 いつものことと言えば、いつものことだが。

 

「ああ、いや、こんなところで何しているんだ?」

「ああ! それーっ? あのね! じつはそれにはすっごくマーベラスな理由があるのー!」

「へえ?」

 

 トレーナーは彼女をじっと見つめる。マーベラスサンデーは両腕をぱっと振ると身を乗り出すように話しかけてきた。目がきらきらと喜びの色をたたえている。説明できるのが楽しくて仕方ないようだった。

 

「トレーナーさんはー! 知ってる? トレセン学園には神さまがいるって! あ、三女神さまじゃないほうだよ!」

「神様? そんなのがいるのか?」

 

 マーベラスサンデーは「マーベラース☆」と叫ぶと、腰に片手を当ててピシッと天空に向かって指をさす。

 

「そうだよー! あのね! シラオキさまっていう神さまなんだよ! 栗毛の可愛いウマ娘の神さまなんだって! シラオキさまにはね! 魂に時を越えさせるマーベラスな力があるらしいんだー! なんていったかなー? あ! そう! たいむすとりっぷダー!」

 

 すっぽんぽーん、服なんていらない、全てを脱ぎ捨て全てを解き放ち――いや、違う違う。ストリップしてどうするんだ。マーベラスサンデーが言いたいのはこうだろう。

   

「……えーと、タイムスリップ?」

 

 いわゆる時間旅行、というやつだ。過去に戻れる、もしくは未来にゆく。身体ごともってゆく、魂だけが過去や未来の時間軸の肉体に宿るなど、様々なパターンがある。魂を越えさせる、という表現からして後者だろうか。

 

「あ! そうそう、それ! トレーナーさん物知りなのー! えっとね、ただ、それには代……償……? っていうのがいるんだってー? わーい! マーベラース! 今度はちゃんと言えたー!」

 

「へえ。時をねえ」

 シラオキという神さまは名前は知っていたが、三女神に比べればマイナーもいいところなので、そこまで詳しくは知らなかった。

 マーベラスサンデーは、

「だからね! アタシ、シラオキさまにお願いしにきたのー! 時をもどしてくださーいって! そうしたらおやつ何回も食べられるでしょー?」

 と言った。トレーナーは訊いた。

 

「だから三女神の像の前でお祈り?」

 

 三女神とシラオキは何も関係ないのでは? そんな気もするのだが、マーベラスサンデーはそう思わないようで、

「うん。神さまなんだから、きっとここら辺にいるんじゃないかなーって! それにこの三女神さまの近くにいるとね! マーベラスなことが起きそうな気がするのー! ほら、ここって卒業生がお祈りをささげるでんとーがあるよねっ? 祈るならここな気がしたの!」

 

 トゥインクルシリーズを駆け抜けたウマ娘はここでお祈りをすることによってその想いを次代のウマ娘たちに託し夢を繋げてゆく――トレセン学園にはそんな伝統がある。

 

「まあ……確かに」

 そういえば、とトレーナーは思い出す。

 

 ナイスネイチャがクラシック級で切磋琢磨していた頃――確か皐月賞が行われる前日のことだったか。

 ナイスネイチャと一緒に三女神像の前を歩いていたとき、奇妙な現象に遭遇したことがある。

 白昼夢のような光の道を見たのだ。それだけならトレーナーが見た幻覚と言えたかもしれない。

 

 しかし、そうではなかった。

 

(ネイチャも同じものを見たと言っていたなあ)

 

 しかもそのあとトレーニングをしたら、まるで一つの壁を越えたかのように自己ベストのタイムを更新しまくっていった。あれにはトレーナーも驚いたし、ナイスネイチャ本人もびっくりしていた。

 なぜかと聞いてみたら、あの光の道を見た瞬間にナイスネイチャの中で「こう走ればいい」という考えが急に閃いたのだという。

 自分でもよくわからないのだが、そうとしか言えないとのことだった。

 

(この場所には何か不思議な力が働いているのかもしれないな。シラオキ様ってのがいてもおかしくはないのか?)

 

「それで? どうだった? シラオキ様には会えたのか?」

 と、トレーナーは訊いた。マーベラスサンデーは首を振った。

「うーんとね! 何も起きなかった! でも、これはこれでマーベラース! わくわくする気持ちをたくさんもらったから! これってすっごくマーベラスなことだよ!」

 

 ぐっと両手の拳をにぎり、ぴょんと飛びはねた。そんな、どこまでも前向きな答えが返ってくる。

 

 ――。

 

 そのとき、学校の予鈴が鳴った。マーベラスサンデーは校舎のほうを振り向く。ウマ耳がぴんと立った。

「あ! トレーニングの時間ダー!」

 と、そこでマーベラスサンデーは「そうだ!」と言うと再びこちらに向きなおった。

 

「ネイチャのトレーナーさん! 今日のレース見てくれたかなっ? アタシ一着だったの!」

「見たよ。おめでとう。すごく速かったな」

「ネイチャも出てきたら、きっともっともーっとマーベラスだったのに! ねえねえ! ネイチャも有馬記念に出るんだよね!」

「出るよ」

「やったー!」

 

 全身で喜びを表現するマーベラスサンデー。

「ネイチャと一緒に走るのすっごく楽しみなのー!」

 こちらを見つめてくる。るんるんとご機嫌のままにお喋りを続けようとする。

 

「そうそう! 有馬記念といえばネイチャね。レースが終わったらトレーナーさんに……」

 

「俺に?」

 ネイチャが? なんだろう?

 

 そこまで言いかけたマーベラスサンデーははっと口元を両手で隠す。

「あっ、いっけなーい! ナイショにしといてってゴニョゴニョされてたんだったー!」

 はにかむように笑う。

 

「じゃあ、アタシいかなきゃ! じゃあねー!」

 そして、駆け出した。離れてゆく。

 

「……相変わらず嵐のような子だったな」

 代償を払い、時を越える奇跡をもたらすシラオキ様、か。トレーナーが感慨に浸っていると、

「……ん?」

 

 だいぶ小さくなっていたはずのマーベラスサンデーがツインテールをバランサーのようにぶんまわして、蹄鉄のようなU字ターンを決めて、こちらに引き返してきた。

 ウマ娘なので、すごく速い。どんどん大きくなる。

 あっという間に目の前で急停止する。

 

「言い忘れてたー! あのね!」

 

 息を吸った。

 じっとこちらを見つめてくる――。

 

 

「――ネイチャのこと、幸せにしてあげてね☆ 約束してくれる?」

 

 

 一瞬、虚を突かれた。やや間があって、

「……もちろんだよ。約束する」

 と、トレーナーは応えた。

 

「やったー! マーベラース! ありがとー!」

 そしてマーベラスサンデーは再び走り去っていった。

 

 取り残されたトレーナーは、

「幸せに、ね」

 そう呟く。

 

(そのつもりではあるんだが。ネイチャは俺のこと、どう思ってるんだろうなあ)

 

「……さて、ネイチャを迎えにいくか」

 そうして庭園を立ち去ろうとしたときだった。

 

 ふと、背中に視線を感じた。

 

 振り向くとそこには誰もいない。

 清い水を湛える噴水。それと三女神像だけ。

 トレーナーは肩をすくめる。

 

「……気のせいか」

 

 そのとき、空から水滴が落ちてきた。次から次へとトレーナーの身体に当たる。彼は空を見上げた。――灰色の雨雲に陽の光が遮られはじめていた。

 地面のアスファルトにぽつぽつと染みが生まれてゆく。噴水の水面がかき乱された。空気が湿気を帯び始める。

 通り雨だった。その勢いは増す一方だ。

 

「……降ってきたな。急ごう」

 トレーナーは小走りで駆けていった。

 

「……」

 そんなトレーナーの後ろ姿を見送る少女の姿があった。白い小袖と緋袴の巫女装束を着ている。栗色の長い髪を一つに縛り、背中へと流している。

 少女は噴水の近くに佇んでいた。さきほどトレーナーが振り返った場所だ。

 少女の足元には影が写っておらず、雨に服が濡れる様子もない。ウマの耳としっぽがついているからウマ娘ではあるのだろう。

 少女は物思いに沈んだ表情でウマ耳を垂らす。

 

「運命は引き裂こうとしている――二人を。世界の特異点を排除するために。あんなにも絆が深いのに――」

 

 雨が強まるとともにその少女の姿は光を絞るように薄れてゆき、そのうち完全に姿を消した。

 

 

 

 

 

「トレーナーさんおかえりー。急に降ってきたから大変だったでしょ。タオル用意しといたよー。ほーい、柔軟剤の良い香りがするタオルでーす」

「ああ、ありがとう。ネイチャ」

 

 タオルを受け取ると頭をがしがし拭き始めるトレーナー。ナイスネイチャに視線を向ける。

 

「あとどれくらいでトレーニング終わりそう?」

「もう全部終わったよ」

「早いな」

「最近、アタシ調子よくてさ。もう少し負荷かけてもいけるかも」

「無理してないか?」

「ぜーんぜん。というか物足りないぐらい。追加トレーニングしたい……していい?」

「わかった」

 

 黙々とナイスネイチャはトレーニングに励む。

 更にもう一セットのトレーニングを終えて、ベンチにてインターバルを挟んでいるときだった。

「……勝ちたいよね、有馬記念」

 ナイスネイチャがぽつりと呟いた。

 

「あんな速い子たちのなかにさ。アタシみたいなロートルウマ娘が出られるだけでも恵まれているのはわかっているんだ。連続出走記録を作るっていうのもそれはそれで凄いことなんだろうけどさ」

「ネイチャ……」

「うん。うじうじしたってしょうがないか。生姜がないなんてしょうがないなー、なーんちゃってね。会長さんの真似。さ、トレーナーさん。再開しようよ。目盛り上げてくれる? もうちょっといけそう」

 

 と、ナイスネイチャは再び機材の椅子に座り、バタフライのように広がるレバーの取っ手をつかむ。

 

「無理してないか?」

 トレーナーが眉をひそめた。

 

「大丈夫だよ。トレーナーさん」

 ナイスネイチャは左右のバーを強く握り込んだ。横目でトレーナーに視線を送る。何秒かじっとトレーナーの眼を見つめて、

「アタシ、勝つから」

 と、言い切った。

 

「……そうか、わかった。だけど、無理そうならすぐに言うんだぞ。なにかあればすぐに報告してくれ」

「うん。……わかってる」

 

(ごめんね。トレーナーさん。アタシ、どうしても有馬記念に出たいんだ)

 

 二人だけで挑む最後の有馬記念。

 実績が無ければ、来年は離ればなれになってしまうかもしれない。それほどまでに今のナイスネイチャとトレーナーの学園内での立場は悪い。

 これからも隣にいるためには出走して結果を出すことが必要で、しかもこれが最後のチャンスなのだ。

 ナイスネイチャは思う。一緒にいられなくなるのはイヤだ。それにやっぱり勝ちたいし、周りを見返してやりたい。自分の愛する人は最高のトレーナーさんなんだ、と証明してみせたい、と。

 だから、先ほど感じた違和感は黙っていようと決めた。たいしたことはない。自分は大丈夫。心中で自らにそう言い聞かせながら。

 

 

 

 

 

 午後のトレーニングも終わった。

 トレーナーは残りの仕事を片付けるためにトレーナー室に帰っていった。

 

 ナイスネイチャはこの時間からは自由時間である。さっそく心と身体を癒すべく大浴場に向かい、心身の疲れをお湯に溶かしたのだった。

 

 さて、どこに行くにしても時間がかかるトレセン学園の常として、やはり大浴場も遠くにある。学園の構造上、中央広場も兼ねている庭園は各施設に向かう際に通りすがることも多い。

 

 ナイスネイチャは庭園を歩いていた。大浴場からの帰り道だ。いまは食堂に向かっている途中だった。ちょっとお風呂に「ばばんばむんむんむーん」とのんびり浸かりすぎたせいか夕飯の時間には出遅れ気味ではある。とはいえ、ビュッフェ形式なので多少遅れたところで問題はないのだが。

 

 通り雨は過ぎ去ったようだ。雨上がりの湿度を含んだ空気。自分だけの足音が響く。辺りにはナイスネイチャのほかに誰もいない。陽は傾いてきており、夕方と夜の境目、逢魔が時。日本では古くより妖怪や幽霊、魔物が現れると言われているそんな時刻。

 

「いーちずにー」

 

 URAファイナルズ優勝を記念して作曲された自分の持ち歌であるアウト・オブ・トライアングルを口ずさむ。

 

「はーしりだーしたー」

 

 ナイスネイチャは上機嫌に歩いている。

 

「ん?」

 

 ふと、立ち止まった。

 視線を感じた。振り向くとそこには白い小袖と緋袴の巫女装束を着た栗毛のウマ娘の姿。三女神像の噴水の前に立って、こちらをじっと見つめてきている。

 

 ナイスネイチャはもしかしてアタシの後ろを見つめているんじゃなかろーか、と考えた。振り向く。しかし、そこには沈みゆく夕焼けに照らされて薄暗い影を落とすトレセン学園の校舎しかなかったし、ナイスネイチャとそのウマ娘以外の人影もなかった。

 

(あの娘、すごい見てくる……え、なに? あと、なんで巫女?)

 

 通り過ぎようとするが、ナイスネイチャが動くとそのウマ娘の視線も追いかけてくる。視線の圧がすごい。ナイスネイチャは立ち止まった。

 

「あのー……アタシに何かご用で?」

 耐えきれずに話しかけに行くナイスネイチャ。

「……」

 じっ、とこちらの顔を覗き込んでくる。

「……えーと?」

 ナイスネイチャが困惑しているのもお構い無しだった。

「……」

 ちょいちょいとその少女の目の前で手を振ってみた。

「もしもーし?」

 

 少女はその瞳に悲しみの色を乗せていた。ナイスネイチャを見つめてくる。ささやいた。

 

「やはり……あなたの時計の針はもうすぐ……」

「はり……?」

 

 ナイスネイチャの頭のなかに疑問符が溢れ出た。

 

(時計の針ってなに? ストップウォッチ? 目覚まし時計?)

 

「えっと、さ? 何の話? ……そうじゃなかったらゴメンなんだけど……初対面だよね?」

 と、ナイスネイチャは訊いた。

 

「あるいは、本来の運命に沿って動けばーーあの六回目のレースを走らなければ――その針は進み続けるのかもしれません。貴女と貴女の想い人は本来の運命を変えすぎた。揺り返しが起きているのです」

 だが、少女は虚空を見つめるような眼で謳うばかり。

 

「あ、あははぁ……そ、そーなの?」

 ナイスネイチャは頭を抱えた。

 

(は、話が通じーん! 揺り返しってなんだよー! す、推理してみよー。えーと運命? 走らなければ? 針は進む、進む、進む……むむむむ?)

 

 ナイスネイチャの頭上に浮かんだ疑問符がメリーゴーランドのごとく回転する。どういう意味だろうと頭の中で背広姿の名探偵ナイスネイチャがぽくぽくぽく、と推理する。その結果、

(わかるかーい!)

 疑問符は崖下に投げ捨てられたのである。ざぱーんと水柱をあげて沈んだ。疑問符よさらば。

 

「えっとー……あ、もしかして宗教か何かのカンユー? いやー、ごめんねー? うち、たぶん先祖代々からのバクシン教らしいんでー。じゃ、そーいうことで……?」

 

 すちゃっと片手を上げる。次の瞬間、ナイスネイチャは足早に去っていった。逃げたともいう。

 

 その場に取り残された少女はその後ろ姿を見送った。

 

「……運命は改編者を憎むから。歴史が変わるたびに流れを戻そうとするから。目が見えない手負いの猛獣のように鼻先に出された命を喰らって帳尻を合わせようとする」

 

 少女は自身の両手を見つめた。ゆっくり握りしめる。

「それでも……私は……」

 辺りが夜の闇に沈んでゆく。それとともに少女の姿も徐々に薄れて、消えた。

 

 

 

 

 

(いやー、変な子に会っちゃったなあ。でもあの子誰だったんだろ……うーん……フクキタルに雰囲気は少し似てたかも。でも見たことないよねえ)

 

 食事を終えて、食堂から寮に帰ろうとしていたナイスネイチャは遠くに小柄な少女の後ろ姿を見つける。

 しっぽの辺りまで伸びる長い栗毛の髪を背中に垂らして、頭の両サイドはツーサイドアップに結っている。右のウマ耳には黒いリボン。

 

「もーっ! トレーナーちゃんってばしつこーい! 次は逃げ切ってみせるってばー! マヤ速いもん! 今ならあの子の仕掛けるタイミングだってわかっちゃうんだからー!」

 

 マヤノトップガンだった。しっぽをぱたんぱたん、と振って、ちょっとだけ機嫌が悪い。

 どうやら担当トレーナーと一緒のようだ。

 

「……本番の有馬記念では無理な逃げはやめよう……なんなら先行や差しに変えても……」

 

 あの男性はたしか……マヤノトップガンのトレーナーだ。ナイスネイチャも何度か話したことはある。頭の回転が早いというか、雑学に詳しくて(ベルーガが白イルカの別名とか普通は知らない)妙に物知りな人だ。

 とても良い人なんだけれど――。

 

「やだやだやだー! マヤ、負けっぱなしなんてやだー! 次も逃げるのー!」

「そんなこと言って、また掛かってしまったら……」

 

 マヤノトップガンの担当トレーナーになってからというものの彼女の自由奔放すぎるその性格に振り回され続けて苦労しているらしい。

 

「ぶーぶー! トレーナーちゃんはマヤが同じ間違いすると思ってるんだー!?」

「……いや、それは思わないよ」

「次は絶対にミッションコンプリートするもんっ! 絶対にフライト成功させてみせるもんっ!!」

「……わかった。わかったよ。マヤノ、俺の負けだ。本番はきみの好きなように走ってくれていい」

「ほんと!? やったー! トレーナーちゃん大好きー!」

「俺もマヤノが大好きだよ」

「えへへー……」

 

(あいかわらず仲良しだなー……そして、マヤノの本番の作戦は逃げ、と)

 

 マヤノトップガンは逃げ、先行、差し、追い込みとどんな作戦でもこなせる天才少女である。

 しかも土壇場で作戦を変えてきたりする予測不明なところがあるから、一緒に走る相手からしたらやりにくいことこの上ない。

 だが、今日の惨敗のせいでムキになっているらしく、本番の有馬記念でも逃げを選択する可能性は高いだろう。

 

(うっはー。マヤノの本気逃げとか。緩みのないレースになりそうだなあ。差しのアタシにはキツい流れになりそー)

 

 そんなことを考えながら、ナイスネイチャは食堂を出るべく、マヤノトップガンの横を通りすぎた。

 

「へっへーん! トレーナーちゃんならわかってくれると思ってた! きっとだいじょーぶ! ばびゅーんって逃げれば、有馬記ね、ん、も……」

 

 自らのトレーナーに元気よく話しかけていたマヤノトップガンが目を丸くして、その言葉を途中で飲み込む。

 

「……」

 

 急に黙り込んでしまったマヤノトップガン。彼女の視線の先にはナイスネイチャの後ろ姿があった。マヤノトップガンのトレーナーが怪訝な顔をして、同じように視線の先を追う。

 ナイスネイチャが遠ざかってゆき、その姿も見えなくなる。マヤノトップガンは黙りこくったままだった。

 

「……マヤノ?」

「あ……トレーナーちゃん」

 マヤノトップガンは我に返ったようだった。

 

「急にどうしたんだ?」

「うん……あのね。うまく言えないんだけど……」

 

 心細そうに呟く。

「ネイチャちゃんがね……」

 マヤノトップガンのトレーナーが首をかしげた。

「ナイスネイチャさん? 彼女がどうかした?」

 

 

 

「……まるでどこかに消えちゃうような気がしたんだ。変なの。ネイチャちゃんがいなくなるわけないのに」

 

 

 

 

 

 


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