一途な恋の弓矢   作:樂川文春

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第4話 暗雲の気配

 

 

 

 

 その日の夜。トレーナー室にて。

 

 トレーナーは有馬記念に出てくるライバルの動向やデータなどをまとめるための作業をしていた。室内にパソコンのキーボードを叩く音が響いている。この作業が終わっても細々とした事務作業がある。それを片付ければ、ようやくこの残業も終わりだ。

 

 室内の壁際に置かれたホワイトボードには、明日のトレーニングプランがマジックで書かれていた。

 

 

 目標レース 有馬記念(12月25日)

 

 本日 12月12日

 ナイスネイチャのトレーニングプラン

 

 午前 通常授業のため無し

 課題 時間があればイメージトレーニング等

 

 午後 プールトレーニング

 課題 スタミナの補強

 

 

 

 トレーナーは黙々と仕事を進めてゆき――。

 

「はあ……」

 ようやく終わらせることができた。なんとか日付けが変わる前にはトレーナー寮に帰れそうだ。同僚のなかには自宅からトレセン学園に通っている人もいるのだけれど、通勤時間が長くなることを好まないものはトレセン学園の敷地内にあるトレーナー寮に入寮している。彼もまた、その手のタイプであった。おかげでこのように夜遅くまで残業しても睡眠時間をそれほど削らなくて済む。

 

 ログオフの電子音。ノートパソコンが畳まれる。窓からさし込む月明かりに照らされる室内。椅子の軋む音。トレーナーは両腕をぐっ、とのばして背伸びした。

 卓上にはブックスタンドに立てられたバインダー付きのファイルや走り書きしたメモが数枚、地元商店街のロゴが入ったボールペンが転がっている。

 

 ――それらに交じって折り紙のトロフィーがひっそりと鎮座していた。端っこが折れてくしゃっとしている。トレーナーは折り紙のトロフィーを手に取った。金メッキが室内の光を反射する。

 

 たしかこのトロフィーを作ったのは――。

 

「もうあれから……六年も起つのか」

 

 六年前――。

 ナイスネイチャはまだまだ発展途上のウマ娘だった。ジュニア級ではデビューがやっと。クラシック級に昇格しても重賞ではひとつも勝ち星をあげられず、同期のスターウマ娘のトウカイテイオーには負けっぱなし。

 

 トウカイテイオーが皐月賞を勝ち、ダービーも勝ち、鮮やかに二冠を達成するのをまざまざと見せつけられた。

 

 その頃の話だ。

 

 勝てないといってもナイスネイチャは努力を怠っていたわけではない。こんなに努力するウマ娘も珍しいぐらいだった。毎日毎日必死に走り込み、苦しいトレーニングにも耐え抜いた。

 普段は斜に構えたような言動をするナイスネイチャなのだが、こちらの提示するトレーニングメニューには真面目に取り組む。いっそ素直すぎるくらい素直だった。

 純真で真面目なのが彼女の本質だったのだろう。また、周りの期待を読みとって応えようとする優しさを持つゆえに傷付きやすい。だからこそ天の邪鬼を装っていた。

 

 実際、彼女の実力はその努力に比例するようにどんどん伸びていった。いつ大レースで優勝してもおかしくないぐらいの成長を見せていたのだ。

 

 だが、結果だけがどうしても伴わなかった。

 レースに出ても勝てない。

 惜敗はあっても、勝利がない。

 応援してくれる人たちの声援には応えられず、同期のライバルにも勝てず、努力しても報われない日々。

 

 その事実がナイスネイチャの心に影を落とす。

 

 

 アタシなんかじゃキラキラのウマ娘にはなれないのかな――。

 

 

 何も実績を積み上げることができなくて、このまま輝くこともなく、沈んでいくんじゃないかと落ち込んでいたナイスネイチャ。

 

 そんなことない、とトレーナーは思った。

 

 毎日毎日一生懸命に努力を重ねて、何度へこたれようとも、何度壁にぶつかろうともそのたびに立ち上がる。

 

 本当に素晴らしいウマ娘なのだ。

 

 それなのに、すっかり自信を失っているナイスネイチャにトレーナーはもどかしい想いを抱えていた。

 

 そんなある日のこと。

 彼女は言ったのだ。寂しそうに。

 

 

 たとえばさ。

 トロフィーがあれば、頑張ったって感じがするじゃん。

 

 アタシには……何もないから……。

 

 

 トレーナーの心に悔しいという感情が弾ける。

 

 そんなことあるか!

 こんなに頑張っているのに何もないわけがない!

 

 なんとかしてやりたかった。その想いで作ってしまったのがこの折り紙で出来たトロフィーだ。

 

 とはいえ勢いで作ったはいいものの……なんだか子供扱いしているようで渡すのをためらっていた。

 だが、偶然にも折り紙トロフィーが見つかってしまい、なし崩し的に贈呈することになってしまったのだ。

 

 ナイスネイチャは喜んだ。

 自分の頑張りをトレーナーは認めてくれる。応援してくれている。心の底から信じてくれているんだ、と。

 

 ナイスネイチャは照れくさそうにはにかむ。

 

 

 このヘロヘロなところなんか、アタシみたいでさ。なんだか親近感が湧いてきちゃうというか……。

 

 ありがとう。トレーナーさん。そうだよね、アタシのしてきたことは無意味なことじゃない。

 

 きっと、道はこの先へと続いてるんだ。

 

 ねえ、また作ってくれる? そうしたらアタシ、もっと、頑張れると思うからさ。

 

 

 それ以降のことだ。

 ナイスネイチャが重賞で次々と勝利を重ねていったのは。

 

 そして、少し壁があったように感じる彼女との心理的距離もそれを境にしてどんどん狭まっていった。

 

 日々は積み重なってゆき、ナイスネイチャはどんどん成長していった。何度も一緒に出かけたり、いろんな話をして、お互いのことをより深く知っていった。

 

 やがて有馬記念や天皇賞(秋)を征して本物のトロフィーや盾が手に入るようになっても、トレーナーは折り紙のトロフィーを作り続けた。

 

 なぜならナイスネイチャが毎回、欲しがるのだ。

 

 ナイスネイチャがレースから帰ってきて、トレーナーと二人っきりになるたびに――。

 

 

 アタシ、頑張ったからさ。トレーナーさんの作ってくれたトロフィー欲しいなー……なーんて。だめ?

 

 

 だから、ナイスネイチャとトレーナーにとって、この折り紙トロフィーの贈呈式は二人だけの約束事だった。

 

 トロフィーを手に取る。

 このトロフィーは六年前の夏に初めて作ったときの試作品だ。なんと不恰好なのだろう。端っこなんか折れかけてしまっている。あの頃は手先も不器用だったから。

 それでもレースがあるたびに作っていたから、いまではだいぶ上達して綺麗に作れるようになった。

 

 いろんなことがあった。トロフィーが増えてゆくたびに「嬉しい」も「悔しい」も増えていった。

 

 勲章の数だけ駆け抜けた想いがあった。

 

 そんな日々を送っているうちにいつの間に、隣にナイスネイチャがいてくれるのが当たり前になっていた。これからもずっと一緒にいてほしいと願っていた。

 

 

 こんな心やすらぐ日々が無くなってしまうだなんて、想像したくもない。だが、彼女もいつかはトレセン学園を卒業する。それは決して遠い未来のことではない。トレーナーとは離ればなれになってしまうだろう。

 そうならないためには――。

 

 

「……想いを告げれば、運命は変わるんだろうか」

 トレーナーは窓の外を見上げた。月の明かり。星空。黒みがかった雲が月を覆い隠してゆく。

 

 

 

 

 

 時は昼下がり。冬の陽射しが注ぎ込むカフェテリアの窓辺の席にて。

 

 ナイスネイチャは困惑していた。

 その原因はマーベラスサンデー。目の前に座る小柄な少女がその瞳に天の川のような煌めきを宿しながら、ナイスネイチャを興味津々に見つめてくる。

 マーベラスサンデーの前には、にんじんスティックが突き刺さったバニラアイスとストロベリーソースのサンデーが置かれている。だが、そのスイーツに口をつけることもなく、もっぱら彼女の関心はナイスネイチャに向けられているようで――。

 

「ねえ、いいでしょ! ネイチャ! アタシね! ネイチャと一緒に……!」

 マーベラスサンデーはぐっと握りこぶしを作り、自身の胸元に引き寄せた。叫ぶ。

 

「ステージの練習がしたいのー!」

 

 ナイスネイチャの今日のトレーニングは午前中だけで、午後から半休だった。根を詰めすぎずに休むことも大事だぞ、というトレーナーからの指示だ。

 じゃあ、たまにはのんびりお茶でもしようかなとトレセン学園のカフェテリアでくつろいでいたところにマーベラスサンデーが突撃してきたのだった。

 

「うへぇー……まじ? や、ほら、アタシはさ。……午後は休むから」

 

 マーベラスサンデーのステージの練習に付き合うとへとへとになることが予想される。パワフルな彼女に引っ張られて色々引き出されてしまうのだ。若さとか。

 

 ナイスネイチャのその返答が不満だったのか、マーベラスサンデーは目を丸くする。眉をひそめた。

「えー! せっかくネイチャと予定が合ったのにー? あのね! アタシも午後から半休なんだ!」

 ふんす、と身を乗り出してくるマーベラスサンデー。

「そ、そうなんだ?」

 紅茶の入ったカップの取っ手を握りながら、ナイスネイチャは思わず仰け反る。マーベラスサンデーはウマ耳をぴょこぴょこ動かすとリズムを取るように腕を揺らす。

 

「これはもうネイチャと踊るしかないよね!」

 と、満面の笑みで言った。

 

「いやいや……」

 ナイスネイチャは自身のこめかみに指先をあてた。

「どーしてそうなった」

 マーベラスサンデーがきょとんとした様子でリズムを止めた。少しだけ考える仕草をして再びパッと笑顔を咲かせる。

「……理由? あるよ? あのね! ネイチャと一緒に歌うと楽しい! ネイチャと一緒に踊ると嬉しい! わくわくするし、どきどきする! すっごくマーベラスな気持ちになれるの! ……ネイチャはそうじゃないの?」

 と、小首をかしげる。

「うわー……相変わらずストレートだなー」

 ナイスネイチャはぼやいた。

 マーベラスサンデーは「マーベラース!」と勢いよく立ち上がると立候補するかのように両手をかかげて、手のひらを何も隠すこともないとばかりに広げた。

 

「アタシ、ネイチャと踊りたいなー! うまうまうみゃうみゃしたーい!」

 

 再びにぎった両手を身体の前に持ってきて身を乗り出し、ゆらゆらリズムを刻みながらナイスネイチャに期待のまなざしを送ってくる。返答を待ち望むようにしっぽが振られていた。

 

「う! そ、そんなキラキラした目で見られると……胸が痛いというか断われないというか……」

 

 ナイスネイチャの良心がぐらつき始めた。期待されると応えたくなる。いや、でも、しかし――ナイスネイチャは葛藤した。マーベラスサンデーは親友である。しょんぼりさせたくはない。喜ばせてもあげたい。だが、ステージでエンドレスうまぴょい伝説は体力的に――。

 

「ネイチャ大好き! うまぴょいしよー!」

 と、更なるマーベラスサンデーのだめ押し。ナイスネイチャはついに陥落した。

「にゃあああっ! もう! わかった! わかった! うまぴょいでもうまだっちでも何でもこーいっ!」

「やったー!」

 

 

 

 

 

 野外ステージに曲のオケが流れている。ナイスネイチャとマーベラスサンデーはステップを踏み、踊っている。ボーカル抜きの音源は進んでゆき、最後のサビの部分が終わるタイミングに合わせてポーズを取った。余韻を残して綺麗に決まった。

 

「……久しぶりに踊ったけど意外と覚えていることにびっくりだわー」

 ナイスネイチャは息を弾ませた。冬の空気が火照った身体に気持ちいい。横からマーベラスサンデーがぴょんぴょん飛びはねながら話しかけてくる。

「マーベラース! 楽しかったね! うまぴょい伝説! ネイチャはどうだった?」

 マーベラスサンデーがハイタッチを求めてきたので、ナイスネイチャは照れくさそうな様子でそれに応えた。

「まあ……楽しかったのは……否定できない、かな」

「うんうん」

 と、ここで言いよどむ。

「……でもさ、アタシがセンターポジション踊る必要は無かったんじゃない?」

「なんで?」

 マーベラスサンデーは不思議そうに首を傾ける。ナイスネイチャは手のひらを前に突き出した。

「や、ほら。だって最近アタシ……負け続きだし……」

「……」

 目を丸くして見つめてくる親友の姿にナイスネイチャは自分の発言を後悔した。慌てて訂正する。

「いや? 勝つぞー! とは思っているよ? だけど、時々気弱になる瞬間があるというか……ひよるというか」

 と、またしても口ごもる。

 マーベラスサンデーはぱちくりとまばたきを二度三度とおこない、言った。

 

「ネイチャはセンターにもう立てないと思っているってこと? それは……」

 

 それを聞いたマーベラスサンデーはナイスネイチャの両手を握りしめた。包むように胸の前まで持ってくる。真剣さを宿した目でこちらを覗き込んでくる。

 

「それはちがう! そんなことないよ! だって、ネイチャすっごいがんばってる! 努力してるのアタシ知ってるよ! ネイチャすっごく強いもん!」

 マーベラスサンデーはここで言葉を切ると、

「それにね、ネイチャ。気付いてた? ネイチャ、センターで踊ってるとき、とーってもっ! キラキラな笑顔になっていること」

 と、教えてくれた。

 

 ナイスネイチャは虚を突かれたようだった。

「へ? あ、アタシが?」

 

 その様子を目にしたマーベラスサンデーは嬉しそうに微笑むと、柔らかいまなざしを向けてきた。

 

「やっぱり気付いてなかったんだ。あのね、ネイチャ。笑顔ってことは嬉しいってこと! 嬉しいっていうことは幸せってこと! ネイチャが遠慮する必要なんてないの! みんなマーベラスな夢を心に抱えているからこそ、世界はすっごくマーベラスなんだよ!」

 

「嬉しい……? 幸せ……? ユメ?」

 ナイスネイチャは自分の心の蓋が開きかけるのを感じた。マーベラスサンデーはナイスネイチャから目をそらさずに見つめてくる。その瞳には信頼の色が宿っていた。

 

「ネイチャはマーベラスな夢を叶えたくないの? 本当はこう思ってるんだよね?」

 

「センターで歌いたいって!」

 

「それは……」

「わくわくわく」

「その……」

 ナイスネイチャは観念した。

 

「……あー、もー! その目はひきょーだって! そうだよ! ネイチャさんももう一度センターに立ちたいんだー! 悪いかー!」

 ナイスネイチャは頬を染めていた。マーベラスは大喜びでこう言った。

「マーベラース! ぜんぜん! ステキだよ! じゃあ、練習しよー! もう一回おどろー!」

「や、やってやるー!」

 

 

 何度も踊った。何度も手を取った。

 ナイスネイチャもマーベラスサンデーもいつしか笑顔に溢れていた。二人は見つめあい、ステップを踏んだ。

 空は青く、白い雲の隙間から陽射しが降り注ぐ。冬枯れの木々が枝を天に伸ばしながら、ふたりのバックミュージックを彩るように風に揺れていた。

 白い吐息。呼吸。冬の大気のなかで少女たちだけが熱を持つ華のように鮮やかに咲き誇る。まるでステージに生きている証を刻み込むがごとく少女たちは舞い続けた。

 

 

 太陽が少しずつ傾きはじめて――。

 

 

 二人は野外ステージの縁に並んで座っていた。その手に飲み物を持って足先を宙空に放っている。

 

「本当はさ」

 ナイスネイチャがぽつりと話しだす。

「うん」

「思うんだ。センターで歌ってね……」

 

 冬の風がナイスネイチャの髪を撫でた。目を閉じた。まぶたの裏に浮かぶ記憶。たった一度きりだったけれど、鮮明に覚えている。有馬記念を優勝したその日。キラキラに輝く主人公になれた。歓声、歓喜、涙があふれてあふれて止まらなかった。胸の奥が熱くて、世界は鮮やかに色づいていた。満員御礼のライブ会場。光と音の奔流が素直になれない少女を祝福してくれた。いつしか少女は手を振って、呼び声に応えて――。

 

「また包まれてみたいなって。ライブ会場ってすごいんだ。たくさんの人たちに囲まれて、大きな声で応援してくれて、アタシの歌声がみんなを喜ばせて」

 

 ナイスネイチャは微笑む。何もない野外ステージの観客席を見つめて、その景色に想いをはせる。手を伸ばした。

 

「サイリウムが揺れてさ。光の草原みたいなんだよ」

 

 指先。想い出の泡ははじける。目の前にあるのは無人の観客席。手のひらを握り込む。力なく腕を降ろしてゆく。

 

「本当は夢見てる。もう一度あの場所に立つことを」

 

 冬の風がふたりのあいだを駆け抜けていった。

 

 マーベラスサンデーは目を輝かせた。勇気づけるようにナイスネイチャの膝に手を置いてきて身を乗り出す。

 

「きっと立てるよ! すごい! ネイチャの夢ってすっごくマーベラス!」

「ん、ありがと」

 照れ笑いするナイスネイチャ。

 マーベラスサンデーは身悶えするようにを身体を揺らす。興奮した面持ちのまま、話しだす。

 

「ねえねえ、アタシの夢も聞いてくれる? アタシね。ネイチャと走るのが夢なの」

 

 ナイスネイチャはまばたきをした。

「そうなの? そういえばテレビでもそんなこと言っていたよね。どうして?」

 

 その問いかけにマーベラスサンデーは、

「ネイチャがキラキラしているから」

 と、応える。

 

「アタシが?」

 首をかしげて続きをうながす。マーベラスサンデーは視線を外し空を見つめた。雲のヴェールの向こうには太陽が隠されている。光が溢れている。夕陽色に染まりゆく空。

 

「うん! その先にね! すっごくマーベラスな景色を見ることができるはずなの。世界はマーベラスに満ちているから! アタシ、それが見たいの! ただね、この夢は一人では見れないんだ。でも信じてる! ネイチャと一緒ならきっと――」

 

 マーベラスサンデーは振り向いた。

「だからね、ネイチャ。有馬記念、楽しみにしてるね!」

 と、満面の笑みを向けてくる。

 ナイスネイチャは頬をかいた。

「……あはは。まあ、ご期待に応えられるよう、がんばり……ます?」

「うん!」

 ご機嫌に足をぷらぷらさせるマーベラスサンデー。スポーツドリンクを飲むネイチャ。

 

 心地よい沈黙が二人のあいだに流れる。

 

「あ、そうだ! ねえ、ネイチャ」

 マーベラスサンデーは手のひらにポンとこぶしを叩きつけて、思い出したように声をあげる。

 

「んー?」

 のんびりした様子で相づちを打つ親友にマーベラスサンデーは訊いた。

「あのお手紙書けたの? 有馬記念の日に渡すんだよね」

 

 少し考える間があった。

「……あー、えっと、その……まだ」

 ナイスネイチャが歯切れ悪く言葉を転がした。

 

「きっとトレーナーさん喜んでくれると思うよ!」

 マーベラスサンデーは信じて疑わない様子だった。

 

「そう……だといいかな」

 うつむいてしまったナイスネイチャの腕をつかむ。勇気づけるように軽く揺らした。ぽんぽんと優しくたたく。

 

「だいじょーぶ! ネイチャ、自信もって! うまくいくよ! 帰ってきたらクリスマスパーティーしよ! トレーナーさんとのステキなお土産話を待ってるよ!」

 

「……ん、ありがと。マーベラス」

 ナイスネイチャも信頼のまなざしをマーベラスサンデーに返して、はにかむ。

 

「そうと決まればまた歌おう! おどろー!」

 すっくと立ち上がるマーベラスサンデー。

 

「ちょ! まだやんの!?」

 驚くナイスネイチャを置いて、マーベラスサンデーはさっさと野外ステージに走りよるとその真ん中に立った。くるりと振り向き両手でメガホンの形をつくる。

 

「ほらほらー! ネイチャもー! 早くしないとセンターポジション取っちゃうよー!」

 

「……もー……しょうがないなあ」

 そうぼやいて立ち上がったナイスネイチャの口元は、リラックスした猫のようにほころんでいた。

 

 

 

 

 

 闇。墨を溶かしたような真っ黒な空間。

 ナイスネイチャはそんな場所に立っていた。

 

(あれ。どこだろ、ここ)

 

 ナイスネイチャは自分が勝負服に身を包んでいることに気が付く。

 

 ベージュ色のパフスリーブのブラウス。袖口のカフスに赤と緑のラインが入っている。そのブラウスの上から黒いジャンパースカート風の衣装を着ていた。スカートの丈はやや短めで赤いフリルで縁取りされている。胸元には緑色の布地に赤いストライプ柄のリボン。

 

 いわゆるクリスマスカラーをイメージした勝負服だ。

 これはナイスネイチャのためだけにデザインされた彼女専用の勝負服であった。

 

 勝負服とはなにか。

 それは、一流デザイナーあるいは勝負服を着る本人がその秘めた想いを込めてデザインした、ウマ娘が有馬記念や日本ダービーといった格式の高いG1レースに挑む際に着る特殊な衣装のことだ。

 しかし、そんな大レースに出ることすら叶わずレースキャリアを終えるウマ娘は珍しくない。ゆえにウマ娘たちにとって自分専用の勝負服とは夢と憧れの象徴なのだ。

 

 そして、その服を着て走るわけだが――。

 

 想いを込められた勝負服には何やら不思議な力が宿るらしく、ウマ娘が着るとまるで魔法のような――そう、魔法のようなとしか言えない力によって、普段よりほんの少しだけ速く走れるのだと言われている。

 空気抵抗や走りやすさといった要素がたしかに存在するにも関わらず、どんなデザインの勝負服でもそれらのファクターがそこまで不利に働くことはない。一説によるとウマ娘の神様が公平な条件でレースが行えるように計らったからだともいわれているし、ウマソウルなる魂の力が働いていると主張するものもいる。はっきりとしたことはわかっていない。ファンタジーというかオカルトというか――ウマ娘というのは謎に包まれている存在である。

 

 ナイスネイチャは困惑していた。

 

(なんでアタシ勝負服を着てんの? っていうか)

 

 不思議なことに自分の手足ははっきり見える。光の無い闇の中にいるというのにまるで自分の全身だけが輝いているようだった。

 

(アタシ光ってるしっ!)

 

 その勝負服の配色も相まって、まるで闇夜に浮かぶクリスマスツリーのイルミネーションのようである。

 霧の日に見る薄ぼんやりとした灯籠ぐらいの光しか放っていないので、かなり寝ぼけたツリーではあるが。

 

(なるほど。これが本当のキラキラウマ娘……って、そんなわけあるかーい)

 

 肩をすくめる。

 両手を広げてコメくいてー、のポーズをした。

 

(……ひとりでノリツッコミしてもなー)

 

 ため息をついた。静けさのなかでその音は妙に大きく響いた。辺りをきょろきょろと見回す。

 ……とくに何もないし、誰もいないようだった。

 いや、違う。何か見えた。ナイスネイチャは手をかざした。遠くを見つめる。

 

(んー? なんか向こうに……)

 

 ナイスネイチャの前方にトンネルの出口のような白い光があった。

 

(行ってみよっかな)

 

 ナイスネイチャは歩きだした。

 光に近付く。そこには、

 

(トレーナーさん?)

 

 ナイスネイチャのトレーナーがいた。

 庭園の三女神像の前だ。噴水の近くのベンチに腰を降ろしている。うつむき加減。その頬に涙が流れていた。

 

 夢の中だからだろうか、彼の悲しみがまるで我が事のように感じられた。傷付き崩れさってしまいそうな彼の心に触れた。そんな不思議な感覚。彼の感情がナイスネイチャの心へと流れ込んでくる。

 

 それは肺の奥に刺々しい氷の針が刺さっているような息苦しさ。この世に希望なんて在りはしない。深海の果てのように絶望は深く、明日への光など欠片も見付かりはしない。

 

 彼の心は粉々に壊れていた。

 自己否定と後悔の感情で押し潰されている。

 

 ――少女の目に涙が溢れてきた。

 

(どうしてそんなに悲しそうな顔をしているの?)

 

 ナイスネイチャはトレーナーにそっと近付いた。なにか自分に出来ることがあるのならしてあげたかった。

 彼の冷えきった手の甲に少女は自らの手のひらを重ねた。少しでも熱を与えてあげたかった。

 

(泣かないで、トレーナーさん)

 

 

 

 

 

 そこで目が覚めた。

 ナイスネイチャはむくりと起き上がる。

 

「……なんかすごく」

 と、額に指を当てる。目じりの違和感に気付く。

「悲しい夢を見ていた気がする」

 指先で目元を拭うと涙が零れていた。

「マジか。どんだけ悲しい夢を見てたんだ」

 なんだろう。あれかな。三等連続当選記録を更新するとか、そんな夢だろうか。うん。それは悲しい。

 

 妙に目が冴えていた。

 スマホを見るとまだまだ夜も深い時間だった。

 ルームメイトのマーベラスサンデーを見る。向こうのベッドで穏やかそうに眠っていた。

 

「……むにゃむにゃ……もう食べられないよー……」

「また、そんなベタな寝言を……」

 どうしようかな、と少しのあいだ思案する。やがてベッドからそっと足を降ろす。素足にスリッパを履いた。

 

「ねいちゃ……」

 物音と気配に反応したのかマーベラスサンデーが寝返りを打った。いつものツインテールを下ろして、ウェーブのかかった長い黒髪からウマ耳が飛び出している。

 ありゃ。起こしてしまったかな、と考えてナイスネイチャは動きを止めた。

 

「……ずっといっしょだよ、ねいちゃ……」

 

 ナイスネイチャは口元に指先を当てて微笑む。静かにマーベラスサンデーに歩み寄ると寝乱れたシーツをかけ直してあげた。規則正しい寝息。上下するお腹。自分の親友が寝ているのは間違いなさそうだった。

 

 静かに室内を移動する。寮室の扉にぶらさげた蹄鉄に目がいく。友人のマチカネフクキタルから貰った御守りのようなものだ。きらりと鈍い輝きを放っている。

 

(たしか蹄鉄を贈られた夫婦は幸せな結婚生活を送れる、だったかな。魔よけにもなるんだっけ? すでに使用感があるけど誰のなんだろ? ま、いいけど)

 

 ナイスネイチャはそんなことを考えながら、クローゼットからいつもの宝物を取り出す。自分の机に近付くとスタンドライトをつけた。椅子を引いて、そこに腰を降ろす。

 

 念のため、マーベラスサンデーを起こしていないかと振り向く。彼女はもともと眠りが深いタイプだから起きないとは思うが――大丈夫そうだ。ついでにいうと寝起きもいいので、いつもきっちり同じ時間に「マーベラス!」という叫びとともにガバッと起き出す健康優良ウマ娘でもある。

 

 ナイスネイチャは若干癖のある髪を下ろしたまま、左手で頬杖をついた。右手の指先で目線まで掲げたそれは折り紙で出来たトロフィーだった。

 

「……ふふっ」

 

 それをじっと見つめる。漠然と感じていた胸の中の不安が溶けてゆき、替わりに温かな気持ちで満たされてゆく。

 

 ナイスネイチャのためにトレーナーが作ってくれたへろへろの折り紙トロフィー。

 

 自信が持てずにいたあの頃、そんな自分でも認めて前に進んでゆけるきっかけをくれたあの日。

 

 自分の歩みは無駄なんかじゃないんだ、と。

 全てを認めてくれた。

 

 無敵のトウカイテイオーみたいにならなくても、地味なナイスネイチャのままでも、キラキラ輝くことは出来るんだと教えてくれたのは彼だった。

 

 他人と自分を比べるくせが完全に無くなったわけじゃないけれど、それでも初めて等身大の自分を受け入れることが出来た。

 

 嬉しくて嬉しくて、本当は涙が出そうだったけれど、強がりを言って冗談でごまかしてしまったけれど。

 

(あれが、アタシのなかでトレーナーさんを一人の男性として意識し始めるきっかけだったよね……)

 

 時が立つにつれ、どんどん好きになってゆく。

 毎朝毎晩、トロフィーを眺める――その会えない時間もまた、少女の恋を育てた。

 

 ネイチャ、と名前を呼んでくれるその声が好きだった。もっともっと触れてほしくなった。

 

(……トロフィーが出来るたびに思い出が増えていって)

 

 作っている姿を見るのも好きだった。ナイスネイチャは彼の肩越しに引っ付いて、その風景を眺める。大好きなトレーナーさんの熱と匂いを感じた。静かな吐息。まばたき。じっと指先を見つめて作業に集中しているその横顔。

 

 たった二人だけの静かに流れる時間。それはきっと、とてもかけがえのないもので――。

 

 思い出すだけで幸せな気持ちになれた。

 ずっと隣にいたいな、って思う。

 

(あー……アタシやっぱりトレーナーさんのこと好きなんだな。好き、なんだよね)

 

 だからこそ、ちゃんと想いを告げなくちゃいけない。

 

 正面から言う勇気がなかなか持てないから、ちょっと遠回りで古典的な方法になるけれども――。

 

「……んー。よし」

 

 そして、ナイスネイチャは机の上に便箋を広げた。

 

「今日こそ……今日こそは……」

 

 机の横に置いてあるくずかごを見下ろした。そこには丸めて放り込まれた失敗作の山、山、山。

 

「書き上げたい……書き上がると……いいナー」

 と、肩をすくめた。

 

 

 

 日にちは瞬く間に進んでゆく。

 トレーニングの積み重ね。全ては勝利のために。

 

 

 

 そして、有馬記念の日がやってきた。

 

 

 

 

 

 12月25日 有馬記念 当日

 中山レース場 芝2500メートル 良バ場

 

 

 中山レース場の選手控え室にナイスネイチャとトレーナーはいた。

 

「ねえ、トレーナーさん……」

 と、控え室の椅子に腰を降ろしていたナイスネイチャは床に視線をさ迷わせる。

「どうした?」

 壁に背中を預けていたトレーナーがナイスネイチャを振り向いた。視界に入ってきた彼女の横顔は少し頬が赤かった。何かを言いかけて唇を開き――すぐに閉じた。

 苦笑いして、

「……ううん。ごめんやっぱ何でもない。いまはレースに集中しなきゃね」

 と、首を振る。まぶたを閉じて深呼吸をした。目が開いた。戦いに挑む戦乙女のように凛々しい表情となる。

「さては緊張してる?」

 と、トレーナーが訊いた。

「そうかも。ところで――」

 悪戯っぽい目を向けてきた。

「ずっとポケットに手を突っ込んでるけど……なに? 寒いの? しかも室内でコートって……不審者じゃん?」

 からかうように訊いてきた。トレーナーは頭をかく。

「あ、いや、すまん。無意識で……脱ぐの忘れてた」

「あはは。変なの。トレーナーさんも緊張してる?」

 表情がころころ変わるナイスネイチャ。比較的リラックスできているのかもしれない。気負いすぎるよりはずっと良い。平常心で挑めそうだな、とトレーナーは考えた。

「うん、まあ、な」

 むしろ集中できていなくて浮わついているのは自分のほうじゃないかとすら思う。

 

 と、そのときノックの音がした。

 扉を開けて入ってきたのはURAの係員だった。

 

「時間です。有馬記念に出走するウマ娘さんたちはパドックまで移動をお願いします」

 

「あ、はーい」

 ナイスネイチャが返事をする。係員は去っていった。

 

「じゃ、アタシ頑張るからさ。見ててね」

「わかった。今日も輝いてこい、ネイチャ」

 トレーナーは片手で握りこぶしをつくった。

「うん、いってくるね。トレーナーさん」

 手を振るとナイスネイチャは振り返らずに扉を開けて出ていった。扉が閉ざされる。足音が遠くに消えてゆく。

 静寂。

 ひとり部屋に取り残されるトレーナー。ポケットから手を出した。その手のひらには小さな箱があった。蓋を開ける。そこには金の輝きを放つ指輪が入っていた。

 

「……有馬記念が終わったら聞いてほしい話があるんだ、なんて言えないよな。こんなときに……でも、まあ焦ることもないさ」

 

 想いを告げるための時間はまだあるのだから。

 

 

 

 

 

 少女は地下バ道を通る。出口に光が見えた。空からひとすじの光線が降り注ぐ。風に透かされて少女の身体がまるで白くうっすらと輝いているようだった。

 光の向こう側へ、少女は渡った。

 

 

 

 

 

 もう間も無く枠入りの時間になる。ゲート付近には有馬記念に出走予定のウマ娘たちが集まっている。その輪から少し離れたところでナイスネイチャは物思いにふける。

 

 空を見上げた。

(恋にも勝ちたいし)

 

 次に観客席のほうを見つめた。

(センターにも立ちたい)

 

 その横のウィナーズサークルを視界におさめる。

(トレーナーさんを日本一にもしてあげたければ)

 

 視線をゲート付近に戻す。同じように枠入りを待っている親友の後ろ姿を眺める。

(ライバルとも全力でぶつかってあげたい)

 

 ナイスネイチャは肩をすくめた。

(アタシって欲深すぎじゃんね)

 でも、と思う。

(それでも――)

 

 ひときわ大きな歓声。旗を振る役目を持つスターターの係員が姿を現したのだ。

 

『今年も暮れの中山で行われます。夢の総決算グランプリ有馬記念です! 今年は十五人のウマ娘で行われます! スターウマ娘たちの誰の頭上にその栄冠は輝くのかっ!? 実況は私、赤坂でお送りいたします!』

 

 ファンファーレが鳴り響く。十万人を越える大観衆から興奮の雄叫びがあがる。ウマ娘たちのゲートインが進んでゆく。ナイスネイチャは四枠六番のゲートからの出走だった。ヒシアマゾンがすぐ右隣にいて、マヤノトップガンはそれより内側。マーベラスサンデーが外側の枠に入った。

 

 少女たちのあいだで緊張が高まってゆく。ピリピリとした気配が肌を刺す。暮れの中山に吹きすさぶ一陣の風が少女らの髪をふわりとなびかせた。

 

 ナイスネイチャは深呼吸をした。

(――勝ちたい)

 

『係員が離れまして……今!』

 

 スターティングゲートが開いた。一気にトップスピードへと加速した十五人の乙女たちが大地を一斉に蹴りあげ、身体を傾け、飛び出してゆく。

 

『スタートしました!』

 

 

 

 

 レースは早くも中盤に差し掛かろうとしていた。

(ペース……速いな)

 

 ナイスネイチャは中段につけていた。ウマ耳に風を切る音が聞こえてくる。前のほうを見れば、マヤノトップガンが栗毛の長い髪をジェットエンジンの噴射炎のようにはためかせ、先頭を走っているようだった。

 

 模擬レースで逃げていたウマ娘は何やら焦った顔をしながら、マヤノトップガンの背中を追走していた。

 

 その後ろからは何人分から離れて、マーベラスサンデーが走っている。ずいぶんと余裕がある足取りに見えた。リズム良く走れているのだと思う。黒いドレスのスカートと黒みの強い栃栗毛(とちくりげ)のしっぽを波打つようになびかせて、ターフを滑るように走っていた。

 

(やっぱりマーベラスが一番怖い)

 

 ルームメイトとして何年も一緒に過ごしてきた。何度も数えきれないほど併走トレーニングをしてきた。

 その性格も、能力も、走るときの癖もよく知っている。

 

 道中を気分よく走り切ってしまったときのマーベラスサンデーは終盤にとんでもない加速をしてゆく。かといって、揺さぶりをかけようものなら逆に彼女のペースに巻き込まれて、仕掛けたほうが自滅する。

 

(わかる。今日のマーベラス……すごく調子がいい。きっとラストスパートも凄まじいものになると思う)

 

 ナイスネイチャは考えた。この無敵の大親友に勝つにはどうしたらいいんだろう?

 

(外を回ったら、勝てない。いまのアタシの差し脚じゃ、距離損したら勝てない)

 

 さすがに昔のような切れ味は自分に残っていない。

 

(内側の経済コースを通って抜け出さなきゃ)

 

 ナイスネイチャはそう結論づける。

 

 しかし、ナイスネイチャは気付いていなかった。ほかのウマ娘たちも同じことを考えていることを。

 

 マーベラスサンデーが模擬レースで見せた走り――ほかの差しウマ娘はどうなった? 全員が届かなかったではないか。それほどまでの強さ、衝撃――。

 

 マーベラスサンデーだけじゃない。

 マヤノトップガンを途中までとはいえ、完封していたあの逃げウマ娘は何処にいた? そう、内側にいた。

 

 内側で走ることによって距離の得を稼げたからこそ、あの格上相手であるマヤノトップガンと渡り合えたのではないか?

 

 つまり、勝ちたいなら内を突くしかない。

 更にいうなら中山の直線は短い。

 ならば勝負の仕掛け所は最終コーナー。

 

 

 

 そう、皆が考えた結果――。

 

 

 

 その事故は、

 起きるべくして起きたのかもしれない。

 

 

 

『さあ、もう間も無くレースは最終コーナーに入ります!』

 

(今! ここで仕掛けるしかない! 内に!)

 

 トップスピードにギアを上げたナイスネイチャ。ラストスパートに向けて集中力が高まり、視野が狭くなる。

 

 ナイスネイチャが内に切り込もうとしたと同時に、左から何人ものウマ娘が圧を持って殺到してきた。

 

 

 その時だった。

 

 

(……え?)

 

 

 脚部への違和感。その違和感は限界までラストスパートに集中していたナイスネイチャにとって、意識の空白を作るのに充分な刺激だった。

 時間にして数秒もない、ほんの一瞬。

 しかし、レースに影響を与えるのには充分な時間。

 

 ナイスネイチャはバランスを崩した。外側に膨れて倒れ込みそうになる。

 左からはウマ娘の集団がやってきている。寄りかかってくるナイスネイチャを見て、目を見開いていた。

 

 全てがスローモーションに感じた。

 このままではほかのウマ娘を巻き込んだ大事故になってしまうだろう。

 

(――駄目! このままじゃ!)

 

 刹那の一瞬で、思考を切り替えたナイスネイチャは左脚で大地を蹴り上げた。内側にしか回避するスペースはない。事故を避けるためにとっさに横っ飛びしたのだが、バランスを崩した直後にその動作はあまりにも無理がありすぎた。

 

 ナイスネイチャは制御不能なほど、バランスを崩した。

 

 ウマ娘のトップスピードは時速にして七十キロ近いものがある。その速度を緩めることすら出来ず、ナイスネイチャは転倒してゆく。上体を傾け、倒れ込んでゆく彼女の頭部が向かう先には――鉄製の支柱があった。

 

 支柱にぶつかった反動で弾み、少女が再び反対側に弾き飛ばされる。

 レースに参加していた残りのウマ娘たちが全員通りすぎていったその背後で、ひとり、

 

 

 

 少女は地面に叩きつけられた。

 

 

 

 十万人を越える大観衆の悲鳴。混乱。どよめき。

 全ては一瞬の出来事だった。

 

 

 

『な、ナイスネイチャ転倒ッ!? これは大変なことに! 大変なことになりました!』

 

 

 

 トレーナーは見た。

 ターフの上に倒れ込み、ぴくりとも身じろぎしないナイスネイチャの姿を。

 

 

 

 彼は少女の名を叫びながら、走り出した。

 

 

 


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