一途な恋の弓矢   作:樂川文春

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お話が成立するぎりぎりまで直接描写は削りましたが、死ネタがあります。
苦手な方はこの5話を読まずにスキップしても大丈夫です。
それでも一応読めるようにはなっております。



第5話 失われたものは

 

 

 

 

 ナイスネイチャは中山レース場近くの病院に緊急搬送された。意識不明の重体。トレーナーも付き添いとして一緒に救急車両に同乗した。車両の中でもナイスネイチャは意識を取り戻さず、目を瞑ったままだった。

 

 脚の骨が折れたわけではなかった。だが、倒れ込んだ先とぶつけた場所が悪かった。人体にとって最も急所である頭部への打撲。一般的な人間よりも頑丈といわれるウマ娘にとってもそれが致命的な怪我であるのはいうまでもない。

 

 両開きの扉が開かれる。キャスター付きのストレッチャーが手術室に入ってゆく。無影灯のスイッチが入る。浮かび上がる手術衣の人々。器械台に置かれたトレイでは命を繋ぐための器具が鈍い輝きを放つ。波形を刻む心電図モニター。手術室の扉の上のランプが点灯した。

 

 トレーナーは緊急手術室の前のベンチに座り込んでいた。祈るように両手を握りしめている。長い長い時間が過ぎた。永遠に続くようにも思える時間だった。

 

 手を固く握りしめる。震えが止まらず、床の一点をじっと見つめている。悪い想像が次から次へと浮かぶ。そのたびにお願いだから、と何者でもない何かに祈る。思考は散り散りに分裂して目まぐるしく現れては消える。

 

 トレーナーは恐慌状態に陥っていた。

 頭の奥がぐらぐらと揺れる。呼吸は浅く、荒く、足も震え、胸の鼓動が速まる。緊張で喉の奥がひりつく。

 

(ネイチャ、ネイチャ、ネイチャ……!)

 

 脳裏をよぎるのはターフの上で倒れる姿。呼びかけても何も応えない。こんなときのために応急手当のやり方を学んだはずなのにいざ直面すると手順が頭から吹き飛ぶ。助けなくては助けなくては助けなくては! 記憶の欠片を必死にかき集め手当てを施す。そのまぶたは固く閉じられていて意識がない。

 

 何度も繰り返し再生される地獄のような光景。トレーナーは必死に祈り続けた。

 

 少女は戦う。命の波形を徐々に小さくしてゆく。命を繋ぐ人々が死神に抵抗する。しかし――その波はきわめて微弱になってゆき――やがて。

 

 ――。

 

 手術中のランプが消える。磨り硝子の向こうに人影が現れる。二重扉をくぐり中からオペレーションを担当していた医者が出てきた。トレーナーは立ち上がる。

 

「先生……! ネイチャは! ネイチャはっ!?」

 トレーナーはすがるように医者の両腕をつかむ。

 

「我々としても最善を尽くしました――ですが」

 医者はゆっくりと首を振った。

 

 最悪の予感を悟る。やめてくれ。その先を言わないでくれ。やめてくれ、やめてくれ、やめろ!

 

「申し訳ありません――」

 そして、

 終わりの時を告げた。

 

 トレーナーは膝から崩れ落ちた。

「そんな……嘘だ……」

 

 

 

 

 

 柔らかな光の落ちる冷たい部屋で少女に再会する。

 突きつけられた絶望が、そこにはあった。

 

 

 

 

 

 ――駆けつけたナイスネイチャの母親と入れ替わるようにトレーナーは病院をあとにした。

 

 本当はナイスネイチャのそばについていてやりたかった。だが、ナイスネイチャの母親は自分だって辛いだろうにこちらのことを気遣うのだ。トレーナーがいれば、彼女は泣くことすら出来ない。退室するしかなかった。

 

 

 

 月明かり。ちらちらと雪が舞っていた。街路樹はその先端を星空へと伸ばして白銀の雲を枝に咲かせている。そんな街路樹の列が大通りのずっと向こうまで続いていた。

 

 外は真っ暗だった。街灯の下に影が伸びる。トレーナーは角を曲がり、長い道を歩き出す。ヘッドライトをつけた車が左側を通りすぎてゆく。陰影が生まれる。凍てつくような風が吹き抜けるとともにその光は消えた。

 

 トレーナーは黙々と歩み続ける。

 脳裏に浮かぶのは後悔だった。

 

 自分がもっとナイスネイチャのことをちゃんと見ていてやれば、この事故は防げたのではないか、と。

 

 だって、おかしいではないか。

 彼女はバランス感覚のとれたウマ娘だ。あんなところで体勢を崩すなんて何かあったとしか思えない。どこかに怪我や不調を抱えていたのではないか。

 

 何故、気付いてやれなかった。

 何故、助けてやれなかった。

 

 自分のせいだ。自分のせいで彼女は――。

 

 

 

 今日は12月25日。

 街はナイスネイチャの大好きなクリスマスカラーのイルミネーションに包まれていて、道行く人々は満ち足りた表情をしていた。笑い声が通りすぎてゆく。

 

 店のショーウィンドウには真っ赤なポインセチアの入った花かごが飾られている。軒先の立て看板には猫の絵が描かれていて本日限定のメニューの紹介をしている。

 傍らのクリスマスツリーの頂点にはキラキラと輝く星がついていて、赤と緑のイルミネーションライトが点滅していた。鮮やかで美しくて、幸福そうな光景だった。

 

 ガラス窓にトレーナーの姿が映り過ぎ去ってゆく。闇に消えてゆく。

 

 泥のなかを掻き分けながら進んでいるような重苦しさがあった。トレーナーは揺れる視界のなかで、なんとかそれでも歩き続ける。大通りを通って、一歩一歩。

 

 ――。

 

 どこからか歌が聴こえた。

 足が止まった。書店の軒先。有線放送が流れていた。ナイスネイチャの歌だった。希望に溢れた暖かな歌声を冬の冷え冷えとした空気のなかに広げている。トレーナーは地面に縫い付けられたようにその場から動けなくなった。

 

 耳をかたむけた。音楽には人の心の蓋をあける力がある。輝いていた記憶が呼び起こされてゆく。

 

 ポップなラブソング。

 愛する人に一途に想いを寄せ続ける心情を歌ったその曲のタイトルはアウト・オブ・トライアングル。

 

 ナイスネイチャがURAファイナルズに優勝したときに記念として作曲された。汎用曲とは違って、ナイスネイチャのためだけに作られた特別な歌だった。

 

 

 

 思い出す。

 トレーナー室に、二人。

 

 

 

 その日、オケ録りを済ませた音源入りのCDと出来上がってきた歌詞を書いた紙が届いた。

 

 二人はソファーに並んで腰を降ろしている。歌詞を読んだナイスネイチャは頬をかいた。

 

「うはあ、思っていたよりバリバリのラブソングじゃん」

「……今なら変更も出来るみたいだぞ」

 

 ナイスネイチャは照れながら、首を振る。

「ん……いや、これが……いいかな。……悔しいけど、作詞してくれた人はアタシというウマ娘をよーーーくっ! 見てらっしゃいますわー」

 

 何度も読み返す。うなずいた。

 

「……うん。アタシ、歌えると思う。というか、歌いたい……かも」

 

 歌詞をじっくりと読み込み、再生中の曲に合わせて、ボーカルを小さく口ずさむナイスネイチャはしっぽを揺らしていた。本当に気に入ったようだった。

 

「そうか。じゃあ、これで企画、通しておくから……今から楽しみだな。ネイチャがこの歌を歌うところ」

「へっ? そ、そう? あははは。トレーナーさんが喜んでくれるなら何より、かな?」

「きっとテイオーよりも人気間違いなしだな!」

「って、いまここでテイオーの名前出すの? はー、トレーナーさん。そーいうとこだぞ、そーいうとこ」

 

 

 

 ナイスネイチャの歌は続いている。

 

 

 

 レコーディングの光景を覚えている。

 希望に溢れた少女が、目を輝かせて、頬を上気させながら、歌詞に秘めた想いと優しさを乗せて、マイクに向かって楽しそうに歌っていた。

 

 シングルCDを発売した翌日に商店街を訪ねると、商店街の人たちがみんなシングルCDを買っていて、ネイちゃん歌良かったぞー、と応援されて。

 

 照れ笑いしていたナイスネイチャがいて。

 

 その商店街からの帰り道。

 寄り添って歩いた。

 

 群青色のアスファルト。夕焼けに伸びる二人の影。沈みゆく夕陽が彼女の頬を赤く照らしていた。風が鹿毛の髪を凪いでいる。機嫌よさそうに振られるウマ耳としっぽのシルエット。少女は一途な恋の歌を口ずさむ。

 

「俺もネイチャの歌、好きだな」

「ほんと? ふふっ、好きって便利な言葉だよね。上手いとかと違って、比べてない感じ?」

「だけどさ」

 そこで、言葉を区切る。へにゃりと笑う。

 

「トレーナーさんに好きって言ってもらえるとアタシも嬉しいな! なーんてね。あはは……」

 

 

 

 ――笑っていた彼女はもういない。

 

 

 

 呼吸が乱れた。呻き声が喉の奥から零れ出る。脈拍が安定しない。頭の芯が締め付けられるようだ。いっそこのまま殺してくれ、と願うほどの苦しみ。そうしたらまた会えるかもしれないじゃないか。会って謝れるかもしれないじゃないか。そんな無茶苦茶な思考が脳裏を駆けめぐる。彼女の顔がフラッシュバックする。自分は助けてやれなかった。奪った。未来を。自分が。

 

 近くの建物の壁に手をつけて動悸が収まるのを待つ。通りすがりの通行人に「大丈夫ですか」と声をかけられるが、それを手で制した。

 

 落ち着くのを待ってから再び歩き出す。

 クリスマスの光に浮かびあがる街をひとり――。

 

 歌は終わり、すでに次の曲に移っていた。

 

 

 

 

 

 トレセン学園に戻ってきた。

 その足で理事長室まで経緯を報告に向かった。秋川理事長と駿川たづなは痛ましいものを見るようなまなざしをトレーナーに送っている。トレーナーは報告を終えた。

 

 秋川理事長からは、

「気を落とすんじゃないぞ。それはナイスネイチャも望んでおらん……休暇が必要ならばいくらでも渡そう」

 と、告げられた。

 

 駿川たづなからは、

「彼女の告別式などはこちらでナイスネイチャさんのお母様とやりとりして手配します。ですから……トレーナーさんは休んでください」

 と、心配そうに言われた。

 

 頭を下げて「……ありがとう、ございます」と礼を返すと、トレーナーは理事長室を後にした。

 

 

 

 職員寮の自室の前に戻ってくると扉のそばで誰かが膝をかかえて座り込んでいるのが見えた。

 

 小柄な黒髪の少女。

 マーベラスサンデーだった。

 

「……マーベラス?」

 と、トレーナーは立ち止まる。

 

「……あ」

 ウマ耳を垂れさせていたマーベラスサンデーが顔をあげる。トレーナーを視界に入れると立ち上がり、ふらり、ふらりとこちらに近付いてくる。あと数歩の距離。たたらを踏むようにトレーナーに倒れこむ。指先で彼の服にしがみつくと、不安と怯えに揺れる瞳でこちらを見上げてきた。

 

「あのね……ネイチャが帰ってこないの。部屋にいてもひとりぼっち……ネイチャが死んじゃったってホント?」

 

 否定してほしいと目で訴えていた。トレーナーは彼女の肩を押して引きはなす。彼女は抵抗せず、しかし、視線はこちらを掴んで離さない。すがるように言葉を待った。

 

 トレーナーは自分自身も身を切るような苦しみに耐えながら、告げた。

 

「……マーベラス。落ち着いて聞いてくれ。本当だ。本当なんだ。ネイチャは、もう……」

「やだ!」

 

 マーベラスサンデーはその先の言葉を聞くことを拒絶した。目をぎゅっと閉じて、ぶんぶんと首を振る。狼狽えた様子でこちらを見上げてきた。声を荒げる。

 

「ウソ、ウソって言って! ネイチャは元気になって帰ってくるんだよねっ!?」

「……」

 トレーナーはうつむいた。

 

「どうしてッ!」

 

 マーベラスサンデーが再びすがりついてくる。その瞳から流れ落ちる星の光のような涙が零れはじめた。ひと雫、ふた雫。感情の昂りとともに呼吸が荒くなってゆく。トレーナーを睨みつけてきた。叫ぶ。

 

「嘘つきッ!!」

 

「トレーナーさんネイチャを幸せにするっていった! 約束した! ネイチャがいなくなるなんて絶対イヤ! こんなのおかしい! こんなのちっともマーベラスなんかじゃない! 幸せなんかじゃない! なんで! どうして! ネイチャがいなくならなきゃならないのっ!?」

 

 マーベラスサンデーが抱き付いてきた。どうしようもない現実を認めたくなくて、大声を出し続けた。

 

「ネイチャを連れて帰ってきてよ! どうして一緒に帰ってきてくれないの! 仲良しなんでしょ!」

「……」

「なんで! なんで! なんで! やだよ! ネイチャ! 帰ってきてよー!」

 

 マーベラスサンデーはあとは言葉にならず、わんわんとトレーナーの胸の中で泣いた。

 

 マーベラスサンデーにとって親しい者がいなくなるという経験は初めてのことなのだろう。行き場のない感情が溢れだして、パニックを起こしていた。

 トレーナーとて余裕があるわけではなかったが、それでも大人として受け止めてあげなければいけなかった。

 

(俺のせいだ)

 

 自分がちゃんとナイスネイチャのことを見ていたら、きっと、この娘がこんなに傷付くことも無かった。

 

「すまない……俺が見ていれば……本当にすまない」

 

 その後もマーベラスサンデーは泣き続けた。

 

 

 

 

 

 やがて、マーベラスサンデーはそっとその身を離した。ウマ耳を垂らす。指先で涙をぐしぐしと拭う。しゅんと項垂れながら、所在なさげに視線を床に落とす。

 

「……ネイチャのトレーナーさんはなにも悪くないのに。アタシ、ひどいこと言った……」

 後悔しているような、ぽつりと囁くような声だった。

「……ごめんなさい」

 と、頭を下げる。

 トレーナーはゆっくりと首を横に振る。

 

「いいんだ。……本当に俺が悪いんだから。ネイチャを……不幸にしたんだから」

 

 マーベラスサンデーは弾かれたように顔を上げた。

「それは違う!」

 と、叫んだ。真剣なまなざしをぶつけてくる。マーベラスサンデーは必死に伝えようとしてきた。

 

「さっきはあんなこと――幸せなんかじゃないって言ったけど、取り消すの! 間違いなの! あのね! ネイチャはトレーナーさんと一緒に……一緒に! 歩んでこれたから!」

 

 感情が高まってくる。再び瞳に涙を浮かび上がらせて、拳を握りこみ、両腕を二度三度と振り上げては降ろし、全身を使ってその想いをしぼり出すように叩きつけた。

 

「絶対に! 絶対に! 幸せだった! だってアタシ覚えてる! ネイチャ笑ってた! トレーナーさんの話をしているときも! トレーナーさんと一緒にいるときも! トレーナーさんから貰った宝物の折り紙トロフィー見つめているときだって! すっごくすっごくマーベラスな笑顔、浮かべてた! アタシ知ってるもん! ネイチャは誰よりも誰よりも! トレーナーさんのことを……大事な人だと想ってた! だから!」

 

 マーベラスサンデーはトレーナーを正面から見つめた。自分の大親友の少女はこの人を愛していたから。そんな後ろ向きな言葉はふさわしくない。認めちゃいけないんだ。

 だから、心の底から叫んだ。

 

「そんなこと言わないで! ネイチャの大切なトレーナーさんは、絶対にネイチャを不幸になんてしてないっ!!」

 

 それだけ言い切ると肩で息をしている小さな少女はこちらを見上げたまま、じっとこちらの目を覗き込んできた。沈黙が二人のあいだに流れる。

 

 トレーナーは自嘲気味に口もとを歪めた。前向きな言葉を信じるには心が擦りきれすぎている。思わず、否定の言葉が口をついて出た。

 

「……そうは言ってもだ。俺が担当じゃなかったらこんなことにはならなかった。……ネイチャが幸せだったなんて……あるわけがない」

 

 マーベラスサンデーは首を振った。言わせない。自分の親友の素晴らしい日々を否定させてたまるものか。真っ直ぐ、彼の目を見つめた。

 

「それは違う。絶対に違うよ、トレーナーさん」

「マーベラス……」

 

 マーベラスサンデーは高ぶった感情を静めるように目を閉じて、二度三度と深呼吸をした。

 さらに数呼吸分の沈黙。

 そして、ゆっくりと双眸を開いた。

 

「……アタシ、迷ってたんだけど……言うね。ネイチャね。有馬記念が終わったらトレーナーさんに……あなたに伝えたいことがあるって言ってた」

「ネイチャが……?」

「うん。ネイチャ、この手紙、毎晩毎晩悩んで書いてた」

 

 マーベラスサンデーがスカートのポケットから封筒を取り出す。そこには「トレーナーさんへ」と書かれていた。

 

「アタシね。訊いたの。ねえねえ、なんの手紙って? 最初は教えてくれなかったけど、何回も何回も訊いたら教えてくれたの。有馬記念が終わったらトレーナーさんに渡す手紙だって! あはっ……照れてたネイチャの姿、すっごくマーベラス……! ……マーベラス、だったな」

 

 それは過ぎ去りし日の温かさ。マーベラスサンデーは視線を手元の封筒に落とした。

 トレーナーにとっては思いがけない贈り物。

 

「ネイチャから、俺への手紙……」

「……うん」

 期せずしてふたりの視線が絡み合う。

「マーベラスは……読んだのか?」

 少女は首を振って、

「……ううん。読んでない。だってね、ネイチャすっごく真剣に悩んで書いてたから」

 と、応えた。

 

 来る日も来る日もうんうん唸りながら机に向かうその後ろ姿を思い出すように、少女は目をつむる。

 

 ナイスネイチャが「うにゃああああっ!」と失敗作をまた量産してくずかごに放り込んで、マーベラスサンデーがベッドに座ったまま「マーベラース! ネイチャがんばれー!」と応援して「うるさいわーい! あんたは早く寝ろー!」と腕を振り上げるその姿。

 

 ついに手紙が完成したときはマーベラスサンデーも嬉しくなって、ぴょんぴょんと「ネイチャおめでとー!」と跳び跳ねた。

 

 ナイスネイチャは「ハイハイありがとねー……マーベラスが応援してくれたおかげかもねー。たぶん」と肩をすくめて応える。

 そんな素直じゃないマーベラスサンデーの大親友。

 

「マーベラース……ふふっ」

 ゆっくりとまぶたを開いて、その菜の花のような色の瞳で手元の封筒を優しく見つめる。指先でそっと撫でた。

 

「だからね。きっとネイチャにとって、すっごく大切な手紙なの。いくらアタシがネイチャのマーベラスな友達でも、それは絶対に読んじゃダメ。これを読んでいいのは……ネイチャの大切なトレーナーさんだけ。だから」

 

 再び、こちらを見上げてくる。

 マーベラスサンデーは両手で封筒を差し出してきた。

 

「ネイチャの手紙、読んであげて?」

 

 

 

 

 

 寮の前まで送ろうか、と提案したトレーナーに彼女は首を振って断ると手紙をこちらに渡して帰っていった。

 

 自室に入る。

 

 少し散らかった室内。机のうえにはナイスネイチャの置いていった私物が取り残されたままだった。

 当たり前のようにトレーナーの元へ遊びにくる少女。本人は打ち合わせが必要だからと言い張っていた。そんな彼女はソファーに座ってテレビを観ているだけだったのだけれど、トレーナーも決して否定せず鑑賞に付き合ったりなんかして。ころころと笑う少女の横顔を思い出す。

 

「片付ける気には……なれないんだろうなあ」

 

 疲れきった足どりでソファーに近付くと、背中を預けた。無意識のうちに片側に寄って、もう一人座れるスペースを作っている自分に気付く。

 

 彼女がいることが当たり前になっていた。あまりにも当たり前になりすぎていたのだ。失ってから、どれだけ自分の中でナイスネイチャという少女が大きな存在になっていたのかに気付く。

 

 大切なものなら、手放しちゃいけないはずだった。

 トレーナーは手元の手紙を見つめる。

 

「ネイチャからの手紙、か……」

 手紙を読むのが怖かった。予感があったのだ。これを読めば、もう後戻りできないんじゃないか。自分は壊れてしまうんじゃないか。そんな気がして。

 

 それでも読まなくてはならない。

 

 ペーパーナイフで封筒を切る。

 トレーナーはゆっくりと手紙を開いた。

 

 

 

 

 

 拝啓、アタシのトレーナーさま。

 

 おいっすー、ナイスネイチャでーす。

 すごくめんどくさい感じのあなたの担当ウマ娘ですヨー。

 

 えっとですね。トレーナーさんはいきなり手紙を渡されて戸惑っていることと思いマス。

 

 トレーナーさんがこれを読んでいるときはたぶん有馬記念の祝勝会のときかな。

 いや、もしかしたら残念会かもしれないけど。

 

 えーと、ね。

 面と向かって言うにはちょっと恥ずかしすぎるので今回、アタシは手紙を書きました。

 

 トレーナーさんに伝えたいことがたくさんあるんだ。

 

 あのね。トレーナーさん。

 いつも一緒にいてくれてありがとう。 

 

 こんなめんどくさいアタシがここまで走ってこれたのはトレーナーさんのおかげなんだ。

 

 トレーナーさんがいてくれなかったら、アタシはきっと途中で諦めてた。

 

 自分なんてどうせこんなもんなんだからって言い訳して、殻を作って、いじけて、キラキラの主人公にもなれないまま走るのをやめちゃってたと思う。

 

 でもね。

 アタシがくじけそうになるたびにトレーナーさんは励ましてくれた。

 ダメなところがたくさんあるアタシなのに、そんなアタシでもいいんだよって認めてくれた。

 

 良いところをたくさん見つけてくれた。

 

 勝てなかったときも次は勝てる、だから頑張ろう。ネイチャを信じてるって言ってくれたよね。

 

 トレーナーさん。

 いつもアタシを信じてくれてありがとう。

 

 アタシさ、素直じゃないんだ。

 本当はすごく嬉しかったのに、減らず口ばかり叩いちゃってさ。

 

 いつももっと素直になれたらな、って後悔してた。

 だけど、そのアマノジャクも今日で終わり。

 

 トレーナーさん。

 聞いてくれますか。

 

 アタシ、トレーナーさんのことが好き。

 likeじゃなくて、loveって意味で、ひとりの男の人としてトレーナーさんのことが大好きです。

 

 うん。ごめん。わかってるんだ。

 こんなこと急に言い出すなんて重いかな、って。

 

 でもね。

 アタシ、自分の気持ちにもうウソをつきたくないんだ。

 

 あなたの声を聞くたびに。

 あなたの手に触れられるたびに。

 

 アタシはすごく幸せな気持ちになれました。

 

 トレーナーさんの作ってくれたへろへろのトロフィーはアタシの宝物です。そこにはアタシとトレーナーさんの思い出がたくさんたくさん詰まっているから。

 

 思い出、これからも増やしたいな。

 トレーナーさんとずっと一緒にいたいよ。

 

 もし、選んでくれるのなら……結婚だって、してもいいよ?

 それぐらいアタシはトレーナーさんが大好きです。

 

 だけど、不安なんだ。

 トレーナーさんは優しいからさ。

 

 本当はアタシのことなんてなんとも思ってなくて、ただ担当ウマ娘として優しくしてくれているだけなんじゃないか、って。

 

 そう思うと胸が苦しくなるんだ。

  

 トレーナーさんはアタシのことをどう思っていますか?

 

 あの日、トレーナーさんが言ってくれた「キミが一番大事だよ」って言葉をまだ信じていてもいいですか?

 

 もし、アタシを選んでくれるのなら。

 

 この手を繋いでくれますか?

 

 

 

 トレーナーさんのお返事、聞かせてくれるかな?

 

 庭園の三女神像の前で待ってます。

 

 ナイスネイチャより。

 

 

 

 

 

 庭園。

 トレーナーはそこに来ていた。

 ナイスネイチャがいないのはわかっていた。だが、行かない理由なんてあるのだろうか。

 

 辺りは夜の闇に包まれ静まりかえっている。街灯の明かりだけがうっすらと地面を照らしていた。

 冬の空気が肺を刺す。自らの足音だけが耳を打つ。噴水の水流の音が少しずつ大きくなってゆく。

 

 三女神像の前に着いた。

 噴水の近くのベンチに腰を降ろす。ため息。

 

「待ってる、か」

 手紙に視線を落とした。

 

 

 トレーナーさんとずっと一緒にいたいよ――。

 

 

「……ネイチャ」

 

 肺の奥に刺々しい氷の針が刺さっているような息苦しさを感じた。どうして自分はひとりなんだろう? なんでもう彼女はいないんだろう? 希望は失われた。世界は海の底のように暗い。もう生きていく意味など――。

 

 頬を涙が伝った。

 その時――。

 

 そっとトレーナーの手に誰かの指先が差し出された気がした。隣に誰かが座っている気配がした。はっきりと見えるわけではない。でも、確かにその熱を、気配を、よく知っている雰囲気を間違えるはずがない。

 

 ――泣かないで、トレーナーさん。

 

 まるで、彼女が自分に力を与えてくれたかのように心が軽くなるのを感じた。まるで彼女の優しい想いが伝わってきたかのようだった。彼女は――闇を取り除き、代わりに熱を託して、消えた。

 

「ネイチャ……?」

 振り向いた。

 しかし、そこには誰もいない。

 

「……」

 トレーナーは立ち上がった。

 白い吐息が立ち登り、星空に溶けていった。

 

(最後まで――こんな俺のために)

 

 視線を降ろす。

 そこにあるのは三女神の像だけ。

 ふと、マーベラスサンデーから聞いた話を思い出す。

 

 ――トレセン学園には神さまがいるって!

 

 ――シラオキさまっていう神さまなのー! 栗毛の可愛いウマ娘の神さまなんだって! シラオキさまにはね! 時を越えるマーベラスな力が――。

   

 ――ただ、それには代……償……? っていうのがいるんだってー?

 

「はは……そんなおとぎ話」

 

 でも。

 もしも、本当にそんなことが出来るというのなら。

 

「……シラオキ様。俺はどうなってもいい。代償なんざ、いくらでもくれてやる。だから……」

 

 彼女を取り戻したい。

 最後の瞬間まで自らよりも他者に愛を向けるのがナイスネイチャという少女の在り方であるというのならば、彼女のトレーナーである自分もまたそう在るべきだ。

 

「もし、奇跡を起こせるというのなら、あの子が……ネイチャが生きている未来って奇跡をくれないか」

 

 目を瞑った。

 すると――声が聞こえた。

 

「たとえ――それが貴方の命の大半を差し出すことになったとしてもですか?」

 

 弾かれたように顔を上げると、そこには一人の少女が立っていた。巫女装束に身を包んだ栗毛のウマ娘だ。うっすらと全身に光をまとっている。

 

「たとえ奇跡が成ったとしても、彼女の隣にいられる時間は僅かにしか残らないでしょう」

 

 いよいよ自分は頭がおかしくなったんだろうか。

 

 ああ、そうだ。そうに違いない。

 もしかしたら幻聴や幻覚の類いなのかもしれない。

 だが、もし本当に奇跡があるのだとしたら?

 馬鹿げた考えなのはわかっていた。

 

 だが、すがれる奇跡があるのだとしたら、形振りなど構わなかった。目の前の少女をまっすぐと見つめた。

 

 ――おそらく、この少女がシラオキ様なんだろう。

 

「ああ、構わない。俺なんかの命で済むなら使ってくれ。ネイチャが生きてくれさえいれば、それで」

 

 ナイスネイチャのいない世界なんて考えられない。ナイスネイチャが生きて笑っていてくれる未来がないなんて受け入れたくない。だから、迷わなかった。

 

「彼女の死は運命が望んだことです――誰かがその死の運命を肩代わりしなくてはなりません。つまり、あなたが背負うことになります。それでもいいと仰るんですね?」

 

「わかった。それでいい」

 

「……本気なんですね。ああ……この奇跡は成る。この取引は成立してしまいます。わかりました――」

 

 ――シラオキの身にまとう光が大きくなってゆく。

 トレーナーは思わず目を閉じた。

 

「もし、ここから運命を変えられるとしたら。それは、あの少女が――」

 

 

 

 そして時は――巻き戻る。

 

 

 

 

 

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