一途な恋の弓矢   作:樂川文春

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5話をスキップした方向けに5話のあらすじを書きました。


5話 あらすじ
レース中の事故で帰らぬウマ娘となったナイスネイチャ。
彼女の遺した手紙にはトレーナーへの恋慕の想いが綴られていた。
後悔し、絶望するトレーナーの前に女神シラオキが現れる。
シラオキの力により時間を巻き戻せる。それを知ったトレーナーは時を越えることを決断する。
しかし、その代償はナイスネイチャが背負うはずだった「死の運命」をトレーナーが肩代わりするというものだった。



第6話 流転

 

 

 

 

 

 光が収まり――するとそこは――。

 

 

 暖房を入れた室内は暖かく、陽射しが結露した窓ガラスを通して室内に入り込んでいる。床に置かれた加湿器がうっすらと蒸気を放つ。つけっぱなしのテレビの音。

 

『トゥインクルシリーズの情報をお届けするウマ娘総合情報番組UMAナミ・ズQN! はじまりましたー!』

 

 トレーナーは気が付くと違う場所にいた。見慣れた景色だった。ソファー、ガラスのテーブル、テレビ、小さな冷蔵庫、窓辺のポインセチアの花――。

 

「……ここは? トレーナー室、か?」

 

 どうやら仕事机の前の椅子に自分は座っているらしい。目の前のパソコンの画面を見る。当の昔に片付けたはずの案件が未了のまま、表示されていた。

 周囲を見渡す。室内は陽が射し込んでいて明ほるい。朝だった。窓枠の影が床に映し出されている。

 

 ホワイトボードの文字が目に飛び込んできた。

 

 

 目標レース 有馬記念(12月25日)

 

 本日 12月11日

 ナイスネイチャのトレーニングプラン

 

 午前 ダートコース 5周

 課題 ギアの切り替え

 

 午後 ジムにて筋トレ

 課題 瞬発力の強化

 

 追加事項 本日 午前10時45分からUMAテレビ主宰による模擬レース有り

 

 右回り芝2500メートル

 天候 晴れ 芝状態 良

 

 ナイスネイチャはトレーニング専念のため出走辞退

 だが、本番の参考のために見学を予定

 

 

 二週間前の日付がそこには書かれていた。

 とっくに終えたはずのトレーニングプラン。

 

 窓の外から声が聞こえてきた。

 

 

 ――みんなー! 声出していこー! おー!

 

 ――ふぁいおー、ふぁいおー、ふぁいおー……。

 

 

 蹄鉄を着けたシューズが地面を叩きつけるどどど、という音の振動が窓の下を通りすぎてゆく。

 

「まさか……本当に帰ってきたのか……? 時を越えた?」

 

 つけっぱなしのテレビ。なんだか聞き覚えのあるような内容が耳に入ってくる。たしかこれは模擬レースが行われた日に放送されていた番組じゃないだろうか。

 

『さあ、いよいよ二週間後に迫ってまいりました。暮れの大一番グランプリ有馬記念!』

 

『今日の特集では有馬記念に出走する有力ウマ娘たちからインタビュー映像を頂いてまいりました! それに加えてーー』

 

『なんと! UMAテレビの特別企画として有馬記念と同じ距離である芝2500メートルの模擬レースを開催します!』

 

『本番の有馬記念に出てくる有力なウマ娘も何人か出走しますよ! 模擬レースのほうは生放送ですから、一足早く、まるでグランプリを観戦するような興奮が味わえそうですね! 実況はご存じお馴染みの赤坂アナウンサーです! チャンネルはこのまま!』

 

『……ではいったんここでコマーシャルでーす!』

 

『プリン! プリン! プリンにしてやるの! 美味しいにんじんプリンはみやこ製菓! 新商品プリンニシテヤルノ! 全国のスーパー、コンビニ、UMAストアで好評発売中!』

 

 

 やはりそうだ。今日は12月11日。ちょうど二週間前。本当に時間が戻ったのだとしたら――。

 脳裏に浮かぶのは愛しい少女の姿。

「……ネイチャが……生きている?」

 トレーナーは立ち上がった。探しにいこう。

 

 

 

 

 

「むむむむむ……」

 マチカネフクキタルは水晶球を睨み付けて、怪しげな手つきでその上に手をかざしている。その背後では気弱そうに眉をひそめたメイショウドトウが控えていた。

 その正面に座るのは学園指定のトレーニングウェアを着たナイスネイチャ。

 

「それで……フクキタル。どうなの……アタシの……」

 ナイスネイチャはそこで言いよどむ。

 

「その……」

 頬が赤く染まり、うつむく。

「……恋愛運」

 

 マチカネフクキタルが顔をあげた。

「ナイスネイチャさん……」

 

 ごくり、とナイスネイチャは喉を鳴らした。

 

「貴女の未来は……」

 

 くわっ、と目を見開くマチカネフクキタル。

 

「成就ですっ!」

「マジっ!?」

 

 ナイスネイチャは椅子からがたっと立ち上がった。目を丸くして、ウマ耳がぴょいぴょいと反応する。

 

「はい! 待ち人来たれり、願い叶う、想い通じる、相思相愛と出ました!」

「完璧じゃんっ!? うしっ! や、やった……!」

 

 小さく握りこぶしでガッツポーズをするナイスネイチャ。しっぽが興奮した様子でぶんぶん振られる。相思相愛で成就ってことはつまり、こ、恋人になれたり、け、結婚なんかもしたり!? 未来は明るい? ナイスネイチャは舞い上がるような気持ちになった。

 

「……あれ?」

 しかし、マチカネフクキタルは水晶球を見つめて、眉をひそめた。怪訝そうな表情をする。

 

「どうしたんですか~?」

 メイショウドトウが首をかしげる。マチカネフクキタルは腑に落ちないといった顔をした。

 

「……おっかしいですねえ。結果が二つあるんです。普通は占いの結果はひとつしか出ないはずなんですが」

「二通りの未来が出たということですか~?」

 

 メイショウドトウの問いかけにうなずくマチカネフクキタル。なんだか不穏な気配だ。雲行きが怪しくなってきたぞ。ナイスネイチャは一気に冷静になる。すると自分がどれだけ浮かれていたかに気付き、恥ずかしくなった。

 いそいそと澄まし顔で黙って席についた。

 

「えーと。……そうなの? もしかして片方は叶わない恋のパターンとか?」

 

 いかにも、冷静に受けとめてますよー? ネイチャさんはそう、狼狽えないからねー? とでも言いたげな神妙な表情である。マチカネフクキタルは言った。

 

「ああ、いえ、そこは安心してください。安心沢先生の笹針治療なみにあんしーんしてください!」

「それ安心できなくないっ!?」

 

 ナイスネイチャの澄まし顔はあっさりと崩壊した。

 

 安心沢刺々美。自称次世代の超天才笹針師。彼女の神業的な笹針術を施されたウマ娘は驚異的なパワーアップをすることができる――と、噂されている。

 ただし、成功率は二割以下。失敗するとバクシンしないバクシンオー並に恐ろしいナニカに変貌する、らしい。

 

「まあ、それは置いといて」

「置くんかーい!」

 

 マチカネフクキタルはふむふむ、と水晶球の示す未来の情報を精査してゆく。

 

「どちらの結果でも恋愛成就なのは変わりないです。ですが……内容はだいぶ違いますねー。ふむふむ? 片方はなんというか、これ以上ないぐらいの大大吉みたいです。もしこっちだけならふんにゃらハッピー……なんですが」

 

「……なんですが~?」

 と、メイショウドトウが横から相づちを打つ。

 

「もう片方は……成就すれど、長い孤独の縁が出ています。……運命の力としてはこちらのほうが強い気がします。まるでこちら側が本流かのような」

 

 メイショウドトウが両手をお祈りみたいに組むと、マチカネフクキタルにすがるような眼差しを送る。

「はうう……そんな~、救いはないのですか~?」

 と、訊いた。

 

 ナイスネイチャとしても気になるところである。ぐるぐると考え始める。成就したのに何やら不吉な兆し――。

 

(長い孤独、ねえ……? はっ! も、もしかして離婚とか? 成就したのに即離婚とか成田離婚じゃあるまいし!)

 

 成田離婚とは新婚旅行に出かけた夫婦が旅先でお互いの本性に幻滅し、帰ってきたあと即離婚する現象のことをさす。

 ナリタといっても生徒会の某三冠ウマ娘や、孤独癖のある某皐月賞ウマ娘とはなんの関係もない話である。

 

「こ、孤独の縁って……アタシもそれは困るなー……げ、幻滅されない方法ってあるかな?」

 

 ナイスネイチャは頭のなかで「君とはもう離婚だ! ネイチャ!」とトレーナーに置いていかれそうになって「やだー! アタシを置いていかないでー!」と彼の胴体にしがみつきずるずると引きずられる自分の姿を幻視する。

 

 なお、実際に行った場合、ナイスネイチャにしがみつかれたトレーナーは彼女を引っ張るどころか、ピクリとも動けないだろう。

 

 下手するとジャーマン・スープレックスを「どっせーい!」と大きな株を引っこ抜くような勢いで仕掛けられかねないのはトレーナーの方である。

 

 ウマ娘の身体能力は成人男性をはるかに上回るのだ。見た目は可憐で美しい少女でも侮ってはいけない。

 

「は? げ、幻滅……?」

 マチカネフクキタルは首をかしげた。何を言われているのかさっぱりという顔をする。

 ナイスネイチャは慌てて言い換える。

「だ、大吉にするにはどうしたらいいの?」

 マチカネフクキタルは表情をあらためて、

「ふむ、占ってみましょう」

 と、承ったとばかりにうなずいた。

 かざした手のひらから念を放つように水晶球に力を送り込み始める。念、念、念。すると水晶球が光りだした。これがシラオキ・パワーだろうか。

 

「ふんにゃらーほんにゃらー、シラオキ様~。道はどうすれば開けるかお教えください~……出ました! 開運のヒントは……」

 

 マチカネフクキタルはまなじりを決して、

「愛です!」

 と、力強く告げた。

 

 ナイスネイチャは困惑した。

「あ、あい? どういうこと?」

 

 マチカネフクキタルは、

「それはわかりませんっ! ですが、シラオキ様が伝えたいことはわかります。それは……! 運命を変えられるのは自分次第だと!」

 と、言い切った。

 

「おおっ! さすがシラオキ様いいこと言うじゃんっ!」

「ではお代は千円になりますっ!」

 

 しゅびっと手のひらを差し出してくるマチカネフクキタル。案外、良心的な料金設定である。開運グッズを買うのにもお金はいるから、とは本人談。

 

「ほーい。はい、これ代金。じゃあアタシ行くから。ありがとね。フクキタル、ドトウ」

 

 ナイスネイチャは代金を支払うと、しっぽを揺らして、まるでいまにもスキップで踊りだしそうなほどに機嫌良く帰っていった。

 

 その場に残されるふたり。沈黙が流れる。

 やがて、ぽつりとメイショウドトウが呟いた。

 

「あの~……それ、本当にヒントに……なっているんでしょうか~? おおざっぱ過ぎるような~……?」

 

 首をかしげるメイショウドトウ。そんな彼女にマチカネフクキタルは抗議の声をあげる。

 

「む。シラオキ様を疑うのですか、ドトウさん! そんなあなたの未来も占って差し上げましょう! ふんにゃらー、ほんにゃらー、出ました! ポケットティッシュが十連続! 大大凶です!」

 

 シラオキ様、意外と大人げない。

 

「ひどい~」

 

 

 

 

 

 トレセン学園の廊下にはウマ娘たちの小さなグループがちらほらと点在していた。模擬レース楽しみだね? 早く行かないと席埋まっちゃうかも? そんな声が何処からともなく聞こえてくる。ささやかな熱気と期待感を帯びた言葉がまるで木々の葉擦れのようにそこここで交わされており、生徒たちはそこはかとなく浮わついた雰囲気を醸しだしていた。

 

 澄んだ冬の空気。よく晴れた日の朝。長い直線廊下の窓の列から陽光が伸びて、丹念に磨かれたリノリウムの床へくっきりと格子状の影を映しだしていた。

 

 ナイスネイチャは歩く。一歩進むごとに陽の光がその姿を変えて、きらりきらりと反射した。窓硝子。青空と白い雲が左手側を流れてゆく。

 

 階段を登り降りする響きや、扉の引き戸が閉まる際の残響音。少女たちの会話する声、靴が床を打つ足音。トレセン学園のなかは今日も人々の気配に満ちている。

 

 ナイスネイチャの右手側を模擬レースの告知パンフレットを手にしたウマ娘たちが通りすぎる。誰が勝つと思う? それはやっぱり――。会話の声が遠ざかってゆく。

 

 壁際の掲示板にはチーム募集の案件が書かれた手描きのポップが複数、それと有馬記念の告知ポスターが貼られていた。その図案は有馬記念に出走する予定のウマ娘たちが集結したもので、中央には大本命と目されている少女マーベラスサンデーの姿が描かれている。

 

 ナイスネイチャはトレーナー室に向かっていた。機嫌は大変良く、しっぽを振っている。ウマ耳もはしゃぐようにぴょいぴょい揺れていた。良い気になって口元が緩みそうになるのを抑えようとしては、やっぱり気が抜けて緩んでしまう。瞳には恋する乙女の潤んだ光が宿っていた。

 

「……ふふっ」

(恋愛……成就かー)

 

 いい響きだった。何年も育ててきたこの想いは実るのだとシラオキ様からの太鼓判である。

 

 そんなことを考えながら歩いていると、向こうから黒髪の少女がやってくるのが見えた。その少女も同時にこちらに気付いたようだった。パッと表情を輝かせる。

 

「おお~っ!? ネイチャだー! わーい! ネイチャー!」

 

 マーベラスサンデーだった。羽ばたくように両手を広げて、こちらにスプリントダッシュを仕掛けてきた。

 

「あ、マーベラス。って廊下では大声ださないの。校内では静かに走る、っていわれてるよね?」

「マーベラース! 細かいことは気にしなーい!」

 

 あっという間にナイスネイチャのもとに到着したマーベラスサンデーは、じゃれつく犬のようにぐるぐるとその周りを回り始めた。しっぽもウマ耳もぶんぶん揺れている。親友のナイスネイチャに対する好意の現れだった。

 

 やがて、ナイスネイチャの正面に立ち止まる。にこにことした笑顔のまま、こちらを見上げてくる。そんなマーベラスサンデーはトレセン学園指定の体操着姿だった。胸には11番のゼッケンをつけている。

 

「ねえねえ、アタシね! これから模擬レースなんだー!」

 

 そう告げたマーベラスサンデーは閉じた傘のように両手を腰の横にあわせながら上体をリズムよく揺らす。彼女は感情豊かであり、常に物事を楽しんでおり、期待感の現れとしてそわそわとした動きをすることが多い。

 今にも踊りだしそうなマーベラスサンデーを見て、ナイスネイチャは得心したようにうなずいた。

 

「あー……朝からテレビ局の人たち来てるもんねー。なんだっけ? 競技トラックのほうで行われるんだっけ?」

 

 そう訊いたナイスネイチャにマーベラスサンデーは大正解! とばかりに両手をパッと天に掲げたあと、握り拳を作って熱心に提案するように胸の前でぐっぐっと振った。

 

「うん、そーなの! ネイチャも今から出ようよ!」

「いやいや、無茶だからそれ……」

 

 ナイスネイチャは肩をすくめて苦笑いをした。

 模擬レースの受付締切はとっくに終わっている。ナイスネイチャにも出走資格はあったのだが、今回は回避だ。

 マーベラスサンデーは耳を垂らした。

「そっかー……それは残念。……じゃあ応援はしてくれる?」

 しかし、すぐに気を取り直して、期待のまなざしをナイスネイチャに向けてきた。

「テレビ観戦になるけど見てるね」

 と、ナイスネイチャが告げると、

「観客席あるよー? ネイチャは見に来ないの?」

 マーベラスサンデーは不思議そうに目を丸くする。ナイスネイチャは視線をそらし頬を染めた。気まずそうに頬をかく。言い訳がましくゴニョゴニョと言葉を重ねる。

 

「うーん、それもいいけど……えーと、ほら、外寒いしさ。風邪ひくと? いけませんし?」

 

 そのとき、マーベラスサンデーの瞳に閃きの光と理解の色が走る。

「あ! わかったー! ネイチャ、トレーナーさんと二人っきりになりたいんダー!」

 と、嬉しそうにしている。

 

「うぇっ!? ば、ばかー! そんなこと大声で言うなー!」

 

 ナイスネイチャは上ずった声でうめいた。慌てて辺りをきょろきょろと見渡しながら、マーベラスサンデーの肩に手をまわして隠すように抱き寄せる。マーベラスサンデーは腕の中でひな鳥のようにぴーちくぱーちくと口を開く。興味津々といった様子でナイスネイチャを見上げた。

 

「ねえねえ! ネイチャとトレーナーさんはいつ結婚するの?」

 

 コウノトリはどこから来るの? とでも訊いてくる幼子のように純粋な瞳を向けてくるマーベラスサンデー。

 ナイスネイチャはびしりと固まった。 

 

「ちょっ」

 

 マーベラスサンデーは善意と親切心をその瞳に乗せて、ふんすと拳をにぎって明言する。大声で。

 

「あのね! おばあちゃんが言っていたんだけど、好きな人と……えーと、添い遂げる? と、すごくマーベラスな気持ちになれるって言ってたの! マーベラス、つまりそれは幸せってこと! アタシね! ネイチャに幸せになってほしいのーーー!!」

 

「うにゃあああっ! うにゃあああああっ! その口か! いらんことを言うのはその口かー!」

 

 ナイスネイチャの指先によって、モチのようにぐーんと伸びるマーベラスサンデーのほっぺた。

 

「ふぁーふぇふぁーす!(マーベラース!)」

 

 マーベラスサンデーは楽しそうにしている。されるがままである。というか、ただのスキンシップぐらいにしか考えていない。照れる親友の姿に嬉しくなる。マーベラスサンデーとしては、ナイスネイチャとトレーナーさんは仲良しだから、結婚したらもっと幸せになれてマーベラス! という気持ちを正直に伝えただけのつもりである。

 

 そんなふうに二人がじゃれあっていると――。

 校内放送が流れ始めた。

 

『ぴんぽんぱんぽーん』

 トレセン学園の理事長秘書、駿川たづなが直接読み上げるスローテンポなアナウンス音。

 

 二人は揃って天井を見上げた。

 

 わずかに間を置いて、

『模擬レースに参加するウマ娘のみなさーん。競技トラックのほうへ移動をお願いしまーす』

 おっとりのんびりとした牧歌的な雰囲気でウマ娘たちに指示を出すのであった。

 

 放送が終わった直後、校内はにわかに活気付く。もう始まるらしいよー。いこいこー。などとウマ娘たちが移動する気配が深まる。話し声とともにあちらこちらから扉を開ける音や足音などが聞こえてきた。

 

「……って、ほら、マーベラス呼ばれてるよ!」

 ナイスネイチャはマーベラスサンデーの頬を離すと、その背中を送り出すように軽くはたいた。

「行った行った!」

 マーベラスサンデーはうなずく。

「うん、わかったー!」

 駆け出してゆく。振り向きざまに手を振ってくる。

「ネイチャ応援しててねー!」

「はいはーい」

 手を振り返すナイスネイチャであった。

 

 

 

 

 

 ナイスネイチャはトレーナー室の前にたどり着いた。

 扉を開けるまえに心の整理を始める。

 

(マーベラスめー……。ネイチャとトレーナーさんはいつ結婚するの? だなんて。そんなこと言われたらますます意識してしまうじゃん……アタシ、顔赤くなってないよね?)

 

  ナイスネイチャはクールダウンするように両頬をぺちぺちと叩く。胸に手を当てて深呼吸をした。髪を手櫛で整える。身だしなみも確認する。トレセン学園指定の冬の制服姿もばっちり。ちゃんとシャワーも浴びてきたし問題なし。いつも通りのナイスネイチャになっている、はず。

 

(いつも通りいつも通り……よし)

 そして、トレーナー室の扉を開けた。 

 

「おいっすー。トレーナーさん、午前のトレーニング終わったよー」

 

 ――しかし、そこには誰もいない。

 点けっぱなしのテレビが音と光を放っているのみだった。室内は暖房がついていて暖かった。拍子抜けした様子でナイスネイチャは中に足を踏み入れる。

 

「ありゃ……いないのかな」

 

 どこかに出かけたのかな? 部屋のなかを見回す。ソファーの前のガラステーブルにはトレーナーのスマートフォンが置かれたままだった。

 次に壁に吊り下げられたトレーナーの外套を見つめる。携帯電話を持たず、防寒着も羽織ることもせずに出かけたのであれば、遠くに行ったわけではないのだろう。

 じゃあ待っておこうかな――と考えながら、何とはなしに外套を眺めていると気付いたことがある。ナイスネイチャは歩みよった。じっと近くで観察する。

 

(……けっこうクタクタになってるよね、このコート)

 

 クリーニング代も積み重なるとけっこうな出費である。洗ってあげようかな? 丸洗いできるタイプだっけ、これ? と外套のタグを見ようと手に取って裏返した。

 

 すると、そのポケットから何かが床に転がり落ちる。

 手のひらに乗るサイズの小箱だった。

 

「なんだろ、これ」

 ナイスネイチャは拾って蓋を開いた。

「……え?」

 息を飲む。

 

 そこに収まっていたのはシンプルな指輪だった。トレーナーが身に付けるにはサイズが小さすぎる。明らかに女性用のものだ。

 その輝きはどう見ても本物の金の質感で、デザインもやや地味ではあるが決して安っぽくはない。

 

 直感的に思う。

(婚約指輪……?)

 なぜ? なぜ、彼はこのようなものを?

 

 すぐに答えへたどり着いた。そんなの決まっている。婚約指輪を持ち歩く理由なんて近々誰かにプロポーズをしようと思っているからじゃないか。

 

 すると、だれに? という疑問が頭に浮かぶ。

 もしかして贈る相手は――。

(アタシ?)

 いや、そんなわけがない。何を夢見ているんだろう。

 まだ告白もしたわけじゃないし、されたわけでもない。自分とトレーナーは恋人関係なんかじゃないのだ。

 

 つまりトレーナーは自分の知らない女性と付き合っていて、結婚を誓い合うような仲で……?

 

 ナイスネイチャが混乱し始めたそのとき、背後で扉が開く気配がした。

 

 

 

 

 

 時は少しだけさかのぼる。

 

 トレーナーはダートコースに向かっていた。

 たしか、あの日の午前はナイスネイチャはそこでトレーニングをしていたはずだ。まだそこにいる可能性は高い。

 

 トレーナー室で彼女が帰ってくるのを待っていれば、会えるのかもしれない。だが、一刻も早く彼女の無事を知りたい。その一心だった。まだ失われていないのだと、彼女は生きているのだと。逸る心が足を前へ前へと動かそうとする。とても待ってなどはいられなかった。

 

 彼女の笑顔を、優しい声を、その熱を、暖かな心をすべて取り戻したのだと確かめたかった。求めていた。愛しい少女の生きている証を。希望を。

 

 やがて、到着する。

 トレセン学園のダートコース。ちらほらとウマ娘たちの練習している姿が見えた。砂ぼこりが朝焼けの空気のなかにうっすらと浮かび上がり、少女たちが向こうから駆けてきては砂を踏みしめる音とともに通りすぎて、カーブの向こうへ消えてゆく。靴の裏の蹄鉄が砂を掴み巻き上げる。その後ろからトレーニングをしている小集団がウォーミングアップ程度の速度で走り去っていった。

 

 すいーつ、すいーつ、すいーつ――。

 少女たちが声を併せてリズムよく歩様を刻む。だだだ、と前方を横切ってゆく。集中しているようで、外ラチの柵の前に佇むトレーナーを振り向くこともなかった。

 

 なんの変哲もない、いつも通りの練習風景。

 

 その長閑とすらいえる光景に気が削がれる。ずいぶんと急いで走ってきたから呼吸が乱れていた。膝をついて、肩で息をする。ため息。自分は何をやっているんだ。

 

 自嘲の笑みがこぼれた。

 

 冷静にならなければ。ずいぶんと混乱していたらしい。これではトレーナー失格だ。思えば、こんなふうに冷静な判断ができないからこそ、担当ウマ娘を死に追いやってしまったのではないか?

 脳裏に冷たくなった少女の顔がフラッシュバックする。不幸に追いやった。彼女も。彼女の大切な人たちもみんな。そうだ。それは自分のせいなのだ。

 

 だから、今度こそは間違えないようにしないと。

 

 ――その死の運命を肩代わりしなくてはなりません。つまり、あなたが――。

 

 女神シラオキの言葉が脳裏によみがえる。

 

 もちろんだ。こんな自分なんかどうなったっていい。彼女の代わりに死ねるなら本望だ。それにナイスネイチャの隣に自分はいないほうがいいのかもしれない。

 

 だが、自分は彼女のトレーナーだ。ナイスネイチャという少女のトレーナーなんだ。彼女が幸せになれるように手を尽くす。それがせめてもの罪滅ぼしだ。

 

 ――しばらく待ったが、ナイスネイチャが駆けてくる気配はない。ここにはもういないようだった。すれ違いになってしまったらしい。

 

 トレーナーは踵を返した。

 

 

 

 

 

 ――ナイスネイチャの背後で扉が開く気配がした。

 

 ナイスネイチャは慌てて外套のポケットに小箱を突っ込むと、元の場所に外套を吊るした。振り向く。

 

 そこにいたのはトレーナーだった。

 

 今の瞬間を見られただろうか? いけないことをしてしまった気がして、気まずさと罪悪感がナイスネイチャの胸中に貼り付いた。ちらりと上目遣いでトレーナーの様子を伺う。トレーナーはおばけに出会ったような顔をして固まっている。ナイスネイチャは泣きたくなった。

 

(うう、トレーナーさんそんな顔しないで。アタシ、見るつもりじゃなかったんだって……)

 

 ナイスネイチャとトレーナーの視線が絡み合う。

 やがて、トレーナーが幽鬼じみた足どりでナイスネイチャの前にやってきた。ナイスネイチャは口元を固く閉じて、ぎゅっと目をつぶる。無言のまま、彼がこちらを見つめてきていると感じた。

 

 ――その時間がしばし続く。

 ナイスネイチャは焦りはじめた。

 

(なんでなにも言わないの? 怒ってる? 怒ってるよね、トレーナーさん。そ、そうだよね。勝手に人のコート漁って、トレーナーさんのその、大切な人――に贈る予定の婚約指輪見ちゃったんだもんね。アタシ最低だよね)

 

 恐る恐る目を開ける。顔をあげた。傷付いたような表情のトレーナーの姿があった。ますます、罪悪感が深まった。彼が息を吸う気配。何かを言おうとしている。怒られる? ナイスネイチャは狼狽えた。とっさに口が開いた。

 

「ごめん!」「すまない!」

 

 二人は同時に謝った。

「……ふぇっ?」

 ナイスネイチャはぽかんとする。

 なんでトレーナーが謝るの? そんな想いで見つめているとトレーナーの目に涙が浮かびはじめた。ナイスネイチャはびっくりした。混乱してしまう。

 

(泣くほど辛かったの!? ご、ごめん! どうしようどうしようどうしたら!?)

 

 ――抱きすくめられた。

 

「……うぇっ!?」

 ナイスネイチャの思考は振り切れた。

 

「ネイチャ……! ネイチャ……!」

 トレーナーはナイスネイチャを抱きしめたまま、大粒の涙をこぼし続けた。全身から深い悲しみがほとばしっていた。もう離さないとばかりに背中に手が回される。トレーナーはうなされるように何度も少女の名前を呼んだ。

 

「すまない……! ネイチャ! すまなかった……!」

 

 尋常じゃないその様子にナイスネイチャは呆気にとられる。トレーナーがここまで感情を露にして泣くのは今までに無いことだった。しばらくされるがままのナイスネイチャだったが――やがて、ぽつりと呟いた。

 

「……トレーナーさん?」

 

 その声にトレーナーは我に返ったようだった。ナイスネイチャを引き離す。視線がぶつかり合う。ほどなくトレーナーは下を向いた。何かを言おうとして言えず、口を閉じる。明らかに様子がおかしい。ナイスネイチャは眉をひそめた。彼の腕に手をそえる。不安と心配がない交ぜになった表情で訊いた。

 

「何かあったの……?」

 

 

 

 

 

 トレーナーはソファーに座っていた。ナイスネイチャが温かい飲み物を持ってきた。湯気をたてるマグカップが足の低いガラステーブルの卓上に置かれる。ナイスネイチャは彼の隣に腰を降ろした。肩と肩が触れあう。

 

「テレビ消そうか?」

「……いや、大丈夫だ」

「……そっか。音量は下げとくね」

 

 ナイスネイチャはリモコンを手に取った。室内の音が小さくなってゆく。画面のなかではインタビューを受けるナイスネイチャとトレーナーの姿が映っていた。リモコンを置いた。揺らぎのような気配が生まれる。

 

 やや間があって、

「それで……?」

 ナイスネイチャがトレーナーの膝に手を置く。その横顔を見る。憔悴しきった彼の表情は痛ましかった。

 

「どうしてトレーナーさんは泣いていたの?」

「……それは」

 言いよどむ気配。ナイスネイチャは身を乗り出す。

 

「どうしても言いたくない? アタシなんかには話せないこと? アタシ、そんなに頼りにならない?」

 

 ナイスネイチャは畳み掛けた。こんな言い方をすれば、彼がどう答えるかはわかっていた。

 

「そんなことは……ない」

 

 トレーナーはそう言って押し黙る。涙のあとが頬に残っていた。それほどまでにその心は痛めつけられてしまったというのに彼は頑なに話そうとはしない。

 

 直感だ。この人は何か隠している。重要なことを。

 いま聞き出さないといけない、と感じた。この人がどこか遠くに消えてしまう前に。そんな予感があった。

 

「じゃあ、教えてよ」

 

 わかっていた。無理やり聞き出すなんて最低だと。嫌われたくない。傷付けたくない。それでも。

 ナイスネイチャはそんな臆病な心を押さえつけて、言葉を続けた。立ち向かわなければ、何も変わらないから。

 

「あのね……トレーナーさん。どうしても踏み込んじゃいけないことならアタシも身を引くよ。でもね……こんなに悲しそうなトレーナーさん見たらさ……ほっとけないじゃんか。助けたいじゃんか。だからさ――」

 

 少女は指先を伸ばす。彼の目もとに残った涙を優しく拭ったあと、その手をそっと包み込む。

 

 

「――泣かないで、トレーナーさん」

 

 

 トレーナーははっとした様子でナイスネイチャを見つめた。そして、押し黙ると目を閉じてうつむく。

 

 少女は待った。彼が話すときを。

 

 やがて、トレーナーはまぶたを開いた。ナイスネイチャのほうを見つめてくる。その目には覚悟が宿っていた。

「……わかった。ネイチャ、突拍子もない話になるけど、いいか?」

「……大丈夫。アタシ、トレーナーさんを信じてるからさ。どんな話でも受け入れるよ」

 ナイスネイチャは真剣な表情でうなずいた。

 

「……その、だな」

「うん」

「……信じられないかもしれないが。俺は……」

「うん」

「時を……越えたらしい」

「…………うん?」

 

 

 

 

 

 マグカップのなかの飲み物はすでに冷めきっていて、口をつけられることもなく卓上に置かれたままだった。

 

 ナイスネイチャは額に指先を当てながら、整理するような口調でこう言った。

「えーっと、つまりトレーナーさんは有馬記念の日から今日まで時を越えて戻ってきた、ってこと? シラオキ様とやらの力で?」

 トレーナーはうなずく。

「そう、みたいだ」

「しかも、アタシがその……故障? して、有馬記念で死んじゃうわけ?」

 と、ナイスネイチャが言うとトレーナーは訂正する。

「ああ。いや、正確には故障はしていない。バランスを崩して転倒したときに打ち所が悪くて……という事故だ」

 

 ナイスネイチャはむむむ、と目をつぶって言われた内容を吟味するように考え込んだ。

 やがて、目を開く。眉をひそめて困り顔になる。

 

「……たしかに受け入れるとは言ったよ? 言ったけど、さすがにタイムスリップなんてさ。突拍子もないよね」

「……だよな」

 

 トレーナーは肩を落とす。そうだ、こんな話を信じてくれるほうがおかしい。しかし、ナイスネイチャはそんなトレーナーの手を取った。トレーナーは顔をあげた。視線が絡み合う。彼女の目には穏やかな信頼の光が宿っていた。

 

「……ネイチャ?」

「でもさ……アタシ、信じたい」

 

 ナイスネイチャは照れ笑いをしたあと、

「ほら、アタシたちってさ。これでも結構付き合い長いじゃん? だから、トレーナーさんが嘘ついているとかついていないとか、わかる」

 と、柔らかなまなざしをこちらを向けた。

 

「……ねえ、トレーナーさん、なにか時を越えたっていう証拠はないの? ネイチャさんのこのめんどくさい理性の抵抗をなんとかできるヤツをばばーんとくださいな」

「証拠か……」

 

 テレビでは模擬レースが始まろうとしている。トレーナーはそれを見て思い付いたことがあった。

 

「今から始まる模擬レースの展開、着順、走破タイムは全部覚えているぞ? それで証明できないか?」

「え、そんなの覚えてんの?」

 

 ナイスネイチャがびっくりした顔をする。トレーナーは首を縦に振る。

 

「有馬記念と同じ2500メートルの模擬戦。出てくるウマ娘も一部は本番で出てくる。すごく参考になりそうだったからな。何度も見ているうちに覚えた」

「うわー、勉強熱心。じゃあ、まあ、訊いてみようかな。このレースどうなるの?」

 

 ナイスネイチャが興味深そうにこちらを覗き込んでくる。トレーナーは頭に叩き込んだデータを思い出す。

 

「まず、勝つのはマーベラスサンデー」

「ほうほう。まあ、本命だもんね」

 

 自分の親友の少女が強いのはよくわかっていた。とくに意外な結果でもなんでもない。続きを促すような視線をトレーナーに送る。ここまではまだ予想の範疇でしかない。

 

「走破タイムは2分34秒2。上がり3ハロンは37秒1。道中は四番手。第三コーナーでポジションを一つ上げて、最終コーナーに入るときには二番手にまで上がってくる」

「お、具体的になってきたねー。それで、ほかには? マヤノとかどう? 上位進出は確実そうだけど」

 

 二着か三着辺りかな? とナイスネイチャは考えた。マヤノトップガンという少女はマーベラスサンデーに負けず劣らず、現役最強クラスのウマ娘だ。

 

「マヤノトップガンは今回、着外に終わる。七着だ」

「へ? マヤノ強いよ? そこまで負ける要素ある?」

 

 にわかに信じがたい答えが返ってきた。ナイスネイチャは目を丸くする。そのままトレーナーは続けた。

 

「道中二番手につけて、そのポジションのままずっと進んでゆくんだが……逃げ争いにこだわって掛かってしまって、スタミナを使いきって直線で沈む」

「ふーん。マヤノがねえ……」

 

 そのあともレースに出走するウマ娘がどうなるかを説明した。全着順とその着差も含めて。そこまで当たれば、もはや予言だろうというレベルの内容だった。

 

 

 そして――。

 

 

『走破タイムは2分34秒2! 上がり3ハロンは37秒1です! マーベラスサンデー! 両手を振ってファンにアピール! 有馬記念の大本命はやはりこの子なのか! 遅れてきた大器にふさわしい走りでした!』

 

「ウソ……本当にトレーナーさんのいう通りになっちゃった。何から何まで……」

 片手を口元に当てて呆然とするナイスネイチャ。テレビの画面のなかでは全着順が表示されている。トレーナーの言った通りの数字がそこには並んでいた。

 

「……信じてくれた?」

 と、トレーナーが横目でナイスネイチャを見てくる。

「う、うーん。まさか生中継のレースをここまでぴったり当てられたらそりゃ、ねえ」

 これがトレーナー以外の誰かに観せられたものだったら、何かしらのトリックかとも考えただろう。

 だけど、傷付いた彼の表情や涙は本物だったし、なによりも自分の愛する人をこれ以上疑い続けるのは嫌だった。

 

 ナイスネイチャは肩をすくめた。

「トレーナーさん信じるっきゃないでしょー」

「そうか、ありがとう。ネイチャ」

 トレーナーは今日、初めて笑った。それを見たナイスネイチャは苦笑すると悪戯っぽいまなざしを向けてくる。

 

「それで? その未来を見てきたトレーナーさんはこれからどうしたいの?」

 

「……ネイチャ、その、だな」

「うん」

「有馬記念、出走取り消し……してほしい」

「……」

 

 ナイスネイチャは目を丸くしたあと、すぐに表情を改めた。トレーナーの言葉を待つ。ウマ耳がピンと立った。

 

「俺は……俺は……ネイチャに生きていてほしい。ネイチャが有馬記念に出たいって気持ちはすごく、わかっている。だけど、何かあってからじゃ遅いんだ」

「有馬記念を……回避?」

「……ああ」

 

 つかの間、無言の時間が流れる。テレビでは有馬記念の勝利者インタビューが行われるようだ。

 

『勝利者インタビューです――それでは本日の模擬レースを見事素晴らしい走りで――』

 

 画面の中ではマーベラスサンデーが元気よくインタビューに答えている。

 

『本番の有馬記念も期待が持てますね?』

 

『そーなの! アタシすっごく楽しみなのー! だってね! 有馬記念にはね! ネイチャが出てくるんだよ!』

 

『ナイスネイチャ選手……ですか?』

 

『うん! だってね! アタシ、ネイチャと走るのが夢だから!』

 

「夢……か」

 ナイスネイチャは指先を宙に伸ばした。何かを夢見るような遠い目をしたあと、ゆっくりと腕を降ろしてゆく。小さな吐息。膝のうえに手を降ろす。足元を見つめた。

 静かに顔をあげる。こちらを振り向いた。

 

「……うん、いいよ。トレーナーさんがそういうなら回避、しよっか」

 

 ナイスネイチャは弱々しく微笑んだ。ウマ耳がぺたりと力無く垂れている。膝のうえの両手がぎゅっと握られた。

 

「ネイチャ……」

 トレーナーが申し訳なさそうに肩を落とす。

 

 ナイスネイチャは今度は片手をひらひらさせて、

「も、もー。やだなあ。そんな顔しないでよ。トレーナーさんが傷付くことなんて、ないんだよ?」

 と、言った。

 

 テレビの画面ではマーベラスサンデーが飛びっきりの笑顔を見せている。

 

『ネイチャー! 見てるー? 有馬記念は一緒に走ろうね! アタシ待ってるよー! マーベラース! マーベラース! マーベラーースッ!!』

 

 インタビューは終わったようだった。画面が切り替わる。ナイスネイチャは話題を変えた。

 

「……マーベラスには謝らないとね」

「すまない……俺のほうからも彼女には謝っておく」

「ううん。いいの。それにさ。レースは有馬記念だけじゃなくてその先にもあるんだからさ。トレーナーさんもずっと一緒にいてくれるんだし」

 

 その言葉を聞いたトレーナーが押し黙る。

 

「……」

「……トレーナーさん?」

「え? あ、ああ。そ、そうだな。ずっと一緒に……」

 

(あれ? トレーナーさん今なにか嘘ついた?)

 ナイスネイチャは一瞬、違和感を覚えた。

 

「……一緒にいられるよね?」

「あー……」

 トレーナーは少し考える素振りを見せて、

「来年はほら、チームが結成されるだろう? でもネイチャなら頑張れば大丈夫だ、きっと」

「や、たしかに来年はそうだけどさー。厳しいのはわかっているけど。実績ないとチームから除籍されかねないし」

 

 質問の答えとしては間違っていないのだけれど――なんだかはぐらかされた気がする。

 

「それより今日はもうトレーニングを休みにしないか。有馬記念も回避したことだし。なんなら出かけるか? 行きたいところがあるならどこにでも連れていってやるぞ?」

「ん、珍しいね。トレーナーさんからそう言うの」

「……まあな。そんな気分になるときもある」

 

 トレーナーは寂しそうに笑った。

 ナイスネイチャは彼の気分転換になるのならと思い、

「……じゃあ、いっちょ出かけちゃう?」

 と、応えた。その時だった。

 

 ガラステーブルの上でトレーナーのスマートフォンが振動した。

 二人の視線が吸い寄せられる。

 『駿川たづな』と表示されていた。

 

「……無視しようか」

「や、トレーナーさん。さすがにそれは……」

 

 促すような視線をナイスネイチャが送る。トレーナーは少し迷ったあと、電話をとった。電話口での挨拶もそこそこに駿川たづなが本題を告げてきた。トレーナーは怪訝な表情になる。

 

「はい。はい。あ、え? 未提出? ですが……それはもう送ったはず……え、出てない? ……あ」

 

 何かに気付いたように固まるトレーナー。そうだ。時間が戻ったのだとしたら、あの大量にこなしたはずの仕事は――。

 

「……未来で書いた書類はみんな白紙に戻ったんじゃない?」

 横で肩をすくめるナイスネイチャ。

「終わったはずの仕事をもう一回……うわー、アタシだったら耐えられんわー……」

 

 電話を終えたトレーナーは、

「……あー、えーと」

 気まずそうな色を視線に乗せた。

 

 ナイスネイチャは気遣わしげに眉をひそめる。

「トレーナーさん、忙しいもんね。うん、いいよいいよ。また今度いこうね」

「すまん、この穴埋めはするから」

「本当にいいってば。もー、真面目か。じゃあ、アタシもういくね」

 

 ナイスネイチャは立ち上がった。出入口に向かう。ドアノブに手をかける。トレーナーの視線を最後まで背中に感じながら、部屋をあとにした。

 

 

 

 

 

 ナイスネイチャは寒空の下を歩いていた。口元を片手で覆い隠しながら、首をかしげる。ぼやいた。

 

「トレーナーさん、あと一つか二つぐらい隠し事している気がする……カンだけど」

 

 先ほどの光景を思い出す。

 

 ずっと一緒にいられるよね? という質問に動揺していたように見えた。その約束は何年も前から交わしていたはずなのに。なぜだろう? 彼は簡単に約束を違える人ではない。一緒にいられない理由ができた? たとえば、結婚したい人がいるとか? それならば、まだ良い。いや、良くないけど。すごく良くないけど。自分以外の女性と付き合っている姿なんて想像するだけで泣けてくるけど。

 

 でも、それ以外の理由だとしたら? 

 

 胸騒ぎがした。

 

 シラオキ様はいるんだろう、きっと。

 神様の力でナイスネイチャを死の運命から救いだしてくれた。だけど、世の中にはただより高いものはない、なんていう格言もある。

 

 ナイスネイチャは疑問を覚えた。

 

 そんな奇跡は――。

 なんの代償も無しに行えるものなのだろうか?

 

 

 

 


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