一途な恋の弓矢   作:樂川文春

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第7話 立ち向かうと決めた日

 

 

 

 

 

 トレセン学園では朝と夜の二回、職員の作った食事がビュッフェ形式で提供される。その一方で昼食は各自の自由裁量だ。お弁当で済ませたり、外食したりと人それぞれの過ごし方を送る。もちろん、トレセン学園の食堂(兼カフェテリア)は昼も営業していた。その場合は食券を購入して食べることとなる。噂によると笠松トレセン学園から転入してきた某ウマ娘はレースの賞金やグッズ販売で稼いだお金の大半を食券購入にあてたりしているとか、していないとか――。

 

 時刻は正午。

 天にも届かんばかりにご飯を盛ったどんぶりと、登山ができそうなぐらい惣菜が三角錐に積み重ねられた皿を載せたトレイを手にした芦毛のウマ娘とすれ違う。べつにいつもの光景だから気にならない。ナイスネイチャは食事の載ったトレイ(こちらは普通の量)を運びながら、きょろきょろと席を探していた。すると――。

 

 

 目の前の席が空いているよ、とばかりににこやかに手を振ってアピールする少女マヤノトップガンの姿があった。

 

 

 彼女と同席して、昼食を摂り始めたナイスネイチャだったがいまいち食が進まない。心中をかすめるのはさきほどのトレーナーの寂しそうな表情だ。つい何度も思い出してしまう。まるで何かを諦めてしまったかのような――そんな彼の様子が気がかりだった。

 

(シラオキ様の起こした奇跡っていうのと関係があるのかな……?)

 

 そんなことをスプーンを持ったまま考え込む。視線の先で突っつかれるカレーライスはちっとも減っていない。そんな悩める少女の背後では、さきほどすれ違った芦毛のウマ娘がご馳走さまと合掌したあと空っぽになったトレイを持って立ち上がる。べつにいつもの光景だから誰も気にしない。

 

(一緒にいるって約束を守れなくなる理由。それって……)

 

 ナイスネイチャは眉をひそめて物思いに沈んだ表情をしている。目の前でハンバーガーをパクついていたマヤノトップガンが不思議そうに目をまんまるくした。

 

「あれれ? どうしたの、ネイチャちゃん。浮かない顔をしてるよー。食欲ないの?」

 

 マヤノトップガンの前にはポテトとコーラが置かれていた。なんともジャンクな献立である。野菜なんて芋ぐらいしかない。彼女は大の野菜嫌いなのだ。ちなみににんじんは別腹。甘いから野菜じゃないと思っていたとは本人談。

 

「なにか悩みごと?」

 と、言った。

 片手にストローの差し込まれたグラスを持ち、黒く泡立つコーラを飲みながら、じーっとこちらを見つめてくる。

 

「……あー、いや、なんでも――」

 

 ナイスネイチャはごまかそうとするが、それよりも先にマヤノトップガンはコーラの入ったグラスの底面を開催、とばかりにトントンと卓上に打ちつけるとトレイに置く。右手を大きく天にかかげて元気よく宣言した。

 

「マヤちんのお悩み相談室、テイクオーフ! さ、ネイチャちゃん話してみて!」

 

 ずずい、と食べかけの食事が載ったトレイを横にずらすと興味津々といった様子で身を乗り出してくる。

 

「や、唐突だなー。本当になんでもないんだって」

 

 手で制止するような仕草をして困り顔になるナイスネイチャ。マヤノトップガンは両手で握りこぶしを作り、唇をとがらせる。抗議するように腕を振った。

 

「ぶーぶー! なんでもなくないよー! ネイチャちゃんがホントに悩んでいるときぐらいわかるもん!」

 

 どうやら見抜かれてしまったようだった。

 

(その直感力はどこから来るんだか)

 

 マヤノトップガンというウマ娘が天才といわれるゆえんの一つはその直感力である。その場に置ける正解をすぐにつかみ取り、隠された真実を見抜く能力だ。もちろん天才とはいっても万能ではないので、エスパーじみた読心術が使えるわけではない。学習能力と直感力がきわめて高いということを除けば、ただの年頃の多感な少女である。

 

 そんなマヤノトップガンがウマ耳をこちらに向けて、力になりたいという気持ちを全身から立ち登らせながら、

「マヤはネイチャちゃんのバディなんだよ! バディはお互いに助け合うもの! 友情! らんでぃーんぐ! ね、話してみて! マヤならぎぎゅーんと解決してみせるからー!」

 と、眉を力強くあげて宣言してきた。指先を飛行機の機首に見立てて急上昇、といったポーズをとる。

 

「う、うーん……」

 ナイスネイチャは思案した。

 

(マヤノってだいたいすぐに物事の本質を見抜いちゃうからなー。相談するのも悪く……ないのかも?)

 

 そう結論づける。ナイスネイチャもマヤノトップガンに倣って、カレーライスの載ったトレイを横に避けた。

 

「あー、じゃあ、さ……」

 

(とはいえ……さすがに未来からトレーナーさんがやってきた、なんて言えないよね)

 

「マヤノはシラオキ様の伝説って知ってる?」

 と、切り出す。

 マヤノトップガンは一瞬きょとんとしたあと、はっと心当たりがあるという表情に変わった。

 

「シラオキ様? あ、知ってる! この前トレーナーちゃんが教えてくれた! トレーナーちゃん物知りだから! たしか、シラオキ様は時を超える力を持っている、だったかなー? えーと……ほかにはねー」

 

 マヤノトップガンは指を小さな唇にあてて左上を見た。少しだけ間があって、こちらに向きなおる。

 

「代償と引き換えにその奇跡を授けるそうですよ、って言ってたかなー? ……それがどうかしたのー?」

 と、首をかしげた。

 

(やっぱり――代償とかあるんだ)

 

 予想通りといえば、そうだ。なんのリスクもなしに時を越えられるのだったら今頃トレセン学園は時間逆行者だらけだろう。ナイスネイチャは両手を組んで軽く上体を乗り出しながら、

「その代償って……なんだと思う? たとえば、たとえばの話なんだけど、死ぬはずだった女の子を助けるために過去に戻る必要があって、その奇跡を起こすために必要な……代償」

 と、訊いた。

 

「んー? だいしょう? うーん……」

 代償とはなにか? そう問いかけられたマヤノトップガンは考え込むように左下方向に視線を向けた。自分のなかの感覚と対話するように。ナイスネイチャは思う。そう、今はこの娘の直感力が頼りだ。頭の隅にちらついてならない最悪の可能性を否定してほしかった。

 

 やがて、マヤノトップガンはさらっと言った。

 

「命じゃない? マヤ、なんとなくそんな気がする」

「いのち……?」

 ナイスネイチャは繰り返した。いのち、いのち、と。

「そっか……」

 

 ああ、やっぱり。薄々そんな気はしていた。予想が外れてほしいなと思っていた。自分の代わりに愛しい人が死ぬなんて想像したくもないから意識の外に追いやっていたのだけれど、目の前の天才少女は言う。時を越える代償は命だと。彼女の直感が導きだした答えはそうそう外れることがない。

 だから、たぶん、自分のトレーナーは時を越えるためにろくでもない取引を行ってしまったのだ。

 胸の奥がずんと重苦しくなるのを感じた。

 

「……ん、ありがと、マヤノ」

 

 悩みごとは深まったが、答えが出たことで多少なりとも今後の方針を考えられるかもしれない。ナイスネイチャは相談に乗ってくれた友人にぎこちない笑顔を返す。

 

 マヤノトップガンは拍子抜けといった様子で、

「うん……って、ネイチャちゃんの悩みってそれなの? 恋わずらいとかじゃなくて?」

 と、言った。

 

 ある意味、間違ってはいない。ただし、好きな人がたぶん近いうちに死にそうなんだけど、どうしたらいいの? という重い話だけれど。

 

「そうだよ。……あー。ほら、前マヤノが貸してくれた少女漫画あったじゃん。時間旅行のやつ」

 

 あとはトレーナーと自分の問題だ。これ以上、目の前の親切な少女を巻き込むのもよくない。ナイスネイチャはマヤノトップガンの目を覗き込んでにっこりと笑った。

 その営業スマイルにも似た嘘の笑顔にあっさりと引っかかったマヤノトップガンは大きな声ではしゃぎ始めた。

 

「あ……もしかして! わんだあウマ娘! ネイチャちゃん、続きが気になって夜しか眠れないんでしょー!」

 

(……さすがにマヤノでもトレーナーさんが時間逆行してきて、なんて発想をするわけがないよね)

 

「そうそう……ソーナンデスヨー。やー、続きが気になるナーって……あと夜しか眠れないのは普通じゃね?」

 

 いつも通りの自分の振る舞いを意識する。内心の動揺を悟られないようにする。幸いにも気付かれずにすんだ。マヤノトップガンは純粋な心の持ち主だ。あっさり人の言葉を信じるところは昔から変わらない。

 とはいえ、さっきみたいに鋭く見抜いたりすることもあるから油断はならないのだけれど。

 

 マヤノトップガンは祈るように両手を組むとうっとりとした表情になる。波に揺れるように上体をくねらせた。

 

「いいよねー! ヒロインのワンダちゃんを助けるために時を越えて助けに来るだなんて! 鉄板の展開だよねー! 命がけで時渡りをした銀幕のヒーローさまがターフにまで来てくれるの! とくに京都レース場の時計塔でのシーン! ワンダちゃんをめぐるモーリ伯爵とのフェンシング対決! それがはわわって感じでまたステキなのー!」 

 

 興が乗ってきたのだろう。マヤノトップガンはきらきらと瞳を輝かせて、こちらにぐっと身を乗り出してきた。

 

「最後はワンダちゃんがナギナタで闇を切り裂いて光のウマ娘になって終わるんだよね!」

「アタシまだそこまで読んでないケド……」

 

 いとも容易く行われる結末バレという所業。

 そしてなんだその超展開。

 

「――あとねあとね! ほかにもネイチャちゃんにも読んでほしい面白い漫画があってね。マヤのオススメは――」

 

 そのあともマヤノトップガンがお気に入りの少女漫画について熱くネタバレし続けるのを延々と聞いた――たぶん、そのうちの何冊かはもう読まないと思う。密室トリックの解説までされたうえ犯人はゴルシとか知りたくなかった。

 

「マヤ、話してたらまた読みたくなっちゃったー! じゃあねー!」

 

 マヤノトップガンが両手を羽ばたくように広げて食堂を走り去ってゆく。その小柄な後ろ姿はあっという間に出入口の向こうへと飛び出していった。

 

 ひとり取り残されたナイスネイチャは頬をかく。

 

「……いやー、マヤノといいマーベラスといい、どうしてアタシの周りには暴走超特急みたいな娘が集まるんかねー」

 

 だけど、その明るさに救われて、少しだけ心が軽くなったのも感じている。問題が解決したわけじゃないけれど、少しは落ち着いて考えることができそうだ。

 

 ナイスネイチャはため息をついた。頬杖をついて一点を見つめる。椅子の下で足首を交差させるように組んだ。

 

 ――命じゃない?

 

 その言葉が脳裏をよぎる。マヤノトップガンという少女は正解を即座に導きだすという類いまれな直感力を持つ。そんな彼女が導き出した答え。

 

(命、ね……)

 

 もしかしたら、とは思っていた。

 

 訊きにいこうか。トレーナーのもとへ。

 問い詰めようか。命を差し出して時を越えたのか、と。

 

 でも、それは自分が不安だから、それを解消しようとしているだけの行為にほかならない。

 そんなのは自分勝手だ。無理やり聞き出して、それで……? 本当にそう、なのだとしたら?

 

(……そうだったとしてアタシに何ができるの?)

 

 トレーナーが隠し事をしているときの仕草はわかる。何年も付き合ってきたから。

 なんで隠そうとするのか。すぐにわかった。

 

(アタシに心配をかけさせたくないから、だよね)

 

 きっと、彼は傷付いている。

 

(トレーナーさん……)

 

 あの人は泣いていたのだ。ナイスネイチャが生きている。ただ、それだけのことで。

 命がけで助けに来てくれたのだ。それくらい想ってもらえるのは嬉しい。嬉しいけれど……それよりもずっと。

 

(トレーナーさんが死んじゃったら、アタシは悲しい)

 

 そりゃ自分だって生きていたい。でも、愛する人が自分の代わりに不幸を背負って死んでしまうのは嫌だ。そんなことになるぐらいなら、と思う。

 

(トレーナーさんには生きていて欲しかった。あなたの隣にアタシがいられないのは寂しいけれど、大切な人にはずっと幸せで生きていてほしいじゃん……)

 

 ナイスネイチャは出口のない袋小路に入り込んでしまったような、途方に暮れた想いを抱えた。

 

(……どうしたらいいんだろう)

 

 答えが一向に出ないまま、陽は暮れてゆく――。

 

 

 

 

 

 ナイスネイチャは闇の中にいた。

 

 自分の手足がよく見える。どうも身体全体が淡く光を放っているようだった。ナイスネイチャは自分専用の勝負服を着ている。辺りを見回す。何もない。

 

(あ。夢だこれ)

 

 明晰夢というものがある。はっきりと意識があるのに夢を見ていると自覚できる状態。

 

 世の中には夢の中でも意識があって自由自在に動ける人というのがいるらしいが、ナイスネイチャにはそんな芸当はできない。多くの人と同じように行き当たりばったりな夢を見ることしか出来ないし、夢の中の行動に干渉できることもない。珍しい体験をしているな、と思う。

 

「へー……なんか面白い……」

 手を握りしめたり開いたり、ジャンプしたりステップを踏んだりしてみる。身体は自由に動くようだった。

 

 ふと、思い立ってウイニングライブの練習をしてみる。

 

 だれも見ていないのだから自身をごまかす必要もない。選んだのはセンターポジションのステップ。二年以上も踊れていない勝利の舞。腕や足をリズムよく動かしてゆく。自分でも意外なほど振り付けは完璧に覚えていた。

 やがて、一曲分を踊り終えた。

 

「……やっぱりセンターで踊りたいよね。ライブでもさ」

 

 有馬記念で歌う曲は毎年変更される。

 去年は「NEXT FRONTIER」でその前年は「ユメヲカケル!」だっただろうか。どちらの場合もナイスネイチャは三着以内に入れずバックダンサーとして参加した。

 

 もちろんレースに負けたからといって手を抜くことはしない。それはレースで競いあったライバルにも、応援してくれた観客にも礼儀を欠く行為だからだ。だからちゃんと全力で踊り抜いた。

 

 ただ、それでも、ウマ娘にとってセンターポジションとは憧れなのである。その場所で歌えるのはたった一人だけ。

 

 栄光の象徴。

 

 かつてナイスネイチャはそこに立っていた。ライバルであり、越えられない壁だった無敵のトウカイテイオーを初めて差しきり、有馬記念に勝利したあの日。

 

 ファン投票で選ばれたウマ娘たちと競い合い頂点に立った。ライブ会場では無数のサイリウムの光が揺れていた。大観衆の真ん中で歓声に包まれながらナイスネイチャは歌った。夢のような時間だった。

 

 あの場所でまた輝きたい。キラキラ一番星のように。

 

 そんな想いとは裏腹に成績はどんどん下降して、勝ち星からは遠ざかっているけれど――。

 

「……有馬記念、出たいな。やっぱり」

 

 ナイスネイチャはつま先で足もとを蹴った。両腕を後ろに回してうつむく。諦めたいけど。諦めなくちゃいけないけど。それが無難なんだとはわかっている。

 

「……でも、トレーナーさんと約束したもんね。アタシ、レース中の事故で死んじゃうからって」

 

(アタシがレースを回避したら、アタシは生き続けることができる。でも……本当にそれでいいのかな。その原因って故障したとかじゃなくてアクシデントなんだよね?)

 

 ゆえに走りきれる可能性は充分にあるんじゃないか、とナイスネイチャは感じていた。

 

 レースに出走することは問題なくできたわけで、深刻な怪我や不調を身体にきたしていたとは考えにくい。それに世の中では、脚部不安を抱えたウマ娘がトゥインクルシリーズを駆け抜けていたりすることも珍しくはない。

 故障の恐ろしさを知らないわけじゃないけれど、走れたのに走らなかったというのは、一人のウマ娘として、それはそれで後悔しそうな気もするのだった。

 

 だが、出るにせよ出ないにせよ、だ。

 気がかりはもう一つ。

 

(トレーナーさんはやっぱり命を代償にして時を越えたのかな……?)

 

 と、考えたときだった。

 闇のなかに光が現れた。目を閉じる。

「わっ! なに!? ……トレーナーさん?」

 ゆっくりと瞼を開く。

 

 すると、そこにはトレーナーがいた。思わず、ナイスネイチャは触れようとする。だが触れようとしても触れることができない。指先が空を切るだけだった。

 立体的な映像とでもいうのだろうか。ナイスネイチャはまじまじと観察する。トレセン学園の三女神像が見える。どうやら庭園の噴水前のようだった。

 

 彼の前に見覚えがない栗毛のウマ娘がいた。二人は向かい合っている。やがて、その少女は告げる。

 

「たとえ奇跡が成ったとしても、彼女の隣にいられる時間は僅かにしか残らないでしょう」

 

「ああ、構わない。俺なんかの命で済むなら使ってくれ。ネイチャが生きてくれさえいれば、それで」

 

「彼女の死は運命が望んだことです――誰かがその死の運命を肩代わりしなくてはなりません。つまり、あなたが背負うことになります。それでもいいと仰るんですね?」

 

「わかった。それでいい」

 

「……本気なんですね。ああ……この奇跡は成る。この取引は成立します。成立、してしまいます」

 

「もし、ここから運命を変えられるとしたら。それは、あの少女が――」

 

 

 映像はそこで消えた。

 そして、栗毛のウマ娘だけがそこに佇んでいた。

 

 

 ナイスネイチャを彼女をじっと見つめた。

 なんで自分がこんな夢を見ているのかがわかった。正確には見ている、というより目の前の少女に見させられているのだろう。その正体には検討がつく。

 

「シラオキ様……だよね?」

 

 ナイスネイチャは少女を見つめた。栗毛の長い髪を後ろで結っており、左のウマ耳の下に花簪をさしている。服装は白い小袖に緋色の袴を着ている。足もとは白足袋に草履。草履の後ろには足首に固定するための結び紐がついている。いわゆる巫女の衣装だ。

 

 その少女は――シラオキはナイスネイチャの問いに首肯した。ナイスネイチャは一歩を踏み出した。

 

「どうして――」

 近付く。胸に手をあてて、問う。

「どうしてあんな取引を受けたの?」

「……」

 

 シラオキは悲しそうに顔を伏せる。ナイスネイチャは首を振った。淡々と告げる。

 

「アタシ、トレーナーさんに死んでほしくないよ。トレーナーさんの命を犠牲にして生きても、嬉しくない」

 

 シラオキは頭を下げた。

 

「……申し訳ありません。私だって、こんな不幸を生み出すような時間の巻き戻し方はしたくないのです。ですが、彼の望みを叶えるには私だけの力では足りなかった」

 

 ナイスネイチャは姿勢を正した。真剣なまなざしでシラオキの目を覗き込む。

 

「取り消せないの?」

「一度成立してしまえば……それを覆すのは難しい」

 

 ナイスネイチャはその言葉に引っかかりを覚えた。

 

「……難しい? できない、じゃなくて難しい?」

「私ひとりの力ではどうにもなりませんが……ナイスネイチャさんが奇跡を起こせば、あるいは」

「アタシが……?」

「はい……私があなたに会いにきた理由もそこにあります」

「……その話、聞かせてくれる?」

 

 シラオキはうなずいた。

 

「魂には定められた運命の道というものがあります。ナイスネイチャさんは善戦すれど大舞台での勝利には縁がない、そんなウマ娘になるはずでした――トレーナーさんに出会わなければ。……あなたとトレーナーさんの強い意思と結び付きが、その身に宿る運命を変え続けてきたのです。まるで、物語の主人公のように。……結果として、あなたの周囲の人々に変化を与えるほど、その影響力は大きくなっていました」

 

 シラオキは続ける。

 闇のなかを歩く。しっぽがなびく。立ち止まる。

 

「ですが運命には修正力があります。振り絞った弓の弦のように押し込めば押し込むほど反発力は大きくなる。有馬記念の時点で修正力は限界まで高まっていました。そして強引に辻褄合わせが成されてしまった――その結果がナイスネイチャさんの事故でした」

 

 と、ここでシラオキは振り返った。

 

「しかし、運命は手強くはありますが、絶対無敵の存在ではありません。あとほんの少し修正力に過負荷をかければ、死の運命そのものを無くすことも可能でしょう。無理やり作られたばかりの今なら不安定な時空構造をしていますから」

 

 ナイスネイチャは訊いた。

「……死の運命を無くすってことは、アタシもトレーナーさんも生きられるってこと?」

 その問いかけに首肯が返ってきた。

「はい」

「どうすればいいの?」

「それは……」

 

 そこでシラオキはじっとナイスネイチャを見つめて考え込むような雰囲気になる。

 

「ふむ……勝負服、ですか」

 

 ナイスネイチャは自分の手足に視線を送った。

「あ、これ? なんでこの格好なのかはわからないんだけど気が付いたらこうだったんだよね」

 

 シラオキは得心したように頷く。

「あなたの魂にとって、レースはまだ終わってないのですね。ウマ娘が自分の運命を変えられるとしたら、やはりそれはレースが……わかりました。ナイスネイチャさん」

 

 シラオキは確信を持った口調で、

「有馬記念に勝利することが運命を変えられる唯一の方法です。そこが歴史の分岐点、そこを変えてしまえば修正力の壁を破れるはずです」

 と、告げた。

 

「アタシが有馬記念を勝てばいいの……? そうすれば、トレーナーさんは助かるの?」

 

 シラオキはうなずいた。

 

「……わかった。アタシ、有馬記念出るよ。出て、勝って、必ずトレーナーさんを助けてあげるんだ」

 

「頑張ってください。ナイスネイチャさん。勝利を目指して、そして、未来をその手に――」

 

 

 

 

 

 目が覚めた。起き上がる。

 薄暗い室内。窓の外を見れば、月と星空。

 

 夢の内容は鮮明に覚えていた。

 トレーナーがナイスネイチャの未来を変えるために時を越えた代償として命の大半を引き換えにしたということ。有馬記念に勝てば、彼の失われたはずの時間を取り戻せるということ。

 

 トレーナーと一緒に生きていく未来を掴むためにはナイスネイチャは有馬記念に出走し、勝利せねばならない。

 

 ふと、横を見つめた。向こう側のベッドにはルームメイトの姿。ふくらんだシーツが寝息と共にゆっくりと上下している。髪をおろしたマーベラスサンデーの寝顔はじつに穏やかで幸せそうだった。

 

「むにゃむにゃ……もう食べられないよー……」

 

 最高のライバルで親友の少女。

 有馬記念ではこの娘にも勝たないと駄目なのだ。

 一度だけレースで対決したことはあったけれど、その時は影すら踏むことも出来なかった。正直いって勝ち目は薄いのかもしれない。

 だからといって諦める気はなかった。

 

 静かにベッドを抜け出すとクローゼットから折り紙のトロフィーを取りだした。机の上のスタンドライトをつける。椅子を引いて腰を降ろす。見つめるトロフィーの向こう側に有馬記念の舞台、中山レース場のゴール板の風景を重ね合わせた。

 

「……絶対にトレーナーさんを死の運命なんかに連れていかせないから」

 

 その瞳に情念を込めて、呟いた。

 書きかけの手紙を取り出した。

 

「運命を変えてやるんだ。それで、アタシは」

 

 手紙の両端を握りしめる。

 破り捨てた。

 

「トレーナーさんに何があっても隣にいるよって伝えるんだ。もう決めた。勝ったら、トレーナーさんが天国に逃げられないように抱き付いてやる。そして、これからもずっとトレーナーさんのそばで長生きしてやるんだ……!」

 

 手紙なんてもう自分には必要ない。想いは正面から伝えるものだから。願いは、勝ち取るものだから。

 

 

 

 

 

 翌日。

 トレーナー室にて。

 

 

「トレーナーさん。大事な、すごーく大事なお話があります!」

 

 机にダンッと両手をついてナイスネイチャがまなじりを決する。仕事に追われていたトレーナーは気圧されたように上体をそらした。

 

「ネイチャ?」

「あと……アタシね。怒ってます。これ以上ないくらい」

 

 ナイスネイチャは息を吸った。ぎゅっと目をつぶり、両手を握って思いっきり下に振り下ろす。次の瞬間、まぶたが開いた。瞳には怒りの炎が宿っている。

 

「トレーナーさん! アタシ、トレーナーさんの命を犠牲にするのなんて絶対イヤだ! そんなの全然嬉しくないよ! なに考えてるの! 死んじゃったら意味ないじゃん! トレーナーさんのバカァァァァッ!!」

 

 まるで爆弾でも落としたかのような怒りの声が室内を震わせた。あまりの大声にトレーナーはびっくりして椅子から立ち上がりかける。膝が机にぶつかり、商店街ロゴのついたペンが卓上をころころと転がった。

 

「ネイチャ……」

 

 肩を震わせるナイスネイチャは二度三度と深呼吸した。感情が昂るあまり目の端っこに浮かんでしまった涙をこぶしでぐしぐしとぬぐう。自分の胸に手をあてる。念には念を入れて、もう一度長く息を吸って、ゆっくりと吐いた。トレーナーを見つめた。

 

「……アタシもさ。シラオキ様に会ったんだ。そこで知ったの。トレーナーさんがアタシを生かすために過去に戻る代償として命を差し出したっていうこと」

 

 トレーナーは観念したように肩を落とした。

 

「そうか……すまん。黙っていて。ネイチャの負担になるつもりはなかったんだ」

「それで? アタシが有馬記念を回避して、そのあとはどうするつもりだったの?」

 

 ナイスネイチャは追及の手をゆるめない。目が据わっている。なにがなんでも聞きだしてやる、という意思がその灰色の瞳には宿っていた。

 

「……トレーナーを辞めて、どこか誰も知らない場所でひっそりその時を待とうと思っていたよ」

「アタシを置いて?」 

「……ああ」

 

 ナイスネイチャはトレーナーから目をそらさない。じりじりとした緊張の時間が流れる。

 

「やだ」

「ネイチャ、わかってくれ」

 

 トレーナーは立ち上がるとナイスネイチャの肩に手を伸ばす。少女はその指先をするりと躱すと腕を組んで、ぷい、と視線を明後日の方向に向ける。

 

「やだ。ネイチャさんはそんな未来を認めません。ねえ、トレーナーさん。アタシやっぱり有馬記念に出ることにしたから」

 

 ナイスネイチャはそう告げると日光が注ぎ込む窓辺へと近付いた。ポインセチアの花を指先でさわる。背後からトレーナーが追いかけてくる気配があった。

 

「ネイチャ。だめだ。それではネイチャが」

 

 彼のほうを振り返った。背中から降りそそぐ太陽の光がナイスネイチャの髪を透かし輝かせる。トレーナーは立ち止まった。少女の灰色の瞳がこちらを射抜いた。

 

「あのね、聞いて。トレーナーさん。シラオキ様が言っていたんだけど――アタシが有馬記念に勝ったら運命を変えることが出来るんだって。そこで勝ちさえすればトレーナーさんの命もどうにかできるみたいなんだ」

 

 トレーナーは呟いた。

「ネイチャがレースに勝てば……運命が?」

「うん、そう。だからアタシ、レースに出たい」

「……もし、また転倒なんてしたら」

 

 そう言いかけるトレーナーにナイスネイチャは首を振る。恐れることなんてないとばかりに微笑む。

 

「有馬記念に出たら故障するとは限らないでしょ? それに実際アタシの足は骨折なんてしてなくて、バランスを崩して転倒したときに当たりどころが悪かったのが直接の死因、そうだよね?」

「それは……そうだが」

 

 言いよどむトレーナーにナイスネイチャは近付いた。正面に立つと胸に手をあてた。

 

「アタシね。運命と勝負することにしたの。今度の有馬記念で一着になれれば、アタシの勝ち。勝ったら、トレーナーさんの命を返してもらうってね」

「ネイチャ……」

「だからさ。運命なんかに負けない。負けたくない。勝ちたいよ。トレーナーさん。お願い、力を貸して」

 

 トレーナーは迷った様子を見せる。やがて、頷いた。

「……わかった。それがキミの望みなら」

 

 

 

 

 

 トレーニングの日々が続いた。

 

 

 

 

 

 有馬記念の日が近付くに連れて、ナイスネイチャの口数は少なくなっていった。

 敗北は愛する人の死に繋がる。なにがなんでも勝たなければならない。そのプレッシャーはナイスネイチャの心身に多大な緊張と重圧を与えていて――。

 

 

 そんなある日のことだ。

 

 

 ナイスネイチャはトレセン学園近くの喫茶店にやってきていた。

 テーブルのうえのコーヒーにはまったく口がつけられていない。ナイスネイチャは終始、うつむき加減だった。

 

 店の扉が開かれた。ナイスネイチャのウマ耳がぴょこんと立つ。視線を出入り口の辺りに向ければ、そこにはふたりのウマ娘の姿があった。マーベラスサンデーとマヤノトップガンだ。彼女たちはきょろきょろと辺りを見回す。案内役の店員がやってきて、彼女たちに「二名様でよろしいですか?」と話しかける。

 

 ふたりは首を振った。

「友達と待ち合わせをしているの☆」

 と、マーベラスサンデーの元気な声。

 

 きょろきょろしていたマヤノトップガンの視線がこちらに定まる。ぱっ、と笑顔になった。

「ネイチャちゃん発見!」

 やっぱり彼女も元気いっぱいな様子だった。

 

「ネイチャちゃん、こんにちマヤヤ~!」

「こんにちマーベラース!」

「うん。マヤノもマーベラスもこんにちは。急にごめんね。呼び出しちゃって」

 

 ふたりはナイスネイチャの向かい側の席に座る。

 

「全然いいよ! 気にしないで! でもー……ネイチャちゃんが呼んでくれるなんて珍しいね? ウマインが送られてきたときはびっくりしちゃった! マヤとマベちんに大事なお話があるんだよね? どーしたの?」

 

 マヤノトップガンが首を傾げた。

 横でマーベラスサンデーが両手で自らの口もとを隠しながら、

「もしかしてー……マーベラスな恋の相談なのかもー☆」

 と、言った。目に好奇心の輝きが灯る。

 

「え、うそー! ひょっとするとネイチャちゃんが大人のオンナになっちゃったとかー?」

 

 マヤノトップガンが両手を頬に当てて、しっぽをぶんぶんと振りながら頬を赤く染める。

 なお、マヤノトップガンのなかの『大人のオンナ』の行為とは好きな人とキスしているのが最大級の進んだ関係である。その先のことなど想像すらできない。意外なほど箱入り娘なのがマヤノトップガンという少女であった。

 

「あ、あはは……アンタたちはもー。変わらんねー」

 ナイスネイチャが苦笑いした。

 

「話を聞くまえにー……! まずはなにか頼もー!」

 マーベラスサンデーがメニューを広げる。横からマヤノトップガンも覗き込んでくる。迷う時間は十秒もなかった。即断即決マーベラスである。

 

「アタシ、サンデー! このマーベラスなサンデーが食べたーい!」

「マヤはこの三段重ねのアイスにするー!」

 

 マヤノトップガンも空軍のパイロットのように決断が早い。流れるような動きで卓上の呼び出しボタンを押した。ふたりはやってきた店員に注文を告げる。電子PADを持った店員がタッチペンでその内容を入力し、去ってゆく。

 

「それでネイチャのお話ってなーに?」

 マーベラスサンデーが訊いてきた。

 

 ナイスネイチャは喉を鳴らした。手のひらにはじっとりと汗をかいている。視線がさ迷いがちになった。

 

「あー……えっと……さ」

 ナイスネイチャは机の下でこぶしを握りしめる。

「……今度の……有馬記念の話、なんだけどさ……」

 

 ナイスネイチャは押し黙る。

 

 マヤノトップガンとマーベラスサンデーは目をきょとんと丸くした。

 てっきり恋バナか何かかと予想していたら、レースのお話だった。ウマ娘にとってレースというのは意外な話題ではないのだけれど、わざわざ大事な話だから、と呼び出してまでするような話なのだろうか?

 

「有馬記念?」

「それがどうかした?」

 

 とはいえ、自分たちの親友は意味もなくそんなことをするような子ではない。二人は首をかしげつつも、ナイスネイチャの言葉の続きを待つことにした。

 

「ふたりとも……出走するよね? ファン投票、一番人気と二番人気で……」

 

 ナイスネイチャは自分の告げようとしている言葉がどれだけ醜悪なことがわかっていた。

 

 トレーニングをしても不安は募る一方。最近負け続きのウマ娘が有馬記念という日本最高峰の大舞台で一着を取る――それがいかに難しいことかはよくわかっている。

 

 ナイスネイチャのなかの悪魔がささやいた――。

 彼女たちに共犯関係になってもらえれば……?

 

 一度そんな気弱な発想が浮かんでしまえば、容易に振り払えるようなものではなかった。

 

 

 マーベラスサンデーとマヤノトップガンという有馬記念の優勝候補筆頭のふたりは、ナイスネイチャの親友でもある。

 

 そして、ふたりとも友達想いの優しい娘だ。ナイスネイチャの愛しい人の命がかかっている、と知れば、平常心ではいられないだろう。

 

 全ての真実を話せば、この娘たちなら信じてくれるだろうという確信があった。しかし、それはふたりに重い十字架を背負わせることと同義だ。

 

 ナイスネイチャは思考の海に沈んでゆく。

 

 ――トレーナーさんの命を助けたいんだ。あの人が死んじゃうなんて……そんなのいやだ。

 

 だからさ。勝ち目のある二人には今回の有馬記念を回避するか――もしくは出たとしても、アタシに――。

 

 ――その先に続く言葉を考えたくない。なんとおぞましく、身勝手で、下劣な頼みなんだろうか。

 

 自分はふたりのウマ娘としての誇りを侮辱しようとしている。親友に最低な行為を行おうとしている。

 

 おそらく、全てを知ってしまえば、ふたりはレースを回避するだろう。仮に出走してきたとしてもその優しさが仇となって本領を発揮できない。

 有馬記念最有力の二人がどうにかなるのなら、今のナイスネイチャの実力でも勝算はかなり高い。

 

 だが、その行為をしてしまえば、ナイスネイチャは一生自分自身を許せなくなる――。

 

「……ネイチャちゃん、大丈夫? 顔色悪いよ?」

 気付けば、マヤノトップガンが心配そうにこちらを見つめてきていた。

「眉がきゅっ、てなってるね? ……有馬記念、緊張しているの?」

 と、マーベラスサンデーも気遣うように声をかけてくる。ウマ耳がへにゃりと垂れていた。

 

 

 ナイスネイチャは――。

 

 

「……そ、そうなんだー。あはは、じつはネイチャさん柄にもなく追い詰められててさ。自信ないんだー……ほら、最近勝ってないじゃん? いよいよアタシもダメかなって」

 

 やっぱり、言えなかった。

 言えるはずがない。とっさにごまかしてしまう。とはいえ、自信がないのは本当のことだから、決して嘘というわけでもない。

 

 マヤノトップガンはナイスネイチャの言葉を額面通りに受け取った。ネイチャちゃん、落ち込んでるのかな? 元気になってほしいな、と優しい気持ちが溢れてくる。

 

「……ふーん。そうなんだ? でも、ネイチャちゃん、そんなに落ち込むことないと思うなー? 今度の有馬記念ね。マベちんか、ネイチャちゃんか、あとはヒシアマさんぐらいしかマヤに勝てそうな子いないよ? ネイチャちゃんはすごく強いウマ娘さんなんだよ?」

 

 マヤノトップガンがそう言えば、横からマーベラスサンデーも両手をぐっ、と握りしめて身を乗り出してくる。

 

「そーだよネイチャ! 自信持って! アタシ、ネイチャと走るのが夢なんだから!」

「……夢?」

 と、ナイスネイチャが聞き返した。マーベラスサンデーは力強く話しつづけた。

 

「うん! あのね! アタシ、URAファイナルズで優勝したネイチャを見てからね! 胸がずっとドキドキわくわくマーベラスなの☆ そんなネイチャと最高の舞台でマーベラスなレースがしたいから、アタシ、トレーニングすっごく頑張ったんだよ! トレーナーから指摘された悪い癖だって全部治したし、どんなにきついメニューだって、マーベラスな気持ちで乗り越えてきたもの!」

 

 ナイスネイチャが夢を叶えたその姿は彼女のルームメイトにして大親友の少女の心に大きな影響を与えていた。

 もしかすると、ナイスネイチャが善戦ウマ娘のままであれば、マーベラスサンデーはここまで強くなれなかったかもしれない。

 

「そうだよ、ネイチャちゃん。マベちん凄いんだよ。秋の天皇賞だって、マヤが勝てそうだったのにばびゅーんって交わしてゆくんだもん! ネイチャちゃんはあのときはあまり力を発揮できなかったけれど……って、あれ? 思い出してみれば……なんでだろ? ネイチャちゃん、まるでなにか見えない力に邪魔されているみたい。本来の実力が発揮できていれば、マヤとマベちんとネイチャちゃんでトップ争いしていてもおかしくないのに……」

 

 マヤノトップガンが違和感に気付いたように眉をひそめる。世間はナイスネイチャがピークを過ぎたとか、能力が落ちたとか言っているのはマヤノトップガンも知っていたけれど、そんな言説はとても信じられなかった。今のナイスネイチャと併走トレーニングを行ってみれば、わかる。

 その競走能力はURAファイナルズに優勝した頃と比べても遜色ないどころか下手するとその頃よりも強いんじゃないか、とマヤノトップガンは感じていたのだ。

 

 むむむ、と考え込みはじめたマヤノトップガン。

 

 そこに店員がやってきて、彼女のまえに三段重ねのアイスの乗った皿を置く。マーベラスサンデーの前にはストロベリーソースのかかったサンデーが置かれる。

 思考は中断を余儀なくされる。

 

「わ! 美味しそー!」

「いただきマーベラース☆」

 

 スプーンを動かして、せっせと甘味を口に運びはじめるふたり。ウマ耳がぴょこぴょこと揺れていてご機嫌そうだ。

 

「とにかくー。ネイチャちゃんは大丈夫だよ。ほらほら、元気だしてー? あ、この限定チーズケーキ味おいしー」

 マヤノトップガンが笑顔で励ましてくる。匙はそのあいだも止まらない。じつに器用なものである。

 

「アタシも何度だって言ってあげる! ネイチャがんばれー! きっと望みは叶うよー☆」

 マーベラスサンデーもそう締めくくる。口もとにクリームをつけながら幸せそうにスプーンをくわえていた。

 

 そんな笑顔の親友たちの姿にナイスネイチャは吹き出した。

 

 ――ああ、駄目だなアタシ。こんな良い子たちの期待を裏切ったらだめじゃんか。アタシは信頼に応えるウマ娘なんだから。トレーナーさんがそうあれ、と育ててくれたアタシ自身をアタシは否定できないんだ――。

 

「……マーベラスもマヤノもずいぶんとアタシを信じてくれてるんだ?」

 

「うん。だってネイチャちゃん強いもん。ねー?」

「ねー☆」

 

「……ふふっ。そうだね。アタシ、有馬記念がんばるからさ。良い勝負に……しようね?」

「わーい☆ アタシ、すっごく楽しみー☆」

「マヤも負けないよー!」

 

 

 

 

 マーベラスサンデーとマヤノトップガンには結局真実を話せずじまいだった。でも、それでいい。自分は全力全開の彼女たちに勝ちにいくしかないのだから。

 

 

 

 

 トレーニングの日々はさらに続いてゆく――。

 

 

 

 

 トレーナー室のホワイトボードには中山レース場のコースが描かれている。各コーナーのポイントや要所での位置取りについて記入されていた。ただ、最終直線の部分だけは何も書かれていない。

 ふたりはそのホワイトボードを見つめながら、話し合いをしていた。

 

「ネイチャ……今度の有馬記念なんだが、マヤノが逃げて速い流れになる」

「そっか、未来で見てきたから展開とかがわかるんだ。ちなみに誰が勝ったの?」

「すまん。直線は見ていなかったし、着順は覚えていないんだ……混乱していてそれどころじゃなかったから」

 

 ナイスネイチャは気まずそうに眉をひそめた。

「あ、ごめん。えっと、じゃあ誰に注意したらいいかな」

 

 トレーナーはしばし考え込む。

「……脚色としてはマーベラスとマヤノが抜けていたように見えた。この辺りが怖いところだな」

「マーベラスにマヤノか……うん、アタシもふたりが最大の壁になると思う。でも、越えるしかないよね。……あ、ヒシアマ先輩はどう?」

「彼女は追い込み型だからな……対策といっても、しのげ、としか言えない。前の二人を交わしても気を抜かないことってぐらいだ」

「わかった」

 

 やがて、トレーナーがぽつりと言葉をもらす。

 

「なあ、ネイチャ……」

「なに? トレーナーさん」

「無事に帰ってこいよ」

「……うん」

 

 

 

 かくして時は過ぎてゆき――。

 

 

 

 有馬記念 前夜 クリスマスイヴ――。

 

 全てのトレーニングを終えて、あとは本番を待つのみとなった、そんな夜。トレーナーの自室にノックの音が響く。扉を開けるとそこにはナイスネイチャが立っていた。制服の上から白いロングコートを羽織っている。

 

「トレーナーさん、ちょっと歩かない?」

 と、照れ笑いを浮かべた。

 

 

 

 ふたりは庭園に来ていた。ゆっくりと歩みを進めてゆく。少女の唇から白い吐息がこぼれる。こちらを振り返った。首をかしげて優しげな色を瞳に宿す。

 

「そのマフラー、まだ使ってくれてるんだ?」

 

 ナイスネイチャが彼の首もとを見つめる。そこに巻かれた手縫いのマフラーは何年も前に彼女がトレーナーにプレゼントしたものだった。

 

「ああ、ネイチャがくれたものだからな。愛用しているよ」

「そっか。嬉しいな。編んだかいがありましたわー」

 

 少女は口元に笑みをつくり、前を向く。

 ふたりのあいだを冷たい風が通りすぎた。髪がなびく。コートの裾がはためいた。少女はうつむいた。

 

「手を繋いでもいい?」

「……ああ」

 

 その指先が彼の手を掴む。

 肩と肩が触れ合いそうな距離。

 月明かりがふたりに降り注いでいる。庭園の噴水の前にたどり着いた。視界の先では、星の光のように煌めく水面が月を映し出していた。

 

「あのさ。トレーナーさんに話があるんだ」

「俺に?」

「うん」

 

 ふたりはベンチに座る。前方に街灯の光が見えた。影が伸びる。水のせせらぎの音。少女はトレーナーと手を繋いだまま、目を閉じて彼の肩に頭を乗せる。イヤーカフをつけたウマ耳がリラックスするように横方向に揺れていた。

 波にたゆたう小舟のような穏やかな静寂。寄る辺ない冬の凍える空気のなかで生きる者の熱を確かに感じた。

 

「……トレーナーさん。本当はね、有馬記念が終わったら話そうと思っていたんだけど」

 

 ナイスネイチャはゆっくりと目を開いた。深呼吸をした気配。肩から離れるとトレーナーへと乗り出すように顔を近付けてくる。目線が絡み合う。少女の頬は上気し、その灰色の瞳が潤んでいる。白い吐息が溶けた。

 

「アタシ、トレーナーさんのことが好き。ずっと前からあなたのことが大好き。これからも一緒にいたい。あなたのいない日々なんて受け入れられない。だから、アタシをあなたの恋人にしてほしいんだ。……どうかな?」

 

 トレーナーはナイスネイチャから目をそらさなかった。いまはここにない手紙のことが脳裏に浮かぶ。愚かな男が全てを失ってから初めて知った少女の想い。

 

 ――もし、アタシを選んでくれるのなら。

 ――この手を繋いでくれますか?

 

 トレーナーは繋いだその手を握りかえす。ナイスネイチャの瞳を覗き込み、渡せなかった言葉を告げた。

 

「……俺もネイチャのことが好きだよ。愛してる」

「ホント? ……やった。ふふっ……言質はとったぞー? トレーナーさん? じゃあ遠慮はいらないよね?」

 

 ナイスネイチャは嬉しそうに笑った。その目にからかうような色を込めた。衣擦れの音。ふたりの距離が近付いて、離れた。少女は照れくさそうに唇を撫でる。

 

「これでトレーナーさんはネイチャさんが予約済みでーす、なーんてね? ねえ、結婚もしてくれる? アタシ、指輪が欲しいな。もう買ってあるんだよね?」

「どうしてそれを……」

「ごめんね、知ってた。わざとじゃないんだよ? トレーナーさんのコートを持ち上げたときに偶然落ちてきてさ。見ちゃったんだ。すぐに戻したけど」

 

 視線をそらす。足もとを見つめる。自身のツインテールの髪先で頬を隠しながらもごもごと言葉を転がす。

 

「たぶん、そういう意味の指輪なのかな、相手はアタシだったらいいなって期待してた。……まあ、そうじゃなかったら怖いから。そうと決まったわけじゃないし、トレーナーさん他に好きな人がいるのかもよ、って自分で自分に予防線を貼ったり、勝手に落ち込んでいたりしたんだけどさ」

「ははっ。そうか」

「トレーナーさん?」

 

 ナイスネイチャが首をかしげる。トレーナーは、

「じつは俺もなんだ。ネイチャが俺のことをなんとも思ってなかったらどうしよう。俺の一人相撲だったらって」

 と、言った。

 それを聞いたナイスネイチャはぷっと笑う。

 

「そっか。アタシたち、どっちもおんなじような考え方をしていたんだね。いやー、さすがアタシのトレーナーさん。似た者同士ですなー」

「そうだな……もっと早く言えていたらよかったのかもしれないな」

「……両想いなのに七年もかかっちゃうんだから笑っちゃうよね。……それでさ。エンゲージリングを買ったぐらいなんだし、結婚してくれたりはするのかな?」

「……それは」

 

 トレーナーは口をつぐんだ。気持ちは通じあっていたとしても――共にいられる時間が僅かだというのなら、添い遂げたとしてもすぐに別れは来る。ひとりぼっちにしてしまう。そんなことをしてもいいのだろうか?

 ナイスネイチャは彼から視線を外した。街灯の光が当たらない影へとその目を向けた。

 

「……答えられない理由はわかるよ、トレーナーさん。本当はさ。アタシ怖いんだ。明日のレース」

「ネイチャ……」

「だってトレーナーさんの命がかかってる。わかってるよ、ウマ娘にとってレースは命がけ。だからさ、アタシの命をかけるだけなら、そんなに怖くない。だけど……大切な人の未来を背負って走るのはやっぱり怖い」

 

 繋いだこの手を離したくない。ふたりの気持ちは同じなのに明日のレースで全てが決まってしまう。この人は二度と手の届かない遠いところへ旅立ってしまうかもしれないんだ。

 

「大好きな人の隣。そんな欲しくて仕方なかったものが手に入ったのに……なにもかも無くなっちゃうかもしれない……アタシはそれが怖くて怖くて仕方ないんだ」

「どんな結果になっても俺は後悔しない。運命を受け入れるよ」

「そんなのやだよ。一緒にいて。約束して」

「……ネイチャを苦しめるかもしれないのにか」

 

 ナイスネイチャはそれに対して何も言わずにトレーナーを抱きしめてきた。離さないとばかりにギュッと。

 

 

 

 

 

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