『さあ、最終コーナーに入って各ウマ娘、ラストスパート! 中山の直線は短いぞ!』
ナイスネイチャが選んだのは内側だった。最終コーナーに突っ込んでゆく。
(アタシに昔みたいな走りはできないから)
ナイスネイチャは加速してゆく。
(その分経済コースを走って距離を稼がなきゃ!)
外からほかのウマ娘も殺到してくる。
(っ!)
足元への違和感。バランスを崩しかけるが立て直す。
一瞬の不利。やや、減速してしまったものの、このような事態が来るかもしれないとはわかっていたので転倒までには至らない。再加速を始めようとするが――ナイスネイチャに生じたその隙を見逃すほど、有馬記念に出走するウマ娘たちは甘くなかった。
ほかのウマ娘に内側を取られてしまう。抜け出すタイミングを失った。前を走るウマ娘たちが壁になってしまい道は閉ざされてしまった。
観衆の大歓声が聴こえる。ゴールが近いということだ。つまり、もう時間がない。ナイスネイチャは右に左に視線を巡らした。
(やばっ! くっ! どこか抜け出せる場所は!)
中山の短い直線。
残りは300メートルを切っている。
(外から交わすしかない!)
ナイスネイチャは外に進路を求めた。ようやく抜け出すとラストスパートを開始した。目を見張るような末脚。前を交わしてゆき、やっとの思いで三番手まで上がってくる。前にはマーベラスサンデーとマヤノトップガンの姿があった。
粘るマヤノトップガンをついにマーベラスサンデーが交わす。ナイスネイチャはその三バ身後方にまで上がってくる。歯を食いしばって、脚に力を込める。
(追い付かなきゃ! 絶対に! 絶対に!)
差が詰まってゆく。
しかし、なんとかマヤノトップガンに並んだところでその二バ身先をマーベラスサンデーが走っていて――そのまま彼女はゴール板を駆け抜けた。
『マーベラスサンデー、一着でゴールイン!』
――レースは終わってしまった。
今年の有馬記念の覇者はマーベラスサンデー。電光掲示板には三着の位置にナイスネイチャの番号が表示されているのが見えた。
「……え、うそ……アタシ、負けたの?」
呆然とするナイスネイチャ。
遠くでは自分の親友が両手を振って観客にアピールをしている。盛り上がる中山レース場の喧騒のなかでナイスネイチャはターフに立ちつくしていた――。
地下バ道。
ナイスネイチャが歩いていた。表情は固く、唇を引き締めている。背後のメインスタンド側からは空の光がさし込んでいた。やがて彼女は足を止める。
「あ……」
そこにはトレーナーが立っていた。
ナイスネイチャは視線を合わせられない。そんな彼女の様子を見て、トレーナーのほうから近付いてきた。ふたりはすぐ近くで対面する。黙りこくるナイスネイチャにトレーナーは目を細めて微笑んだ。
「ありがとう、ネイチャ。よく頑張ったな」
すべてを受け入れるような優しい声だった。ナイスネイチャの肩が震えだす。頬を熱が伝う。
「トレーナーさん……トレーナーさんっ!」
ナイスネイチャは彼に抱きついて泣いた。次から次へと大粒の涙がぽろぽろと溢れ落ちてゆく。
「ごめん……ごめん、なさいっ! アタシ、アタシが負けちゃったからっ! トレーナーさんが……!」
トレーナーはそっとナイスネイチャの背中に手を回した。あやすように撫でる。
「いいんだ。いいんだよ」
「でも……! アタシのせいでトレーナーさんは……死んじゃうんだよ。良くなんてないよ……」
「そんなことはない」
トレーナーはナイスネイチャの両肩に手を置くとゆっくりと引き離した。静かに告げる。
「なあ、ネイチャ。俺はずっと幸せだったし、ネイチャと入れて良かった。たとえ、この身がどうなったとしてもネイチャが生きてさえいれば、俺はそれでいいんだ」
ナイスネイチャはいやいやするように首を振った。
「……トレーナーさん。そんな悲しいこと言わないでよ。アタシを置いていかないで」
「……どこにもいかないよ」
ナイスネイチャは涙に濡れる瞳でトレーナーをじっと見つめる。
「嘘、置いてっちゃうくせに」
「ごめん……」
トレーナーは苦笑して肩をすぼめる。
ナイスネイチャは涙を拭って、胸に手を当てて深呼吸すると恐る恐る彼の腕に指先をそえた。
「……ねえ、あと、どれくらい生きられるの?」
「わからない――だけど、そんなに長くはないというのはわかる。うまく説明できないけど、確信があるんだ。ただ、明日や今日という話ではないと思う。少なくとも……最後の日々を送るぐらいはあるんじゃないかな」
身じろぎする気配。視線が絡み合う。
「……じゃあさ。その日々にアタシが隣にいることって出来る? ううん、出来るとか出来ないとかじゃなくて、アタシはあなたの隣にいたい。いさせて?」
ナイスネイチャはトレーナーから目をそらさない。トレーナーは空いた片方の手でナイスネイチャの頬を触る。海の底の静けさのような悲しみを視線に乗せた。
「ネイチャ……俺はお前を残してゆくんだぞ」
少女は頬に当てられた彼の手に自らの手のひらを重ねた。長いまばたき。ひとすじの雫が流れおちてゆく。
「それでも一緒にいたいよ。トレーナーさんの隣は誰にも譲りたくない。一人占めしたいんだ、トレーナーさんを。……だめかな? こんなアタシじゃだめ?」
首をかしげた少女の濡れた瞳。そこには慕うような愛情の色が宿っている。トレーナーは見つめ返した。
「……そんなネイチャが好きだよ」
それからトレーナーは床に視線を落とす。しばし迷った末にナイスネイチャへと向きなおり、話し始めた。
「……だから、ネイチャの将来を考えると、こんな身勝手なお願いをするのは良くないんだ。静かに前を去るべきだとわかっている。だけど……やっぱり、ネイチャには最後までそばにいてほしい。寂しい想いをさせるかもしれない。苦しい想いをさせるかもしれない。だけど、一生懸命あなたを愛します。だから――ナイスネイチャさん。俺と結婚してください」
ナイスネイチャはゆっくりとトレーナーにもたれかかった。彼の胸に頬をあてて、目を閉じる。
「……うん。アタシも……トレーナーさんと結婚したいです」
ずっと夢を見てた。
大好きな彼から愛の告白を受けることを。夢は叶ったんだ。叶ったはずなんだ。
それなのに。
嬉しいはずなのに。
どうして、こんなにも胸が苦しいのだろう。
数日後――。
ナイスネイチャとそのトレーナーは揃って引退し、トレセン学園を去った。
ふたりはアパートの一室を借りた。そして、同じ屋根の下で暮らしはじめる。
籍を入れても式は挙げなかった。ナイスネイチャの実家の伝手で仕事をして、彼女が幼少期を送った小さな町でふたりは日々を送る。
運命がくれた僅かばかりの慈悲――その時間を駆け抜けるように笑い、泣き、穏やかな時を過ごした。
そんなある日のこと。
シンクの水が流れる音。ナイスネイチャが洗い物をしている。かつて、トレーナーだった男は壁を背にして床に座っていた。妻となった少女の後ろ姿を眺める。彼には予感があった。
「なあ、ネイチャ」
「ん、なあに。あなた」
「たぶん……今日だ」
少女の動きが、止まる。
男は続けた。話し出せば、それは確信に変わった。
「今日、俺は……」
ナイスネイチャは蛇口をひねって水を止めた。
排水口に水が吸い込まれる。
「それ……本当?」
少女はふりむく。夫となった男の表情からその言葉が真実を告げているのだと読み取った。
「本当、なんだね……」
そう言ったきり、うつむいて黙り込む。波となって寄せてくる喪失感に耐えるように目を瞑る。
「そっか……」
彼女は息を吸うと、口もとにぎこちない笑みを浮かべて、不自然なぐらい明るい声で言った。
「じゃ、今日は一緒にいようか。……うん、大丈夫。アタシ、覚悟できてるから、さ」
手を拭いて、エプロンを外すとナイスネイチャは夫の隣に座った。膝を崩すと手を繋ぐ。彼の手は冷たかった。徐々に熱が抜けていっているのを感じた。ああ、やはりこの人は――。少女は繋いだ指先に力を込める。彼には凍えるような想いをしてほしくなかった。わずかばかりでもいいから熱を与えてあげたかった。
吐息すら聞き取れるほどの静けさ。
やがて、彼は口を開いた。
「……前みたいにさ……トレーナーさんって呼んでくれないか」
ナイスネイチャは微笑んだ。
「……いいよ。トレーナーさん……ふふっ、もう辞めちゃったのにね。変な感じ」
「……ネイチャと駆け抜けた日々にさ、浸りたくて」
どこかここではない遠くを見つめる目を彼はしていた。自分自身のルーツや現体験といったイメージを心の奥から取り出して眺めているような雰囲気だった。
ナイスネイチャは横目で、
「ん、いーよ? 思い出、振り返っちゃう?」
と、その瞳に慈しみの色を揺らしながら首をかしげる。ウマ耳を力なく垂らしながら、彼が――トレーナーが話しだすのを優しく見守った。
「……いろんなことがあったな」
「うん……そうだね」
トレーナーの脳裏に浮かぶのはナイスネイチャと初めて出会った日の出来事。斜に構えていて、どこか自信なさげで、応援する人たちの声から逃げ回るそんな少女の姿。
選抜レースで走る彼女の姿に衝撃を受けた。
唸るように風を切り裂いて。
未来への可能性に満ちたその末脚。
前傾姿勢で前を交わしてゆく。
その光はまだ小さくとも。
心を奪われるほどの星の輝きがそこにあった。
「ネイチャの駆ける姿を初めて見たとき、なんて素敵な走りをするウマ娘なんだろう、って思った」
絶対にこの娘のトレーナーになるんだ、と決意した。
彼女しかいないとも感じた。
「俺は……キミに夢を見たんだ」
ぽつりぽつりと零れる大切な思い出。
少女が自分の弱さを叱咤し、大きな壁に立ち向かうと決めた日。努力をしても越えられない壁に苦しんだ日々。
夏の遠征。自分の殻を打ち破った。二人のあいだに新しい約束事が生まれた。それは折り紙のトロフィー。
勝利を手に入れられるようになってゆき、ついには宿命のライバルに勝ち、栄光の頂点にまで登り詰める。
幻想的な光のなかで歌う少女を見て、生きていてよかった、と心の底から満たされた。
再び始まる苦難の日々。
それでも必死にもがき続けた。
そんな大切な記憶を語った。それは人生だった。
ナイスネイチャは彼の遺す言葉に耳を傾ける。
やがて、彼は全てを話し終えた。
トレーナーはこくりこくりと頭を凪いだ。身体からどんどん力が抜けてゆく。思考に靄がかかりはじめている。
少女は問いかける。
「……んー? トレーナーさん、眠いの?」
「そう、みたいだ。なんだか……すごく」
「寝ちゃいなよ。膝枕してあげる」
ナイスネイチャは自身の膝をぽんぽんと叩く。
トレーナーは抵抗せず、静かにそこに頭を降ろした。
「トレーナーさん」
「ん……」
「ずっと一緒にいるからね」
トレーナーの髪を優しく撫でる。
この人はもうすぐいなくなってしまう。一人で旅立ってしまうのだ。
ナイスネイチャはもう一つの覚悟を決めていた。
共にいよう。黄泉の果てまで。
少女の言葉を聞いたトレーナーはしばらく押し黙った。彼は言うべきことを頭のなかでまとめる。心のなかで彼女に謝ったあと、口を開いた。
「……それとな。もうひとつ、お願いをしてもいいか」
「なあに」
「ずっと長生きして、笑っていてくれるか? みんなに愛されるような、そんなウマ娘でいてくれるか?」
息を飲む気配があった。彼の髪を撫でる手の動きが止まる。やがて、ナイスネイチャは呟いた。
「……気付いてたの? アタシがあとを追うことを考えてるって」
トレーナーは苦笑いをした。
「ネイチャのことはずっと見てたからなあ。ネイチャが幸せでいてくれることが俺にとって、何よりの望みなんだ。だから……頼まれてくれるかな」
ナイスネイチャという少女はきっと受け入れてくれる、そんな全幅の信頼を込めてトレーナーは頼んだ。
少女の視界がにじむ。唇が開き、熱い息を吐いた。
「……ひきょーだなあ、トレーナーさんは。そんな優しい声で言われたら断れないじゃん。うん……約束するよ。アタシ、長生きするね。みんなに愛される、かどうかまではわかんないけどさ」
彼はトレーニングメニューを指示したときのように口角で微笑みをつくる。満足げな様子だった。
「トレーナーの指示だからな、ちゃんと守ってくれよ?」
「はいはーい、トレーナーさんのお気に召すままに」
少女も気楽な口調で応える――ふりをする。
彼とともに走り抜けた、楽しくて、輝いていたあの頃のような口調を再現する。できていると、いいけど。
「それを聞いて安心したよ……安心したら、なんだか眠くなってきたな……」
「ふふっ、もう寝ちゃう? いいよー、このまま寝ても。ネイチャさんの膝枕は極上だからねー」
ナイスネイチャにも感じることが出来た。トレーナーの命の灯火がまさに今、消えようとしているのだと。
いかないでほしい。
頬を涙が伝った。
(だめだ。だめだ。アタシはトレーナーさんを笑顔で見送るって決めたんだ。だから笑えアタシ。キラキラ一番星の、最高の笑顔で)
声の震えを隠せたかはわからない。自分はいまちゃんと笑えているだろうか?
「天国にも……いけちゃうかもよ?」
「もう真っ暗でな、何も見えないんだ。でもネイチャの笑顔はわかる。ははっ……やっぱり可愛いなあ」
トレーナーは少年のように無邪気に笑った。
その顔は本当にずるいな、って思う。穏やかで、悔いなんてこれっぽっちもない彼の表情。胸が苦しいのに暖かいんだ。一生、忘れられそうにないじゃないか。
「ありがと。トレーナーさんも格好いいよ。アタシの中では堂々の一着。ずーっと、ずっとね」
ナイスネイチャは目を細めて微笑んだ。もう眠っちゃうんだ? いいよ、でもね?
「いつか、また会いにきてくれる?」
「……ヘロヘロトロフィー持って、必ず、迎えにいくよ」
「待ってるね、トレーナーさん」
「……愛してるよ」
彼が優しく名前を呼んでくれた。
「ネイチャ……」
「……うん、アタシも愛してる」
そして――。
彼は深く息を吸って、静かに吐き出した。ゆっくりと、もう目覚めることのない眠りの底に沈んでいった。
「おやすみなさい――アタシだけのトレーナーさん」
その日、一雫の星の光が夜空に流れた。
季節は巡り、春が訪れる。
ナイスネイチャはひとり、中山レース場近くの公園を歩いていた。
よく晴れた気持ちの良い昼下がりだった。だいぶ暖かくなってきたとはいえ、まだ少し寒さの残る時期だ。
樹木は芽吹き、色とりどりの花が咲いている。長く長く、風が吹いた。枝が一斉に震えだす。その協奏曲の中心で少女は歩みを進めてゆく。
ちょっと冷えるし温かい飲み物でも買おうかな、と考えて、1.5リットルのコーラまで売っている変な品揃えの自動販売機で缶コーヒーを買った。がこん、と落ちてきた商品を取り出し口から拾いあげる。
ナイスネイチャは辺りを見回した。遠くにベンチがあったので、そこに向かってのんびり歩きだす。
公園は活気にあふれていた。
広々とした敷地内ではウマ娘の切り絵風の飾りがついたブランコや、ウマ娘を模した滑り台など様々な遊具が設置されており、多くの子供たちが興奮したように駆け回り、笑い声をあげている。そんな子供たちの目の届く位置では母親たちが楽しげに談笑していた。そのうちの何人かはウマ娘の奥さまで、彼女たちは幸せそうな表情をしている。
「ほーら! 踏み切ってー! ジャンプー!」
「あはは! おとーさんすごーい!」
家族サービス中なのだろう、ブランコに乗った幼いウマ娘の背中を父親らしき男性が押していて、きゃーきゃーと楽しげに笑う子供の声がここまで届いてきた。
ナイスネイチャは立ち止まった。
しばしの間、その光景に見とれた。
ぴょんとその子供がブランコから飛び降りて、近くまでやってきた母親に駆け寄ってゆく。母親も子供もウマ耳としっぽがついているウマ娘だ。機嫌よさそうにしっぽが振られていた。その後ろから父親らしき男性が追い付いてきて、親子三人で楽しそうに会話をはじめる。
自分にも有り得たのかもしれない、それは――。
ナイスネイチャは何か余計なことを考えてしまう前にそっと視線をそらした。再び歩みを進めはじめる。
やがて、ベンチにたどり着いた。
ナイスネイチャは座ろうとして、そこに小さな先客がいることに気が付いた。
それは、ぱかプチと呼ばれるウマ娘のヌイグルミだった。思いがけないことにそのぱかプチのモデルになっているウマ娘はナイスネイチャだ。本物のナイスネイチャはもう二度と袖を通すことがないであろう、クリスマスカラーの勝負服に身を包んだぱかプチがベンチにポツンと座っている。
本物のナイスネイチャとぱかプチのナイスネイチャはしばらく見つめあっていたが、なんだか可笑しな気分になってきて、少女は苦笑しながら話しかけた。
「きみもひとり? 奇遇だね、アタシもなんだ」
返事はもちろん戻ってこない。
ナイスネイチャはその隣に腰を降ろすと、缶コーヒーのプルタブを開けた。一口飲むとわずかに振り向いて、ぱかプチのナイスネイチャに語りかける。
「時はもう戻らないんだって。ナイスネイチャさん?」
少女は思い出す。
もう一度やり直せないか、今度こそ彼を助けられないかとシラオキ様を探したことがあるのだ。
けっきょく見付けられなかったのだけれど、夢枕としてなら一度だけ向こうから会いにきてくれたのだ。
彼女はナイスネイチャの頼みを断った。
――もう一度は無理です。あの日に帰ることはできません。
――どうして?
――時間を指定して戻すことが出来ないのです。あの日、有馬記念の二週間前に戻ったのは偶然じゃないんです。前回の時間軸ではあの日に私とナイスネイチャさんの間で何かしらの強い縁が生まれたから上手くいったのでしょう。
――縁っていうと、どんな?
――たとえば、聖遺物とかでしょうか。私にまつわる物などをお持ちになっていたんじゃないですか? 心当たりはありませんか? ナイスネイチャさん?
――シラオキ様にまつわる聖遺物? なんだろう? わからないかな。たぶん持ってないと思う。
――それでしたら、もう私の力ではどうにもなりません。本当にごめんなさい。ナイスネイチャさん。
「助ける代償がアタシの命でいいなら――と、思っちゃうよね。けっきょく出来なかったわけだけど。トレーナーさんもこんな気持ちだったのかな」
もちろん、今は生きるつもりだった。
だって、約束したから。長生きするよって。
なぜなら、彼は約束してくれたから。
必ず迎えにいくよ、と。
だから――ナイスネイチャはいまもあの人を待っている。
「そのあいだにトレーナーさん、すっごいトロフィー作ってくれてそうだよね。何十年もあるわけですし? どう思うよ、ナイスネイチャさん?」
少女は傍らのぱかプチを見た。当然なにも語らない。ただ、愛らしい瞳で前方を見つめているだけだ。
ナイスネイチャは頬をかいた。
「……って、アタシはなにヌイグルミに話しかけてるんだか」
そんなことを考えていると、近付いてくる足音に気が付いた。顔をあげると、先ほど眺めていた幼いウマ娘が走り寄ってきていた。
その子は父親と母親が立っている方向を振り返り「ないすねーちゃん連れてくるからまっててー!」と叫ぶ。その小さな両手で大事そうにぱかプチを抱きかかえる。
――そして。
ナイスネイチャと目が合った。
幼いウマ娘はこちらを見つめたまま、ぽかーん、と口を開けていた。
やがて、状況が飲み込めてきたのか、その瞳に憧憬と興奮の光が宿りはじめる。
「な、な、な、ないすねーちゃんだあああああっ!?」
「ちょ、うぇっ!?」
「うそ、うそ!? ホンモノッ!? うわあああっ!? ホンモノだああああっ!? ホンモノのウマ娘のないすねーちゃんだあああああっ!?」
幼いウマ娘は腕の中のぱかプチを強く抱きしめて、ウマ耳としっぽをぶんぶん振りながら、きらきらと輝く目でナイスネイチャに身を乗り出してきた。
幼いウマ娘の両親がその声を聞き付けて、こちらにやってきた。父親よりも母親のほうが圧倒的に駆けつけるのが速い。
「どうしたの? 急に大きな声出して?」
「おかーさん! みて! みて! ないすねーちゃんだよ! ホンモノのないすねーちゃんだよ!」
「え? ……あら、まあ」
母親はこちらを見つめて、目を丸くする。
ナイスネイチャは、
「あ、あはは。えっと……どーも? ナイスネイチャ本人でーす? そっくりさんじゃないですヨー?」
と、照れ笑いしながら手を振った。
「あの! あの! あの!」
幼いウマ娘がぐいぐいと近付いてくる。
「あたし、ないすねーちゃんの大ファンなの!」
「アタシの……?」
「うん! がんばる姿に、すっごくカンドーしたんだ! あたしもがんばって、ないすねーちゃんみたいなウマ娘になるの!」
「えっ? そ、そうなんだ?」
「ねえねえ! 握手して! あと耳もさわっていい? さわるねー! しっぽもふわふわー! かわいいー! ないすねーちゃん、かわいいー! いい匂いもするー!」
「うひゃあああっ!?」
しばらくのあいだ、ファンガールの幼いウマ娘にもみくちゃにされるナイスネイチャであった――。
「ないすねーちゃん、バイバーイ!」
「なんかウチの娘がすみませんでした……」
「お、お気になさらずー。あははぁ……あ、どもども」
幼いウマ娘は手をぶんぶんと振った。両親は恐縮しきりでぺこぺこ頭を下げてくる。ナイスネイチャもぺこぺこ頭を下げかえす。ヘロヘロヘイローとでも言いたげに彼女のウマ耳が疲れたように垂れていた。
とりあえず、幼いウマ娘には手を振り返しておく。なんだかんだで好意を向けられると優しくしてあげたくなるのがナイスネイチャというウマ娘であった。
「うーん……なんか疲れた……」
親子たちが去ったあと、ずずっと縁側のおばあちゃんのような仕草で缶コーヒーをすするナイスネイチャ。微糖にしておいてよかった。その糖分が疲れを癒すような――気がしないこともない。ウマ耳が同意をしめすようにぴこぴこ揺れた。ぷはー、とため息。
「あと、ねーちゃんじゃなくて、ナイスネイチャなんだけどね……ま、いっか……」
と、ナイスネイチャがぼやいていた時だった。
「ネイチャー! おーいおーい! ネイチャー!」
「あ、きたきた」
ナイスネイチャは立ち上がる。飲みきった缶コーヒーをすぐそばのゴミ箱に捨てた。
公園の出入り口のほうから、その黒髪のツインテールを揺らしつつ小柄なウマ娘が駆け寄ってくる。ナイスネイチャの親友マーベラスサンデーだった。
外行きのガーリーな雰囲気の私服姿である。肩掛け鞄をぽんぽん弾ませながら近付いてくる。
ほどなく到着。
楽しそうにハイタッチを求めてくる。
「やっほー☆ ネイチャー! 久しぶりー!」
「うん、久しぶり」
ぱしん、とそれに応えた。
マーベラスサンデーが申し訳なさそうに眉をひそめて、
「待ったよねー? ごめんね、ネイチャ! 撮影が長引いちゃって!」
と、言った。
「ううん、大丈夫大丈夫。アタシ、待つの慣れてるから。きっと何十年でも待てるくらい」
マーベラスサンデーはきょとんとした。だが、意味を理解した次の瞬間にはお腹をおさえて愉快そうに笑った。
「あははははっ☆ ネイチャ、それは気が長すぎー☆」
ナイスネイチャも口もとを手で隠して肩を揺らす。
「ふふっ。なーんてね! さ、どこいこっか? マーベラスはどこか行きたいところある?」
ふたりは公園を去ってゆく。
「そうだねー? カラオケいこー! ゲーセンいこー! ショッピングいこー! ぜんぶいこー!」
「はいはい、仰せのままに。やれやれ、ネイチャさん、こりゃ明日はパジャマ姿で三度寝確定かなー」
春の息吹きが髪をなでる。
太陽の光がふたりの少女を優しく包み込んでいた。