喜びや嬉しさなどの正の感情は、脆くて壊れやすく、忘れ去られ易い。
その反面、悲しみや憎しみのような負の感情はいつまでもいつまでも心に重く沈み込み、遺る。
そう。だから彼は消えたのだ。
間違ってしまった彼らに対する復讐の鬼となって――
「本日はお集まり頂き、誠にありがとうございます」
いつもとは違い黒いスーツと黒いネクタイをきちっと身にまとって、茶髪の男――迅悠一は軽く一礼する。
そして迅の後ろに居る二人――空閑遊真と雨取千佳も喪服に身を包み、真顔、と言うよりも、こちらを睨み付けながら立っていた。
三人の顔に浮かぶ表情は虚ろで、それでいてどす黒く煮詰め焦がしたような感情を持っている。
声が反響して、消える。空閑と雨取は口を開こうとすらせず、目の前のソファに座らされた七人――太刀川慶、風間蒼也、嵐山准、三輪秀次、二宮匡貴、影浦雅人、荒船哲次は互いに顔を見遣り、誰がこの異常な空気を切り裂こうかを考えていた。
空間は至って普通の家のリビング。家の外見も、平凡な一軒家。
フローリングの上には革張りのソファとローテーブル、液晶テレビに閉じられたカーテン。
至って普通。至って普通の筈なのだが、七人はどこか違和感を感じていた。
「おい、何だこれは」
テーブルの周りを取り囲むように置かれたソファのうちの一つに座っていた風間蒼也が、不機嫌そうに迅を見る。そして風間が口火を切ると同時に他の全員も様々な事を言い始めた。
「どうしたんだよ迅、急にみんなを集めたりして」
「悪趣味だな」
「…………チッ」
「迅、俺の隊は今日防衛任務があるから……」
「早く要件を言えよ」
「おいカゲ、落ち着けって」
七人――正確には風間以外の六人だが――は太刀川、二宮、三輪、嵐山、影浦、荒船の順番に話す。その全員が、なぜ呼ばれたのか分からないと口々に言う。
しかし迅はひとり嘲笑うように吐き捨てた。
「このメンツだよ? すぐに分かるでしょ」
それでも尚、皆が分からないといったふうに口を閉ざしていると、迅は笑顔を消した。
「それとも…………言いたくないだけだったりして」
その言葉に七人全員が息を呑んだ。
今まであった笑顔が消え、一瞬で無表情になる迅のその顔は、恐怖以外の何物でもなかったからだ。
迅が今までに見せた事の無い表情を浮かべた事により、渋々、といった様子で二宮が口を開く。
「……三雲か」
三雲、という名前を聞き、この空間の張り詰めていた空気が更に限界まで張り詰める。
「そう。大正解。今日、皆さんに集まってもらったのは、彼……三雲修の死について話す為」
三雲修。
彼はある日、
上層部は本人に写真が本物なのかの確認を取った。
三雲は否認し、それを偽物だと言い切った。しかし本物に見間違える程のそれを誰も偽物だと信じる人は居なかった。
――いや、この時点ではまだ半信半疑な者も居たかもしれない。だがその数日後、今度は一つの音声ファイルが入ったCD-ROMがばら撒かれてしまう。
内容は、三雲が淡々とボーダーの機密情報を
それにより、彼を信用する者は完全に居なくなり、彼を裏切り者だとする噂が瞬く間に広がった。
三雲を信用していた全員が裏切りについて憤っていたが、特に鳩原未来についての情報を
ただ隊務規定の違反はぎりぎりで回避しており、三雲の処分は上層部から数週間の謹慎処分が下されるのみで終わった。
しかし謹慎が明けた後、ボーダー内に彼の居場所は無くなっていた。
ある者は陰口を言い、ある者は直接暴力を振るい、またある者は彼の私物を隠したり壊したりした。
助ける者は居なかった。
日に日にやつれて憔悴していった三雲は、ついにある日、ボーダー本部の屋上から自ら飛び降りて死んでしまったのだ――
「勿論君達だけのせいじゃない。けど、率先して彼に辛い思いをさせていたのは君達だよね?」
その言葉に、互いが顔を見合わせて誰かが否定の言葉を紡ごうとしたその時、「違うとは言わせないよ。ここに証拠もあるんだから」と遮るように迅が笑った。
後ろに居る二人がそれぞれ長方形の紙を数枚持ち、雨取が左から、空閑が右からその紙を一枚(もしくは数枚)ずつ彼らに手渡した。
その間も二人は一言も話さない。
手渡されたのは写真だった。
殴る蹴るの暴行を加えている写真、暴行現場を見たにも関わらず素通りする写真、無理強いをしてそれを嘲笑う写真、その他諸々。
見知らぬ人が見たら百人中百人全員が『酷い』と言い切るような写真。そして、それらの写真には全て、手渡された者の顔がバッチリ写っていた。
「彼は死ぬ直前まで、
迅がゆっくりと座っている男達の周りを歩く。まるで幽霊が動いているかのように、足音は全くと言っていいほど聞こえてこない。
「誰もが彼の表面しか見ていなかった。いや、表面も、彼の顔すらも見ていなかった」見下し、嘲笑う表情で言葉を紡ぐ。「彼は実際、無実だったんだよ」
元いた場所に戻ってきた迅は大きく息を吸い、次の瞬間、大声で叫んだ。
「この中の誰かが三雲修を
迅はここに座っている中の誰かが殺人鬼だと声高々に言い張る。
誰もが静かに聞いていたが、ただ一人、イライラとした顔で小さく声を放った男が居た。
「……ざけんな」
静寂な空間では、どんなに小さな声でも大きく反響する。
影浦は迅に殴り掛かろうと、ソファから思い切り立ち上がった。
「ふざけんな!! 無実? だったら証拠を見せろ!」
「おい落ち着けよ馬鹿!」
「離せ!!」
隣に居た荒船が影浦を羽交い締めにして抑えようとするが、力が強く、すぐに振りほどかれそうになっている。それはあながち勘違いでもなく、荒船は振り回された腕に一瞬で吹き飛ばされた。
解放された影浦が迅の胸ぐらを掴もうと腕を伸ばし――そしてそのまま空を掴んだ。どさり、と影浦はその場に倒れ込む。
「! てめぇ……」
幸い意識は失わなかったらしい影浦は倒れたままゆっくりと首を動かして上を見る。そこには、見下ろすように目だけを動かした三人が頑丈そうなガスマスクを着けていた。
ざわめきの中、呆れた、と言わんばかりの溜め息をついた迅は、咳払いをして、それから。
「この場所があんたらの墓場になる。覚悟しておいてよ」
そう、ガスマスクで篭った声で言った。
バツン、とスイッチの音。それと同時に部屋の電気が消える。カーテンの閉められたこの部屋には光源が無く、あっという間に辺りが薄暗い闇に包まれる。
ソファに座っていた男達は僅かに残された人の気配のみを頼りに辺りを警戒していたが、それも空気の抜けるような音と、強烈な薬品の臭いで無駄となる。
そうして、彼らにとって地獄とも言える数時間の戦いが始まるのだった。