『おはよう、太刀川さん』
目を覚ましたのは、先程までの一般的なリビングではなく、下水道を彷彿とさせるような水の滴る薄暗い場所だった。
湿気と苔のせいでぬめる地面。手や服を犠牲にしつつ立ち上がれば、目の前には錆びた金属の鉄格子。チカチカとちらつく黄みがかった蛍光灯の光が、この空間の雰囲気を尚更不気味にさせている。
檻の鉄格子が一部外れていた箇所があった。身体を横にすればギリギリ通れそうな幅の隙間。太刀川は、その僅かな隙間を通り、檻から脱出した。
「……で? ここはどこだよ」溜め息をつく。
檻の中から出られたのはいいもののこの空間から出る方法は分からない。
足首まで浸かる程の水と湿った空気、檻と向かい合うような壁の上の方に設置されているモニターは、どこかホラー作品を彷彿とさせる。
ノイズがかってはいるが、モニターには笑顔を浮かべた迅が映っている。
『漸くお目覚めか……太刀川さんって意外と眠り深いタイプ?』迅はクスクスと笑っている。『こんな状況ですやすや寝れるなんで頭おかしいんじゃない? いやいや嘘だよ、催眠ガス使ったから太刀川さんは無理矢理眠らされ――』
「俺から見たらお前が一番頭おかしいよ」
迅の言葉を遮ってそう言うと、怪訝そうな顔をして彼は口を開く。
『……何を』
「何を言ってるか、って? それは俺が聞きたいなあ」
『は?』
そう。ひとつだけ。ただひとつだけ聞きたい事。
お前は――
「お前は
訪れた静寂と同時に、その場全体の空気がピン、と張り詰めるのが分かった。
『……手の平返し? 何言ってんの』
ニヤリ、といった薄気味悪い笑みを浮かべる迅に向かって舌打ちし「くそったれ」と小さく罵る。それを知ってか知らずか、迅はくく、と笑い声を漏らした。
『今から太刀川さんにやってもらうのは、七人の中に居る犯人を名指しする事。ただそれだけ』
淡々とした説明に面食らう。それだけ? 確かにそれだけだが、俺は――
「言うわけない……」
『言わなくてもいいけど、大事な大事な仲間が死ぬよ』
バチ、とモニターの下に明かりが灯る。
何も無いと思っていた分厚いアクリルで遮られたその向こうに、左足首を重たそうな鎖で拘束された出水が居た。
「! 出水!?」
「た、太刀川、さ……」
その弱々しい声は、いつのも出水とは大違い。アクリルの壁に駆け寄って強く叩きながら叫ぶが、こちらの声は聞こえないらしく、泣く寸前のような声で小さく呟くだけだ。
『今からこの中に水を入れる。結構勢いよく入れるから……持って二分かな。じゃあスタート』
うーん……とわざとらしい考えるモーションをしてすぐ、迅は手元にあるらしいボタンを押した。瞬間、ドバッと滝のように放流される水。出水は目を開き、流れ込む水を凝視する。
その異様な光景に寒気がした。まるでどこかのホラー映画を彷彿とさせるような――
「おい出水を出せ!」
『勿論解放するよ。ただ、太刀川さんが犯人の名前を言わないとそのままだけど』
堂々と言い放つ迅を見て絶句する。
「こいつを殺す気か」
「あはは」棒読みに近い笑い声と水の音が耳を刺す。
『さあ、誰が殺したと思う? 誰が、人狼?』
飄々とした余裕そうな表情に、心の中で舌打ちをする。くそ、くそ、くそっ!
水の流れる音にフラストレーションを溜めながら記憶を探れば、その中に一人だけ疑わしく、人狼だと言われて思い当たる人物が居る事に気が付いた。
「…………ん」震える声で名前を言う。
『ん、何? なんて?』しかし迅はわざとらしく聞き返す。
その嫌味ったらしい態度にまた怒りを感じつつ、名前を大声で言い放った。
「風間さんだ」
その名をはっきりと口にした事により、心臓が破裂しそうなくらいに動いているのが実感できる。
『へえ……太刀川さんは風間さんが犯人だと思うんだ。理由は?』
しばらくの沈黙の後迅がそう問い、俺は風間さんを疑って、名前を出した理由を話した。
そう。あれは三雲が死んだ日。
偶然ボーダー本部の屋上へ行く為の入口の前を通った際、風間さんとばったり会った。
「あれ、風間さんどうしたの」
「落ちた」
「は?」
「三雲が落ちた」
最初は“落ちた”ってどう言う意味だろうと思ってた。けど、その一時間後、迅から三雲が死んだという話を聞いた。
“落ちた”。つまり、転落死した、という意味だったのだ。
後でその意味を知った際に、俺の脳内には一つの疑問が残った。
――何故、風間さんは知っていたのか。
迅が一時間後に三雲の死を話す前に何故三雲が
理由はひとつしかない。
風間さんが屋上から突き落として殺したから。
そういえば偶然会った場所も屋上の扉前。ならばその考えは殆ど当たりに近いのでは?
「……俺は、そう思った」
自論を全て言い終わったにも関わらず、水の勢いは止まらない。
既に
『オッケー、じゃあ水を止めよう。殺すのはもう懲り懲りだからね』迅は数回頷いた後、手元のボタンを押した。押した瞬間に水の勢いはピタッと止まり、間一髪の所で出水は助かった。
『じゃあ次のステージに行こう。鉄格子を開けるから待ってて』
しばらくすると左側の奥から鈍い金属音が聞こえてくる。つまり、鉄格子を開けた、という事なんだろう。
早く。早くこんな馬鹿馬鹿しいくそみたいなゲームを終わらせてくれ。そんな気持ちのまま早足で進もうとすると。
『ねえ』
迅の声に呼び止められ、俺は振り返ってモニターを見る。
『人を殺した気分はどう?』
その問いの意味が最初は分からなかった。人を殺した? 俺は殺してない。そう言おうとして、は、と息をのんだ。
何を言っているんだこいつは。正気か? それよりも何故……
「迅、お前最低だな」
そう吐き捨てて、太刀川は開いた鉄格子の向こうへ歩いていった。
『……あんたにそれ言われたくないよ』
『おはよう、風間さん』
閉じ込められていた檻――正確に言うと一部が壊れていた為閉じ込められていた、と言うのは少し違うが――から出ると、目の前の天井近くに設置されていたモニターが光を灯す。
「おはよう? 今は朝なのか?」
『ふふ、さあねー』
前々から思っていたが、迅の、この相手を煽る話し方はどうにかならないのだろうか。今は特にその話し方が顕著だ。いらいらして仕方がない。
『それよりもさ。風間さんにはやらなければいけない事が残ってるでしょ?』
その心境を読み取ったのか、迅は更に嗤う。
「……は?」
『犯人当てだよ。誰が三雲くんを殺したのか……』
そんな事を笑顔で言う迅に更に苛立ちを覚える。
「そもそもそんな事をお前が言えるのかすら怪しいだろう」迅のグダグダとした長話を遮る。
『ん? どういう事?』
しらを切るつもりか。
「お前、三雲が裏切っているのを知っていて敢えて黙ってたんだろ。今のこの
迅の表情が一瞬歪んだが、すぐにまた笑顔に戻る。
『……何言ってんの?』
「それに、お前が太刀川と一緒に三雲を殴っている所を見た」
すっとぼけようとする迅を逃がすまいと、更に追撃するが。
『風間さんは殴られてる三雲くんを見て、助けようとは思わなかったんだね』
「その言い方だとお前も一緒に殴っていた事は認めるんだな」
『認める、なんて一言も言ってないけど?』
「…………」
『…………』
僅かな隙を突き逃げられたと悟る。モニター越しに迅と睨み合う。
膠着状態がそのまま数分間続いた後、何事も無かったかのように迅は笑いながら口を開いた。
『ねえ。風間さんは、誰が彼を殺したと思う?』
分かりきった事を聞くな、と叫んでやりたい気分だったがその言葉をぐっと飲み込んで、心を落ち着かせ、冷静に思っている事を言い放った。
「自殺だ」
『……何言ってんの? 殺されたって言って』
こちらを見下したような顔で言う迅の言葉を無理やり遮り、俺は自分が見た全てを端的に話した。
「あいつは……三雲は、俺の
あの日三雲に呼び出された俺はボーダー本部の屋上に向かい、屋上の扉を開いた途端、制服姿の三雲はこちらを見て屋上から自分で落ちていったんだ。
『……本当かなぁ』
「嘘は言ってない」
そう。これが三雲の死の真相であり、俺の見た全てなのだ。
『え〜、風間さんって結構涼しい顔して嘘つくんだねえ。殺したくせに』
「だから自殺だと……」
『おれは知ってるよ』
冷たい目。
迅の顔から表情が抜けて冷たい目だけがこちらを見る。
ピクリ、と眉を動かす。まさかこいつ……
『あの日風間さんは、み……』
「やめろ!」
らしくもない大声で言葉をかき消すように叫ぶ。
モニター越しの迅は突然の大声に驚いたらしく肩を一瞬ビクリと揺らしていた。
「……お前に何が分かる」
『あはは。……分かるよ、全部』
忌々しい愉しげな笑い声に苛立ちを隠しきれなくなり、思わず、近くに落ちていた石を握ってモニターへとぶつけてしまった。大きなクレーターのような穴が黒い画面に出来る。
『おお、こわいこわい』途切れ途切れな声がスピーカーから響く。お前の所為だろうが、と叫びたくなる気持ちをぐっと堪えつつ拳を握り締めた。
『じゃあ次のステージに行こうか。鉄格子を開けるね』
その言葉のしばらく後、ギギ、と錆び付いたような音を立てて視界の左側にあった鉄格子が開かれる。
声は聞こえなくなった。鉄格子の先に進め、という事なのだろう。
「迅、これはお前が本当にやりたかった事なのか?」
モニターが見えなくなる直前に立ち止まって画面に――迅に対してそう問い掛け、返事を聞くことなく立ち去る。
誰も居なくなって空っぽな空間に、ただ一つの声が反響した。
『……自分のやった事は棚に上げてるのにね』
『おはよう、嵐山』
目を覚ませば、意識を失う直前の日常的な一室は無くなっていた。
周囲は薄暗い黄色い明かりの点る、映画やドラマでよく見る下水道のような空間。そこに俺は一人で寝かされていた。
下水道のような、とは言うけれど本物の下水道では無いらしく、レンガの壁と鉄格子が並ぶどちらかというと古い刑務所や留置所に似た雰囲気がある。
胸中は不安と恐怖で押し潰されそうだった。
檻の中に閉じ込められていた俺は、人ひとりが通れそうな穴の開いた場所から檻を出る。瞬間、モニターにノイズがかった迅の顔が映された。
「……迅、どうしてこんな事を」
『どうして? それは自分の心に聞いてみなよ』
こちらを見詰めて嗤う迅。
『ねえ嵐山はさ。なんで彼を苦しませたの?』
それは迅にとって純粋な問いだった。
分からないのだ。何故、誰に対しても心優しい嵐山が彼に対してのみ冷酷な言動をしたのか。だから聞いた。
それなのに、嵐山は意外な事を言い始めた。
「なんでって……お前が最初に俺に言ってきたんだろ!?」
必死な形相でそう叫ぶ嵐山を見て、自分の中の記憶を探る。
『……言ったっけ? 何を?』
「言った! ボーダー隊員に裏切り者が居る、おれはそいつに殺される、って!!」嵐山は肩を揺らして呼吸を整えている。「だから俺は三雲くんが裏切ったと聞いた時、彼が迅を殺すんだって思って……お前を守ろうと……」
徐々に自身の中に記憶が蘇る。
『……あー、そんな事も言ったっけなあ』
でも、今はそれも全く関係無い。
モニター下に明かりが灯る。分厚いガラス張りの壁の向こうに、鎖に繋がれた首枷を付けられた木虎藍が居た。
「木虎!!」
「嵐山先輩!」
どうしてここに木虎が!?
「嵐山さ、『ファラリスの雄牛』って知ってる?」
それと同時に、手元にあるスイッチのようなものに触れた。途端、機械の重低音が鳴り始める。木虎の身体が跳ね、辺りを見回している。
「処刑に使われるやつでね。牛の見た目をしてるやつ。真鍮製だから牛の腹に火を当てると、段々と牛が赤くなっていって……中に閉じ込められた人は灼熱地獄を味わうんだ」
彼女の周りの空気が蜃気楼で揺らめき始める。
『完全再現は無理だったけど……造っちゃった』
この場に不釣り合いなテンションの高い声が聞こえた。
木虎は呼吸が辛いのか肩を上下に動かし、汗を垂らして顔を真っ赤にしながら叫びをあげている。
『ねえ嵐山? 三雲くんを殺したのは、いったい誰だと思う?』
助けて、助けて。
目の前の透明な壁が勢いよく叩かれる。
『さあ、早く答えてよ。じゃないと木虎
叫び声は次第に弱くなっていき、目は虚ろになっていく。
記憶を辿る。
誰だ。
あったはずだ。数ヶ月前のあの日、彼が死んだという報せを聞く直前に偶然その瞬間を目撃していて、怪しいと思っていたのは――
「……あ、荒船くんだと、思う」
脳内に浮かんだのは彼だった。
目の前で弱っていく少女を見ていられなくなり、思わずその名が口から出る。
『何故?』
「三雲くんが死ぬ直前、彼と荒船くんが言い争っているのを聞いた」
何を言っているのかは途切れ途切れにしか分からなかったけど、確かに言い争っていた。
言い争いの相手である三雲くんは――泣いていた。
「彼が三雲くんを屋上から突き落としたんだ!!」
『……そっか』
口角だけを上げた作り笑いを浮かべつつ再びスイッチを押す迅。
すると重低音は止まり、天井だと思っていた部分が開く。どうやら冷風が流れ込んできたらしく、木虎は安心した表情を浮かべ、その場に倒れ込んだ。
「木虎、大丈夫か!?」
『大丈夫。嵐山達以外を殺す気は無い』
「俺達は殺すのか?」
『さあね〜。ほら、次に進みなよ』
鼻歌がスピーカーから響き、左側の鉄格子がゆっくりと開かれていくが、そんな事はどうでもいい。
地面にうつ伏せに倒れたままピクリとも動かない木虎を俺はアクリルの壁越しに見ていた。――彼女は本当に大丈夫なのか。
その時、迅がぽつりと呟いた。
『……悪意の無い言動ほど怖いものは無いよね』
――は?
「な、何を言って」
俺は最初、迅の言っている事がよく分からなかった。しかし、次の一言でハッキリと、思い出してしまったのだ。
『人殺し』
「……!」
思い出したくもない記憶が掘り起こされる。少し掘り起こされれば、後はずるずると紐を引っ張られるかの如く忘れたい記憶が流れ込んできた。
ざわざわざわざわ。
辺りは静かなはずなのに喧騒が聞こえてくる。
「うるさい、うるさいうるさいうるさい!」
喧騒が聞こえてこないように耳を強く塞ぐが全部無意味で、騒音は手のひらを貫通して鼓膜を震わせる。頭が狂いそうだ。
「迅!! 俺はお前を絶対に許さない!!」
嵐山は発狂寸前のままモニターに映る迅を指差し、鉄格子の向こう側へとよろよろと歩いていった。
『……別に許されなくていいよ』