緩い下り坂になっている通路を進むと、次第にコンクリートの地面を水が覆っていくようになる。
薄灰色に濁った水はつま先、足の甲、踵、そして足首を濡らしていく。
自身の内側にある拭えない不快感を必死に感じないようにしつつ、浸かった足を動かし通路を進む。水音が広い空間に響いてだんだんと通路を照らす明かりの数が減っていき。最早数メートル先に何があるのかも分からない。
後ろを振り返り今まで通ってきた道を再び見れば、黄色い光がチカチカと点滅している。再び前を向いて自分がこれから進む場所を見ると不安感がじわりと滲み出す。
目を凝らしても何も見えない暗闇と響く足音に、不安感は更に増していく。
足首まで浸かる水に足を取られつつ警戒しながらゆっくりと進んでいると、突然バツン、という音と共に、周囲にオレンジ色の光が灯った。急激に視界が明るくなった事により目が開けなくなって、思わず俯く。
しかしそれ以上に驚愕したのは、静かだった空間にいきなり曲が流れ始めた事だろうか。
例えるならば遊園地やサーカスで流れているような、楽しげな曲。これがちゃんと適切な場で流れていたら別に何とも思わなかっただろう。
だが、今は違う。ここは遊園地でもサーカスでも無い。
――つまり、非常に不気味だという事だ。
明るいイルミネーション。愉快な曲。
それらは既に崩壊しかけている誰かの精神を更に壊しにかかる。
『こんばんは。第二ステージにようこそ』
どこからともなくあいつの声がまた聞こえてくる。
『第二の試練は、この真っ直ぐ伸びた通路を歩いて進む事です』
声は上から降ってきているようだ。瞬きを繰り返していると、だんだん視界が光に慣れてきたのが分かる。思い切って顔を上げれば、そこは十メートルほどある天井の高い、細長い通路だった。
天井付近にはキラキラと点滅を繰り返しながら輝く無数のイルミネーションライトが飾られており、近くにスピーカーのような物も見えた。そして壁に設置されているのは――無数の罠。
「悪趣味な……」二宮はぽつりとそう思わず呟いていた。自分以外の人間は存在していない為、放った言葉は自然と独り言として処理される。
場違い感の漂う明かりと音楽は既に疲れきっている七人の精神を揺さぶり、更に神経をすり減らしにかかる。
『ねえ。あんたが、殺したんだよね?』
そんな声が聞こえ、ぎょっとする。
「殺してねえよ!!」
血の気の多い影浦はすぐさま叫ぶ。決め付けたような口調に怒りを覚えるが、少しの沈黙の後に耳障りな笑い声が響いた。
『あはは、冗談。大体、今流れているこの映像はあらかじめ撮られていたやつだからね。今そこで反論してもおれには届いてないよ』
まるで今この状況を見透かされていたかのような言葉。手の平の上で転がされているような気分になってイライラする。
『じゃあね。生きてたらまた会えるはずだ』
その言葉を最後に迅の声は聞こえなくなった。七人は、それと同時に早足で前へ前へと歩く。
しかし、精神的に衰弱し、ここから早く出ようという焦りの気持ちが強くなったからか、全員が
「い……った!?」
ガシャンという音と共に鋭い痛みが右足首に走り、慌てて水の中から足を上げれば、そこには金属製の罠――俗に言うトラバサミ――が足首に引っかかっていた。
ある者は左足、またある者は右足を。
トラバサミの鋭い刃は足首に深くくい込んでおり、傷口から真っ赤な血が垂れてきている。
「くそッ」
太刀川は両手を使ってこじ開けるようにトラバサミの刃の部分を開く。本音を言うと気が狂いそうになるほど痛い。もう動きたくないと思えるほどに。
だがここから出る為にはあの遠い場所にある出口まで到達しなければいけない。
痛みを堪えつつ、辺りを警戒しながら進む。
「どうして……こんな事」
嵐山はそう独り言ちる。右足はもう使い物にならない。
水の中に隠されていたトラバサミが発動して足首に食らいついたせいで、水は
自分の手がとっくに汚れきってしまったのだと!!
弱りに弱ってしまった思考ではそう思わざるを得なかった。
――絶対にまだ罠がある。
三輪はそう確信した。あの迅がこれだけで終わらせるはずがない。
焦ったら駄目だ。
少しずつ進んでいたその時、カチ、と足元で音がした。なにかのスイッチを押したみたいな、非常に聞き慣れた音。
……スイッチ?
(まさか……)
嫌な予感に身体が震える。
そんな事は無いだろうと思いつつも心の中でカウントダウンをし、数字がゼロになった瞬間、その場から勢いよく飛び退いて足を離した。
自身の勘が当たっていたのを知る事になるのは、それから数秒後の事。
バシャン!!
唐突に上から何かが落ち、ひどくうるさい音を立てて破片が水と共に飛び散った。
水に手を突っ込んで地面に沈んだ破片を一つ持ち上げる。
「……ガラス、か?」
それは鋭く尖った分厚いガラス板の破片だった。突き刺したら簡単に人の皮膚なんて裂けそうな鋭い破片。
これがそのまま頭上に落ちて来ていたら……ひとたまりもなかっただろう。
今ので分かった。
あいつは――あいつ
そこまでしてでも三雲を殺した犯人を炙り出そうとしているんだと。
だとしても。
「こんな所で死んでたまるか……」
ふらつきつつも真っ直ぐ続く道を歩く。
出口はまだずっとずっと離れている。普通ならダッシュで駆け抜ければいいのだが、罠のせいでそうもいかない。
新しい試練は、まだ始まったばかりだ――
――水に浸かる足を引き摺りながら影浦は懸命に進む。
『じゃあね。生きてたらまた会えるはずだ』
ブツリと聞こえた後、スピーカーから音が消える。そんな数分前の記憶を思い出し、またフツフツと怒りが湧き上がってくる。
「ふざけんなよ!! こんなのただの拷問だろ!」
大声出して叫ぶが、その声は虚しく響くのみで向こうの迅には届かない。
いや、そもそも拷問ですらないのではとも思ってしまう。
あいつらはこちらが思っているより何倍もの殺意を持っている。純粋な殺意と悪意を更に煮詰め焦がしたような、そんな醜悪で不快で最低最悪な罠ばかり。
それだけじゃない。この通路に来る前のあれもだ。
無関係なやつを閉じ込めて殺そうとしていた。しかも笑っていた。
先ほどの雨取の笑った顔を思い出し、また胸の奥がモヤモヤと気持ち悪い感覚に囚われる。
俺達を痛め付けて本当の事を全部言わせようとしているのだと思っていた。しかしトラバサミだけではなく、先程の分厚いガラス板のトラップを見て、それが違うのだという事を悟った。
――殺す気だ。
あの男は俺達全員を殺す気でいる。
「迅……お前の本当の目的は一体何なんだよ!」
モニターは無い。
あいつは――迅はきっとどこからか見ているのだろうが、俺には分からない。
三雲を殺した犯人を探すだけならここまでしなくても良いはず。
何故ここまで……
傷だらけになりながらも荒船はゆっくり確実に進んでいた。目の前に光る何かが見え、慌てて立ち止まり目を凝らす。
すると、スパイ映画のセンサーを彷彿とさせる半透明のテグスがそこかしこに張り巡らされていた。
「これは……」
避けなければまたさっきのような事が起きる。
そう確信した俺は糸に引っかからないように身体を傾けながら道を進む。
慎重に進んだお陰か、一回も引っかからずにあと少しの所まで来れた。
あと少し。あと少しで――
「!!」
引きずっていた右足がテグスに引っかかる。
油断してしまった。まずい。何が起こる? どうすればいい。
脳内が混乱に陥る。
身体中の筋肉が固まり、その場で動けずに立ち尽くす。
「……あれ?」
何も起こらない? もしかしてただの脅かし要素だったのか。
身体から力が抜ける。
しかし、気が緩んだその時を狙って、勢いよくナイフが飛んできた。
「いっ……!?」
ナイフは左腕に刺さり、二の腕に鋭い痛みが走る。
それで調子が更に乱れたのかその後も繰り返しワイヤーに引っ掛かり、全身のあらゆる部分目掛けてナイフが飛んできた。
そのうちのほとんどは避けられた――もしくは偶然当たらなかった――が、それ以外の数本が太ももや脇腹を刺したり、頬を掠めたりした。
『あんたが、殺したんだよね?』
死刑宣告じみた迅の声が脳内でこだまする。
違う。違う。俺じゃない。
俺は、殺してなんか……!!
左足首が痛い。
足首だけではない。突然落ちてきたガラス板の破片だったり、飛んでくるナイフの餌食にもなった。
濁った水を染めていく赤い血を見て、自分はここで死ぬのではないか……と風間蒼也は一瞬弱気になる。
しかしそんな感情も、目の前の光景を見て全て吹き飛んでしまった。
突然、目の前で大雨が降り始めたのだ。
天井のあるこの空間で雨がざあざあと音を立てて地面に落ちていく。はっきり言って異様な光景だ。
首を傾けて上を見れば、天井に格子状の穴が空いており、そこから雨が落ちているようだった。
雨……
本当に雨なのだろうか?
意を決して、雨が降る空間へと右手を伸ばす。
「ッ!?」
右手が雨に触れた瞬間鈍い痛みが手の甲全体に降り注いだ。
慌てて手を引っ込め、手の甲を確認するとそこは真っ赤な火傷のような傷が複数あった。
火傷という事は熱湯か? いや、温度はさほど高くなかった……
「……ふざけるな」考えていくうちに、もう一つの可能性に辿り着く。
あの男、俺をバカにしやがって……
イライラは最高潮になり、何がなんでもここを通ってやると半ば意地で決意する。
深呼吸を一回行い両腕で頭を覆う。
覚悟は出来た。後は――
「くっ……」
なりふり構わず全力疾走で出口まで向かう。
雨が皮膚に触れる度にじくじくとその部分が痛みを感じる。そのせいか、ナイフの時よりも道が長く感じてしまう。
無心のまま走っていると出口がだんだん近付いてくる。
あとちょっとで出口に行ける。――こんな所で無様に死んでたまるか。
「ああああああああッ! くそっ、くそっ!」
叫ぶ。誰もがあと少しだと気力を振り絞って叫ぶ。叫び声が響き渡ると同時に、指先に触れた鉄格子が開いていった。
よし、これで、終わる――
「何を訴えたとしても、君達はただの加害者でしかないんだよ」
迅は眼前に置かれているモニターを見詰めていた。
液晶には、傷だらけであちこちから血を流しながら、よろよろと開いた鉄格子の向こうへと歩く七人が映る。
「全て順調。そう、全てね……」
後ろを振り返りつつ思わず笑みをこぼす。
迅には確信があった。全て成功する確信が。
未来視のサイドエフェクトがあるというのはもちろんの事、その他にもこちらには“とっておき”がある。
「さあ、行こうか」
最後の審判だ。
扉を開き、おれ達は七人の元へと向かった。