本人には言うハズないが、テイオーの加入はキタサンブラックにとって明確な転機だと言えるだろう。結局はスポーツだ、おれが口で色々喋ったところで、どうやって走ればいいかなぞおれにはわからん。
そういう意味では、やっぱその道の先輩がいるってのは大きい。
「ちーがーうーよー! そうじゃなくて……こう!」
「ええっと……こ、こう……ですか?」
お……大きいか? なんかチンアナゴのポーズみたいなのやってんだけど……。しかし至って真剣なので、おれもなんかツッコでいいか迷う。本当にレースに必要なことかもしれん……いや、流石にチンアナゴのポーズはない……か……?
「じゃ、いくよ? こほん……さかな〜」
「……チンアナゴぉ〜!」
やっぱリコリコじゃねーか! くそ、真剣に考えるんじゃなかった!
「あっ……そういうことですね! あたし分かりました!」
……!? 何が分かったんだ……? おれの疑問をよそにキタサンはすっきりとした顔で走り出した。やべェ。ついていけねェ……。
ともかく……なんかクソガキは軽い足取りで走っている。心なしかいつもより速い……ような……気がする……。
うん……ええっと……ええ。これおれどうすればいいんだ? てかこれおれいる?
「いるでしょ。見守るのがトレーナーの役目だよ。っていうかそれ以外にトレーナーに求めてるものなんてないから。なんも出来ないでしょ、普通に」
辛辣ぅ。が、これは甘んじて受け入れる。レースの闘い方とかはテイオーの方がよっぽど詳しい。ネイチャとかアドマイヤ先生とかもキタサンに色々教えてはくれていたのだが……どうも、テイオーの方が相性がいいらしいな、キタサンとは。感覚派らしい。
はァ、トレーナーってのはもどかしいね。見てるだけとは。
「……まぁ、トレーナーは頑張ってるんじゃない? トレーニング計画、めっちゃ練ってたのは分かるよ。だけどまあ、あーいうのって大体うまくいかないんだよね〜」
そうなの?
「だって分かんないでしょ、未来の話とか」
それはそう。こうなるだろうでこうはならないのがウマ娘〜プリティーダービー〜。トレーナーとは。
……え、じゃあおまえに丸投げでいいの?
「別にいーよ。ボクがアルファード入ったらトレーニング全部ボクが主導でやろうか?」
急におまえをアルファードに入れたくなってきたな。そういうことができるんなら早く言って欲しかった。いや……。
いや、そういうことは早く言えよッ! そしたらこんなに拗れてねーだろ!? さっさとおめーをアルファード入れて終わった話じゃねーか!
「し、知らないよッ! だいたいボクだって都合のいい女じゃないんだからッ! そういうのはネイチャだけでいいでしょ!?」
ネイチャのことなんだと思ってんだオメーは。あいつはアレだぞ、気配りが出来て、緩くて居心地がいい雰囲気を作ってくれて、後輩の面倒見もいいし、いつでもニコニコしてて、おれのやりたいことをすぐに察してくれる……都合のいい女なんだ……あいつは……。
「なんなのトレーナーは。最近情緒不安定じゃない? というかなんで頭抱えてるの……」
……おれはいつになったら家に帰れる? いつになったらゴローに会える? いつになったらベッドでぐっすり眠れるんだ。誰も教えちゃくれない。頼むよ、答えてくれ、テイオー……。
「や、やめてよ。縋りつかれても困るよ。なんか責任感じちゃうじゃん……」
まさかこんなにトレーナー業が辛いとは思っていなかった。GⅠ勝たせてやるとかノリと勢いで言ったことを後悔している……。おまえが正しかったよ、キタサン……。
「トレーナー弱ってるねー……。っていうか、普通のトレーナーはリハビリ業務もないしご飯も作らないからね? もっと楽っていうか、レースに集中できるんだから。自分の仕事増やしてるのはトレーナーなんだよ?」
言うなよ、自覚してる。だが今更やめるわけにはいかないんだ。
「墓穴ばっかり掘るんだから……。ほんとにトレーナーはしょうがないよねー。はぁ、休憩終わり! さ、記録はちゃんと取っておいてね!」
ふむ、いってら。
クソガキをおれは見送った。
そんなことを言いつつも、キタサンブラックの成長は目覚ましいものがある。それは大してレースに興味のないおれにもわかる。というか、ストップウォッチの数値を見てれば誰でもわかる。
生活の全てをレースに捧げているのだ。当然……と、言い切るのは、ちとクソガキには失礼かもな。それはヤツの努力を軽んじている。
余白のない生活。それ以外をしない生き方──それはおれにも覚えがある。それは……まるで、一つの部品にでもなったようだった。自分の望みを叶えるための歯車になると言うことだ。
歯車は感情を持たない、ただ軋みながら回るだけだ。クソガキをそうさせたのはおれだ。もっとも罪悪感など抱かないがね。それもヤツに対する侮辱と言えよう。
そういう意味で言えば、おれの生活にも余白がないのが引っかかるが、しかし……麦を蒔けば麦が生るのは当然のことだ。だが他にどうしろってんだ。おれは嘘をつくつもりはない。口は災いの元、しかし口を開かねば生きてはいけない。大人は辛いね、全く。
「…………え、なんでテイオーがトレーニングしてるの? え? せんせーが見てるの? え? なんで?」
んおう、ネイチャ。どうした?
「どうしたじゃないですよ。え? いや……あれテイオーだよね? アタシの見間違いじゃないですよね? なんでテイオーがせんせーのとこでトレーニングしてるの? え? なんで? ねえなんで? ねえ、答えて?」
近い近い近い。離れろ。
「え? テイオーに勝つのが目標ですよね? そしたらせんせーになんでも言うこと聞いてもらえるんですよね? え? せんせーさ、アタシに勝って欲しかったんじゃなかったの?」
……。
そ、そうね。あの……いや……そうね。
「言い訳してよ。ちゃんと、いつもみたいに適当な言い訳してよ。そしたらアタシも騙されてあげるから。いつもみたいに、せんせーはしょうがないなーって言ってあげる。だから何か喋って、騙して? ねえ」
ネイチャのハイライトが消えてる。ガキどもの共通技能なのか。
……。そうね……あの……実は……かくかくしかじかで……。おれは洗いざらい喋った。ネイチャはドン引きしている。
「……えぇ。せんせー……襲われたの? あーあ、先越されちゃったなー」
やめろ、おれの不安を煽るな。ともかく分かったろ、勝つのはテイオーか……まあ、おまえでもいいぞ、ネイチャ。ライスが勝たないんなら、まあなんでもいい……ような……でも……クソガキ1号の件もある……。
「あのね、せんせー。アタシ言いましたよね、どうなっちゃっても知らないぞーって」
その手の忠告って言われてもどうしようもなくない? 言われた時点で大抵はもう手遅れだろ。いや誰が手遅れだよ。
「どう考えても手遅れでしょ。テイオーを倒そうとしてたのに、そのテイオーとトレーニングしてるんじゃん……」
ネイチャが呆れている。
そうだね……うん。そうだね。おれは一体何やってんだろう。
ともかく……アレだな。その、なんかおれの状況って今どうなってんの?
「せんせーが変人なのは、割とアタシたちの間じゃ有名な話ですけど……。なんでもできるってのはよく知られてますよ。それに……はぁ。せんせーは誰にでも優しいからなー」
やめろ。優しいとか優しすぎるんだよとか、おめーらが勘違いしてるだけだぞ……。こっちの身にもなれ。給料分働いてるだけだぞ。それがなんで金木くんみたいな感じで襲われなきゃいけないんだよ。
「あのね、せんせ。男のツンデレ属性に需要はないですよ」
なくはないだろ。ガンダム時空にはツンデレ男がいっぱいいるんだぞ。
「……はぁ。え、結局その、誰ぞが有馬で勝ったらその、どうするワケですか?」
どうするとかないでしょ。もうなるようになれって感じだよ。テイオーだろうがなんだろうが、アルファードに来たけりゃ来ればいいよ。おれはもう家に帰れればなんでもいい。
「えッ……あー。あれ? せんせー、もう家には帰らないんじゃ……」
鬼なの? おれも一応人間なんだけど……。
「いやー……あのー……。あー……。えっとね? あの、怒らないで聞いて欲しいんだけど……」
えぇ。その出だしの時点で無理だろ。家……おれの家? おれの部屋に一体何を……?
……。
…………。
おいネイチャ、おまえ一体、おれの部屋に何をした?
「あーはははははは。あははは……えー……っとね。う〜……まあ、ええっと……。その、せんせーも薄々察してると思うんだけど、ミケ、すっかりアタシらに懐いちゃってさ〜。多分もうせんせーのこと覚えてないんだよね……」
ぐ……。
覚悟していたことだ。まともに世話も焼いていないのに、ゴローがおれのことを覚えているはずがない。そこはもう仕方ないが、これから絆を育んでいけばいい。寂しいけどな、ゴロー……。
「それで……その……いっこ、約束して欲しいんだけどさ〜……」
ふむ。言ってみろ。
「……絶対に怒らないでね?」
念押しするな。不安になるでしょうが。
「……あのー……今ね、アタシとアヤベさんとタイシンが交代で、せんせーの家行ってミケの面倒見てるんですけどもね。その、ミケ……アタシらが帰ると、寂しそうでね? その……」
……。
「……と……泊まるようになっちゃって。それで……その……ちょっとずつ、色々持ち込み始めて……」
ふむ。嘘だと言うがいい。
「……そ……それぞれの、趣味? みたいな……の、ちょっとずつ……持ち込んでさ……。特にぬいぐるみとか、クッションとか……その……せんせーのベッド……なんか、あの、天蓋付きの、お姫様のベッドみたいになっちゃって……」
……。
…………。
そもそも、ゴローの世話はおれから頼んでいる立場だ。故におれがどうこう言うのも道理がない。ただ……。
「あの……でも、アタシたちも……悪気っていうか……そういうのがあったわけではなくて……。でも……だって! ずっとせんせーが帰ってこないから! ミケの朝ごはんも用意しなきゃいけないし! 泊まってくうちに、これも欲しいなあれも欲しいなって、色々持ち込むうちに、なんかもう、女子の部屋になっちゃって……」
と、トレーナー寮の話だよな。
住まれてる……のか……? おれの家に?
あの……おれのロボフィギュアとかは?
「……まあ、その、段ボールに突っ込みましたし……その……もう歯ブラシとか、もう生活用品は大体持ち込んでる……」
さ、3人分?
「さ、3人分……」
うそだろ? え? おれ……家に帰れても、お姫様のベッドで寝んの?
「み、ミケね……せんせーがいると、多分警戒して……かなりストレスになると思うんですよ。アタシたちは懐かれてるから……まあ、その、なんですかね〜……」
何が言いたい。
「……その、誰かしらが、泊まる必要があるのね? エサとか多分食べないよ? 怖がっちゃってさ……」
おいうそだろ? つまりあれか? ……泊まンの? オメーらが? おれの家に? おれがいるのに?
「……せんせーが悪いんでしょ。仕事を優先してミケを蔑ろにしたんだよ……」
や……やめろ! おれがゴローを蔑ろにしたことなんてない! おれは……ゴローのために仕事してんだ!
「それはそれでどうなの?」
じっとおれを睨むネイチャだが……当然、トラックを走ってるクソガキ2匹もネイチャの姿に気づいているのか、走り際にじっと睨んでくる。睨まれても。
「……とにかく、覚悟しといてねせんせー」
なんの覚悟だ。
「言いません。あーあ、キタサンに発破でもかけに来たのに……。っていうかさ、テイオーに勝てって言ったのはせんせーなのに、そのテイオーとトレーニングしてるのは筋が通らないよね!?」
ごめんなさい。おれももう、何がなんだかわからんくなってて……。
「謝っても許しませんよ。大体せんせーは節操なさすぎです。ちょっと反省が必要ですよ」
反省ねえ。どうしろって?
「自分で考えればいいんじゃないですか? せんせーはどーやら、アタシのこと全然信用してないみたいですし?」
なぜそうなる。
「あのね! せんせーが崖っぷちなのは見てれば分かるの! でもさ、頼めばいいじゃん! 助けてくれって! アタシに!」
ふむ。そうしたらどうなる?
「あ……アタシが……守ってあげる……」
照れるなよ。
「う、うるさいなぁっ! で! どうなの!?」
ふむ。何が?
「……アタシに、任せてみる気とか、ないの?」
ふむ。具体的にどうなる?
「あ──たしが……有馬で勝つ。それで…………その、守ってあげるよ、せんせーのこと」
マジで?
「……本気だよ、アタシ」
え、じゃあ頼むわ。
「……アタシは本気。だから、せんせーも本気だよね?」
さっきのおれの話聞いてたか? おれね、そのうち多分殺されるかもしれんの。冗談とか言ってる場合じゃないのね。
「えぇ……」
いいことを言った直後にネイチャが引いてる。いやなに引いてんねん。
「いやー……。てかさ、テイオーとトレーニングするの、やめて欲しいな〜って。ネイチャさんに任せてくださいよ〜。有馬でアタシが勝つ、それでいいじゃん」
それでもいいっちゃいいんだが、キタサンがな。ほら、キタサンとテイオー結構相性いいっぽくて、割といい感じに練習できてんのよ。今はオメーらがいねーし、おれは走り方とか教えられんし。
「あー……えー……う〜……。うぅ、勝つための行動が裏目に出た……! テイオーの泥棒猫! キタサンもせんせーも盗んで! 絶対許さないから!」
ネイチャはプンスカ言ってる。うーん、こいつはなんかこう、結局3着に落ち着きそうな気がするんだよな。流石に口には出さんが。
「……テイオー! アタシ、ぜーったい負けないからーっ!!」
コースを走っているテイオーにネイチャが叫んだ。青春みたいな一コマである。
-
ということで、キタサンの第二レースである。トライアルってヤツだ。ここでいい成績残して出走権を獲得する目算だ。まあなんとかなるだろ、何せレコード勝ちの娘だ。
「……」
「……」
「……」
こちらは控え室。キタサンの勇姿を見にこようと集まったアルファードの3人が見たのは、親しげにテイオーと話すキタサンブラックの姿であった。
「げッ……」
テイオーが苦い顔をした。チラッとおれの方を見る……。
「──珍しい顔もあるものね、トウカイテイオー」
「あ、あはは……どーもー、お邪魔してまーすー……」
「どしたのテイオー。なんからしくないねー」
ネイチャが笑顔でテイオーに近づいていく。笑顔……なんだが……妙な圧を感じる。タイシンも後ろでテイオーを睨んでいる。おい、年下を睨むな、大人気ない。
「ね、ネイチャ〜……顔が怖いよ……?」
「ん〜? いやいや気のせいだよ。テイオーに後ろめたいことがあるからそう思うんじゃない? あ〜、でも分かんないかなぁ、泥棒猫ちゃんには〜?」
「や、やめてよ。なんのことか分かんないなぁ……」
ずい、とアドマイヤ先生が前に出た。
「"うちの"キタサンがお世話になっているようね。お礼を言わせてもらうわ」
「あ、あはは。い、いやぁ〜……いいっていいって、ボクが好きでやってることだからさ〜あはは〜……」
キタサンが戸惑っている。テイオーへの圧を感じているようだ。
ふむ。そもそもアルファードとテイオーは有馬で対決する運命にある。仲良しこよしではいられない、それは当然。
まぁ問題は、そのテイオーがウチでトレーニングしてるってことなんだが……。
「……キタサン。敵と仲良くするなとは言わないわ。だけど自覚しておきなさい──いずれテイオーは敵になるのよ」
あ、アドマイヤ先生……? お、おい……ど、どうしたんだ、おまえらしくもない……。
「あなたのせいね、ケイ。また考えなしに……──痛い目を見ないと学ばないのね。はぁ……あなたらしいわ」
「あの……アヤベさん? えぇっと……」
「これだけは言わせなさい。キタサンは──うちの子よ」
「ええっ!?」
「……テイオー。アンタにはあげないから」
「キタサンも! テイオーにデレデレしないの!」
「し、してないですよ!?」
なにが起こっている? おれは訳もわからず展開を見守るしかなかった。3対1の構図に追い込まれたテイオーの旗色は悪い。ジリジリと壁際に追い詰められていく。しかし……。
「や、やめてよ。ボク別に、キタサンのこと取ったわけじゃないよ。その、なんていうか、キタサンはただの後輩っていうか、別になんとも思ってないし……」
「え……あ、あたし……テイオーさんと、せっかく仲良くなれたと思ったのに……」
「あっ、違うよ! 違うって、ボク、キタサンのこと大好きだよ!?」
「やっぱり……。──あなたにキタサンは渡さないわ、テイオー」
すんごい速度で墓穴を掘っては埋まっていく姿には見覚えがある。やっぱりだ。おまえは……──
テイオー……。もしかしたら、おれとおまえが……逆だったかもしれねェ……。
「と、トレーナー! 見てないで助けてぇ!? 責任感じないの!?」
感じねェ……。
「ちょっとぉ! き、キタサン! 分かるよね、助けてぇ!? 後輩として先輩を止めて!?」
「え、えと……えと、あの、やっちゃってください!」
「ええええええええええ!?」
壁際に追い詰められたテイオーは、そのままほっぺを摘まれたり、つんつんつつかれたり、ド至近距離でメンチを切られたりしていた。かなりの恐怖だったことだろう。
そしてそんなことをしているうちに出走の時間が近づいてきたので、先輩3人に連れられて、キタサンはチラリと座り込んだテイオーを見てからパドックへ旅立った。
……なんかすまんな、ウチの連中が……。
「……恨むよ、トレーナー」
おれに恨まれても。
/
人間の体の構造でわかっていることなど一つもない。風邪薬一つとっても、どの成分が、人体のどこに影響を与えることで解熱作用が働いているかの理屈など分からない。
学術界に、おれより頭のいいやつなど山ほどいた。
医者志望に、おれより強い意志を持ったやつなど山ほどいた。
そいつらはみんな、身体の神秘に敵わなかった。それほど人体は複雑で、この世には未知のことが多すぎた。太古に比べれば、既知の輪はいくらか広がったと言っていいが、しかし、その学問と研究が形作ったその輪の、端。その輪を、ほんの少し、たった数ミリだけ広げる──あらゆる探究はその程度だ。たったそれだけの、矮小で尊いほんの積み重ねだ。
科学の輪の内側にいる人間は幸運だ。外側にいる人間は救われない。未知という暗闇が晴れるためには時間が必要だ。そして往々にして、外側にいる人間に時間はない。
最先端と言えば聞こえはいい。ただそれは、それだけ分かっていないことが多いということの裏返しでもある。きっとそれは変わらない。人体の神秘はきっと解き明かされることなどない。それはつまり、病の全てが解き明かされることなどないということだ。したがって、病魔に倒れる全ての人々を救うことが出来ないということを意味している。
おれならその絶望を乗り越えられると信じていた。多くの自惚れ屋がそうであるように、自信を持って取り組んだ──その自信の根拠がなんであれ、そういう奴らは生まれてくる。そして身の程も知らないまま挑むのだ。それが絶望の始まりだとは知るべくもない。
多くの天才たちがそうであったように、おれもまたへし折れて、ぶっ壊れちまったんだ。
なんてぇザマだ。絶対助けるって誓ったくせによ。適当ばっか抜かしやがって、全部テメェのせいじゃねえか。
-
歓声がレース場を包んでいた。
クソガキの名前を呼ぶ声が聞こえる──ふむ、どうやらいつの間にか、ヤツも有名人になっているようだな。
「……やるなー、キタサン。強いじゃん。模擬レースで負けたなんて信じらんないよ」
それな。あいつ強いよなー。これマジで勝てるな。いやもう勝ったろこれ。
「あのね、トレーナー。むしろここは呑気に喜んでる場合じゃないんだよ? むしろ、"ふむ、模擬レースで負けた原因が引っかかるな。油断は禁物だ"とか言わなきゃいけないでしょ」
ンなこと言われてもな……。どうしろって?
「それを考えるのがトレーナーの仕事でしょ。まあでも、よく見ておくことだと思うなー」
いっつも見てるが。
「トレーナーはなんだかんだ言って心配性なんだよ。まっすぐ、雑念のない心で見てあげるの!」
言うは易しだな。ま、おれぐらいになれば造作もないことだが。
心配するな、テイオー。おれはヤツのトレーナーなんでな、世話ぐらい焼いてやる、それが多少面倒くさくてもな。
「カッコつけちゃって。……っていうか迎えに行かなくていいの、キタサンのこと」
どうも先輩方3人の目が怖くてな。なに言われるか分からんから、ほとぼりが冷めるまで避難しとこうと思って。
「ひっどいトレーナー。自分勝手で考えなし、ふざけてばっかで真面に担当に向き合わない。不良だね、不良。あーあ、キタサンがかわいそーだなぁ〜」
おれの方がもっとかわいそうだろ。元担当に殺されかけるほど嫌われ、クソガキどもの世話を焼き、ついでに家を乗っ取られ。おれ、家に帰ったらゴローとぐっすり眠るんだ……。
「古い死亡フラグじゃん……。え、なに? 死ぬの?」
死なねーよ。死んでたまるか……。
そもそも、キタサンの面倒はおめーらが見ればいいだろ。おれにはそういうの無理(ホントに無理)、つか、クソガキの考えてることなぞわかるか。
「精神年齢が近いんだから分かるでしょ」
ぶっ殺すぞクソガキ。
「はいはい。まあそろそろ行こうよ、キタサンも待ってるだろうしさ」
仕方ねェな。
おれとテイオーは観客席を後にして控え室に向かった。
「キタサンのことちゃんと褒めてあげなよ。優勝してすごいとか、キタサンこそナンバーワンだーとか、語彙の限りを尽くして褒めちぎらないと」
その考え方には同意しかねる。
「えぇ……」
おれは勝利を賞賛するつもりはない。同様に敗北を貶すつもりもない。勝ったから偉いとも思わん。負けたからって何だってんだ。それよか怪我なくレースを終えたことが1番偉いだろ。
勘違いするなよ、別に結果がどうだっていいってわけじゃない。ただおれは、その過程の方に意味があると考えるタイプでな。どんなやり方で、どうやって頑張ったかの方が重要だと思っている。再現性があるのはそっちだ。従って、その過程こそ称賛されるべきだ。少なくとも学生のうちはな。
ガキどもは所詮まだガキなのさ。勝たなきゃ褒められないって勘違いしかねない。実際、そうやって潰れたヤツを何人も見たことがある。とても見てられなかった。
「……意外。トレーナーがちゃんとした考えを持ってるなんて」
だろ。
もっとも、こんな考えがトレセンの勝利至上主義に真っ向から反発していることは分かっている。だからおれはレーストレーナーに向いてないっつーんだよ。あからさまに保健室の先生向きだ、だからアルファードを作った。
ま、おまえには弱気と笑われるかもしれんがな。
「うーん、流石に笑えんでしょ。トレーナーが珍しくシリアスなこと言ってるんだから。でも、トレーナーこそ、勝利こそ全てだろとか言い出しかねないのに」
ふむ。そっちの方がいいと思うか?
「……いや。別にいいかな、トレーナーはそれぐらいの方がいいかもね。1人ぐらいはトレーナーぐらい適当な人がいてもいいと思うよ、ボクは」
あのね……。
「でも! トレーナーがそう考えていても、キタサンはそう考えてないかもよ。それにトレーナーは素直じゃないじゃん。正面から認めてあげなよ、あんなに頑張ってるんじゃん」
ああ。分かってるってんだ、そんぐらい。
おれは控え室のドアを開いた。ネイチャがキタサンを脱がせていた。ちょっと抵抗しているキタサンを無理やり脱がせている……?
「ハァ、ハァ……レース後の火照ったカラダ……! たまりませんな〜……」
ネイチャが半脱ぎのキタサンに欲情していた。おれはドアを閉じた。
……。ふむ。
「いやいやいやいや。えー……あー……ちょ……っと、待ってね? えと、えーっと。えっとね。えと、違うんだよ? ほら、ネイチャの悪ノリっていうか。そういうとこあるじゃん?」
なぜかテイオーが言い訳をしている。精一杯のフォローのつもりなのかもしれない。
……ノックをするべきだったな。おれとしたことが……。
珍しいミスをした。ちと困るな。どう謝ったもんかね……。おれは額を抑えて苦々しく呟いた。流石に頭が痛くなる。
ドアが勢いよく開いた。
「待って!? ち、違うんだよ!? 違うからね、違うから!! ちがッ、違うから! ホントに! ホントに! ホントに! ホントだからね!?」
おまえの性的指向は否定されるべきものではない。隠し立てる必要はないんだぞ、ネイチャ。
「全然分かってないこの人! ちがっ、違うから! キタサンがちょっと可愛かっただけだから!」
……ネイチャが同性愛者だとは知らなかった。マイノリティは"周囲と違う"というだけで、具体的な形を持たない迫害を受ける。特に日本人はそういうのを気味悪がる。浅はかなことだ、人と人が違うことは当たり前なのにな。
「やめて!? 重い感じ出さないで!? 違うから! ちーがーうーかーらー!」
ドアの向こうにちらっと体を隠すキタサンが、赤い顔でおれを睨んでいる。流石に今回はおれが悪い。
キタサンよ。めんご!
「めんごじゃないでしょ!!」
テイオーとネイチャが同時におれの頭をブッ叩いて、おれは衝撃により気絶した。
・崖っぷち
崖っぷち〜。
ギスギスオンライン好きです。漫画版続いて欲しかった……。