「……ほらよ。買ってきてやったぞ、月刊トゥンクル」
「トゥインクル! もう。ケイったらどんな間違え方してるの」
「だが今度は間違えなかったぞ。はぁ、おれが間違えてオートレース雑誌買ってきたからって、あんなに怒らなくてもいいだろ……」
「いや怒るよそれは。鋼鉄のマシンでレースするヤツは違うから。っていうか、ケイが興味あっただけでしょ?」
「? そうだが」
「堂々としないでよ……」
清潔な個室。休日の陽だまりが優しく病室に差し込んでいた。今は機器の動く音もなく、話し声だけ。世界から隔離されたかのような彼女の居場所。
望んでそこにいるわけではない。だと言うのに、皮肉にも、それが彼女の純白さを際立てていた。少なくともケイにはそう映っていた。
だがその場所が似合うなど酷い皮肉だ。そのたびに、ケイはやり場のない失意と怒りを表に出さないように努力していた。
「ほんっとにケイは……。あ! トレーナー特集のコーナー!」
彼女がレース雑誌に目を輝かせても、実際のところ、ケイはレースに興味があるわけではなかった。ウマ娘ではないケイがレースに関わるには1人の観客として応援するしかない。
そして応援するという行為自体にそこまで大した意味を見出せず、実際の観戦でも退屈さに見て見ぬふりが出来なかったため、両隣から頭を叩かれた思い出がある。
「いいなぁ、トレーナーさんかぁ……! っていうかさ、トレーナーって顔採用とかあるのかな? かっこいい人しかいないよ、どっちを見てもイケメンばっかりなんて最高!」
「雑誌にブサイクは載せんだろ。夢見るのは勝手だが、期待しすぎると後が辛いぞ」
「ケイは黙って。はぁ、いいなぁ、年上の男の人って憧れるなぁ。私もいつか、スカウトされて……なんて! うわーっ、は、恥ずかしいなぁーっ!」
「残念な事実だが、おれも年上だぞ。しかも3つも」
「ケイは黙って。そういうのいらないから」
「真顔になるなよ……」
元々体調を崩しがちだったのが、入院というフェーズに移り、そして退院できるまでのスパンが少しずつ長くなる。そしていつしか、日常生活に占める入院期間は比重を逆転し、入院期間に占める日常生活が、当たり前になった。
ケイが中学校を卒業する前の、4ヶ月前のことだった。
「そういや今日、アヤベのやつが中学生のレースチームにスカウトされてな。試しに参加してみるっつって行っちまったよ。おまえによろしくだとさ」
「おお、さすがはお姉ちゃん。やっぱり才能ある? 我が姉ながらさっすが。将来はGⅠウマ娘だね〜。ってことは私にも才能あるのかな?」
「ふむ。双子ってことは、当然おまえにも同じ才能が──……」
無責任なことを言いかけたことに気がついて、ケイはすぐに誤魔化した。
「……いや、おまえはどうも三日坊主だからな。アヤベのようにはいかんだろ。まず真面目さが足りん」
「ケイ〜!? ちょっと、どういうこと!? 私、宿題忘れたこととか一回もないんだよ!」
「ついでに可愛げも足りんな。主におれに対しての」
「可愛げがないのはケイの方でしょ〜!? もぉ〜っ、覚えてなよ〜!?」
「おまえにおれがどうこうできるとも思わんがな。やれるもんならやってみろよ」
何故こいつがこんな目に遭わなければならない? この頃、ケイの心にはそんな怒りばかりが積もっていった。
普通の子供のように学校に通って、友達と話して、遊んで、普通の苦労をして、普通の努力をして、普通の将来を夢見て。なぜ、なぜ、なぜ──そんなことさえ。
彼女に対して将来を語ることの残酷さは、目が眩むようだった。
ケイはずっと、その怒りをずっと内側に隠したまま表情ばかりとぼけて、憎まれ口を叩くのが癖になっていた。
「ケイ〜! あのね〜!」
「ふむ。そんな態度を取っていいのか?」
「む〜。どういう意味?」
「おまえの外出許可を取ってきた。たまには外でも出歩かんと太るぞ」
「え? 頼んでもダメだったのに! どうやって!?」
彼女は顔を上げてケイを見上げた。驚きに染まった表情には疑問と期待が混じっている。その目を向けられると、自分に対する期待から目を背けるように、視線を切った。
「おまえを外に出さないなら病院に火をつけるってヤブ医者を脅した」
「……ケイ、犯罪はダメだよ」
「冗談だ。着替えろよ、外出許可は本当なんでな」
誰かが、この子の人生に報いなければならない──無力感の中で、ただその想いだけは、炎のように静かに燃えていて、ケイはその熱さにただ耐えることしか出来なかった。そして、彼女の前では、何も考えていないようにおどけて笑った。
この頃からすでにケイは、彼女の人生がそう長いものにはならないと、予感していた。
彼女のためにできることがもう残っていないと思っていた。彼女を助ける手段が分からなかったから、静かに絶望していた。彼女を差し置いて自らが健康であるという当たり前の事実の後ろめたさから、ただ、目を逸らした。
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真っ先に飛び出したのは誰だったかなぞ正直よく分からんかった。実況の人の解説なしでは正直見えん。
人でひしめいている観客席から無数の歓声が飛び交っている。一人一人の声を聞けば個性があるが、それが集まれば、いつも同じ音になる。まあこんだけ大勢が応援しているんなら、おれまでそうする必要もない。
実際、おれは誰が勝つのかは想像できなかった。そもそも誰が勝とうがどうでもいいと本心では思っている。勝ったやつがおれに何を要求しようが何をやらせようが別にいい。なんだってやってやるよ。
ただ、扉だけは閉めておく。客人には悪いが、門前払いを食らって貰わなきゃならない。
誰にだって誰にも言えないことの一つや二つがある。誰にも見せない傷がある。治しがたい傷もあるだろう。その傷を思い出と呼ぶこともあるだろう。
痕が無くなればそこに元々何があったのか忘れてしまう。日常に流されて過去になることもある。おれは写真を持ち歩くようなセンチな男ではないから、いずれは忘れてしまう。人間は幸いにも忘れることができる。おれもそうだ。
おれは自分がいつまでも変わらないという確信はない。何故ならこれまでおれは変わってきたからだ。これからもそうなるだろうと思っている。
小学校の頃の思い出なんかほとんど覚えちゃいない。新しい思い出が出来るたびに、古いのから溢れていく。人の記憶には容量がある。何でもかんでも覚えておくことはできない。
いちいち拾って抱えるたびに、端の方からボロボロ溢れていく。そんなことを何回繰り返しても結果は同じだ。だから大事なものほど落とさないようにしなければならない。
白状する。おれはただ忘れたくないだけだ。
絶対に忘れないと、たった今、決意を固めたところでどうなる? "絶対に"、という言葉にどれだけの信用がある。おれは自分の感情をそこまで信用していない。だから手段は限られている。
おれはただ、忘れるのが怖いから、ガキどもに何を言われようと、その傷をバカみたいに大事にしている。悪いかよ。そんなのおれの勝手だろうが。
ぼうっとしながら、おれはレースを眺めている。
他人は鏡か。おれがガキどもにあれこれ世話焼いた時も、これぐらい鬱陶しかったのか?
ポン、とおれの方をエリが叩いた。もういいだろうとでも言っているかのようだ──それは実際のところ、おれがそう思っているのかもしれなかった。
嫌な思い出ばっかりだ。だがそれをずっと忘れたくない。
何故? 傷が残れば痛いのはおれなのに? そうしていれば得ってわけでもないのに?
……なんでだったかな、もうそれも忘れちまったかな。
「──顔を上げて、お兄ちゃん」
おわッ! びっくりすんだろ! いつからいやがった!
「うん? いいでしょ別に、カレンのことなんて。担当でもないんだし?」
イヤミを言うな。こいつは本当に可愛げがないが──所詮は同族嫌悪なのかもな。天邪鬼だし。
「トレーナーに似たんだよ。ね、お兄ちゃん」
腕を掴むな。
「……今はあたしのトレーナーですよ。カレン先輩のじゃ、ないですから」
腕を掴むな! おまえのもんでもねーよ!
唸り声をあげてクソガキがクソガキを睨んでいる。いいぞ、そいつを追っ払え。
「変わらないねぇ、君も。年下ばっかり引っ掛けちゃって。このロリコンめ」
誰がだ! 撤回しろ、おれの名誉に関わるだろうが!
「ほらロリコンのお兄ちゃん、ちゃんとレースを見て! お兄ちゃんのために沢山の子たちが走ってるんだよ。それってすごいことだよ、レースファンなら誰もが羨ましがるシチュエーションなんだよ」
おれのために走ってくれンのはありがたいが、それでおれに得はあんのか? この後にどうせロクでもないことが待ってんだろ。あと誰がロリコンのお兄ちゃんだ。殺すぞ……。
というかスカーレットさんはなんであんなやる気になってんだ。主にはそれが1番怖いわ。ほれ見ろ、スカーレットさんが先頭独走してんじゃん。これ後ろのヤツら間に合うんか。頼むぞテイオー、本当にお願い。本当にお願い。本当にお願い。マジで頼む。スカーレットさんに勝ってくれ……!
「……はぁ、ほんっとうにシリアスが続かないね、ケイは。まあ、それもらしいと言うのかな。──頑張れー、ダイワスカーレットーっ!!」
おいエリ! ヤメロ! マジで!! そいつだけはやめろ!!
「ははっ! やはり生のレースは違うね! 知ってるだろケイ、私はウマ娘に生まれたかったんだ!! やっぱりウマ娘は最高だーっ!!」
ハンジさんみたいな感じでエリが叫んだ。なんのことはない、エリはただウマ娘なる存在に心を掴まれた、おれと同じただのバカに過ぎない。クソガキが苦笑いしている。
「え、エリさんって……変わった人なんですね……」
──有馬記念は最終直線を前にしてクライマックスを迎えていた。つまりそれはおれのクライマックスということでもある。おれは訳もわからず叫んでいた。息を吸い込んで──
あのさぁー!! マジでさー!! おまえらマジで余計なお世話過ぎンだけどさー!!
ゴンとおれの頭をクソガキ2人が両隣からブっ叩いた。衝撃に負けずおれは叫んだ。
ッ、ありがとうなぁー!!
「……え? お兄ちゃんが……お、お礼を……うそ、明日は多分大雪かな……?」
「大雪どころか槍です、槍が降りますよ……」
あと、おめーらマジで覚えてろよー!! 許さんからなー!!
後ろからテイオーが上がってきた。その後ろをライスさんがピッタリと付けている。ネイチャ、アヤベ、タイシン……。見覚えのある連中が前に上がっているが、ウチの連中は普段割とヌルい練習してっからな。追いつけるか。あとマックは後方に沈んでいた。まあそうなるか……。
というかスカーレットさんのリードが想像以上に大きい。ほんとにマズい。間に合えテイオー、間に合え。間に合え。祈りが通じてテイオーはガンガン距離を詰めていく。ライスさんがテイオーのマークを外した。そしてただ前へ。
頑張れテイオー、おまえがナンバーワンだ。
ベジータみたいな感じでおれはただレースを見ていた。祈っていたと言っていい。レースの応援などまともにしたことがなかったおれが、初めてこんな真似をしているのは、主にはおれの命運がこれから決まるという緊張感によるものだが……。
これはこれで悪くないものなのかもしれない。
あいつがレースに憧れていた気持ちが数年越しに、ほんの少しだけ分かったような、気がした。その時、おれは少しだけあいつに近づけたような気になって、ほんの少しだけ許されたような気がした。それがただの錯覚だったとしても。
……おれは許されたいと願ったことなどない。許してくれなど言わない。死人は何も語らない。あいつの墓を見たのは葬式の時が最後で、それ以来一度も行ったことがない。トレセンに来てから一度も地元に戻ったことはない。恐ろしかったからだ。
……だが、そうだな。カーチャンにうるさくせっつかれているし、今年は……帰ってみてもいいかもな。
ゴール板の前をテイオーとスカーレットさんがほぼ同時に横切った。肉眼では捉えきれない。一瞬過ぎてライスシャワーゴールイン。おれは気が気ではなかった。
ガキどもがゴールした後も写真判定のため、観客席の喧騒は止まなかった。おれは本当に気が気ではなかった。
頼む。頼む。頼む。テイオー……トウカイテイオー!!!
「お願いテイオーさん、スカーレットさんが勝ったらトレーナーさんが殺されちゃいます……!」
殺されねーよ!! ……殺されないよな?
「あは。カレンが守ってあげよっか?」
おまえに頼むのはやめとく。おまえの方が襲ってきそうだし。
「……今、そうしてあげよっか。"お兄ちゃん"?」
クソガキめ。やっぱこいつはもうどうしようもねえな。
写真判定の結果が出た────ハナ差でスカーレットが勝った。おれは全身の力がスーッと抜けて、平衡感覚を失った。そして倒れそうになったところをエリに支えてもらった。
ガッとエリがおれの肩に手を回して、ガッツポーズと共に叫んだ。
「うわーーーっ! やったやった、さすがはダイワスカーレットだ! ケイ、やったよ! あの子ついに有馬で勝ったよ!! すごい!! すごいよ、この有馬で!!」
おまえ、マジで、ほんとに──
文字通り気が遠くなる。ぐわんぐわんとおれの肩が揺さぶられる。や、やめろ、揺らすな。あぁ、あぁぁぁ……。
「今夜はお祝いだ!! ケイ!! 彼女のためにパーティーを手配して!!」
か、勘弁してくれ……。おいマジかよ……。
「は、初めてあたし、トレーナーさんに同情してるかもしれないです……」
「……ふん。ポッと出に渡さないもん。カレンのなんだから」
「カレン先輩のものでもないです!!」
大衆の歓声はいつ聞いても変わらない。おれは──呆然として、晴れ渡った空を見上げていた。
終わった。今回ばかりは。おれはもうだめだ。多分しぬ。理由は不明だし、過程もわからないが、結果だけは鮮明だ。
次回、トレーナー死す。デュエルスタンバイ。さようなら、ワンダフルワールド。
今回短めですまんな……
今更ですが、いつもここすきしてくれる人たちありがとうございます。ぶっちゃけかなりモチベにつながってます。高評価とか感想とかくれると書くスピードが2倍くらいになります。感想返信できてなくてごめんなさい。でも全部読んでます。
白状しますが、ここまでほぼプロットなしです。当然この先のプロットもありません。ノリと雰囲気で書いてます、が、まあ読んでくれると嬉しいです。
・トレーナー
本名は柊木圭(ひいらぎけい)
闇のロリコンです
・ダイワスカーレット
ゴールデンカムイでいうところのヒグマ枠のイメージで書いてます。前後のストーリーを無視して圧倒的な暴力により全てを圧倒。暴力!無敵!最強!