00『東京1,600m、敗北まで』
『見事!有馬記念優勝をもぎ取りました!』
競技場で天高く拳を突き上げた栗毛のウマ娘。
小雨の降る悪天候の中での激闘を制し、勝利を掴み取った彼女へ、観客達から割れんばかりの大歓声が贈られる。
堂々の単勝人気一位。彼女は競技場に押し掛けた数多の期待を一身に受け、答えた。
十八人いるウマ娘を下し、頂点に立ったその姿。長距離の激闘を終えた後とは思えない程、疲れを一切見せる事なく凛としていた。
彼女の周囲にいる少女達は各々落胆や悔し気な表情を浮かべながらも、その偉業に拍手を贈る。
「ねぇ見て、凄いよ!あの子、ビューンって!他の子達全然追いつけないの!」
「そうだね……お姉ちゃん」
満員御礼の観客席の中で、まん丸で血液の色が透けた赤い瞳を輝かせながら、競技場を指差して少女はにこやかに笑った。
田舎育ちの二人姉妹は競技場で生のレースを見た事が初めてだった。
運よく祖父が抽選で観戦チケットを引き当て、加えて大舞台である有馬記念。
否が応でも少女達はそのレースを見て憧れを抱いた。
吹き付ける雨風に抗い、濡れた芝生を掘り込むほど強く蹴り、ゴールへと一直線へ駆け抜けるその姿。最終局面では彼女達の席から見えたウマ娘は、まるで一人一人が流星のよう。
「おや、二人共レースが好きになったか」
白髭を蓄えて、少し小太り気味の祖父。近所の子供達からサンタクロースと揶揄われる祖父は、優しく問いかけながら、姉妹の頭を愛おしそうに撫でた。
腰まで伸びたしなやかな白髪を揺らしながら姉は力強く頷く。
「うん!わたしも絶対、速くて強いウマ娘になる!あそこで走れるようになる!ね、ノーホープ!」
――――そうだね、お姉ちゃん。
短く呼吸を繰り返し、彼女は心の中で姉にそう答える。
何時もレースの度に、彼女の頭の中では憧れを抱いた時の光景が、無意識に思い起こされていた。
「はぁ……はぁ……っ!」
焦げ茶色の靴に打ち込まれた蹄鉄が、地面に穿たれ、そこを機転に強く次の一歩を踏み出す。
一月の肌寒い空気の中で、彼女の周囲だけが蜃気楼のように揺れていた。
汗が止めどなく溢れ、青々とした芝生に消えていく。
彼女は昔から人一倍、いやウマ娘一汗っかき。
新陳代謝が良く、身体の限界値まで達する速度が速いといえば聞こえは良いが、彼女にとっては恥ずべき個性。何度も他人からからかわれ、その度に自身の体を疎んでいた。
今も装着している黒いマスクに着けられた送風ファンが無ければ、更に倍程度の汗が頬を伝っていた事だろう。
『さぁ今最終コーナーを先頭集団が続々通過!先頭は二番、変わらない!』
実況者熱い解説と観客達の声援を前に、十八人のウマ娘達が最終コーナーに入った。
序盤、中盤と優位を保っていた逃げ方針のウマ娘二人が、疲労感を隠せない苦悶の表情を浮かべながら先頭を駆ける。
彼女はその逃げているウマ娘達の背を捉え、重心を低く、姿勢を前のめりに倒した。
『おーっとここまで溜めていた十二番ノーホープ!外側から上がってくるぞ!』
肺一杯に大きく息を吸い込む。同時にマスクの送風ファンから鳴る、けたたましい回転音。
まるで威嚇のような音を出しながら、彼女は先陣を切る二人の背を視界から外した。軽く右側へ体を滑らせ、集団から外れるように外側へ陣取る。
そして緑のゼッケン、十二番を身に着けたウマ娘”ノーホープ”、彼女は芝生の地面に蹄鉄をめり込ませ――掘り上がった地面を踏み込み、一気に加速。
徐々に先頭二人との距離が詰まる。
先ず先頭のウマ娘の尾が彼女の前髪を掠れた。ウマ娘の尾は威嚇目的で振るわれる事もある。体が意思よりも強く反応した結果であろう。
そして更に身を深く屈め、逃げの二人の横へ並ぶように躍り出る。
額に滴る汗を振り払いながら、振り絞る。脚を、呼吸を、視線を。
既に視界の先には一人もいない。青々とした芝とゴールバー、一点のみ。
『更にここへ来て突っ込んでくるのはヤマトダマシイ!恐ろしい脚で追い上げる!4……3……』
彼女は最終コーナーに入った時に決め付けていた――本日の勝利を。
最早周囲の雑音は一切無い。追い越したウマ娘達の息遣いと、自身の痛い程高鳴った心音、そして意思よりも前に踏み出される足音のみ。
慢心、今の状況にこれ以上の言葉はない。気が緩んだ時こそ、綻びが生まれる。
歓声が上がった。
ノーホープ、彼女がゴールバーを通過した瞬間に。
思わず周囲に悟られぬよう小さくガッツポーズをするノーホープ。
だが、その内側へ体を滑り込ませた者がいた。
前髪の中央に白いメッシュの入った長い黒髪を揺らし、ノーホープの前で腕を天高く掲げる少女。
東京1600m――一着、ヤマトダマシイ。二着、ノーホープ。三着――
「え……負け……た?」
ノーホープが彼女の存在に気付いたのは、掲示板に表示された着順を目にし、自身の敗北を知り驚愕で脚を止めてしまったのと同時だった。