初うまぴょいまであと1時間-シーズン1-   作:初瀬川みそら

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2021/10/6 23:30 実家描写について少々加筆しました。


雪中衝迫、愈々熱々-グラスワンダーの場合-

 ーー午後四時五〇分

 

 年末の中山競技場でのレースを勝利で終えて、晴れ晴れと迎えた正月の門松も、そろそろ終いになる一月末。

 トレセン学園から離れ、茨城県美浦の地ではその日、空から雪がしんしんと降り積もっていた。

 夕暮れ時も近いのに、分厚い灰色の空からこぼれ落ちる雪が、外の景色真っ白に塗り替えている。

 向かいの正面、土壁に埋め込まれるように、ほんの少し高い位置にある障子の隙間。

 窓の外から見える雪景色の中で青々と雪笠をかぶる松は、なんとも風流にトレーナーは感じた。

 

(……わびさび、って感じがする)

 

 目に写る冬の風景を適切に表す語彙を持ち合わせないと、内心で苦笑しつつ、トレーナーはすうっと一つ深呼吸を置いた。

 

(にしても……さすが……本格的だ)

 

 見回すのは、【彼女】の日本での実家の庭、その離れに作られた茶室、その室内だった。

 アメリカ出身でありながら、日本好きが高じて日本でも邸宅をかまえているという【彼女】の両親もすごいが、茶室の趣もなかなかのものだった。

 天井には照明器具らしきものがあるが、窓から差し込む灰色の空の明かりが主に内を照らしている。

 室内に入るまで肌を刺すほどに冷たかった空気は、土壁に囲われた室内までは届かず、中は温かい。

 丁寧な左官の仕事なのだろう、濃淡の均一な土壁が四方を囲い、四隅には、樫の木の柱が埋め込まれるように建っている。

 ほんのりと触れると熱を帯びた畳が敷かれ……床暖なんですよと得意げに【彼女】は説明してくれたが………底冷えもしない。

 そんな室内は一畳と半分ほどの広さしかなかった。

 

(こぢんまりとした、とは訊いていたが、確かに、これはなかなかにコンパクトだ)

 

 トレーニング中の雑談を思い出しながらトレーナーがふっと右方を見れば、壁に掛かった竹の一輪挿しに、白く可愛らしい花が生けてあった。

 右方の部屋の隅、ぼんやりと部屋の間接照明になっている灯籠型の照明に照らされて、薄闇に浮かぶようだった。

 

「あの白い花は……」

「……鈴蘭水仙、といいます。本当はもう少し後に咲くお花なんですが、早咲きであまりに綺麗だったので、いけてみました」

 

 トレーナーの目線に気がついて、花の名を解説してくれる声があった。

 トレーナーは視線を再び正面……から少しだけ右。

 右方の壁に真っ直ぐに正座を向け、膝の先に埋まるように備えられた風炉……茶道に使う湯釜や水筒などが備えられた一角……に向き合う【彼女】を見やる。

 

「あれ、自分で活けたのか」

「ええ。一輪差しですので、簡単なものですが」

「すごい綺麗だ」

「ありがとうございます。そう言って頂けて、嬉しいです」

 

 一輪差しの竹と同じように斜めにすっぱりと整った栗色の耳は、横に伏せられていた。

 ふふっ、と笑う彼女の栗毛が、薄暗い部屋の中でさらりと揺れる。

 穏やかな笑みに半円を描く長い睫毛は、薄くトレーナーの姿を捕らえてくる。

 控えめに微笑む彼女の唇にほんのりと朱が引かれているのは、この後【彼女】の両親に今後のことを話すため、と彼女なりの気合いを入れたからだそうだ。

 

「あの……トレーナーさん、狭くはありませんか? この部屋は一畳と四分の三畳……炉のスペースがありますから実質一畳半しかありませんので」

「いや、そんなに狭くは感じないよ。なんというか、落ち着く。……風流だなって」

「それを聞けて安心しました。ここは昔、どうしても茶室が欲しくて……両親に無理をいって庭に建てて貰ったんです。それ以来、ずっとお気に入りで……本当……ここに、トレーナーさんをお招きしたかったんですが……やっと夢が叶いました」

「そっか。でもそうしたら、もう何度かは夢を叶えてあげられそうかな。……もうしばらくは、こっちでゆっくりすることになるだろうし」

「……それも、そうですね」

 

 ほんの少し、彼女の陰る声音を敢えて見ないようにして、トレーナーは再び窓の外を見る。

 変わらず降り続ける雪が、外を舞っている。

 正面、窓の下に正座する彼女の足へとチラリと視線を落としてみれば、綺麗な正座をしているが、少しだけ……それこそ、トレーナーだけが気がつく程度に……左足が開いていた。

 

「……その、夕食には父も母も帰ってきますから……その前に少しだけ……濃茶をふるまわせてください」

「……うん、わかった」

(……春の天皇賞まで、あと三ヶ月。競うべき相手は……スペシャルウィークも、エルコンドルパサーも、セイウンスカイでもない……次の世代)

 

 静かに風炉に向き合う彼女――グラスワンダーは、目を伏せて風炉をただ真っ直ぐに眺めている。

 上品なブラウスに薄手のカーディガンを纏い、きっちりと膝を折って美しい正座を組む脚は、淡い青のロングスカートに包まれていた。

 彼女の背はピンと伸びて、いつもながら大和撫子という言葉がぴったりあう。

 今日、トレーナーが彼女の実家の庭、その茶室にいるのは、そんな彼女が負った怪我の療養のため。

 そして、今年待ち受けるグラスワンダーの状況とその対応方針をグラスワンダーの両親に説明するためであった。

 

(今や……グラスが世代最強。次の天皇賞は、間違いなく世代対決として注目されて、負担も大きいだろう。そこに、果たして間に合うのか。どう対応するのか説明しなきゃ……でも、本当に、間に合うのか)

 

 三年間彼女のトレーナーとして付き合う中で、幾度か茶を点てて貰ったことがあるが、トレーナーには炉の中の様子は見えない。

 でも彼女には中の湯の状況が見えているようで、今日もまた静寂の中にある炉の声を耳を澄ませて聞いているのだろう。

 炭の火に炙られているだろう黒い鉄の炉は、きっとトレーナーからは見えないが熱く、湯をたぎらせている。

 トレーナーの心の内と、同じように。

 

(……いいや俺が弱気になるな。間に合わせるんだ。間に合わせる……っ! だからこそ……今日、伝えることが、あるんだろ、俺)

 

 音も微かに、熱く内側を沸きたたせる炉。

 じっと静かに、炉を真っ直ぐに見つめるグラスワンダー。

 ほの暗い茶室の中で見つめた物言わぬ一つと一人に、トレーナーにはどこか、同じもの感じていた。

 

(……トレーナーよりも、もっとワガママな気持ちを、まずはグラスに。そして……俺は)

(今日こそ……私は、トレーナーさんに)

 

 一畳半の茶室。

 三年間、常に歩みの傍らにあったグラスワンダーとトレーナーにとってはほんの少し身を乗り出せば手が、肩が、身体が触れあう距離。

 たったそれだけの距離にあって、しかし、二人はじっと、互いの心の中に煮え立つものをぐつぐつと抱えたままでいた。

 

 雪中衝迫 ( せっちゅう"しょうはく")愈々熱々 ( いよいよあつあつ)

 ――初うまぴょいまであと一時間。

 

 ****

 

 ――初うまぴょいまであと六〇分。

 

 左足骨折。

 同期の好敵手 ( ライバル)、セイウンスカイ、スペシャルウィークとエルコンドルパサーが、着々と海外遠征に旅立つのを見送った後のことだ。

 グラスワンダーが練習中に感じた違和感を、医師はそう診断した。

 幸い怪我の程度としては、一ヶ月ほどの休養を要するだけで、走れなくなるわけではないという。

 

(……まだ、走れる。ううん、走りたい。トレーナーさんに、この気持ちは……間違いなく伝わっている)

 

 医師の診断の瞬間を思い出しながら、グラスワンダーはそっと長い睫毛を持ち上げるようにまぶたを開き、膝元に伏せていた帛紗を開く。

 艶やかな加工が施された布を、丁寧に折り、湧きつつある炉の蓋をはずせる程度の大きさにしていく。

 茶道は、もてなしの心を所作の一つ一つに込める、精神の道。

 日本文化に興味をもった幼い頃から仕えた師に教わって以降、この茶室で何度も何度も身に染みつけてきた。

 あわせ込んだ指に、布は少し曲がって重なる。

 

(っと……集中、しなくては。お茶はお茶。これからは、これから。それに、これまでだって、何度も、怪我を乗り越えてきたではありませんか)

 

 曲がった処をあえて無視して、グラスワンダーは残りの折りに集中し直し、丁寧に布目をあわせていく。

 

(今年は春の天皇賞、宝塚記念の連覇だってかかっています。海外に行った皆の世代を背負ったのです。私は……まだ終われない。まだ果てにたどり着いてはいない。終わりたく、ない)

 

 休養には、いったん実家に帰ってゆっくりするのが良いのでは、とトレーナーに言われたことをきっかけに、彼にも同伴を願った。

 久しぶりの実家にあって唇に朱を塗り、常在戦場の面持ちでトレーナーとともに報告をしようと考えていた。

 【まだ走りたい】、【そのために】すべき報告。

 だが、グラスワンダーは一方で【それだけでなく】すべき想いが、湧き出ていた。

 

(……いざとなると、こんなに、気持ちは揺れるのですね)

 

 グラスワンダーは自分の左方、建水の上に載せた柄杓を右手にとって、帛紗で受け、左手に備えた。

 帛紗を右手に添えて、そのまま彼女は熱を帯びた炉釜の蓋に手をかける。

 ごくりと喉が微かになる。

 常ならば気にもならない所作に、じっと緊張が走る。

 

(……もう、セイちゃんも、スペちゃんも……エルもいない。【だからこそ】今。トレーナーさんとこの時間が必要だった)

 

 グラスワンダーの帛紗が蓋を取り、蓋置に載せられる。

 釜の中では、ぐつぐつと湯が沸いている。

 心の中の動揺のように湧く湯面にふぅと、小さく息をつく。

 

(……この三年間、ずっと、布石は打ってきました。少しずつ、少しずつ)

 

 表面からは穏やかに鎮座しているようだった炉の中で、湯は熱く煮えていた。

 湯面を見つめながら左手で備えていた柄杓を右手で取って、湯をすくう。

 ふわりと湯気を上げた湯を茶碗に注ぎ、蓋を開けたままの炉の縁に、柄杓をかける。

 熱い湯の表面に写る自分の面立ちが、些かふっくらとしているのに、グラスワンダーは微か、心中で苦笑する。

 

(ああ、でも少し、失敗してしまったかも。……スペちゃんと一緒に食べてたから、なんてもう、言えませんし……もうちょっと絞っておけば……なんて後悔はもう遅いですね)

 

 ふくよか、といえば聞こえは良いが、レースをするにも、増えた体重はそぎ落とさねばならない。

 そう思うのに、今日という大事な日に間に合わせられなかった今、苦笑すら気恥ずかしく彼女には思えた。

 思考を分けて、所作は進む。

 茶筅を手に取り、ゆっくりと湯を掻き回し熱を茶碗に移す。

 同時に、揺らめく自分の姿をかき混ぜるように、グラスワンダーは湯面を崩していく。

 

(今日はようやく……私と……トレーナーさん【だけ】を、この部屋に招くことが、できました)

 

 茶碗の湯を掻く音は、極微かな水面の揺れの音。

 しんしんと雪が降る外の景色には、松が雪笠をかぶって鎮座している。

 静寂の中で、熱いのは、湯と二人分の呼気だけ。

 

(……静かに、落ち着いて……心を、込めねば)

 

 茶筅を立ててから、すっと伸ばした手で、グラスワンダーは茶碗を傾け建水に冷めた湯を移す。

 茶巾で茶碗を拭き取り、音もなく畳に茶碗を置きながら、人肌のぬくもりとなったことを確認する。

 

(でも……いつもより、少しだけ熱い。ごめんなさい、トレーナーさん……これが、私の今の温度なのです)

 

 柄杓を手に取り水指から清水を汲む。

 汲んだ清水は、ぐつぐつと沸きたった炉へと注いだ。

 すると、ほんの少しだけ湯が冷める。

 すうっと息を吸い込んだグラスワンダーが、そっとトレーナーに尋ねた。

 

「……トレーナーさん」

「……どうした」

「雪は、まだ止みませんか」

「……ああ、まだ、降っているよ」

「……そうですか……暑くは、ありませんか」

「いや、大丈夫だけれど……グラスは?」

「……少しだけ……でも、大丈夫です。上着のカーディガンを、脱げば」

 

 くすっ、と微笑んで見せて、グラスワンダーは薄手のカーディガンを脱ぐと丁寧に傍らにたたんで見せた。

 チラリと脱ぐ衣服の隙間からトレーナーの視線を窺うと、刹那、グラスワンダーの脇元へトレーナーの視線を覚えた。

 

(……焦っては、いけない。でも、私)

 

 羞恥がじわじわと心の中で燻る。

 けれど耳元の熱さは、心の中で滅却して悟られないようにする。

 日々の中で、ゆっくりと育まれた想いがはしたないと、ふいにならないように。

 かけてきた思慕の糸が、しっかりと二人を包む布となるように。

 そう、振る舞わねばならない。

 

(トレーナーさん。どうか……その心の内をお聞かせ願えませんか)

 

 トレーナーの視線は、グラスワンダーの背後、しんしんと振る雪の庭の景色を見る。

 遠く、彼方を見つめるトレーナーをグラスワンダーがチラリと見た瞬間、炉の中で熱く燃えた泡が応ずるように、こぽん、と鳴った。

 

(不退転、退かぬこと。……今の私が向かうべきは、自分と……トレーナーさん)

 

 抹茶を茶碗に注いでから、グラスワンダーは優雅に柄杓をとってそんな鳴り湯をすくい取って、茶碗へと移す。

 湯が抹茶を濡らし、ふつふつと翠の泡となる。

 茶筅を手に取ったグラスワンダーは、ゆっくりとその泡を伸びた茶筅の先で掻いていく。

 

(一服に、心を込める。私の……今の気持ちを。貴方の気持ちを、引き出すために)

 

 雪が音を吸う。

 静寂が室内を包む。

 寂びた土壁の内側に、寒さはない。

 むしろ、ゆっくりと、燃え立つ熱さがにじみ出つつあった。

 

「「……」」

 

 沈黙が流れる。

 しんと耳の奥に張り詰め、侘びた空気が茶室に漂う中で、微かに茶筅が抹茶を練りあげ……やがてグラスワンダーの手がゆっくりと……止まった。

 ごくりと、トレーナーの喉が鳴る。

 茶筅を茶碗の縁に沿って一回し、グラスワンダーは練り茶の雫を茶碗に落としきると、茶筅を立てて茶碗の「表」をトレーナーに向けた。

 

(どうか……願わくは)

 

 コトっ……と黒い楽茶碗が、グラスワンダーとトレーナーの間に置かれる。

 うっすらと、紅梅の花が向いた正面を見て取って、トレーナーは手をつき……グラスワンダーから教わり、幾度も経てきた所作として……頭を垂れた。

 

「……どうぞ」

「……お手前、頂戴致します」

 

 こぽっ……とお湯が鳴る。

 グラスワンダーは、トレーナーの一礼に微かに、伸した背を前に傾けた。

 薄く開いた瞳にはじっとりとした熱がこもり、その中には確かに、トレーナーの姿がある。

 交錯する視線が、茶を揺らす。

 白い湯気が、微かに張り詰めた空気に漂っていた。

 

 

 ****

 

 ーー初うまぴょいまであと四〇分

 

 窓の景色の中で、バサリっ、と雪が落ちる。

 

(……いつもより、熱い)

 

 楽茶碗を受け取り、正面を回してはずしたトレーナーは、いつもよりほんのりと熱い濃茶を掌に感じながら、ゆっくりと茶面を傾ける。

 

(熱くて……甘くて……苦い)

 

 三年の月日の中で、彼女の茶を何度も飲んできた。

 迷子になった時に出会った時に野立てをしてもらって以来、彼女の茶の味はよく知っている。

 だからこそ、トレーナーは一服へ込められた味わいに、グラスワンダーの心をゆっくりと見極める。

 

(……甘い。この茶に、グラスがこめたもの)

 

 ずずっと口に広がる抹茶の旨味が、熱く滾って喉に残る。

 味わいはいつもよりも、練りが濃く、香りは鼻に抜けて気高く感じた。

 

(わかるよ……グラスもきっと待ってるんだよな……だから、意気地がないのは、俺、だってことだ)

 

 茶碗をそっと膝元において、トレーナーはグラスワンダーを見る。

 炉に向かって、水筒から汲んだ清水を注ぐグラスの横顔は、栗色の髪に隠れて見えない。

 だがほんの少し覗く耳朶の皮膚が、桜色に染まってはいる。

 

(怪我を乗り越えてもう一度、走りたい気持ちを叶えたい。そしてそれ以上に……俺は、グラスを……一人の女性として、これからも支えたい)

 

 朱を引いたグラスの唇が横からでも艶めいているのは見て取れる。

 ごくりと飲み込んだ茶の余韻は、じんわりと熱く心の内側に染みこんできていた。

 

(常在戦場。この瞬間を……グラス。ならさ、俺は)

 

 そっと茶碗の縁を指で拭う。

 膝の先、畳の上に楽茶碗の「表」を向けて置いてから、トレーナーは一礼をした。

 茶碗の中に微かに残るひとしずくほどの茶の面に、上げた自身の顔が我ながら頼りなさげだと苦笑しつつ、彼女を呼んだ。

 

「グラス」

「……はい」

 

 グラスワンダーの唇が少しだけ、赤く艶やかに動いて応える。

 言うべき言葉を吟味して、トレーナーはグラスワンダーに告げた。

 

「……話があるんだ」

「……はい、なんでしょう」

 

 膝をこちらに向け、さらりと髪を揺らして振り向いたグラスワンダーの瞳を見つめる。

 ごぽっ、と水を差したばかりのはずの炉が、グラスワンダーの傍らで煮え立っていた。

 

(ここは……勝負の場所なんだ)

 

 ぐっと握り込んだ拳の中で、爪が手の平に食い込んでくる。

 言うべき勇気をひねり出すための、微かな痛みと共にトレーナーはグラスワンダーと対峙した。

 

 

 ****

 

 ――初うまぴょいまであと二〇分

 

「……今日この後のことなんだが」

「はい」

 

 トレーナーがグラスワンダーの表情を慮ると、グラスワンダーはいつものように、穏やかな微笑みを称えていた。

 すぱっと整った竹の断面を思わせる栗色の馬耳。

 煌めく一等星のように白く額で輝く白毛に、艶やかな黒色のロングヘア。

 垂れた眦にそっと頬へ添えられた手は嫋やかな淑女を思わせながら、物事をみつめる青い瞳の奥に、メラメラと競争心を秘めるウマ娘、グラスワンダー。

 迷子の道案内という情けない出逢いから三年。

 さまざまな好敵手と、憧れの存在に届かなかった悔しさと、度重なる怪我の不調を、共に乗り越えてきた。

 その結果、直近年末の中山競技場で、彼女は世代最強の名を得た。

 

(……言うんだ。俺は……俺は、グラスと)

 

 そうして、今、彼女には再びの不幸が訪れている。

 怪我の程度は大きくはないが、次の世代が急速に台頭しつつある今、不退転を掲げる彼女であっても乗り越えられるか分からない。

 世代最強の名が、大きな重圧となってのしかかっている彼女が、今年を、これからを走りきるための、今こそが転機。

 その瞬間に、トレーナーは、グラスワンダーというウマ娘への気持ちを、告げようとしていた。

 

「俺は、グラスのご両親に、グラスがまだ走りたいってことを伝えようと思う」

「……はい。トレーナーさんの見立てに、間違いはありません」

「きっと、これまで以上に大変なことになると、いうのも伝えるつもりだ」

「それも……はい。私も、そう感じています」

「もちろん、グラスなら覚悟をしているって信じてる。だから、俺も全力でお前を支える」

「……はい」

「でも……いや……もっと、全力以上に……俺、グラスを深く支えたいと思ってることを、伝え、たいんだ」

「……そう、ですか」

 

 グラスワンダーの瞳が、少し気恥ずかしげに下を向いた。

 くつくつと煮える湯からの湯気が、炉から少しだけ零れていた。

 

(もっと深くって、なんだ。はっきりと、はっきりと言わないと、俺!)

 

 ぐっと握り込んでいた拳に力を込める。

 ずきっと食い込む痛みに奮起して、トレーナーは言葉を選ぶ。

 

「深くって言うのは、その、トレーナーとしてだけじゃなく……その……男として、いや、違う……」

(はっきりと、ちゃんと、言うって決めたんだ……ちゃんと、言わないと……っ! なのに……あーくっそ、脚までぴりぴりしてきた)

 

 今更になって、脚が痺れ始めてきた。

 バクバクと弾ける心臓の所為か、言葉がうまく形にならない。

 茶を飲んだばかりだというのに、乾いた喉が張り付くよう。

 それでも、もっとハッキリと伝えることを、きっとグラスワンダーは望んでいることだけは、わかる。

 

(言わなきゃ、はっきりと、俺、グラスの……グラスの!)

 

 頭の中が真っ白になっていく。

 

(ああっ、くっそ、言葉が、出てこない!)

 

 言うべき言葉が、詰まって出てこないトレーナーが、ふと目を瞑り言葉を紡ぎ出そうとした。

 その瞬間、ふわりと、頭を、否、顔全体を柔らかなものが包み込んだ。

 

「……えっ」

 

 目を見開き、トレーナーの口から最初に出てきたのは当惑の声。

 トレーナーの視界にあったのは、グラスワンダーの上質な白のブラウスだった。

 

「……深く支える、というのは、そのこういうことですか?」

 

 頭上から、グラスワンダーのふわりとした声が降り注ぐ。

 そうしてようやく、トレーナーはその柔らかさが、グラスワンダーが身を乗り出して、抱きしめてくれたものだと理解する。

 

「……私を……今以上に支えるとは、こ、こういうことですか? トレーナーさん」

 

 ほんの少し、うわずった声。

 グラスワンダーの胸元は柔らかく、上品な麝香の香りがした。

 トレーナーの耳にはブラウス越しにどくんと、グラスワンダーの心音が聞こえた。

 その高鳴りに、真っ白になりかけていたトレーナーの思考は、すっと晴れていく感覚を覚えた。

 

(……カッコつかない……けれど、ああ、そっか)

 

 それは一種の諦観で、同時に、常に傍らにあったからこその信頼。

 春夏秋冬。

 傍らで歩みを重ねてきたグラスワンダーに、かけるべきは、かっこつけた言葉ではきっとない。

 一息をついてトレーナーは身をグラスワンダーの胸元から彼女に向き合うように起こす。

 

「……それだけじゃ、ないよ」

「あっ……えっ」

「俺はさグラス……君の目指す果てまで、ずっと、ずっと、どんな時も、どんな君とも一緒に歩んでいきたい。君の隣でね」

 

 向き合うことでグラスワンダーが俯いてから、長らく見えなかった彼女の表情を見る。

 

「……ふっ。ははっ」

「なっ……っ! なんで、笑うんですかっ」

 

 思わず笑みがこぼれた。

 彼女の赤らんだ頬は、白く雪のような肌に映えている。

 ぎゅっと見開いた瞳孔一杯に自身 ( トレーナー)を写しながら揺れる瞳は、うっすらと潤んでいた。

 栗色のウマ耳の内側まで真っ赤になったグラスワンダーを、トレーナーはふと微笑ましく思う。

 

「……グラスのこんな恥ずかしそうな顔、はじめて見た」

「……み、見ないでください」

「……いいじゃないか。深くってことは、そういう顔もみるってことだ」

「……そんな、はしたないです」

 

 ふいっとそっぽを向くグラスワンダーを、トレーナーはぐっと抱き寄せながら、笑った。

 

「はしたなくなんて、ないよ。グラス」

「えっ」

 

 グラスワンダーの呟きは、重なった唇の間に消えた。

 紅花の香りが呼気となって、ほんの少し離れる。

 

「はしたなくなんてない。だから、グラス」

「トレーナー、さん」

 

 紅で黄金色に輝く、二つの唇が艶めいた。

 沈み行く日が、徐々に薄闇を強める中、それでも二つの唇は磁石のように、どちらともなく合わさった。

 

(……ああ、良かった)

 ――湯がごぽごぽと煮え立つ音が、室内に響く。

(……ああ、言えた)

 

(……ずっと、この時を、待っていました)

 ――互いの身体が、互いの腕により引き寄せられる。

 ――二人の間にあった楽茶碗は、ごろりと転がった。

(……出逢ったあの日から、こうなることは、きっと運命で)

 

(触れあう距離も、間合いも。少しずつ詰めて、詰めて、今日を迎えた)

 ――長いグラスワンダーの髪の間、彼女の背をトレーナーの腕が躍る。

 ――短いトレーナーの頭を、グラスワンダーの手が希うように掻き抱いた。

(グラスはきっとずっと待っていてくれたんだ。その最後の一歩が、今日だった)

 

((だから))

 ――重なる吐息は、甘く苦い、茶の余韻。

 ――ごろりと転がった楽茶碗がくるくると回る。

((この瞬間は))

 

(私が)

 ――回った茶碗が止まったその時、栗色の髪が、一畳半の畳に広がった。

 ――髪が揺らした部屋の空気に、壁の鈴蘭水仙がポトリと白い花弁を散らす。

(俺が)

 

 ((望んだ、一時))

 ――衣擦れの音の中を、ふわりと漂った白い花弁はごろりと転がった楽茶碗の内側、残った茶にぬるりと湿って色を変えた。

 

 

 ――窓の向こう。松が雪笠を地に降ろした。

 ――雪が落ちる音は、景色の中に染み渡る。

 ――あらゆる音を、雪は吸う。降り積もる雪は、何も言わない。

 ――土壁の内にも音は響かず、土壁の外にも音を漏れ得ぬ。

 ――庭に備えられた小さな茶室。誰人も茶室を犯すものはない。

 ――一畳半。ただ二人だけの静寂の中で、侘び得ぬ激情はいよいよ燃えていた。

 

 雪中衝迫 ( せっちゅう"しょうはく")愈々熱々 ( いよいよあつあつ)

 ――初うまぴょいまであと零分。




鈴蘭水仙の花言葉は、純潔、汚れなき心

雪中松柏でなく雪中衝迫なのは、松柏が「志や節操が固いことのたとえ」なのを、心を突きゆすって迫る強い欲求が崩しているから。

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