初うまぴょいまであと1時間-シーズン1-   作:初瀬川みそら

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夢幻に向かってかかる夜-シンボリルドルフの場合-

 六月一日。

 

 間もなく梅雨入りが近い兵庫 宝塚の夜は灰色の雲に覆われ、宵を廻ってなお不穏に仄明るい。

 暗くなるべき夜が明るいからか、街行く人の話題には明日の天候が選ばれ、そのどれもが浮き足立っていた。

 ……いや、浮き足立っているのは、明日の一大イベント――阪神競技場で開催される宝塚記念が迫っているからかも知れない。

 街中の至る所に、赤地のポスターが貼られ、夜風にペナントがはためいていた。

 阪神競技場からほど近い、宝塚ワシントンホテルのロビーでも、エントランスには大きなポスターを掲げられていた。

 ロビー近くのソファで談笑する宿泊客の話題も、概ねが明日の宝塚記念に関するもの。

 そして、誰もがポスター中央を唯一人占める、ウマ娘の話をしていた。

 

「明日、俺達は伝説を見るかも知れない」

「いいや、確実に目の当たりにするだろう、今や日本は、世界に届いている!」

 

 赤地のポスターの中で、堂々と仁王立ちする黒ニーソックスの脚こそは、彼女の栄光を運んだ脚。

 腕をぐむ格好に纏う、可憐にして荘厳な軍服調の勝負服は、黄金の飾緒と数多の勲章に飾られている。

 黄金の肩章 (エポーレット)からたなびく真っ赤なマントは、幾人のウマ娘の涙を誘ったろうか。

 亜麻色の長い髪、栗毛の中に、三日月のような白い房が混じるまびさしの如き前髪。

 その下、強烈な意志をもった紫眼が、真っ直ぐに前を見据えている。

 宝塚記念と大きく書かれたポスターに、一人、その名を刻むウマ娘、シンボリルドルフ。

 彼女は昨年までの三年間でウマ娘達の夢の夢……七冠ウマ娘として世のレースでの栄光をほしいままにしている、当代において最強のウマ娘である。

 【唯一抜きん出て並ぶ者なし (Eclipse first, the rest nowhere)

 彼女が生徒会長を務めるトレセン学園の校是 (スクールモットー)そのままに勝ち続け、ついに明日の宝塚記念の勝利によって世界の大舞台、凱旋門賞へのチケットが手に入ると有望視されている。

 

「そうだな、凱旋門賞……あのシンボリルドルフが世界にいきさえすれば」

「ああ、世界の皇帝へ……そのチケットが得られる瞬間は、なんとしても見逃せないだろ」

 

 ホテルのラウンジで興奮気味に――おそらくは片手にある酒の勢いもあるだろうが――語る宿泊客の声を、シンボリルドルフはリラックスしたオフの姿で聞いていた。

 大きめの旅行鞄を傍らに、深緑のブラウスに包んだ腕と、白のサブリナパンツに包まれた脚をぐっと伸ばす。

 ラウンジでくつろぐ彼女は、普段のキリッとした瞳を隠す、いささか野暮ったいスクウェアフレームの眼鏡をかけているせいか、廻りには気がつかれていないようだ。

 

(……凱旋門賞……か)

 

 シンボリルドルフは彼らの言葉を聞き、ふと伸した腕の先、右手を握り込む。

 

(あと少しでこの手に、か)

 

 空気を握り込んだ掌が赤くなって、なにもないことを見て、ふっとシンボリルドルフは苦笑した。

 未だ見えないものを掴もうとしている。

 それは、彼女にとっては笑うほかない滑稽さだった。

 

(……しかし、本当に……私は……)

「あ?! 部屋が一部屋しかない?!」

 

 ぴくんと栗色の縦耳が、トレーナーの声に反応する。

 彼女の脳裏に過った問いは、ホテルのロビーに響く彼女のトレーナーのひっくり返った悲鳴で切り裂かれていた。

 

「た、確かに二部屋とったはずなんですが」

「申し訳ありません、なんども確認しているのですが、ご予約は一部屋しかされておらず……」

「まじかよ……」

 

 恐縮そうに謝るホテルスタッフの前で、カウンターに肘をつくようにして、トレーナーは頭を抱えていた。

 ホテルのスタッフが複数人、代わる代わる状況を告げてくるが、まとめるところ施設側のシステムエラーで超過予約 (オーバーブッキング)になった分が勝手にキャンセルされたらしい。

 その中に、本来トレーナー用としてとっていた部屋が含まれており、結果として二人の部屋は一部屋しかなくなっていた。

 宝塚記念の出走に向け、確かにかなり宿泊予約には苦労したが、よもや当日にわかるとはトレーナーの想定外だった。

 

「あの、なんとか、ならんもんですかね……?」

「ええっと……その……」

 

 ないものはないようで、ホテルスタッフの表情は焦燥していた。

 それでもダメ元でトレーナーが言った分、スタッフは必死になって探してくれているようだが、様子を見るに空き部屋はないのだろう。

 

「トレーナー君、どうしたんだい」

 

 トレーナーの異変を見て取って、シンボリルドルフが旅行鞄と共に寄ってくる。

 

「いや、その……部屋が、一部屋しか予約できてないようでな」

「その……本日は宝塚記念へと向かわれる方が多く、誠に申し訳ありませんが、空き部屋が……」

「なるほど、つまりは、私の所為、ということだな」

 

 ぱっとホテルスタッフが険しい顔を手元の端末から上げた瞬間、スタッフは息を飲んだ。

 その様に、人差し指を唇に当てながら、しーっと苦笑するシンボリルドルフに、トレーナーも苦い顔するしかなかった。

 彼女の自負と状況は間違いなくその通り。

 だが、それゆえに……担当ウマ娘と男性のトレーナーが同室になってしまう、という倫理的な問題に直面していた。

 

「……私見で構いません、この辺りのどの宿も同じ状況ですか」

「え、ええと……おそらくは……どこも同じような状況だと思います……」

 

 シンボリルドルフの言葉に、ホテルスタッフは恐縮しきりだが、どうにもならないのは変わらないようだ。

 シンボリルドルフは、目を瞑って考え込むように腕を組み……すっと長い睫毛を困ったように開いて告げる。

 

「……であれば、仕方ないな。トレーナー君。私は構わないさ」

「い、いやしかし」

「何を懸念することがあるんだい? 我々は管鮑の交わりだろう? 信頼するトレーナーにはなんの不安もないさ」

「……っ」

 

 泰然自若とした口調で言うシンボリルドルフに、トレーナーも、なにも言えなくなった。

 彼女は、ふっと口元に笑みをたたえてテキパキとスタッフへと言葉をかけ、同室での宿泊手続きを進めていくのだった。

 

 

 ******

 

 淡い暖色の室内灯が、シンボリルドルフを照らす。

 就寝するためだけの部屋は、ライトを全てつけても、ほの暗かった。

 

「こちらは無事についた。ああ、今のところ万事問題ない (・・・・・・)。……ああ、先だって連絡貰っている分は決裁しておいたよ」

『学園の方はお任せを。会長はどうか、ご存分に、皇帝の走りをなさってください』

「……ありがとう。よろしく頼む、エアグルーヴ」

 

 几帳面な学園の女帝 (エアグルーヴ)が一礼するとともに、シンボリルドルフのスマートフォンが通話状態を解除した。

 上質なダブルベッドが大きく部屋を占めるためか、壁面に鏡と冷蔵庫が集約された、付きだし机に腰掛けていたシンボリルドルフは、ふぅ、と息をついて背後のベッド、その足下に忍者のようにうずくまって隠れているトレーナーへと声をかける。

 

「……もういいよ、トレーナー君。打ち合わせは終わった」

「っ……うああっ……っと。ルドルフも生徒会の仕事もお疲れさま」

 

 アルマジロを思わせるように背中を丸め、一切の気配を消していたトレーナーは、ぐっと背を伸しながら立ち上がる。

 労いの言葉をシンボリルドルフにかけながら、その目線はしかし、彼女から少し外れていた。

 

「……? どうしたんだい、トレーナー君」

「な、なにがだ」

「……私の格好になにかおかしいところでもあるのかと思って」

「単純に、し、新鮮だなぁと思って」

 

 眼鏡をかけたまま、小首をかしげるシンボリルドルフは、既に入浴を終え、ホテルに用意されていた室内衣に身を包んでいた。

 パリッパリの糊で仕上げられてはいるが、生地が極薄い、簡易的な浴衣だ。

 

「ああ、確かに、こういう姿を見せたことはなかったかな。一応、着方は間違っていないと思うが」

 

 ぴょこんと、耳を跳ねさせながら、シンボリルドルフは椅子から立ち上がって、トレーナーの前でくるりと廻って見せた。

 しっかりと右先に折り込んだ襟元は、くっきりと浮かぶ鎖骨と白いシンボリルドルフの肌を覗かせていた。

 薄い布がぴったりと張り付く胸部と、薄いからこそ細い黒帯で強調されるくびれた腰、そして小ぶりに引き締まった臀部にいたるまで、ウマ娘としても、女性としても理想的な体型のシンボリルドルフが纏うと、簡易的な浴衣でも、途端に服の格が上がったように見えた。

 くるりと廻ることで覗く彼女の肘や膝、真っ白な脹ら脛

 トレーナーとして見慣れているはずなのに、なぜか生唾を飲み込んでしまったのはふわりと彼女から漂う、アロマオイル入りの浴室アメニティの香りのせいかもしれない。

 

(れ、冷静になれ俺……冷静になるんだ)

「た、確かに、様になるな、ルドルフは」

 

 自分に言い聞かせながら密かに自身の太股をつねりあげて、トレーナーは冷静を装った。

 

「そうか。ありがとう」

 

 くすりと、眦をさげて穏やかに微笑むシンボリルドルフは、そのまま、窓の方へと歩み寄る。

 部屋の奥、ベッドの足下に大きく広がる、大窓は、薄いレースのカーテンの向こうに、地上七階からの宝塚の夜の街並みがぼんやりと見えていた。

 

「……」

 

 腕を組み、街並みを見つめるシンボリルドルフの横顔。

 街並みが薄く反射する眼鏡の下で、長い睫毛が憂いて数度、瞬いていた。

 

「……」

 

 トレーナーはベッドに腰掛けて、窓を見つめる。

 そうすることで、頭一つ分小さな彼女に視線の位置に自身の視線が合う。

 景色には、仄明るい空の元、ゆっくりと流れる夜の宝塚の街がただ見えていた。

 トレーナーとシンボリルドルフの間に言葉はなかった。

 だが、遠く街の息づく呼吸のような音だけが二人の間にあった。

 

「……トレーナー君」

 

 三分ほどの小さな沈黙の後、シンボリルドルフは腕を組んだ姿勢でちらりとトレーナーを見やった。

 

「今日の寝床、本当に床で寝るつもりなのかい?」

「……明日は、宝塚記念だ。トレーナーとして、少しでも最良の睡眠環境をルドルフに提供したいからな」

「キミがせっかく予約してくれたダブルサイズのベッドだ、問題ないのではないかな。ここにいる時点で、私はキミのことを偕老同穴の仲と思っているよ?」

「だ、だとしても、そ、それはさすがにだな!」

 

 慌てたように声が大きくなるトレーナーに、シンボリルドルフはくすくすと、唇を遊ばせた。

 

「……ふふっ、なんてな。これは笑えないタイプのジョークだったようだ」

「……ルドルフ」

「ふふっ、許してもらえると嬉しいよ。……では、お言葉通り、広いベッドを使わせて貰おう」

「そうしてくれ。……俺もシャワー浴びたら寝るわ。電気は消しておいてくれて構わないから、先に寝ていてくれ。もう、だいぶ遅いからな」

 

 そっと腕時計を見やったトレーナーが見たのは、二十二時二〇分。

 盤面をぐっと見せるように手を差し伸べたトレーナーに、シンボリルドルフも「ああ」と気がついたように眉を上げて、眼鏡をそっと外した。

 

「確かに、もう寝た方が良さそうだな。それでは、私は先に床につくよ。おやすみ、トレーナー君」

「ああ、おやすみ、ルドルフ」

 

 ベッドから立ち上がり、トレーナーはシンボリルドルフの隣をすり抜けるようにして、ユニットバスのバスルームへ向かう。

 シンボリルドルフと同じ浴衣を手に取って、室内のライトに手をかけたトレーナーが振り向いた時、シンボリルドルフは窓際から穏やかに微笑んで「うん」と頷いていた。

 だから……とトレーナーの指でぱちん、とスイッチが鳴る。

 室内に、一気に夜が訪れた。

 

 

****

 

 夢幻に向かってかかる夜

 ――二三時五分

 ――初うまぴょいまであと一時間

 

(……そろそろ、かな)

 

 バスルームに入って四〇分。

 シンボリルドルフが眠りにつくまでゆっくりと……煩悩を消し去るように、なんとなく普段より丁寧に身体を清めながら……シャワーを浴びたトレーナーは、扉の開閉音にも気をつけてバスルームを出た。

 バスルームからの光が漏れないように扉の隙間から先だってバスルームのライトを消してから、浴衣を着たトレーナーがベッドの方を見やった瞬間、彼の喉は、ごくりと鳴っていた。

 彼女が、まだ起きていた。

 真っ暗な部屋の中で、シンボリルドルフは、先ほどと同じように、窓の向こうを見ていた。

 眼鏡もなく、窓からの微光に照らされる彼女は、窓の外の光景を見ながら、壁に寄りかかって音無く左足をゆっくりと踏みしめるように足踏みしていた。

 

(イメージトレーニング、かな)

 

 明日の宝塚記念のイメージトレーニングでもしているのかもしれないと、トレーナーはふぅ、とため息一つ、シンボリルドルフへ歩み寄る。

 そのトレーナーの視界、外を見つめるシンボリルドルフが写る窓に、一筋、彼女の頬を走る涙の跡が見えた。

 

(……泣いて、る? )

 

 窓の雫かと見まごう、一筋の跡にトレーナーの脚を停まり、目を見張った。

 だが、振り向くシンボリルドルフがそっとその頬の一筋を拭ったことで、見間違いでないとわかる。

 

「……随分と、長湯なのだね、トレーナー君は」

「……寝るんじゃなかったのか」

「……ほんの少し、考え事があってね。大丈夫、もう纏まったから、寝るさ」

 

 窓からの微光がシンボリルドルフの背を照らすから、彼女の表情は薄闇に隠れて見えにくい。

 顔を見せないように伏せたまま、シンボリルドルフは窓から離れ、ベッドの枕元へ向かおうとした。

 その手を、トレーナーは取る。

 

「……? どうした?」

「それは、こっちのセリフだ」

 

 トレーナーが取った手に、シンボリルドルフは伏せ目がちにいうが、トレーナーの語気は強く、確信の響きがあった。

 

「手まで、震えてるじゃないか」

 

 ぐっと握った手首の先、シンボリルドルフは手を、身体を震わせていた。

 室温はうっすらと温かく調節してあるから、寒さではありえない。

 じっとシンボリルドルフからの言葉を待つように見つめるトレーナーに、彼女の瞳が揺れる。

 何かを告げようとした唇がそっと開いて、しかし、困ったように、歪んだ。

 

「……君にはなんでもお見通しだな」

 

 震える手が、そっとトレーナーの手の甲にすりよってくる。

 彼女の指に併せるように、トレーナーが手首を離すと、彼の指の間にシンボリルドルフは自分の手指を絡め合わせた。

 

「……少しだけ、話して良いかな」

 

 手を繋いだシンボリルドルフの問いに、トレーナーは言葉の代わりに力強く頷いた。

 

 

****

 

 ――二三時三五分

 ――初うまぴょいまであと三〇分

 

「「……」」

 

 ぼんやりと薄く青い光が漏れる窓を見つめながら、穏やかな沈黙が漂っていた。

 窓に向かって、シンボリルドルフとトレーナーはベッドの縁に腰掛けていた。

 ぐっとベッドのスプリングが沈み込み、二人の体重を支える。

 シンボリルドルフは、手を繋いだままトレーナーの肩に頭を寄せていた。

 じっと身体の重みをトレーナーに預け、彼女は黙ったまま、彼と繋いだ手の指を、弄ぶようにすりすりと擦り寄らせていた。

 普段は白い手袋を嵌めた真っ直ぐな手指は熱く、その動きはトレーナーへと熱を擦りつけるような……甘えるような仕草だった

 

「……ルドルフ?」

「……」

 

 既に一〇分ほどふけっている彼女の行為に、ついにしびれを切らしたトレーナーが呼びかけても、彼女は応えない。

 シンボリルドルフは手指に集中しているようで、トレーナーに寄りかかったままだった。

 

(話して良いかな、といわれたけれど、なにかあったのか……?)

 

 指の動きは、どこかおぼこいものを感じながら、ふと、その『幼さ』に思い至ってトレーナーは呼び名を変えた。

 

「……えっと……ルナ?」

「……なんだい、トレーナー君」

「……こう言われるのを、待ってたのか」

「拈華微笑、という奴さ……心が通じるかと思って。ふふっ、すまない、こどものようなことをしているな、私は」

「……ルナって呼んで反応してるんだ、そりゃ、こども、だろう」

 

 ようやく言葉を返してくれたシンボリルドルフの頭を、トレーナーは自身の肩の方にもう軽く手で寄せながら、頭を撫でる。

 艶々とした栗毛が指に跳ねるが、印象的な白い前髪は、どこか気落ちしたようにしなやかさを失っていた。

 

「なぁ、トレーナー君」

「うん」

「明日の宝塚記念、私は勝てるだろうか (・・・・・・・)

「……えっ」

 

 動揺が、口から出てしまった。

 シンボリルドルフが、自分の勝利を疑うような言葉を吐くのは初めてだった。

 彼女は、デビューの際から皇帝としての矜持をもって戦いに臨んでいた。

 評価を期待として真っ正面から受けとめ、頂点でない下馬評には見返す気概をもって望む。

 結果に対しての憂いこそあれ、走る前から勝利への不安をみせたことはなかった。

 それは初めて、皇帝でないシンボリルドルフを、目の当たりにした瞬間であった。

 

「……俺はいつだって、ルナが勝てるように仕上げてきたつもりだし、ルナもそれに応えてくれていたと思っているよ」

 

 トレーナーは偽らざる本音を口にする。

 今のシンボリルドルフを前に、取り繕う言葉は何一つ不要だと思った。

 

「……そうか。ふふっ、トレーナー君らしい回答、だな」

「……不安か」

「ああ。そうらしい。こんな気持ちは初めてでね」

 

 ぐっと、トレーナーの手が握られる。

 不安に揺れそうになる自分をつなぎ止めるような、健気な力だった。

 普段、力強く空を切り裂く、シンボリルドルフの手指が、思った以上に細いことには驚きが来る。

 そんな細指は、トレーナーの指に絡まって、トレーナーの心へ淡い靄がかった思いを伝えてきていた。

 

「……宝塚記念 (あした)に勝てば、ついに凱旋門賞だしな」

「そうだ。私の夢のための、厳然たる王への椅子が待っている。もうあと少しに近づいたというのに……なんとも、らしくないな、今の私は」

 

 トレーナーからも手を握り返す。

 掌の膨らみが合わさって、手の紋が交わって、ぴったりとくっつく。

 皮膚と皮膚の接触、そこにあるのは、ただ触覚がすりあわされるだけのもの。

 けれどシンボリルドルフの呼気はすっと、飲んだように引いて……穏やかに熱を帯びていく。

 

「怖いか、ルナ」

「……いいや、怖い、とは思わない。走れば届く位置に、道は続いているだろう。……ただ、そうだな、走ることが出来るのか、走りきれるのか、漠然と、靄ついた気持ちが漂っているようだ」

 

 絡んだ指の中で、唯一動く親指が、互いに互いの親指を撫で合う。

 ゆっくりと言葉を選びながら、二人は、お互いの心を摺り合わせるように、吐息を交わす。

 

「道が続いている処を、ルナが踏破できなかったことはない。どんなに険しい道でも、ルナはこれまで、走りきってきたじゃないか」

「……トレーナー君」

「これまでずっと見てきた俺が、そして皆が、そんなルナであること知っている。それは、ルナ自身だって知っているだろう。それに、だ」

「それに?」

「ルナは、皆の道を作ってきたんだ。これまでも、そして、これからも。ルナがルナとして走る道を、皆は、俺は待っている。ルナは、いつだって、皆の幸せのための皇帝であり続けている。だから、きっと、明日、ルナが走った道は、今日よりも皆にとっての幸せな世界につながるものだと、皆も、俺も、信じている」

「っ! ……ああ、そうだな……ああ……そうだ、そうだな」

 

 噛みしめるようにシンボリルドルフは言葉を繰り返した。

 トレーナーの肩に頬を寄せたまま、二人は、窓の向こうの街並みを、その先にある、世界の海を見つめていた。

 二人がみる互いの光景は、繋がる手から感じられた。

 その世界で響く、どのウマ娘も歓喜と祝福に満ちた、大きな波のような歓声が遠く、二人の耳を撫でていた。

 

 

****

 

 ――二三時五五分

 ――初うまぴょいまであと一〇分

 

「……本当に、君はいつも私を熱くしてくれる」

 

 残響のように、歓声が遠くなって少し、シンボリルドルフが、トレーナーからゆっくりと身体を離した。

 手は繋いだまま、トレーナーへと身体を向けたシンボリルドルフに、トレーナーも振り向く。

 

「……俺は、ルナのトレーナー、だからな」

「……ああ、だからこそ」

 

 振り向いた先、トレーナーの頬に、シンボリルドルフの片手がそっと寄せられた。

 ぐっと、ベッドのスプリングが軋む。

 

「? ……ルナ?」

 

 膝で上体を起こしたシンボリルドルフはそのまま、自らの面立ちを近づけトレーナーの額に自分の額を合わせる。

 額と額が合わさって、そのままシンボリルドルフの体重がトレーナーに掛かって、二人はベッドへと倒れ込んだ。

 

「っ、ル、ルナ!」

 

 咄嗟に手を離し、シンボリルドルフの肩を掴んで倒れ込む衝撃を抑えようとしたトレーナーに、彼女は覆い被さるようにベッドに手をついていた。

 困ったような笑みで、寝そべる彼女のトレーナーの頬に、再び手を差し伸べ撫でながら、告げる。

 

「君の熱い気持ちを……どうか、今宵、私に刻み込んではくれないか」

 

 まるで眠り姫を起こす童話の王子様のように、真っ直ぐな瞳がトレーナーに降り注ぐ。

 

「る、ルナ? 冗談は」

「ジョークでは、ないつもりだよ」

 

 シンボリルドルフの瞳は真剣で、少し紅潮した頬は、確かにこの状況の【意味】を把握しているのがトレーナーにも見て取れた。

 同時に、薄い浴衣から覗くシンボリルドルフの胸元が、トレーナーの目線を泳がせていた。

 

「お、お前それがどんな意味だかわかっていってるって、それは」

「……もちろん。実際に意味するところが、どういうことかまで知らないほど、不見識ではないつもりだ」

「……むっつり」

「……返す言葉がないよ。けれど……私が私を乗り越えるためには、きっと……君の思いが必要なんだ。どうか、私の弱さを押し込めて欲しい。この不安を……乗り越えるために」

 

 くすり、と微笑するシンボリルドルフに、それでも、トレーナーはふと、目線をそらして呟く。

 「本当に、俺でよいのか」と発しようとした言葉は、しかし、熱く、頭の奥まで染みこむ稲妻のような柔らかさによって啄まれてしまった。

 

「……駟不及舌、とは言うまいが、これでも、言葉を重ねるかい?」

 

 シンボリルドルフの真っ赤な舌が、暗がりの中でも艶々と彼女自身の唇を舐めた。

 吐息の甘さが、むっとトレーナーの鼻孔に残る芳香が、シンボリルドルフの肩に沿わせていたトレーナーの手を、彼女の背中に伸ばさせる。

 

「……いいや」

 

 トレーナーが、ぎゅっとシンボリルドルフを抱きしめた。

 腕の中にすっぽりと収まる彼女の躯。

 その身体は、内側に太陽を潜ませているかのように、じっとりと熱い。

 背中に張り詰めた筋線はしなやかで、柔らかく覆い被さる彼女の鼓動は、熱いが、穏やかにどくん、と強く伝わってきていた。

 

「……ふふふっ、ハグっ……ふふっ」

 

 トレーナーの腕の中で、ふと、シンボリルドルフの喉が鳴る

 バクバクと心臓が緊張に鳴り始めていたトレーナーの脳裏に『いつもの』予感がよぎる。

 

「……ルナ?」

 

 一応、恐る恐る、トレーナーが尋ねる。

 

「ああ、なに……ハグで心がハッグハグというのが浮かんでね。ふふっ、ハッグハグ……オノマトペを利用したフランクなジョークではないかな」

「……あー……いやもはやジョークにしても……」

「ふふっ……相変わらずこんな時でも君は辛口だ」

 

 つい口からでた酷評にも、穏やかに笑う彼女の一言に、張り詰めかけたトレーナーの力が抜けた。

 シンボリルドルフのしなやかなで柔らかな身体を、ぎゅっと抱いてよしよし、とばかり頭を撫でると、気持ちよさそうに彼女の栗毛の耳が伏せられた。

 

「……しかし、これは皆には言えないな」

 

 トレーナーの背に手を差し込み、抱きしめ返してくれるルドルフの脚が、トレーナーの脚へとするりと絡まる。

 腰をくっと引き寄せるように、彼女の長い栗尾が、トレーナーの腰に絡まっていた。

 

「……どうして?」

 

 問いかけるトレーナーの腕の中で、シンボリルドルフは背中から肩に手をかけ、にじり登るように上体をすべらせると、真っ白な首をそっと伸して呟いた。

 

「こんなベッドで考えたものを言うのは……さすがに羞恥を覚えるからね」

 

 耳元で囁かれた言葉にトレーナーは耳まで朱くなるのを感じる。

 ルドルフを見ると、ふわりと笑う彼女の頬がすぐそばにあった。

 トレーナーを押し倒しながら、ゆったりと穏やかなシンボリルドルフ。

 燃えさかるような恋人のそれとは少し違う、懇篤な触れあい。

 だがそれは、間違いなく甘えた彼女の有様であることを一番に知るからこそ、トレーナーは観念とばかり、彼女の額に自身の額をつけた。

 

「……じゃあ、そのジョークは、二人だけの秘密で」

「もちろんだとも。この君の高鳴りとともに二人だけの、秘密だ」

 

 するりと片手をトレーナーの背から抜いて、ひとさし指でトレーナーの胸元、その鼓動に触れたルドルフが、指を自分の唇に寄せる。

 額を合わせた状態で指し示される、【秘密】の仕草を塗りつぶすように、二つの影は一つになる。

 

 ――日付が変わり六月二日零時五分。

 ――初うまぴょいまであと零分

 

 

 ****

 

 翌日。

 

 ――ここで大外からシンボリルドルフ! コーナーから直線にさしかかって、一気に抜きん出た! 速い、速い、速い! ぐんぐん末脚が伸びていくシンボリルドルフ!!!

 

 生憎の曇天で迎えた宝塚記念。

 昨晩、熱を刻まれた皇帝の末脚は、湿り気の強いターフをも焦がすように燃えさかっていた。

 

 ――後続を突き放し、脚色はむしろ一層に色めき立っている! 速い、速すぎる、圧倒的な速さ!

 

 シンボリルドルフは、他の差しウマ娘を振り払い、逃げのウマ娘を差しきり、先行のウマ娘を置き去りにして、追い込みのウマ娘を絶望させた。

 観客席からの大歓声の波に押し上げられるように、彼女は誰よりも前に、遺憾なき皇帝の疾走を魅せつけた。

 

 ――今、ゴーーーーーール!! 一着はシンボリルドルフ! やはり皇帝! そして彼女は、今、ついに世界に届きました! 夢のチケットを得たのは、皇帝、シンボリルドルフです!!

 

 大歓声が競技場を包み込む。

 ウィニングライブ前にもかかわらず、彼女を祝福する紙吹雪が観客席から舞い躍った。

 彼女を追いかけていたウマ娘には、彼女の背に感涙の涙を浮かべるものすらいた。

 悔しさの中に憧憬の畏敬をもって、一礼する者もいた。

 シンボリルドルフの背に、どのウマ娘も見惚れていた。

 観客は世界へのチケットを得た、この瞬間に彼女に夢を抱いた。

 ターフの上の誰もが、彼女に魅せられていた。

 

 ――歓声が止みません! その歓声を前に、シンボリルドルフ、腕を高々と挙げて答えます! 唯一抜きん出て並ぶものなし! 真なる皇帝、シンボリルドルフだーーーーー!!!!

 

 観客席に向かって、彼女は宝塚記念での勝利を戴冠して堂々と一本指を天に掲げる。

激戦を制した彼女の口元には常ならぬ凶暴な笑みが刻まれている。

ふと、観客席へ強い笑顔の歓喜で答える彼女に、雲間から陽光が差し込んだ。

 真っ白な手袋が指ししめす皇帝の旅路は、煌々と世界に向かって輝いていた。

 

 

 ――夢幻に向かってかかる夜

 




すこしかかり気味
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