初うまぴょいまであと1時間-シーズン1-   作:初瀬川みそら

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同居人とか片割れとか戦友とかで総じて表す結局のところ-アグネスデジタルの場合-

「――かつて偉人は言った。私たちが心から楽しんだものは失わない。心から愛したものは私たちの一部となる、と」

「どうした急に」

 

 春先の夕暮れ道で、大きなリボンを揺らす……【同志】へ、トレーナーは半ば反射的に尋ねていた。

 

「されど心から愛する、ゆえに、失わないためにも確かなる形が必要……そう、グッズとは……物販とは……冊子とは……すべて愛の形」

「ああ……最後のウマ娘アルバムの話か」

 

 トレーナーは、舗装された茜色の道を行きながら、つい先ほど惜しくも目の前で売り切れて、手に入れられなかった昨年の【下半期ウマ娘フォトアルバム集】という冊子を思い出す。

 テイエムオペラオーとメイショウドトウという二大スターを制した天皇賞の後……【同志】はさらなるウマ娘との出逢いを求めて海外に飛んだ。

 【同志】の海外レースに専属トレーナーがついていくのは当たり前のことで……結果として、昨年のその頃は日本にいなかった。

 トレーナーとしてはその間の他ウマ娘のリサーチに便利かと思って、ウマ娘アルバムを求めたが、生憎目の前で完売となったのがつい先ほどのことだ。

 当人は仕方ない、と諦められる程度のものだったが、【同志】は自分のことのように悔しがってくれていた。

 

「いやーーーーー致し方ないとはいえ、もっと早く並んでいれば……! それで一つだけしか買えなかったのは何とも不覚っ!!!」

 

 【同志】……アグネスデジタルは、悔しげに唇を噛みながら、大きな頭のリボンをぶるぶる揺らした。

 上がりきったテンションボルテージ最高潮のまま、有明の舗装道を歩いていた。

 薄紫を基調としたセーラー服であるトレセン学園制服に、今し方参加したばかりの【春フェス】……有明の展示会で開かれた、ウマ娘関連のさまざまな冊子やURAのファングッズを頒布するイベント……の公式タオルを肩にかけ、さらにそのタオルの上から両脇にかけて、冊子の入った手提げをかけつつ、ガラガラと、カメラバッグの乗った小ぶりのスーツケースを引く。

 小柄な身体には重装備もいいところだというのに、彼女は、ロングの髪と横に結わえたツインテール、そしてその瞳を夕陽に負けぬほどギラギラと輝かせていた。

 ちなみに……彼女の肩に下がった手提げバッグ、引くスーツケースの中には背後、後にしたばかりの逆三角錐の展示場を駆け巡って得た【戦利品】が一杯詰まっている。

 

(一つでも結構重量ありそうなものを背負っている上に、一眼レフまで入ったカメラバッグをスーツケースに乗っけておいて、全然重そうでない……さすがにウマ娘だな……)

 

 彼女の姿に感心するトレーナーの右肩からも、B5のバッグは下がっていた。

 そちらにもびっしりと冊子が……意外と、ニッチなトレーニング理論や観客目線のレース理論、トレーニングに役立ちそうな料理メニュー本など……が詰まっている。

 

(戦場……と聞いてはいたが、確かに……あれはすごかったなぁ)

 

 今回の参加は、急虚決まったことだった。

 香港、ドバイ、香港と海外のレースを休むことなく戦い抜いたアグネスデジタルは、戦いの疲労も抜けきらないだろうに、急いで帰国を促していた。

『戦場が、戦場が待っているんです!』と力説された彼女の勢いに飲まれるように慌てて帰国し、せめて疲労を軽減すべく展示場のある有明に近い、お台場に宿を取ったのが昨日の夕方。

 ゆっくりと休めるかと思えば日の出よりも前にたたき起こされ、始発で宿を出発した。

 展示場前に到着して、朝日がおぼろげに上っていく頃合いだったというのに、すでに展示場へ続く道びっしりに人が埋まっていた光景にゾッとしたのも、もう半日前のこと。

 展示場の中には道にいた人以上の人、人、人が群をなしながら、それぞれのブースに向かって理路整然と列を成すという、異様な【戦場】が広がっていた。

 最初こそ気圧されたものの、なんだかんだと楽しんで、トレーナーとアグネスデジタルは春フェスを満喫した、今がその帰り道だ。

 

「まぁ、売り切れてしまったものはしょうがない」

「くぅうううう! アルバムをめくり、数々のレースを振り返りながら、語らいたかったのにぃっ」

「どうどう」

 

 ぶんぶんと肘を回すアグネスデジタルの両肩でびっしりと冊子が詰まったカバンが揺れ、興奮気味の彼女の声は有明の空に響く。

 普段なら声を抑えて、と困りもするが、周りには似たようなカバンをもった人しかおらず、そのいずれもが彼女に生暖かい目線を送ってくれていた。

 彼らの顔にいささか疲れが見えるのは、同じように人間の詰まった会場内で、お目当ての【戦利品】に向けて戦ったからだろう。

 いわば【戦友】という訳だ。

 

(なんというか、デジタルみたいなひとがたくさんいる場所ってあるんだな……)

 

 感謝しつつもトレーナーは苦笑していた。

 

「……しかし、昼休憩で見てた桜花賞のエキシビションで、ウオッカさんとダイワスカーレットさんの突発ご褒美喧嘩! まさかの追加ウィニングレースを、見逃すわけにもいかなかったし……うーーーん、身体がいくつあっても足りませんー!」

 

 トレーナーの心中を置き去りにしながら、アグネスデジタルはトレーナー分の冊子が得られなかった、出来事に頭を抱えているようだった。

 展示場内にあるカレーの美味いレストランで昼休憩をしていた時に、桜花賞のレースが店内のテレビに中継されていて……主にアグネスデジタルを発端にして……店内が沸いていた出来事のことを口にしてはがっくりと意気消沈を態度に表してみせる。

 

(ホントにウマ娘好きだものな……仕方ない)

 

 頭を抱えた彼女を見つめるトレーナーの心は温かかった。

 三年間、専属トレーナーとして付き合ってきた。

 その中で、彼女はトレーナー以上に、自分の時間一分一秒をすべてウマ娘に捧げ、それが彼女の喜びになっているという、特別なウマ娘だった。嬉しい、楽しいのがひしひしと伝わってくるものだから、眺めるトレーナーの心は温かなものが沸きたつのを感じていた。

 

(……ほんと、なんというか……飽きないし可愛いし……だいぶ冒されてるよなあ、俺も)

 

 独特な感性と紳士的な配慮で、ウマ娘を愛でては一喜一憂どころか十喜十憂するアグネスデジタル。

 深い愛が為す知見と、ファン魂に溢れた彼女に振り回され、トレーナーは一層に彼女の世界感に溺れているのを自覚する。

 

(……まぁ、こういうのも、きっと好き、ってことなんだろうけど……なんか不思議だな)

 

 春先、若草が土から萌える匂いが風に乗るからか。

 あるいは出逢いと別れの時期に、心が勝手に少しセンチメンタルになっているからか。

 トレーナーは沸きたつ感情に何気なく【好き】とラベル付けをしながら、アグネスデジタルとともにゆっくりと駅に向かって歩んでいく。

 向かうは昨晩から連泊するお台場の宿だ。

 

(さて、明日からはまたトレーニングに向けてプランを練り直さないとな)

 

 今日、心のリフレッシュは図れたろうから、明日からは帰国したばかりの身体の疲労をとりつつ、国内レースに向けて再調整を図らねばならないと、トレーナーが心に決めていると、くるりとアグネスデジタルがこちらに振り向き、ぐっと拳を握ってみせてきた。

 

「お宿にもどったら、あのアルバムはシェアしますので、早速ですが語らいましょうねっ、ねっ!」

「お、おう」

「うひひっ、はー、楽しみすぐるーっ。あたしがいなかった間のフォトアルバムが発売されるのをどんなに心待ちにしたことか! インターネットで中継されているレース映像だけでは、追いかけきれなかったものもありますからねー」

 

 彼女はすぐにまた駅に向かって体勢を戻し、アルバムに収録されているであろうウマ娘達の姿を拝むように、天に向かって手を伸ばしていた。

 トレーナーは今度は呆れを込めて苦笑を深めつつ、スマホを取り出しながら宿の夕食の時間を確認した。

 確認する画面にあった部屋は一つ。

 昨日も、今日も、トレーナーとアグネスデジタルは同じ部屋で泊まることになっていた。

 トレーナーとしては、さすがに同室は憚られていたものの、急ぎの予約で、一部屋しか空いてなかったのだ。

 

(内心あんなにドギマギしたのに、本当になんでもなかったものな……それもどうなのかと思うが……)

 

 一部屋しか空いていないことに、アグネスデジタルは『致し方在りませんから。布団も別々ですから問題ないのでは?』と特に気にした様子もなく、実際、強いて言えば互いに着替えなどを配慮したぐらいで、本当に『なにも』なかった。

 宿の売りである天然温泉を備えた大浴場にそれぞれ入って、夕食を食べた後は部屋に戻ってウマ娘のことを語らった。

 語らいに興奮しきったアグネスデジタルが先に寝て、合わせてこちらも眠るという感じの、極々健全なもの。

 

(布団も別々であればそんなものだよな……)

 

 トレーナーはそうして、今夜の語らいも、健全なものになると思って……油断していた。

 

「ふふっーさーて、無事に宿に戻るまでがイベントですよー!」

 

 そして……アグネスデジタルもまた、なんの予感も感じてはいなかった。

 少なくとも、夕暮れ、逆三角錐の展示場を後にする、この辺りまでは。

 

 |同居人とか片割れとか戦友とかで総じて表す結局のところ 《あいかたの意味とは》

 ――初うまぴょいまで、あと一時間。

 

 

 ****

 

 ――初うまぴょいまであと五九分

 

 お台場の宿についてから、互いの荷物を手早くまとめた二人は、夕食を食べてから、それぞれ館内にある大浴場へ向かった。

 特に出た後に合流するなどの取り決めはしなかったものの、トレーナーはおおよそ、早々にアグネスデジタルは部屋に戻っているだろうと踏んでいた。

 スウェット形式の館内着に着替えて和室の部屋に戻ると、案の定、ふすまの向こうからは蕩けた彼女の声が漏れ聞こえていた。

 

「はぁあああっ……たまらんっ……じゅるりっ」

(やっぱり、【戦利品】確認したそうだったもんな……きっと、布団に寝転がってアルバム眺めて尊みを感じてるだろう……)

 

 夕食時のそわそわした感じを思い出して一人苦笑しつつ、アグネスデジタルの姿を想像しながらトレーナーはそっとふすまを開けた。

 トレードマークの大きなリボンはそのまま、トレーナーと同じくスウェット形式の館内着を着たアグネスデジタルは、彼の想像通り布団に寝転がってウマ娘アルバムを眺めていた。

 

「お待たせ」

「ああトレーナーさん、もどられましたか」

 

 トレーナーの言葉に、ぱっと顔を上げ、いそいそとアグネスデジタルは姿勢を正す。

 ごろんと寝転がったままでもトレーナーは良かったが、アグネスデジタルはそういうところで紳士的なウマ娘である。

 しかも、配慮の鬼でもあった。

 

「待ちわびましたよーそれじゃぁ、しばし待たれたしーっ」

 

 姿勢を正すや、彼女はすくっと立ち上がった。

 何を? と小首をかしげつつ自分の布団の上に座り込んだトレーナーとは裏腹に、アグネスデジタルの動きは素早い。

 部屋備え付けの冷蔵庫からビール瓶とにんじんジュース瓶を取り出し小脇に抱え、手のうちには栓抜きとナッツ類の入った袋までを取り出し、ささっと横に並んだ互いの布団の間にあるおぼんの上に載せていく。

 

「はい、お風呂上がりのドリンクは冷え冷え、おつまみもご用意しておりますよ!」

「おお! まさか……」

「ええ、そのまさかですとも!」

「先にあがってこれを確保してたとは……完璧だな」

「良き語らいには良きお供が必要ではないですか、ぬかりありませんとも。そして今日はトレーナーさんと迎える休養日&イベント打ち上げ! トレーナーさんにはご足労いただいておりますが……おかげで今日も、すっっっっっっっごく楽しかったですから!」

 

 あれだけの戦場 (イベント)を経たとは思えないニコニコ顔で、アグネスデジタルは手慣れたように瓶を開け、それぞれのコップに注いでいく。

 よもやここまで準備しているとは思わなかったトレーナーの前、コップの中で黄金色の麦汁が濃密に白い泡を称えていた。

 ナッツの袋を丁寧に開けて皿に移し、流れるように空き袋を捨てたアグネスデジタルは、トレーナーのコップの泡が弾けるより布団の上に戻ってコップを握った。

 

「えへへっ、それでは……お待たせしました」

 

 二人の手にコップが握られ、宴は準備万端。

 にこっと微笑むアグネスデジタルの頬は赤い。

 これからの語らいを本当に楽しみにしていた、というのがありありとわかる反応に、トレーナーの頬は緩んでいた。

 

「「カンパーイ!!!」」

 

 二人の声が揃って、軽妙にガラスが当たる音は鳴った。

 

 

 ****

 

 ――初うまぴょいまであと四〇分

 

 ……宴は(主にアグネスデジタルのテンション的な意味で)かなり盛り上がって……いや、萌え上がっていた。

 

「ふひょおおおっ、まって、こんなシーン中継で見てない、……ヒエッ、ウオッカさんとダイワスカーレットさんが、がぷりよっつの手……互いの体温と手のサイズが伝わって、禁断の煌めき空間が広がっていく奴なのでは?!」

 

 ――トレセン学園のトレーニング風景を激写したシーン。

 ――アグネスデジタルは、唇を戦慄かせながら小柄な身も総身震わせていた。

 ――めくるめく彼女の脳内光景が撃つ雷光に打たれているのだろう(推測)。

 

「ひええっ、と、トレーナーさん、こここここ、こ↑こ↓、見てみな、飛ぶぞっ……! ね? ね? タキオンさんの目線の先、マンハッタンカフェさんが目線返してるっ!!!! うひいいっ、この光景だけで百万の夜景に並ぶっ……この光景でタペくださいっ……言い値で買おうっ!!」

 

 ――弥生賞でアグネスデジタルの同室、アグネスタキオンがウィニングライブ終わりにマンハッタンカフェの傍らを通り過ぎる瞬間を写したシーン。

 ――アグネスデジタルの手でずいっと出された写真にトレーナーが頷いてみせるや、アグネスデジタルは、じゅるりと涎を拭いながら感嘆の吐息をついていた。

 

「うひひひっ……ファインさんとシャカールさんのプライベート激写シーンとは!!! ……このシャカールさんが手をつく壁と背中を寄せる壁になりてぇぇぇ……このお二人の壁ドンを成立させてる壁に嫉妬するっ……後生ですっっっ!!!!」

 

 ――注目の二人のプライベート特集というコーナーでは人気のラーメン屋に並び、突然の小雨をかばうエアシャカールと守られるファインモーションが激写されていた。

――写真から漂う【尊さ】とやらに、自分の身体を抱きしめてアグネスデジタルは身もだえていた。

 

「おっ、おおおっ、ほ、ほああっ、ほほおおおっ! このアルバムやりおりますなぁ! 同室特集ですと?! マックイーンさんとイクノディクタスさん、マンハッタンカフェさんとユキノビジンさんのプライベートショット?! しかも袋とじ?! と、トレーナーさん、ペーパーカッターを! い、いえ待てねぇ、こんなことも在ろうかと持ってて良かった定規裁きを見せてやるぅっっ!!!」

 

 ――もはやすべてを説明する早口のアグネスデジタル。

――どこから取り出したのか定規を取り出して、一瞬で袋とじの継ぎ目をカットすると、言葉にならない叫びを上げながらパタンと布団の上に寝転がっていた。

 

(本当に、楽しそうだな)

 

 変わらず一喜一憂どころか十喜十憂のアグネスデジタルの百面相を肴に、トレーナーのコップもすいすいと空になっていた。

 ……そうして、トレーナーのビールがちょうど、一瓶空いた頃。

 

「……って……えっ……」

 

 アルバムを眺めていたアグネスデジタルが、アルバムを持ったまま固まっていた。

 それまで身もだえていた興奮が、一気に冷めたかのように瞳を揺らしている。

 常ならぬ彼女の様子に、トレーナーが声をかける。

 

「デジタル?」

 

 しかし、反応がない。

 じっと彼女は開いたアルバムのページの記事を眺め、徐々に眉間を険しくしていた。

 

(なにが、あったんだ?)

 

 じっくりと見つめてしまっているため、トレーナーからはアグネスデジタルが見ている記事の内容が見えなかった。

 コップをおぼんに戻してから、トレーナーはそっとアルバムの端をつん、つん、とつつき、声をかけ直す。

 

「……おーいデジタル?」

「……アッ?! は、ハイ、な、ナンデショウカ?」

 

 ようやく反応したアグネスデジタルは慌てたようにアルバムをパタンと閉じて、今更トレーナーの存在に気がついたような反応を見せた。

 こちらを見た彼女の表情には、先ほどまでの興奮がすっかりと消えていた。

 なにかがアルバムの中にあったのかも知れないが、ぎゅっとアグネスデジタルの腕の中に抱かれ、アルバムは見れそうになかった。

 

(……今日は、朝も早かったし、そろそろお終いにするかな……)

 

 ちらりと壁にかかった時計を見てみれば、なかなかに夜も更けている。

 トレーナーは乗り出した身体を自分の布団に戻して、アグネスデジタルに向けて苦笑して見せた。

 

「そろそろ、今日はお開きにしようか」

「えっ……わわ、もうこんな時間?! さ、さすがに寝ましょうか……」

 

 時計を指さしながら言ったトレーナーの言葉に、アグネスデジタルは口元を抑えながら驚き、アルバムをそっと枕の下に差した。

 アルバムの中身を見ようと思ったが、さすがに見られなかったと感じつつ、トレーナーは電気を消すべく立ち上がった。

 

「そしたら、電気消すぞ」

「あ、ちょっとお待ちを……あたし、お花を摘んでから」

 

 はっとアグネスデジタルが立ち上がったのと、

 

「あっ」

 

 トレーナーが声を上げたのは同時で、

 

「えっ」

 

 アグネスデジタルが不思議そうに答えたのと、その後ろで蓋が開いたままのにんじんジュース……彼女用のものだったが、語りに夢中になっていた所為か、ほとんど中身が残ったままのもの……が、アグネスデジタルの布団めがけ倒れ込むが、ほぼ同時だった。

 

 

 ****

 

 ーー初うまぴょいまであと一五分

 

「……すいません……本当にすいません……よもや……にんじんジュースを蹴躓いてぶちまけて、挙げ句、布団を一組ダメにしてしまうとは……」

「まぁ……明日の朝、一緒に謝りに行けばなんとかなるんじゃないか」

 

 和室の電気は消え、一組の布団の中で、トレーナーとアグネスデジタルは寝床をともにしていた。

 にんじんジュースをぶちまけた布団はシーツを貫通して生地の方にもシミができており、部屋備え付けのティッシュを半分ほど使ってもジュースの残滓を取り切ることはできなかった。

 

「しかし……恐縮の限りでして……はぁああ……なんというご迷惑を」

「……やっぱり疲れが出てたんじゃないか?」

「……久しぶりの日本のウマ娘ちゃん達を摂取して、新しい関係とか成長度合いとかからしか取れない尊みで、テンションが上がりすぎてましたね……い、いえ、自分の不始末の理由に、尊みを利用してはいけませんっ……!」

 

 無事だった枕を並べ、アグネスデジタルはひたすらに恐縮し続けていた。

 トレーナーは二人並んでも特に狭さを覚えない布団の中で、改めてアグネスデジタルの小柄さを感じていた。

 

「しかし……その、やっぱり私、あっちのソファで寝た方が」

「いや、それはトレーナーとしてダメだ。むしろ俺がソファに寝ると言っているだろ」

「そ、そそそれこそダメです! トレーナーさんには今日も付き合ってもらいましたし、疲労は私が感じてしまうほどなんですから、相方だって疲れています。お布団で寝なければなりませんっ」

「そこまでいうのなら……結果としては現状維持、なんじゃないか」

「……それは、そうなのですが」

「……ちなみに、このやりとり既に三回目な」

「……ですか」

「……ですねぇ」

 

 恐縮して、布団から出ようとするアグネスデジタルを止め。

 呼応して、布団から出ようとするトレーナーが彼女に止められ、三回。

 さすがにもう応酬はすまいと、二人の言葉が止まっていた。

 

「「……」」

(なんというか……珍しいな。嫌じゃないけれど)

 

 トレーナーと二人きりなら、常にハイテンションで立て板に水とばかりにウマ娘の話題を語る、アグネスデジタルが黙り込んでいた。

 妙な感慨を感じるトレーナーの左腕あたりに、微かにアグネスデジタルの気配を覚える。

 すすっと寄ってきた小さな手は、トレーナーの肘辺りの布をつんつんと、引っ張ってきていた。

 

「あの……こんな状況なので……つかぬことを伺いますが……」

「うん?」

「トレーナーさんってうまぴょいしたことあるんですか?」

「……は?」

「ですから、その……うまぴょい(意味深)です」

「マジでどうした急に」

 

 丁寧にかっこ/かっこ閉じをつけて言うアグネスデジタルに、もはや高速食い気味に答えるトレーナー。

 

「タハハ……夜の和室、遠征先、それはさながら世にいう合宿の夜と同じ雰囲気……そんなことを話すのが吉かと思いまして」

「……デジタルもそういうことに興味あるのか」

「それはまぁ年頃ですし。トレーナーさんも男性ではないですか。情報の一つとして知ることで、ますます本が厚く……コホン、創作活動にも生きると言いますか」

 

 アグネスデジタルの言葉全てを理解できているわけではないが、彼女が年頃、というのは理解できる。

 独特な情熱が燃えて、加えて紳士的な上に博識なアグネスデジタルだが、彼女もまた、普通の女の子である。

 トレーナーは急に存在感を増す女の子としてのアグネスデジタルを感じつつ、しかし、取り繕うこともなく答える。

 

「……したことはないな」

「そうなのですか……ままなりませんなぁ、世の中というのは」

「そうだなぁ」

 

 しみじみとつぶやくトレーナーとアグネスデジタル。

 部屋の暗さにも慣れた目がそれぞれ並んで二つずつ、天井を見つめていた。

 

「「……」」

(この沈黙は……ちょっといやかも)

 

 話題が止まり、トレーナーは最後の話題が自身の【未経験】を語った後という気恥ずかしさに苦いものを覚える。

 カチッ、カチッ、カチッと壁掛けの時計の秒針が五つほど音を鳴らした後、アグネスデジタルの手がもう一度、布団の中でトレーナーの肘辺りの布を引っ張った。

 

「あの」

「うん?」

「あたしのことは聞かないんですか?」

「それ聞いちゃう?」

 

 首だけをアグネスデジタルに向け、トレーナーはどこかキザっぽくウィンクして見せた。

 答えなど、聞く前から分かっていることは、二人とも承知していた。

 

「いやまぁ、こういうのはお約束というのがありますし」

「じゃ、デジタルは?」

「ご存じの通り、バッキバキの処女ですよ」

「……そうだよなぁ……知ってた……俺ずっとデジタルのトレーナーとして一緒にいたし」

「……予定もありませんが、ウマ娘ちゃん達の尊さを摂取できれれば幸せですし……レースに出ることで、以前よりもウマ娘ちゃん達の気持ちが分かって、前よりもっと幸せですから……そう、ですから……」

 

 目を細めて、へにゃりと諦めきったように呟くアグネスデジタル。

 しかし、呟きの最後が少し巫山戯たような響きから切実なものに変わったのを、トレーナーは聞き逃さなかった。

 

「……デジタル?」

 

 天井を見つめるように目線を向けたまま、言葉だけをかけるトレーナーに、アグネスデジタルはしばらく答えなかった。

 だが、沈黙の中で彼女が思考しているのだということは、これまで二度、トレーナーの肘辺りの布を引っ張ってきていたことから感じ取れていた。

 だから待っていると……アグネスデジタルはゆっくりと語り出してくれた。

 

「……トレーナーさん。少しだけ言い訳をしてもいいですか」

「ん? なんのだ」

「さっき、にんじんジュースを瓶ごとぶちまけた件です」

「……うん、いいよ」

 

 ちらりと目線を流して見たアグネスデジタルの表情は、先ほどアルバムを見た時のように固まって、落ち込んでいた。

 

「……あのアルバム、尊さマックスハートだったんですけれど……天皇賞であたしが出走したことで出られなかった後輩ちゃんも、特集になってたんです」

「……うん」

 

 アグネスデジタルが香港に渡る直前、見事に勝利を飾った天皇賞。

 そこで出走枠を相手側からすれば奪われたウマ娘がいた。

 そのウマ娘のことに触れたことで、トレーナーは先ほどのアルバムのページに何が書かれていたのか、全てを察した。

 アグネスデジタルには黙っていたが、そのウマ娘のことは、トレーナーとして既に把握していた。

 

(ああ、そうか……知ってしまったんだな)

 

 ウマ娘を愛し、ウマ娘のために全てを捧げるアグネスデジタルに、その事実は大きく迷いを生むと思って、今日に至るまで告げなかった事実。

 それを今日知ったアグネスデジタルは、トレーナーに向けてアルバムの記事を諳んじてみせた。

 

「……記事は、競争ウマ娘、引退式ってタイトルでした。ジャパンカップダートに勝って……そのあとあのウマ娘ちゃん、怪我したそうです。ドバイワールドカップに来てなかったから、おかしいなって思って……でも、あたし、わざと見ない振りしてたんですよね。目の前のレースに集中しないと、レースに参加していた他のウマ娘ちゃんに失礼ですから。でも……本当はずっと気になってて……そうしたら、脚をひっかける凡ミスしてました」

 

 ぽつぽつと、しかし流暢に感情と思考を言葉にしていくアグネスデジタル。

 アグネスデジタルがそう思うこと、その次に考えることを、トレーナーは言外に感じ取っていた。

 

「でも、ずっと、ずっと……どこかで思ってました」

 

 だから、アグネスデジタルがいう言葉を予測しつつ、息を吸う。

 

「……もしも。もしあたしが、あの天皇賞に出なければ」

「デジタルはあの子の分も天皇賞を勝ったんだ」

「……っ!」

 

 アグネスデジタルの言葉を遮るように、トレーナーは声を発した。

 びくっとアグネスデジタルの身体が、掴んでいた手が、トレーナーの左肘辺りの布から離れる。

 代わりにトレーナーがアグネスデジタルの方へ寝返りをして、彼女の両肩をがっしりと掴んだ。

 

「俺はデジタルのあの時の走りを、誰よりも覚えてる。お前の最推し達を大外でまくった、観客席に飛び込んできそうなぐらいの大外で、勝利をもぎとったあの瞬間を」

 

 トレーナーの口から、言葉が溢れる。

 不安に揺れていたアグネスデジタルの瞳の中に、トレーナーが写っていた。

 

「どんなトレーニングの時よりも重く、ぬかるんだターフを踏み抜いて、デジタルはあの子の分まで戦って、勝った。オペラオーにはドトウがいたかもしれない。でもお前には、あの子が、お前が推してきて、お前と走ってきた数多のウマ娘がいたんだ」

 

 心が燃える。目の前の最推しに伝えるべき言葉が熱となってトレーナーの唇を震わせていた。

 

「今だって、思い出せば涙でそうになるよ。その後の香港でも、ドバイでも、俺の最推しは、オールラウンダーとして今なお戦い抜いてる。俺は、しっかり、心のアルバムに最推し (デジたん)の姿を収めている。これからも、これまでも。それはきっと、お前の勝利を見たあの子だって同じだと俺は信じてる」

 

 燃えた心が、溢れる感情が、彼女の心に再び火をともせるように。

 トレーナーが一気に語った言葉に打たれたアグネスデジタルは、その言葉を受け取って、揺れていた瞳を正して、真っ直ぐトレーナーに向ける。

 そして、ふわりと微笑んだ。

 

「……そんなにデジたんのことを推すの、トレーナーさんぐらいですよ。ウマ娘好きもここに極まってますね」

「そりゃそうだ。俺の最推し……それに、俺はデジたんの戦友 (あいかた)、なんだろ?」

「……あははっ、もう、使い方滅茶苦茶ですね」

 

 アグネスデジタルにいわれるとは、と苦笑するトレーナーの胸元に、大きなリボンがそっと寄せられた。

 

「……トレーナーさん、その、もう少し、寄っていいですか」

「……ああ」

 

 額がトレーナーの胸元にぴたりとついて、ぎゅっと胸元の布地に手を伸ばしたアグネスデジタルを、ぐっとトレーナーは抱き寄せる。

 小柄な身は容易く腕の内に抱かれ、ふわりとシャンプーの甘い匂いが鼻先を香った。

 

(……当たり前のように、女の子の匂いがする)

 

 【推し活】に向けて彼女がデオドラント剤を買い求めていたかつてを思い出しながら、彼女の匂いと湯たんぽみたいに温かい体熱に、ごくりと喉が鳴って鼓動が強くなるのを感じる。

 トレーナーの腕の中で、ぴょこんと震える桃色の馬耳は、真っ暗な部屋の中でも分かるほど熱く、赤くなっているのが見て取れた。

 

「その……なんといいますか……思った以上に恥ずかしいですねぇ」

「……デジタル、俺も同じ。恥ずかしいかも」

「……は、ははっ……これは奇遇で」

 

 ぐりぐりと潜り込むように、アグネスデジタルがトレーナーの胸元にしがみついて、一層に頬を寄せてくる。

 柔らかなアグネスデジタルの頬の感触がスウェット越しに感じられて、トレーナーの腕は、彼女の背をより強く引き寄せていた。

 

「「……」」

(なんだ……この感じ、俺、デジたんのこと……抱きしめて、ドキドキしてる)

 

 緊張よりも深く、興奮よりは穏やかに。

 心がいきいきと沸きたつ感覚に、トレーナーの耳も熱を帯びていた。

 口から沸きたつ感情を抑えきれず、つい軽口が溢れてしまう。

 

「な、なんつーか……最推しとこんな近くにいたら、やっぱり昇天しそうになるかも」

「……トレーナーさん……あたしがいうのもなんですが、ちょっと気持ち悪いですね」

「ホントに【なん】だよそれは……」

 

 軽口に付き合ってくれる、トレーナーの最推しはしかし、胸にしがみついていた手をそっと、トレーナーの頬に伸してきた。

 自身の方に向けさせるようにトレーナーの頬に添えられた手。

 アグネスデジタルに誘われるように見たトレーナーは、彼女の悩ましく、潤んだ瞳を見た。

 

「……ちなみに、なんですけれど、その、昇天特典に……最推しのバッキバキの処女、つけちゃおっかなぁ、とか……いりません、かね?」

 

 消え入りそうに呟く言葉を最後までトレーナーを見たまま言い切れず、アグネスデジタルは、もう一度頬をトレーナーの胸元に擦りつけくる。

 

「……返品交換、出来れば……不可で……」

「……この期に及んで、返品する奴なんている?」

「……いない、かも」

「……ですよね」

「……ですわね」

「……ははっ」

「あははっ……」

 

 ……声はしばらく、囁き合うように途絶えることがなかった。

 

「……あっ」

 

 それでもこすれ合う衣擦れの音が止んだ後は、交わす言葉よりも深く、二人の声は甘く蕩けた。

 

 ――初うまぴょいまであと零分

 

 

 ****

 

 

 ――翌日早朝。

 

 【はぁ・・・尊み・・・】

 

 アグネスデジタルのウマッター、そのタイムラインに呟かれたなにげない一言が、アグネスデジタルのタイムライン的には常にない時間だったことから、後にカレンチャンに【匂わせプチ炎上】と指摘された出来事が起きたのは、また別のお話しである。

 




相方だからね、わかるし、わかってくれるから、相方って呼ぶんでしょ。
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