――一六時五九分三〇秒
厳しい冬を抜け、間もなく春が近づく三月の末。
トレセン学園のレース場で、ストップウォッチが鳴る。
一陣の風と共に艶やかな黒髪と黒尾の毛並みが淡い夕日に照って流れていく。
夕風に早咲きの桜の花びらが舞い、青々とした芝が夕闇に軽快な走行踏破の音を返していた。
(……うん、調子は上々、これなら来週に迫った大阪杯も……)
最後の走り込みも目標のタイムを切ったのを確認した後、ちらりと見た腕時計が指し示すのは一七時ちょうど。
トレーニングスケジュールに、一秒も狂いなし。
スケジュール通りに、今日もトレーナーの言葉で終わる。
「……よし! お疲れさん。今日も定刻ぴったりで上がりだな」
「はっ、はっ、はあっ……今日も、ありがとうございました。トレーナーさん」
ストップウォッチのレコードをタブレット端末で入力するトレーナーが、労いの言葉をかけた。
定刻ぴったりという言葉も、『彼女』にとってはむしろ誇り高い時間を過ごした証である。
その証拠に、一筋の汗を返す笑みに浮かべ、赤と白のジャージをうっすらと上気させながら息を整えたウマ娘……エイシンフラッシュは折り目正しくきっかり三〇度で敬礼した。
透き通った清流を思わせる碧い瞳を、長い睫毛が伏せて瞑る。
真っ直ぐな竹を、節ですっぱりと切り落としたような、形の良い黒耳を背に合わせてすっと傾けた。
綿密に組み上げられたトレーニングの疲労は見せず、かかとをぴったりとあわせ、手は軽く腹部の辺りで重ね合わせて。
丁寧な一礼の後、しかし、エイシンフラッシュの瞳は少し揺れていた。
「あの、トレーナーさん。今日、この後は」
タブレット端末に目をおとしていたトレーナーは彼女の声に目を上げ、かすかに揺れた瞳にその先を察したように頷いてみせた。
「……ああ、覚えてるよ。隣町のフレンチだったよな」
「はい。いつもより長い時間をいただきますが、コースディナーのデザートでしか食べられない一品を食べに行きましょう」
「ついに、フレンチレストランにまで……本当に研究熱心だな、フラッシュは」
「それに、今回は父からの紹介でもありますから」
ふわっと、エイシンフラッシュの真面目な面立ちが紅潮した。
この後は、パティシエであるエイシンフラッシュの父親の紹介で、彼の古くからの友人が隣町で開いている高級フレンチのディナーが待っている。
今年はどうしても日本に来られないというエイシンフラッシュの両親が、せめてと、便宜を図ってくれたらしい。
ただエイシンフラッシュの趣味であるケーキ屋巡りに付き合って、何度もいろんな店に行くことはあったが、高級フレンチは初めてのトレーナーである。
フレンチと言えばオムレツ程度の彼は恐る恐るエイシンフラッシュに尋ねた。
「でも、本当に良いのか、その……作法とか俺、ちょっと自信ないが」
「ふふっ、大丈夫ですよ。父からは気兼ねなく楽しんできなさいと言われています。お店も大きなリストランテではなく、一軒家風のこぢんまりとしたもののようでした。私達以外の方の目を気にする必要はないでしょう」
まるで指図棒を立てるように右手の人差し指を外に向かって立てるポーズを見せたエイシンフラッシュは、リサーチばっちりで悠然としていた。
きっと作法についても、彼女に不安はないのだろう。
であればこそトレーナーは、彼女に恥をかかせる訳にはいかなかった。
密かにタブレット端末で『フレンチ 作法』と検索しつつ、彼は、エイシンフラッシュに悟られるまいとわざとらしくお腹の辺りをさすって見せた。
「……それならいいのかな? 俺、結構楽しみにしてて、今日は、いつもよりお腹を空かせてあるんだ」
「実は、私も少しだけいつもより昼食の量を減らし、お腹を空かせていました」
「あ、だから今日はちょっと粘りが……」
「えっ、そんなはずは」
「ははっ、大丈夫大丈夫、今日もバッチリ仕上がってたさ」
「もうっ……。それでは、急いで着替えてきます」
「慌てなくて良いさ。取りあえず着替え終わったら、校門前に来てくれ」
苦笑するエイシンフラッシュに落ち着くように、とひらひらと手をふるトレーナーは、その間も目の片隅でフレンチの作法を習得していた。
エイシンフラッシュはそんなトレーナーを前にそっと左腕の時計を確認し、ジャージのポケットから手帳を取り出す。
「はい。着替えて、寮長へ
この後の手順を確認した上でトレーナーへと、再度三〇度敬礼をした。
「お、おう」
変わらず
彼女が遠く、上機嫌に揺れた黒尾が見えなくなってから、フレンチの食事作法を記載していたページへと改めてタブレットの端末に目をおとしたトレーナーは、しかし、数秒もしないうちにタブレット端末を
「えーっと……外泊届を出すって……それは、さ……報告、しなくてもいいんじゃねえかな」
タブレット端末を小脇に抱えながら、頭を抱えたトレーナーの耳に、エイシンフラッシュの言葉が残る。
ちらりと左手首を傾けて見る時刻は一七時九分。
彼女がやってくるのは一七時四〇分。
移動に三〇分ほどかかるとして、店には一八時二〇分頃には着く計算だ。ディナーの予約は一八時三〇分からで、コース料理の時間イメージはないがおおよそ、一時間半ほどだろうか。
どんなにゆっくりしても、二一時までには学園に戻ってこられるだろう。
それに今日は土曜。平日なら厳しい門限も、多少は緩いと噂で聞いたことがある。
いずれにせよ、夜の外出届で、十分に間に合う帰宅時間には帰れる。
外泊届を出す必要など、本来はない。
(……こういう計算、随分早くなったなぁ、俺)
育成レースの頃にエイシンフラッシュに出逢い、彼女の走りに惚れてトレーナーになって、まる四年。
綿密なスケジュールを遂行する彼女の元で、トレーナーもまた、時間計算に対する意識が随分と変えられてしまっていた。
変化に広がる幸せを噛みしめるように歪む唇に、
じわりと広がるにんじん味がいつもよりぼやけた甘さなのは、どくんと打ち始める鼓動の所為だろう。
トレーナーはえも言われぬ味わいを覚えながら駐車場へと歩き出した。
歩みを止めぬまま、トレーナーはタブレット端末を小脇に抱えた状態で、器用に財布を尻ポケットから取り出し、中を見る。
黒い皮の財布の中、ちょっとした通帳ぐらいに溜まった領収書が入ったスペースに埋もれた、黒いビニールで包まれた四角形の小袋に視線を落とす。
それは、0.01のラテックスゴムの製品を梱包している。
切り取り線で繋がって、【連戦】まで想定して鎮座しているのに、トレーナーは深くため息をついた。
(俺の、勘違い……なんてことはきっと、
つくため息は、決して落胆ではなかった。
耳まで赤くなる気持ちで、口の中の馬蹄キャンディが溶けそうになるから、はきだしただけだ。
(いや、でも、俺はエイシンフラッシュのトレーナーだ。ただの、トレーナーなんだぞ)
そんな気持ちになること自体を誤魔化すように、トレーナーはぐっと、黒いビニールをレシートの中に混ぜ込むように押し込んで財布を尻ポケットに戻す。
(……それでも、スケジュール通りに事が運ぶことは、想定しないとな)
タブレット端末を小脇に抱えたまま、空いた両手をポケットに突っ込んで駐車場に向かう彼が見上げた空には星が輝いていた。
夕闇にも輝く春の
――二〇時三〇分
――初うまぴょいまで、あと五九分
温厚なシェフの見送りともに、トレーナーとエイシンフラッシュは駅前の喧噪から離れた一軒家風のフレンチレストランを後にした。
春を間近にした夜風は頬をそっとつめたく撫でていく。
服の表面が軽く触れあう程度の距離感で、トレーナーとエイシンフラッシュは並んで歩む。
住宅街の間を走る道には暗がりの内容に電灯が配置され、二人の歩みを穏やかに照らし出していた。
「ああ……Glücklich……幸せですっ。味もでしたが、一品一品、食材を丁寧に取り扱って作られていることがよく伝わってきました。シェフの誇りがコースという一連のセットで描かれていて、お腹だけでなく心まで満たされるとはこのことです」
店を出てから終始、ふりふりと、エイシンフラッシュの黒尾が揺れていた。
艶々とした黒尾毛が舞う度、ふわっと椿の匂いが香り立つ。
ジャージから着替えて、淡いベージュのロングコートに黒い上品なワンピース。
差し色の赤い帯が映えて、上品なたたずまいがエイシンフラッシュの姿勢の良さによってより気品を漂わせていた、
「一品一品の繋がりが最後まで途切れることなく、プティフールに至るまで計算尽くしていました。真摯に食材に向き合い、提供するお客さんに幸せになってもらいたいという気持ちと磨いた技量がつくされています。……父の古い友人とお話しをうかがいましたが、誇り高い仕事とはどういうものであるか、味わうことができたように思います」
ニコニコと頬を緩ませ、饒舌に語るエイシンフラッシュ。
彼女の言葉はトレーナーとしても同感で、今日のディナーコースは全てとても誠実な仕事だった。
きめ細やかに調理されたコンフィやパテを含むコース料理の全て、エイシンフラッシュが待ち望んだプティフールまで、一つ一つの料理が与えてくれた感動は食べる度、じんわりと心の中に広がっていた。
誠実な仕事、と言葉にするのは容易く、為すことが難しいと口にするのも簡単だが、実際に為したものを見せつけられたことで、トレーナーとしての仕事に背筋を伸さねばならないと思えてしまっていた。
「俺も、あんな風に真摯に、向き合わないといけないな」
「ふふっ、トレーナーさんはいつでも真剣ではありませんか」
「そ、そうか?」
「はい。私に向けてくれている目線は、いつでも真摯だと感じています」
自分への絶対的な信頼を向けるエイシンフラッシュがぴょこんと諸手を挙げるように耳を広げて立たせるのに、トレーナーはもう言葉が続かなかった。
そっと頬をかき、ゆっくりと歩むエイシンフラッシュの歩幅に合わせて、駐車場への道を行く。
――二〇時三五分
レストランから徒歩五分ほど。
住宅街の間の道に面した駐車場は、大して歩きもせずに到着する。
夢見心地の後に乗るには、些か実用性が高すぎる白のプロボックス。
トレーナーとエイシンフラッシュはそれぞれ運転席と助手席に乗り込み、慣れた手つきでシートベルトをかけた。
すっとキーを取り出したトレーナーの手でエンジンがかかり、パっとライトが表示された後、トレーナーはフロントライトをローにした。
「「……」」
エンジンがぶるぶると震え、微かに振動する車内には沈黙が流れる。
サイドブレーキをかけたまま、トレーナーは車を発車させない。
エイシンフラッシュは、そんなトレーナーを見つめて、じっと黙りこくっていた。
エンジンのかかったプロボックスは力を貯めたまま、前進したりはしない。
車内の張り詰めた空気に鳴るエンジン音だけをならして、運転手の繰る手をただ待っている。
(……なんだ、この沈黙)
サイドブレーキに伸すべき手をハンドルにかけたまま、トレーナーは動けなかった。
(……トレーナーさんに、いわなければ)
車を発車させないトレーナーをシートベルトを胸元に食い込ませながら見つめるエイシンフラッシュは、意を決するために一呼吸をおこうと動かなかった。
二人の呼気がすっ……と車内の空気を吸い込んだ。
「「……あの」」
沈黙を、二人の声が切り裂き、重なる。
「……と、トレーナーさんから、どうぞ」
「……いや、フラッシュからでいい」
「いえ、トレーナーさんの方が早かったと思いますから、トレーナーさんからで」
「……んじゃ、俺から」
ウマ娘の優れた聴覚をもって断言されたため、トレーナーは観念とばかりハンドルから手を離して手を挙げる。
そのまま車のシートに背中を預けて、挙げた手を頭の後ろに手を組んだ。
ちらりと見たエイシンフラッシュがトレーナーをじっと見つめている。
彼の言葉を待つエイシンフラッシュの真っ直ぐな瞳に、本来言うべき言葉を飲み込んだトレーナーは、折りたたんだままの手前のサイドミラーを見ながら数瞬、かけるべき言葉を思案して……飲み込む。
「……い、いつも記録をつけてるじゃないか。あ、あれはいいのか、フラッシュ」
「……っ! あ、えっ、ええ……その、私も今それをお願いしようとしていまして……あの……少々お待ちくださいますか。今日の感動を、記録しておきたいと思います」
少しうわずった声になってしまった。
が、告げた言葉にエイシンフラッシュもまた、少し慌てたようにメモ帳を取り出していた。
「ゆっくり、書いて良い。この辺りは人通りも少ないし、そんなに長くならなきゃ、大丈夫だろ」
なんとかなったと内心でガッツポーズしながらトレーナーはローになっていたライトをオフにした。
本当は、『この後』のことを聞くべきだったのに、なんとか【なってしまった】気持ちを押し込めるように。
ふわっと車内に街灯の光が差し込んで、ぼんやりと薄明るく車内が照らされる。
(……車内のライトでもつけた方がいいか?)
ライトのスイッチに伸した手を、再び頭の後ろに持って行きながら向けた視線の先では、もう集中モードに入ったエイシンフラッシュがメモ帳にペンを走らせていた。
エイシンフラッシュとこうして、ケーキ屋巡りと出かける度に、彼女は赴いた店の外観やシステム、出されたケーキなどを彼女は事細かに記録していた。
趣味、と言っていたが趣味まで真面目な彼女らしい行為に、トレーナーの目は自然と細まる。
(本当に、フラッシュは真面目、だよな)
背もたれに寄りかかりながら、トレーナーは真剣にペンを走らせる彼女の姿を横から眺めた。
エイシンフラッシュは、フロントガラスから差し込む街灯の光をもってメモ帳を眺めながら、シートの背もたれに身を預けず真っ直ぐに背筋を伸してメモに向き合っていた。
車内でシートベルトをかけたまま彼女の背は、淡いベージュのコートを着て小さくトレーナーの目には映る。
先月、惜しくもゴールドシップに天皇賞の三冠を奪われたが、エイシンフラッシュは今や誰もが認める立派なGⅠウマ娘だ。
人間ではとても追いつけない速度で競技場を駆ける【閃光の切れ者】と呼ぶ声があるウマ娘が、手に届くところにあって、心にちくちくとしたものが生まれていく。
(ウマ娘……そう、女の子、なんだよな)
時折、思案のためか、中空を見たり、ペンの後ろで唇をつつくエイシンフラッシュ。
長い睫毛は黒猫の脚のようにくるんと愛らしく碧い瞳を飾って、両の手で包み込んでしまえるほどに小さい面立ちにそれらが均整の取れたバランスで収っている。
(本当に、綺麗な子だ)
最高速で七七キロに到達する速度で走るとは思えない程ほっそりとした首は、新雪のように白い。
ドイツの民族衣装であるディアンドルを模したレースの勝負服では晒している、くっきりと浮かんだ鎖骨は、大人の女性のそれだった。
ワンピースの胸元を大きく盛り上げる女性らしい膨らみと、均整の取れた腰回りはしなやかな力強さ以上に、健康的な魅力を芳しく称えていた。
大地を踏みしめ、勝利をつかみ取る脚は、ワンピースの上からでも腰からそのをく尽くしてと幻視できる。
持久力にもつながる女性的な柔らかさを残した臀部と太股。
走り込んだために、少し下部にズレた膝小僧。
すらりと流線型にかたどられた脹脛。
くびれた足首。
果ては蹄鉄シューズに包まれた少し長めの指を備えた足先にいたるまで。
(全部、わかる。全部……俺が、俺達が作り上げてきたんだし)
初めて出逢った頃の彼女から、今のエイシンフラッシュを二人で作り上げ、ここまでやってきた。
(一目惚れ、だった。そして、今もまだ惚れてるな、俺。本当に、綺麗だ)
見つめながらトレーナーの心に熱く滲む気持ちは、実際の処、最初から持っていたのかも知れない。
けれど名前をつけないまま、【走りに惚れた】というトレーナーとしての矜持をもってトレーナーはエイシンフラッシュに接してきた。
(……でも、いつから、走りだけを求める、それだけじゃ、なくなったんだろうな、俺は)
心の中で自嘲しながら、トレーナーはそっと目を閉じた。
エイシンフラッシュとの数々の思い出が、音共にまぶたを焼き付けていく。
きっかけは、そのどれもであるようだし、そのどれもでもないかも知れない。
気持ちのはじまりに結論がでないまま、お尻に刺した黒財布の存在感は、徐々に強くなっているように思えた。
(……今、俺はフラッシュのもっと先を、一番の場所で、見ていたい……それこそ、いつまでも)
そっと視線を助手席から運転席側のサイドウィンドウへ移す。
じっと見続けると、伸しそうになる手を抑えながら、トレーナーは窓の反射越しにエイシンフラッシュを見た。
メモ帳を前にペンを止めた彼女は、じっと頁を見つめ、ちらりと左手首を返して時計を確認していた。
(……ん?)
ふと、その瞳がトレーナーへと向いて、そっとエイシンフラッシュが手が伸びる。
エイシンフラッシュのほっそりとした指が、トレーナーのサイドウィンドウへ向くトレーナーの背に伸びて、触れない。
そっと戻されるのを、トレーナーは窓の反射越しに見ていた。
(どうしたんだ? 今)
当惑するトレーナーの視界、サイドウィンドウの反射にエイシンフラッシュがメモ帳をしまい、相変わらずシートベルトを胸元に食い込ませたままこちらに居住まいを正すのが見えた。
「……あの、トレーナーさん」
涼やかなエイシンフラッシュの声にどくん、とトレーナーの心が跳ねる。
跳ねた心の動揺を覆い隠すように、トレーナーはあえてとぼけたようにエイシンフラッシュに向いてみせた。
「ん? どうした、終わったか?」
「……記録は、おわりました。けれど……もう少しだけ、停めていてもらえますか」
「それはいいけれど、どうした?」
エイシンフラッシュの方向に身体をむけて向き合って、トレーナーは尋ねる。
「……聞いて頂きたい事があるのです」
青白い街灯が差し込む車内にあって、エイシンフラッシュの面立ちは、うっすらと赤くなっているように見えた。
「……次の大阪杯で、トレーナーさんと出会って、まる4年になります」
エイシンフラッシュが語り出したのは、過去の振り返りだった。
「……ああ、そうだな」
「あの頃に立てていたスケジュールでは、私は今頃、ドイツに戻っていて、きっと両親のケーキ屋を手伝っていたでしょう」
「……それが、去年の暮れに崩れたんだったよな」
「ええ。私は、去年のあの時、もっと走りたい、と思いました。まだ貴方の元で走り続けています」
十年分のスケジュールを捨てて、エイシンフラッシュは自分との未定のスケジュールを作ってくれた。
「そしてあれから一年経って……私は、また、もっと走りたい……いいえ
それは、独白のようで、告白のようで。
エイシンフラッシュは自分の胸に手を当て、真っ直ぐにこちらを見つめながら、ふわりと苦笑した。
「……正直、自分がこんなに欲深いとは思いませんでした。綿密に、きっちりと組み上げたスケジュールをこなしていく。今も、その気高さを忘れたことはありません。それでも、あのスケジュールを破り捨てた後に、今日まで貴方と立ててきたスケジュールにさえ、収りきらない思いが、今、どんどん溢れていてしまっています」
「フラッシュ……」
「こんな気持ち、初めて、ですから……どんどん……その……強まっていて。……こんな私はとても、両親に顔向けできない。そんな私を、私は知りませんでした」
エイシンフラッシュは常に明瞭な意志と行動を言葉にするのに、常になく歯切れ悪い。
頬も紅潮して、車内の空気はうっすらと寒いくらいの温度のはずなのに、彼女のこめかみには一筋、汗も輝いていた。
彼女の気持ちの高鳴りが。
高鳴らせ、なおも強まる気持ちのいく先が、トレーナーの鼓動も強く跳ねさせていく。
「すごく熱くて、温かで……でも、浅ましささえ覚えるこの気持ちを、私は抑えられる自信がありません。だから、その……トレーナーさん」
「……うん」
「今夜、この後、その……二、三時間ほど……私のスケジュールに付き合ってくださいますか」
二、三時間ほど。
いつも時間には正確なエイシンフラッシュらしからぬ、曖昧な言い方。
彼女にもスケジュールしきれなかった、今夜の予定。
エイシンフラッシュの瞳は潤み、雪のように白い肌は上気して薄桃色に染まっている。
誘われたトレーナーの心臓を、どくん、どくん、どくん、どくん、と跳ね上げる、
同時に、本来は自分から言うべきだったという後悔が、トレーナーの口を開かせた。
「……なぁ、フラッシュ。俺が、フラッシュからのお誘いを断ったこと、あるか?」
「いいえ。私が記憶する限りは、一度も」
「だから、付き合うし……なんなら……」
「……なん、ですか?」
「そのスケジュールは……きっと、今夜の俺のスケジュールでも、あるんだ」
「……っ! それはあの……私……その」
「……だから、そういう、ことなんだよ」
何を、とは気恥ずかしくて言えないトレーナーの臆病さが、エイシンフラッシュの目を見開かせる。
不確定な予定を、自分の予定でもあると告げたトレーナーの意図は、明瞭な言葉にしなくても二人の間では通じ合っていた。
「だから……フラッシュ」
「……はい」
「……車を、出すよ」
「……はい」
真っ赤になった顔を覆いながら、ぴくんと黒耳をふせるエイシンフラッシュ。
彼女の手首の時計が、二十一時を指した瞬間。
言葉少なに応答する二人を乗せて、ようやく走り出した。
――二一時二〇分
トレーナーが運転して二十分ほど。
車がたどり着いたのは、城を模したとある
「……着いた」
「……はい」
「……大丈夫か、フラッシュ」
「……はい。少し、落ち着きました」
そっと車内灯を照らしたトレーナーに、微笑むエイシンフラッシュ。
しかしその面立ちから朱は抜けていないのをトレーナーは見て取った。
ぎゅっと握り込んだ手も、解けていない。
実際の時間が迫っての緊張を、解きほぐす必要を思って、トレーナーはかれこれ三時間前、いうか言うまいか一人トレセン学園の競技場で悶々とした言葉について触れることにした。
「フラッシュ。せっかく、外泊届出してきてくれたんだ。急がなくても、そんなに緊張しなくて、いいよ」
「い、いえ大丈夫です……それに、外泊届きちんと出しておいた方が良いとファルコンさんに……」
そこまで言って、エイシンフラッシュが固まった。
「って……っ! ……あっ!! えっ、えっと、その!!」
口に手を当て、自分が口走った言葉の瞬間を思い返しているのだろう。
手元に両の手を合わせて、エイシンフラッシュはぐりぐりと身体を捩ってしまっていた。
ぐるぐると後悔の思考を回転させているのだろうエイシンフラッシュの様は、眺めているトレーナーには明確で、その愛らしさに自身の緊張もまた解れた気がしていた。
「……申し訳ありませんトレーナーさん……私……なんてはしたないことを」
「いいんだ。フラッシュ。俺……あの言葉を聞いた瞬間に、君が俺を選んでくれた事を、めちゃくちゃ、嬉しく思ったから」
口元に手をやって、ぺこりと頭と耳を下げるフラッシュにトレーナーは首を横に振る。
エイシンフラッシュの真面目で不器用な様のおかげで、少しだけ解れた緊張が、素直な言葉を口にさせていた。
「俺はさ、フラッシュのトレーナーだ。君をより強く走らせるための存在であって、君を損なう存在であってはならない。だから、俺も嬉しい、と思ったその気持ちは、抑えないといけないと思ってた。でも、今はっきりと分かった。……俺も、抑えられる自信ないよ。フラッシュと、きっと同じように、溢れてくる、ふわふわと、幸せなこの気持ちを」
それはお互いに、似たもの同士で、互いの誇りを損ないたくないという気持ちの告白。
そしてそれこそは……二人が、何よりも互いを大切に思っている証左だった。
トレーナーの告白に、エイシンフラッシュは、口元の手を胸元でぎゅっと祈りのような形で結んだ。
「……トレーナーさん。ならその気持ちは……きっと抑えなくて、良いと思います。貴方の気持ちと、私の気持ちはほぼ間違いなく、同じです。……ええ、私は今、それを確信しています」
じわっと、潤んでいた瞳から零れる涙が一筋、エイシンフラッシュの頬を伝う。
それにそっと手をのばしたトレーナーの指で、涙がぬぐわれ、エイシンフラッシュはその手に頬を寄せた。
エイシンフラッシュの体温が、トレーナーの掌に伝わる。
柔らかな頬の感触が、小さな顔の健気さが、トレーナーの心にじんわりと愛おしく染みこんでいた。
「だから私達はきっと……お互いの大切を、重ね合わせられるはずです」
「……ありがとう、フラッシュ」
頬に触れる手に、エイシンフラッシュの手が重なる。
掌にエイシンフラッシュの頬を感じる。
甲に重なる細い手指に、トレーナーは心から溢れる感謝を、交わし合う微笑みの中に感じていた。
――二一時二十五分
部屋に備え付けの、振り子時計が指し示していた。
受付を済ませたトレーナーとエイシンフラッシュは、ソファとローテーブル、そしてクイーンサイズのベッドが鎮座する広めの部屋に入ることとなった。
靴を脱いで上がる部屋で、先に上がったトレーナーは真っ先にコートかけへと向かい、後から上がったエイシンフラッシュを出迎えると、軽くコートをかけるとばかりの手の合図を見せる。
エイシンフラッシュがトレーナーの合図に、そっとコートに手をかけた瞬間だった。
「……あ、少しだけ……っ」
彼女はコートのポケットから、慌てたようにメモ帳を取り出し、一頁をすっと引き抜くように破り取った。
破いた一頁だけをもって、エイシンフラッシュはメモ帳を再びコートのポケットにいれると、トレーナーへ手渡してくる。
「ん? なんだ、それ」
コートを掛け終えたトレーナーは、そっと手を差し向けてエイシンフラッシュをソファへ促しながら、破り取った一頁について尋ねた。
「この後のスケジュールを、私なりに組んでみたんですが……このスケジュールは、きっと不要なので、捨てようかと」
上質そうなソファの座る面へと回りこみながら苦笑するエイシンフラッシュは、メモの頁を丁寧に二つ折り、四つ折り、ハつ折にして、ソファ手前の部屋のくずかごに捨てた。
そのままエイシンフラッシュが、促されたソファへと腰をかけるのにあわせるように、トレーナーはエイシンフラッシュとすれ違うように移動して、捨てられたメモの頁を、何でもない自然な仕草で、くずかごから拾い上げた。
「って、え、っ、まっ、トレーナーさん?」
「……ふうん……この後の、スケジュールね」
さっと広げたメモ帳の頁に、間違いなくエイシンフラッシュの文字で(しかもいつもよりも細かい文字サイズでびっしりと)描かれたそれらをトレーナーは素早く黙読していく。
「……っ!!!! それはっ! そのっ……! ち、ちがくて!」
慌ててそのメモ頁を取り返そうとするエイシンフラッシュが立ち上がるのに合わせて、トレーナーは交差法の要領でエイシンフラッシュをソファに押しつける。
柔らかでふかふか、上等なソファに沈み、ウマ乗りになったトレーナーの手は、そっとエイシンフラッシュの顎先へとなぞるように移動し、くっと優しくエイシンフラッシュの唇を上向けた。
「大丈夫。どんなスケジュールも、きちんと、守るべき時は守るさ。俺は、フラッシュのトレーナーだからな」
「……
――二一時三十分。
質実剛健な作りの振り子時計が正確に、時刻を指し示した瞬間までを、エイシンフラッシュはトレーナーの肩越しに見た。
――
――初うまぴょいまで、あと零分。
うまぴょいとはなんでしょうね。お互いを大切に思い合うことを、私は悪だとは思いませんが。