初うまぴょいまであと1時間-シーズン1-   作:初瀬川みそら

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ずっと、この景色は譲れない-サイレンススズカの場合-

 一〇月

 残暑を長い秋雨が拭い去り、金木犀の香りが風に混じっていた。

 淡く、天高き青空が、夕日を引き連れて黄昏を映えさせる秋。

 トレセン学園のターフは、近々のG1を意識して丁寧に整備 (エアレーション)され、トレーニングに勤しむウマ娘達の力強い踏破に揺れていた。

 

「そこだ! 仕掛けろスペ! スカーレット! まだだ、まだ食いついていけ!」

 

 トレーナーの叫びが、赤いジャージ姿をした二人のウマ娘をけしかける。

 短く切りそろえたボブに、白い前髪の元、強い意志をもった瞳を燃やすウマ娘、スペシャルウィークが後方から差し昇る。

 その前方、じりじりと差し込まれるのはツインテールを振るいながら額のティアラを煌めかせるウマ娘、ダイワスカーレット。

 二人は決死の形相でこの日、最後のトレーニングとして行われた併走トレーニングに挑んでいた。

 それぞれ秋の天皇賞、秋華賞を控えた、トップクラスのウマ娘だ。

 次のレースの予想票で一番人気を独占するのは間違いないだろう二人はしかし、いずれも先頭ではない (・・・・)

 併走トレーニングには、三人目がいた。

 夕陽の衣をたなびかせるように輝く、栗色の髪と尻尾。

 気合いをいれるため、と着ているのは白と緑を基調にした、セーラー服調の勝負服。

 秋風を切り裂くように、整えられた両手の五指。

 ターフを嬉々として踏み抜く脚それぞれは、インナーに着込んだ黒タイツに覆われ、トレセン学園のターフ競技場を疾走していく。

 

「最後の直線だ! 差せスペ! 諦めるなスカーレット!」

 

 トレーナーの檄にも力がこもる。

 同時に【彼女】の圧倒的な成長に、トレーナーの眦は少しだけ緩んでもいた。

 トレセン学園でも今や屈指のウマ娘二人が、本番さながらに立ち向かってなお、その差がじりじりと離されていく。

 それもレースが始まってから【ずっと、ずっと、徐々に、なおも】。

 トレーナーが見出した、【彼女】の驚異的な特性……大逃げのまま詰まらない差をつけてただ一人、【彼女】はゴールする。

 全力で走るバ群の先頭という、勝者にしか許されない景色を、絶対的な静寂の中で得るウマ娘。

 【彼女】……サイレンススズカはそうして、二人のトップクラス ウマ娘に四バ身の大差をつけて勝利した。

 

「あーーーーやっぱり、スズカさんは速いですね……」

「こんな、全然、まだまだ追いつけないなんて……」

 

 走り終えて、肩で息をするスペシャルウィークとダイワスカーレットが、汗をタオルで拭いながら、それでも晴れやかにサイレンススズカを称えた。

 併走トレーニングを終えて、軽く髪を払いながら答えるサイレンススズカは、彼女等を蹴散らしたとは思えない程に穏やかに、微笑みを浮かべている。

 

「スペちゃんも、スカーレットも、前よりさらに速くなっていたわ。でも、まだまだ、負けないから」

「……さすがターフトリニティ……」

 

 サイレンススズカの強い笑顔を前に、スペシャルウィークは闘志を燃やすようにニコニコと、ダイワスカーレットの頬は、どこか呆れたようにひくついた。

 ダイワスカーレットが口にしたターフトリニティ。

 それはベルモントダービーインビテーショナルステークス、サラトガダービー、ジョッキークラブダービーというアメリカでの三大ターフレースの勝者をさす。

 【トレセン学園からアメリカへ】

 彼女は二年前、丁度秋の天皇賞での怪我を乗り越え、夢をつかみ取り、半年前渡米し……見事、その栄冠をつかみ取った。

 学園在籍の当時の頃から知るスペシャルウィーク、ダイワスカーレットにとっては目指すべき学園の先輩。

 

「良い走りだったぞ、スペ、スカーレット。そして……おかえり、スズカ」

 

 そして、スペシャルウィークとダイワスカーレットが所属するチーム「アルデバラン」の、トレーナーにとって、初めての専属トレーナーとなったウマ娘でもあった。

 

「……ただいま。トレーナーさん」

 

 歩み寄り、サイレンススズカを労うトレーナーに、サイレンススズカの声は、少し甘く、高い。

 

「休暇での帰国だったのに、いきなりで悪かったな」

「いいえ、久しぶりの学園の景色も、とても綺麗でした。……それに」

「それに?」

「二人が随分と速くなっていて……きっとトレーナーさんにたくさん指導されたんだなって思ったら、負けられませんでした」

「ははっ、世界で活躍するウマ娘にそこまで言わしめる、俺の腕も随分と上がったもんだ」

 

 尻尾の根をくんと高く持ち上げて、頬は少し赤いサイレンススズカ。

 彼女に向かって、勝手知ったるとばかり調子に乗るトレーナーを前に、傍らにいた二人のウマ娘は、ただ苦笑するほかない。

 ふわりと吹き抜けるひんやりとした夕風でも冷えぬだろうと、周りから見えたトレーナーとサイレンススズカ。

 しかし。

 

(……スズカのために、俺は)

(……トレーナーさんと、私)

 

 彼らの間に吹いた風が、二人の胸の内に秘めた、決意の炎をも揺らめかせていることを、この時はまだ誰も、知るよしもなかった。

 

 

 ーーI’m putting my foot down on this one, forever. (ずっと、この景色は譲れない)

 

 

 

 ――二三時五分

 ――初うまぴょいまであと六〇分

 

 トレセン学園も、その寄宿舎である寮もすっかり寝静まる頃合い。

 トレセン学園の一部屋、チーム「アルデバラン」のトレーナー室には、まだ明かりがあった。

 

「……ターフトリニティ、か」

 

 トレーナーが眺めるノートパソコンのディスプレイの中では、サイレンススズカがアメリカはサラトガ競技場のターフを疾走していた。

 トレーナーはシャツに黒いベストという何時もの姿のまま、ぐびりと【牛の意匠】がプルタブとなっている缶の栄養ドリンクを傾けて眺めた。

 

「やっぱり、すごいな、スズカは」

 

 トレーナーのつぶやきが、静かに室内のホワイトボードに貼られた、チームアルデバランでとった写真に染みこんでいく。

 高松宮記念のトロフィーを持つサイレンススズカ。

 その後ろ、目許を赤くしながらも満面の笑みで立つトレーナーを中心に、スペシャルウィーク、ダイワスカーレット、ウィニングチケット、ナリタブライアン、メジロマックイーン、ゴールドシップが楽しげに写っている。

 日本を発つ直前、記念にと撮った写真から半年。

 サイレンススズカは単身で、アメリカの三大ターフを席巻した。

 ディスプレイの中では、走りきったサイレンススズカが、ターフに向けられた歓声に応えるように、手を振っている。

 

(……ここに、なんで俺、いなかったんだろうな)

 

 じんわりと口の中に広がるガラナ特有の甘みと刺激味を感じながら、沸いた気持ちを振り払うように首を横に振って、トレーナーはパソコンを閉じた。

 机の引き棚にパソコンをしまい込もうとして、机の中にあった、理事長印のある封筒に目が留まる。

 そうしてから、ふと、トレーナーは顔をあげ、事務室内を眺めた。

 

(チーム、アルデバラン、か)

 

 自分が築き上げた、いまや学園でも屈指のウマ娘が揃うチーム。

 

(昼間はうるさいぐらいに騒がしいが、どのウマ娘も勝利への強い思いと、真っ直ぐな諦めの悪さがそろったいいチームだ)

 

 耳の奥に残り、まぶたを閉じればすぐ浮かぶような昼間の喧噪に、口元が苦笑に歪む。

 サイレンススズカの専属トレーナーとして活躍する内に、彼女によって引き寄せられるように形成されたチームが、今やここまでとは、かつての自分は決して思いつきもしないだろう。

 

(……本当に、いいチームだ。だから、こそ俺は、あいつらに応える為に……行かなきゃいけない場所がある)

 

 トレーナーは苦笑を解くと、机の中にあった封筒を、黒いベストの胸ポケットにしまい込んだ。

 代わりにパソコンを今度こそしまって、鍵をかける。

 そうして広くなった机の上に肘をついて、もう一度、机から室内を眺め数瞬後。

 

 ――コツコツ

 

 トレーナー室の扉が叩かれる音がした。

 

「あの、すいません……まだ、いらっしゃいますよね」

 

 生真面目なノックの音の後に続いた声に、トレーナーの心臓が、どくん、と跳ねる。

 胸元にしまった封筒が、急に存在感を増した。

 ふわりと込み上がる唾をゴクリと飲み込んで、しかし、トレーナーは平然を心がけて声に応える。

 

「どうぞ、内鍵はあいてる」

「……失礼します」

 

 がらりとトレーナー室の扉が開いて廊下の薄闇からすっと、栗色の髪が揺れて入ってきた。

 白いブラウスに、エメラルドグリーンのプリーツスカート……サイレンススズカだ。

 寝間着、というよりは普段着の装いをしているサイレンススズカに、トレーナーは小首をかしげて見せた。

 

「どうした、こんな夜遅くに」

「……時差の影響でしょうか、少し、目が冴えていて。スペちゃんを起こすのもちょっとはばかられていたので、それで」

「あーなるほど、確かに向こうじゃまだ昼間だものな」

「……それに、トレーナーさんなら、まだきっとここでお仕事しているかな、って」

 

 少し困ったように言うサイレンススズカは、トレーナー室のパイプ椅子を引いて、スカートのシワを作らないように、丁寧に手を添えながら黒ストッキングの脚をそろえ座った。

 トレーナーの机から一番近い左側の席。

 サイレンススズカがアメリカに発ってから、なんとなく誰も座らなかった席に座った彼女へ、トレーナーは苦笑して、机から立ち上がった。

 

「さすがスズカ。俺の事をよくわかってる。まぁ、なんだ、コーヒー……って、そもそも苦手だったな……まぁ、いいか、にんじんジュースでいいか?」

「はい」

 

 トレーナー室に備えられた冷蔵庫――ゴールドシップがどこからか持ってきた、やったら最新型のもの――から、スペシャルウィークが夏の帰省土産で持ってきた、北海道産のにんじんジュースを注ぎ、トレーナーは彼女に差し出す。

 

「ありがとうございます」

 

 自分の分も注いで、トレーナーは自身の机にかける。

 

「「……」」

 

 くっとにんじんジュースを傾け、飲む二人の間にあるのは、穏やかな静寂。

 もう入り口に警備員ぐらいしかいない夜のトレセン学園に、サイレンススズカとトレーナーは二人きりだった。

 

「……随分、向こうでも走れたみたいだな」

 

 静寂をゆっくりと裂いたのはトレーナーだった。

 口の中に広がるにんじんの優しい甘みを舌で舐めとりながら、両手でカップを握って彼女に問いでもなく語りかける。

 

「ええ、風の匂いも、空の熱さも全然違いますけれど、いっぱい、走ってきました。ええ、メイデンレースで勝ってからは、めまぐるしくレースして……何回かは、ダートでも走ってきたんですよ」

「へぇ! 向こうのダートでもか」

「こっちのダートと違って、硬くて……その……前に、温泉に行った時の道みたいでした」

「ああ、あの時の。そうか、向こうのダートは土場系統なのか……」

「ええ、昔、タイキがダートが得意と言っていてそれでも芝であんなに速かったのが、少し不思議でしたけれど、行ってみて、なんだか納得してしまいました」

 

 ふわっと、スミレが綻ぶように微笑むサイレンススズカの尻尾が、ふりふりと揺れる。

 

「言葉とかも……いや、スズカなら大丈夫か」

「一応、日常会話ぐらいなら……グラスワンダーや、エルコンドルパサー、タイキもいろいろ教えてくれましたから」

「向こうで友達はできたか?」

「ええ、ルームメイトですけれど、なんというか……すごく積極的で、フレンドリーな子が」

「そりゃいい。順調そうで、なによりだ」

(たった半年なのに、なんだか随分と、こういう語らいがなかったように思っちまうな)

 

 楽しげな彼女の言葉に相槌を打ちながら、トレーナーはチームが出来る前の、サイレンススズカと二人で語らい、鍛えてきた日々を感傷的に思い出してしまっていた。

 選抜レースでサイレンススズカを見出し、他のトレーナーから半ば奪うように専属トレーナーとなって、三年。

 一番長く過ごしてきた彼女の成長と活躍に対する歓喜は確かにある。

 だが、トレーナーとして……いや、それ以外の立場としても、こみ上げる寂寥は、チクリと心を差していた。

 

(……寂しかった、なんて言えない。だから、俺は)

 

ちらりと、視線を先ほど見た写真に流す。

チームアルデバラン。確固たる実績を得られたチームメイト達に、内心で感謝の言葉を告げつつ、トレーナーは意図的に、そごうを崩してみせた。

 

「しかし……ダートで走ったり、脚の方は、大丈夫か」

「……はい。むしろ向こうで走った分、なんだか脚が強くなったみたいです」

 

 トレーナーの言葉に、そっと、サイレンススズカが揃えていた脚をぐっと伸す。

 黒ストッキングで包まれたサイレンススズカの脚は、見た目にも随分と強靱に鍛え上げられているのがわかる……がトレーナーはそっと机を立って、サイレンススズカの前にしゃがみ込んだ。

 

「……そうか。なぁ、スズカ。久しぶりにちょっと診せてもらえるか」

 

 ――二十三時三〇分

 ――初うまぴょいまであと三五分

 

 【久しぶりに、診せて欲しい】

 

「あっ……え、ええ」

 

 何を、と言う言葉が抜けたトレーナーの意図を即座に察して――同時に、少しだけ頬を赤らめながら――サイレンススズカは、スカートの裾を押さえながら、白いパンプスから足先を抜いて、しゃがみこむトレーナーへとつま先を差し出した。

 すっと伸びた、黒ストッキングに包まれたサイレンススズカの足を、トレーナーはまるでガラスの靴を履かせるかのようにゆっくりと受けとめる。

 ――それはトレーナーが専属になってから幾度も行ってきた、触診。

 大逃げに大逃げを重ねるという、特異なサイレンススズカの走りを続けるために、状態を細やかに確認してきた、二人だけの行為だった。

 

「うん、ありがとう。そしたら……すこし、診させてくれ」

 

 大きく節くれ立ったトレーナーの手の中で、小さく収まるサイレンススズカの足。

 少しだけ、右足の方が大きい足を手に取って、トレーナーは土踏まずからゆっくりと足首に向かって指を這わせた。

 足指は長く、底側骨間筋から短趾屈筋に駆けて、引き締まった足の裏から甲は、より地面を強く蹴りつけるのに特化していた。

 

「っ……ふっ」

「固い地面にも負けない足になっているな……」

 

 サイレンススズカの口から、呼気が少し荒く漏れ始める。

 するりとトレーナーが指の腹でなぞるのは、黒ストッキングでもシワを作るほどにくびれたアキレス腱。

 半円にくびれた腱からふっくらと広がっていくヒラメ筋は大きく肥大し、その内側に盛り上がる腓腹筋はしなやかなふくらはぎを形成していた。

 手を添えればストッキング越しでも脈々と彼女の血潮が感じられるほど熱く滾る筋肉に、思わずため息が漏れる。

 

「うん、いい脚になってる……アメリカの大地を、駆けるのにいい脚だ」

「は……はいっ……っ」

 

 トレーナーのため息にサイレンススズカの吐息も、漏れる声も熱くなる。

 するりと膝小僧を撫で、膕を支え、膝周りの内転筋の張りや大腿筋も指腹で確認したトレーナーの脳裏には、かつての怪我の日々も思い出されていた。

(あの時は、もっと硬く壊れそうで……それが、随分と柔らかく……温かいようになったな)

 

「んっ……ふっ……っ」

 

 サイレンススズカの声は、蕩けるように震えていた。

 トレーナーは浸る思い出から随分と変わった現在を手の中に感じながら、ようやく、サイレンススズカの面立ちを見上げる。

 

「……ん? スズカ? 大丈夫か」

「ひぇっ?! は、はい……その、大丈夫、です……」

 

 突然話しかけられて驚いた様子のサイレンススズカは、赤らめた頬を隠すようにそっとそっぽを向いた。

 大丈夫、と言われたままに、トレーナーは右脚を降ろして、左足を掴む。

(……ああ、本当に)

 トレーナーには、握っただけでわかった。

 サイレンススズカの柔軟な脚筋繊維を一つ一つ解きほぐして見つめるような手つきで擦り挙げれば、それは確信に変わっていった。

 足裏からなにから、彼女の脚は全てが、かつての怪我から塗り変わっていた。

 もう彼女に、かつての陰はない。

 

「ふっ、あっ……あっ」

 

 撫でつける左足先から脹ら脛、膝周りの内転筋その全てが新しく力強く、これからも走って行ける未来が脚に宿っていた。

 

(これなら……この先もスズカは走れる)

 

「んふっ……はっ……ふっ、と、トレーナーさん」

 

 と、トレーナーが可能性に感涙すら内心覚えていたところ、トレーナーの頭上から、声が掛かる。

 パッと見上げた瞬間、トレーナーの声は思わず震えていた。

 

「……す、スズカ?」

 

 じんわりと頬を真っ赤に染めて、涙を貯めた状態でこちらを見やるスズカは、スカートの裾を股元で押さえたまま、パイプ椅子に身を捩るように体制を崩していた。

 じっとりと栗毛の切りそろえられた前髪が張り付く額には汗が浮かび、白いブラウスがうっすらと上気している。

 切なく細められた瞳は、熱を帯びてトレーナーを見ていた。

 握る足先までふるふると震え、スカートを巻き込むほどに内ももを揺するサイレンススズカ。

 そして。

 

(――この、匂い)

 

 ふわりと、トレーナーの鼻先を掠める匂い。

 甘く、つんっとトレーナーの頭の奥をぴりぴりと刺激した瞬間、トレーナーもまた彼女の【状態異常】を察して飛び退くように離れていた。

 

 

 

 ――二三時五二分

 ――初うまぴょいまであと一三分

 

「ご、ごめんスズカ、俺……い、いやつい、ついトレーナーとしての癖で!」

 

 飛び退いたトレーナーが、サイレンススズカに背を向けて、大きな声で弁明した。

 ぱっと離れた足先から、トレーナーの熱がふわりと消える。

 すっと床についた足裏が、ひんやりと冷たくサイレンススズカには感じられた。

 

(トレーナーさんの、手……あったか、かった)

 

 そっと額の汗を拭い、涙を拭った手を胸元に。

 ブラウス越しにも鼓動は熱く、大きく、バクバクと打ち震えていた。

 

(身体が、熱い。トレーナーさんに触られるの、久しぶりで、抑え、きかない)

 

 大きなレースを走りきった後のような、激しい鼓動を覚えながら、サイレンススズカは未だ微かに震える足先からそっと視線を上げてトレーナーの背中を見た。

 

(でも、きっと……トレーナーさんはわかったはず。もう、私……大丈夫だって)

「い、いやしかし、本当に、活躍してるのがよく分かる脚だった、さすがだなスズカ!」

 

 背を向けて、首元を擦りながら――それは、スズカが知る、弱った彼の昔からの癖――スズカをたたえるトレーナーに、サイレンススズカはそっと靴を脱いだ脚のまま、音も少なく立ち上がって、歩み寄る。

 自分よりも大きな背。

 自分を何時も待っていた、大きな背中を見上げて、そっと、サイレンススズカは息を吸う。

 

(……眠れないのは、半分嘘。本当は、ね、トレーナーさん)

 

 スカートの左ポケットに忍ばせた、一通のチケットを手に取って、彼の背に額を寄せた。

 

「っ! ……す、スズカ?」

 

 こつん、と小さく額を寄せたトレーナーの背中が、戸惑うように伸びた。

 すうっと呼吸すると、ウマ娘の部屋では感じない、少しだけぴりっと、耳の奥が熱くなる、匂いがする。

 あわせた額に合わせて、ぴんと立った栗色のウマ耳もあわせると、彼もまたドキドキと心臓が跳ねているのが聞こえてきていた。

 

(トレーナーさんに、渡したい)

 

 手に握りしめたチケットの存在感が、強くなる。

 それはターフトリニティを制したことで出場権を得た、BCターフ、そのゲスト招待券。

 

(……いつもみたいに、逃げては、ダメ。冷静に伝えるべきことを、伝えないと)

 

 額から、鼻梁を。

 鼻梁から、頬を。

 トレーナーの背中にサイレンススズカは寄せて、ぎゅっと彼の身体に腕を回す。

 

「す、すず、か」

 

 張り詰めたようにトレーナーの身体が固まる。

 栗毛の耳をもぴったりと合わせ、はやる息を軽く深呼吸して押さえ込もうとしても、抑えられない。

 

(私も、トレーナーさんも、胸のドキドキが、収まらない。ずっと、もっと……鳴り続けてる)

 

 背中に寄せる胸元から、トレーナーにも伝わっているだろうか。

 どくん、どくんと内側から、耳先から伝わる鼓動は、静寂を切り裂くように響いている。

 

「あの、トレーナーさん」

 

 サイレンススズカは回した腕を、そっとお腹から、トレーナーの胸元にむかって伸していく。

 ぐっと伸びるトレーナーの背に、ぴったりと寄り添って、サイレンススズカは左手のチケットを差し出すように渡す。

 

(静かに、ならない。でも、嫌じゃない。だから。言わなきゃ)

「……その、これ……うけとってくれませんか」

「……これ、はゲスト招待券……って、これ!」

 

 サイレンススズカがすっと伸ばした指先から、チケットがそっと抜かれた。

 彼の表情は見えない。トレーナーの背中は熱い。

 どくん、どくん、どくん、どくんと、緊張は心臓をつく。

 ラストスパートより張り詰めた心臓のまま、サイレンススズカは呟く。

 

「私、出るんです。このレース」

「……BCレース。アメリカの最高レースの、ターフだな」

「……はい。来月、天皇賞も、秋華賞も、終わった、後なんです。この、このレース……ううん、違う、このレースのゴールで……あの、私」

(考えが、まとまらない。あんなにぐるぐる回って考えたのに、言葉が、うまくでてこない)

 

 スペシャルウィークに苦笑されるほどぐるぐる回って考えた言葉が、もっとスマートな誘い文句だったはずの言葉がなにもでてこない。

 混乱が理性を崩して、サイレンススズカの感情が、ぼろぼろと吐露されていく。

 

「トレーナーさんの、いるゴールに、また一番の景色で、走りたくて、その、私……寂し、かったから、見に来て、欲しくて」

「……スズカ」

 

 ぐっと、サイレンススズカの手が握られた。

 

「……えっ」

 

 サイレンススズカが寄せていた背中が、ふわりと離れて、くるりと身体の向きを変えたトレーナーが、サイレンススズカを抱きしめた。

 

「大丈夫だ、スズカ」

 

 大丈夫と、彼女の頭を撫でながら呟くトレーナーの言葉が、熱い胸板の中でサイレンススズカの耳に降り注いで、染みこんでいく。

 

「……トレーナーさん」

 

 胸元から見上げたトレーナーは、穏やかな顔で、告げる。

 

「あの、だな。そのチケットは、受け取れない」

「……っ!」

 

 ばしゃっと、冷や水が浴びせられたように、サイレンススズカの背中が冷たくなる。

 見開いた目が、びんと立った栗毛の耳が、凍り付いていくような感覚。

 

(……ああ、そう、よね。アルデバランのことだって、もう、トレーナーさんは、私だけのトレーナーさんじゃ)

 

 自分だけが思い上がっていた期待が崩れていく。身を凍てつかせるような落胆が、サイレンススズカの血管を駆け抜けようとした。

 

「……あっ! そ、そういう意味じゃない、スズカ、頼む、聞いてくれ!」

「……えっ」

 

 トレーナーが、必死になってサイレンススズカを抱きしめる。

 ぎゅっとトレーナーの腕の中により引き寄せられて、思考がぐるぐると混乱したスズカの眉根は、不安に揺れていた。

 そんなサイレンススズカの耳元に、トレーナーは吐息をつく。

 熱い吐息にサイレンススズカの身体が縮こまったのを見てから、トレーナーはそっと腕を回して、自らの胸ポケットにしまった封筒を、サイレンススズカに指し示した。

 

「これ……開けてくれるか、スズカ」

「……はい……」

 

 混乱したままのサイレンススズカは促されるまま封筒をあけ……再び、目を見開いた。

 中にあったのは、トレーナーの顔写真が入った、NURA――National Uma-musume-Racing-Accosiation (全米ウマ娘競走協会)の短期ビザ付きライセンス証だった。

 

「これ……NURAの……!」

「ああ……アルデバランの実績で、NURAの短期トレーナービザが手に入った。だから、今度は俺も一緒に行く。トレーナーとしてだ。BCターフ、そして……お前がみたアメリカの景色を、俺にも見せてくれ」

 

 穏やかな声を囁きながら、トレーナーはスズカの頭にそっと頬を寄せる。

 抱きしめられたサイレンススズカもまた、溢れる涙をそのまま、トレーナーの胸元に零して、彼の胸の中に身を預ける。

 

「俺も、一番の景色をゴールで、いの一番の場所で待っていたいんだ」

「……っ はいっ……はいっ!」

 

 ぼろぼろと零れる涙に揺れる声で、サイレンススズカはしっかりと頷いた。

 そして、ぎゅっと握るトレーナーの服から、そっとサイレンススズカは手を伸ばす。

 

「……スズカ?」

 

 ぐっと首に添えられたサイレンススズカの手で、トレーナーの身は胸元の彼女の方に寄せられた。

 今度は歓喜に潤んだ、青く澄んだ瞳が、交錯した瞬間。

 スズカの呼気が。

 柔らかく、情熱的な気持ちが。

 トレーナーと重なって、交わった。

 

「……スズカ、お前」

 

 そっと呼気が元に……否、少しだけ荒く二人の間で交わされる。

 

「ふふっ……嬉しい気持ちは、アメリカではこうして表すって、ルームメイトから聞いて」

「……ず、随分情熱的なコミュニケーションだ」

「すいません……初めて、したから……その、まだ、足りなくて」

「……スズカらしいよ」

 

 気恥ずかしそうに顔を背けそうになったサイレンススズカへと、雫を落とすようにトレーナーもまた、歓喜の気持ちを返す。

 熱く、柔らかい気持ちの応酬と、伝えるべき言葉の代わりに触れって鳴る濡れた音。

 二人の間にゆったりと銀色の橋が架かってなお、二人の熱は、止まらない。

 

「……あのトレーナーさん……その……私、もっ、もっと……その」

「……スズカ」

「……その、私じゃ、だめ、ですか?」

 

 真っ直ぐに、あまりにも綺麗で純真な瞳が、信頼と無垢な欲望を告げてくる。

 その全てが、愛おしい気持ちに合わさって、トレーナーはスズカの腰を、ぐっと引き寄せた。

 

「いいや、だめじゃない」

 

 二人の鼓動が合わさって、途切れもなく合間もない。

 それは鳴り続けすぎて、静寂と等しかった。

 

「むしろ、スズカじゃ無きゃ、ダメだ」

 

 

――I’m putting my foot down on this one, forever. (ずっと、この景色は譲れない)

――初うまぴょいまであと零分




アメリカ帰りですもの
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