初うまぴょいまであと1時間-シーズン1-   作:初瀬川みそら

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ダイヤはダイヤでなければ磨けないーキングヘイローの場合-

 ――私、キングヘイローは、本日のレースを持って……レース人生に、ピリオドを打つことにしたわ。

 

 とある年の、十二月二十四日。

 その日、【彼女】は中山での最後のレースを四着で終えた。

 テイエムオペラオーという新たな覇王が高らかに秋期GI三連覇という偉業を成し遂げたその裏で、中山の大きな歓声は【彼女】に向けられた。

 涙と笑顔と、温かな拍手が満ちた中山競技場を離れ、トレーナーと【彼女】は長きに渡るレース人生を労うと称して、帝国ホテルへと宿をとっていた。

 ディナーを経て、建築史上不滅の名声を残したフランク・ロイド・ライトの設計による帝国ホテルのバー、オールドインペリアルバーへ二人は赴いた。

 エントランスにはヘレン・ケラーやベーブ・ルース、マリリン・モンローなど帝国ホテルに宿泊したことのある著名人の写真があった。

 贅沢な皮のイス、一席ずつ照らすカウンターのスポットライト、レトロな黒電話などもクラシックな雰囲気は、肌から一流のバーであることを感じさせる。

 

「「乾杯」」

 

 グラスを合わせるのではなく、そっと掲げるだけの乾杯をして、トレーナーはグラスを傾ける彼女を眺めてシングルカスクのウィスキーを味わう。

 セミロングの栗毛は上品にパーマがかかり、気品あるウマ耳には深い青のイヤーカフが巻かれている。

 強気な眉が真っ直ぐに伸びる額も、高貴な朱のかかった瞳も、くんっ、とつり上がった瞳まで、彼女には一流の自負が纏われている。

 ウマ耳の根元、深緑のリボンと同色の碧に差し色の黄色が縦に入った黒のドレスは、デコルテを繊細な黒のレースで飾っていて、一流たる彼女にふさわしい流麗な令嬢の装いとなっていた。

 

「貴方と私がお酒だなんて……もう、六年になれば、そうなるのね」

「そんなに経ってたか」

 

 彼女の名はキングヘイロー。

 スペシャルウィークやセイウンスカイ、グラスワンダー、エルコンドルパサーと同じ黄金世代の一人であり、あらゆる距離、あらゆる場所において戦い続けた、不屈の王だ。

 トレセン学園の選抜時代から付き添って、トレーナーは六年もの時間を彼女と過ごし、専属トレーナーとして彼女につくしてきた。

 ”一流のウマ娘にふさわしい、一流のトレーナーだ”と、新米の自らに覚悟を強いてから、今日に至る。

 

(……月日はあっという間だったな。いろんなことがあったけれど)

 

 琥珀色のウィスキーが、薫り高く口に広がる。

 スポットライトの様にバーカウンターを照らすライトにそれぞれグラスを置いた二人は、じっと輝き照らされた器を眺めていた。

 

「……ふふっ、六年なんて、あっという間だったわね」

 

 自分と同じ事を思ったキングヘイローに、トレーナーは自分のグラスを握り、からりと氷の音を鳴らしてみせる。

 氷の音の中に、心の中に燻る気持ちを溶かし込もうとしていた。

 

(……よかったのか、これで、本当に)

 

 今年の上旬、高松宮記念でキングヘイローは勝利した。

 不屈の闘志を持って駆け抜けたトレセン学園の三年を超えて、四年目、五年目は度重なる辛酸をなめる年となった。

 それでも諦めずに戦い続け、GIレースを十戦負け続けてなお戦い……彼女はついに勝利をもぎ取った。

 奇しくも、トレセン学園で彼女が栄光を取り戻すきっかけとなった高松宮記念で、彼女は再び、不屈の魂を証明して見せたのだ。

 

「……本当に、あっという間。でも、決して短いとも思わなかったわ」

 

 キングヘイローが薫り高いマティーニを揺らす。

 走りを辞めるその当日というのに、初めて出逢った頃よりも随分と大人びた彼女の表情から、不満の色は伺えない。

 

「それなのに……貴方ってば私につきっきりで……私たちの勝利数なら、貴方の名前でチームだって組めたでしょう?」

「……俺は、キング専属の、一流トレーナーだからな。チームを管理できるほど、小器用でもないさ」

「……ほんと、頑固で不器用なんだから」

 

 六年もの中で、彼女の表情の機微、仕草のなかから何を考えているのかは、もはや自然に察せている。

 それはトレーナーも同じ事。キングヘイローはマティーニに濡れた唇をそっと舐めた。

 

「……言いたいことがあるのなら、おっしゃいなさいな」

「……なにも言ってないのに、よくわかるな」

「私を誰だと思っているの? 貴方のことならわかるに決まってるじゃない」

 

 得意げに鼻を上げるようにくんっ、と上向いた彼女に、トレーナーは一度飲み込んだ言葉を呟いていた。

 

「なら、聞くが……本当に、よかったのか。君ならきっとまだ走り続けることだって」

「やっぱりね。またその話? ふふっ、でもいいわよ。あなたはその権利があるもの」

 

 苦笑するキングヘイローはそっと、マティーニのグラスをスポットライトの中心に押して、グラスを離した。

 革張りの重厚な椅子に背を預け、飴色の肘掛けに肘をつく。

 バーカウンターで輝くマティーニグラスを、キングヘイローは眩しそうに眺めていた。

 

 ――私、今年で引退するわ。トレーナー

 

(……本当に、こんな日が来るなんて思わなかったよ)

 

 高松宮記念が終わった夜、そう言った彼女の言葉が、耳の奥にこだまする。

 キングヘイローが輝かしいスポットライトを浴びるカクテルの王(マティーニ)を、どこか遠くのもののように眺めていると、トレーナーには感じてならなかった。

 煌めくものを追い続けた日が、今日で終わりを告げようとしていた。

 

 ――二二時十分

 ――初うまぴょいまであと一時間

 

 

 語り出したキングヘイローの声は、穏やかなものだった。

 

「本当のところね……もう少し走っていてもいいかなって思ってはいるの」

 

 真っ直ぐに見つめる瞳にも、濁りはまったくない。

 トレーナーから見て、彼女に気負いも、落胆もなかった。

 

「でもこの前の高松宮記念で勝ったときにね、私、思ってしまったのよ」

 

 キングヘイローの視線が、ちらりとトレーナーを向いた。

 彼女の言葉を待ちわびるトレーナーの表情を見て、しかし、ふっとキングヘイローは背もたれから背を離して、苦笑しながら真っ直ぐにトレーナーの頬に手をかけてきた。

 

「……ちょっと、もう、そんな寂しそうな顔しないでトレーナー」

「さ、寂しそうになんて……してない」

 

 あやすような彼女の行動に、恥ずかしげにトレーナーは頭を振り、彼女の手から逃れる。

 手から逃れる直前、ひんやりとしたキングヘイローの指が細くなっていることを頬から感じつつも、トレーナーは次の言葉を待つように、キングヘイローに向き合った。

 キングヘイローは再び背もたれに背を預けて、続きの代わりにトレーナーへと問いかける。

 

「ふふ、どうだか。でも、まぁ……貴方なら、なんて思ったか、わかったんじゃないかしら」

 

 キングヘイローに問いかけられて、トレーナーは高松宮記念勝利直後のキングヘイローを思い出す。

 勝利をつかみ取った彼女の振る舞いを、その表情と、感じ取った【寂寥を】。

 

「……ようやく勝てた、って思ったんじゃないか」

「……正解。やっぱり、さすが一流のトレーナーね」

 

 音を出さずに拍手して見せたキングヘイローの表情は、笑みだったが、トレーナーの顔は曇っていた。

 彼女の気持ちも、彼女がそういう気持ちになった理由も、トレーナーには痛いほど分かっていた。

 一流は、満足したら、そこで一流ではなくなってしまうのだと。

 

「私は、一流でなければならないのに、ただ一勝に、万感の満足を覚えてしまった。一流とは、 飢え続ける生き物(ステイハングリー)であるのに、満たされてしまった。……もうそれでは、ウマ娘として一流ではありつづけられないわ」

 

 常に諦めずに戦い続けてきたキングヘイローの原動力は、不屈の心。

 その不屈とは、裏を返せば決して満足し得ない、驚異的な一流としての渇望だ。

 そんな彼女が満足した、という言葉にこもった言葉の重みを、キングヘイローの専属トレーナーが理解できないわけもなかった。

 

「だから、今日で、終わりなのか」

「まぁ、確かに高松宮記念で有終の美を飾るのもよかったわね」

 

 彼女の言葉はむしろあっけらかんと明るかった。

 高松宮記念以降、彼女の戦績は再び振るうことはなかった。

 最後まで、決して顔は下げず、諦めずに戦い抜きはした。しかし、それは彼女が通した一流としての意地であって、一流であり続けるための飢餓感によるものではなかった。

 

「でも、私たちはただ私たちだけで走っては来ていない、でしょう? だったら引き際も綺麗にするのが、一流というものよ」

 

 トレーナーがこの一年、感じてきたこと、察してきたことが、全て言葉にされてもう、彼女の引退に対してトレーナーが言えることはなにもなかった。

 黙るトレーナーに、くすっと微笑むキングヘイローが、カウンターのグラスに手を伸ばす。

 彼女の手により、スポットライトから離れたマティーニグラスが、明暗の差以上にほの暗く、トレーナーには見えていた。

 

 

 ――二二時二十分

 ――初うまぴょいまであと五十分

 

「今後は、どうするつもりなんだ」

 

 ウィスキーの酒面を手の中で弄び、スポットライトに氷を煌めかせながら、トレーナーはキングヘイローへ尋ねる。

 グラスの中の氷はキラ、キラと輝くがその美しさはグラス越し、手の熱で溶けて次第にゆるゆると色褪せていく。

 

「まだ決めていないけれど……先に言っておくわね。貴方は誰が何と言おうと一流のトレーナー。なのだから、私以外のウマ娘を輝かせなさいな」

 

 ぱっと振り向いたトレーナーに、キングヘイローは口元の微笑みを称えて答えた。

 空のグラスに残ったオリーブの実を、指で転がす彼女にトレーナーの二の句は続かない。

 

「そんな、俺は……っ」

「一流は、どんな仕事でもやってのけるものでしょう? 私は私だけしか見られない中途半端なトレーナーを、一流と呼んだりはしていなかったはずよ」

 

 オリーブの実から目を上げ、トレーナーに語りかけるキングヘイローは、毅然とした様子でトレーナーを突き放したように言う。

 言葉の響きは穏やかで、その表情は柔らかいままの言葉に、トレーナーはそれでもなんとか言葉を絞り出す。

 

「……それでも、俺は、まだ……君のトレーナーでいたい」

(……なに、言ってんだろうな俺は)

 

 言葉を絞り出しながら、しかしその思考は冷静に自分の言葉の矛盾に気がついてはいる。

 走り続けるウマ娘を、ウマ娘が望む方向に行く手助けはできる。トレーナーとはそういう仕事だ。

 しかし、走ることをやめたウマ娘に、トレーナーとしてできることは、予後の怪我を防止するぐらいでしかない。

 それ以上を求めるこの気持ちは、もはやトレーナーを超えている。

 

「滅茶苦茶なこと言ってるのはわかってる、それでも、それでも俺は」

 

 トレーナーは駄々っ子のように頭を振って、ウィスキーグラスをカウンターへ置く。

 

(キングヘイローの姿を、その有様を……もっと見ていたい)

 

 彼女が立ち向かってきた様々な苦境と、逆境と屈辱、それらを引きずり背負って、なお足掻く。

 

(魅せられたんだ。俺は、キングヘイローという彼女自身に)

 

 専属トレーナーとして見てきたキングヘイローに、のめり込んだ自分は、もはやトレーナーという理性では抑えようのないものだった。

 自分のものにしたい、とまでは高望みだとトレーナーにも分かっていた。

 

(だからせめて、一緒に)

 

 トレーナーの喉に、言葉が躍る。言うべき、言いたい言葉が出てこない、そんな彼の額に、すっとキングヘイローの人差し指が差し伸べられた。

 

「……でももヘチマもないの。一流の大人として、シャンとして? トレーナー」

「……キング」

「それに、むしろ、これはお願いでもあるのよ」

 

 トレーナーの額に突きつけられるような格好だった人差し指が、そのままトレーナーの頭を撫でるように手の平五指となって置かれた。

 

「私をここまで導いた、貴方が自分を誇って欲しいの。貴方に応えた私を、貴方自身が喧伝してよ」

「……つまり……?」

「わからないかしら? にぶちんさん。貴方に、キングの広告塔になる権利をあげるっていってるのよ」

 

 ふふんっ、と強い笑みがトレーナーを打つ。

 くしゃっとトレーナーの前髪を乱すように撫でるキングヘイローを、トレーナーはじっと見つめた。

 すると案の定、ぴくんと彼女のイヤーカフに包まれた耳は震えていた。

 

(……本当に、不器用な子だな、君)

 

 自分の行く末もまだ決まっていないのに、広告塔になる権利、という言葉を告げられる彼女の優しさをトレーナーとして持ち合わせていないわけがないのに。

 

(自分のことはなんとかするから、俺に、俺の在り方を全うして、なんて君は言えるんだものな)

 

 トレーナーは彼女の強い心に揺れて溢れそうになった涙を飲み込むように、あえて強く言葉で返した。

 いつものように、キングヘイローの傍らに侍る、一流のトレーナーらしく、不器用に意地を張れば言葉は出てきた。

 

「まぁ、確かに俺より諦めが悪いトレーナーはそうはいない。一流の広告塔になってみせるさ」

「……ぷっ、ふふっ、その調子よ。一流とはなんたるか、すっかり身についてるわね」

「……そりゃ君につきっきりだったんだ、一流のウマ娘にね」

「うふふっ、お酒って便利ね。お酒を理由にそんな気障な言葉まで聞けるんだから」

 

 カラカラと頬を緩ませるキングヘイローの口元へ、トレーナーの頭に乗せていた手が戻る。

 上品に口元に手をやって、立ち上がっていたのなら胸をはって堂々と声を上げて笑うだろうキングヘイロー。

 彼女の楽しげな笑みにトレーナーの心にはキングヘイローが望んだ新たな道へのやる気が灯り始めていた。

 

 

 ――二二時三十八分

 ――初うまぴょいまであと三二分

 

(そう……貴方は、これからもっといろんなウマ娘を、幸せにしてみせて)

 

 トレーナーの面立ちが明るくなったのを見て、キングヘイローは心中で祈るように呟いた。

 六年にも渡って専属トレーナーでいてくれたこと、そして最後の半年超に渡り、引退に向けた準備を進めてくれていた彼こそがキングヘイローにとって唯一残った懸念だった。

 

(貴方に私がしてあげられるのは、もうこんなことぐらい……だと思うし。お母様と関係なく、ここまで走ってこれたお礼ぐらい、したいじゃない)

 

 トレセン学園に入ってからの日々にあって、トレーナーがいなかったら、なんて仮定はもはや想像もおよばない。

 一流であり続けて欲しいと願ったままに、トレーナーは一流のトレーナーとしてキングヘイローを導いてくれたのだ。

 

(……本当は、私だって……貴方といたい)

 

 だからこそ、自分のワガママをこれ以上通すのは、さすがのキングヘイローといえどもははばかられた。

 

(今日、最後だけだから……もう少しだけ、甘える権利をくれるかしら)

 

 心中で呟く言葉に、返す声はない。

 語りかけて、問いかけるのは自分。

 行動に出すのは、常に自分自身なのだ。

 

(お酒って、本当に便利だわ。あと少しだけの、理由をもらえる)

 

 普段なら躊躇う言葉を、キングヘイローは悠然と椅子の肘掛けに肘をつきながら振る舞っていく。

 

「……ねぇ、トレーナー。今の私、綺麗かしら」

「綺麗だ。とても」

 

(嬉しい、けれど、足りないの)

 

「本当に?」

「綺麗だ。誰が何と言おうと」

 

(もっと、欲しいな)

 

「誰かと比較して綺麗なの?」

「誰よりも、誰よりも、君は綺麗だよ」

 

(もっと、褒めて。もっと、私を、私を見てて)

 

「誰よりも? 具体的にいってごらんなさいな」

「スペシャルウィークよりも、セイウンスカイよりも、エルコンドルパサーよりも、グラスワンダーよりも、誰よりも」

 

(……ええ、貴方だけが、私を、その中から見出してくれたのよ)

 

 キングヘイローが微笑んだ。

 瞳をぬらし、頬を赤らめながらも強気な眉はまっすぐに唇の端をくっと上げて、薄暗がりの中でもハッキリと光を帯びる、艶やかな笑み。

 それは女神の称えるものに等しく、後光の如き美に包まれていた。

 

「……そんな綺麗なウマ娘が、貴方が磨き上げたウマ娘」

 

 自信たっぷりの言い回しに、トレーナーが息を飲んだ。

 一流のトレーナーを魅せる自分をキングヘイローは誇りに思い、こみ上げる寂寥に、そっと心の袂を緩める。

 

(本当に……最後ぐらい)

「……そして私に触れられる権利があるのは……貴方だけよ、トレーナー」

 

 そっとキングヘイローは手をトレーナーへと差し向ける。

 レースの一環、トレーニングの一環……何かの理由としてではなく、ただ触れられる為だけに手を差し伸べていた。

 

「いいのか?」

「……ええ、ほら、どうぞ」

 

 カウンターの上のスポットライトに照らすように差し出したキングヘイローの手を、大きく節くれ立ったトレーナーは恭しく手の平で受けとめた。

 小さな自分とは違う男の手は大きく温かく、包み込まれるようだった。

 

(……ああ、温かい、な)

 

「……思ってたより、ずっと分厚くて、硬いのね」

「ふつうの手だよ」

 

 謙遜するトレーナーの手が、ぎゅっと手の平に合わさる。

 握り返した体温が、じんわりとキングヘイローの心に染みこんでくる。

 

(本当に……もっと、欲しい)

 

「……いいえ、ダイヤの手よ」

「ダイヤ? そんなに硬いか?」

 

(……ああ、私ってどうしようもなく諦めが悪い)

 

「おバカっ……そうじゃないわ」

 

(でも仕方ないじゃない。もっと、欲しい。貴方なら)

 

「ダイヤに触れて良いのは、ダイヤだけなの」

 

(言えるわけないから、察してよ)

 

「ダイヤは、ダイヤでしか磨かれないのだから」

 

(私を……大切にしてくれる、貴方なら、それがきっとできるのだから)

 

 

 ――二二時五十五分

 ――初うまぴょいまであと十五分

 

「……あの」

 

 それからしばらく、キングヘイローの手を取ったままのトレーナーに、キングヘイローがふと唇を尖らせてみせる。

 パッと顔を上げたトレーナーに、少し赤みがかった頬をそっぽを向いて隠したキングヘイローは一つ、事実を告げる。

 

「いつまで、握っているのよ」

「……あ、ああ、悪い」

 

 ぎゅっと握りしめていた手にトレーナーの視線が向かい、トレーナーはやがて電流でも走ったように手を離していた。

 

「なんというか、柔らかくて……つい、な」

 

 素直に口走ってしまった言葉を、軽く喉を鳴らして誤魔化そうとしたトレーナーに、キングヘイローは首を横に……少し恥ずかしそうに……振って見せた。

 

「……違うわ、トレーナー」

「……ん?」

「いつまで、握っているだけかって、聞いていたのよ」

 

 キングヘイローの視線は、トレーナーをちらりと見てから、そっぽを向いた。

 だが彼女の手は、そっと、トレーナーの手に重なるように寄り添った。

 握っていた手が重なって、その手の平がじんわりと熱いのが、自分の熱で染まったのだと思うと、トレーナーの心は高鳴っていた。

 

「……へっぽこ。ホントに、もう、へっぽこ」

 

 キングヘイローの唇は、へっぽこ、と彼女らしい悪態のような言葉を呟くが、トレーナーの手の肌をするりと這う指に、不機嫌さは感じられない。

 むしろ、それは彼女なりの甘えた仕草だった。

 

「……貴方をダイヤと認めるのは私だけって、それの意味を察せないほど、愚鈍ではないでしょう?」

 

 恐る恐る重ねられた手を、トレーナーはぎゅっと握り返していく。

 少しぐらい強引に、小さなキングヘイローの手を抱きしめるように。

 

(……それは……)

 

 選抜時代に啖呵を切ったあの日が、閃光のように思い出されていた。

 ――負けても、悔しくても、呆れられても、彼女は”一流”を名乗り続けることをやめなかった。

 ――「『大口を叩いたおバカ』だって、後ろ指さされて、笑われて。でも、一度口にしたことは取り消せないのよ?」と心配してくれたのも、彼女だった。

 ――一緒に、一流になると彼女の母親に宣言しよう。そういった自分に、嫌いじゃないわと笑った彼女は、足を震わせていた。

 

(もっと……触れて良いってこと、か? この想いのままに)

 

 いつだって決して顔を下げず、自分の誇りに顔を上げ続けた彼女に、並ぶ権利をもらったダイヤが、自分だという自負が、見ないようにしていた独占欲を思い出させる。

 一番彼女の近くで、一番彼女を思っていた自分が、彼女に触れられる。

 トレーナーの気持ちは、自身が気がついてしまってはいけないと思えるほどに、強く熱いものだった。

 

「あっ……」

「……俺は……君に似て不器用だから、止まれやしない。それでもいいっていうのか」

「……ええ、当然よ、貴方になら、その権利をあげる」

 

 握った手の平が、ゆるりと戦慄いた。

 キングヘイローの震えた手が、トレーナーの指に絡んでいく。

 彼女の不安を、緊張を、大きく包み込むように握り返して、キングヘイローの手の甲に、トレーナーは唇を落としてみせた。

 

「……なら、その権利を……大切にするよ」

 

 ご令嬢への最大の敬意と、敬愛と……溢れるばかりの想いを込めてトレーナーは、キングヘイローとともに、席を立った。

 

 

 ――二三時五分

 ――初うまぴょいまであと五分

 

「「……」」

 

 バーからの帰り道、言葉はなかった。

 エレベーターの中でも、隣同士で取った部屋の前でも、二人は手を離すことはなかった。

 一流のトレーナーと、一流のウマ娘は開いたトレーナーの部屋の扉の前で、目線を交わす。

 ほんの刹那、一呼吸の一瞬に交わした目線の中にキングヘイローとトレーナーは互いの表情を見た。

 唇を真一文字に結んで、眉間に皺を寄せた、キングヘイロー。

 唇を真一文字に結びすぎて、ちょっと鼻が膨らんだ、トレーナー。

 二人は二人の表情をみて、ぷっと、噴き出していた。

 

「……ふっ、ふふふっ、あははっ」

「……はっ、ははっ、あはははっ」

「緊張しすぎよ、へっぽこ」

「君だってそうだろ、まったく」

 

 笑う声が少しだけ響いた廊下で、ふうと息をついてから、先にトレーナーの部屋に歩み入ったのは、キングヘイローだった。

 何時も一歩前を行く彼女の傍らにつく。

 

「……締まらないわね、私たち」

「そりゃまぁ……へっぽこなのは、変わらないからな」

 

 二人にとってのいつもの位置で入室してから、トレーナーは扉を閉めた。

 

「それでも、私たちは互いに……」

 

 扉の向こう、衣擦れに混じってダイヤがこすれ合った音は、熱い情熱がこもった声と、言葉にならない肌の響きに包まれていた。

 

 ――初うまぴょいまであと零分。

 

 

 ****

 

 後日。

 

 トレセン学園に新しいチームが申請された。

 チーム名は『ベテルギウス』。

 冬のダイヤモンドの中心に輝く星の名を冠したチームを率いるのは、学園屈指の一流トレーナーだ。

 その左手薬指に輝く煌めきは、世界に向かって活躍する、新たな勝負服デザイナーのそれと、同じ輝きをしていた。

 

 ――ダイヤはダイヤでなければ磨けない。




一流として必要な事。
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