大正の世より遡ること113年──時は江戸・享和二年、所は異空間・無限城にて。
壁に畳、床に梁、虚空に襖──上下左右の概念があべこべに狂ったその奇怪な領域は、人喰い鬼の首魁が居城である。
その吹き抜けに浮遊する大舞台の上で、2つの影が対峙していた──いや、対峙していたと、形容するのは的確ではないかもしれない。正しく表現すれば、『這い蹲る影を、別の影が見下ろしていた』となるだろう。
「いやぁ、すごいねぇ」
そう言って朗らかに笑ったのは『見下ろす影』──真紅の道衣を身に纏った鬼、
──“十二鬼月”。
数いる鬼の中でも、一際強大な力を持つ十二体を指す。上位六体を“上弦”・下位六体を“下弦”と呼んで明確に序列化されている彼らは、強さの順に『壱』から『陸』の数字を瞳に刻まれる。つまり『上弦の壱』が最も強く、『下弦の陸』が最も弱い。
童磨に与えられた位は『上弦の陸』。
額面通りに受け取るのであれば、彼は上弦の鬼の中では最弱の存在。しかしその序列は今まさに、他ならぬ彼自身の手によって塗り替えられようとしていた。
「入れ替わりの血戦は下弦の頃から何度も経験してきたけど……まさかまさか、
──十二鬼月の鬼たちには『入れ替わりの血戦』が認められている。上位の鬼に下位の鬼が一対一の勝負を挑み、勝利することでより上の位階を簒奪することが適うのだ。
童磨は幾度もこの血戦をくぐり抜け、十年余りで上弦まで上り詰めた成り上がりの鬼である。
人間だった頃から賢い知能を有し、鬼となって手に入れた強力な異能『血気術』の力もあってこれまで全戦全勝を重ねてきた。
「だけど、俺なんてまだまだだったことに気づかされたよ! いやぁ、さすがは
童磨は大袈裟に──いっそわざとらしいほどに賞賛の言葉を並べ立て、まくし立て、三日月のように細めたその眼で、足元に蹲るもう一つの影を見やった。
「──次はどんなふうに俺を殺してくれるのかなぁ、
「こ、の……ッ!」
──闇夜で染め上げたが如き、美しい黒髪の女鬼である。
彼女の体は童磨の血鬼術が生み出した小さな氷像『結晶ノ御子』四体に囲まれており、凍てつく冷気の拘束を以て床へ
──十二鬼月“上弦の弐”、
江戸の夜を跳梁する悪鬼羅刹の群れ、その中でも三指に入る実力者と目される鬼である。憎悪と屈辱の形相で己を睨む孀滓に、童磨が「ああ、そっか!」と声をあげた。
「君、もう血鬼術をぜーんぶ出しきっちゃってたんだね」
合点がいったとばかりに手中の鉄扇をパチリと閉じ、童磨は「気付かなくてごめんねぇ」と朗らかに笑う。
「そうなると、この血戦は俺の勝ちだね。わぁ、嬉しいなぁ! これで俺は──」
「
童磨の空寒い歓声を遮るように、孀滓のその声は響いた。
「
瞬間、舞台の上で大火が爆ぜた。火の粉と熱をまき散らす焔は童磨を象った氷像を瞬時に蒸発させると、そのまま本体である童磨へと襲い掛かる。
「う、ぐぁッ──」
橙の業火は鬼の再生速度さえ上回る速さで、童磨の血肉を炭へ灰へと変えていく。口を開けた瞬間に舌が熔け、焦げた喉をせりあがった言葉はただの排気音として外界へと発せられた。
「ウフフ、アハハハハハ! いい気味ですねぇ、童磨!」
地面につくばったまま、孀滓は狂ったように笑った。息を呑むほどの美貌を醜悪に歪め、彼女は炎に包み込まれた氷鬼へ罵声を浴びせる。
「貴方如きが
既に彼女の体に降りていた霜は、完全に溶け切っていた。彼女は立ち上がると着物の袖で口元を隠し、舞台上に転がる火達磨を見やる。もはや童磨はピクリともしない──勝利を確信した孀滓は、口元が小さな孤を描いた。
──十二鬼月が創られて以来、彼女は一度たりとも上弦の弐の位を明け渡したことはない。
これまで、孀滓が入れ替わりの血戦を行った回数は実に7度──その内の5度は実力をはき違えた下弦の鬼による挑戦であったが、残りの2度は同じ上弦の鬼との戦いである。そのいずれにおいても彼女は相手を下し、共食いにより文字通り自らの糧としてきた。
新参の“上弦の陸”如きに自分が敗けるはずがない……否、
「じき、あの御方の裁定も下ることでしょう。それまで精々──」
そこまで続けたとき、孀滓は思わず言葉を切った。揺れる炎の隙間からほんの一瞬だけ覗いた童磨の虹の瞳、それがじっと己を見つめていたためである。
ぞっ。
心臓を絞られるような悪寒と共に、孀滓の額にどっと汗が噴き出した。
童磨が燃え尽きて灰になっていなかったことではない、未だ戦意を喪失していなかったことでもない。百戦錬磨の十二鬼月・孀滓の思考を占拠したのは、
例え人であろうと鬼であろうと、喜怒哀楽の情は存在する。これまでに屠ってきた鬼殺隊の柱も、自らと同じく上弦に列せられた他の鬼も、彼女が至上と認める主でさえも例外ではない。
だが今まさにその身を炎に焼かれる童磨はどうだろうか。その虹色の眼には怒りも、恨みも、叛骨心もなく、ただ人形のような無機質さだけがあった。
その歪さ、鬼の目にさえ歪に映る在り様に、孀滓はほんの一瞬ではあれども、気圧された。そしてその一瞬は──この入れ替わりの血戦という場において、あまりにも致命的。
「しまった……!?」
ぎょっと目を見開く孀滓の周囲で、空気が急速に凍てついていく。直後、巻き起こった吹雪が業火を蝋燭の火のように吹き消し、孀滓の眼前で見上げるほどの巨影が頭をもたげた。
──それは菩薩地蔵を象った氷像であった。それが童磨の血鬼術によるものであることは、言うまでもない。しかしそれは、この血戦の最中に孀滓が見たどの氷像よりも大きく、重厚であった。先の業火を出したとて、ただちには溶かせぬと目算がつく程には。
「これ、は──」
愕然と立ち尽くす孀滓に、菩薩は慈悲深い笑みを崩すことなく超質量の腕を振り上げる。それが打ち下ろされる刹那、孀滓はしらじらしい笑みを貼り付けた童磨の姿を見た。
――血鬼術
手刀は孀滓の肉体を打ち据えるにとどまらず、自らの足元である舞台すらも木端微塵に粉砕した。舞台の床板や支柱が裂ける音が響いたかと思えば、2匹の鬼は空中に放り出されていた。
「おっと、やりすぎちゃったかな?」
そう呟いた童磨の体はそのまま、重力の導くままに自由落下を始めた。舞台の下は吹き抜けになっており、それも底が見えない程の高さがある。人間ならば確実に死ぬ、鬼の生命力ならば死にはしないものの、粉々になれば再生に時間がかかるだろう。
どうしたものかと首を捻ったその時、童磨の耳は倒壊とは別の音を聞きつけた。
――べべん
そして次の瞬間、童磨は
(琵琶の君の血鬼術か。いつ見ても便利だなぁ)
興味深げにキョロキョロと周囲を見渡す童磨。そんな彼に頭上から声をかける者がいた。
「跪け──平伏せよ」
「!」
童磨は言われた通り膝を折ると、その顔を天井へと向ける。そこには果たして、黒の半裃に身を包んだ年若い男が
──男の名は、
江戸の闇に蠢き人を喰らう、全ての鬼たちの首魁である。
「これはこれは、無惨様! 俺の血戦はいかがでしたでしょうか?」
それを認めた童磨はニヘラと締まりのない笑みを浮かべた。上弦ですら恐れる無惨にも特段物怖じした様子を見せず、彼はぺらぺらと言の葉を紡ぐ。
「これまでの血戦の相手はいずれも強者揃いでしたが、やはり此度は別格! いやはや、どちらが勝ってもおかしくない接戦でございました! 貴方様のお目を愉しませるものであったのならば幸い──」
「誰が喋っていいと言った?」
口をつぐんだ童磨に不機嫌そうに鼻を鳴らすと、無惨は静かに告げた。
「此度の入れ替わりの血戦、童磨の勝利で決着とする。新たな “上弦の弐”として、私の役に立て」
「おお、ありがたき幸せ!」
そう礼を言った童磨の目に刻まれた文字は、既に『上弦』『弐』へと書き換えられていた。
「お、お待ち、を゛……」
だが、それに待ったをかけた者がいた。童磨の背後より異を唱えたのは、先の血戦で敗れた孀滓であった。大分再生しつつはあるもののその手足は未だひしゃげており、満足に座ることもできず転がっているような状態。しかし彼女は、苦し気な呼吸音を響かせながらも嘆願する。
「ゴぽっ……無惨、様……どうか、どうか、お考え直しを……!」
水っぽい音と共に、孀滓の喉奥からこみ上げた血反吐が畳に赤い水溜まりを作る。それでも、彼女は口を閉じない。
「その男に、上弦の弐は務まりません……! 私が、私の方が、貴方様を愛して──」
「黙れ」
──結果として、それが仇となった。
気が付けば彼女は、畳の上につくばっていた。変成した無惨の右腕が、長く“上弦の弐”を務めていた鬼を、赤子のようにねじ伏せている。
「ギッ……!?」
身を潰す超圧に、彼女の口から飛び出たのは人に踏まれた蛙のような声だった。
「私の判断は常に正しい。お前のつまらぬ物差しで私の思考を測るな」
いつの間にか天井から移動した無惨は、悶える孀滓の目を覗き込む。その額には血管が浮き出ており、彼の胸中で煮えたぎる苛立ちを雄弁に物語っている。
「童磨は血戦に勝つことで価値を示した。それに引き換え、お前はどうか? 詰めの甘さから反撃を許し、その『上弦の弐が務まらぬ鬼』にすら敗れている──お前の言葉には何の重みもない」
「ガ、ア゛っ……!」
「お前は『私を愛している』といったな。一体それに何の意味がある?」
声にすらならない断末魔を絞り出す孀滓を執拗に嬲りながら、無惨は続ける。
「元禄十六年より九十九年もの歳月、お前は私に仕えていながら青い彼岸花を見つけられていない。それがお前の言う愛の浅さだ、孀滓」
もはや彼は、孀滓を完全に見限っていた。例え百年近く己に仕えた腹心だろうと、役に立たない以上は何の価値もない。丁度明かりに誘われた蛾でも見るかのように、孀滓へ侮蔑と嫌悪の視線を向けた無惨は言い放った。
「最期に言い残すことは?」
練磨された血鬼術も、人知を超えた再生能力も、無惨の前では何の意味もなさない。全ての鬼の始祖である無惨は、配下である鬼達の力の一切を封じることができるためである。例え上弦の鬼であろうと、例外ではない。
再生を封じられた状態で内臓の大半を潰され、脊髄をへし折られてなお息がある孀滓の生命力は賞賛に値する。だがそのいじましい努力も、じきに水泡に帰すことになるだろう。
(孀滓ちゃんはこのまま、無惨様に殺されるんだろうなぁ)
もはやもがく程の力も残されておらず、瞳が色を失いつつある孀滓を童磨は眺めた。無惨の不興を買って死を免れた鬼は、少なくとも彼が知る範囲ではただの一匹たりとも存在しない。
気に入ったものは目をかけ、気に入らないものは冷遇する。いかなる差配も、全て己が正しい。故に自身が“不要”と判断したものには、血一滴ほどの価値すらもありはしないのだ。己を絶対視するが故に、無惨は余程のことがない限りは自身が下した評価を覆さない。
(ああ、可哀そうに。俺が食べて上げられれば、孀滓ちゃんも一緒に無惨様に尽くせるんだけど……この感じだと、無理そうだ)
そんな心にもない言葉を浮かべながら、童磨は沈痛な面持ちで推移を見守る──実際のところ言う程の憐憫は感じていないのではあるが。
ただし――こと今回に限っては童磨の予想を外れ、その
「──」
肺を潰された彼女の口から、もはや言葉は出ない。故にその唇で、彼女は無惨へ最期の言葉を遺す。
『
「……」
ピタリ、と。孀滓の命を奪わんと振り上げた腕を、無惨は止めた。当然ながら、あまりにも一途な孀滓に心打たれた、などという手ぬるい理由からではない。
──鬼舞辻無惨は、全ての鬼の思考を読むことができる。
離れれば離れるほどに精度は弱まるものの、視認できる範囲にいる鬼ならば完璧に掌握可能。末期の瞬間に孀滓が浮かべた『愛の形』は、無惨にこの瞬間の粛正を思いとどまらせるに足るものであった。
「できるのか?」
短い問いに間断なく頷く孀滓。それを見た無残は数瞬の沈黙の後、手を下ろした。
「……いいだろう」
「カハッ!?」
唐突に再開した身体の修復により肺が戻った孀滓の口から、再び呼気の音が響く。
「血をふんだんに分けてやる。他の上弦ならば死ぬ量だが……お前ならば適応できるだろう」
その首筋に鋭い針のような物が突き刺さり、無惨の血が流し込まれる。孀滓の体が弓なりに跳ね、白く柔い肌にミシリと青筋が浮かび上がる。彼女の目に刻まれた『弐』の文字は瞳の中でドロリと溶け、瞬きの後に『陸』へと変化していた。
「お前のいう『愛』とやらが私にどれほど有用なのか――証明して見せろ」
その言葉を最後に、無惨は琵琶の音とともに異空間・無限城より姿を消した。既に気配はない──少なくとも、近隣百里内に彼はいないのだろう。
「おや、行ってしまわれた」
パチクリと目を瞬かせ、童磨はどこか物足りなさそうに呟く。もっとも、童磨は人間だった頃から物事を深く考える性質ではない。すぐに思考を切り替えた彼は、目を好機に輝かせながら孀滓へと目を向けた。
「それにしても凄いではないか! あれほど無惨様を怒らせながらお許しを頂けるなど、誰にでもできることではない! さすがは元・上弦の弐、俺も一層気が引き締まるというもの!」
無邪気に、悪気もなく、童磨は無神経に孀滓を質問攻めにする。
「孀滓ちゃんは無惨様への愛を、一体どのように表すつもりなのだ? 是非手伝わせてくれ! 同じ上弦、それも血戦をした仲だ! 俺にできることがあれば遠慮なく──」
「べらべらと、よく回る舌ですね」
涼やかな、しかし隠しきれない不快感を滲ませた声が響く。それに答えようとして、童磨は己の舌が消失していることに気が付いた。
「探し物はこれですか? 耳と癪に障るので、切ってしまいました」
「!」
孀滓はそう言って、右手に持っていたそれを無造作に投げ捨てた──舌ごと切り取られた、童磨の下顎である。
極めて滑らかな断面は、鋭利な刃物で丁寧に切り落としたかのよう。だが彼女は刀剣の類を振るような挙動は一切見せていない。故に童磨は動揺こそしないものの、その目を驚いたように見開いた。
「貴方とつまらぬ問答をしている時間はありません……疾くお引き取り下さい」
彼女の言葉に応えるように、琵琶の染み入るような怪音が響く。途端、童磨の体もまた無限城から何処かへと退去させられた。
「では……私も参るとしましょうか」
完全に修復された体の調子を確かめるように手を二、三度結んで開くと、孀滓は虚空へ呼びかける。
「
べべべん!
ひときわ大きく三度、琵琶の弦が弾かれる。次の瞬間、異空間にあった彼女の体は元いた寝室の布団の上へと横たわっていた。むくりと体を起こした彼女は床を抜け出すと、襖を開けて廊下へ出る。
既に丑三つ時に差し掛かった屋内は沈黙に包まれ、数人の警邏の者がいるばかり。鬼である彼女にとって、見つからないようにするなど造作もないことである。
孀滓は闇に包まれた回廊を闊歩しながら、ゆっくりと菫色の目を閉じた。瞼の裏に浮かび上がるのは、無惨の姿。頭の中には去り際の無惨の声がこだましていた。
──お前の『愛』とやら、証明して見せろ。
「ええ悦んで、無惨様」
回り廊下に立った孀滓はその瞼をあげた。緩やかに吹き付ける夜風が、彼女の髪を揺らす。
「どうかご照覧下さいませ。この胸に燻る、貴方様への身を焦がすような慕情を」
恍惚とした表情を浮かべると、彼女はその目で江戸の城下を睥睨した。
孀滓が無惨に対して示した愛の形、言い換えれば、彼女自身の有用性を示すべく提示したのは公儀の掌握。即ち──
「昼の世も夜の世も、私は貴方様に捧げます……まずは手始めに、鬼殺の者どもの抹殺からですね」
――時は江戸・享和二年、所は
上弦の色鬼は妖艶に唇を舐めた。