僕がスピカ加入の意思を表明してすぐのこと。
「…ランナーズハイって知ってるだろ?トレーナー?」
「ああ…知ってるが、それがどうした?」
「苦しい運動を長時間続けると、次第にその苦痛が多幸感や高揚感へと変化する…脳内麻薬が原因だと言われているが詳しいことは定かじゃねえ…とにかく、アタシはそいつがどんなものか…今、はっきりと、分かったんだ」
「…ゴルシ、お前大丈夫か?」
一度に四人もチーム加入者が現れたことであれほど嬉しそうだったゴルシちゃんは、しかし突然何かに怯えるように体を震わせながらランナーズハイがどうとか言い出した。
「…必死で勧誘して、やっとこさ入ってくれるヤツらが現れた。もちろん嬉しいぜ?…ただよぉ、終わってみると今までせき止められていた恐怖がドバッと溢れ出してアタシの背筋を這い回るんだ…これからどうなるのか、不安しかねぇ…!」
…彼女は何を不安がっているのだろう。
もしや、あれだろうか。以前チームから抜けていったウマ娘たちのように、僕らも抜けるかもしれないと考えているのかも。
しかしそんなことは決してないと僕は断言できる。
乗りかかった船だ。尊みの過剰摂取上等、こうなったらとことんやってやるとも。
「ゴルシちゃん。心配しなくても、僕は決してチームから離れたりは…」
「違うぞオロール。違う」
彼女は首を振り、そして僕の口に人差し指を立てて言葉を塞いだ。
僕の吐いた息がその指と、唇との間で淀むのが分かって…なんというか…。…なんか、…うん。
ちょっとエッゲフンゲフン。
「…聞きたいことがある。デジタル、お前にもだ」
「ファイッ!?なんでございましょう!?」
「…お前らよ、アタシらのことはどう思ってる?」
「そうだね。まずゴルシちゃんは女神だってことを前提に話させてもらうんだけど……」
「オーケー分かったもういい。止めろ」
「御三方を神聖たらしめている要因についてなら半日は…いえ、一週間でも語り続けられますよッ!」
「分かった。アタシはもう諦める、だから止めろ」
まったくデジたんに同意見だ。オタクというものは好きなことの話になるとなりふり構わずに語れる生き物なのだ。
と、これまで黙って見ていたスカーレットが呆れた様子で口を開いた。
「…オロール。アンタ、前々からどっかおかしいとは思ってたけどここまでとはね。それでいてなんで飛び級できそうなくらい成績が良いのよ…」
僕は別におかしくはないが、必死で否定するとなんだか本当のことのように思えるからそれはやめて、質問にだけ答えておこう。
「…前にも話したけど、ただ記憶力が良いだけ。努力の結果じゃないんだよ。…だからこそ、努力して努力して一番を目指し続けるスカーレットが僕は好きで…!」
「オーケー、分かったから。もういいわよ」
おっと、早口になってしまったがこれはオタク特有のあれだ。すまないスカーレット。
そして重ね重ねすまないスカーレット。君が休み時間に一生懸命自習をするほど勉学に励んでいるのを僕は知っている。それでも、手を抜くことはできないんだ。なぜなら僕は授業を真面目に受けていない…具体的には寝てるか絵を描いてるかのどっちかだから、結果で語らないと成績がマジにヤバい。
一度、ほどほどの点数を取ってみようと試みたこともあるが、その際全教科の先生に「君、わざと間違えてるだろ?」と言われるほど僕はそれに関して不器用なのだ。
それと飛び級はしない。君らを眺める時間が縮むことになるから。
「んん゛ぁ〜…まさか推しCPをこんなに近くで眺められるようになるなんて…ハァ〜…想像しただけで意識がぁ…!」
飛びそうになっているデジたんがあまりにも可愛いものだから寿命が縮んだ。
「えっと…俺とは会ったことないですよね?アグネスデジタル、先輩?…っスよね?」
それを見ながらウオッカが尋ねる。…こうもウマ娘が多いと、うっかり逝くかもしれない。デジたんが…あとそれを見る僕が。
「ハイ!学年的にはそうなりますが、あたしはしがない一匹のウマ娘ちゃんオタクでございまして…。ゆえにッ!そのようなかしこまった呼び方であたしを呼ぶ必要はなしッ!道端の石ころの裏側にくっついたガムを見るくらいの態度で丁度いいのですッ!どうぞ、デジタルでもデジたんでもなんとでもお呼びくださいッ!」
「…わ、分かったぜ」
…デジたんの自覚の無さには参るなあ。たった今、物凄く聞き捨てならない言葉が聞こえたんだが。
「ウオッカ。こんなに尊いデジたんをホントに石っころの裏のガムを見るような目で見たら、僕は君といえども何をするか知れたもんじゃないから気をつけてね。ふふっ」
「…分かった。分かったから、その笑い方やめてくれ、頼む。…目が笑ってねーって!怖えーよ!」
ああウオッカ。君は物分かりが良くて助かるよ。未だに現実を分かってくれないどこぞの女神様にはぜひもっと頑張って欲しいものだ。
とまあ、こんな風にわいわいがやがやとやっていた僕らの意識を集めたのは、ぱちん、と手を叩く音だった。
「…こうも打ち解けるのが早いのは良い事だ。が、詳しいことはこの後飯でも食いながら話そう。とりあえず改めて自己紹介でもしとけ。おい大先輩、仕切ってくれ」
「アタシか?…ゴールドシップだ、よろしくな」
「…え、終わり?おいゴルシ?」
場を取り仕切れと言われた彼女だが、手短に名乗りだけを済ませたのち椅子に座り、おもむろにルービックキューブを取り出していじり始めた。
「な、トレーナー…そういうのはアタシじゃなくてよ。ここにいる全員と面識のあるオロールが適任だと思うぜ?」
「え、僕?まあ、確かにゴルシちゃんと同室で、ウオッカやスカーレットと同じクラスで、デジたんとは…」
デジたんとは…なんだろう。相思相愛!?
「…んっ、ふへへへへ…」
「よしオロール。アタシの精神衛生上、この場を簡潔にまとめること、ただそれだけをやってくれると非常に助かるんだが」
おっと、少し向こう側の景色を覗いていたらうっかり二度と戻って来られなくなるところだった。
というか、こういうときに取り仕切るのは普通トレーナーだろう。何を呑気に新しい飴を咥えようとしてるんだこの人は。
「…ねえトレーナーさん、ゴルシちゃんはそう言ってますけど…」
「ん?あー、適当にやってくれ」
適当にやれと。ならば言葉通りにしよう。
「…じゃ、今日一日スピカは全部僕が取り仕切りますよ?」
「なんでもいいぞー。俺は放任主義ってやつだからな」
彼はそう言い、首を縦に振った。はっきり見えた。
…なぜ僕がやけにこう彼が頷くことに拘っているのか、他の誰も理由を知る由はないだろうけど。
いやなに、別に怒っているわけではない。ほんの少し悪戯心が沸いただけだ。
さて、では始めるか。
「といっても…今さら言うこともないけど。みんなご存知、オロールちゃんですよー。ちなみに部屋はゴルシちゃんと一緒!ぴすぴす!ハイ次、デジたんよろしく!」
「ふぇっ!?あたし!?ハイッ!アグネスデジタルですっ!あの…さっきも申しました通り、あたくしめはしがないウマ娘ちゃんオタクでして…あの!練習の邪魔にはならないようにしますので…!」
うん!可愛い!ハイ次!
「ネクストッ!スカールェットッ!」
「え?ああ…ダイワスカーレットよ。オロールと、あとそこのウオッカと同じクラス。…で、好きな食べ物とか言った方が良…」
そんなことは別に言わなくともいい。
どうせバナナだろう。ハイ次!
「ネクストッ!ウオッカァ!」
「…なんか、勢い強いなお前。俺はウオッカ。もうスカーレットが言ったけど、こいつらと同じクラスで…」
「はいオッケー!みんなよろしく!トレーナー!終わりましたよ!」
「お。思ってたより早いな」
少し話をする時間が欲しかったもので、早めに終わらせた。
非常に有意義な話だ…僕らウマ娘にとっては。
「トレーナーさん。質問いいですか?さっき、詳しいことはこの後飯でも食いながら話そう、って言いましたよね?」
「言ったが、それがどうかしたか?…ああ、別に店に行こうってんじゃない、この後何か買おうと…」
…何となく予想していた答えが返ってきたが、僕はその言葉を遮ってさらに続ける。
「トレーナーさん。さっき僕、今日一日スピカは全部僕が取り仕切る、って言いましたよね?」
「ああ、言ってた…か?」
言ったとも。記憶に関して僕は間違いを犯さないという確信がある。
そのとき、ゴルシちゃんが何かに感づいたようにニヤリと笑った。
「おい、お前まさか…」
「ああ、ゴルシちゃん。君みたいな勘のいい子は大好きだよ」
今の僕の顔はおそらく、彼女と同じように口角が吊り上がっているだろう。
「トレーナーさん、もう一ついいですか?」
「…なんだ」
「人の金で食う焼肉って最高に美味いですよね」
奢ってもらう前提で食べるものは美味い。これはほぼ全ての人に共通する認識であり、ほぼ全ての人が共通して持っている欲望という名のトッピングが作り出す味だ。
「…ハッ!いや、無理無理!ウマ娘5人分がどれだけの量になると思う!?勘弁してくれ!」
「トレーナーさん、良いニュースと悪いニュースがあります。どっちから聞きたいですか?」
「い、良いニュースから…」
「良いニュースは、今日の夕食は美味しいものが食べられること。悪いニュースは、あなたの財布の中がすっきりすることです」
口には出さないが、さらにもう一つ悪いニュースがある…僕にとっての良いニュースだが。それはここには僕の味方が多いということだ。
ゴルシちゃんは察した時点でニヤニヤしているくらいだし。
「ね、ねえオロール…それはさすがにトレーナーさんに悪いわよ…」
「そういえばスカーレット。君さっきいやらしい手つきで脚を触られてたよね」
「それもそうね、ナイスよオロール」
スカーレットは手のひらを返したし。
「人に奢ってもらうのってなんか不良っぽくてイカすよね」
「おお!言われてみればそんな気がするぜ!」
ウオッカはチョロいし。
「ウマ娘の幸せを第一に考えるなんて…僕らはいいトレーナーさんに巡り会えたね、デジたん」
「そう、ですね…?」
デジたんは可愛いし。
とにかく、ここに僕の味方しかいないことははっきりした。
「決まりですね、トレーナーさん。さっき自分で言いましたよね?僕らはウマ娘5人…対してあなたは人間1人…もうどうにもなりませんよ」
「ちょっ、ちょっと待て!俺お前になにか恨まれるようなことしたかよ!?」
「んー…脚触られましたね」
「あっ!…っく!」
いや、嫌がられている自覚はあるんかい。しかしそれでも辞めないとは、なかなか深い性を背負ってるな。
ちなみに僕は恨みがあるわけではなく、こうした方が面白そうだからやっているだけだ。
「というわけで、今日の夕食は焼肉を所望します。…まだ出会って少しですけど、あなたのことは頼りにしてるんですよ、トレーナーさん」
笑顔で彼の肩にぽんと手を置く。
僕はとても頼りにしているのだ。財布を。
「話の流れが分からなけりゃ、今のはすっごくいいセリフに聞こえたんだろうなあ…!わーったよ!しょうがねえ!お前らの入部祝いってことで盛大にやってやる!」
そうこなくては。
いやあ、スピカに入ってよかった!
◆
肉の匂いというのはどうしてこうも食欲をそそるんだろうか。これだけでご飯が食べられる気がする。
「ハァ…今月の貯蓄が…」
「トレーナー、元気出せって。これいるか?」
「…なんだこれ」
「知らね。ドリンクバーで適当に混ぜたらできた。多分うめーぞ」
「飲めるかぁっ!?」
ゴルシちゃんの笑顔って素敵だよなぁ。クール系美人の顔面から放たれる飄々とした笑顔。
「あぁ…俺の金が…」
このドリンクバー付き食べ放題分の金額はもちろん全てトレーナーが払うのだが、皆一切遠慮せずに食べているのが面白い。ちなみにデジたんは最初遠慮気味だったが、「ウマ娘の脚をいやらしい手つきでお触りしたヤツの金だよ」と言ったら、何の憂いもなく肉を食べ舌鼓を打っていた。
「食べ放題って最高よね!うーん、次はどれを頼もうかしら…。デザートも食べたいわ…」
「ドリンクバー行ってくる。ジンジャーエール取ってくるぜ!ジンジャーエール!」
「いえ、あたしが行ってきますッ!ジンジャーエールですね!承りましたッ!」
デジたんが優しい。さすが女神、そういうところが大好きなんだ。
あと、ウオッカは絶対にお酒っぽくてカッコいいと思ってジンジャーエールを飲もうとしている。
「あ、待ってデジたん。僕も一緒に行くよ」
歩き出した彼女を追いかけ、僕はその肩の横に並んだ。
「飲みたいものを言ってくれたら、あたしが取りに行きますよ…と言っても付いてくるんでしょうね、オロールちゃんは」
「よく分かってるねぇ」
飲み物なんかよりデジたんが欲しいと常日頃から考えてるやつだぞ、僕は。今もこうやって笑いかけてくれるデジたんの可愛さを僕だけが知っていると思うと…たまらない。
ともあれ、二人っきりになれたわけだが。
「ねえ、デジたん。このチームに入って良かったって思う?」
…うまく言葉にできないが。
僕はスピカで幸せになるデジたんというものを知らない。つまり、前世で見たことがない。
そこの差というか。今起こっていることと、僕の知っている光景との差が漠然とした不安となって襲ってきたのだ。
ウマ娘として生まれ変わり、僕はデジたんを実際に見た。そして、彼女はどこのチームでもやっていける才能を持っているとリアルに感じた。
しかし入ったのはスピカだ。僕の知らないスピカが今ここにある。
だからこそ、彼女自身の口から答えを聞きたい。
「…あたしは、迷っていました。ダートと芝も決められない、それどころか走るかどうかすら決められなかった中途半端なあたしが果たしてチームに入っていいのか、と。でもトレーナーさんの言葉を聞いたときに、その迷いは吹き飛んだんです」
「…言葉?」
「『好きにしていいぞ』ってやつです。あの時、あたしはオタ活が制限されないことを喜びました…もちろん、それも大事ですけどねッ!しかしあたしにはその言葉がもっと多くの意味を含んでいるように思えたんです…いえ、きっとそうだったのでしょう」
「それって…」
「ハイ。あたしやあなたみたいな、ダートと芝の両方を走ろうとするウマ娘も受け入れてくれる。そういう意味だったんだと思います」
いつかシンボリルドルフさんも言っていたが、芝とダートの両方で好戦績を残したウマ娘の前例はほとんどない。それでいて、芝とダートの両方を走ろうとする酔狂なウマ娘を受け入れてくれるのは、なるほど酔狂なトレーナーだけだ。
そしてデジたんはしっかりと結果を残せる能力を秘めている。あのトレーナー、やはり変態的な慧眼の持ち主である。
「…オロールちゃん、ありがとうございます」
「…へ?」
ありがとうございますと、彼女は僕の名を呼んでからそう言った。
突然の感謝に、頓狂な声が漏れてしまう。
「あなたが背中を押して、迷いは完璧に消え去ったんです!同じ走りを試みる仲間であり、同じウマ娘ちゃんオタクであり、最高の同志であるあなたがいなければッ!あたしはこのチームには入っていなかったでしょうからッ!」
「ハイ、コチラコソ…アリガトウゴザイマス」
やめてくれ、僕を殺す気か。
嬉しい、嬉しいけど恥ずかしい。そんな風に思っていてくれたのが嬉しいけど、直接言われると恥ずかしい。
顔が赤くなってる気がする。
おかしいぞ、何かおかしい。
逆だろ普通。僕がデジたんの顔を真っ赤にするのであって、断じて僕が真っ赤になるのではない。
ドリンクバーの新メニューにトマトジュースを追加しないように耐えながら、僕はしばらくそのことを考え続けた。
作者は焼肉か寿司だったら寿司派ですよろしくおねがいします