「舌を入れなきゃセーフかな…?」
「はい?」
「いや、軽めのならセーフだと思わない?」
「…ハイッ?」
いやほら、海外では挨拶のように軽いキスをする国だってあるんだから、セーフじゃないか。僕はそう思う。
「デジたんは可愛い。それは事実だ。でもそれだけじゃない。…セクシィなんだよ!君は!…デジたん。僕は、その…いろいろと溜め込むのは良くない、そう思うんだ。精神に良くない。でしょ?」
「…ハ、ハイッ?」
「そのハイッて返事は肯定の意味だと受け取るよ?」
「ハイッ…じゃなくてっ!だ、大丈夫ですか!?もしやタキオンさんにまた何か盛られたんじゃあ…」
「僕は正常だよ。…最初は見てるだけでいい、そう思っていた。でもデジたんと会って、こうして仲良くなれて、デジたんと同じ時間を過ごしたいと思った。そして今、僕は君が欲しくてたまらないんだ」
デジたんの尊さは全世界に広まるべきだと、僕は今でもそう思っている。しかし、最近、それも昨日今日の話なのだが、僕は彼女を欲してしまった。自分だけのものにしたい。生物としてごく自然的なその考え方と、以前から抱いていた、デジたんを布教したいという想いが僕の中に同居している。
それらは相殺しあうことなく、むしろシナジーを生み出し、僕の心を埋め尽くした。
彼女の方へと一歩踏み出し、羞恥と若干の興奮を含んで赤みがかった頬を撫でる。
「はぅっ…」
「僕がこうやって迫っても一歩も動かないあたり、君も満更じゃない…そういうことだよね?」
矛盾というよりは逆説か。僕だけのデジたんの尊さを知ってほしい…いや、やっぱり気持ちがぐちゃぐちゃでよく分からない。
…デジたんは可愛いしどうでもいいや!
「…あ、…オ、ロール、ちゃ…」
「…ふふ、どうしたのデジダゥッッ!!?」
突如後頭部に走る強い衝撃、ジンジンと痛みが湧いてくる。いたい。
「ったく、何やってんだよお前…お前ら」
振り向けばそこには見慣れた芦毛。withハリセン。ゴルシちゃんめ、さてはあれで僕を思いっきりぶっ叩いてくれたな。
「…いいところだったのに。どうして止めるのさ」
「アタシがいる場所でんなことやってるのがもう異常なんだよ。つかここ部室だぜ?公共の場だぜ?」
「…デジたんが可愛いから仕方ないッ!」
「だとしてもよ。せめてTPOを弁えてくれよ。既に一人、お前らのせいでやられちまってるんだ」
なるほど確かに、ゴルシちゃんの後ろでウオッカが鼻血を吹き出して倒れている。
「…彼女の尊い犠牲を無駄にしないためにも、僕はデジたんにヘブヮッッ!!」
いたい。というかなんでゴルシちゃんがツッコミみたいなことをやってるんだよ。君はボケる側だし、そもそも僕だってボケてるつもりは一切ない。マジに言ってるんだ。そしていたい。
「よそでやれよ!ったく、犬も食わねぇぜ」
「ふふ、デジたんは尊すぎるからね。どんな狂犬だって畏れ多くて食えやしヌガッッ!!」
いたい。
「いい加減にしろよ。もう生き残ってるのアタシとお前だけなんだよ」
なるほど確かに、既にダウンしたウオッカの隣でスカーレットが泡を吹いているし、デジたんは顔を真っ赤にしたまま、何やら時々呻くのみだ。
「…ッ!ンハァ…ッ!?あたしは何を…?」
あ、噂をすればデジたんが復活した。死ぬのに慣れてるからやっぱり早いな。
「…ハッ!?そうです!オロールちゃん!血迷いましたねッ!?そういう…その…アレなのは…!あたしにやっちゃあいけませんッ!やるなら他のウマ娘ちゃんに!むしろ是非そちらでお願いしますッ!」
「いいや!デジたんの頼みといえどそれは聞けないッ!僕の唇の初めては君がいい!」
「うひゃぅ…お、重いですよ!?…そっ、そういえば!例の薬のときだって、あなたはわざわざあたしに謝ってたじゃないですか!それはつまり、あなた自身がそういうことを自戒しているということッ!なのになぜ今こんなことを…!?」
「…そうだね。今だって、僕のオタクとしての部分は推しにそういうことをするのは是としない。でもデジたん…君にはホントの僕で向き合いたい、そう思っただけだよ。タキオンさんの薬を飲んだときの僕は、紛れもない僕自身。あれこそがホントの僕なんだよ?」
あの夜、デジたんにあれやこれやをやろうとしたのは、それが僕の心の奥底から湧いてくる欲望だったからだ。
「…デジたんだって、心のどこかではそういうのを期待してるんでしょ?僕はハッキリ覚えてるよ。薬の件の次の日に君が『押し倒されたことなら気にしてませんし、正直良か』まで言いかけたのを」
僕は忘れない。…そういえば最近はデジたんの表情をひたすら記憶するくらいにしか使っていないな。
「あぅ…それは…っくぅ!やっぱりダメです!あたしは見る専で結構ですゆえッ!」
そんなことを言っているが、彼女の表情は血涙が流れ出そうなほどに歪んでいる。
これはオチるのも時間の問題だろう。んふふ…。
「うおー…どっちもやべー奴だ。ハハハッ…ハァ」
◆
練習場にて。
チームに加入してから、何か特別なトレーニングをやるでもなく、むしろ普通も普通、基礎も基礎である体力づくりなどをメインにやるようトレーナーに言われている。というわけで、僕らの今日のメニューはシンプルなランニングなどだった。
当然特筆すべきことも起こっていない。軽めのランニング程度ではデジたんの本気の表情を見られないので、早く彼女と併走トレーニングをやってみたいところである。
まあ、それはそれ。どんなものにも良さというものはある。例えば…
「はあぁ…!トレーニング後のウマ娘ちゃんたちが流す美しき汗の雫…。是非ともあたしめのタオルでお拭きさせていただきたいところではありますが、それは流石に…わぷっ!?」
「んー…君だって汗をかいてるじゃないか。ほら、拭いてあげるよ」
爽やかな表情で前髪をかきあげるスカーレット…を見ているデジたんが非常に尊いので、タオルでわしゃわしゃしてみた。
もちろんタオルには然るべき処置をする。濁さずに言うと、このあと顔を埋めて深呼吸する。
「…や、やめ…!…オロールちゃん!や、やっぱりあなた絶対何かされてますってば!…タキオンさんに確認してきますッ!」
言うやいなや、デジたんはトラックの外へと走り去ってしまった。追いかけようとも思ったが、行き先が分かっているので後から合流することにしよう。
「スゥー…ハー…。薬なんて盛られてないのに…。スゥー…あぁー気持ちィ…!」
タキオンさんの薬などなくとも…よしんば盛られたとしても、それよりもデジたんの中毒性の方が高いので、薬の効果は出ないだろう。すーはー。
「怖ぇーって。何当たり前のように嗅いじゃってんだよ。つかここ練習場だぜ?アタシ以外にも人いるぜ?」
「スゥー…大丈夫だよゴルシちゃん。遠目からなら、僕はただ顔を拭いているようにしか見えない」
「お前を心配してるんじゃねえんだわ。アタシの精神衛生的にマズいんだよ」
そう言われても、この行為は僕の精神安定剤のようなものだし…。それにゴルシちゃんなら大丈夫だろう。ゴルシちゃんは何でも大丈夫なのだ。ゴルシちゃんだから。すーはー。
「こっちを見ながら無言ですーはーすんな。…お前、マジでなんかされてんじゃね?つーかむしろそうであってほしいぜ。シラフでやってるってのより、何かに憑かれてるとかの方が億倍マシだ」
「憑かれてるって…幽霊だとか、そういうものに?そんな訳…」
否定しようとして、言葉が途切れる。
…ふと思ったが、この世界に幽霊は実在するのだろうか。
僕は基本的にそういったものは信じないタチだったので、この質問にはNOと答えただろう。…過去形なのは、そもそもウマ娘がかなりオカルトチックな存在である上、何より僕がそのウマ娘として二回目の生を受けているからである。
「今のお前の状態に原因があるのかどうかは知らんが、とりあえずよ。タキオンのとこでも行って鎮静剤でもぶち込まれてこい」
「僕は正常だって。…でもまあ、デジたんに合流したいし行ってくるよ。それじゃあまた。ゴルシちゃん」
◆
時計の針は午後七時前を指す。
夏の昼というのは長いようで、しかしいざ終わってみると、なんだか一瞬で過ぎ去っていったようにも感じる。
今はちょうど黄昏時といったところか。もともとは薄暗くて人の顔がよく見えないために「誰そ彼」と尋ねるような時間帯だから、たそかれ時と呼ばれていたのだったか。
この時間帯を逢魔時と呼ぶこともある。文字通り、魔のものと逢いやすい時間帯ということらしいが。
…ゴルシちゃんが幽霊がどうとか言ったものだから、ついついこんなことを考えてしまう。
しかし、今僕は室内にいるので、相手の顔が見えないなんてことはないし、まさか学園に魔物が潜んでいるはずもないので、怯える必要などは全くない。
デジたんはタキオンさんに会いに行ったのだから、とりあえずはタキオンさんが居そうな場所を探せばよい。
というわけで、彼女のラボに来てみたのだが、それらしき気配は感じない。
「うーん…自室にいるのかも…?」
そう思って僕が踵を返した瞬間。
がたん、と、ラボの中から音がした。
「…誰かいるのかな?」
がたがた、とたぱたと、誰かが歩き回っているような音がする。
…タキオンさんが居るのかも。デジたんの気配は全く感じられないが、ただ単に彼女がまだタキオンさんに会えていないのかもしれない。
とすると、ここで待っていればデジたんはいずれ来る。とりあえずタキオンさんに挨拶して、しばらく部屋の中で待ってよいか聞いてみよう。
「失礼します、タキオ…」
ドアを開けたが、そこに予想していた人物はいなかった。
代わりに、腰まで届く青鹿毛の髪をたたえたウマ娘が一人、僕に背中を向けて座っていた。
「……」
「あ、えーっと、どうも…」
「……」
返事が返って来ない。それどころか振り向いてさえくれない。顔が見えないので、彼女が誰か分からない…なんてことはない。
こんなところにいる長い黒髪のウマ娘といったら、マンハッタンカフェくらいだろう。
「…あのー?」
マンハッタンカフェ。
その長く美しい青鹿毛の髪から「漆黒の摩天楼」と呼ばれることもある、どこか浮世離れした雰囲気のあるミステリアスなウマ娘。
他人には見えない「何か」が見え、他人には見えない「お友達」と会話をする…要は強い霊感があるのだ。
あのアグネスタキオンの研究室は、彼女が研究室を欲して生徒会に掛け合った際「問題児に個室を与えるのは危険」と生徒会が判断したために、マンハッタンカフェのグッズ置き場として使われていた空き教室の半分を研究室としたそうだ。なお当の彼女はそれ以降、アグネスタキオンの保護者兼監視役とされたらしい。
…そのマンハッタンカフェと思しきウマ娘が目の前にいるのだが、彼女は座ったまま、こちらに対して何の反応もしない。
「…寝てるのかな?」
もしやと思い、ゆっくりと彼女の前へと回り込む。
そして確信した。目にかかった長い前髪、どこか神秘的な顔立ち、上から73、54、78…彼女はマンハッタンカフェだ。間違いない。
瞼は閉じている。やはり寝ているのだろうか。
しかし、どうも腑に落ちない部分がある。
…なぜ彼女は、自分のスペースではなくタキオンさんの研究スペースで眠っているのだろう。
ましてや、背もたれもない椅子に姿勢よく座りながら眠ることなど、果たしてあるだろうか?
…まあ理由を考えても仕方ない。
この部屋は少しヒヤッとする空気が漂っている。ならば、とりあえず彼女をこのままにしておくわけにはいかない。風邪を引いてしまっては困るので、何か掛ける物を…。
「あ、タキオンさんの白衣…これでいいか」
若干薬品臭いそれを手に取って、カフェさんの方へ僕は歩み寄った。
刹那、彼女の目は大きく見開かれた。
「えっ…誰…ッ!?浮いて…ッ!?」
妖しげな魔力をもつその瞳で僕を睨んだ彼女は、一瞬で宙へと舞い上がる。さらに驚くべきことに、僕の体はピクリとも動かなくなっていた。
ふわりふわり、ゆっくりと、しかし着実に、彼女は僕に近づいてくる。
「あ…あぁ…!」
ガタガタと、僕の体が音を立てて震えだす。思わず持っていた白衣を落としてしまう。凍えるほど冷たい風が、服の隙間を通り抜けていく。
今分かった。彼女は決してマンハッタンカフェなどではない。でも、だとしたら、人を喰い殺せそうなほどの凶暴な表情でこちらに近寄ってくるこのウマ娘は一体誰だ?そもそもなぜ宙に浮いている?
「…っまさか、…幽霊、だったり?」
彼女はいよいよ、僕の胸に手を伸ばしてきた。しかし、そこに触られたという感覚が脳に伝わることはなく、ただずぶずぶと腕が沈んでいくのが見えるだけだ。
「みゃああ…?!やっぱり幽霊っ…!?」
僕のことなどお構いなしに、彼女はどんどんと僕に近づき、ついには彼女の顔だけしか見えなくなった。
それにしても、この顔は……!このウマ娘は____
◆
「…ぃ、おーい、早く起きたまえよ」
…誰かが僕の頬の辺りをぺしぺしと叩いている。
「…んぅ?」
「おや、やっとお目覚めかい眠り姫。なんだって君は私の白衣なんかを被ってこんなところで大の字になっているんだい?」
「…タキオンさん?」
いつの間にか僕は床の上にぶっ倒れていたようで、タキオンさんが先ほどからぺしぺしやっていたみたいだ。
「オ、オロールちゃん…?大丈夫ですか…?ホントにタキオンさんの薬を飲んだわけじゃないんですよね…?」
あ、デジたんもいる。可愛い。
「おいおいデジタルくん。仮にそうだとして、私が実験の経過を観察しないわけがないだろう?大体、さっきからずっと君と一緒にいたじゃないか。私にはアリバイがある」
「…では、オロールちゃんはどうしてこの部屋で倒れていたんですか?」
デジたんに尋ねられ、僕は意識を失う直前の出来事を思い返す。
…夢にしてはリアルで、しかし現実味のない奇妙な時間だった。どう説明してよいやら、自分でもよく分からないほどに奇妙な。
「うーん…なんて言えばいいのかな…」
僕が考えあぐねていると、突然後ろから声が聞こえた。
「説明は私がします…。話は既に聞いているので…」
「…え?誰…ッ!?!」
声の主は、先ほどの幽霊らしきナニカと同じような見た目をしていた。反射的に後ずさってしまったが、よく見ると身に纏う雰囲気が大分落ち着いていて、アレとは別人であることが分かる。というか、このウマ娘はもしかしなくてもマンハッタンカフェだ。
「ああ、カフェ。そういえば君が突然、研究室で何かあったようです…行きましょう…、なんて言うものだから来たのだった。ここで何が起こったか知っているのかい?」
「知っています…。お友達から聞いたので…。オロールさん…アナタに聞きたいことがあります」
「…はい、なんでしょう」
「アナタ、見える人ですね?」
見える人、というのはつまり、話の流れから考えるに…。幽霊とか、そういうことだろうなぁ…。
「…それは、多分、そうなんでしょうね…」
「…私のお友達が、どうやら少しはしゃぎすぎてしまったようです…。久々に見える人に会ったからついからかいたくなった、と言っていました…。しかしアナタが突然気絶してしまったので、とりあえず体が冷えないようにその白衣を掛けて、それから私に知らせにきたらしいです…」
なるほど、そういうことだったのか。
僕自身、そんなオカルト的な才能があるとは思ってもみなかった。…一度生まれ変わっているのが関係あったりして。
「あ、待ってください。それだと結局、どうしてオロールちゃんが気絶したのか不明のままです。…ハッ!?もしかしてオロールちゃん、実は幽霊や怪物が怖いとか、そういう萌えポイントを持ってらっしゃるッ!?」
「あー、いや、デジたん。理由は分かってるんだ」
幽霊に迫られたとき、僕が気絶した理由は実にシンプルなものだ。
「…カフェさんのお友達が、その、すごく…!」
「…すごく?」
「…その、すごく…!すごく可愛かった!!」
場が一気に静寂に包まれたが、構わず話を続ける。
「…その、すごい美少女だった。それが僕の体の中に入ってくるんだよ?唇の感触はなかったけど、実質キスみたいなものだよ?もう…迸りまくりだよね!」
沈黙がいよいよ場を支配したが、これが事実なのでしょうがない。
「…お友達の気配が少し遠くなりました」
どうして離れるんだよ。可愛いウマ娘とは仲良くしておきたい僕としては少し悲しい。
「…なかなか興味深い精神構造だ。今までに類を見ないほど面白い…!頭の中身を取り出して調べてみたいくらいだ…」
「…そ、その調子ですオロールちゃん…!あたしじゃなきゃいいんですよ、あたしじゃなきゃ…!あたしにはお友達さんが見えないのが残念ですが、それでも尊いものは尊いですからね…」
タキオンさんはサラッと恐ろしいことを言っているし、デジたんは相も変わらず後方腕組みオタク面をしようとしている。
「ところでデジたん。キス、って口に出したらしたくなってきちゃったんだけど」
「しませんッ!!」
食い気味に断られてしまった。でも、これは俗に好意の裏返しと呼ばれるやつに違いない。恥ずかしがっているだけだろう。
何はともあれ、今日は実に不思議な日だった。カフェさんのお友達…いつかまた会えるといいな。
「幽霊」で検索しようとすると、予測変換の三番目くらいに「幽霊 かわいい」って出てくる、そんな素晴らしい時代に生まれることができてよかったなぁと思いました。
カフェってどうして露出少ないのにあんなエッ(殴