「んふふふ…。君がパドックでどんな表情をするか楽しみだよ。生憎と僕も舞台裏で控える必要があるから今すぐには拝めないけどね。ふふへへ…」
「あの…?どうしてこう、今からあたしがパドックに出るタイミングで不穏なことを言うんです?」
僕の今日の目的はあくまで、デジたんにちやほやされまくってもらい、美少女としての自覚を多少なりとも感じてもらうこと。ついでに顔真っ赤なデジたんに接客でもしてもらえれば御の字だ。
そのために僕は生徒会に企画を持ち込み、本人に内緒でファンクラブまで作った。
「…デジたんを推してる人ってのがどれだけいるか、君はこれから身をもって知ることになる」
「は、はぁ…?何か嫌な予感が…」
デビュー前のウマ娘であるデジたんのファンクラブに入る物好きは、そのほとんどが重度のオタクだ。彼らの行動力を舐めてはいけない。今日はパドックの最前列に、優秀なカメラマンを含めた何人かに陣取ってもらっている。ここまでくればあとは言わなくても分かるだろう。そこにはデジたんが顔を赤らめるという結果だけが残る。
「じゃ、じゃあ行ってきますッ…!」
「うん、行ってらっしゃい。んふふ…」
とてとてと舞台の方へ歩いていったデジたん。僕はカーテンの隙間から彼女の様子を窺う。
G1レースの場合、パドックでは勝負服のお披露目なんかも行われるが、今回は体操服で走るので、やることは軽い挨拶くらいだ。
しかし、だからといってデジたんにそれくらいで済ませるわけはない。様子を見る限り、彼女は速やかに挨拶を終えようとしているが、僕の同志達がそうはさせない。
「デジたーーーん!かわいいよーーー!」
「いっつも俺らが向かう場所に先回りして推し活してるデジたんのことは!同じオタクとして尊敬してる上!ッめちゃくちゃ推せるぜェ!」
「デジタルさぁん!ちょっとでいいのでこっち!カメラ!見てください!最高の笑顔をお願いしたいところですが、私としては照れ顔でもオッケーですよ!あっ…!その表情、ステキですッ、素晴らしいですっ!」
…すごいな、予想以上だ。ここまで声が届くとは。
カーテンの向こうでデジたんがあたふたしているのが雰囲気で分かる。そうそう、こういうのが見たかったんだよ僕は。
覗き見していると、彼女が逃げるように舞台裏へ戻ってきた。
「…んなっ、な、な、何ですかアレェ!?うちわにデジたんって書いてあったんですが、ちょっと!?あなたの仕業ですよね、絶対に!」
「いやあ良かった。実に良かった。やはり同志というものはいい!君だってそう思うでしょ?」
「あ、まさか、いやっ、でも…っ!そんな信じ難い事が果たして存在していいのだろうかっ…!?あたしが、推され…て…?」
「デジたん。これが現実だよ。君は自分が思ってるより何倍も尊い。そういうことなんだ」
「ア…ア…アァッ…」
彼女はほんのかすかな呻き声を漏らしながら立ちすくんでしまった。モノクロ写真のような色合いの、魂が抜けきった顔だ。
「それじゃ、僕はパドックに行ってくるよ。その間君は自己の客体化をしてみるといい」
清々しい気分のまま、僕はカーテンをめくって観客の前に姿をさらした。
「オローーール!かわいいよーーー!」
「最推しは一人に絞れねェ!つまりよ、お前のことも推してるからな!我らが同志!」
「視線下さぁい!もっとお目目ぱっちりで!…あ、そうですそんな感じで!す…す…素晴らしいですっ!」
オイちょっと待て。オイ。
驚きのあまり目が点になった。なぜ僕にこんな声援が飛んでくるんだ。確かに、僕だってウマ娘の端くれ、けっこう可愛いという自覚はちゃんとある。デジたんとは違って。
…ところで、彼らは皆ファンクラブの人間だ。そうなると一つ疑問点が生ずる。
僕はあくまで一会員として、デジたんを推そうと説いただけだ。名前も顔も隠していた。ではなぜこんな状況に?
「…げっ」
…僕の目に映っているのは真実か?なぜ応援うちわに僕の名前が書いてある?…いや、これは真実ではない。僕は夢を見てるんだ。
なぜなら、そのうちわを持っているのは。
「ねえ、オロール。私に秘密でずいぶんと面白そうなことしてるじゃないの?」
僕の母さんだからだ。
「スゥー、ハァー…。オーケイッ!ビークール、アンド、ステイクール…!」
落ち着け、落ち着いて考えるんだ。まず、なぜ彼女はうちわを持っている?なぜファンクラブメンバーと親しげに会話している?
「びっくりした?ふふふ。昔の知り合いに、まだデビューもしてないウチの娘にファンクラブができた、って言われたものだから……」
「あ、うん。分かった。分かったからもう何も言わないで、お願いだから」
母さんもウマ娘だから、観客席まで距離があるが問題なく会話ができる。やっぱりウマ娘ってしゅごい…じゃなくて。
…こうやって現実逃避したくなるのも仕方がないだろう。母さんがデジたんのご両親と知り合いだったとは。僕は二人と対面しているので、そこからファンクラブと僕の繋がりが母さんにバレるのは自然なことだ。で、母さんは自分の娘を自慢したくなったのか、とにかく僕のことを喋っちゃったわけだ。
「…っ!」
「あら、もう行っちゃうの?レース頑張ってね!」
僕は逃げるように舞台裏へ戻った。
「オロールちゃん。見てましたよ、あなたの母君とのやりとり。随分顔が赤いですねぇ?どうしたんです?ふふっ…」
散々な目にあったぞ、まったく。
…いや、デジたんの小悪魔メスガキ的煽り顔を拝めたのでむしろ良かったか。それどころか最高かも。
◆
…始まる。
『各ウマ娘、ゲートインが完了しました!』
…クールにいこう、まずは深呼吸だ。
出来る限りクールに状況を分析しろ。
僕のスタート位置は二枠三番、デジたんは同じく四番。…さっきも見た番号だな。
1600m、コーナー二つ。芝状態良、依然内枠有利。
どうしようか。幼少期からの継続的なトレーニングのおかげで、スタミナに関してはかなり自信がある。この距離ならとっとと先陣を切って逃げてしまうのが一番勝ちに近い。
だがしかし!それをやってしまうと僕の右隣でハァハァやってる天使を満足に拝めない。彼女はどう走る?このレースはシンプルなマイル戦だ、リスクが少ない先行で来るか。ならば僕は彼女の後ろについてみようか。
…ダメだ、確かにデジたんの走りを特等席で見たい気持ちはある。しかし、彼女と本気で競い合ってみたい気持ちも同じくらい強い。予想外のことではあるが、母さんも見に来てる。だったら今ある力を出し切ってやる。
何より、こうしてゲートに入ると、とてつもなくワクワクしてくる!…早く走りたくてたまらない!
っと、そろそろ気を引き締めなければ。
エンジンは既にふかした。脚に力を溜め、全感覚神経をフルに稼働させる。
…今だ!
『さあ、今ゲートが開きました!各ウマ娘、勢いよく飛び出していきますッ!』
勝負事というのは、まず己を知るところから始まる。
自分の手札をしっかり理解しておかなければ勝つのは難しい。
改めて、今の僕の力を確認しておこう。
僕が他のウマ娘に対してアドバンテージを得られる点は主に三つある。
一つ目は踏み込みの強さ。
昔森の中やら山の中やらを走り回ったおかげで、脚の力はかなりある方だと自負している。母さんは短距離やマイルを主戦場としていたらしいので、遺伝的才能もあるかも。
まずはそれでトップスピードにより近づく。地面を蹴る、蹴る、蹴って蹴って蹴りまくる。加速が終われば、次はすかさず歩幅を広げ、勢いを維持したまま体力を温存する。
『早くも先頭に立ったのは三番オロールフリゲートッ!成績優秀、学年一位常連だそうですが、栗東寮長のフジキセキさんいわく、けっこう問題児とのこと!模範生である私を見習ってほしいですねっ!とはいえ、なかなかのバクシン具合ッ!』
何言ってるんだよ、ちょっと大体の授業で寝たり脱走を繰り返したり屋上で火を使ったりデジたんにつきまとったりしてるだけなのに。問題児とは心外だ。
『…最初のコーナー、順位は変わりませんッ!』
僕の二つ目の長所。それは幼少期からひたすらにトレーニングして身に付けたスタミナ。
スパルタなトレーニングを課せばスタミナは誰でも得られる、と誰かが言っていた。そのため、遺伝的にはスプリンターやマイラー向きであろう僕でも、幼少期から肺を鍛えたおかげで、長距離でもある程度戦える。
『先行組が直線に差し掛かりますッ!ブレない走りッ!オロールフリゲート!ペースを掴んでいるようですッ!』
三つ目は記憶力。
とはいっても、レースでこの力をフルに活かしきるには少し工夫が必要だ。ただ対戦相手の情報を頭に叩き込んだりするだけではない。
それに加えて、ちょっとした策を考えた。
まず、このレースに最も適した「理想のフォーム」を自分の中で定義した。今回の場合、スタートダッシュではデジたんの動きを参考にさせてもらった。彼女のダートでも通用するほど力強く素早い踏み込みは、とても加速に役立つ。
勢いに乗ったあとのフォームは、僕の体に癖として染み付いているストライド走法。そこにゴルシちゃんの脚の運び方を参考に改良を加えたものだ。ただしピッチはあまり落としていないので、このままいけば1600m丁度くらいにバテが始まるだろうが、ゴールまで持てばそれでいい。
そして、レース中否が応でもリアルタイムで記憶される自分の動きを、映画のフィルムのように1フレームずつハッキリ認識する。
それから、筋肉の動作のわずかなムラを逐一修正することに脳のリソース全てを割く。
こうすることで確実に、ミリ単位の乱れなく常に良いフォームで走ることができ、体力の消費を抑えられる。もっとも、脳の方がとてつもなく疲れるが。
記憶能力が脳ではなくウマソウルに宿っているからこそ出来る、僕だけの秘策だ。これを上手く使えば非常に大きなアドバンテージになる。
『レースも半分を過ぎたといったところでしょうか、未だ先頭は変わらずッ!二番手につけているのは四番アグネスデジタルッ!』
…待てよ、なんだって?
デジたんが、後ろに?
『ちなみに、彼女は感謝祭準備における最大の功労者といっても過言ではありませんっ!その働きぶりは、あのシンボリルドルフ会長も褒めていらっしゃったとかっ!なかなかやりますねッ!』
彼女がもうそこまで来ているのか?
気づけなかった。さすが稀代のウマ娘オタク、気配を消すことには長けているわけだ。
いや、待て。それだけじゃない!
気配というのは決してスピリチュアルなものではない。周囲の音や空気の流れなどの感覚を統合し、漠然と何者かがいることを感じとる能力が生き物には備わっている。
その気配の消し方を論理的に考えてみろ。レース中に僕が視野外のウマ娘を感知する方法といったら聴覚しかない。要するに、彼女が気配を消すには僕の耳に探知されなければいいわけだ。
『四番アグネスデジタル、ピッタリとオロールフリゲートの背後についていますッ!先頭集団はこの二人、早くも最終コーナー!レース展開はかなりハイペースッ!』
…ッピッタリ背後に!
つまり、デジたんが今とっている行動は…おそらくこのレースにおける最適解だ。
スリップストリーム。
デジたんは僕を盾にして空気抵抗を逃れている。
なるほど、僕よりも小柄な彼女ならその恩恵を十分受けられる。その上、風切り音を出さずに済む。
「…っやられた」
思わず口から声が漏れる。
そうこうしている間に、もう最終コーナーだ。
内ラチを掠めながら、ちらりと横目で後ろを見る。
「…ッ!?まさか、そんな…ッ!?」
そこにいたのはやはりデジたん。振り返って確認するまで存在を疑うレベルの気配の薄さ。今、その理由が完璧に分かってしまった。
デジたんは僕の視線に気づいたようで、ニヤリと微笑んだ。
その脚をよく見ると、僕とまったく同じ動きをしていた。歩幅、踏み込みの強さ、タイミング、なにもかもが。
…まずった。まったく、道理で足音がしないわけだ!僕と完全にシンクロしているのだから!そしてその目的は間違いなく、スタミナの温存!デジたんは僕に一切気づかれることなく、スタミナを保ったまま走ることをやってのけたッ!二位の位置をキープしていながら、彼女はきっと出走者の誰よりもスタミナに余裕があるはずだ。
…自分の走りに集中しようとしたのが仇になった。
『勝負は最終直線にもつれ込みました!先頭では熾烈な一位争いが繰り広げられていますッ!アグネスデジタル、余裕を残したまま追い上げ体勢!が、しかしッ!粘りますッ!オロールフリゲート粘るッ!どっちだ!?分からない、勝負は最後の瞬間までどうなるか分かりませんッ!』
「…っく、デジたん…ッ!何だよ、僕の真似なんかしてくれちゃって、さぁ…ッ!」
「…ッこっちの!セリフですよ!あなたのスタートを見た瞬間、察しましたッ…!」
残りわずか数十m、コンマ数秒の世界で、僕とデジたんは並び立った。その瞬間、世界が二人だけのものになったような錯覚が僕らを襲う。
残り10m。
あと少し、もう少しだけ前に出られたらいいのに、それが出来ない。もどかしさのあまり思いっきり叫びたくなるが、呼吸のリズムを崩してしまうとすぐに脚が動かなくなりそうだ。
残り5m。
めまぐるしく動く景色、至る所から聞こえてくる音の中、必要な情報だけを捉え他は全てシャットアウトする。
すると、太陽でさえも霞んでしまうような真白の中、そこに彼女はいた。
残り1m。
…ああ、これはダメだ。
デジたんとやりあうの、楽しすぎてクセになる。
『ゴ、ゴールッ!一着は…ど、どっちです?あの、私見えなかったのですが…。あ、ハイ!写真判定を行いますので少々お待ちくださいッ!』
…走り終えた瞬間、体が酸素を欲しだす。
特に脳へ酸素が十分行き届いていないのか、何か見えちゃいけないものが見えている気がする。具体的にはデジたんが17人いるように見える。落ち着け、まずは深呼吸。
『…現在判定中ですッ!もうしばらくお待ちくださいッ!』
…入着順のことで会場がどよめいている。
どちらが一着かだって?そんなもの、当事者である僕には分かりきっていることだ。
「はぁッ、はぁッ…!ッデジたん!一着おめでとう!」
「はぁ、はぁっ…!ほっ、へ…?あれ?いや、あたしはてっきりオロールちゃんが一位だと…」
「…何言ってんの。絶対デジたんの方が速かったよ…!」
今に分かる。先ほどのレースに引き続き、また写真判定を行うとのことだが、結果はデジたんの勝利で間違いない。確かにほとんど差はなかったが、まさか二連続で同着になるわけはないだろうし。
『…ちょわっ!?は、えぇ…?め、珍しいこともあるものですね…。あ、ただいま結果が出ましたッ!一着は…同着!三番オロールフリゲート、四番アグネスデジタルッ!』
…なんて?
『ぜ、前代未聞ッ!まさか同日のレースでこんなことが起きるとは…!ここにいる皆さんはツイてますねッ!』
…は、え?
いやいや、そんなバカな話があってたまるか。
ウオッカとスカーレットも同着、そして僕らも同着。
「はぁッ、はぁッ…!コ、コレ…スピカに忖度の疑いかけられてもおかしくないよね?」
「は、はい…。とんでもないことが起こってますよ…」
とんでもないことが起こってる、というよりは僕らが起こしてしまったわけだが。
…重賞レースではないし、判定はそれなりに甘いのだろうけど。どちらにせよ滅多に起こることではない。
だけど、まあ、そうか。
デジたんと僕が同着、ね。
アプリでは名前すら登場しなかったモブ以下ウマ娘の僕が優駿アグネスデジタルに肉薄し、ついには同着というわけだ。
…正直、僕自身も驚いている。
「…次はダートでやろうよ。そしたら僕が圧勝するかも」
「いえ。コースが何であれ、次は絶対にあたしが勝ちますから!」
よし、決めた。
もう日和ったりしない。僕はたとえ相手がデジたんであれ…いや、相手がデジたんのときこそ、迷いなく勝利を目指す。彼女とやりあう時に味わったとてつもない快感に抗う術を僕は知らない。
…いや、冗談抜きでキモチ良かった。レース中に拝んだデジたんの横顔は、チンケな言葉じゃ表せないくらい僕の魂を揺さぶった。
「…ねえ、デジたん」
「はい、何ですか?」
「僕はさ。君のことが大好きだ。大好きだからこそ、レースでは絶対に負けない」
「…ええ、あたしもです」
「てことはデジたんやっぱり僕のこと好きじゃん!相思相愛なら何も問題ないね、うん!じゃ早速…」
「あー〜ッ!?違います違いますそういう意味じゃなくてッ!?いや全くそうではないわけじゃないんですけどもッ!?その、なんといいますか…!とにかく!あたしだってオロールちゃんに負けるつもりはないですから!そういうことが言いたかったんですっ!」
…なんにせよ、デジたんは可愛い。
さて、レースの次はウイニングライブだ。
デジたんにファンサしてもらいたいところではあるが、今回は僕もファンサをする側だ。…不本意だが、僕用の応援うちわを作ってきた阿呆たちに一応ファンサをしてやらねばなるまい。デジたんにやれと言っている以上、自分も同じ土俵に立ってものを言わねば。
…まあ、すぐに全員デジたん一筋になるだろうし、問題はないか。
コイツら走った!(ク○ラが立った並感)