二月の半ば、旧い暦ではもう春に当たるが、まだまだ空気は冷たい。
というか気温の話などどうでもいい。ここ部室にはコタツが備え付けられているし、トレーニングの際も走っていれば身体が温まるので、我らスピカに死角はない。重要なのは、二月ももう半ばであることだ。28の半分だ。つまりそういうことだ。
「オロールちゃん、どうしたの?今日はトレーニングもお休みなのに、部室に呼び出すなんて」
デジたんに渡したいものがあったからだ。
ちなみにスピカの部室には鍵がない。いや、鍵自体は付いているのだが、普通に壊れている。まあそれはともかく。
「デジたんデジたんデジたん。今日は2月14日なわけだけど。もちろん、何の日か分かるよね?」
「ハッ、なるほど……?ふ、ふっふっふっ……ウマ娘ちゃんヲタを舐めてもらっちゃあ困る!あたしが覚えていないとでも……?」
「そうっ!今日は……!」
この星に存在する生きとし生けるもの、愛し愛されるものたちにとって、ほんのちょっぴり特別な日!
「バレンタインデー!」
「バレンタインステークス観戦……ほえっ?」
ちょっと待て。そんな純真無垢な顔で「ほえっ?」とか言うんじゃない。死人が出るぞ。主に僕。
「……聖人ウァレンティヌス殿に敬意を払い、僕は今日という日を愛のために捧げる。それで?デジたん。君は他の娘に目移りかい?」
よく考えなくても僕はいつも愛に生きている気がするが、まあそれはともかく。
「あ、あっはは……ちょっとした冗談だよ?ホントに、あの、だからその湿度120%の目はやめていただけると……」
「大丈夫。僕も冗談だよ。とりあえずデジたんには……愛を。ありったけのヤツをお見舞いしようと思ってるんだけど、受け取ってくれるよね?ね?」
日本のバレンタインにおける定番プレゼント、チョコレート。もちろん僕は手作りのものを用意した。
「あの、実はさっきから気になってたことがあって。何かおおよそ食べ物とは思えない大きさのプレゼントボックスがオロールちゃんの背後にあるけど、それって……」
「あ、やっぱ気になるよね。じゃ早速だけど、デジたん。これを受け取ってほしい。もちろん本命だよ?」
約1.5mほどもある箱だが、ウマ娘の力なら楽々持てる。僕特製の本命チョコを、感激で言葉も出ない様子のデジたんに渡す。
「ア……アァ……。い、いや!?何この大きさ!?こんなのウェディングケーキでしか見たことな……ッ」
いつも可愛いデジたんだが、恥じらいの表情は特にステキだ。自爆して羞恥心が限界に達した顔など、もう堪らない。
「えと……あり、がとう……」
「あーんもう大好き。恥じらいながらもお礼を言ってくれるとこホント好き。ちなみに箱の中身は小分けされたチョコやクッキーだから保存も利くよ。一個一個に僕手書きの愛のメッセージが書いてあるから、食べるときは常々それを意識してほしい。というか、僕以外のことを考えないで食べてほしい!」
「愛が想像の数万倍重いッ!?」
僕の愛は無限だ。たかが数万足そうが引こうが掛けようが割ろうが、それは決して変わらない。誰が僕を止める?いや、誰も止められない。
そうやってデジたんを愛でていると、ふと彼女が何か言いたそうにしている。僕が見つめ返すと、彼女はバッグから何かを取り出した。
「あの、アァあたしからも、その……。あって。その、バレンタイン!ハイッ、どうぞッ!」
「よっしゃああああああああああッ!」
うお、自分でも予想以上に野太い声が出た。
「よっ!しゃあぁああああああああ゛ッ!」
思わずもう一回叫んでしまった。
だって、仕方ないだろう。彼女が取り出したのは、明らかに手作りだと分かる、ハート型の箱に入れられたチョコだったのだから!すごいな、ハート型のチョコって本当に存在するのか。いや、もちろん僕も例の巨大箱に何十個か入れておいたが。
「家宝にする」
「腐るよ?」
「愛を込めて食べる」
「いや、込めたのはあたしのほ……ッスゥー。今のは忘れてくださいお願いします」
それはできない相談だ。デジたんの声は声紋レベルで覚えているので。というか、もしやデジたんは自分の可愛さをすでに自覚してらっしゃる?……うん、それはないだろうな。デジたんに限ってそんなことはない。だがしかし、今のはもはや狙っているとしか思えない尊さだった。
彼女の故意犯さながらの言動に僕が悶えていると、部室のドアが開いた。
「よっ、変態ども。こんな日に部室にいるとはご苦労なこった。つーかちょうどよかったな、トレーナーが昼飯奢ってくれるってよ」
「バッ、ゴルシ!お前……!」
「お前がエクストリームじゃんけんで負けたんだからしゃーねーだろ。潔く負けを認めろよ」
二人の間に何があったかは知らないが、とりあえずトレーナーさんが鼻血を出しているのは、おそらくエクストリームじゃんけんが原因だろう。しかし超人トレーナーさんの顔に傷をつけるとは、ゴルシちゃんも随分とハジけたらしいな。
「ちくしょう……あ、おい健康大臣。手当してくれないか、俺の鼻……普通に痛いんだ」
「え、あの、そのうち治るのでは……?」
デジたんが割とドライなことを言った。確かに、この人ならすぐに治るだろうから正論ではあるのだが。
「いやあ、可愛い愛馬に手当してもらえれば治りが早く……」
「死ねよオラッ!」
「ヘブゥンッッ!?」
宙を舞うトレーナー。突き出されたままの僕の脚。自分でもよく分からないうちに行動していたが、状況を見るに、僕がトレーナーさんの顔面にスピンキックを食らわせたことは確からしい。
「目にも止まらぬ速さの蹴り……あたしでなきゃ見逃してたね」
「お、おぉ……オロール、お前すげぇな。……いや違ぇ、トレーナーがすげぇんだ。なんで今ので生きてんだよ」
部室の壁に叩きつけられてなお虫のようにピクピクしているトレーナーさん。……申し訳ない。ついカッとなってしまった。だが、デジたんにそういう目を向けていいのは僕だけなのだ。そこは譲れない。
「クッソ、痛ぇ……!蹴り、今日、2回、目……」
「ごめんなさいトレーナーさん。ついつい脊髄反射で蹴っちゃいました」
「お、おう……活きがいい、ようで、何より……」
「手当は必要なさそうですね」
「あ、あぁ……あの、さっきの、あれ。軽い冗談、の、つもりだったから、……安心、しろ」
「あ、僕昼麺類がいいです」
「……お、う、……焼きそば、買ってやる」
やったあ。
「そういや、今日は……レース場、に、行こうと思ってるんだ。おハナさんとこの娘が出るから、少し様子を見たくてな。お前らも来るか?」
「今日開催されるバレンタインステークスに出場するチームリギルのウマ娘……。サイレンススズカさんですね!前年の秋天ではエアグルーヴさんと競り合い、続く香港では敗れてしまったものの、やはりいちウマ娘ちゃんヲタとしてその走りにロマンを感じざるを得ないというかッ!」
「解説ありがとうなデジタル。そう、そのサイレンススズカを見に行こうと思ってな。……おハナさんのリギルは、今んとこトレセン内で最強の名を欲しいままにしている。スズカもリギルの名に見合う実力は持ってるんだが、どうも少し心配でな……」
「ああ分かります分かります!自分語らせてもらってもいいですかね!?ハイ、リギルは多くのG1ウマ娘を輩出していますが、傾向として、定石をとことん突き詰めた『勝つレース』が得意なウマ娘ちゃんが多いみたいで!でも、スズカさんのレースを見ると、いわば一般的なレース論とはかけ離れた『大逃げ』……他のウマ娘ちゃんを置き去りにして自分だけのレースをする、ある意味で理想的な戦法に近い走りが向いているんじゃないかと!あたし思ってまして!アッすいませんつい興奮しちゃって……!ヲタクの性と言いますか……!」
その気持ち、分かるよ。
ヲタクの習性だ。僕もデジたんのことならば一生語っていられる自信がある。
「……トレーナー、アタシ先車行ってら」
ゴルシちゃんはクールに去っていった。
しかし、そうか。
サイレンススズカか。
「……トレーナーさん。今のデジたんの話、かなりイイトコ突いてましたよね?」
「そうだな。ホント、ウマ娘のことをよく見てるらしい。トレーナーに向いてるぞ」
「あたしがトレーナーですか……」
「デジたんがトレーナーになるなら僕はサブトレーナーになる。何が何でも君から離れるものか」
「おいおい、そう簡単に言うけどなぁ。トレーナーになるってのは狭き門なんだぞ?某大学に入学するよりも中央トレーナーに採用される方が難しいってレベルだ。……フッ、つまり、俺もけっこうスゴいワケ!」
「トレーナーさんでもトレーナーになれるんなら楽勝そうですね」
「ヒドイッ!?俺だってめちゃくちゃ頑張ったんだぞ!?」
彼が血の滲むような努力をしてきたことは分かっているつもりだ。しかし、仮にデジたんがトレーナーになるのだとしよう。実のところ、デジたんの成績は良い方だ。中学生にして哲学者の言葉を多々引用する教養の深さ。日々の奇行も成績優秀者であるため見逃されているフシがあるほどだ。何よりデジたんは完璧な存在なのでトレーナーになれないわけがない。
ちなみに、僕だって学業は順調である。中学生をやるのは2回目だ。だから未だスカーレットに学年一位の座を譲ったことはない。僕もけっこうスゴいのだ。これはただの自慢だ。
「とりあえず、ゴルシも行っちまったし……俺たちも行くか」
トレーナーさんの言葉を聞いて、僕は立ち上がる。
サイレンススズカを一目見るために。
◆
「あ、そうだゴルシちゃん。チョコあげる」
「お、マジ?センキュ……ってハート型かよ」
「そりゃ、僕の本命はデジたんさ。けど、だからといってゴルシちゃんを愛しちゃあダメなのかい?」
「もう何でもいいわ。チョコ美味そうだし」
大勢の観客でひしめく東京レース場。
パドックは興奮の坩堝と化していた。
「あ、トレーナーさんにも義理チョコありますよ。義理ですよ義理。義理義理」
「義理を強調するなよ……って、これ、ハート型……をくり抜いたあとの周りの部分か?」
「虚ろな愛ってことか……深ぇな。なかなかやるじゃねーのオロール」
「ありがとうゴルシちゃん。頑張って作った甲斐があった」
資源の有効活用ってやつだ。エコだなぁ僕。
「まあもらえるだけ喜ぶべきか……。そういやウオッカも今朝手作りのチョコをくれたが、スカーレットは麦チョコ一粒。マックイーンはいつのまにかバレンタイン限定スイーツ食べ歩きの旅に行っちまったし、ゴルシは……お前ホンット遠慮がねぇのな。まさかあんな笑顔で蹴られるとは思ってもみなかった」
「あの、トレーナーさん。あたしのチョコいります?ウマ娘ちゃんに献上する用と同じ、ただの市販品ですけど……」
「担当ウマ娘から貰えるものはなんだってありがたい。ドロップキック以外ならの話だが」
ドロップキックて。トレーナーさんが生存していることがつくづく不思議でならない。今日も既に二発ウマ娘の蹴りを食らったというのに、彼は平然としている。
「……っと、そろそろ来るか」
トレーナーさんの言葉に、不思議と身が引き締まる気がした。
『注目の1番人気!12番、サイレンススズカ!』
サイレンススズカ。
ウマ娘アニメ一期における、もう一人の主人公。
先頭を譲らない、異次元の逃亡者。
『良い仕上がりですね。期待以上の走りを見せてくれそうです』
「スズカのヤツ、もう本格化したみたいだな。今までとは体付きが違う。ありゃあ、とんでもないウマ娘だ……」
「そうみたいですね。胸部装甲は残念ながら強化されなかったようですが」
おっと、つい口走ってしまった。
……待て、今サイレンススズカがこちらを睨んだような気がする。ウソでしょ?パドックからは10m以上離れている上、観客の歓声で隣にいる人の声すら満足に聞こえないほどなのに。
「……さて、ちょっと行ってくるわ」
「お?どこ行くんだよトレーナー?」
「地下バ道。スズカとは知らない仲じゃないし、ひとつ声でもかけてやろうかと思ってな。んじゃ、後でな〜」
ひらひらと手を振りながら、トレーナーさんは人混みをかき分けて行ってしまった。
パドックでは、当のウマ娘が舞台裏へと戻っていくところだった。
「秋天より200m短い今回のレース……本格化を迎え体力が成長したサイレンススズカさんが自分のレースを貫き通せるのならば勝機は十分……いや、圧倒的なレースになる可能性もある」
「どうしたの急に」
とはいえ、このレースの結果が僕の知る通りのものならば、サイレンススズカは間違いなく勝利する。
なんと言っても、アニメ一期の主人公であるスペシャルウィークが、サイレンススズカに憧れるきっかけとなったレースなのだから。
……サイレンススズカ。
この名を聞いたときから、僕の心はずっとざわついていた。
骨折、というものは、競争ウマ娘にとって致命的なケガだ。治療に時間がかかる上、後遺症などが発生する場合もあるのだ。骨折によって引退を余儀なくされたウマ娘は大勢いる。
そもそも、レース中のウマ娘の速度は70km近くまで達する。仮に何らかの要因で転倒した場合、それだけで命に関わる。
サイレンススズカの骨折は、確かに悲劇だ。しかし、一年間のリハビリを経て、
悲劇。そして奇跡。
それが人々の心を揺さぶった。
……僕はどうすべきだろうか。
なーんて。何も悩む必要はない。
僕はデジたんの笑顔が好きだ。ずっと笑顔でいてほしい。だから、ウマ娘ちゃんたちが悲劇に見舞われぬよう、いつまでも夢を追い続けられるよう、デジたんと共にサポートするだけだ。
僕は欲深い。自分の欲望には忠実なんだ。
「……あ゛」
「どうしたのオロールちゃん」
「あぁ、いや、何でもないよ……」
ふと思ったのだが、この後トレーナーさんはスペシャルウィークと初遭遇するわけだ。そして、ふくらはぎをお触りして、思いっきり顔面を蹴り飛ばされる。
率直に言って、大丈夫だろうか?
さすがのトレーナーさんもウマ娘の蹴りを1日3発食らうのはキツいのではないだろうか。
……いや、大丈夫だろう。まったくもって。
沖野Tのまぶたの圧力でダイヤモンド作れるぜって言われたらギリ信じます。