失恋直後のトレーナーに追い込みをかけるウマ娘概念 作:金木桂
午後11時。夜更けという時間でもないが、晩飯を食べるには遅い時間。
俺はトレセン学園にあるターフの上で寝転んで、星を眺めていた。と言っても東京都にあるトレセン学園からでは大して星も見えるはずもなく、星の代わりに飛行機のナビゲーションランプが夜空を切り裂いていた。
俺の日課はこうして天体観測をすることである。
とでも言えれば多少は格好がつきそうなものだけど、生憎と以上の一文は真っ赤な嘘だ。ただ嫌なことがあって、家にいても一向に落ち着かなかったから、逃げるように俺はこの芝の上まで来てゴロンと身体を落とした。そしてあわよくば星でも見てセンチメンタルな感情になれば少しは気分転換になるかと思ったのだが、その考えは甘かったみたいだ。
脳内で反芻するのは夕方の出来事。俺は好きな女の子とデートスポットとして有名な公園にいて、夕焼けを共にしていた。
勝算があると俺は思っていた。10年くらいの付き合いだったし、俺は勿論、向こうだってそれなりに意識しているとその時の俺は確信していた。後から思えば恋は盲目というか、ドポジティブというか、あまりにも愚かな思考回路だったんだけども。
そうして俺は振られた。告白の返事は「そういう相手とは見てなかった」。俺の告白は刀でバッサリと斬られた。彼女の心に影を落とすことなく、1ミリの考慮すらされることはなく、ただ申し訳なさそうに目を伏せる彼女に俺は空笑いしながらフォローするしかできなかった。
彼女と別れるとトレセン学園内にあるトレーナー寮に戻って、テレビを点ける。耳に入ってくる時事ニュースは全て滑稽な真実のように思えたし、作ったコーヒーはインスタントの粉を入れすぎたのか雑味のある不味い苦さだった。
何をしようとしても手がつかない。
中央のトレーナー資格試験の合否発表の時もそうだったけど、でもここまでじゃなかった。心ここに在らず、第三者が見ればそう言われてしまうかもしれない。事実、俺の思考はずっとあの夕焼けに焦がれながら宙に浮いている。
しかし明日には俺も仕事がある。何故なら俺はトレセン学園のトレーナーだ。ウマ娘の調子やトレーニングを管理するのは基本的に毎日のことで、年末年始やお盆を除けば休みは無い。今日はそんな貴重な一日だったのだが、心に深い傷を作る一日になってしまった。
それでもこの気分転換も職務の一環としてやらねばならない。気分転換出来たらいいな、ではなく、しなくてはならない。プライベートと仕事を混同するのは二流トレーナーのやることだ。一流は自分の情動を抑え込んで全力を以てより良い方向に進み、結果を出す。そのために、この雑音となる想いは自分からも見えないようにどこか遠くへ、叶うならばこのターフからも見えない星空の向こう側にでも隔離するべきだ。
強い自分はそう俺を律しようと駆り立てるが、情けない俺がその行為を妨げる。
彼女のことは諦めた。
そうすっぱりと言えたらどれだけ楽なのだろうか。マッチングアプリを使って軽い気持ちで会って、容姿が良いからと告白して断られたのならここまでのダメージはきっと無かった。でも自分の気持ちを知って6年だ。6年間ずっと片想いしてきた。その気持ちは俺が自分で思っているよりずっと重かった。
結局、人は理論や効率で生きることは出来ない。
夜空で唯一見えていた北極星に鼠色の雲が掛かった。
─── ─── ───
翌朝、起床直後にシャワーを浴びて歯を磨くと昨日より気分は多少マシなように思えた。清々しい朝の足音に体が騙されているのかもしれない。
ただ、その魔力をもってしても食欲だけは回復しなかった。いつもならば食パンを2枚は食べなければ主張を止めない胃袋が、今日に限っては全く大人しい。小鉢にヨーグルトだけ盛って、それとコーヒーをセットで食道に流し込むことにした。
パラパラと新聞を捲り終えると時間が来て設定されたアラームが鳴る。出勤時間だ。
手慣れた手つきでマフラーを首に巻いて、鏡の前に立つ。寝不足そうに目を細める俺を見て、あ、と声が漏れた。
このマフラーは好きだった彼女が編んでくれた、ハンドメイドの一品だ。世界で一つしかなくて、付けるたびに彼女の温もりを感じさせるものだった。
俺が好きな彼女は変わっていた。四季という概念を無視して年中マフラーを付けていて、更にその彼女が付けるマフラーは全て自作。マフラーが大好きで、愛していたのだろう。
そんな彼女からプレゼントとしてこのマフラーをもらったのはいつの事だっただろうか。正直覚えてない。というのも彼女からもらったマフラーは合計で八本になるからだ。
八本のマフラーは全て誕生日プレゼントだったり、何かのお祝いで貰ったものだ。どれも柄が違って、糸質も違う。今つけているのはその中でも夏用にと貰ったもので、酷暑を意識してか冷涼感のある水色をベースに淡い色立ちをしている。
少しの間、俺は悩む。
鏡の中の俺はマフラーを無表情で親指と人差し指で擦るように触ると、外さずにそのまま外へと出ていった。
トレセン学園の業務は基本、始業時刻が統一されていない。それはトレーナーごとに業務量やタスク内容が大きく異なっていることが要因だった。
例えば俺は現在、二人のウマ娘のトレーナーとして仕事をしている。比較的日々の業務量も少ないから出勤時刻を早める必要もない。しかし、チームトレーナーとしてウマ娘と接するトレーナーは俺以上に仕事量が多い。当然一人ではなくサブトレーナーという、トレーナー見習いのような人を使って業務の効率化を図るのだが、その効率化にも限界がある。物を相手にする仕事ならば限度一杯までやればいいかもしれないが、相手は思春期の女の子だ。繊細に扱って扱いすぎるということはない。だからこそ業務量は担当するウマ娘が増えるにつれて肥大化する傾向にある。
そんな中で俺みたいな比較的新しいトレーナーは多忙を極めることが少ないと言っても良い。チームを作るのはベテランか取り分け優秀なトレーナーな訳で、俺はそのどちらにも属していない。
朝8時半にトレーナールームに向かおうとすると、丁度通学中のウマ娘たちと道を共にすることになる。まるで国を変えようとする革命家の同志みたいな表現をしてしまったけど、ただ単に一緒に肩を並べて歩いているだけである。
ウマ娘の特性上、この光景は朝のみならずトレセン学園内の日常だ。トレセン学園にいる男なんて俺のようなトレーナーを省けば用務員や一般科目の教員だったり事務員くらいで、比率で言うと1:25くらいになる。最初の頃は女子校にいるような感覚で気まずい思いをしたが、流石に今は慣れたもので。堂々と日向を歩いてトレセン学園の敷地内を闊歩できる。これをトレーナーとしての進歩に数えるのはアレだけど、トレセン学園で仕事をする上では非常に重要なポイントだったりする。
寮から本校舎まで、通学中のウマ娘に混じって歩いていると見慣れた影を見つける。彼女も俺を見つけたようで、眠たげな瞳が俺に向けられる。
「トレーナーさんじゃないですか。いやはや、こんなところで出会うなんてこれまた数奇な巡り合わせですねー」
「セイウンスカイさん。僕はこれまでも通学中の君と何度も遭遇していますよ?」
「やだな〜。ジョークですよセイちゃんジョーク」
そう言ってセイウンスカイは手をひらひらとさせた。
飄々とした態度を取り続ける空色の髪をしたウマ娘。セイウンスカイは俺の担当ウマ娘の一人である。
まだ俺がトレセン学園に勤務し始めて最初の頃、俺は半ば無理矢理セイウンスカイによって逆スカウトされた。その当時、俺はトレセン学園という特殊な環境下で女性慣れしておらず、そこをセイウンスカイに付け込まれる形で或る噂を流された。俺がセイウンスカイをスカウトするという噂を。
その噂自体に効力は無い。しかし当時の俺は強く反駁することも出来ず、その噂を反故にすれば必ずどちらかが傷付くことにも気づいていた。俺がセイウンスカイの嘘を明るみに出してスカウトしなかったらセイウンスカイの立場が悪くなり、かと言って何も言わずにスカウトをしなかったら新人である俺の立場が無い。そうしてなし崩し的に俺はセイウンスカイと契約を結んだのだけど、今となってはそこに一点の誤りも後悔も無かったと断言できる。
朝にセイウンスカイと出くわすのは珍しいことではないとは言っても折角の縁だ。俺は歩く速度を落とすとマイペースに歩くセイウンスカイの横に並ぶ。セイウンスカイも一歩道脇の方へずれることで俺を受け入れた。
「トレーナーさんはこれから仕事ですかね。毎日毎日セイちゃんのためにお疲れ様ですー」
「セイウンスカイさんだけじゃないですけどね。寧ろセイウンスカイさんは手が全然掛からないので、トレーナーとしてはとても助かっています」
「相変わらずトレーナーさんは正直ですね〜。でも他の女の子のために放し飼いされるウマ娘の気持ちも考えてくださいね?」
そういう言い方をされると俺が二股しているクズみたいに聞こえるから不思議だ。二股どころか最愛の人すらも……いや、今はそういうことを考える時間じゃない。
気を取り直して、明るい表情を心掛けて俺は口を開く。
「でももし僕があれこれと指示したら嫌がって他のトレーナーのところに行くんじゃないですか?」
「どーでしょう。あれえ、トレーナーさん。その言い方ですとまるで行かれたら嫌だと言う風に私には聞こえましたけど」
セイウンスカイのいつもの冗談だ。
いつもならば、セイウンスカイさんにはまだ二冠しか取らせていませんからまだまだ僕のところで頑張ってもらわなければ困ります、とか言って適当に調子を合わせていたはずだ。それはセイウンスカイも予想していて、望んでいる返しだろう。
だけど、ボタンを掛け違えたままの俺の情緒は咄嗟に別の言葉を吐き出した。
「そうだね……困るな」
「へっ!? と、トレーナーさん?」
「……いえ。すみませんセイウンスカイさん。困惑させてしまって」
「べ、別に私は良いですけど……トレーナーさんがそんなことを言うなんて。何かあったんですか?」
やはり調子が戻らない。絶不調だ。担当のウマ娘にまでこんなことを言ってしまうなんて、指導者としてどうかしている。
セイウンスカイの質問には答えられない。プライベートなことで踏み入られたくないと言うのもあるけど、何より俺はこの件に関して一切の心の整理が付いていなかった。
「すみません……用事を思い出したので先に行きますね」
返事は聞かずに俺は歩く速度を早めた。
最後に一瞥した時、セイウンスカイは奇妙な行動を取る俺を観察するように目を据わらせていた。
書かなきゃ死ぬ発作症状が出たので書いた。