あれから一月以上も経ったのに、あいつは来ない。
今日も、姿が見えない。
潮騒を背に、しょげたように首を傾げ門にもたれる小さな鼠を見つけて、
あの子供、昨日もいた。
出港する船に急ぐ人々でごったがえす道からはずれ、ひとりぽつんと立っている半獣の姿は、薄汚れた景色の中でも否応なく目立つ。
この国で半獣の姿を見かけることは少ない。
以前はどうか知らぬが、現王が異端を疎う政策をとっている限り、半獣は陽のあるところに顔を出せないからだ。
今も、旅姿の男が聞こえよがしに舌を打ち鳴らしてすれ違った。
半獣が、と言う言葉は、音として聞こえなくともわかる。
なにさ、と慧玻の眉が吊りあがった。
半獣のどこが悪い。
半獣で何が悪い。
夫婦二人で一生懸命願っておんなじ里木から授かった、おんなじ子供じゃないか。
姿がどうとかで、可愛い子供に後ろ指さされる親の気持ちがわかってたまるかい。
煮えたような胸のうちを声に出せたら、どんなにかいいだろう。
それを言えない自分が悔しい。
情けない、と思って、そうしたら余計に情けない気分になった。
苦い気持ちで大きく溜息をついたとき、わざとらしく半獣にぶつかった男がいた。
「おい、邪魔なんだよ」
「すんませ……」
半獣の子供は、自分にぶつかった男の荷物と胴間声にたたらを踏んでよろけながら謝っている。
それを見て、慧玻の胸のうちでなにかがはじけた。
背中に担いだ荷籠をゆすり上げ、大股で二人に近づく。
「ちょいと、ぶつかったのはあんたのほうだろ」
「なんだとこのババァ」
「この子はただ立ってただけじゃないのさ。でかい図体して、道脇に立ってる子供もよけられないのかい、ええ?」
腰に手をあてて居丈高にいいつのれば、周囲を歩く人々が何事かと振りかえる。
いかにこの国で半獣が差別されるといっても、表立ってはせいぜい眉をしかめる程度。なにもしていない、それも子供に怪我をさせたのでは、いかななんでも外聞が悪い。
なんだなんだとはやされて言い返しづらくなった男は、口をひんまげ足早に去って行った。
ふんとひとつ鼻を鳴らし、しおしおと髭を垂れている半獣に向き直る。
「乱暴なやつがいるもんだね。大丈夫かい、怪我は?」
「いえ、たいしたことはねえです。ありがとうございました」
鼠の子供がふかぶかと頭を下げるのを、慧玻はおしとどめた。
「なに、あたしが勝手に割りこんだようなもんだ。礼を言われるような筋のことじゃないさ」
それにと苦笑う。
「あたしにも、半獣の子供がいるからね」
いわば、これは代償。
良識や正義感から助けたわけではない。ただたんに、見ないふりをするのは自分がうしろめたかったからだ。
偽善ぶった罪悪感に、ごめんよと黒い瞳から目を背ける。
へえ、と可愛らしい声がした。
「おいら、自分以外の半獣の話を聞くのははじめてです」
くったくない口調に視線を戻すと、銀の髭がふっくりと持ちあがっていた。
「どんなお子さんなんですか?」
「猫の、半獣だけど」
慧玻はまじまじと子供を見た。
自分の鳩尾より少し高い背丈の鼠の子は、興味津々といった顔で鼻先を上げている。
半獣の表情はわかりづらいが、身内におなじ半獣をもっている慧玻には、子供が自分に対して微塵も負の感情を持っていないことがわかった。
「ぼうや、腹は立たないのかい?」
「へ?」
きょとんとした鼠は、一拍おいて合点がいったらしく、目を細めて笑った。
「助けてもらったのに腹を立てるなんてねえですよ。それに、おいらの母ちゃんも、たぶんおんなじことするだろうから」
なんてまあ。
嬉しいより先に溜息が出た。
きっと、この子の母親は心底から子供を愛しているのだろう。
天は親を見て子を授けるかどうか決めるという。
よい親にはよい子を授け、悪い親には子を授けない。
なら半獣を授かった親は、一人前の子供を授けてもらえない不出来な親なんだろうと陰口をたたく者がいる環境で、半獣を育てるのは辛い。
親もなるべく人の姿でいさせたり家から出さなかったりと、腫れ物に触るような扱いをする事が多い。だから、総じて子供も他の子供たちより引っ込み思案な性格になる。
慧玻のまわりは幸い優しい人が多いが、それでも制度の上では半獣はただの人間よりも扱いが下だ。
そんななかでこんなにもまっすぐに母親を信じることができるのは、それ以上に母親がこの子を大事にしているからに違いない。
そばにいなくても、こんな場面だったら母親はこうするだろうとさらりと言えるだけの信頼が、この子とその親にはあるのだろう。
気負っていたものが、膨らみすぎてはねた餅のように気抜けて、慧玻は力なく笑いながら子供の横に腰を下ろした。
「だ、大丈夫ですか?」
おろおろと尻尾を上げる子供に、いやいやと手を振る。
「なに、一日売り歩いてちょっと疲れているだけさ」
降ろした荷籠はからに近いが、まだ底に残っていた春生りの果実をふたつつまみ出した。
「売り残りで悪いけど、食べるかい」
薄紫の実をひとつ、ちいさな掌に載せてやる。
「ありがとうございます」
隣に座った鼠の子は嬉しそうに笑って礼を言い、さも美味そうに果実を口に運んだ。
「あんた、行儀がいいねえ。いくつだい」
果実にかじりつきながらなにげに聞くと、傍らの半獣は動きを止めて二、三度またたいた。
「……二十一、です」
は、と頓狂な声を上げた慧玻に、いかにもきまりわるそうに耳の後ろをかいている。
「おいら、このなりだとあんまり背が高くないから……」
二十をこえているなら立派な正丁だ。それをぼうや扱いした自分と、困ったように笑う半獣に可笑しくなってつい吹き出した。
「なんだ、うちの子と同じくらいかと思ったよ。そりゃあ、ぼうやだなんて言って悪かったね」
「いやまあ……。お子さん、おいくつなんですか」
「こんど十ニになるんだ。赤茶の縞の、あんたと同じような柔らかい毛並みさ」
家で自分の帰りを待っているだろう子供を思いだし、それから傍らの鼠に顔を戻した。
「そういや、あんた誰かを待っているのかい?昨日もここに立ってたろう」
まじまじと自分を見返した鼠は、なぜか逡巡したような風情で少しうつむいた。
「連れと、はぐれちまって。二人で雁を訪ねようとしてたんですが」
「おやまぁ」
それで納得がいった。
昨日も今日も、彼が門の前で途方に暮れたような顔をしていたのは、そのせいだったのだ。
ただ連れと言うからには親兄弟ではないのだろうが、旅の途中ではぐれるなど心配この上ない。
小柄な鼠はきゅうと喉を鳴らしてうなだれた。
「旅慣れてないやつだし、なにしろ銭はおいらが持ってたもんだから、いまごろどうしてるか心配で」
慰めるつもりですっかり髭を垂れた鼠の肩を叩こうとして、そこに赤黒いものがこびりついているのに気がついた。
「あんた、それ」
灰茶の毛先に残る染みに、眉を寄せる。
「怪我してるのかい?」
「いえ、もうほとんど治ってるんで」
怪我。それに、連れとはぐれたって?
ただの旅人には聞かない言葉に、ふと噂話を思い出した。
そういえば、少し前にいくつか向こうの里が妖魔に襲われて、大勢が死んだとか。
「どこだかしらないけど、妖魔が出たって。もしかして、そこではぐれたのかい?」
濡れたような黒い瞳がさまよって、それから小さく頷いた。
「たくさん死人がでたって聞いたけど」
「……ええ。おいらもそのときにちょっと。怪我はたいしたことなかったんですけど、倒れた拍子に気を失っちまったもんで、連れがどうしたかわからなくなっちまって」
しょぼくれた鼠の背中を盗み見れば、毛並みを透かした傷痕は言うほどかわいらしいものでもなさそうだ。たしかに治りかけではあるようだが、妖魔が出たという里から阿岸まではかなりある。
連れを探し探し、怪我をおしてここまで旅をしてきたのだろうか。
「お連れは幾つなんだい」
「おいらより四つ五つばかり年下なんです」
ではまだ十六やそこらの子供だ。それは心配もするだろう。
「無事ならいいけどねえ。妖魔が出るような御時世じゃ……」
そこまで言って口を噤んだ。
妖魔が徘徊する。その意味するものは一つだけ。
慧玻は我知らず首を振った。
王の失道は国の大事。
だが、そんなことはどうだっていい。
重要なのは、自分たち親子が食べていけるだけの稼ぎが得られるかどうかだ。国の荒廃がどうにもならなければ、船に乗って対岸なりへ行くだけ。
大事な子供を差別する、こんな国など捨てて。
「であんた、どうするんだね。まだ待ってみるのかい」
慧玻の問いに、鼠は迷いなく頷いた。
「ちっと遅れてるのかもしれないし、もう少し待ってみるつもりです」
「日雇い仕事で銭を稼いで、雁に渡っちまったかもしれないよ」
「そうかもしれねえけど、でももう少し」
どこか辛そうに笑う鼠に、そうかいと頷いて、荷籠を片手に立ち上がる。
長話が過ぎたようで、太陽は大きく西に傾いてきていた。
いそがないと、帰りつく前に日が暮れてしまう。
「じゃあまあ、無理するんじゃないよ。早くお連れが見つかるといいね」
「ありがとうございます」
丁寧に頭を下げる鼠に手をあげて、慧玻は家路に急いだ。
女を見送って、楽俊は小さな溜息をついた。
門に入る人はもうまばらで、茜にかげる道のむこうをすかしてみても人影はない。
今日も来なかった。
折りから鳴り出した閉門の太鼓に押されるように、とぼとぼと門をくぐる。
午寮で彼女とはぐれてから、もう一月半が経とうとしている。
普通に歩けばとうに阿岸についていい頃のはず。
それがまだ来たふうがないということは、途中で迷っているか、道中に難儀しているかだ。
もしや衛士に。それとも、妖魔に?
尋常でない旅をしているだろう少女を思って、唇を噛んだ。
あのとき気を失わなければと言ったところで、あとのまつり。
せめて金を持たせておけば良かったのに、返す返すも自分の浅慮が情けない。
午寮で気がついたあと、剣を持った誰かが森へ逃げたと噂に聞いた。
ならば無事ではあるのだろうと安堵したものの、まさか衛士に届け出るわけにもいかず、人に聞いて歩くにも危険が伴う。
もしも手配の海客だと知れたら、逆に彼女の命が危ない。
自分で探すにも方法がなかったから、とにかくも阿岸へと急いだ。
道順は教えてあるし、彼女も雁へ行く以外に選択肢はない。
ここで待っていればいずれ会えるだろうと思っていた。
なのに、待っても待っても彼女は現れない。
阿岸でも場末の小さな宿の隅で、壁にもたれた。
待つしかできないとわかっていても、あの切羽詰ったような翠の瞳を思い出すと、どうしようもなく心配になる。
いつも歯を食いしばるように気を張って、前を睨んでいるつもりでも、楽俊から見ればそれは泣き出す寸前の子供の顔だった。
慣れない異国で衛士に追われ妖魔に襲われ、傷だらけになっていた少女の目は、辛くて辛くてなにもかも投げ出したいと言っているようで。
だからこそ、気にかかる。
「無事についてくれよ、陽子……」
あきらめるな。
投げ出すな。
面倒見きれなかった自分が言うのもお笑いだけれど、生きることをあきらめたらだめだ。
雁へ行けさえすれば、追われることもなくなるはず。
だから、あともうちょっと。
どこを彷徨っているか知れない少女に、胸のうちから呼びかける。
頼りにならない同行で申し訳ないけれど、おいらもあきらめないから。
だから、お前自身のために頑張ってくれ。
闇に包まれた港には、重い潮騒だけが響いていた。
初稿・2005.01.11
う~……なんかちょっと消化不良なココロモチですが、うーん。
そしてなんというか、無駄に長い……。
あー、楽俊て結構難しいなー・