札幌記念の後、栗東トレーニング・センターでは、慌ただしく調教師や厩務員達が動きを見せていた。あるものは移動の手配や飛行機の確保、はては受け入れ先との打ち合わせなど、時間が迫っているのか、業務は多岐にわたる。
その中にあって、休憩室では、男2人――片方は若く、片方は年が行った――が煙草を燻らせながら今後の事を打ち合わせていた。
「さて、札幌記念は想定通りだったな」
「ええ。これで心置きなくパリへ飛べます。ああ、ただ、問題が一つありまして」
「うん?ここに来てか?もしかして帯同馬か?」
「あ、いえ、それについてはレオダーバン陣営と話が付きまして。同日に飛んで、向こうで調教も一緒に受けさせる予定です」
「そりゃよかったな。レオダーバンなら気も合うし良いだろう。となると、もしかして、空輸の件か?」
「いえいえ、シンボリルドルフの失敗を元に、空輸も改良を加えています。あいつも大人しいのでそんなに心配はしていません」
「…じゃあ、それ以上の問題となると、何が問題なんだ?」
煙草を灰皿に置き、腕を組みながら若い人間が口を開く。
「調べの結果なんですが、あちらにピーマンが無いらしいんですよ。あってもごく少量だと」
その言葉を聞いた壮年の人間も同じように灰皿に煙草を置いて、天を仰いだ。
「…それが一番問題じゃないか。あいつ、ピーマン無かったら絶対走らんぞ」
「ええ、私もそう思います。一応、緑色のピーマンに近いパプリカもあるらしいのですが、現物が日本では手に入りませんで…」
「試すことが難しそうか。現地で食わせてどうか、だな」
「ええ。とはいえ本当に頭が痛い問題です。しかも最近ではレオダーバンもピーマンを食うとのことですからね。軽く見積もりましたが、2頭合わせると一日あたりで5キロ~10キロは欲しいです」
「遠征が8月からだろ?レオダーバンは凱旋門がある10月までだとしても、あいつは凱旋門の後はアメリカで11月まで遠征するんだから…少なく見ても150キロ、多く見れば300キロは安定的に欲しいわけか」
2人は大きくため息を吐いた。
「パプリカなら、どんだけでも準備できると、現地の牧場から連絡は頂いているんですけどね」
「…忘れたのか?あいつ、パプリカを一個食ったら突き返したんだぞ?」
「ですよねぇ…。まぁ、最終手段としては日本からの空輸ですね。幸いオーナーもこいつのピーマン好きを知ってはいるので、いい感触で交渉は出来そうですが」
「レオダーバン陣営は?」
「あちらも頭を悩ませていますよ。どうやらレオダーバンもパプリカはダメなようで。『そちらのピーマンを遠征先でも頂けないか』と打診を受けました。『善処しますがこちらも頭を悩ませてます』と回答しておきましたよ」
2人は頭を悩ますのみである。
「…まぁ、オーナーに交渉しかあるまい。あとは空輸が出来る量のピーマンであいつらが満足出来ればいいんだが」
「ですよねぇ、ま、仕方がありませんね。なんとかやるしかありません」
煙草を咥え直し、紫煙を燻らし始めた2人。ふと、壮年の人間が煙草を置き、若者に語り始めた。
「しかし、あいつが本当に凱旋門に行けるとはなぁ」
「はは、自分も驚きです」
「実はな、俺、あいつの親と凱旋門に行く、かもしれなかったんだ。厩務員の一人としてな。ま、結局、その前に怪我や、身内の喧嘩別れで挑戦すらできなかったがな」
「え!?そうなんですか!?聞いたことないですよそんなこと」
「そりゃあ今初めて話したからな。いや、しかし、そうか。子と凱旋門に向かえるとは、感慨深いよ」
そう言って壮年の人間は煙草を再び口に咥える。
「ああ、話は変わりますが、ナイスネイチャ陣営から連絡がありましたよ」
「ほう?」
「なかなか贅沢な要望をしてきましてね」
「と、いうと?」
「『ジャパンカップでナイスネイチャを戴冠させるから、その前祝としてトウカイテイオーを先頭で凱旋門に潜らせて来い』だそうで」
「そりゃあ贅沢な要望だ。なんて答えたんだ?」
「『朝飯前です。有馬で冠を懸けて戦いましょう』と、答えましたよ」
■
もしゃもっしゃとピーマンの肉詰め定食を食べるトウカイテイオー。そこに近づく影があった。
「やぁ、テイオー。札幌記念、おめでとう。いい走りだった」
シンボリルドルフその人である。テイオーは声に気づいて振り向くと、満面の笑みを浮かべていた。
「あ、ルドルフさん!?見ててくれたんですか!」
「もちろんだとも。パリへ飛ぶ前の最終戦、注目しない方がおかしいと言うものさ。隣に座っても?」
「もちろんです!どうぞ!」
テイオーは椅子を引いて、ルドルフを招き入れる。促されて座ったルドルフの手には、コーヒーが握られていた。
「札幌記念は強いレースだったよ。本当に、安心してパリに送り出せる、というものさ」
「あはは、ありがとうございます!そういえば、ルドルフさんも凱旋門を目指していたんですよね?ご迷惑じゃなければ、アドバイス、頂けたらなぁと思ったんですが」
「ふむ…まぁ、良いだろう。…ただ、アドバイスが出来るほど経験は多くない。私の体験、でいいかな?」
「はい!」
ルドルフはコーヒーをテーブルに置くと、上半身をテイオーの方へと向けた。
「さて、テイオー。判っているとは思うが、パリの旅路は辛い。私も凱旋門を目指したことがあるが、結局は最初の一歩で躓いてしまった」
「最初の一歩?」
「ああ。端的に言えば、体調を整えることが出来なかったんだ」
「え!?」
「今思い出しても情けないことさ。トレーナーと意見が対立して、更に現地のスタッフとも折り合いが合わず、体調管理すらままならなかったんだ」
シンボリルドルフはテイオーの肩越しに、昔の光景を思い出しているようであった。
「…そしてそんな歯車がかみ合わずに出場したサンルイレイステークス。そこで私は致命的な怪我を負ってしまってね」
「ええ…!?どうしたんですか!?」
「コースが少々特殊でね。基本的には芝のコースだったんだが、途中でダートコースを横切るコースだったんだ。途中まで順調だったんだが、海外のウマ娘がスピードを上げてね、それに合わせてスピードを上げていたら、ダートを横切る瞬間に足を滑らせてしまってね。…それが原因で繋靭帯炎を発症してしまって、トゥインクルの舞台から降りなくてはいけなくなったんだ」
「繋靭帯炎!?…そうだったんですか」
「ああ、今でこそドリームトロフィーリーグを走れるようになっているが、発症当時は歩くのも辛くてね。と、それはいいか」
シンボリルドルフはそう言いながらコーヒーを口に含んだ。対してトウカイテイオーの手は、完全に止まってしまっている。
「私の体験から言いたいことは、3つ。コースの質が日本とは違うから十分に注意してほしい事、周囲との関係性をしっかりと築く事、あとは、海外ウマ娘達のばねの強さを甘く見ない事」
「コースの質と関係性、あと、ばねの強さ、ですか?」
テイオーが疑問を口にすると、ルドルフは小さく頷いた。
「ああ。まず、コースについてだが、ここについてはトレーナーとも話し合っているとは思う。だからこそ、ダートも出て、札幌も走ったのだろう?」
「はい!あと、現地についたら、本番と同じコースのフォア賞に出てみるつもりです」
「うん、それがいい。しっかりと足を慣らすと良い」
そう言うと、ルドルフは話を区切るようにコーヒーを更に一口口に含み、言葉を続けた。
「2つ目だが、周囲との関係性はそのままさ。私は一人で飛び、トレーナーと不仲になり、更に現地スタッフとも喧嘩をしてしまった結果、レースで怪我をしている。幸いにしてテイオーはリオナタールという一緒に旅立つ友人、トレーナーという相棒、トレセン学園というスポンサーを得て、円満に旅立とうとしている。だから、心配はしていないよ」
「あはは、ありがとうございます!」
テイオーは笑顔でそう答えていた。そして、思い出したようにピーマンの肉詰めを一口頬張る。ルドルフはそれを見て、少しだけ笑顔を見せた。
「3つ目、海外ウマ娘のばねだが、私がレースで感じた彼女らの加速は、我々日本のウマ娘のそれじゃない。我々日本のウマ娘は基本的にじわりじわりと伸びる。しかし、彼女達海外のウマ娘達は、瞬間的にトップスピードになってしまうんだ。海外のウマ娘もそれほど、と高をくくり、甘く見ていた私は、結局、その瞬発力に付いていくのが精いっぱいだったのさ」
「…海外のウマ娘って、強いんですね」
「ああ。だが、この点も実はあまり心配ないと思っているんだ」
「そう、でしょうか?」
「ああ。テイオー。何度か君は本気のスパートを見せたことがあるだろう?」
「…ええと、菊花賞と有馬記念、でしょうか?」
「そうだ。あの時の君は、その、私が体験した海外のウマ娘達と姿がダブって見えたんだ。――そう。君の足は、既にその武器を持っている」
そう言うと共に、ルドルフの纏う空気が引き締まった。
「皇帝シンボリルドルフとして、断言しよう。君が今の実力を十全に発揮できれば、凱旋門も胸を張って潜る事が出来る、と」
思わず背筋が伸びたテイオーは、しかし、しっかりとした声で言葉を返していた。
「…ありがとうございます。がんばります!」
「ああ、ぜひ、頑張ってくれ。ああ、あとは個人的に一つ」
ルドルフはため息を一つ吐き、テイオーの肩に手を乗せ、瞳を見つめた。
「出来ればでいい。あの時、夢半ばに敗れた、小娘の夢の、その一片でも一緒に持って行ってほしい。そして、――勝ってくれ」
その言葉を聞いたテイオーは、一瞬硬直した。が、すぐに瞳を見つめ返し、肩に乗せられているルドルフの手の上に、自分の手をそっと添えた。
「あはは、ルドルフさん。――誰に物を言ってるの?ボク、無敵のテイオー様だよ?一片なんてそんな小さなことは言わないよ。全部、全部持って行く。その小さな女の子の夢も、それ以外のウマ娘の夢も、みんなの夢も。全部持って行って、全部をゴールにぶつけてくるよ」
「…ああ、ああ。頼んだよ。テイオー」
■
「あれ?マックイーン。もう学園に来て良かったのー?」
「パーマーじゃありませんの。宝塚記念、おめでとうございます…って、なぜ微妙なお顔を?」
「うーん…宝塚記念、勝ったのは嬉しいんだけど、マックイーンもテイオーもネイチャもリオナタールもダイサンゲンも、今年の主役が誰一人としていないんだもん。あーあ、特にテイオーだよ。天皇賞のリベンジ、決めたかったのになぁ」
「それは、贅沢な悩みですわね」
「うん。でも一番高い所を目標に目指さないとって思ってるから。…でも、次、テイオーと走れるのがいつになるかわっかんないんだよねぇ」
「確かにそうですわね。凱旋門のあとはBCクラシックでしたか。早くても年末の有マ記念でしょう」
「有マ記念かぁ…。マックイーンはどうするの?」
「怪我の様子次第ですわね。ジャパンカップは回避する予定ですが、有マ記念は出たいとは思っています」
「お。じゃあ、私が出ればメジロ対決だね」
「ええ。そうですね。ですが、今年の有マ記念はきっと濃いメンバーになりますわね。それでも出場なさいますか?」
「もっちろん。今回みたいな宝塚記念じゃない。名実ともに今年一番を決めるグランプリで、大逃げを決めたいじゃん?」
「それはそれは。――私も同じ想いです。テイオーやリオナタール、ダイサンゲンさん、そしてパーマー。皆をねじ伏せての一着。非常に楽しみです」
「わー怖い。じゃ、マックイーンが怪我をしている間に練習しなきゃ!追いつかせないように!」
「あ、パーマー!? …ふふ。今年の年末が今から楽しみです。兎も角脚を治しませんと」