あと、イカとピーマンを適当に切り、ニンニクスライスを入れて、塩、しょうゆなどで味付けをして炒めた、イカピーマンはご飯のお供に最適です。
日本ダービー、と思われるレースのゴールの後。彼は天高く腕を突き上げて、指を二本立てていた。前回が一位だぞー!を意味する一本指だったので、そう考えれば今回勝利のVサイン!を意味するものである。そのVサインと同時に、観客席から大音量の歓声が響き渡ったので、私自身もなかなかに気分が高揚したものだ。なお、彼は満面の笑みを浮かべていて、実に微笑ましい事であった。
その後はやはりGⅠレースらしく、おめかしをされて、オーナーや彼が私と一緒に写る写真撮影が行われてから、レース場の厩舎で一泊。その後、車に揺られて牧場へと戻ってきたわけである。
いやはや、これで私もGⅠレース2勝である。将来の安泰は約束されたようなものだ。
だがしかし、こうなってくると怖いのは練習中やレースでの怪我である。特に脚の怪我は私の様な馬にとっては間違いなく致命傷であるから、本当に気を抜くことは出来ない。ま、今までもストレッチやウォーミングアップを十分行いながら、関節や負荷に気を付けてやってきているので、それを今後も継続すればまず安心だとは思うのだが。
ま、あれやこれやと考える前に、まずは目の前に用意されたピーマンを食べようと思う。今回の量はバケツ3杯で、実に満足できる量だ。さて、グレード1を勝った私は、何日間このバケツ増量ピーマンの日々を楽しむことが出来るのであろうか。前回が3日だったので、今回はせめて1週間は続いて欲しいというものである。自分で言うのもなんであるが、6連勝、無敗のGⅠ馬なのだ。レース直後の今ぐらいは、調子に乗っても良いと我ながら思う。
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鉢植えの、頂いたときには小さな苗木だったピーマンは、気づけばもう丸々と大きく育った実をつけるほどに育ち切っていた。更に、その実のまた根本あたりに花を咲かせているあたり、まだまだピーマンの季節はこれから、といった具合であろう。
ある日、目覚めてみると、厩舎の外、少し離れていた場所に置いてあったピーマンの鉢植えが、私の口が届く場所に置かれていた。ふむ、これは、つまり、鉢植えのピーマン、食って良いぞの合図であろうか。それならば失敬とばかりに、葉や茎を傷つけないように、そっと生っているピーマンに齧りついた。
おお、やはり、ピーマンはもぐ前食いが実に旨い。あふれ出る果汁、口の中に広がる青臭さと苦さ。咀嚼すれば広がるピーマンの旨さ。もぎ立てよりも濃く感じることが出来る。これはたまらんとばかりに、もう1つ、もう1つとピーマンをもぐ前食いしていると、何やらいつも私を世話してくれている人間が近づいてきた。鉢植えピーマンを食いすぎたのだろうか?などと思っていると、その手に一つの缶を握っていることに気づいた。
あの麒麟のロゴは間違いなく、奴である。なんだ、ここでヤルのか?
思わず首を上げてそちらを見てしまったわけだが、すると、人間は缶を開けて、タッパーに移し替え、なんとこちらの口元に差し出してくるではないか。…呑めと?
いや、ビールを飲めることは嬉しいわけですが、私、今馬なわけで、果たして馬は酒を飲んでよいのか、という素朴な疑問である。いやしかし、目の前には、炭酸のちょっと良い音を立てているビール、うーむ…ま、勿体無いので、一口、口を付けてみようじゃないか。何事もチャレンジである。それに、ビールの原材料は麦とホップ。ジャンル的には麦もホップも野菜なのできっと、馬の私が呑んでも問題はないはずである。
おそるおそる、黄金色の液体をなめとり、ゴクリと嚥下した。
…これ、アルコール入ってる?酒臭さを感じない代わりに、炭酸の刺激と、ホップと麦の香りをより感じ取れて、これは何かビールと言うよりも「旨い液体」である。なによりも、この喉越し。少し気温が上がってきたこの時期には実に合うものだ。うん、なんだか呑んでも大丈夫そうな予感がする。
であればと。ピーマンの木から緑色のピーマンをもぐ前食いを行い、口の中をピーマンにする。そしてすかさずビールを口に含み、ゴクリとやる。
おお…ピーマンの旨味苦味がビールの爽やかさと相まってこれは進んでしまう。
ピーマン、ビール、ピーマン、ビール、牧草、ビールなどとやっていたら、あっという間にタッパーの中はすっからかんである。それを見た人間は、笑いながらこちらの顔を軽く叩いていた。
―旨かったか?―
―もちろんですとも―
そんなニュアンスで、私も鼻息を返していた。いや、久しぶりのビール、堪能させていただきました。感謝しかない。ただ、できれば、叶うならば、ピーマンの肉詰めとか、揚げびたしとか、ごま油であえたものとか、ニンニクで炒めたピーマンとイカとかで、一杯やりたいものである。今となっては、叶わぬ夢だ。
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ビールとピーマンを食らった翌日。特に二日酔いという事もなく、私はのんびりと厩舎で休んでいる。珍しく鍛錬もないようで、とりあえずピーマンの木を眺めている。大きくなった実が十数個、そして白い形の良い花も十数個。飽きることは無さそうだ。
そして、ふと気づいたのだが、いつもより腹の調子がよい。心当たりと言えば、ビールを飲んだことぐらいなので、ビールが私の腹に何か良い影響でも与えたのであろうかと思う。そういえば、ビール酵母を使った整腸剤なんてものも売られているのを人の時代に見た記憶もあるので、ビールは結構胃腸に良いのかもしれない。まぁ、馬に食わせていけないものを、彼らが持ってくるわけもないので、きっと何か考えがあって私にビールを飲ませたのだろうとは思うわけだ。
さて、しかし、鍛錬もないとなると実に暇である。
瞑想をするにも、少々日が高い。あれは少し日が落ちてきてからやると心が休まるので、今はパスだ。それにせっかくの日中であるから、明るいうちに出来ることをしたい。とはいっても、出来ることは結局、寝るか食うか鉢植えピーマンを眺めるか、あとはストレッチを行ってみるかといった事ぐらいだ。
ということで、ま、ストレッチを行って体の柔軟性を高めていきたいと思う。足首を起点に力を入れて、関節を伸ばし、縮める。前に後ろに体重移動をしながら、じわりじわりと力を籠めつつ、背中回りも引っ込めて、出して。首も上下に動かしつつ、肩回りや尻まわりの筋肉を伸ばしつつ…。
ぐいーっと自分の体を伸ばしていると、人間がこちらにビデオカメラを向けていることに気がついた。気づいたところで別に気には留めないので、続けてストレッチを反復して行っていき、ようやく体全体がほぐれた所で足を畳んで横になる。朝に敷き替えられた藁もなかなかふかふかで心地が良い。そして人間に目を向ければ、やはり私をビデオで撮っている。なんだ、君も今日は暇なのであろうか。まぁ、撮られて悪い気はしないので、存分に撮影するがいい。
さらさらと厩舎の中を流れる風の音を聞きながら、そういえば最近、ずっと鍛錬ばっかりで、何もしないという日が一日もなかったことに気が付けた。せっかく何もない一日なのだ、今日はこれから一日、何もしない日にしよう。だらーっと、溶けるように過ごしてみようじゃないか。
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日本ダービーから一カ月程度時間が流れ、いよいよ木々も芝も青々と夏らしさを湛え始め、気温も日中は暑さを感じ取れるようになってきた。季節の流れというのは、早いものである。
ほかの厩舎の馬達は、車に乗せられてどこかに連れていかれたり、あとは牧場内で少し放牧されていたりとなかなか自由にやっているようで、私は宿舎からのんびりとそれを眺めていた。
私はといえば、放牧というのはどうにも性に合わない。だだっぴろい芝の上でのんびりすればいいのだろうが、これだけの良い芝なのだから何かせねばなーと落ち着かないのである。なので、放牧に出されたところで、鍛錬せねばとずーっと走りこんでしまうのだ。そんな私の姿に人間もいよいよ諦めたのか、厩舎に戻されていつもの鍛錬の日々と相成っている。もちろん、人間がいろいろ気を遣ってくれていて、暑い時間帯は強い運動を避けるか、プールに突っ込んで快適に鍛錬を行なえている。
そういえば最近、餌に豆が多くなり始めた。小さい豆が食いにくくて仕方がないのだが、同時にピーマンもバケツ2杯が普通になってきているので目を瞑るとする。ただ、豆の味は良いのでこれからも豆は増やしてほしいものだ。
それにしても豆が多い食事となると、イメージとしてはタンパク質が豊富な食事であろうか。体つくりには最適であろう。ただ、馬の体にはどうなのだろうとは思いつつも、出された食事なのでしっかりと残さず食うこととする。
何せ私より私の体には詳しい人間が、食事のメニューやら運動のメニューを決めているはずなのだ。私の仕事はそれを完全に食い、しっかりと運動量を稼ぎ鍛錬し、レースで見事勝利を得ることである。
6勝無敗。そのうちでグレード1レースを2勝。この戦績は間違いなくこの鍛錬の日々の賜物である。以前にも言ったが、目標への近道は日々の努力のみなのだ。
さて、今日も今日とて鍛錬である。手綱を持たれて向かう先はいつもの坂道。そして私の背にのるのはあのおじさん。さぁ、今日の所は往復7本といこうじゃないか。そして、この夏の間には、目指せ8往復である。
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「もうすっかりこいつを乗りこなせていますね」
「君にお墨付きをもらうと安心するよ。ありがとう。それにしても、改めてすごい馬だね。坂路を7往復してもバテない馬なんて初めてだよ。8往復目に勝手に行こうとしたときにはびっくりしたね」
「はは、こいつは普通の馬の常識が通用しませんからね」
「でも、菊花の後は私で本当に良いのかい?この馬は、まだまだ先に行けると思うよ。この馬の引退まで屋根を張っていた方がいいと個人的には思うのだけど」
「いいんです。こいつには、もう既にいい夢を十分、見させてもらっていますから」
「そうか。そこまで心が決まっているならこれ以上は何も言わないよ。悪かったね」
「いえ。あ、そうだ。次の追い切りの時の話なのですが、もう少しこう…手綱をですね」
「ふむ…こういう感じかい?」
「うーん、そうではなくてもう少し。こう…」
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「あいつの次走が決まりましたよ」
「もうか?早いな。夏競馬でも走るのか?」
「いえ、驚くなかれ、菊花賞に直行ですよ。阪神も、セントライトも回避です」
「は?正気か?確かにダービーで勝利しているから優先権はあるだろうが」
「ええ。オーナーと鞍上、俺で話し合ったんですが、行けるだろうと」
「…まぁ、そう決まったのなら仕方ないか。しかしなんでそうなったんだ?」
「色々要因はありますけれど、普段の練習風景を見て、ですかね」
「どういうことだ?」
「普段、あいつ登坂で7往復を熟して、プールも3分の潜水を行ってるのは知ってますよね?しかも訓練が終わっても、すぐケロっとして飯を食ってる頑丈さもありますし、なにより、訓練への熱意が毎日伝わって来るんですよね」
「確かに非常識な馬だな、と私もいつも思っている」
「ですよね。ということで、下手にレースを挟んで調整するよりも、更に鍛錬を積ませて、一回り体を大きくした方がいいんじゃないか、という結論に至りまして」
「なるほどな…判らんでもない。まぁ、そういう方針で決定したんだろう?」
「ええ、決定事項ですよ」
「判った。やってみろ」
「はい」
「あ、そういえばアイツの妙な動きをビデオで撮ってみたんですが、見ます?」
「お、それは見たいな。どれどれ…足首伸ばして、ケツ伸ばして…なるほどな。動画でしっかりと見直すと、ストレッチのようにも見えるな」
「やっぱりそうですよね。レースとか訓練の前と後にこういう動きをする馬、他に知ってます?」
「知ってるわけがないだろう」
「ですよね」
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「会長、次回の役員会の資料ですが」
「ああ、そこに置いておいてくれ、すぐ確認するよ」
「お願いします」
「そうだ、エアグルーヴ。君は家事に明るいんだったか?」
「え?まぁ、ある程度なら、ですが」
「ふむ…一つ、頼みごとがあるのだが」
「会長から?何でしょう。私に出来ることであればご協力致しますが」
「いや、なに、ピーマンのレシピをいくつか教えてほしいと思ってね」
「…ピーマン?ですか」
「ああ、そうなんだ。最近注目している娘がピーマン好きでね。差し入れに何か持って行ってやりたいなと思ったんだが、いまいちピンと来なくてね」
「そういうことですか。それであればお任せください。明日までにいくつかレシピを見繕って、持って参ります」
「ありがとう。期待しているよ。ああ、ただ、そんな急ぎじゃなくていい」
「そうなのですか?」
「ああ、彼女、今は夏合宿中でね。しばらく会う予定は無いんだ」