私の水汲み作業はその後も続いた。
何がいきなり出現するか分からないという不安はあったが、幸いそれらに出くわすことはなく、せいぜい敵意のない蟻やダンゴムシ、てんとう虫などの小さな生き物を見かけた程度だった。
水汲み自体は順調に進んだ。
しかしだんだん家から離れた場所まで歩いていかなければならなくなった。
さらにはだんだん風が出てきたため、葉についていた水滴が落ちてしまうようになってきた。
最初は張り切っていた私も水が手に入りにくくなり、さらには歩く距離が長くなるにつれてだんだんきつくなってきた。
顔や腕からは次々と汗があふれ出すようになった。
両手の握力も少しずつ落ちてきた。
また遠出するほど外敵に出くわしてしまう確率も高くなるため、ますます不安な気持ちもこみ上げてきた。
それでも、両親に今までかけてきた迷惑を少しでも取り返したいという思いが私を奮い立たせていた。
水汲みはやがて最後の一回を残すのみとなった。
お気に入りのワンピースはすでに汗でかなり濡れていた。
すでに体は疲れ、両腕は筋肉痛になりそうな状況だった。
もしスピラーが一緒だったら「何だ。お前そんな程度でへたばってんのか!」とからかってきただろう。
今まで水が簡単に手に入る生活をしていたのが一変してしまったせいで、私は突きつけられた現実に圧倒されそうになった。
今までの生活がいかに幸せだったのか。いかに恵まれていたのか。
そう考えると自分のせいで引っ越すことになってしまったことがなおさら悔しくなった。
でも、何があっても生き延びていかなければ…。
私は疲れた体にむちを打ち、流れる汗をぬぐいながらきれいな水が手に入りそうな場所を探した。
途中、何かが近くを通りかかるのを見つけた。
私はそっとバケツを置くとまち針に手をやり、戦闘体制に入ろうとした。
しかしその生き物はこちらに気付いていないのか、やがてそのまま通り過ぎていった。
それが一体何だったのか、結局確認することは出来なかった。
今さら確認する気にもなれなかった。
スピラーなら仕留めて食料するために表に出ていき、戦いを挑んだかもしれない。
しかし私にとっては出来るだけ戦闘を回避し、何ごともなく済ませることが最善の選択だった。
私はほっと一息つくとバケツを持ち、なるべく足音を立てないように歩き出した。
水汲みを始めた頃は草の葉に結構水滴がついていたが、その後水が乾いたのか、風のせいで葉から落ちたのか、この時間になると水汲みに適した水はなかなか見つからなかった。
私の心にはいつの間にか焦りが出てきた。
もしかしたら、最後は水が手に入らないまま家に戻るのかもしれないという気持ちにさえなった。
水を求めてあちこちを歩き回っているうちに、いつの間にか私の周りの景色は見たこともないものに変わっていた。
最初はまさかと思っていた。
しかし、そのまさかが現実になってしまったことを、はっきりと自覚するようになって来た。
私は冷や汗をたらしながら焦った。
間違いない。道に迷ってしまった。
迷子になってしまった。
(ここ、どこ?)
もしもこのまま家に帰れなくなってしまったら…。
周りには誰もいない。
誰にも道を聞くことは出来ない。声を出して助けを求めるわけにもいかない。
自分で家にたどり着くしかない。
しかもその間に動物に襲われたりでもしたら…。
私は思わず涙ぐみそうになった。
今となっては水汲みのことなんかはどうでもよかった。ただ何とか家にたどり着くための道を見つけなければならなかった。
(落ち着け。落ち着くのよ、私。きっと家に帰れるわ。まずは見通しのいいところに出なければ…。)
私は深く深呼吸をすると、足音をなるべく立てないようにそっと歩き出した。
それからどれくらい時間がたったのだろう。(実際にはそんなにたってないのかもしれないけれど…。)
歩いている間、私の心臓はバクバクと高鳴っていた。
もし帰れなかったら、お父さんとお母さんはどんな思いをするんだろう。
迷惑では済まされなくなるかもしれない。
泣いて悲しむかもしれない。
そんなの嫌。何としても帰らなければ…。
ただでさえ自分のせいで引越しをする羽目になったのに、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
私は必死に心の中で祈りながら歩き続けた。
しばらく歩くと木々が段々開けてきて、見通しも良くなってきた。
その向こうには見覚えのある柿と栗の木が見えた。
(確かあれは…。)
私は目を閉じて、引っ越してきた時に見た光景を必死に思い浮かべた。
確かあれは…。
あれは、新しい家となっている倉庫の近くに生えている木では…。
私はもう一度家の周りの景色を思い浮かべた。
…。
そして目を開き、木をじっと見つめた。
確かに、あの木の形は倉庫の左側に生えていたはず…。
間違いない。あの木だわ!
そう確信すると、私の心には明るい希望が生まれた。
「良かった。これで家に帰れるわ!」
不安から解き放たれ、私は思わず声が出た。
すると、左の方から何かガザガザという音が聞こえた。
「何?」
私は驚き、とっさに音のした方向をじっと見つめた。
そしてバケツをその場に置いて、腰に差しているまち針に手をやった。
(何かしら?)
私はその場でじっとしながら様子をうかがっていた。
しばらくするとその物体がゆっくりと見え始めた。
その正体は…、何と一匹の野ネズミだった!
「……!」
私は驚きのあまりに、その場に立ち尽くしてしまった。
例えて言うなら、借りに出かけた夜に翔に私の姿を見られた時と似ていた。
よりによってこんな時にこんな動物と出くわすなんて…!
隠れる場所は一応まわりにあるものの、姿を見られた後となってしまっては遅かった。
(どうしよう。家はもう目の前なのに…。戦うしかないのかしら?果たして勝ち目はあるのかしら?)
心の中でそう思っている私の手はわなわなと震えていた。
(お願い!誰か来て!お父さん!お母さん!スピラー!翔!誰でもいい。翔でもいいから、誰か来て!)
私は今まで体験したことのないような緊張の中で、必死に野ネズミをにらみつけていた。
一方の野ネズミは物陰から顔と前足だけを出してじっとしたまま、こちらを見つめていた。
自分から動かずにじっとしている光景は、私にとっては不気味に感じられた。