翔がストレッチャーに乗せられて手術室に運ばれていくのを、貞子は立ち止まったまま祈るような気持ちで見つめていた。
そして扉が閉められ、「手術中」のランプが点灯すると、彼女は近くにあった長いすにへたり込むように座った。
「さあ、それでは付き添いの方は待合室か病室で待機していてください。」
「……。」
「待機していてください。」
「…はい。…それでは、翔さんをよろしくお願いします。必ず助けてあげてください。」
看護士の人に言われ、貞子は重い口調で返事をした。
「分かりました。」
「……。」
彼女はその後も何か言おうとしたのだが、結局何も言葉を発しなかった。
そして振り返ると、重い足取りで翔のいた病室へと向かっていた。
貞子は病室の前にたどり着くと、うつむいたままゆっくりと手を伸ばし、ゆっくりと扉を開けた。
その時室内から突然「坊っちゃんはいないのですか?」という声がした。
「えっ?」
誰もいないはずの病室から急に声がしたものだから、彼女は驚いて前方を見た。
そこにはハルが椅子の上に座っていた。
「ハルさん遅かったですね。翔さんはもう手術室に行ってしまいましたよ!」
貞子はまるで怒っているような口調で言い放った。
「すみませんねえ。ちょっと遅くなったもので…。」
「まあいいです。あの人と違って、来てくださっただけでもよしとしましょう。」
「もしかして奈津美さんのことでも考えているのですか?」
「そうですよ!翔さんにとっては運命の分かれ道になる日なのに、それでも海外に行ったまま帰ってこないなんて!」
「まあ、忙しい人ですからねえ。」
「それでもこんな日くらいは仕事をキャンセルして、ここまで来てほしかったです!」
冷静なハルとは対照的に、貞子は怒ったように言葉を発していた。
その後、二人は病室で椅子に座ったまま、ひたすら時間が過ぎるのを待っていた。
貞子はさっきまでとは打って変わり、うつむきながら不安げに座っていた。
一方のハルは、相変わらず冷静だった。
「貞子さん、さっきから落ち着かない様子ですが、大丈夫ですか?」
「落ち着いてなんかいられないですよ。翔さんが果たして助かるかどうか…。」
「それはお医者さんの方々にまかせるしかないですよ。我々が出来ることはただ待つことだけです。」
「そんな言い方をすることはないでしょう!翔さんは今頃命がけで闘っているんですよ!それなのにただ待つだけだなんて!」
「まあまあ。そんなに怒ることはないでしょう。」
「怒ってなんかいません!心配をしているんです!」
貞子の気持ちは収まらなかった。
「……。」
ハルは何とかして貞子の気持ちを抑えようとした。しかし言えば言うほど逆効果になりそうな状況だったので、それ以上は言わなかった。
「……。」
貞子もこれ以上は何も言わず、両手をぎゅっと握りしめたまま座っていた。
それから間もなく、入り口の扉が開いた。
そこにはパジャマ姿の9~10歳くらいの男の子が立っていた。
彼は翔と貞子がこの病院に来た時に会っていたため、貞子は彼の顔を知っていた。
「はい。何ですか?」
ハルが立ち上がって言った。
「おばちゃん達、うるさいよ。」
男の子からは容赦のない言葉が飛んできた。
「ごめんねえ。今度からは気をつけるわね。」
「…すみません…。」
相変わらず冷静に対応するハルとは対照的に、貞子は何か過ちでも犯したかのように申し訳なさそうにわびた。
男の子はその後何も言わないまま扉を閉めて、自分の部屋に戻っていった。
貞子はその子の言ったことがダメージになったのだろう。両手を握りしめたまま、ますますうつむいてしまった。
その後、翔の容態については何の連絡もないまま、時間だけが過ぎていった。
すでに日は西に傾いていた。
病室では27℃に設定されたエアコンの音がゴウゴウと響いていた。
ハルは翔が持ってきていた本をじっと読んでいた。
特に本に興味があったわけではなかったが、何もすることがないよりはましということで、読書で時間をつぶしていた。
一方、貞子は何もする気になれずに、ただ翔の無事を祈りながら過ごしていた。
彼女の目からは涙があふれそうな状態だった。
ハルは切りのいいところまで読み終わると、本をパタリと閉じて椅子から立ち上がった。
そして自分のかばんのところに行って、中からカロリーブロックを取り出した。
彼女は再び椅子にどっかりと座ると、箱を開けてブロックを取り出し、むしゃむしゃと食べ始めた。
「何をしているんですか!?こんな時に!」
さっきからハルの行いがしゃくに触っていた貞子はまた怒り出した。
「何って、小腹が空いたから腹ごしらえですよ。貞子さんも一本いかがですか?」
「いりません!こんな時に!!」
貞子はまた大声を出して叫んだ。
「まあまあ。そんな声を出すとまた隣の部屋からかわいい坊っちゃんが『うるさいよ。』って言いに来ますよ。」
ハルは表情一つ変えずに言い放った。
「……!!」
貞子は何か言い返したくはなった。しかし結局言えなくなってしまった。
彼女の表情はまだ怒ったままだった。
二人はその後、まともに会話もしないまま、ただ時間だけをつぶしていた。
さっきまで怒っていた貞子は、それまでとは一転して悲しそうな表情に変わった。
彼女の両手は硬く握られたまま、わなわなと震えていた。
ハルはそれに気付いてもしばらくは様子をうかがったまま、じょっと黙っていた。
しかしやっぱり気になって仕方なかったため、声をかけてみることにした。
「貞子さん、大丈夫ですか?」
「…大丈夫なんかじゃないです。」
貞子は震える声で返した。
「坊っちゃんのことをそんなに心配しているんですか?」
「…ええ。翔さんが無事に生還出来ますようにって…。」
「そうですか。」
「ハルさんは何も考えてないんですか?」
「私だってちゃんと無事を祈っていますよ。もう65年も生きた私とは対照的に、たった12年で生涯を閉じてしまうなんてあまりにも不公平ですし、悔しいですし、忍びないですから。ただ、それを表情には出さないようにしているだけです。」
「そうですか…。」
貞子はハルの本心を聞いて、彼女もまた心配しているということを知った。
「翔さん、本当に助かるんでしょうか…?」
気持ちの制御が出来ていない貞子は、今度は泣きそうな声でハルに問いかけた。
「私も助かってほしいです。ただ…。」
「ただ、何ですか?」
「私達に出来ることは祈ることだけですから、一緒に祈りましょう。」
ハルはそう言うと両手を合わせて目を閉じ、静かに祈り始めた。
それを見て、貞子も同じように祈り始めた。
「神様、どうかお願いします。翔さんを助けてやってください。翔さんが助かるのなら、私が身代わりになってもかまいません。翔さんの心臓と私の心臓を取り替えることになってもかまいません。私はもう十分過ぎるほど生きました。私はどうなってもいいですから、翔さんだけは助けてください…。」
貞子はさっきよりも泣きそうな声で言った。
それを聞いてハルは閉じていた目を開き、貞子の横顔を見た。
彼女の目からは涙があふれていた。
「貞子さん…。泣いているんですね。」
それまでずっとポーカーフェイスを保っていたハルも、その横顔を見てさすがに同情せずにはいられなくなった。
「ええ。神様…。どうか翔さんを助けてください…。彼は重い病気を抱えているだけでなく、離婚という不幸な過去をも背負ってしまいました。彼はもう十分過ぎるほど傷つき、十分過ぎるほどたくさんのものを失ってきました。でもこれからそれを取り返していくための機会をどうかお与えください。何も取り返せないまま、たった12年でその人生を終わらせないでください…。お願いします…。お願いします…。」
そう言いながら彼女はその場にうずくまり、泣き崩れてしまった。
すでにメガネは涙でぐっしょりと濡れていて、床の上には涙の粒が何滴か落ちていた。
「大丈夫ですよ。きっと坊っちゃんは手術を乗り越えてくれます。だから一緒に祈りましょう。」
ハルは貞子の背中に手を置いてそう言った。
彼女は貞子の嗚咽(おえつ)をじっと聞きながら、自身も翔の生還をひたすら祈り続けていた。
すでに太陽は地平線の彼方にゆっくりと沈もうとしていた。