母と再会した後、さらに元気を取り戻した翔は一人でお手洗いに行くだけでなく、一人で階段をのぼることも出来るようになった。
彼を担当していた医師や看護師、周りにいた患者さん達は、その驚異的な回復ぶりに驚き、何故ここまで急激に回復したのか、その理由を色々考えた。
その中で医師は、やはり翔がお守りとして肌身離さずに持っている洗濯ばさみ(アリエッティの髪飾り)に何か不思議な力があるのではないかと患者に話してしまった。
それ以来、翔は他の患者達から
「その洗濯ばさみを貸してくれませんか?」
「手術を受ける時のお守りに持たせてください。」
と依頼されるようになった。
あげくの果てには病院で出会った男の子に「ちょうだい。」とまで言われることがあった。
しかし翔はその依頼を全て断った。そして
「これにはそんな力なんてないです。」
「これがあると気持ちが前向きになるので、持っているだけです。」
と答えていた。
そんなある日の夜明け前、いつもより早く目が覚めた翔は気分転換もかねて屋上に行くことにした。
彼はベッドの近くにある電気スタンドのスイッチを入れた。
そして紙と鉛筆を取り出し、「屋上に行って夜明けを見てきます。」と書いてそれをベッドの上に置いた。
彼はパジャマのポケットにアリエッティの髪飾りが入っていることを確認すると電気スタンドのスイッチを切った。そして音を立てないようにそっと部屋を出ていった。
廊下は蛍光灯が少ししか点灯していなかったため、かなり暗かった。
出歩いている人もおらず、各病室はひっそりと静まり返っていた。
その中を翔はそっと歩いていった。
彼は階段に通じる扉にたどり着くと、なるべく音を立てないようにそっと開け、手すりを持ちながら一段ずつ階段をのぼっていった。
以前なら屋上までたどり着いた時にはすでに息が荒くなっていた。
しかし今回はそうはならなかった。
(良かった。リハビリで少しずつ体を動かすようにしていた成果が出たようだ。これからもっともっと体を鍛えていこう。)
そう思った彼の顔からは自然と笑みがこぼれた。
屋上の扉を開けると、辺りには心地よいそよ風が吹いていた。
まだ夜明け前なので空は暗く、たくさんの星が輝いていた。
今日は久しぶりに熱帯夜にならなかったのか、空気はいくらか涼しく感じられた。
翔は屋上をゆっくりと歩いていき、彼の身長よりも高いフェンスに手をかけた。
そこには見応えのある大パノラマの景色が広がっていた。
この病院は緑が生い茂った小高い丘の上に立地しているため、屋上からこのような景色を見ることが出来た。
病院に近い部分ではたくさんの木々が、夜風の中でざわざわと音を立てながら揺れていた。
遠くではたくさんの家々の明かりが、まるで満天の星空のように輝いていた。
空ではいくつもの入道雲が漂っていた。その中で東の方角にある雲は、赤い空の影の中で濃い灰色に染まっていた。
「アリエッティ。僕、手術を乗り越えたよ。そしてここまで元気になったよ。今まで心臓に抱えていた爆弾もなくなったし、これからは死の恐怖におびえながら過ごす心配もなくなったよ。これも君のおかげだよ。ありがとう。君はやっぱり僕の心臓の一部だよ。」
翔はさっきよりも明るくなってきた東の空を見つめながら言った。
「あのね、アリエッティ。僕…出来れば、もう一度君に会いたいんだ。会ってお礼を言いたい。そして僕が元気になったことを知らせてあげたい。いいかな?」
彼はそう言うと、辺りの景色を見渡した。
ここから見える景色のどこかにアリエッティがいる。
探せばどこかで会えるかもしれない。
でも手がかりはどこにもない。
誰にも聞くことは出来ない。
まして相手は小人で、人間に見られてはいけないという掟まである。
そんな中で見つけるなんて…。
ただでさえどこにいるのか分からない人間を探すことだって大変なのに…。
…やっぱりアリエッティを探し出すことなんて無理なんだろうか?
もう二度と彼女には会えないのだろうか?
僕が元気になったことを彼女は知らないまま、これからずっと過ごしていくことになるのだろうか?
そんなのは嫌だ。
どうしても僕のことを彼女に知らせたい。
でも、僕にはどうすることも出来ない…。
翔は寂しげな表情を浮かべながら、ポケットから髪飾りを取り出した。
そしてアリエッティのことを思い浮かべながらそれをじっと見つめた。
そうしている間に空一面に出ていた星達はやがて姿を消していき、東の空からは真っ赤に燃える太陽が地平線から顔を出した。
今日も夜明けの時間がやってきた。
その光景はアリエッティと別れたあの日の朝と似ていた。
さっきまで街中に灯っていた明かりは次第に姿を消していき、代わりに夜明けの光が街を包み込んでいった。
その中で、翔はあの日のすがすがしい表情とは違い、泣きたい気持ちをじっとこらえていた。
「アリエッティ、僕を助けてくれてありがとう。そしてごめんね。君を引越しさせてしまって…。お礼を言うことも、謝ることも出来ないけれど、どうか幸せに過ごしてね…。」
彼は自分の命の恩人であり、もう二度と会えないかもしれない小人の少女が残していった髪飾りに向かって、そっとつぶやいた。
気のせいだろうか、ずっと吹き続けている夜風はさっきよりも冷たく感じられた。
朝の光に包まれる中で、翔は気持ちに整理をつけていった。
そして彼はベランダを後にし、階段を降りる途中でアリエッティの髪飾りをポケットにしまった。
病室の前にたどり着くと、彼は少しうつむきながらそっと扉を開けた。
ふと自分のベッドのところを見ると、そこには病院で知り合った一人の男の子がいた。
部屋に電気がついていなかったので薄暗かったが、誰なのかはすぐに分かった。
彼は翔の荷物が入っているかばんの中をじっと見ているようだった。
「君は、何をしているの?」
翔は内心では驚きながらもそれを顔に出さず、冷静に問いかけてみた。
「まずいっ!」
彼はそう言うと、足早に翔のわきをすり抜けていった。
そして「な、何でもない。」と言いながら自分の病室に戻っていった。
その様子を、翔は呆然と見つめていた。
少しして、我に返った翔は部屋の電気をつけて、自分のかばんのところに行き、中身を確認した。
さらには自分のベッドの周辺を確認した。
とりあえず取られた物はなさそうだったので、彼はひとまずほっとした。
しかし次の瞬間にはまた不安がこみ上げてきた。
(あの子はなぜ僕の部屋の中に入って探し物をしていたんだろう?)
(…まさか、アリエッティの髪飾りを探していたのかも…。)
彼は思わずポケットに手をやり、髪飾りが入っていることを確認した。
今回はたまたま持っていたからとられずに済んだ。
しかし、もしこれを部屋に置いたままだったらどうなっていたのかと彼は思った。
もし持っていかれたらどうなるんだろう?果たして返してくれるんだろうか?
そしてこれからもこのような不安に襲われながら、病院で過ごしていくのかという不安に襲われた。
アリエッティ。大切な髪飾りを僕に渡してくれてありがとう。
このおかげで僕は元気になったよ。
でも、何だか周囲が大変なことになってきたよ。
このままでは髪飾りのことが病院中に評判になってしまうかもしれない。
もしも誰かに取られたら、二度と僕の手元には戻ってこなくなるかもしれない。
ハルさんがアリエッティのお母さんを見つけてしまった時のような、そんな騒動になるかもしれない。
あげくの果てには小人の存在を知られてしまうかもしれない。
そんなことにはしたくない。
そうなる前に、出来ることなら君に返したい。
でも君がどこにいるのか分からない。
返したくても今の僕ではどうすることも出来ない。
……。
翔はどうすればいいのか分からないまま、その場に呆然と立ち尽くしていた。