ニーヤが川沿いの道を走り続けている頃、アリエッティは一人で洗濯物を干す作業をしていた。
彼女だけでやるのはなかなか大変だったが、どうにかやり遂げることが出来た。
すでに外の気温は30℃を超えていたため、作業が終わる頃には額から汗がにじみ出てきた。
「ふう…。やっと終わったわね。」
彼女はポケットからハンカチを取り出して、流れ出る汗をふいた。
その時、背後から「アリエッティ、お茶を入れたんだけれど飲む?」という声がした。
ホミリーの声だった。
「はあい。飲みます。」
アリエッティは元気よく応え、ホミリーに続いて台所に入っていった。
そこには一面に香ばしい香りが漂っていた。
「今日は緑茶を入れたの?お母さん。」
「そうよ。この前あなたが取ってきたお茶の葉を使ったのよ。」
「わあ、ありがとう。」
アリエッティはお礼を言うと椅子に座り、早速一口飲んだ。
「おいしい!」
彼女は喜びながらお茶を飲み干した。
「そう?よかった。」
「それよりお母さんの方は作業終わったの?」
「ええ、もう済んだわ。あとは本人に渡すだけよ。」
「そうなの…。早く来ないかなあ。」
「もうすぐ来るはずよ。」
二人がそう会話をしていると、外から何か物音がした。
そして「こんちは。」という男の子の声がした。
「あっ、来たみたいよ。アリエッティ、行ってきてくれるかしら。」
「分かりました。」
アリエッティは喜んで了解すると、台所を出て、裏出口に向かっていった。
そこにはスピラーが緊張したような表情で立っていた。
「こんにちは、スピラー。待っていたわよ。」
「う、うん。」
「今ちょうどお母さんがお茶を入れたんだけれど、飲む?」
「飲む。」
スピラーは相変わらず不器用な言葉遣いで応えた。
そして二人は一緒に台所に入っていった。
「おばさん、こんちは。」
「いらっしゃい、スピラー。よく来てくれたわね。早速あなたの分のお茶を入れるわね。」
「う、うん。」
ホミリーはカップを取り出し、ポットに残っていたお茶を注いだ。
「さあ、どうぞ。」
「ども。」
スピラーは両手でカップを持ち上げると、一気にググッと飲み干してしまった。
(カップには取っ手がついていたが、彼はそれを全く気にもせずにいた。)
「どう?おいしかった?」
「渋かった。」
スピラーはアリエッティに向かって平然と言い切った。
「……。」
アリエッティは思わぬ発言を聞いて、返答に困ってしまった
「と、ところでスピラー。あなたに渡したいものがあるんだけれど、持ってきてもいいかしら?」
ホミリーが苦笑しながら問いかけた。
「うん。」
「じゃあ、すぐに持ってくるわね。ちょっと待ってて。」
ホミリーはそう言うと早足で台所を後にしていった。
彼女は手に何かを持ってすぐに戻ってきた。
そして「これ、いかがかしら。」と言ってスピラーに渡した。
「何、これ?」
「お母さんがスピラーのために作ってくれた服よ。ぜひ着てみて。」
「服?」
「ええ。お母さんが『スピラーを家族として迎えるからには、新しい服を用意したい。』って言っていたの。」
「そうよ。あなたにこれをぜひ着てほしいと思って。」
アリエッティとホミリーは服を作った経緯を話した。
「俺、こんなの似合うのかな?」
「きっと似合うわよ。」
「そうかあ?」
「うん。だってお母さんが作ったんだもん。」
「でもこんな服装じゃ、恥ずかしくて仲間に会いに行けなくなりそうだけれど…。」
「それならこの家の中だけでもいいわよ。」
アリエッティは自信満々に言った。
スピラーはどうしようか決められずにいたが、彼女の熱意に押され、やがてしぶしぶながらも了解することにした。
「じゃあ俺、着替える。」
彼はそう言うと、何とその場で服を脱ぎ始めた。
「きゃあっ!」
アリエッティは思わず両手で顔を覆い、そっぽを向いた。
「ちょ、ちょっと。ここで脱がないでちょうだい!」
ホミリーも慌てていた。
「何で?何かまずいことでもしたのか?」
スピラーは平然と言い放った。
「まずいも何も、…とにかく私達のいないところで着替えて!」
アリエッティは顔を覆ったまま言った。
「分かった。俺、違う部屋行く。」
スピラーは理由が分からないまま、隣の部屋に入っていった。
数分後、スピラーは新しい服に着替えた状態で再び台所に戻ってきた。
彼は上半身に水色の半そでシャツを着ていて、下には紫色のズボンをはいていた。
「きゃあ!似合う似合う!」
アリエッティがはしゃぎながら言った。
「そ、そうかあ?」
「うん。これで私達の家族らしくなったわ!」
「俺…、この服抵抗あるんだけれどなあ…。」
「それは最初のうちだけよ。すぐに慣れるわ。」
「まあ、お前、いや君がそう言うのなら…。」
スピラーは戸惑いながらもアリエッティの意見を受け入れた。
「それじゃ、さっきまで着ていた服、これから洗濯してもいいかしら?」
ホミリーはスピラーがさっきまで着ていた服を手にとって言った。
「えっ?ってことは俺は今日一日この服で過ごすのか?」
「そうよ。悪くはないでしょ?」
「でも俺、この格好じゃやっぱり外出出来ないや。」
「あら、似合っているからいいじゃない。」
「…まあ、いいや。おばさんがそう言うのなら…。そう考える。」
「じゃあ、早速洗濯をしにいくわね。」
ホミリーはそう言って台所を後にしていった。
その時、「ただいま。」という声がした。
「あっ、お父さんだ。」
アリエッティはそう言うと、すぐに玄関に向かっていった。
ホミリーとスピラーも彼女に続いていった。
「お父さん、お帰り。」
「ただいま。今、家の近くに猫が一匹いるのを見た。」
「えっ?猫?」
「そうだ。だから、今は下手に外に出ない方がいいかもしれん。」
ポッドはアリエッティ達に向かって忠告するように言った。
すると、外から「ニャー。」という猫の鳴き声が聞こえてきた。
「ひえええっ!本当に猫!」
ホミリーはびっくりして後ずさりをしていった。
一方、スピラーは弓矢を取りに、さっき着替えた部屋に向かっていった。
アリエッティとポッドはその場でじっと鳴き声に耳を傾けていた。
「そ、それよりあなた。お茶があるけれど、飲みますか?」
ホミリーはオドオドしながら声をかけた。
「おお。それなら飲むことにしよう。」
ポッドはそう答えると、くつを脱ぎ、ホミリーと一緒に台所に入っていった。
それとほぼ同時にスピラーが弓矢を持って玄関に戻ってきた。
その時、アリエッティとスピラーの耳にもう一度猫の鳴き声が届いた。
「本当に猫の声ね。どうやらすぐ近くにいるようね。」
「気をつけろ。見つかったら生け捕りにされるかもしれんぞ。」
二人は小さな声で会話をした。
猫の鳴き声はその後も続いた。まるで「そこにいるのは分かっているんだぞ。」と言っているかのようだった。
「しつこい猫だなあ。俺が追い払ってやる!」
しびれを切らしたスピラーは弓矢を手に取り、外に出ていこうとした。
「待って!」
アリエッティは手を伸ばしてスピラーを制止した。
「何で止めるんだよ!」
「あの声、聞き覚えがあるの。」
「聞き覚えがあるって?お前、猫と知り合いなのか?」
「ええ、一匹だけ。私達が引っ越した日の朝に、翔と一緒にいた猫よ。ニーヤって名前なの。まさかとは思うけれど、あの猫、わざわざここまで来たのかもしれないわ。」
「違ったらどうするんだよ。獲物にされるかもしれないぞ。」
「大丈夫。私の勘に間違いはないわ。」
アリエッティはそう言うと、忍び足で歩き出した。
「しょうがねえなあ…。じゃあ俺も一緒に行く。」
スピラーは弓矢を持って彼女の後をついていった。
二人が物陰から外を見ると、そこには一匹の猫がニャーニャー鳴きながら歩きまわっていた。
その猫を見て、アリエッティの表情が一変した。
「やっぱりあの猫、ニーヤだわ。」
「ってことは、君が住んでいたところからわざわざここまで来たのか?」
「そのようね。」
「何のためにここまで来たんだ?」
「まさかとは思うけれど、私を探しにここまで来たのかもしれないわ。」
「猫にそんなことなんか出来るのか?」
「私にも分からないけれど、もしかしたら私の匂いをたどってきたのかもしれないわ。」
「まさか。」
(※ニーヤはカラスの案内でここまで来ました。)
二人が小声で会話をしていると、ニーヤは背を向けたまま、まるで家から立ち去ろうとしているかのようにゆっくりと歩き始めた。
どうやらこれ以上いても無駄だとでも判断したのだろう。
「あっ、待って。行かないで!」
アリエッティは思わず外に飛び出していった。
「お、おい!」
スピラーはそう言って呼び止めようとしたが、彼女は振り返らなかった。
「ニーヤ!」
アリエッティは大声で叫ぶと、後を追いかけていった。
ニーヤはその声に気がついて立ち止まり、振り返った。
彼はアリエッティに気がつくと大きく目を見開いた。
そして「ニャー。」と鳴くと、今度は彼女めがけて歩き出した。
「おい!危ないぞ!」
スピラーはそう言うとさっと弓矢をかまえた。
一方のアリエッティは物怖じすることなく、ニーヤのすぐ前に立った。
どうやらニーヤに敵意はなさそうだった。それを見て、スピラーは構えていた弓を下げた。
「ニーヤ、どうしてここまで?まさか、私に会いにここまで来たの?」
「ニャー。」
「でも一体何をしに?そもそも首にかけている布は何?」
「ニャー。」
ニーヤは一声鳴くと身をかがめた。そして「この中に入っているものを出してみろ。」とでも言っているかのように下を見た。
「分かったわ。」
アリエッティは手ぬぐいに手をかけて、中にあるものを探った。
そこには丸まった状態のティッシュが2つと、一枚の紙が入っていた。
「何かしら?」
アリエッティは一方のティッシュを開いた。すると中からドールハウスにあったポットが出てきた。
「これ、引越しの時にお母さんが持っていこうとして、お父さんに止められたものじゃない!」
彼女は驚きながら言った。
次にもう一方のティッシュを取り出して開いた。彼女は中に入っていたものを見て、さらに驚いた。
「これ、私がつけていた髪飾りだわ!確か翔にあげたはずなのに、どうして…?」
アリエッティは原因を探るべく、ニーヤの顔を見た。
ニーヤは「紙が入っていただろう。」と言っているかのように「ニャー。」と鳴いた。
アリエッティは手ぬぐいの中に手を入れ、まだ入ったままの状態になっていた紙を取り出した。
紙を開くと、そこには次のように書かれていた。
アリエッティ。ぼく、しゅじゅつがせいこうして、げんきになったよ。
きみのおかげだよ。ありがとう。
そして、ぼくのせいできみをひっこしさせて、ごめんね。 しょう
アリエッティはその字を見て、目を大きく見開いたまま驚いていた。
なぜならその筆跡は、以前翔が書いた「わすれもの」という字と同じだったからだ。
(まさか…?)
彼女の手は紙を持ったまま震え始めた。そして彼女の目は次第に潤んでいった。
「これ、何て書いてあるんだ?それに、何でそんな顔するんだ?」
字を読むことが出来ないスピラーは状況が理解出来ずにいた。
「翔…。助かったんだ…。」
「しょう?」
「人間の男の子よ。」
「人間のって…?もしかして、引越しの日の朝に会った?」
「そうよ!彼はあれから手術を受けて、そして元気になったのよ!よかった。よかった!無事に生きてくれて…。」
彼女の目からは次から次へと大粒の涙がこぼれていた。
「ふうん…。」
スピラーはアリエッティが天敵であるはずの人間のことで、どうして泣いて喜ぶのか分からなかった。
しかし、それでもアリエッティに手を差し伸べ、彼女をねぎらった。
かたわらにいるニーヤは「よかったな。」と言っているような表情で、その様子を見つめていた。
やがて気持ちが落ち着いたアリエッティは、自分の髪をまとめ上げて、返してもらったばかりの髪飾りで留めた。
「ニーヤ。翔からこれを渡すように頼まれてここまで来たのね。ありがとう。」
彼女は手を伸ばし、ニーヤの顔をやさしくなでた。
「ニャー!」
ニーヤは照れたような表情を浮かべて鳴いた。
一方、背後にいるスピラーはアリエッティが食べられることを警戒し、サッと弓矢を構えた。
それに気付いたニーヤは「おいおい。」と言いたげにスピラーを見た。
彼はそれを見て、「分かったよ。」と一言つぶやき、弓矢を下ろした。
一方のアリエッティはニーヤとの懐かしい再会を心から喜び、しばらく彼から離れようとしなかった。
その様子をスピラーは何も言わずにかたわらから見つめていた。
しかし、しばらくすると居辛くなってきたのか、家に引き返していった。
家の入り口ではポッドが立っていた。
「おじさん、そこで待っていたの?」
「ああ。君とアリエッティに何かあったらいけないと思ってな。だが、どうやら心配しなくてもよさそうだな。」
「うん。俺も出る幕なさそうだったし。」
二人は簡単に会話を交わした後、一緒に家の中に入っていった。
スピラーが引き返してから、アリエッティとニーヤは幸せそうな表情をしながら一緒にいた。
それからしばらくして、アリエッティはふと思いついたように
「私、今から翔に返事を書きに行くわ。しばらく待ってて。」
と言うと、ニーヤにここで待機するように頼んだ。
そして彼女はポットと2枚のティッシュ、さらには翔からのメッセージが書かれた紙を持ち、足早に家の中に戻っていった。
それから10分後、アリエッティは折りたたんだティッシュと一枚の紙を持って、一人で戻ってきた。
「ニーヤ、お待たせ。」
彼女はそう言うと、持っていたものをニーヤが首に巻いている手ぬぐいの中に入れた。
「それじゃ、これを翔に届けてね。頼んだわよ。」
彼女はそう言うと、ニーヤのあごを優しくなでた。
ニーヤは軽くうなずくと、スクッと立ち上がった。
そして「ニャー。」と一言鳴いた。
アリエッティにはそれが何という意味なのかはよく分からなかったが、恐らく「また来てもいいか?」と言っているように感じられた。
「いいわよ。何もないけれど、ぜひまた来てね。」
「ニャー。ニャー。」
ニーヤは「分かった。また来る。」と言っているかのように鳴くと、振り返ってアリエッティに背中を向けた。
そして次の瞬間、勢いよく走りながら、来た道を引き返していった。
「じゃあ、またねーー!」
アリエッティは右手を大きく振りながら見送った。
ニーヤの姿が見えなくなった後、アリエッティは髪飾りを外した。
そしてそれを両手の上に乗せて、翔のことを思い浮かべた。
(翔。助かってくれて、うれしかった。それから、ポットとティッシュを送り届けてくれてありがとう。お母さんが早速喜んでポットを使ってくれたし、お父さんはティッシュが手に入ったことを喜んでくれたわ。これから会えるかどうかは分からないけれど、私の心の中にはいつもあなたがいるわ。あなたのことを心の支えにして生きていくから、翔も私のことを忘れないで。)
そう心の中で語りかけながら、アリエッティは翔との間にあったことを思い出した。
思えば、彼に姿を見られて借りに失敗し、屈辱的な思いをしたこともあった。
自分が落としてしまった角砂糖を置いていったことで、複雑な気持ちになったこともあった。
別れを告げに行ったのに、彼のペースに乗せられたこともあった。
彼に「滅びゆく種族」と言われ、涙を流しながら悔しがったこともあった。
でもお母さんを助けるために「一緒に探そう」と言ってくれたこともあった。
翔はお母さんの居場所を教えてくれて、私がお母さんに会えた時に、やさしい顔で見つめてくれた。
別れの日の朝に私に会いに来てくれた。
そして手術が成功し、無事に助かったことを私に知らせてくれた。
「翔、ありがとう。私、あなたのことを絶対に忘れないわ。いつまでも元気でね。」
アリエッティはそう言いながら、髪飾りをじっと見つめていた。
彼女の心の中には、また一つ新しい希望の光が芽生えていた。