俺はニーヤ。貞子っていう老人の女性に飼われていて、古い大きな屋敷に住んでいる猫だ。
無愛想な顔をしているが、まあ気にしないでくれ。こんな俺にも感情くらいはあるんだぞ。
デブ猫?それは言うな。失礼だぞ。
さて、俺はある日の朝、アリエッティという名の小人の少女を翔っていう人間の少年に会わせる為に一役買った。
そしてアリエッティが去っていった後、俺は急に彼女の姿をもう一度だけ見たくなって、気がついたら駆け出していた。
全力で走り続けた末に、俺は数秒間だけ後ろ姿を見ることが出来た。
彼女は気付いていなかったが、まあそれは良しとしよう。
俺は彼女の姿が見えなくなった後、どうか幸せになってくれよと願った。
そして朝日の光を浴びながらゆっくりと引き返し、屋敷まで帰ってきた。
屋敷では昨日と同じように、俺は庭で翔と一緒に過ごしていた。
彼は俺を腹の上に乗せたまま本を読んでいたり、木陰で一緒に座ったりした。
庭にはたくさんの植物が生えていて、様々な香りが漂っていた。
そして時々チョウやミツバチなどが、花の蜜や花粉を目当てに飛んできた。
まわりの木々では大勢のセミ達がうるさいくらいにミンミン鳴いていた。
うるさいとは言っても不快なうるささではないのだがな。
翔はしきりにこちらを見るものの、あまりしゃべろうとしなかった。
少し寂しいことではあったが、それでも一緒にいられる時間を少しでも楽しもうとする意図が見て取れた。
何しろ彼がここにいられるのは今日の昼までなのだからな。
それにしても寂しくなるな…。アリエッティがいなくなり、そして翔までいなくなってしまうとなると…。
しかも翔は二度と…。いや、それは言わないでおこう。
とにかく俺は残酷なまでに過ぎていく時間の中で、一緒にいられる時間を噛みしめ続けた。
やがて太陽が真南まで来た。
その時、玄関の扉が開いた。そして一人のおばさんが姿を見せた。
「翔さん、昼ごはんの準備が出来ましたよ。」
貞子の声だ。ん?飼い主なのに呼び捨てにするなって?
まあいいじゃねえか。どうせ俺のしゃべっていることは人間には分かりゃしねえんだし。
「はあい。」
翔は読みかけの本を閉じるとゆっくり立ち上がり、屋敷に向かって歩き出した。
「ニーヤもいらっしゃい。」
貞子が言った。
そうか。俺の分も用意してくれたんだな。
俺は「あい、分かった。」と言って立ち上がり、翔の後ろをついていった。
食事が済むと、翔は荷物の整理をしに自分の部屋に行った。
その間、俺は玄関で待つことにした。
すると俺のわきを貞子が通り過ぎていった。
彼女は特に俺に話しかけることもせずに外に出て、玄関の扉を閉めた。
どうやら車を出す準備に行ったようだ。
5分後、翔は病院に持っていく荷物を手に持ちながらゆっくりと階段を降りてきた。
玄関の近くまで来た時、ちょうどハルというオバハンが通りかかった。
「坊っちゃん、もう病院に行く時間なんですね。」
「はい。これから貞子さんの車で行きます。」
「そうですか。それでは気をつけて行ってらっしゃい。」
「行ってきます。ハルさんは一緒に来ないんですか?」
「私ですか?今ちょっと小人を探しているんで、今日のところは遠慮します。」
「そうですか。」
翔はまだ小人探しに躍起になっているオバハンを少し可笑(おか)しそうな目で見た。
まあ、俺もそうなんだがな。
「手術がんばってくださいね。」
「はい。がんばってきます。」
翔は短い会話を交わした後、玄関まで来てくつを履いた。
「ニーヤ、待っていてくれてありがとう。」
「ニャー (どういたしまして)。」
翔は玄関の扉を開けると、俺と一緒に外に出た。
彼はそのまま貞子の乗っている車に向かおうとした。
それを見て俺は
「おいおい、小人の家族にもあいさつして行けよ。」
と言いながら通風孔のところに歩いていって立ち止まった。
「分かったよ。」
翔は俺を見ると、そう言って通風孔に来て立ち止まり、座り込んだ。
そして俺達は一緒に、かつてアリエッティの家族が住んでいた軒下の部分をじっと見つめた。
その家族はすでにこの場所を離れていったため、今はもぬけの空だ。もうそこには誰もいない。
それは分かっていた。
でも俺はまだ彼らがそこにいるような気がしていた。恐らく翔も同じことを考えていると思うが。
「アリエッティ。短い間だったけれど、君に会えてよかったよ。ここに来るまでは、僕は生きる希望を失っていた。ただ死ぬのを待つだけのような状況だった。でも君に出会えて、僕はやっぱり生きたいと思うようになったよ。君は本当に僕の恩人だよ。ありがとう。」
翔の口調は希望に満ちていて、そしてどことなく名残惜しそうだった。その気持ちは俺にもよく分かった。
その時、後ろの方で
「翔さん。そろそろ出発しますよ。いいですか?」
という声がした。貞子の声だった。
彼女は車のエンジンをかけながら運転席に座っていた。
「はい。今行きます。」
翔はそう返事をすると、ゆっくりと立ち上がり、車の助手席のところまでこれまたゆっくりと歩いていった。
俺は彼の右横について一緒に歩いていくことにした。
彼が助手席のところまで来ると、おば様は身を乗り出して、ドアを開けてくれた。
「さあ、どうぞ乗ってください。」
「ありがとうございます。」
彼はそう言って助手席に乗り込んだ。
「ニャー (俺も乗せてくれよ)。」
「だめだよ。ニーヤはここにいてくれ。」
翔は残念そうな表情でそう言った。
「ニャー。ニャー (分かったよ。それなら手術がんばってこいよ)。」
「うん。」
翔はそううなずいて車のドアを閉め、そしてシートベルトを締めた。
貞子はそれを確認すると、いよいよ車を発進させた。
そしてあっという間に車は物陰に隠れて見えなくなり、エンジン音も聞こえなくなった。
「きっと生きて帰ってこいよ。」
俺は翔に向かって精一杯のエールを送った。
今朝の全力疾走のせいで体が筋肉痛になっていたため、走って追いかけることはしなかった。
しかし俺はその場に立ち止まったまま、ひたすら翔の無事を祈り続けた。
頼むから、生きて帰ってきてくれ…。