ちょっとサイコなので注意をば。

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お花!お花!


百合の咎人

 閉じられた部屋の中に充満する百合の匂いは私を甚だしく不快にさせた。神に赦しを願う告解に香水をつけてくるとは不遜な男だ。しかし、空間を区切っているにも関わらず、ここまで匂うものだろうか。どれだけ顔を顰めようと相手には伝わらないので構わないのだが、神父として信徒の罪を聞いている以上、醜態は見せられない。

 

 教会というのは厳粛な雰囲気に包まれているものだ。告解室で慌てふためいた態度を取ればすぐにでも伝わってしまう。数十年とこの大きな街で神父を勤め上げている自分はもはやフランスの顔なのだ。匂いのきつい香水をつけた男に声を荒げるのは簡単だが、威厳さが失われてしまうかもしれない。

 

 男はどこか陶酔めいた口調で滔々と語り出す。丁寧な言葉で取り繕おうとも、ここに来ている時点で咎人であることには変わりない。どんな話をするにせよ、私は彼に赦しの言葉をかけてやらなければならないのが辛い。私が神であれば、このような男などすぐに天罰を下してやるのに。

 

「昔の話でございます……」

 

 昔の話でございます。僕は華やぐ街を統治する貴族の四男坊として生まれました。とても病弱で兄たちが外で遊ぶのを羨ましく見ながら育ち、そんな自分が周囲を見返すことが出来るのは聖書の文句を覚えて披露するときぐらいでした。

 

 だけど、大きくなるにつれて、父も母も兄もその程度では褒めてくれなくなりました。剣術や弓術を修めるどころか、街を駆け回ることすら出来ない少年に将来の見込みはありません。どれだけ聖書に精通していても、そんなものは何の役にも立たない。財産を食い潰してゆくだけの存在になりつつあり、焦りが生まれていた頃、僕は彼女に出会いました。

 

 父が家に修道女を呼んでいたのです。父は信心深い方ではなかったのですが、僕を気遣ってくれたのだと思いました。純白の頭巾の上から被さる漆黒のベールはたいていの人間の特徴を殺してしまうものです。けれど、彼女の美しさは大河のように溢れ出て、隠せるものではありませんでした。

 

 同じく漆黒のトゥニカはくるぶしまで丈のあるゆったりとしたローブです。あらゆる人間の肉体を覆い隠してしまうはずの衣装は、逆に彼女が醸し出す魅力を際立たせていました。きめ細やかな肌が覗く手は小さくて、それなのに慈母のような笑みを浮かべていた彼女に、僕は心惹かれました。

 

 次の日から咳止めの薬を服用して、僕は教会に通い詰めることになりました。仕事のため、不在である日もありましたが、多くの場合、教会の裏にある花壇で祈りを捧げておりました。僕が子供のように拙い言葉で聖書を暗誦すると、いつだって喜んでくれる彼女はまさしく聖女です。

 

 街の人たちから、マグダラのマリアと呼ばれる彼女を僕は尊敬していました。鼻の曲がるような貧民にも慈悲深く施しを与え、神を信じぬ罪人であっても辛抱強く信仰を訴えました。……そのこともあり、ここでは彼女のことをマリアと呼ぶことに致します。

 

 マリアは百合が好きでした。普段から世話をしている花壇もすべてが白く、その芳醇な香りをいつも体に纏っていました。強い風にも暑い日差しにも負けない強い心で神のために祈る彼女は純潔たる百合に相応しいと言えるでしょう。

 

 えぇ……当然、神父さまも知っておいでの知識だと思います。百合は教会における聖母のシンボルですからね。領内から出たあとに多くの地を流れましたが、土仕事を嫌う貴族であっても百合だけは自分の手で世話をしている貴婦人は少なくありませんでした。

 

 逢瀬にも満たぬマリアとの交流は半年で終わりました。彼女は誰にも告げないままに姿をくらませたからです。教会はマリアの行方を探すことすらせず、新たな修道女を立てました。多くの者はそれで満足したようです。けれど、僕は違いました。足にマメが出来るまで街を歩き、喉が枯れるまで声を張り上げました。

 

 街の人々は奇異なものを見るような目で見てきましたが、僕は一向に構いませんでした。やがて息子がそんなことをしていると知った父に家に閉じ込められましたが、諦めることは出来ません。そして父から、自身を超えるほどの武術を修めなければ、外には出さないと言われました。

 

 本来ならば絶望しなければならないことです。父は国内でも評判の武辺者でしたから。そんな男を病弱な男が倒せるわけもない。父は空手形のつもりであったようです。そんなことは出来るはずもないと高を括っていました。その日から、僕は鍛錬を始めたのでございます。

 

 長兄から剣術を習い、三兄から馬術を教えてもらいました。打ち倒されても諦めず立ち向かう姿に兄たちが感動していたのを覚えています。マリアと出会うまでは病弱のせいにして、ろくに外へ行かなかった男がここまで変わるのですから、恋慕とは凄まじいものですね。

 

 けれど、僕は父を正面から打ち負かすことはとうとう出来ませんでした。成長著しい僕を見て、焦った次兄がマリアの秘密について口を滑らせてしまったのです。次兄は街でも評判の不良でありました。カリスマで以てゴロツキたちを束ねて、たびたび騒動を引き起こしていましたが、彼もまた父に、自身を超えるほどの武術を修めるよう言っていたのです。そんな次兄から聞いたことなど信じるに値しない。だけど、僕は黙っていられなかった。

 

 マリアが娼婦であったなんて有り得ないと思いました。教会とは多くの人が集まる場所です。罪深き女であったとしても、信仰に貴賤はない。しかし、娼婦が修道女を勤めることなど出来はしないでしょう。教会がそれを許すはずがない。

 

 ……ここは告解場です。どんな罪を犯そうとも教会が許したと言えば、それは“神からの赦し”に他ならない。僕は兄を殺しました。鍛え抜いた拳で彼が死ぬまで殴り続けました。肉が裂け骨が折れる感触は未だ離れないもの。それでも、マリアへの侮辱は聞き流せなかった。

 

 しかし、僕はもう悟ってしまっていました。次兄の言うことは正しいのだと。僕が彼女と最初に会ったときのことを思い返していただければ、お分かりだと思います。敬虔深いわけでもない父がなぜ修道女を家に呼んだのか。人々がなぜ彼女の行方を探さなかったのか。彼女がなぜ“マグダラのマリア”と呼ばれていたのか。

 

 神父さまは知っておられるでしょう。“マグダラのマリア”は“聖母マリア”と同じ名でありながら、強い信仰を得てはいません。彼女を信仰する者と言えば、罪の女……娼婦であると決まっているのです。三兄の言う通り、彼女は清貧を貫く教会が裏で金を稼ぐための手段だったのでしょう。そんな許されざる行いを領主である父が見逃すはずもない。

 

 僕は激情に駆られ、父の寝所に剣を携えて訪れました。彼は教会に勤める新たな修道女と寝ている最中でした。厳格な武辺者だと思っていた父は色狂いの男でしかなかったことに、二度裏切られた気になって、何度も何度も剣を振るいました。肉が飛び散り、血飛沫が舞い、首が落ち、顔が潰れ、夜が明けました。逃げようとする修道女も殺害したので、そこは血の海だったと思います。

 

 屋敷を出た僕の足は自然と教会の花壇に向いていました。立ち込めるような濃い百合の匂いは血の匂いすら掻き消し、その白い花弁は赤さをどんどん吸収しました。まるでマリアに抱かれているように感じ、私は泣きながら花壇を掘り返しました。もう分かっていました。彼女は何のために百合を世話していたのか。土の中には体を丸くして眠る胎児の骨たちがありました。マリアの先代やその前の人々がここで子供を産んでいたのだと思われます。

 

 百合を手折り、僕は馬を走らせました。逃げたのではありません。僕の目的は真実を知れど、何も変わっていなかった。マリアを探す。罪に塗れてはいますが、彼女に何の落ち度がございましょう。悪いのは教会だ。そこを仕切る“神父さま”だ。

 

 ねぇ、そうですよね?“神父さま”。

 

✳︎

 いつの間にか話に魅入られていた私は、そう呼びかけられて我に帰った。彼が振るった剣に腹を貫かれ、告解室の床を醜悪な液体が走っている。部屋の真ん中にある板を容易く砕かれ、そこで初めて男の顔を見た。憎悪に満ちた表情と小汚い装束からは、彼が貴族の子弟であるとは信じられなかった。ぼんやりとしていた頭が激烈な痛みによって目を覚ます。

 

 地に伏し、あまりの痛みに転げ回る。助けを呼ぼうと声をあげようにも腹に力が入らない。なぜ気付かなかったのだ。私は男に何度も会ったことがある。特に男の父親である領主には多大な寄付をもらった。娼婦を修道女にするという考えは悪くなかった。いまの領主にも好評だったのだ。この街を大きくなったのは、私のおかげだ。私の、私の、私の、私の、私の!

 

「私を……神に仕える者を殺すと地獄に落ちるぞぉ!それでもいいのか!?おまえは信徒だろう!?今からでも遅くない、私を助けろ!」

 

「まだそんな余裕があるのか貴様は。神の名を騙り、悪を為す者に神のご加護などあろうはずもない。だが、今からでも遅くないのには変わりない。いいか、ここは告解場だ。僕に許しを乞え。マリアに許しを乞え。神ではなく、僕に頭を垂れよ」

 

「馬鹿な……おまえのような咎人に何故そんなことをしなくてはならない。娼婦どもは望んで男たちに股を開いたのだ。私は悪くない!」

 

 腕を地面に縫い付けるように剣が振ってきた。私はその痛みに喉が張り裂けたのではないかと思うほどに絶叫した。告解室の扉を勢いよく開けて、助けを求めようとした。だが、教会は炎に包まれていた。中にいる信徒たちが既に事切れているのが見える。

 

 この男が殺したのだ。たかが娼婦のためにここまでのことをするとは。彼は気狂いだ。有り得ない。そして、私は恐怖を得た。心胆を震えさせる、地面を揺るがすような圧倒的な恐怖。それは死ぬということ。神父である自分は天国へ行く。そんなものは決まっているのに、なぜ、ここまでに怖いのだ?

 

 溢れる血の中で意識が遠くなる。充満する煙の苦しさでもなく、轟轟と音を立てる火炎の熱さでもなく、血液が抜けていく怖気でもない。最後に感じたのは不快で堪らぬ百合の匂いであった。娼婦どもが身に纏う香水の匂い。教会の裏で骨を隠すために植えられている偽りの花。そうして……私は目を閉じた。二度と覚めない眠りの中に落ちて行った。

 

✳︎

 

「それでどうなったの、お母さま」

 

「復讐は成り、悪は滅びたのよ。他の子供たちには評判が悪いのだけれど、あなたはこの話が好きねぇ。聖書が好きなお父さまの血かしら」

 

「みんなお子さまだから。スリル!サスペンス!バイオレンス!そして完全懲悪。最後が尻すぼみなのは微妙だけど、そこはわたしが改善してみせるわ!」

 

「あら、マリアは物書きになりたいの?」

 

「劇作家よ!お母さまとお父さまが満足するようなすっごい劇を書いてみせるわ!」

 

「楽しみね」

 

 窓辺に飾ってある百合を視界に入れた。罪ひとつ、穢れひとつもない白い花弁が地面に落ちる。そろそろ夫が帰ってくるはずだった。弱きを助け強きを挫く、彼のことを愛している。フランス王家の命を受けて悪を倒す騎士。フルール・ド・リス……金色の百合を背負う彼は今日も正義を為している。神の名を借りて娼婦をやっていた私にはもったいない自慢のひとだ。

 

「幸せよ、あなた」

 

✳︎

 

「僕もだよ」

 

 いつか見た夢の終わり。悪を成した咎人も罪を重ねた咎人も、夢くらいは自由であっていい。何も返すことのない亡骸にそう声をかける。立ち込める血の匂いに辟易し、この街で開いていた花屋で購入した大量の百合を傷に詰めてゆく。大きく膨らんだ腹は今や萎み、鉄錆のような醜い液体が流れ出ている。

 

 彼女は百合の匂いがする人であった。おかしいじゃないか。こんなにも臭くなかっただろう。何故、百合の匂いが掻き消してくれないのだ。教会の罪を丸ごと隠す芳醇な百合であれば、僕の罪を洗い流してくれる。告解すれば、どのような咎人であっても許される。神は赦してくださるのだ。

 

「僕はあなたが好きなんだ。百合の花が示す通り、永遠の純潔なんだ。あなたはふしだらな“マグダラのマリア”ではなく、処女受胎を果たした“聖母マリア”なんだ。そうだろう?」

 

 何も答えない。死んでいるのだから当然だ。僕は亡骸を掻き抱く。ちっとも百合の花の匂いがしない彼女の体に蛆が湧き出したころ、騎士たちに囲まれた。正義を果たすフランス王家の百合の騎士たちに剣で突き刺されるまで、僕はずっと夢の中で彼女と過ごしていた。

 

 それはとても、幸せな夢であった。



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