※pixivに投稿したのを実験的に持ってきた物です。
『「I love you」の日本語訳? そんなもの、「月が綺麗ですね」とでもしておきなさい』。
一説によると、かの文豪夏目漱石は、生徒に『I love you』の訳を聞かれた時にそう答えたという。
ロマンチストとされる漱石らしい、ウィットに富んだ逸話と言えるだろう。最も、近年ではこの説の信憑性は低いとされている。
だが、『月』がこの言葉を言われた相手を指すのだとしたら。
私はきっと、『月』にはなれない。
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私のトレーナーさんは、キザな人だ。
「おはよう、カフェ。今日も素敵だね」
「いらっしゃい。その綺麗な髪飾りはカフェが選んだの? そっか。うん、とっても良く似合ってるよ」
「お嬢さん、手を。駄目だよ。転んだりしたら大変だろう? ……よし、いい子だね」
歯が浮くようなセリフを平然と言うし、まるで私をお姫様の様に扱う。
些細な外見の変化も見逃さないし、道路を歩く時は必ず内側を譲ってくれたり、水筒を常に常備していたり。女子力が高い上に恩着せがましくもない。
学園内の一部からは『王子様』なんて呼ばれているようで、一緒にいると時々、羨望の視線がこちらに飛んでくる事もある。
最も、他の子にも同じように優しくするのは、少し遠慮してほしいところではあるけれど……
そんなトレーナーさんと契約し、トゥインクルシリーズを駆け抜け三年とちょっとが過ぎた。
今でも少しドキドキしてしまう事はあるけれど、トレーナーさんのキザな言動にも慣れ、かなり仲も良くなったと思う。休日には出かける事もあるし、願掛けとしてお揃いのアクセサリを買った事もあった。
「───カフェ、コーヒーが入ったよ」
とある日の休日の夜。
トレーナー室に備え付けられている簡易的な台所から出てくると、トレーナーさんはカップが二つ乗ったトレイを机に置いた。
「……ありがとうございます」
「熱いから、気を付けてね」
私は読んでいた本を閉じると、トレーナーさんから猫の絵が描いてあるカップを受け取った。
触れた手からは気遣いが伝わってくる。感じる暖かさは中身のコーヒーか、それとも心の熱か。
「……では、頂きます」
「うん、召し上がれ」
ふーふーと息を吹きかけると、カップを傾けて中身を飲んでいく。いっぺんに飲むとお腹が痛くなってしまうから、ゆっくりと。
そうして半分ほどを飲み干すと、その美味しさに自然と顔が笑顔になっていった。
「……ふぅ、美味しいです」
「良かった。喜んでもらえてなによりだよ」
綺麗な笑みでそう言われると、無意識に顔を逸らしてしまう。
「……以前よりおいしくなりましたね。教えた身としては嬉しい限りです」
「そう? やっぱり先生が良いからかな」
自身もコーヒーを飲み、トレーナーさんは『本当だ』と言葉を漏らせば、私も同じ様に笑みを浮かべた。
コーヒーの匂いと、木々が風に揺れる音、そして二人の呼吸音、時々外からの喧騒の声。
今、部屋で聞こえるのはそれぐらいなもので、とても静かだ。
トレーナーさんとの関係はとても良好だと思う。
互いに互いを尊重し、そして悪いところを訂正しあえるのは、素晴らしい事だ。
「ねえ、カフェ」
そんな中で、トレーナーさんは、顔を上げて私を見つめる。
そして次に窓の外を眺めれば、夜の静けさに染み入るような声で、ぽつりと言った。
「……月が、綺麗だね」
「……」
少し前から、トレーナーさんはこういう静かな夜に、この言葉を言ってくるようになった。
きっかけは鮮明に覚えている。
元から仲が良かった私たちは、その日も一緒にコーヒーを飲む約束をしていた。その時、カップを渡そうとして、私が段ボールに躓いて転びそうになった。
そして、それを支えようとしたトレーナーさんも体勢を崩し、押し倒された。
その後に初めて、これを言われたのだ。
正直、満更でもない。
不満などある訳もないし、人となりはこの三年間で嫌という程知っている。気遣いが出来て、陰口を言わなくて、正直で、でも少し気が抜けているところもあって……そう、彼が素敵な人だという事は、私が一番知っている。
───でも、私には自信が無い。
素敵な彼に釣り合うウマ娘であるという、自信が。
「……いえ」
『好き』と言う事は簡単なのだろう。けれど、トレーナーさんは多分、私を気遣ってくれている。直接言葉にしてしまえば、何かが崩れるという確信からだろう。
直接言われてしまえば、受け入れるか拒絶するかしかない。
しかし、断ってしまえば今の日常の全てが崩れる気がして、受け入れてしまえば心の弱さ故に自分が押しつぶされてしまう気がして。
だから私は、そんなトレーナーさんの心遣いに、ずっと曖昧な拒絶を続けている。
何度も私を『月』と言ってくれる、『太陽』のようなその人の寂しそうな顔を見ながら。
「───星の方が、ずっと綺麗ですよ」
私は今日も、トレーナーさんを振った。
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「はぁ…………っ」
涙混じりに漏らした声を、夜のターフは静かに吸い込む。
それが逆に私の心を刺激して、更に涙が溢れてきた。
「……」
また、断ってしまった。
トレーナーさんの言葉を拒絶した後、私は夜のターフへと来ていた。
ここは学園以上に静かで誰もいない。
三角座りをしながら、膝に顔を押し付けて泣いていた。
……寮の門限は過ぎてしまっているけれど、そんな事を気にしている余裕はなかった。ただ、脳裏に心配そうな顔で私を叱るヒシアマゾンさんの顔が浮かんで、またそれで心がざわつく。
『寮へ戻ります』とトレーナーさんに言ってしまったから、彼も心配しているだろう。
後悔なのか罪悪感なのかどうかも言い表せない感情が、胸の中を支配していた。
「……うっ……ひっ……」
声が嗚咽となって出てくる。
抑えようとしても止まらず、体が震えた。
受け入れてしまえたらどんなに楽だろうか。
『私も好きです』と言えたら、どんなに幸せだろうか。
『───』
「……心配、してくれるの……? うん、また、断っちゃった……」
トレーナーさんと二人きりだからと、遠慮してどこかへ行っていた『あの子』が、泣いている私を見つめて近づいてくる。
『あの子』はいつも、こうして私がトレーナーさんを拒絶してしまった時には慰めてくれる。けれど、感情はまだ沈んだままだった。
『───』
「……うん、そうだね。また謝らないと……」
『───、───?』
「……なんで自信がないか、って……?」
『あの子』は私の背中をさすりながら、それを聞いてきた。
「……私は暗いし、面白い話も出来ないし……トレーナーさんにしてあげられる事といったら、コーヒーを淹れるくらいで……なんでトレーナーさんが私を選んでくれたかもわからないし……」
ぽつり、ぽつりと零していく。
理由なんて、そんなものだ。
他人への劣等感、そして自分に対する臆病。並べてみればありきたりすぎる理由。けれど、それらは私を何よりも重い鎖として縛り付けている。
そしてなにより───
「───トレーナーさんには、他にもっと良い人がいると思うから……」
トレーナーさんはキザな人だから、私を『月』と言ってくれる。
だから私は、「他の星の方が綺麗」だと、そう言うのだ。
『───』
「……うん、うん。分かってる。いつかは、ハッキリさせないと……」
『───』
「……ありがとう、そろそろ戻ろうか」
「やぁやぁ、臆病なカフェ」
突然、離れたところから声がした。あまり大きくはない声。だがやけに鮮明に響くのは、今が夜のせいか、それともその存在感からか。
白衣を靡かせ、私の隣に立つと、彼女はいつも通りニヒルな笑みを浮かべた。
「……タキオンさん」
タキオンさん───アグネスタキオンがそこにいた。
今はもう門限も過ぎた頃だし、タキオンさんは今日練習が休みの日なはず。普通ならターフに来るはずが無い。
「……」
「ふぅ~ン、君、またトレーナーくんを振ったのかい?」
「……! なんでそれを……?」
知るはずがない事を言われ、私は目を見開いて驚く。
確かに、私は何度かタキオンさんへトレーナーさんの事を相談した事はあった。けれど、今回の件はつい先ほど起こった出来事だ。覗きでもしていなければ知るはずがない。
そう思い、私が訝し気な顔をしていると、タキオンさんは手を顔の前で振った。
「あ~違う違う、変な事などしていないさ。
さっき、私が帰ろうと歩いていると君のトレーナーくんと遭遇してね。なんだかいつも通りの『王子様』然とした感じが無かったから、ちょっと不思議に思って観察してみると、目元が赤くなっている。
おかしいな? と思ってこうしてターフを訪れてみれば、こうしてキミがいた。そして君の目元も腫れている。互いに傷つく事柄とすれば真っ先に思いつくのは喧嘩だが、君たちそんな感じじゃないだろう? となると、またカフェがトレーナーくんを振ったという考えに至った。実際君の反応を見る限り正解だったようだしねぇ。
なに、この通り軽い考察の結果さ」
肘を抱える様にしてそう論ずれば、タキオンさんは得意げに笑顔を作った。
確かに、その思考能力も凄いが、それ以上に私はその話の一部に酷い悲しみを覚えてしまう。
───トレーナーさんも、泣いている。
よく考えみればわかる事だった。
普段あんなに笑顔を絶やさないトレーナーさんが、その時だけは真面目な顔をしている。それはつまり、笑顔を忘れるほど真剣に私を想ってくれているという事実に他ならない。
「……っ」
「って、ちょ、カフェ?」
「……ぅ……っ!」
感情が抑えられず、タキオンさんの前という事も忘れて涙を流してしまう。膝に顔を擦り付け、何とか抑えようとするけれど、全く止まる気配は無かった。
そして歪んだ視界に、私がいなくなった後の部屋で泣くトレーナーさんの姿が鮮明に想像できて、更に涙が溢れてくる。
止まらない。
涙もしゃっくりも止まらず、まるで濁流のようにあふれ出してしまう。
「ああぁ……ぅあぁあああ……!」
「ちょ、待った待った! 一旦落ち着こうじゃないか。ほら、カフェ、ゆっくりでいいから深呼吸をしよう」
タキオンさんは膝をつくと私の背中に手を当て、ゆっくりと擦ってくれる。
夜も更けこんできて少し寒いターフの中、その手は少しだけ暖かくて、けれど涙が止まる気配はなかった。
「……やっ、ぱり、私は……」
「うん? どうしたんだい?」
「私には、トレーナーさんに選んでもらえるような価値なんて……!」
「カフェ」
立ち上がり、感情に任せ言葉を吐きだそうとする私を、真剣な声色が止める。
それに驚いて顔を見れば、タキオンさんは首を振った。
「それは違うよ」
「でも! 何度もトレーナーさんを悲しませ続けて、それでも勇気が出ないなんて理由で拒絶を続けて! 『自分だけが辛い』みたいな顔をして泣いてばかりいる私なんか───!」
「それは、君を認めたヒト全てを否定する言葉だ!」
「っ!」
ぴしゃり、と言い切られ、私は何も言えなくなってしまう。
「君を好きだと言ったトレーナーくんだけじゃなく、君を友人として好いているユキノビジンや、ライバルと認めている私すら否定する言葉だよ。
そして───見えないけどね。雰囲気でだけど、君の隣人が悲しそうだ」
「えっ……」
言われ、私は自分の後ろに視線を向ける。
そこには、悲しそうな顔をして今にも泣きそうな『あの子』がいた。彼女は私が見ている事に気づくと、『違うよ! 否定しないで!』と言わんばかりに首を激しく振って訴えてくる。
「……ごめんね」
私がそう謝ると、あの子はまだ泣きそうな顔で何度も頷いた。
顔がくしゃくしゃで酷い有様だ。けれど、そんなに私を大切に思ってくれるんだと、少し心が温かくなる。
そうだ。
自分を否定するという事は、私が大切に思っている人々の選択をも否定する事に繋がる。それだけは、絶対にやってはいけない。
私はいつの間にか止まっていた涙を拭うと、タキオンさんへ向き直った。
「……その、ごめんなさい。それと、止めてくれてありがとうございます」
「いいさ。お返しは今度実験に付き合ってくれればそれでいいよ」
「……考えておきます。まさか、ただ心配して来てくれたんですか……?」
「まぁそれもあるんだが……なに、ちょっとお節介でも焼こうかと思ってねぇ」
タキオンさんはそう言うと、私の隣にゆっくりと座った。
そして足を組み替え女座りにすると、一回深呼吸をし、真っすぐと私の眼を見た。
「───勇気はまだ、出ないかい?」
「……はい」
それは、私が前にタキオンさんへ相談した内容だった。
タキオンさんはいつも自信満々で、モルモットさんに引っ張られる事なく、むしろ引きずり回している。自分の信念をしっかり持っていて、周りに迷惑をかける事もあるけれど、その心の強さは見習うべきだ。
そしてそれが、私に足りていないものだと思い、『どうすれば自信が持てるか』について尋ねた。
結局、上手くいかなかったのは今の現状を見ればわかるだろう。
「……私は、トレーナーさんは『太陽』みたいな人だと思うんです。いつもいるだけで周りを照らして、人を笑顔にしてくれるような。でも、だからこそ、隣に居続ける自信が私には無いんです」
「トレーナーくんの事を好きじゃない、なんて事はないんだろう?」
「そんな事……っ! ……そんなこと、ありません。トレーナーさんは立派な人で、私には勿体なくて……選んでくれて嬉しいとは思います。けど、やっぱり私は───『月』にはなれない」
『私なんかでいいのか』、という性来の自信のなさが、いつまでも私を悩ませている。
それ自体は悪くない。勇気がないというのは、裏を返せば慎重になれるという長所だ。でも、今回ばかりはそれが全て裏目に出てしまっている。
自分を否定するのは良くない。だからと言って、そう簡単に心を変えられる訳ではないのだ。
「───いや」
けれど、タキオンさんはそれに待ったをかけた。
「───『月』になる必要なんてないだろう」
「え……?」
「君はもう、立派な『月』なんだから」
言い切られ、私は驚いて呆けた声を出してしまう。
そんな様子を見てタキオンさんは微笑むと、空を見上げた。
「『月』は『太陽』の光を受け、美しく夜に輝く。なるほど、君とトレーナーくんを表す比喩としては、これ以上にないぐらい良い表現かも知れない。もしトレーナーくんがそれを理解した上で言っていたのだとしたら……ほほう、凄まじいキザ男だねぇ」
「……あの、タキオンさん、真面目に」
「分かっているとも」
顎に手を当てて感心するタキオンさんに、思わず言葉を挟んでしまう。
「果たして、月は太陽から光を受けるから『月』なのだろうか。いや、そこに存在する時点で、それはもう『月』でしかないんだよ」
「……そんなの」
詭弁だ。
それは本物の月と太陽の関係性でしかない。
「いや同じさ。君は『月』であり続ける。トレーナー君が傍にいなくても、逆にいたとしても、君は『月』として輝けるんだ。わかるかい? カフェ。
───トレーナーくんは、君のそういう自信のなさとか、欠点も含めて君が好きなんだ。資格とか自信とか、そんなものを持ったカフェじゃない。泣き虫で弱くて、それでも強い心を持つ、ありのままのカフェをね」
「───」
タキオンさんの顔を見る為に見上げた空には、欠けた月がいた。
完全じゃなくて、不完全な、私の様な月。
けれど、月はいつだって綺麗なのだ。
「さぁ! 自分の中の疑問を解決し、前を向くに足る理由を得た。君はどうする? まだ言い訳を続けてトレーナーくんの言葉を避け続けるか、それとも真っすぐ踏み出し、彼の手を取るのか」
両手を広げまるで演説者のように、タキオンさんは高らかに叫ぶ。
それを受けて、私はゆっくりと立ち上がった。
「腹は、決まったかい?」
「……はい。迷惑をかけてすいませんでした。……あの、タキオンさん」
「うん?」
「本当に、ありがとうございます」
「───ふぅン、いい顔するようになったじゃないか」
肘を抱えてニヒルに笑うタキオンさんに、私は真正面から微笑み返す。
「あっ……でも、どうしましょう。トレーナーさんはもう学園にいないでしょうし、門限も大幅に過ぎて……」
「あぁ、それだけど」
外出届は出していないし、そもそもこの時間に学園の敷地外へ出る事は出来ない。せっかく覚悟が決まったのに、初手から躓いたかと思った私に、タキオンさんは現在地から少し離れたところにある、木々の辺りを指差した。
「そこを歩いていけば、奥に少し崩れた塀がある。通り抜ければもうそこは学園の外だ。この学園にしては珍しく中々修復工事が行われていない場所らしくてねぇ、何のために存在してるんだかは知らないが、とにかく『抜け道』のようなものさ。君、トレーナー君の家はもちろんわかるんだろう?」
「……はい、わかりますけど……そんなものがなぜ存在してるんでしょう?」
「さぁ、分からないが、そんな場所、生徒会が放っておく訳ないと思うんだがねぇ……なんだかきな臭いが、今回ばかりはそれを利用させてもらおうじゃないか」
校則違反も良いところ。罰も逃れられないだろう。
けれど、背に腹は代えられない。タキオンさんによってくべられた熱が冷めないうちに、私はトレーナーさんへ会わなければいけない。
「さあ、行きたまえ。いつ誰がここを訪れるとも限らない。バレないうちに早くね」
「……本当にありがとうございます」
そうして頭を下げれば、私はスマホを仕舞い、『抜け道』の方へと走り出した。
「───タキオンさん!」
その途中、ふと思い出したかのように振り返る。
タキオンさんが驚いてこちらを見たのを確認し、私は声を張った。
「次のレース! 楽しみにしてます!」
「……ああ! 私もさ!」
互いに頷きあい、私は今度こそ走り出した。
振り返らず、真っすぐに。
~~~~~~~~~~~~~~
「……やれやれ、行ったか。まったく、カフェは自分を臆病だなんだと言うが、臆病なのはトレーナー君の方さ。本当に好きで隣にいてほしいなんて思うなら、思いっきり『好き』と言ってやればいい。抽象的な言葉で誤魔化すからこんな事が起きてしまったんだ。結局、『王子様』も断られるのが怖いって話なんだろう。二人揃って怖がりなんて───
───いや、だから惹かれ合ったんだろうねぇ」
~~~~~~~~~~~~~~
「……」
窓際に座り月を見上げる。
私は今、トレーナーさんの家にいた。
門限も破り、外出届すら出していない私が訪ねてきた時、トレーナーさんは酷く驚いた。しかし息を切らした私の様子を見ると、何も聞かずに上げてくれたのだ。
その後、ヒシアマゾンさんからの電話も来たけど、トレーナーさんが誤魔化してくれて、今日は戻らなくていいと許しを貰えた。
ただし、『無事に帰ってくる』という約束を条件に。
『適当に寛いでて』という言葉を残し、トレーナーさんが台所へ行って数分。
私はそこにあるソファやテーブルの傍にイスなどには座らず、こうして窓際に座り月を眺めている。
まるで外国の家のように窓際のスペースが大きいのは、そこで本を読むのが好きなトレーナーさんの趣味だ。こういうところも『王子様』っぽい。
「……お待たせ、コーヒー入ったよ」
「ありがとうございます」
月から視線を逸らし、傍にいる太陽へと目を向ける。
トレーナーさんはトレイに二つカップを乗せてくると、それを一旦机において、頬を掻いた。
「えっと……こっちに座らないの? それに、なんでこの時間に……」
「───トレーナーさん」
「……?」
「……月を一緒に見ませんか?」
困惑するトレーナーさんに指し示したのは、私が座っている窓際の隣だ。今の私の私と同じく最も良く月が見える場所。
トレーナーさんはややおっかなびっくりという感じだったが、頷くと、カップを持ってきて窓際へ座る。そして私に猫の絵が描いてある方を手渡した。
「……ありがとうございます」
一年ほど前、二人で出かけた時に買ったカップ。
その頃にはもうトレーナーさんの家に行く機会も多くなっていて、『無いのも不便だから』と私のために買い、そして家に置いてくれている。
私はそれを少しだけ見つめ、そしてカップを傾けた。
「ふぅ……やっぱり美味しいです、トレーナーさん……」
トレーナーさんの家へ急いだせいか、少し喉が渇いてしまっていたし、落ち着いているように見えてかなり焦っている。だからか余計にコーヒーが美味しく感じた。
「そっか、なら良かった」
いつも通り優しい笑みを浮かべるトレーナーさんだけど、その目の下は少し赤く腫れていた。その原因は私の曖昧な拒絶によるものだ。
翌日には目の腫れが引いていて気付かなかっただけで、いつも泣いていたのだろう。でもトレーナーさんはそんな素振りを見せないでくれていた。
私が、気にしないように。
「……それで、なんでこんな時間に?」
トレーナーさんはコーヒーを半分ほど飲み干すと、私との間のスペースにカップを置き、こちらを真剣な顔で見つめてきた。
それを受けて、私も同じくカップを置けば、一瞬だけトレーナーさんを見て、次いで月を見上げる。
「……?」
それに釣られて、トレーナーさんも月を見上げる。
綺麗に輝いている月。誰に縛られる訳でもなく、ただそこにあるだけで輝いている星。その光は太陽を反射した物ではあるけれど、太陽にその美しさは存在しない。
「……トレーナーさん、月をどう思いますか?」
「どう、って?」
「……率直で構いません。思いついた事を言ってくだされば」
そう言うと、トレーナーさんは月を見上げたまま、少し悩むそぶりを見せる。抽象的な質問だが、少し時間が経つと、月を見上げたまま、言った。
「綺麗な物、かな」
「……そうですか」
「でも、俺には手が届かないみたいだ」
後ろの柱に頭を預け、トレーナーさんはため息と共に吐き出した。
その笑顔はいつもと違い、少し疲れたように引き攣っている。きっと心が擦り減り過ぎて、私にどういう顔をしたら良いか分からないのだ。
そして、心を擦り減らしたのは、私なのだ。
「……確かに、手が届かなかったかもしれません。伸ばしても伸ばしても、月は振り向いてくれなかったかもしれません。きっと、月には自信がなかった。手ばされた手を取る自信が」
「……そう、なの……?」
「……はい」
私たちは、互いに臆病だ。
伸ばして手もどこか頼りなくて、握り返そうとした手もおっかなびっくりで。
「……でも、今は分かりません」
「……、……そうかな」
「だから、もう一度聞きます。トレーナーさん───
───月は、どうですか?」
臆病で、怖がりで、だからこそ惹かれ合ったのなら。
そんな弱さも認め合えたなら。
「……月が、綺麗ですね」
「───今なら、手が届くかもしれませんよ」
こんな言葉も、『I Love You』と言えるだろうか。
さて、どうでしたでしょうか。
二人は立場を超えて付き合い始めたかもしれないし、あるいは案外トレーナーが日和って曖昧な関係が続くかもしれません。
いずれにせよ、この後の事は皆さんのご想像に任せる事と致します。
それでは、またどこかで。