夜、私は外へ出る。向かう先はない、ただの散歩だ。特段何も起こらぬただの趣味だ。星の一つもない夜空の下で、ただ歩くだけだ。

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夜の散歩

 夜の七時二十二分、私は家を出た。辺鄙な住宅街に私は足を下ろす。

 夏であるが故に街灯を無くしてもきつと、辺りは未だにほんのりと明るいのだらう。紺青の空がそれを告げてゐる。

 西を見れば、まだ燻り続ける太陽があつた。けど時期に揉み消されてしまふだらう。

 風は少しの涼しさを帯びて、ずつと当たり続けていればきつと肌寒さに変わる程。昼の暑さがまるで全て幻想だつたように。一応羽織つた上着は正解だつたらしい。

 ぐいと一度それを引つ張つて、私はひたひたと歩き出した。行くあてはない。と言うか、どの道を通るかさえ決まつてゐない。

 …ただ、ほんの気まぐれに身を任せた、夜の散歩。

 

 今この場において音はない。ただ私が地を踏む音を除いたなら。

 足蹴にされるアスファルトの黒は、昼よりそれを増して、しかし灯りに照らされた其処だけは、やや薄く赤ばんでいた。

 恐らくは暖かみを出さうとしているそれは、けれど人工の光とゐう絶対を覆すには貧弱だつた。それ故に遠くに見えるあの白い光は尚更冷たい。

 しかしだからと言つて、それを嘆くことはしない。否、おゐて私にはまるで眼中にない。

 私が見るものは空。私より遥かに高い家の、さらに尚高くある青。

 一面が暗がりの群青に染まつてゐる。一等星すらまだ其処にはない。いや、恐らくはあれが全て黒く染まろうと、輝きは現れぬだろう。星が顔を出すには、この地上は喧しすぎる。

 都会の喧騒、と云う安い言葉があるが、あの遥かな灯火からすらば、この小さな町の光さえ同類だ。それ程にあの瞬きは脆弱で、故に儚いものなのだ。

 だが真に度し難いのは、誰ぞ一人もこれに興味を示さなんでゐることか。

 

 道は坂道になつた。緩やかな勾配のそれを私は登つてゐる。

 まだ若い私の体には、この程度のものは大した負担でもないが、やがて時間を積み重ねれば、それが重たくなつてゐくのだろうか、などとぼんやりと考える。無意味な思考だが、故に今はそれを抱きたい気分だつた。

 坂道の脇に生えた金属の街路樹は、病的なまでに白い光を垂らしてゐる。今の私にとつて、それは半ば目に毒であつた。何故なら、それからは命を感じ得ない。

 ふと、目の前にそれとは違う小さな光を見た。

 その光は男の顔を下から照らしてゐた。発するのは男の手に納まつた黒い板。

 照らす位置が悪いのか、その男からは生気を感じられない。仄暗い闇に沈む背広を見るに社会人だらうか。日々の労働ご苦労様、などと他人事のように思ふ。

 男が板から目を離す様子はない。けれどこのまま行けば、私と男は鉢合うのは必定だつた。

 よつて私は少し体の向きを変えて、私の行く道に一つの半円を追加した。見えない弧を追うと、私と男は衝突することなく、お互いの道を歩くことができた。

 きつとあと十歩も歩けば、私は男の顔も姿も忘るるだらう。それ程に男は私にとつてどうでもいい存在であつた。

 だが一つだけ、たつた一つだけ引つかかつたことがあるとすれば、男はずつと手元のそれを見てゐたことだ。

 周りに注意して歩け、だなどと言いたいわけではない。ただ、やはり最近はああいう人間が増えたなと、少し残念に思つただけのこと。

 

 坂道を登り終えたところで一息をついた。整えるほども乱れてゐない気息に、一つの区切りがつく。

 ふいと私は一度振り返つた。歩いてきた道を見下ろさんと。

 だが、そんなものよりも先に、私の目を奪つたものがあつた。

 其処に見えたものは光。人々の生活が作る地上の星空。逢い引きに選ぶには少し大人し過ぎるが、私にとつては程よいものだった。

 あの光の一つ一つに、それぞれで異なる暮らしがあるかと思うと、少しの尊さを覚える。

 さあと木が一度揺れた。私の腰を、肩を、頬を涼しさが撫でる。

 だがきつと、今あの星を見ているのは、私とこの風しかいないのだらう。

 さう思ふと、尊さが濁つた。

 

 人の生活は便利になつた。調べたいことも、見たいものも、聴きたい声も、何もかもが時間も労力もなく叶う。

 だが、だ。反面にその利便性を維持する為に、人々は縛られざるを得なくなつた。便利さを追求した結果、今度はその便利さの土台に人々は変わつた。

 やがて人はこれの維持に囚われ、維持の先で他者に囚われ、他者の先で時代に囚われてゐつた。

 便利が自由を制限してゐつたのだ。この皮肉に気づくのに、人は何年かけたろう。

 時折些か人は、己自身を狭くし過ぎてゐると、そう思わざるを得ない。

 誰ぞ見やることもないあの星たちを見やつた、今なぞは。

 

 私は背を向けた。死んだような暗澹の中で、やはり光がぽつりと佇んでゐた。

 夜の暗然とは、言い換えれば無為。それこそが元来の姿。だが人はこれを刈り取る。無為のままでは都合が悪いからだ。

 此処とて例外では無いらしく、そして恐らく、やがては居場所を失う。窒息しそうな闇は、溺れる程の光にすげ変わる。

 思えば、私の胸は少しざわめきを覚え、澄んだやうな虚がすぐに現れた。

 居心地の悪い感情を忘れやうとするやうに、私はふと顔を上げた。暗がりの青は、黒に侵食されてゐつていた。

 なるほど、星空に見惚れてゐて気づかなかつた。この暗さはそれ故だつたのか。夜の序曲は既に終わつたらしい。

 けれどやはり星屑の輝きは、其処に一片とて無い。

 神を殺した科学は、此処でもまた殺戮を行った。

 住むべく場所は彼処しかないのに、奪つてしまうことのなんと罪深くあるか。

 

 高台の住宅街は、けれど様相は変化がなく、空が近くなつたかと聞かれれば、そんな感覚は一切無い。

 あの黒はどれほど高くあつても届かない。事実、今あの天に突き出した腕は、ただ夜風を切る程度の働きしかしてくれない。

 何も無い黒だが、人は時にあれを檳榔地黒(びんろうじぐろ)などと呼ぶらしい。凡ゆるものに名前を付ける人の悪癖も、こんな時には良しとなる。わからないものだ。

 静寂を濁してゐるのは、相変わらず私の足音ばかり。あと他にあるとすれば、私の横を通り過ぎる、片手で数えるにも指が余る程の車だけ。

 帰り道か、あるいは急務か。私にはどうだつて良いことだが、しかし唐突な光には目を細めてしまうから、些か厄介なのは否めない。

 足を止めて、はう、と一つのため息をこぼした。濁りもしない、無感情だった。

 

 それから道のままに足を運んだ。今で時刻はおそらく八時をとうに過ぎ去つた辺りか。もう空の色に変化はない。あとはただ、時間の先で日輪の侵略を待つのみだ。

 それほどに夜とはか弱く、そして存外に呆気ないものだ。

 さう、空を睨んでいる時だつた。

 点が見えた。

 それはか細く、一度見失えばもう見えぬと思うほど弱々しい光。しかしただただ黒くある海の中で、己の存在を何より強く示している。

 私は知つている。あの名を知つている。

 

 嗚呼、やはり、夜空にはお前がいないと、淋しい。




~よいだろう人物紹介~
・私
歩いてた人。書いてる時の見た目のイメージは式。

・サラリーマンみたいな人
歩いてきた人。社畜。

・作者
夏の夜に窓から月を眺めてたら色々妄想が膨らんで勢いで書いた。本当は夏に投稿したかったけど色々あってできなかった。こんな文体になったのは書いてる途中で芥川龍之介著「河童」を読んだせい。見様見真似だから多分色々間違ってる。

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