人々に悪戯を繰り返し、すっかり嫌われ者だったオニスズメは、ある日、一人のおじいさんに出会いました。

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オニスズメの涙

 

 むかしむかし、あるところに、一匹のオニスズメがいました。

 このオニスズメはとても性格が悪く、その傍若無人ぶりから人間のみならず、他のポケモンからも嫌われているという具合でした。

 困っている人がいたらその短い羽を駆使し、急降下してその人の頭をつつき、他人の食物をしょっちゅう盗んでは人々の手の届かない場所で食べていました。

 このオニスズメの困った行動に、近くの町に住んでいる人々は困り果てていましたが、懲らしめようにもオニスズメは素早く、とても人間の手で捕まえられるような速度ではありませんでした。だからこそ、オニスズメも安心して人々に悪戯をしていたのでした。

 人々はこのオニスズメを呆れ憎み、いつかこの手で懲らしめてやると毎日オニスズメを睨みつけていました。

 

 

 

 ある日、オニスズメが近くの町の空を飛んでいる時、ふとある家が目につきました。

 町より少し遠い、切り立った崖の上にあるぼろぼろの一軒屋です。崖の下は海なので、落ちればひとたまりもないだろうと、オニスズメはぼんやりと考えました。

 その家を見ていると、ひとりの老人が家から出てきました。杖を使った、よぼよぼのおじいさんです。

 

「よし、今日はアイツに悪戯をしてやろう」

 

 上空でにやりと笑ったオニスズメは、びゅうと風のような速さで空を飛ぶと、一直線におじいさんの元へと飛んでいきます。

 おじいさんは何やら海を眺めているようでした。その瞳は地平線のその向こうを眺めており、その中にはどんな景色が広がっているのか、オニスズメにはわかりませんでした。

 おじいさんはしばらくの間海を眺めると、ため息を吐いて家の中に入っていきます。どうやらもう外には出ないようです。

 上空でバタバタと羽ばたくオニスズメは、若干の疲労を感じておじいさん家の屋根に下りました。オニスズメは羽が短いポケモンですので、長時間の飛行には向いていなかったのです。そのことをオニスズメは大変嫌がっており、すぐに疲れる自分の体力の無さをいつも悲観していました。

 幸い、ドアは閉まりましたが窓は開いています。オニスズメは滑るように屋根から羽ばたくと、開け放たれた窓にその身を滑り込ませました。

 

 その家は少し古ぼけた、それでも大きいものでした。燭台はありませんが、窓から差し込む陽光が家を明るく照らしており、吹き付ける汐風で腐った壁の木の板までもはっきり見えるほどでした。

 窓に向かい合うようにして置かれた机の上に足を乗せたオニスズメは、家の中を見渡します。

 呆れるほどに何もない家でした。

 机と、ダイニングテーブルと、ベッド。それだけです。そして、おじいさんはそのベッドの上に腰掛けて、静かにオニスズメを見ていました。

 

「おやおや、珍しいお客さんが来たもんだ」

 

 ふうわりと笑うその顔は、窓から流れ込んでくる風のような爽やかさと、少しばかりの海の匂いがしました。

 

「せっかく来てくれたのに申し訳ないが、私は君にあげる食べ物を持ってないんだ。ここにあるのは見ての通り、老いぼれたジジイだけだよ」

「フン、どうだかな。そのベッドの横に置いてある花はなんなんだ」

 

 オニスズメの鋭い声音にもおじいさんは動じることなく、にっこりと笑ってベッドの傍に置いてあった一輪の花を取りました。

 

「これは、私の趣味だよ。家の近くに咲いてる花を摘んでみるのが、私の唯一の趣味なのさ」

「寂しい人生なこった」

「……そうだね、けど、私はそれで満足だよ」

 

 うっとりと花を眺めるおじいさんの瞳は、とても優しいものでした。オニスズメはその優しい瞳が何故か気に入らず、羽を羽ばたかせおじいさんのベッドの上に乗ると、素早くその花を奪いました。

 

「そんなに大事なもんなら、俺が貰ってやるよ」

 

 花を嘴に咥えたまま、オニスズメは再び机の上に下ります。そしておじいさんの方を向いてにやりと笑いました。嘴に咥えられた花の茎は既に折れて、美しかった花弁はだらんと力なく垂れていました。

 こうすれば、人間は顔を真っ赤にして怒るはず。今までの人間はそうだった。その考えを持っていたオニスズメは、おじいさんの表情を見て首を傾げました。

 おじいさんはニコニコと笑っていたのです。花を奪われても、台無しにされても、おじいさんは怒ることなく、オニスズメを見ていたのです。

 

「呆けてんのか? じいさん。なんで花を奪われて笑ってるんだ」

「いやいや、久々に誰かと会話したから、嬉しくてねえ」

「…………つまんねー奴」

 

 おじいさんの言葉を聞いて、オニスズメはなんと応えていいかわからなくなりました。今まで疎まれていた自分が、初めてその存在を誰かに喜ばれる、その感覚が彼にはわからなかったからです。

 だから、ぶっきらぼうに言葉を吐き捨てて、オニスズメは窓から逃げ去りました。

 そんな彼の後ろ姿を、おじいさんは相変わらず笑顔のまま眺めていました。

 

 

 ▼

 

 

 

 翌日、オニスズメは再びおじいさんの家に訪れていました。

 

「何故か分からないが、あのじいさんにしてやられた気分だ。絶対にあいつを怒らせてやる」

 

 そう意気込んで窓から家の中に入ると、おじいさんがベッドの上で寝ているのが見えます。ベッドの傍には、昨日とは別の花が置いています。どうやら毎日起きては家の外に咲いている花を摘んでいるようでした。

 おじいさんは疲れているのか、すやすやと寝息を立てながら寝ています。それを見たオニスズメはにやりと笑って、こう言いました。

 

「よし、こいつを俺の鳴き声で起こしてやろう。ぐーすか寝ている時に無理やり起こせば、こいつも怒るだろう」

 

 そして息を大きく吸い込み、自分が出せる限りの大声を出しました。そのあまりの声の大きさに、おじいさんはベッドから飛び起きます。その反応が面白かったのか、オニスズメはげらげらと笑いました。

 おじいさんはきょろきょろと辺りを見渡して、机の上で笑っているオニスズメを見ました。

 しかしおじいさんは怒ることなく、昨日のように笑って言いました。

 

「ははは、起こしてくれたのかい。ありがとう」

 

 その言葉に、オニスズメはしばらくの間呆け、そして彼を睨みました。そんな言葉が返ってくるとは思っていなかったからです。

 

「お前、何故怒らない」

「怒る必要があるのかい?」

「普通、人間は寝ているところをこんな騒々しい声で起こされると怒るはずだ」

 

 オニスズメは睨みながら言いました。

 おじいさんは少しの間考えこんで、ぼんやりと壁を見つめながら答えます。

 

「何故だろう。君に起こされるとあまり腹が立たないんだよ。これから毎日目覚ましとしてウチに来てほしいくらいさ」

「フン、ならお前が死ぬまでずっと鳴いてやらぁ。死んだ日にゃ喜びの一声すらあげてやるよ」

 

 オニスズメの言葉に、おじいさんはにっこりと笑います。

 

「ふふ、嬉しいねえ」

「……気持ち悪ぃヤツ」

 

 笑っているおじいさんの意図がわからず、オニスズメはそっぽを向きました。それでも、自分を突き放すことなく友人のように扱ってくれるこのおじいさんが、オニスズメにとっては不思議で不気味で、しかし何故だか嬉しいのでした。

 しかしそれを認めるのは悔しいので、オニスズメはかぶりを振って頭の中から余計な考えを振り払います。その際に、ベッドの傍に置かれた花が視界に入りました。

 

「また花を摘んできたのか」

「ああ、これは少し遠いところに咲いてる花なんだよ。綺麗だから思わず一輪」

「ふうん、そうかい」

 

 盗んでやろう。そんな思いが再びオニスズメの脳内に現れます。この花は遠くから取ってきた物。ならば、盗めばそれを惜しんでこのおじいさんは怒るかもしれないと、オニスズメはそう思いました。

 しかし同時に、頭の中にいる冷静な自分が盗んではダメだと訴えかけていることに、彼は気が付きました。

 優しく接してくれているおじいさんを裏切ってはダメだと、良心の呵責がそう言っていたのです。

 プライドと良心に挟まれたオニスズメは、動くことが出来ずに、ずっと花を眺めていました。

 すると、オニスズメの視線に気が付いたおじいさんがその視線の先にある花を見て、にっこりと微笑みました。

 そして徐にその花を摘まむと、オニスズメに差し出します。

 

「これ、欲しいのかい? さっきからずっと見つめているけど」

「……別に。それに、これは遠くから取ってきたものなんだろう。お前が持っておけ」

 

 オニスズメがそう返しますが、おじいさんも引きません。

 

「そう言わずに、持っていてくれ。君の所へいる方が、その花も喜ぶだろう」

「花に感情なんてないさ」

「だが、君にはあるだろう」

 

 その言葉に、オニスズメの視線がおじいさんへと吸い寄せられます。

 おじいさんは優しい、それでも力強い瞳でオニスズメを見つめていました。

 

「この花を美しいと思える者の手に渡るのだとすれば、この花も本望だろう」

「……じゃあ、もらっておいてやるよ」

 

 差し出された花を、オニスズメはその嘴でそっと咥えました。昨日とは違い、割れ物を扱うかのような優しさでした。咥えた嘴が何故か暖かく感じました。

 

「じゃ、俺はもう行くよ」

「ああ、またね。また明日も来てくれ」

「…………気が向いたらな」

 

 ぷいとそっぽを向くオニスズメと、優しく笑うおじいさん。

 暖かな空気に窓から差す西日が屋内を神秘的な空間へと作り変える午後のひと時。オニスズメはそんな空間を居心地よく感じている自分に驚きました。

 ──もっとおじいさんと話がしたい、そんな思いを胸に、彼は窓から空へと羽ばたきました。

 

 

 ▼

 

 

 あれから──オニスズメが初めておじいさんと出会った日から、既に何日も経ちました。

 オニスズメはおじいさんの家に足繁く通いそのたびにおじいさんを起こし、数十分ほど会話してから花をもらって帰るという、どこか間抜けにも思えるやり取りをしていました。

 しかしそんな短いやり取りがオニスズメにとっては嬉しく、かけがえのないものでした。

 いつの間にか、おじいさんに会うという日々の目的は、オニスズメにとってなくてはならないものになっていました。

 自分を必要としてくれる誰かに出会ったオニスズメは、だんだんと変わっていきました。

 悪戯ばかりしていたオニスズメは、いつからか誰にも迷惑をかけない立派なポケモンになっていました。花を眺めその美しさに見惚れる、そんな生活がとても嬉しく、また尊く感じたのです。

 今日もまた、オニスズメはおじいさんの家に赴き、いつものように他愛もない会話を繰り広げていました。

 

「お前は変なやつだ」

 

 オニスズメがベッドの上を跳ねながら移動し、おじいさんに言います。おじいさんは怒ることなく、静かに微笑んでいました。

 

「普通は怒るはずだ。花も奪われ、毎日騒音で叩き起こされ、嫌なことを言われる」

「そうかもしれない。けど何故か、君にやられると怒るよりもまず嬉しいという感情が出てくるんだ」

「気持ち悪いヤツだ」

「確かにそうかもね」

 

 おじいさんは滑らかに笑います。彼の華奢な肩が愉快そうに揺れました。

 

(だんだんと細くなっていっている)

 

 オニスズメは、そんなおじいさんをぼんやりと見つめながらそう思いました。

 彼が初めておじいさんと出会ってから、日に日におじいさんの体力は減っていました。今では花を摘みに外に出るのも辛そうです。

 

「なあ、身体は大丈夫なのか? 外に行くのも辛そうだが」

「全然大丈夫さ。毎日楽しいことばかりだよ」

「……じゃあなんで、あんたは毎日海を眺めては悲しそうな表情を浮かべているんだ」

 

 おじいさんは毎朝家から出ると、花を摘むついでに地平線を眺めていました。その瞳には何か手の届かないものを夢想するような、少年のような輝きと哀愁が漂っていました。

 何を見つめているのか、オニスズメはそう尋ねたことはありません。拒絶されることが怖かったのです。おじいさんの大切そうな秘密に、自分如きが触れていいのかと、そう思ってしまっていたのです。

 しかし、脳裏によぎる、海を見つめながら哀愁に塗れたため息を吐くおじいさんの表情を思い出し、思わずおじいさんに尋ねていました。

 おじいさんは静かに笑みを零します。しかしそれはいつものような柔らかい笑みではなく、どこか自分を嘲笑うような、見ていて胸が締め付けられるような笑みでした。

 

「……待っているんだよ」

「何をだ」

「出て行った娘を」

「…………」

 

 おじいさんはため息を吐きました。深い、深いため息でした。ため息の底には、娘との思い出を混ぜたような痛みが伴っていました。

 

「……なんで出て行ったんだ?」

「喧嘩でね。他愛もない、バカバカしい家族喧嘩だったよ」

「……そんなんで出ていったのか」

「仕方ないさ。私が馬鹿だったんだよ。彼女のことを理解しようとせずに、頭ごなしに否定してしまった。怒りに自分の心を支配されてしまったんだ」

「怒ったのか」

「……」

 

 おじいさんは何も答えません。しかし、その沈黙の中に確かに答えはありました。

 オニスズメは、怒るおじいさんというものが想像できずに、思わず首を傾げてしまいました。騒音で叩き起こされてもにこにこしているようなおじいさんが、一体どのように怒るのだろうと、そう思いました。

 

「もう二十年以上にもなる。早いね、時が過ぎるのは」

「…………」

「小さい頃から綺麗な花が大好きな子でね。帰ってきた時に渡すため、花を摘んでいるんだ」

 

 そっと、おじいさんは優しく手に持った花を窓から差す陽光にかざします。オニスズメもその花を見上げると、薄い花弁を通して見える、少し柔らかな陽光が、オニスズメの瞳に飛び込んできました。

 とても美しい光でした。

 おじいさんはそれを見て、眩しそうに眼を細めます。その瞼の裏に映っているもの、それが果たして花弁越しの陽光なのか、それとも在りし日の娘との思い出なのか、オニスズメにはそれがわかりませんでした。わかりませんでしたが、おじいさんのその姿がとても美しく、またどこか儚げだったので、オニスズメは暫くの間黙り込んで、その光景を眺めていました。

 

「どこに行ったのかはわかるのか?」

「風の噂だけど、今は海の向こうの地方に住んでいるらしい」

「何故会いに行かない。船でも使えばすぐに行けるだろ」

「…………」

 

 おじいさんは悲しそうに笑ったまま、何も言いませんでした。

 オニスズメは自分が彼の心を傷つけたということに気づき、急いで口を開きます。

 

「まあ、なんだ。生きてりゃそのうち会えるだろう」

「そうだといいんだけどね」

 

 夕陽が開け放たれた窓から差し込んでいました。気づけばもう夕暮れです。

 オニスズメは静かに飛び立つと、ちらりとおじいさんの方を見て、そのまま彼の家を飛び出しました。おじいさんは小さく手を振ります。オニスズメは、そんなおじいさんの、悲しい色を映した瞳に心を痛めながら自分の巣へと戻っていきました。

 

 おじいさんのために何かがしたいと、そう思っていましたが、具体的にどうすればいいのかは全くわかりませんでした。

 

 ▼

 

 

「なあ、お前最近、変わったよな?」

 

 ある日、オニスズメは群れで一緒に飛んでいました。この群れは、オニスズメがまだ悪戯ばかりしていた頃から仲の良い、所謂不良の集団のようなものでした。

 悪戯はやめましたが、彼らの仲は壊れておらず、オニスズメは未だに彼らと一緒に大空を飛んだりしていたのです。

 

 風を受けながら翼を羽ばたかせるオニスズメに、仲間のうちの一匹がそう言いました。周りのオニスズメ達もそれに頷きます。

 

「そうだよ、前まではずっと悪戯ばっかしてたのに、最近じゃ全くしてないじゃないか」

「なんか変なもんでも食ったか?」

 

 その問いかけに、オニスズメは笑って答えます。

 

「別に、何でもねーよ。ただ悪戯する暇がないってだけさ」

 

 そしてそのまま、びゅうと風に乗って速度を上げました。

 周りの仲間たちは首を傾げながらも、それについていきます。

 それからしばらくの間無言の時間が続きましたが、不意に後ろにいたオニスズメの中の一匹が口を開きました。

 

「ならさ、今いい機会じゃね? 悪戯しに行こうぜ!」

「は?」

「お、いいねー。行こうぜ行こうぜ」

 

 その言葉の意味が理解できずに固まるオニスズメをよそに、他のオニスズメ達は勝手に予定を立て始めます。

 

 

「せっかく久しぶりにやるんだから、ひでぇことしたいよな」

「おい待て、俺はやるなんて一言も言ってないぞ」

「つれないな、お前。まあいいや、別にお前はやらなくていいよ、俺らでやるし」

「どいつに悪戯する?」

 

 オニスズメの言葉は、既に彼らには届いていません。各々好き勝手に喋り始めたオニスズメを止められる者はいないのです。

 彼らを止めようと口を開いたオニスズメでしたが、ちょうどその瞬間に飛び出た言葉に、思わず言葉を詰まらせてしまいました。

 

「あ、あの崖の上に住んでるじいさんはどうだ?」

 

 ぼぉんと、耳の奥が揺れているような感覚がオニスズメを襲います。最悪の事態が、頭の中で組み上げられていく音が響いている気がしました。

 そんなオニスズメの様子に気が付かない他のオニスズメ達は、笑いながら頷きました。

 

「いいな、あのじいさん、驚かせたら楽しそうだよな!」

「あいつの家何も盗るもんねぇだろ」

「おいお前ら、いい加減にしろ!」

「何そんな怒ってんだよ、怖い奴だな。大丈夫だって、ちょっと悪戯すりゃいいだけなんだから」

「そんな問題じゃないだろう!」

「なんだよ、カリカリしちゃってさ。お前も昔は色んなやつに悪戯してただろ」

 

 イライラし始めたオニスズメに、彼らは首を傾げます。彼らは何故オニスズメが悪戯をしないのか、理解が出来なかったのです。

 それは、おじいさんに出会う前のオニスズメと、全く一緒の状態でした。自分を必要としてくれる誰かに出会ったことのない、悲しい生き物なのです。

 

「だからって……」

「ほら、さっさと行くぞ。そんな酷いもんじゃなかったらいいだろ。ほら、あいつの持ち物を奪うとかさ」

 

 そう言って、彼らはおじいさんの家へと向かっていきます。オニスズメは彼らを止めることが出来ないまま、彼らの後ろについて飛んでいきました。

 

 

 ▼

 

 

 結局、オニスズメ達がおじいさんの家に到着したのは夕暮れ時でした。地平線の彼方へと沈み行く茜色の太陽の光を背に受けながら、オニスズメ達はおじいさんの家の屋根に降ります。窓は開け放たれたままでした。

 もしかして、ずっと俺を待っていたのではないか。オニスズメはそう考えて、少しだけ嬉しくなると同時に、心苦しくなりました。

 

(俺は今から、じいさんを傷つく姿を見なければいけないのだ)

 

 そう考えると、哀しみが胸の奥から溢れ出してきます。自分の汚さが光に照らされ浮き彫りになったようで、恥ずかしさがこみあげてきました。

 今からでも引き返そうかと考えましたが、周りにいるオニスズメ達がそれを許さないということは彼もわかっていることです。

 呆然と屋根の上で佇むオニスズメを不審に思いながらも、他のオニスズメ達は一斉におじいさんの家の中へと入っていきました。ただオニスズメだけが、静かに屋根の上で待っていました。

 

(じいさんは俺を嫌うかもしれない。もう、俺に花をくれないかもしれない)

 

 そう思うと、涙がこみ上げてきました。そこらに咲いている花では意味がないのです。おじいさんがくれた花だからこそ、それは尊いのです。

 

 海を見ると、地平線へと沈みゆく太陽が見えます。太陽と接している海面は、その橙色が流れ出てしまったのではないかと思えてしまうほどに黄昏色に染まっており、微かに揺らめき光を反射するその光景はとても美しいものでした。

 

(あの海の向こうに、じいさんの娘がいるのだろうか)

 

 そんなことを考えていると、オニスズメ達が戻ってきました。彼らの顔には醜い笑みが広がっています。

 それは、他人の不幸を喜ぶ顔。オニスズメがかつて好んでいた、悪魔のような表情でした。

 

「おうい、お前、なんで来なかったんだよ。最高に面白かったのに」

「……別にいいだろ」

「ま、別にいいけど。ほらこれ見ろよ、戦利品」

 

 そう言う彼は、何か茎のようなものを咥えていました。

 

「家の中に何もなくて驚いたけど、変な草持ってたから取ってやったぜ。あいつの呆然とした顔、まじで最高だったな」

「お前ら……」

「なんだお前、何怒ってんだよ。なんか変だぞお前」

「人の物を盗むお前らよりかはマシだ」

「お前だって昔やってただろ。それに、草切れ一つだぞ。こんなの盗んだって誰も怒りゃしねえさ」

 

 そう言って、おじいさんから奪ってきた何かの植物を咥えていたオニスズメは、ぽいとその草切れを自分の口の中へと放り込みました。一瞬の出来事に、オニスズメは彼を止めることが出来ませんでした。

 草切れを飲み込んだオニスズメは、徐に顔を顰めげぇっと呻きました。

 

「なんだこの草、めちゃくちゃ苦いぞ! 食わなきゃよかった!」

「ははは! 変なもん食うからだ! ほら帰るぞ、そこら辺の飯屋の残飯でも食いに行こう」

「……」

「お前も行こうぜ」

「……俺はいかない」

「変な奴だな。まあ、いいか。それじゃあな」

 

 オニスズメは静かに俯いたまま、かろうじてそれだけを絞り出すように言いました。それを聞いた他のオニスズメ達は怪訝そうな顔をしながらも飛び立っていきました。

 誰もいなくなった屋根の上で、オニスズメはただ静かに俯いていました。

 

「謝りに行こう」

 

 許してくれないかもしれません。もしかしたら、もう二度と来るなと追い返されるかもしれません。しかし、おじいさんに黙っているよりかは何倍もマシだと、オニスズメはそう考えました。

 屋根から飛び立ち、窓から入ります。ベッドの上にはいつものようにおじいさんがいました。彼の傍には、白い花弁が何枚か落ちていました。

 おじいさんはオニスズメに気づき、微笑みました。

 

「やあ、今日は遅かったね」

「……すまない」

「何がだい?」

「先ほど、俺の仲間たちが来て、お前の持っていたものを奪っただろう。止めようと思ったんだが、できなかった。すまない」

 

 オニスズメは誠心誠意、頭を下げました。するとおじいさんは慌ててオニスズメに頭をあげるように言いました。顔をあげると、いつものように微笑むおじいさんの顔があります。

 

「大丈夫だよ、私は。君が気に病む必要なんてないんだ」

「ありがとう……。あいつらには厳しく言っておく」

 

 静寂が流れます。遠くから響く潮騒が二人の間を埋めていくようでした。

 何がおかしいのか、おじいさんはニコニコと笑っていました。オニスズメも、ぎこちないながら笑みを浮かべていました。

 

「……じゃあ、もう行くよ」

「ああ、じゃあな」

 

 いつものような別れの言葉にいつものような返事。

 だからこそ、オニスズメは気づきませんでした。

 

 気づけなかったのです。

 

 

 ▼

 

 

 オニスズメが自分の巣へと帰っていく途中、街の上を飛んでいると、どこからか怒鳴り声が聞こえてきました。

 自分が怒鳴られているのかと思い辺りを見渡しましたが、どうやらそうではなく、ただただ誰かが怒りを何かにぶつけているようです。

 無視をしてさっさと帰ろうとしたオニスズメでしたが、怒鳴り声の内容に思わず羽を止めてしまいます。

 

「あのオニスズメ共! また食材を盗っていきやがった!」

 

 どうやら、この男はオニスズメの仲間について話しているようでした。どうやら彼らはおじいさんのものを盗んだ後、街へと飛んでいき様々なところに迷惑をかけていたようです。

 

 オニスズメは降下していき、声の聞こえる屋根の上に降り立ちました。

 

「うちのところの子供もオニスズメにつっつかれたりしているらしいし、危ないな」

「全くあいつらは他人のことを考えてなんかいないんだ!」

「もう許せん! あいつらを追い出すべきだ!」

 

 どうやらオニスズメに対する愚痴を言いあっているようです。彼らの怒りはすさまじいもので、オニスズメは今度仲間にあったらほどほどにするように言っておこうと心に決めました。

 すると、声の内の一人がこんなことを言い出しました。

 

「そういえば、今日来たオニスズメが言っていたが、あいつら、崖の上に住むじいさんに嫌がらせをしていたらしいぞ」

「ああ、俺も聞いた。何だか今日は苦い草を食べて苦しそうにしていたな」

 

 オニスズメは先ほど起こったことを思い出し、心を痛めました。おじいさんの儚い笑みが彼の心を傷つけたのです。

 

「苦い草? それって今日の出来事か!?」

「ああ、そうだが」

「なんてこった! おい、それは薬草だぞ! じいさんの持病を治すための薬だ!」

「……なんだって」

 

 オニスズメは耳を疑いました。今自分が聞いている言葉が本当のこととは思えませんでした。

 しかし、日に日に弱っていくおじいさんを見続けていたオニスズメは、それが嘘だとも思えませんでした。

 

「あいつら、度が過ぎる! その薬草はどこに生えているものなんだ」

「確か、隣町の近くにある森の中に生えている薬草だと聞いたが、無理だ。隣町まで遠すぎる! 明日の朝になってしまうぞ!」

 

 もう、オニスズメは聞いてはいませんでした。その声が聞こえる前に、彼は飛び立っていました。

 短い羽を激しく動かし、自分が出せる限りの速度で隣町を目指します。

 おじいさんの優しさが、心に沁みました。気づけばオニスズメはぽろぽろと泣いていました。

 

 町の上空で、オニスズメは力いっぱい叫びました。夜空を切り裂くような鳴き声でした。自分が愚かで惨めでたまりませんでした。

 

(大丈夫だ、まだ間に合う。明日の朝までに薬草を取ってじいさんに渡せばいいだけだ)

 

 月は静かに空で輝いています。虫ポケモンが囀る声を聞きながら、オニスズメは更に速度を上げて飛んでいきました。

 

 

 ▼

 

 

 あれから何時間が経ったでしょうか。オニスズメは休むことなく羽ばたき続けていました。

 

(夜明けまであと何時間残っているんだろう。おじいさんは無事だろうか)

 

 そんな思いだけが頭の中を駆け巡ります。飛び立ってから流し続けていた涙は既に枯れ果て、決意に満ちた表情がその顔に浮かんでいます。

 

 絶対に間に合わせてみせると、オニスズメは再び静寂の夜空に向けて大きな鳴き声を放ちました。

 休むことなく飛び続けているオニスズメの体力はほぼ尽きており、時たまふらふらと体を揺らしながら、それでも何とか態勢を立て直し飛び続けます。

 既に羽の感覚はなく、羽ばたくたびに引き攣った痛みが絶え間なくオニスズメを襲っていました。

 しかしオニスズメは痛みに顔を顰めながらも、その羽を休めることはありませんでした。

 

(おじいさんはもっと痛んでいるかもしれない。もっと苦しんでいるかもしれない。早く、何とかしなければ)

 

 それだけを胸に更に羽ばたき続けます。

 

 そしてそんなオニスズメの前方、遥か向こうのほうに、微かな明かりが見えてきました。隣町の光です。

 

「ああ、やった、着いた!」

 

 オニスズメは力を振り絞り、速度を上げ隣町へと近づきます。夜だというのにギラギラと輝くその町は、暗闇の中にぽつんと浮かんでいる船のようにも見えました。オニスズメは進路を変え、町のすぐ傍にある森に向かって飛んでいきます。

 そこは、暗闇が支配する場所でした。皮肉なことに、煌々と輝く町の華やかさが、この森の暗闇を引き立てていました。

 オニスズメは急いで森の中へと入ります。彼は鳥目でしたので、暗闇の中がよく見えずに、何度も枝にぶつかりながら、それでもおじいさんの持病のための薬草を探すために必死で飛び回りました。

 しかし森は広く、暗闇はどこまでも深いので、ついにオニスズメは避けきれず、大木の幹に激突してしまいました。

 なすすべもなく、ぽとりと地面へと墜落するオニスズメ。

 もう、虫の息でした。

 ここに来るまで何時間も休まずに飛び続け、更に何度も体をぶつけたことにより、体力も気力も尽きかけていたのです。

 

 しかしそれでも、オニスズメは何とか起き上がります。彼の脳裏にあるものは、あの、おじいさんと過ごしたかけがえのない日常でした。

 

「すぐに……見つけて、持って帰るから……」

 

 もしかしたら、明日にでもおじいさんの娘が帰ってくるかもしれない。その時に、おじいさんは彼女に花を渡さなければいけない。そう思い、オニスズメは決死の力を振り絞って起き上がりました。

 

 不意に、柔らかな風が吹きました。ふぅとオニスズメの頬を撫でた風は、森を微かに揺らし、彼の頭上を覆っていた緑の天蓋に穴を開けました。

 雪崩れ込むかのように月光が差し込みます。

 

 不意に、柔らかな風が吹きました。ふぅとオニスズメの頬を撫でた風は、森を微かに揺らし、彼の頭上を覆っていた緑の天蓋に穴を開けました。

 雪崩れ込むかのように月光が差し込みます。見渡すと、暗闇の中に沈んでいた森の中に、疎らに光芒が入り込んでいます。今から夜の殻を破り、朝が生まれてくるみたいだと、オニスズメはぼんやりと思いました。

 ふと、きらりと何かが視界の端で光りました。そちらに目を向けると、少し開けた場所に、ぽつんと一つの花が生えていました。白く輝く、とても美しい花でした。

 その花に見とれていたオニスズメですが、ふとあることに気がつきます。その花の茎が、先程仲間のオニスズメが飲み込んだおじいさんの薬草ととても似ていたのです。

 

「そういえば、おじいさんの傍にも白い花弁が落ちていたな」

 

 やっと見つけたと、オニスズメの脚に力が入ります。

 すぐにでも薬草を取り、おじいさんに届けようと、彼は飛び立ちました。

 

 

 しかし、その嘴が薬草に届くあと少しというところで、凄まじい衝撃が彼の横腹を襲いました。

 あまりの衝撃に、オニスズメは吹き飛ばされ、大木の幹に叩きつけられてしまいました。肺の中の空気が全て逃げていき、どうしようもないほどの苦痛が押し寄せます。

 重力に従い草むらへと落下したオニスズメは、痛みに呻きながらも、衝撃の正体を探ろうと目を上げました。

 

 しかし、そんなオニスズメの眼前に、何かが広がります。毒々しい紫色のその液体は、空気抵抗にその形を変えながらも、まっすぐにオニスズメめがけて飛んできています。

 半ば転がるようにしてその液体を避けようとしたオニスズメでしたが、全ては避けきれず右の翼の先端にその毒液がかかってしまいました。

 

「…………っ!!」

 

 鈍く、しかしそれでいて激しい痛みが体全体を覆います。翼の先端を少し攻撃されただけだというのに、まるで全身を骨折したかのような気怠さでした。見ると、翼の先端は煙を立てており、羽毛が覆っているはずの場所には、痛々しく爛れた地肌が見えています。

 

 睨むように、オニスズメは毒液を吐いた正体を見つめます。それは大きな蜘蛛のポケモンでした。六本の脚は見る者全てに寒気のような恐怖を与え、毒々しい、赤い胴体と黄色い脚のコントラストと相まって恐ろしい雰囲気を醸し出していました。あしながポケモン、アリアドスです。オニスズメも、このポケモンの名前くらいは知っていましたが、住処の近くに森や洞窟といった、アリアドスが好むような場所が存在していないので、実物を見るのはこれが初めてでした。

 アリアドスはゆっくりと、しかしいつでも素早く動ける準備をしながら、オニスズメににじり寄っていきます。

 

「待て! 俺は別にお前の縄張りに侵入したんじゃない! そこにある、薬草を取りに来たんだ。取ったらすぐに出ていくから、見逃してくれ!」

 

 オニスズメは右翼を庇いながら立ち、アリアドスにそう告げます。しかし、アリアドスは聞く耳を持たないのか、構わず近寄ってきます。どうやら、縄張りに入ってきた獲物は残さず狩るつもりのようです。

 オニスズメは何とか説得しようとしますが、言葉を発しようとした瞬間、アリアドスは再び毒液を撒き散らしてきました。今度はその標準は大きく外れ、オニスズメの後方の大木にかかりました。大木の、太い幹がじゅうじゅうと嫌な音を立てながら侵食されていきます。それほどに、この毒は強いのでしょう。

 何を言っても無駄なのだと気づいたオニスズメは、一旦逃げるために何度か羽ばたきますが、激痛が右翼に走ります。じくじくとした嫌な痛みが、絶えずその身を削っているのです。

 

「戦うしかないのかよっ!」

 

 その瞳に敵意が浮かびあがったのを理解したのか、アリアドスが地を蹴りオニスズメに向かって跳びかかってきました。オニスズメは、そんなアリアドスを撃退するために、痛む体を酷使して飛び上がりました。

 

 

 夜明けまで、あと数時間もありません。

 

 

 ▼

 

 

「はぁっ……はぁっ……」

 

 荒い息が、未だ暗闇が支配する森の中に微かに響きます。オニスズメとアリアドスの戦闘は思っていた以上に長く続き、静謐の底にあったその場所は酷く荒れ果ててしまいました。いたるところにアリアドスの毒液の跡があり、また何かが強く叩きつけられたかのように地面は抉れていました。

 そんな中でぽつんと、オニスズメは立っていました。先ほどまで戦いを繰り広げていたアリアドスの姿は見えません。何度攻撃しても諦めず立ち向かってくるオニスズメを不気味に思い、逃げてしまったのです。

 それもそのはず、今のオニスズメの見た目は、お世辞にも美しいとはいえないものでした。

 度重なる毒液による攻撃のせいで禿げあがった身体。地面、幹、岩、様々なところに叩きつけられた全身は痣だらけで、ぼうっと突っ立っているだけでは生きているのかどうかもわかりません。

 オニスズメは、ゆっくりと一歩を踏み出しました。たったそれだけのことで、信じられないほどの痛みに襲われます。気を抜くと意識を失ってしまうほどの激痛の中、オニスズメは何とか歩き続けます。もう翼を使って飛ぶことは不可能に思われました。それほどに、今の彼は満身創痍だったのです。

 しかし、それでも彼は倒れません。

 ふらふらになりながらも、意識が朦朧とする中でも、決して諦めることなく、懸命に足を進めます。

 その脳裏によぎるのは──やはりというべきなのでしょうか──おじいさんのことでした。

 

(早く、薬草を……届けないと……)

 

 何とか薬草の元まで這いずり辿り着いたオニスズメは、そっと嘴でその茎をやさしく摘みました。

 これで後は帰るだけです。帰って、この薬草をおじいさんに手渡すだけ。

 

 ああ、しかしそんな簡単なことさえ、今のオニスズメにはできません! 彼はもう一歩だって歩くことが出来ないのです。

 一度大きく翼を広げて、地を蹴ります。しかし上手く羽ばたけずに、彼は顔から地面に倒れこんでしまいました。薬草を嘴に咥えているので、じめじめと湿った土が口内に入ってきます。

 しかしそんなことは全く気にする素振りも見せず、オニスズメは再び立ち上がりました。度重なる殴打と毒液を浴びた目は、もうその機能を果たしているとは思えないほどに腫れあがっています。

 しかしオニスズメは、しっかりと空を見上げ、息を整え、空に飛び立ちました。

 それは、飛行とは言えないほどに不格好なものでした。右の羽は上手く動いておらず、絶えず引き攣ったような痙攣を起こしていますし、疲労のため方向感覚もつかめていないようでした。

 嘴を大きく開けられないので、涎が絶えず流れ落ちていきます。痛みで涙が出てきました。血だって、先ほどからしとしとと流れ落ちているのです。

 枝に当たり、地面に墜落し、また飛び始め、そんなことを続けているうちに、オニスズメはようやく森を抜けることが出来ました。

 森の傍の、大きく華やかな街は、夜明け前の薄暗い世界に対する唯一の抵抗の如く、その身をふんだんに光らせています。

 

 涙か、涎か、血か、何かが一粒、オニスズメからぽとりと落ちていきました。

 その雫の美しさといったら! その雫は、まるで街が放つ全ての光を吸収したように、キラキラと輝いていました。それは、オニスズメの心の美しさを表しているかのようでした。

 

 オニスズメは進路を変え、海の上を飛ぶことにしました。その方が早くおじいさんの元へ向かうことが出来たからです。

 しかし、海の上を飛ぶことはこの上なく危険なことです。海の上は天候の変化が激しく、また風がとても強くなることもあったからです。

 しかしオニスズメはやけくそ気味に羽を動かします。一秒でも早くおじいさんの元へつくために、一秒でも早く、おじいさんに薬草を手渡すために。

 

 しかし、どれだけ心が強く意思が強固だとしても、身体はついていきません。オニスズメの体力はもう限界であり、いつその命を散らしてもおかしくはないのです。

 

 だんだんと、オニスズメの体が水面へと近づいていきます。羽が上手く動きません。呼吸も上手に行えません。

 

(ああ、神さま! 神さまがいるのなら、どうか俺の願いを聞き入れてくれ!)

 

 遥か向こうの地平線が白く染まり始めます。

 もう、夜明けでした。

 オニスズメは、再び羽を強く動かし、ぐんと上昇しました。

 

(俺は死んだっていい! いや、いっそ俺なんて死んだ方がいいんだ! だが、おじいさんは違う! おじいさんは、死んではいけないんだ……!)

 

 疎まれていたオニスズメを赦し、包み、愛してくれたおじいさん。その優しい表情が、オニスズメの腫れあがった瞼の裏に映し出されます。

 

(おじいさんは……おじいさんは生きて、娘に会わなきゃいけないんだ! 娘に、花を手渡さなければ、いけないんだ……)

 

 一度は大きく上昇したオニスズメでしたが、もう体力は底をつきてしまいました。いえ、体力なんてものはもうとっくの昔に尽きていました。しかし、おじいさんへの想いだけが、もう動けないはずの彼の体を動かしていたのです。

 しかしそれももう限界です。オニスズメはぱたりと動くのを止め、海へと真っすぐに落ちていきます。

 

(ああ、神さま、どうか、どうか……)

 

 その願いを胸に、薬草を咥えたまま、彼は静かに、目を閉じました。 

 

 

 ▼

 

 これは夢なのだと、オニスズメはそう思いました。

 目を開けると、目前にはキラキラと光る水面があり、さらさらと流れています。いえ、流れている、というよりかは、凄まじいスピードで、後方へと飛んで行っているような感じでした。

 頬を撫でる風は、先ほど感じていたものよりもさらに強く、耳に入ってくる自らの羽音も、先ほどよりも大きくなっているような気がしました。

 ふと、意識が混濁の底から引き上げられます。

 はっと目を開けて見ると、それは夢などではなく、ちゃんとした現実でした。

 オニスズメはちゃんと海の上を、ギリギリとはいえ飛んでいました。嘴にはきちんと薬草が咥えられています。

 

(俺は、なんで……)

 

 ぼんやりと、そんなことを考えていたオニスズメでしたが、ふと、水面に映る自分の姿を見て、驚きのあまり思わずあっと声を上げてしまいそうになりました(もちろん、そんなことをすれば薬草がどこかへ行ってしまうので何とか我慢しました)。

 

 水面に映っていた姿。それは、オニスズメのようではありましたが、全く違うものだったのです。

 色合いはオニスズメとあまり変わりはなく、少し明るい茶色になったくらい。

 しかし、変わったのはその大きさ。オニスズメに比べ数倍も大きくなったその体躯に、細長い首。忙しなく動いていた、オニスズメの小さな羽に比べ羽も大きくなっており、少し羽ばたくだけでとてつもない風圧を感じました。

 

(これ、俺か……?)

 

 何が何だかよくわからないオニスズメは、しかし混乱するよりまずやることがあることを思い出し、大きく強く羽ばたきました。

 先ほどまでは数十メートル羽ばたくだけで息切れをしていたというのに、今はいくら羽ばたいても全く疲労を感じません。

 

(早く、おじいさんの元へ行かなくては!)

 

 再び、オニスズメは大きく羽ばたきます。もう、今までの自分ではないようでした。

 

 

 こうしてオニスズメ──オニドリルは、おじいさんの元へと急ぐのでした。

 

 

 ▼

 

 

 夜明けから数時間ほどが過ぎたころ、ようやくオニドリルは自らの故郷である街に到着しました。太陽は未だ浅い角度から、それでも燦々と暖かな陽気を降り注いでいます。

 

 仲間であるオニスズメや街の住人達が、驚いたように自分を見上げていましたが、オニドリルはちっとも気にしませんでした。オニドリルが気にするのはただ一人、おじいさんだけです。

 オニスズメは街に一瞥もくれずに、一目散に街の外れにあるおじいさんの家を目指します。

 

 切り立った崖の上に建っているおじいさんの家は、何だかいつもより眩しく見えました。神々しささえ感じることが出来ました。

 

 おじいさんの家の前に降り立ったオニドリルでしたが、すぐに自分の今の大きさでは窓から入ることが出来ないことに気が付きました。

 どうしようかと迷っていると、不意に目の前のドアがきぃ、と静かに開きました。

 

 まるで、彼を待っていたかのようでした。

 

「おい、じいさん、大丈夫か! 薬草持ってきたぞ!」

 

 小屋の中に入ったオニドリルは、不自然な静けさに思わず首を傾げてしまいました。

 今までも、この小屋の中が深い静謐の中に揺蕩うことは幾度となくありましたが、それらはハッキリとした、手で触れられるほどにしっかりとした平安と優しさが滲んだ静けさでした。

 しかしこの静けさは、どこか冷たく、重苦しい響きのものでした。まるで、何か目に見えないものが音を上から押し潰しているようでした。

 

「……じいさん?」

 

 ぽつりと、そう零します。独りでに転び出た言葉は、空気に滲んで消え、潮風に吹き飛ばされたようでした。

 嫌なくらいに落ち着いていました。そのくせ、心臓が破裂するのではないかと思ってしまうくらいに激しい動悸でした。

 

 おじいさんは、いつものようにベッドで寝ていました。

 幸せそうに、穏やかそうに。

 今まさに生まれてきたみたいに。

 死に対して、なんの恐怖も抱いていないかのように。

 ふと、ベッドの横に視線を投げます。そこには、いつものように花が置いていました、

 

 毎朝毎朝、欠かすことなくおじいさんが集めていた小さな花。何よりも美しく、何よりも尊い花。優しい笑みを浮かべながらその花を眺める、おじいさんの横顔。

 

 

 ふぅと、微かに風が吹きました。

 優しい風は、小屋の中に入り込み、おじいさんの傍に置いてあった花を撫でました。

 

 

 ──小さな花は、既に枯れていました。

 

 

 

 

 ▼

 

 その日、耳を劈くような鳴き声が町に響き渡りました。人々は驚き、声の聞こえた方角である、崖の上の小さな小屋を見上げました。

 懺悔のようでもあり、怒りのようでもあり、しかしそこに確かに含まれる涙の声に、人々は首を傾げその小屋を確かめに行きました。

 

 

 そこには、冷たくなり動かなくなった老人の遺体。

 

 遺体の傍には、ボロボロの薬草が置いてありました。そして、薬草の傍、小さなテーブル上には、何者かの涙が数滴落ちていたのでした。

 

 

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

 ここは、とある長閑な町。

 美しく可憐な花が咲き誇る町には、様々な虫ポケモンや鳥ポケモンが集まってくる。

 そんな静かな村の地面を、大きな影が滑るように進んでいく。その大きな影の到来に、小さなポケモンや子供たちは怯え戸惑ってしまう。

 だが子供たちの心配をよそに、影はそのまま通り過ぎて行ってしまった。

 

 空を見上げると、大きな翼が目に入る。その翼は、長旅のせいか随分と草臥れているように見えた。しかしその翼には、何かわからぬ力があるように思えた。

 

 

 

 町の外れにある、小さな家。可愛らしい花で囲まれたその家には一人の女性が住んでいる。

 様々な過去を持つ彼女は、それでも元気に毎日を過ごしている。彼女の花のように可愛らしく柔らかな笑みは、見る者全ての心を優しくするもの。

 

 

 植木鉢で満たされた部屋の中で朝食を採っていた彼女は、こつんと何かが窓を叩く音に気がついた。そちらを見やるが、窓からは何も見えない。

 聞き間違いかもしれないという気持ちもあったが、それよりも、何故かはわからないが窓の外を見なければならないという気持ちが強く、彼女は急いで窓を開けた。

 

 

 ふぅわりと、風が吹く。靡いたカーテンが波のように彼女の耳を擽る。ふと、幼少期のことを思い出した。毎朝、外に出ては花を摘んでいた父。切り立った崖から見える、群青の空と海。その美しい景色に、幼いながら感動を覚えた。

 不意に、大きな羽音が聞こえた。見ると、何やら大きな影がどこかへ飛んで行くところだった。空を見上げたが、眩しすぎる太陽のせいで、影が何者なのかを確認することは出来なかった。

 視線を下に戻したその女性は、ふと、何かが窓の桟辺りに落ちているのが見えた。

 

 それは、枯れた小さな花だった。

 元は白かったはずであろう花弁は萎れてくすんでしまっているし、茎も既に乾燥してしまっている。ただの塵であろう。

 

 塵であるはず。

 ──それなのに。

 

 

 そっと、枯れた花を両手で包む。

 暖かくて優しい、涙の匂いがした。

 

 




オニスズメ:羽が短く飛ぶのは苦手。
オニドリル:タフで持久力に優れる。

進化の間にストーリーを挟んでみました。ありがとうございました。


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