ジイジイと鳴き続ける蝉の声がずいぶん近い、そう思っていたがどうやら近くの柱に止まっていたらしい。飛び立って行った事で声は遠ざかり、遠巻きで鳴く大群の一つに混ざっていった事がわかる。
「あぁぁ~、今日は暑いですねぇ~…」
下の方から気の抜けきった呻き声が聞こえてくる。いくら私と彼女に体格差があろうとそれは下過ぎて、いつもより距離が遠い。
…寝そべっているのだろうか?体調不良で倒れている訳でなければいいが。
「体調はどうだ?」
「大丈夫です…暑いだけです、多分…」
「ならばいいが。あまりだらしない格好はしないよう…」
「着物は着てますよぉ…だからこそ暑いのです…」
「む…」
そう言われてしまえば私は何も言えない。通気性の良い隊服は涼しく、なおかつ上着を脱いでいる私には。
それはこの後の行動を考えての事だったが……ふむ、そうだな。悪くないかもしれぬ。
風がほとんど今日は吹いていない。暑すぎる為か虫の気配すらほとんど感じない。いつも陽が当たらず風の吹き抜け涼める縁側ですら、今日という日は暑いのならば。
「あの子達は?」
「家のあちこちの涼しい場所で各々涼んでますね…知っていますか行冥様、猫は暑いと溶けるのですよ」
「…そうか」
氷が溶けるように溶けている猫達の姿を想像し、潤んできた目元を力をいれてこらえて改めて彼女を見下ろす。腕を伸ばし触れた頭と髪の毛はしっとり濡れていた。
汗ばんだそれに触れられるのを嫌がるかのように彼女は身動ぎをしたが、構わず私は撫で続けた。意地をはる気まぐれなその姿もまた、可愛らしい。
「私はこれから滝行へと行こうと考えていたのだが、共に行くか?」
「ん…私なんかが滝に行けば木っ端微塵に潰れてしまいますよ」
「そうではなく……川淵で涼むのはどうだ、という意味だ」
「!」
手を置いていた頭が胴体ごと持ち上げられ、いつもの距離感になる。立ち上がり横に座る体勢となったのだろう。良い発想を聞いたとばかりに起き上がった彼女は機嫌の良い猫のように私の手を擦り上げ、触れそうなほど近付いてくる。
「それは素晴らしい!行冥様さえ宜しければ着いて行かせていただきます!あっ、お昼用におむすびを作りますね!」
「あ、ああ。…あ、糠漬けの野菜も共に持っていく用にしてくれないか」
さもこの上なく素晴らしいと言わんばかりに、今まで猫のように溶けていたまい子は跳ねるように動きだし、慌てるように厨房へと向かって行った。
その目先の欲につられるような姿もまた……季節柄早めに消費した方がいいだろうそれを要望として伝えた後、私も立ち上がる。声は遠かったものの確かに了承された事を確認する。
さて、場所は家の付近。目新しいものも特には無い平凡な事ではあるものの…逢瀬として向かうとしようか。
勿論個人の稽古や修行を手抜くつもりは毛頭無いが。
*
*
「ひゃー、川沿いというだけでこれほど涼しいのですね!あの、川に入っても大丈夫ですか!」
屋敷近くにある川。その中の一部である滝付近は彼女のだけの足で来る事は到底困難だろう。険しい岩肌、ぬかるんだ足元…常に呼吸を伴っているような肉体でなければ易々辿り着ず、なおかつ川の水に触れるほどの近くには来れないだろう険しい道。
そこを呼吸も使えぬ彼女が来られたのは、ひとえに私が担いで来たから。
「構わないがあまり深くまで行かないよう…私の腰辺りまである場所もあるのだから」
「…行冥様の腰辺りとなると私の頭まである場所ですね、わかりました気を付けます!」
言うが早く草履と足袋を脱ぎ捨て、荷物を決して濡れない場所に置き川へと足を踏み入れる彼女。川の水の冷たさへの感動なのか悲鳴なのか、甲高い悲鳴が辺りに響き渡る。
「~~ッ!!これは凄い、なんとも…美しいのでしょうか、透き通る透明な水の冷たさは!」
「…美しいのか?川の水が」
感動しきる彼女の声をどれだけ聞けど私の目では何もわからない。流るる水の細かな形も光の反射も、不定期な揺らめきも透明度とやらも。何もわかりはしない。
どれだけ美しいのだろうか。光の輝き、光の反射、触れ合うそれらの儚さを彩る色彩とは。
彼女の目に映る、この世の美しさを少しでも共有したく声をかければ二、三歩その場で回転をしたのだろう音と共に楽しげな声をかけられる。
「勿論です行冥様!たゆたう水の尊さは透き通り、浮かび上がる泡の白さは弾ける儚さなのですよ!」
「…うーむ、よくわからぬ」
「!!」
だが彼女に説明されたそれは抽象的過ぎて、具体的な何かを感じれる事もなく抜けていく。ハッキリ言えばよくわからない。
そのまま伝えれば返す言葉もなかったのか、しばらく無言を返され、その後川の水を掻き分けながら陸へと上がってきた。もしかしてかなり冷酷な事を伝えたのだろうか。
「…え、っと、すまなかった…?」
「いえ…私の説明がとてつもなく下手だったのです……彩りの美しさを伝える力がなくて、本当に申し訳ありません…!」
トボトボと歩くその姿、川原の石から飛び出た木の枝に足元を引っ掛かれ飛び退く姿を感じ、どうしようもない愛おしさて溢れる。
なんと愛らしく、哀れで儚い、不器用さなのだろうか。
「ならば今から私は滝行を始める…終わった後にもう一度聞かせてくれないか」
「!…了解です!私の感動を今度こそ伝えれる言葉を用意しておきますね!」
「ああ、楽しみにしておく…」
置いていた日傘を手に取り、気温が涼しくなったからとはいえ陽射しに倒れないように勤めるよう差し出す。直接の言葉はなくとも、受け取りバサリと開いた傘が代わりに返答してきたのだから問題なし。
川の中へ入り水を掻き分け滝へと近付いていけば周りの音が何もかも水音にかき消され、聞こえなくなっていく。普段近くに来る事が無い為だろう、気配すら辿れなくなったその姿をどうしても気にしてしまう。
目を開けようとも閉じようとも変わらない景色の中、彩りを探すように。
バシッ
両頬を挟み込むように叩き、思考をかき消す。
さあ、鍛練だ。集中をせねば。
肉体の、精神の、心を強く鍛え上げ守るべきものを多く守る為に。
一歩、一歩、滝へと進み岩を砕き小石へと変える強さに身をゆだねる。打たれ終わった際一回りでも高みへ登り弱さを克服出来るように。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……如是我聞一時仏在舍衞国…」
念仏を唱える度に辺りから少しずつ音が消えていく。あれほどの爆音だった水音ですら。
途切れさせないよう唱え続けた。ただ、ひたすらに。
先にあるまばゆい光を求めて。
*
諸君、我々は失敗した。
*
「右のが塩むすびで左がただのおむすびです、追い塩をするかと持ってきたのが正解でしたね」
「いくらでも獲れるから満足するまで食べなさい」
「ふふ、私は二匹も食べればお腹一杯ですよ」
パチパチと焚き火の弾ける音がする。それは川で獲ったイワナのためで、火傷に気を付けながら食事のお供として焼き上げていた。その間に彼女の感じた感動を改めて聞いていた。
近くの木々の影の中。滝行を終えるほど時間が経てば案の定その間に言葉を整理できていたらしく、今度は大変分かりやすく説明をしてくれた。
太陽光を輝かせる水面の揺らめきと反射。
木々や葉の光の当たる部分と影になる部分の色の濃淡。
川原に転がる小石や石や岩の熱と、それに反比例する川の冷たさの相乗効果。
透明感のある水沿いの空気。
白の、藍色の、透ける黄緑が、青々しい、灰色と黒が混ざり……詳細な説明に混ざる色彩。
どれだけ詳細に説明されたとしても、わかりようがないものがある。
それは色、色彩、彩る美しさ。
触れれば形はわかれど、そのものの色まではわからない。
水の透明さも、葉の青々しさも、髪色も瞳も、生涯詳細に知れる事はない。例えばまい子の紅の赤さは炎と、林檎と、苺と同じと区分分けは出来ても色を見る事は出来ない。
ならばと会話の流れの続きで訊ねる事にする。正解などない、感じる色を感覚で構わないから教えてほしいと。
「色…んー、赤色は温かく青色は寒々しく見える等でしょうが……口頭で説明は難しいですね…」
「いやしかしそういうもの、なのだろう。火は赤く、そして熱い…そして感じるような感じか」
「あ、しかし夕焼けは赤いのですが何となく寒いです。夜空など真っ黒で寒いですが、美しい星々を見ていると何となく暖かみを感じますし」
「……ふーむ」
まい子の握ったおむすびを二口で食べ、もう一つ手に取る。手の中にある彼女の手の大きさがわかる小さなそれは冷えているが、別に青色ではないのだろう。温かい時は赤色ではないのだろう。
「そういえば今の空の色は青なのだろう?」
「そうですね、雲はありますがとても綺麗な青空です」
「だが溶けそうなほど暑い…と」
「ああ…。…ダメですね、上手い説明が出来ません…」
「いやすまない、私こそ意地の悪い質問もした」
落ち込みうつむいたのだろう、声が少しくぐもった。嗚呼、私が余計な事を言った為に彼女を悲しませてしまった、苦しませてしまった。何をしているのだろう…
そもそも盲目である私に色という正解のないものを伝えて貰うのがどれだけ難しい事か……答えのないものをよくもまあ私は聞いたものだ。
「…行冥様にも、見せれたら良かったのですが」
「む?」
しかし聞こえてきた声色は案外明るいもので、悲しみを押し殺し無理しているというより共有出来ない厳しさを嘆いているようだった。
ザリ、と小さな石を蹴った音がした。蹴るための目的ではなく足の形を変えた為に起きた音だろう。
「この美しい森を、川を、空を。広大で雄大過ぎて温かいとか冷たいとかでしか、単純な私では説明出来ません」
「………」
そしてまい子は口を閉じ、空を見上げたのだろう。同じように顔を動かし彼女と同じ場所の空を見上げたところで私の目には何も映らない。少しの明暗の違いがわかるだけ、それも色のないもの。
……嗚呼、そうだ。彼女の感じた感動を共有したくて訊ねた事自体が間違っていた。
私は無いものを求め訊ねるのではなく。
「そうか、それほどに素晴らしいのか。この、空は」
「はい、本当に綺麗です…透き通り遥か遠くまで広がる……青い青い、空は!」
彼女の感動をそのまま共有すべきだろう。変にひねくれず美しいと呼ばれた景色をそのまま受け止めるべきだ。
頬を伝う涙そのままに腕を伸ばし、なめらかなまい子の髪を撫でる。普段さらりと流れるそれは暑さに負けたのか妙に跳ねていて。
汗ばむそれに触れられるのを嫌がる彼女の姿につい、笑いがこぼれてしまう。
ああ、なんとまぁ、幸せなのだろう。
*
諸君、我々は失敗した。
私は残念でならない、諸君。
本当に残念だよ。
** SCP-8900-EX **
SCP-8900-EX 青い、青い空
オブジェクトクラス:Keter → Explained(手遅れ)
世界は元々、白黒の世界だった。その濃淡の中で赤や青など色を感じ、色彩を見ていた。それは言葉にする事も出来ない美しい色。
しかしSCP-8900が全ての色を汚した。白黒の青も、白黒の緑も、空も、山も、全て下品に汚されてしまった。
そして食い止める事は出来ず、世界全てが感染し終わってしまったために財団は記憶を上書きするしかなくなった。
「世界は元からこの色だった」と。元の色として残されたのは昔の白黒写真と呼ばれるもののみ。
残ったのはただただ…青い、青い空。
SCP-8900-EX http://scp-jp.wikidot.com/scp-8900-ex
著者:tunedtoadeadchannel 様
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