「ん…!……」
「どうだ?……厳しいなら、最初なのだから一口で止めときなさい」
確かに味わったそれは、日本酒独特のそれは何とも言えないものだった。
水のような色なのに強い香りと舌先を痺れさせるような圧倒的食感。そんなに熱い温度でもないのに喉元からお腹までを焦がす存在感は他に味わえそうにない力強さ。
こんな、こんなのは初めて。本当に忖度なく思える。こんなものもし幼い子供が飲んでは確実に駄目になってしまうだろう。
「な、なんて美味しさですか…!」
「…そうか、それは良かった」
しかしそれらを差し置いても、いやその衝撃すら善き刺激になる。時間が経てばなめらかな味わいがお米の甘さと共に口に広がっていく。
ああ、これは本当に、本当に美味しい!それほどまでに、嘘偽りなく言える。
もう一口、口にしたそれはやはり美味しかった。彼に気を遣ってのものでなく、体で感じるそれを心から言える。伝えた言葉にホッとしたように微笑まれ…その優しい顔に体が少し熱くなる。
「しかし初めての飲酒だ、ほどほどにしなさい。程度も具合もわからないのだから」
「はい、わかりました。しかし…お酒とはこんなに美味しいものなのですね…」
「これは私が知っている中で一番と言って良い、滑り出しとして上々だろう」
「はぇー、贅沢ですねぇ」
一口飲む。ほのかな甘味と辛味が混ざり合い舌が震えて、他の味を求め長芋と胡瓜の梅和えを口にする。梅の強い酸味が体を震えさせよだれが出てきて、もう一口お酒が呑みたくなる。
なるほどこれがお酒とつまみの相性とやらなんだろう。どちらも美味しくいただける。
お猪口はそんなに大きくない、だから何度も飲めばすぐに空になるのは当たり前。今度は自分で徳利から注ぐ…けれど自分でやると何だか難しい。なるほど、だから誰かに注いでもらうようになっているのかな。
「にゃぁん」
「うん、駄目だからね。食べるのは良いけど、こっちは呑むのも駄目。お水じゃないよ?」
「ほらこちらへおいで…よしよし」
右側でころころと転がっていた猫が起き上がり構えとばかりに鳴きながら近付いてくる。興味なのか徳利に鼻先を近付けるその顔を優しく払い除けていれば行冥様が片手で抱き上げ膝へと乗せる。
特に暴れる事もなくそのまま大人しく撫でられる絶景な姿を見ながら一口。行冥様のお猪口が空になる前に注ぐ。
そうして徳利が空になればちろりから移し、おつまみが足りなくなりそうになる前に厨房へと立ち小皿でなく少し大きなお皿に入れて持ってくる。猫が跡を付いてきて、縁側にどんどん集まってくる。
ああ、楽しい。彼と猫達と過ごす…お酒の席って、こんなに楽しいものだと知れただけで、私は幸せに違いない。
*
酒など滅多に口にしない。呑む事自体に拒否反応や躊躇はしないが必要としていなかった。
そもそも飲んだところで酔い潰れるような失態をするならばと…しかしその心配は杞憂に終わる。どうやら私はかなり強い方らしく周りが潰れる中酔いの自覚はあれど、何かを壊したり記憶を飛ばしたり等の失敗はした事がなかったのだから。
だから。
「うふふ、にゃーん。にゃーんですねー、可愛いなんでこんなに、にゃんにゃーん」
もしかしてまい子をここまで酩酊させてしまった事が酒の上での初めての失態になるのだろうか。
毛の長さや声色からして黒猫を抱き上げ、ワシャワシャと乱雑に撫で可愛がっているその声色は…どう聞いても素面ではない。救いとしてそこまでされても猫が嫌がらず逃げてないというところか。その信頼関係は本当に素晴らしい。
「にゃんたー、ふふ、かわいいねぇ~」
「その子はにゃんたではないし、そもそもにゃんたとやらは我が家にいないし、その子は雌だろう」
「ふふ、そうですね、あはは」
「………」
いつからこうなったのだろう。私の目では顔色の変化はわからない、だから声色や態度で判断していたのだが突然というか…いつの間にかこうなっていた。
いや、始めらへんから妙に楽しげではあったが……まさか当初からか?口調も行動もしっかりしていたがもうあの時から酔っていたのか。だとしたらかなり弱いのでは…にも関わらずかなりの量を呑ませてしまった。
それで……はぁ、これは良くないな。私の抜けだ。何とはなしに大丈夫だろうと楽観視していた私の…
「あ…行冥様かなしい、ですか?私のせい、私がダメですか?」
「あ、いや…そうではない。決してまい子のせいではない…」
しかも何というか…酔っているのに割りと鋭いのがまた困難にさせてくれた一因だろうか。この穏やかな時間が尊いと、幸運だと言っていたのは本心だろうし、こうして私の表情を見て哀しませてしまったと嘆くその姿は酔っぱらいではあるが、優しく愚かではない。
猫が一鳴きして離れていく音がする。それを挨拶しながら見送っていた声と共に。
「あっ…行冥様、行冥さま…ナイショ、ですがね」
「……何だ?」
「あのですね…」
良い事を思い付いたと小声で話しかけてくるまい子。肩を落とし、体を屈ませ彼女の口でも届く高さまで耳を下げる。両手で口を隠すように耳元に寄せた唇から熱い吐息が漏れ、それが本意でないだろうにくすぐってくる。
「私…すっごく、行めえ様のコト、お慕いしてます、よ?」
「………」
「ふふふ、ヒミツですよ?」
頭を抱える。いや…もう抱えるしかないだろう?私への心を、私に対して打ち明け、私に秘密にしろと。
何をすれば、何を言えば正解なのだ…??
…取り敢えずからからと笑うその頭を柔らかな髪ごと撫でる。嫌がらず猫のように擦り付けてくるそれを撫で続けながら軽く息を吐き出す。
いや、確かに愛らしい…通常時中々聞けないであろう本意を耳打ちされる行為もその後の照れ隠しの笑い声の好意も確かに愛らしい……しかし、この行為を記憶していればまだ良いが覚えていなければそれはかなり辱しめてしまう事に…
「ふわぁ、しかしあついですねえ…いっそ脱いでしまいたい…」
「は?」
ハタハタと布生地がこすれ、はためいている音がする。襟元を掴み広げ胸元に空気を送り込んでいるのだろう、吐き出された吐息が熱い。
まさかこのまま放っておいたら帯をほどき、本当に脱ぎ始めてしまうのでは?それは酒に呑まれた者の末路としてありがちではあるだろう。
別に誰に見せる訳でもない。見る訳でもない。私とて見えない。本人が望んでの事。
……南無、南無阿弥陀仏……いや、それは許されざる事だ。止めれる私が止めねばならない事だろう。
「…さて、ここらで止めておきなさい。その方が賢明だ」
「ええ…?まだ、だいじょーぶですよぉ、ほらまだ残って、ますよ?もっらいないですよ?」
「いやもうかなり呂律が……ああ、わかったその分は私が呑むからまい子は部屋に戻って…」
「おそばにいてはダメですか…」
「………」
酔っぱらいとは、如何なる時も厄介なものだ…当人に悪意がないのがまた厄介この上ない。酔った事で感情の制御が出来なく本意かどうかも危ういが、声が、泣きそうな哀しそうな声を聞かされれば…ひるんでしまう。
…確かに酔っている。一度眠りについてしまえばこの記憶があるかどうかも怪しい。
だが確かに明確に何か悪事を働いた訳でも失態をした訳でもないのだ。着物も…多少乱れはしているだろうが着ている。ならば共にいる事は構わないのでは…?
…自身に対して言い訳をし始めるのは、よくない傾向だろう。
だが、反論の言葉が思い付かず、改めて髪を撫でる手も止める気が起きなかった。
「…あまり、無茶はしないよう…」
「はぁい。あ、空になってますねぇ、でもだいじょーぶですよ、あたためましたから!」
「ああ、すまない…」
私の呑み干したお猪口を見付け、差し出してきたそれを受け取ればこぼさないように注いでくれる。一応手元はしっかりしているように思えるのだが口調がかなり危ういからな…
こぼせばそれを理由に咎めれるというのに淵より少なく注がれたそれを口に含めばほんのわずかな違和感。ん…?
「何だ?何か違和感が…」
「はぇ?おいしくない、れすか?」
「いやそうでは……」
「おいしいれすよ?」
味が悪くなった訳ではない。むしろ辛味が増えなめらかさは増し、呑みやすさは損なわれるどころか増している。そうではなく……あっ。
「…少し温度が上がったか…?」
「ほ?……んん?…そうれすかね…?」
「…あっ、もう呑むのは止めておきなさいと言ったろう?」
「らいりょーぶ、れすから…」
「いやもう全く大丈夫ではない!ほらもう呑むのは駄目だと……嗚呼…」
もう聞き取るにもかなり厳しくなってきたというのにまい子の手にはいつの間に注いだのか酒が入ったお猪口が収まっていた。
そして今の動いた音からして一気に流し込んだな。しかも今の会話の流れとして二杯目だろう…
ああ、もう駄目だ。泥酔している者の言葉は信用してはいけない。止めれると思った最初期に止めておけば良か…
唇に濡れたものを押し付けられる。
それからぬめりのある熱いものが開けるよう触れに来たあと、水分が伝う。口の端を取り込めなかった水が流れ落ちる。
………は…?
「そ、れした…ぎょめしゃまが、のむんれすよね…」
「……」
何事、かと一瞬理解出来なかった。いや、行為は出来てはいたが行動が理解出来なかった。しかし。
…ああ、そうか。私が全て呑むと宣言したそれを守ろうとしてくれたのか。やはり酔ってはいるが頭は動いて約束を果たそうとしてくれたのだ。
呑もうとしたそれを、口移しとして。
……南無三ッ!
「嗚呼、なんと!まぁ…!……?……む?」
言いようのない感情が激しく渦巻く。私とて今現在決して平常ではないのだぞ…こうして想定外の出来事を、平然と受け入れるにはまだまだ修行が足りない。そも、この平穏はどんな時でも私ならば壊せるのだから。
だがそれはいけない、本意でない、あってはいけない。酒に呑まれてはいけない、強くあらねば。
なんだか楽しそうな笑い声に艶やかさを聞き交じる気がして払い除けるよう頭を抱え、口端の伝った水滴を親指で拭い……唇の妙な熱さに気付く。
…?唇だけがなぜ熱い?指が冷たい訳ではないだろう、体全体の体温は酒を呑んだ事で上がってはいる筈だが…右手で左手に触れてもよくわからない。少しひりつくような…何だ?
いやそれより唇に触れてきた存在、まい子を確かめるのが先決だろう。まさかそんな体温に違いがあるとは思えないが。
右手で常のように包み込もうと伸ばし触れ…
「ッ!?」
想像を越えた、あまりの熱さに驚き手を反射的に引っ込める。なんだこの熱さは!?高熱の熱さなどではない、これは熱湯に触れたかのような……
「…なん、だ?私が酔っているから勘違いしているのか?」
「ほぇぁ…?なぁに、れす…?」
「いや…確かに熱い。まるで煮えた油…甘めに見たとして少なくとも沸騰しきった湯ほどは…」
改めて両頬に触れる。こんな異常が起きているというのに当の本人は大人しく私の手に包まれ続けており何も不思議に感じていないようだ…その温度は、私でなければ火傷はまぬがれないほどのもの。
いや…比較しているからだ、まい子の体温の異常さに引っ張られてはいけない。私も高くなっている。それも一般的な体温より遥かに高い。
なんだ、なぜ?いや…すぐに結論の出ないだろう理由を考えるよりまず安全と体調を確認せねば。
─ 後編に続く