何時間経ったのだろう。
自身の骨が砕けそうなほど強く握った拳を渾身の力を込め振り下ろす度に、ぶちぶちゅと潰れた音をだしあちこちに溢れだす肉と粉々に砕ける頭骨の感触が惨劇さを事細かに伝えてくる。
瞼ごしに眼底を壊せば指先に醜い糸を引く。歯を折れば第二間接や手の甲に突き刺さり、抜け落ちた床の木目にカラコロと落ちる。
何より、叩く肉が。溢れる血が。許しと謝罪に似た声色が。
常に新鮮な吐き気を催す臭いを作っていた。
悲鳴。悲鳴。潰れる声。
止めたい。気持ち悪い。反吐を撒き散らしそうなほど不快な血肉を潰す感触を、辺り一面を埋め尽くす悲鳴とそれを破壊するこの行為を。
止める訳にはいかない。私は。私は……守らねば。
この、この小さな命を。唯一生き残った、守らねばならないこの……
「あの人は化け物」
………。
「あの人が、みんな殺した」
………。
*
「行冥様?」
「………」
起きた時。私は今どこにいるのか何をしているのか、何もわからなかった。
閉じたままの目から涙は流れ落ち、背中は冷や汗でぐっしょりと濡れている。わかっている。理解している。
夢だ。今のはただの…夢。思い出すのも苦痛な記憶を呼び起こしていた夢。無意味に早打つ心臓がうるさい。
……数度瞬きと全集中の上深い呼吸を繰り返せば徐々に落ち着いてくる。理解してくる。
私は今汽車に乗っていて、目的地到着まで眠っていた。そう、あれは夢だ。現に夢は今考えているものから全く別の話に転がっていったではないか。
だがそれでも考えたくない、思い出したくないものを夢に見た事は事実だ。
瞼を開けど何も映らない。なのに手には未だ…潰していたおぞましい感触が残っている。あれから、あの日から……もう、幾年も経っているというのに。
………。
「…大丈夫ですか、行冥様…?」
座っているすぐ隣から私を呼ぶ声がする。あの時の私は知らなかった者。今の……鬼殺隊の柱で、鬼とはいえ頭部を夜明けまで素手も潰し続けた事すら知る…私を。
……二の腕辺りに小さな手が置かれている。思い返せば声と共に小さな揺れを感じた気がする。つまり、そういう事なのだろう。
「…起こしてくれたのか」
「……。……はい。お疲れだろうとは思ったのですが……その方が良いかと思いまして」
「嗚呼……いや、大丈夫だ。ありがとう」
涙を流し続け、拭う事もせず天井を見上げたまま微動だにしなかった私の横で…まい子は小さく呟いた。
労いの挨拶を途中で一瞬詰まらせるも、それでいて何も聞かずにただの挨拶を伝えてきた。何かに気付いただろうに……聞かない、優しさ。
その優しさにまた新たに暖かな涙が溢れ落ちる。
それでも。夢に現れ生々しい感触すら残る今だけは。
「!……。…もう少しで到着しますよ、先ほど川を越えましたから」
「ああ。降りる用意をせねばな……さほど荷物はないが」
座席の狭さで触れそうになったまい子の手に触れる前に、胸元に持っていく。数珠が沈黙を誤魔化すように鳴る。
顕著ではないだろうが、気付かれたやもしれぬ。決して手に触れないようにした事に。現に何かに気付いたように声色が少し違った。それでも何も言わないそれに…今だけ許しを貰いたい。
すまない、どろどろの血肉が残るかのような幻触が消えるまで。今だけは君に触れたくない。
*
「もう少し歩きます。しかし、風が冷たいですね…」
汽車に乗り私達がやってきたのは森林に囲まれた小さな村だった。空気の澄み具合や環境の反響音からしてかなり大きな森なのだとわかる。まい子の父方の血筋に関係あるこの場所に来たのは……端的に説明すれば代行だろうか。
本来出席すべき人が各々の事情で出来ず、藁谷家から離れた彼女にその鉢が回ってきたのはかなりの珍しい事なのだろう。しかし彼女には頼れる一親等も二親等もいないのだから仕方ない。
かといって体の丈夫でない彼女を、一人送り出すには不安でしかなかった為にこうして任務終わりに同行を願い出た。疲れで妙な時間に取った睡眠のおかげで妙な夢を見て……寒さに震える彼女の手を取る事すら憚られている。
吐く息は白く、山の標高高い場所で吹き荒れ気温を下げる風らのそれから守るためには。理解しているのに。嗚呼、情けない。
「ここには良く来ていたのか?」
駅から出てもう三十分近くは歩いている。行く先がわからない私ではどうしようもなく、彼女の自分が歩いて案内をするという言葉を大人しく受け入れていたがこれ以上この気温で歩き続けるならば抱え案内をして貰う方法に切り替えよう。
一際大きな風が私達の間を抜け、羽織を舞い上がらせたのと同時にまい子へ話しかける。
「いえ、数えるほどしかないですね。特に幼少時は今より体は弱かったので…話だけは父から色々と聞いていましたが」
「話……お父上の思い出話か何かか」
「それもありますが…ここら辺に伝わる伝承話とかですね」
「む?それはどのような…?」
「えっとここの山のとある場所が……」
古今東西、どの場所でも伝わる話はある。私が住んでいた場所でも鬼の言い伝えや藤のお香の話は根強く残っていた。そのような類いのものだろうか。
「…いえ、あまり面白い話ではないので止めましょうか」
「えっ。いや訊ねた私が悪いのだが…気になるので続きを聞きたいのだが」
「いや止めましょう。こんな寒い季節に怖い話はするものではないですよ」
「…怖い話」
私が訊ねた事でまい子は説明しようと少し言葉をつむいだのだが…途中で言葉は止まり。何事かと顔を下げた私を見上げ、隊服の一部を優しく引き小さな笑い声をあげた。
「あっ一応言っておきますが、昼間でも出るので鬼ではないですからね」
「……なるほど、何かが出るのか。まぁ今でなく…いつか話せる時にでも聞こう」
「そうですね。家に帰った時に…火を焚いて猫を抱いての完全防備の時にでも話しますよ」
「うむ、楽しみに待っておく」
別に私は幽霊話だろうと怯えはしない。幽霊よりも恐ろしいものを知っている。幽霊話ならどちらかといえばまい子の方が苦手なのだから…話したくないのかもしれない。ならばこれから向かう先だからと気にはなるが無理強いして聞く事でもない。
自分で話したにしろ怖くなりすがり付いてきたり…一つ寝を願い出る可能性もある。しかしそれは……まぁ、怯え慰めるのならば、当然だ。怖がらせたい訳ではない。
「あ、あそこの民家を過ぎればもう少しですよ」
「……このままの速度で歩けばそのもう少しの時間はどれくらいだ?」
「えっ…と。……三十分以上は…」
「よし、抱えるから案内だけしてほしい」
そんな中何でもないかのように伝えてきた時間は決して見逃せないもの。あと、三十分以上…?大丈夫だと言うまい子の言葉を聞き流し、抱えあげれば案の定小さな体は冷えきっていた。
小さな弱々しい体を支え抱え、案内されるがまま向かった先は村の中で一際大きな家屋だった。
*
室内にはかなりの人数が集まっていた。少なくとも五十より多いそれは一村の代表だけでなく、まい子のように外に出ていった者達もこの日は戻ってきているのだろう。親に連れられ初めて足を踏み入れたであろう子供のあどけない声が聞こえ…涙が溢れる。私と言う完全な外部の存在に不思議がってはいたが無理に排除される訳でもなくむしろ温かく迎え入れられ予定していた行事は滞りなく行われた。
地域特有の祭事や行事を理解する事は難しい。それでも予想は出来る。こうした山に囲まれた土地では山を、森林を敬い恐れ、崇めたのだろう。
だからこうして初めは屋敷で人々に。次に山へ立ち入る事もなく人里との境で長時間のお祓いを行っているのだろう。
人は天災に対してどうしても力及ばず、なす統べなく被害にあう。このような場所であれば信仰やお祓いを大事にするのも当然の事。行きに不穏な伝承を聞いていなければそう結論付けていたろう。
勿論鬼のように伝えられる不穏な伝承全てが事実とは考えていない、山深くに立ち入らないようにするのは遭難を避けるためという理由もあるのだろう。
そうして村の敷地を周り、幾つかの行程を終えた私含め多くの者が再び家屋の中に戻ってきた。初めの時より人が減っているのは子供がいなくなっているからだろう。
確かに幼い子供にとっては目新しさも何もなく寒空の下立っているだけというのは退屈で仕方ないだろう。到着時には昼前だったそれも今や太陽も傾く時間帯。そんな長時間付き合うより遊びに出掛けてしまうのは致し方なく、そもそも初めから出席していなかった。
*
「いえ、大変ありがたい申し出なのですが……帰りの汽車の時間もありますので夜の宴は遠慮させていただきます。申し訳ございません」
「…嗚呼、はい。御心遣いは感謝します、が。申し訳ない」
大事な祭事を終え、一息つく人々の中まい子は人の良さそうなご婦人から提案された今後の予定を断っていた。先ほどからの会話からして彼女の父方の血筋に関係するご婦人なのだろう。
彼女に断られた事で私に狙いを変えたのか、ご婦人は優しい声色で訊ねてくるも提案をやんわりと断る。私のようなよそ者でも受け入れてくれるそれは大変にありがたい。だが、受け入れる事は出来ない。
長時間の移動の末に用事を済ませてのとんぼ返りは彼女の体に少々負担がかかる、しかしその予定は初めから決めていた事。
これから行われる宴に出席すれば交通の関係で本日中の帰宅は厳しくなる。猫達が不安な上それに……家から離れた彼女自身、あまり長期間滞在するつもりはないようだったのだから。
私達の選択が特別珍しいものではない証拠として、ちらほら帰宅の声が聞こえてくる。恐らく私達と同じ汽車で移動する者もいるのだろう。もしかすると同じ車内で出会う事があるやも……
バタバタとした、騒音。
軽い足音は…恐らく、子供。親らしき人と話す声。穏やかな会話……から?む?
………。
……。……。
…いなくなった、だと?
「どうしました行冥様」
「…何か問題があったようだ」
「何があったのですか?」
「……それが…」
広い家屋の中、ざわめく人々の声の中からその会話を聞き出していた。集中して聞く事でその内容を盗み聞きし……いや。これは盗み聞きというより、周りの人々も聞かねばならない事なのでは?なにせ、これは。
「…遠方から来た子供が数人、行方不明になったらしい」
「えっ!?迷子ですか?」
「迷子…というより、遊びに行って見失い…帰って来ていないようだ」
涙混じりに説明している子供と焦っている親の会話。辺りが次第に騒がしくなってくる。当然だ、子供が二人…行方不明なのだから。
集まっていた人々がうろたえ、これからの行動を話し始めた。男手で探しに行く事を検討し始めている。いや、探しに行く事を決めたようだ。
いなく、なった。…捜索の輪に私も加わろう。探さ、ねば。今度こそ……子供も守れるなら。
「戻るのが遅くなるな…まい子はここで待たせてもらいなさい」
「私も行きますよ、土地勘ならば行冥様よりありますので」
「しかしその寒空の下では…」
「そんな中いなくなってる子の方が心配ですよ」
私達の軽い議論の最中周りの大人達は素早く捜索隊を作り上げていた。どの場所に行ったのか、誰が何人いないのか子供に聞いていた。
辺りの大人に詰め寄られ、親から何度も訊ねられながら子供が説明するその支離滅裂な言葉を上手く繋ぎ合わせればこうなるだろう。
遠方から親に連れられ来た子供と、今説明している子供は仲良くなり共に遊んでいたらしい。村の中を走り回り、様々な遊びをして……それでも時間が余ったから…
「…山へ、入った…?それも…████がある場所へ?」
子供が紡いだ言葉を私が繰り返した時。
辺り一面の空気が、止まった。
─ 後編へ続く