「──本当に」
左目と左腕に焼き鏝されたかのような熱が宿り、そこを起点に激痛が走っていく。
あまりに痛い。
今まで味わったことのない程の、痛み。
泣き叫びたくなる。
何故今まで泣き叫べなかったのか、不思議なくらい。
「──無茶するお嬢ちゃんだ」
周囲には、巨大な化物共の残骸がある。
家々が壊され。道路は砕かれて。そして火の手が彼方には上がっていて。
非日常の中。味わわされたことのない痛みを叩きつけられて。
それでも。
それでも──。
「でも....無駄では、なかったんでしょう.....?」
震える声で。
眼前で自らを見下す存在に──そう声をかけた。
サングラスを額に置いたその男。
その言葉に──笑みを浮かべて。
その表情を見た瞬間。
今ここで、自分にまつわる全てが──この場においては終わったのだと。
その安堵と同時に、激痛が全身で暴れ狂い──意識がぷつりと叩き切られた。
※
天王寺恒星は物静かで従順な少女だった。
──私は、視られている。
彼女には、一つ。生まれ持った性質があった。
──私の目じゃない。私以外の誰かが、私を見る光景を。私は視ている。
それは。
天王寺恒星を観測する誰かの視界を、天王寺恒星自身もまた認識するという。特殊能力か、超感覚か。とかくそういう代物を彼女は持っていた。
親が彼女を見る視界。
教師が彼女を見る視界。
友達が彼女を見る視界。
男の子が彼女を見る視界。
その全てを、彼女は視ている。
──例えば弱視の母が見る世界はこんなものなんだ、とか。
──例えば成績にうるさい父は、娘そのものよりも、彼女がもつテスト用紙の方に意識が向かっているのだな、とか。
──この人は私が赤色だと思っているものが若干緑色に見えているんだ、とか。
そういう風に。
幼い頃から。自分から見た視点以外の、他者の目がある事を知っていた。
それは己の感覚として存在していた。
自分は誰にどういう風に見られているのかを。認識しながら生きてきた。
世界は自分を中心に回っていない。
回転する世界の中の一つ。それ以上でも以下でもない。世界は回る。己がいなくとも回る。世界という球体は。社会という歯車は。誰かの人生は。自分がいなくともただただ回っていく。
自分というものが特別でない。それを感覚として受け入れるほかなかった彼女は──至極正しく”他人からどう見られているのか”を意識する人生を送っていた。
それ故に、物静かになった。
自分が自己主張する姿が、どういう風に周囲に見られるかを理解していたから。
それ故に従順だった。
両親も教師も、自分という存在ではなく。自分が纏う付加価値にしか興味がないと知っていたから。習い事も勉強も、ただただ静かにこなしていた。
──何も。何も無かった。
──やりたい事も。何かに反抗する意思も。何もかも。
──だからこうなった。周囲の人間を慮るという行為の裏側には。自分という存在に内在する意思が何もないという事実だけが存在していて。
親の友達が君には才能があるというから、柔道をやり始めた。
その友達の友達に無理矢理誘われたから、空手も始めた。
いつの間にか親は、勉強ができる自分よりも武道全般に才能がある自分に価値を感じ始めた事を悟った。
ただただ、従順だった。
親の視線は。今度は自分が手にしたトロフィーに注がれるようになった。
お前は間違いなくオリンピックに行ける。
メダルだって夢じゃない。
そんな言葉が。自分ではなく、自分の背後にあるものに視線を彷徨わせて言っていた。
──ねえお父さん。
──これがお父さんにとって特別な事なの?
心の中で浮かんだ言葉は、喉奥を通らない。
──ここには、私の選択なんてものは何もないのに。
見える未来は、何もなかった。
少なくとも──天王寺恒星にとっては。
※
三輪秀次と天王寺恒星は、特段の関係性は無かった。
同じ学校に通う顔見知りで、家がまあまあ近い。
それだけの関係であった。
ただそのそこそこな距離というのは──たとえば彼が高熱にかかって休みになった時にプリントを持って行く、という位の距離感で。
その時に凄く素敵な笑顔のお姉さんが出迎えてくれて、プリントを受け取ってくれた事を──よく覚えていた。
だからこそ。
地獄の光景を思い知る。
ある日のことだ。
なんか変な男がいた。
サンバイザーみたいなサングラスを額にかけている男。
その男は実に深刻そうな表情で周囲を歩いていた。
その男と、目が合った。
そして。
視えた
──崩壊する家屋。焼け爛れる家々。進行する化物。泣きはらす子供の顔。倒れる電柱。割れるコンクリ。苦痛に満ちた表情。連れ去られる人々。諸々。全て諸々。崩壊する日常と形成される非日常と数々の死の、その諸々。
そして。
──化物に捨てられ、胸辺りから血を吹き出し絶命する女性を、抱きかかえ涙を流す一人の男の子
頭をぶん殴られ臓腑の奥から熱した針がぶっ刺される感覚が胃液と共に逆流して。
その時天王寺恒星は──胃の中全てを吐き流して意識を失っていた。
何が起きたのか。その時には理解し得なかった。
そしておぞましい程に、後々理解してしまったのだ。
これは。
枝分かれする未来。
自分という視座から得られる未来。それを視る男。その──視点なのだと。
この光景が幻覚でも幻想でもなく”未来”であると実感したのは。
そこに在る光景の一つ一つが、あまりにも現実と地続きであるという実感が籠められていたから。作り物ではない地獄がそこに在る手触りまでもが、己の脳裏を駆け巡っていたから。
「あ......あ、げぇ。えぇ。げ」
言葉も出ない。
呼吸すらできない。
あまりにも予想しえない。
それが。
言葉もなく、ただ互いの視点を互いに交差させてしまった──迅悠一と、天王寺恒星との出会いだった。
※
──何を言っているんだお前は。
はじめて。
──馬鹿なこと言っていないで、さっさと支度をしろ。明日から大会だぞ。解ってるのか?
力のない、特別でない自分の在り方が。怖く感じてしまった。
──いつまでも口答えをするな! 支度しろと言っているだろが!
誰も。
誰も信じてくれない。
この場所が地獄になるなんて。
だから逃げてと言っても。
私は特別じゃない。
私だけが知ってしまった。私だけに内包されたものは。誰も、何も、動かす事は出来ない。
──全く。こんな大事な時期に体調を崩すなんて。自己管理がなっていない証拠だ。
私には何も力がない。私は特別ではない。
当たり前の事実。
受容し続けてきた現実。
それが。
こんなにも、恐怖だったなんて。
これが未来に起こる事だなんて。そしてその未来を、特別でない自分は何も変えられはしないなんて。
「あ....」
そうして。
何も変える事が出来ないまま──未来が到達してしまったことを、五感全てで感じた。
彼方から轟く、爆音と悲鳴によって──。
それは──後に第一次侵攻と称される。
次元の彼方の来訪者──近界民の、襲来であった。
※
父は必死になって私の手を引き、火災とアラームが鳴り響く三門市を走っていた。
「急げ!」
母はどうしているのだろうか。
学校の、他の皆はどうしているのだろうか。
そんな事を思いながらも──それでも、今自分は、自分の為に、逃げていっている。
「あ....」
そして。
見えてしまった。
逃げ出す方向と逆の方角に見えた──三輪家の天井と。
その方向に歩いていっている、化物の姿。
見えた。
見えて、しまった。
デジャビュする。
あの時に視えた光景が。
あの化物に殺される、女の人の姿が。そしてその女の人を抱きかかえる、男の子の姿が。
自分だけ。
そう、自分だけ。
自分だけが──知りえている。その未来の先。
「.....」
──だからどうした。
──お前は特別じゃない。
「......ッ!」
今自分が未来の岐路に立たされていることを実感する。
あの男と出会って見えた未来。なにもしなければ、きっとあの通りになってしまう。その確信がある。
知ってしまったから。
未来というあやふやなものを。無数の選択を。枝分かれすると言っても、それでも──そんなあやふやなものを、選び取れてしまう力が、あの一瞬だけ宿ってしまった。
何も。何も選択した事のない自分の手に。
怖い。
怖くてたまらない。
このまま──見えた未来を見て見ぬふりしてあの光景が現実化してしまう事が。知った上で見て見ぬふりをした自分と向き合う事が。
知らなければ。
知らなければ、こんな恐怖を覚えることも無かったのに──!
──お前がいなくとも世界は回る。
──お前が何をしたところで、何も変わらない。
──だからこのまま、何もせず。回る世界に従順であり続ければいいんだ。
見過ごそうとする己の心を慰撫する言葉が生まれてくる。
見て見ぬふりしていいのだと。
それが、自分という存在なのだから、と。
どうせ──何も変えられはしないのだと。
「.....」
本当に?
本当に何も変わらないのか?
いや。
そもそも。
──何かを変えたい、と。そう本気でも思った事が一度だってあったのか。
今。
恐怖を抱いている自分は。
あの光景が現実になる事を、何よりも恐れている。
このまま。
この恐怖を見て見ぬふりして流されて。
何が変わる?
必死に自分の手を引く父の手を。
──反射的に、払いのけてしまった。
「──恒星!」
その時の父の目は、驚愕に染まっていた。
今まで、一度だって逆らった事のない娘が。
この──極限状態の中で。はじめて、己が手を払いのけた。
「ごめんね、お父さん──」
そして。
必死に逃げてくる人波の中に──小さな身体を捻じ込んで、逆らうように歩を進める。
運命は人のあずかり知らぬ所にある。
きっと。あの瞬間にあの未来を知ってしまった事も。またどうにもならぬ運命だった。
そして運命は、告げている。
──変わりたい。
何も変えられないと諦めていた自分という在り方を。
恐怖に塗れた未来の光景を、見て見ぬふりして流そうとする在り方を。
──誰かを気にして”私”を持てない、自らの存在そのものを。
変えたい。
いや。
──この瞬間に、変えてみせる!
その時に思った。
運命とは──己の”意思”なのだと。
現実という結果ではない。
己が意思によって選んだ一つの選択から導き出される、未来を掴もうとするその手が。向ける目線が。踏み出す一歩が。流れ出す身体が。その始まりの意思こそが。──間違いなく運命なのだと。
何故ならば。
この意思だけは──己にも、他者にも、何者をもっても変えられぬ代物だから。
変わりたいと願う意思。
それだけは──変えられない。
「私は、私を変える。──変えてみせる!」
拒絶してみせる。
このちっぽけな、何の力も持てない一個の人間が。
一人の人間の未来を。
受け入れざる未来という現実を。
「恒星! 恒星ェェェェェェ!」
私を見る、父の視点が見える。
でもその光景に振り返ることは無い。
誰に見られようとも。見る方向は、自分が決める。
何処に向かうのかは──自分だけが、決めるのだから。
走る。
化物に向かって走る。
身体を鍛えていてよかった。だから走り続けられる。
──ずっと不平を言わず流れるままだった自分すらも、今自分は力に変えることが出来ている。
間違いない。
今この時ここに私がいる事は──間違いなく運命だ。
「──この、化物.....! 私を、見ろォ‼‼‼‼」
化物。
人の命を奪う、化物。
お前が相手だ。
見られるんじゃない。
──私を、見せてやるんだ。
地面に落ちていた瓦礫を──ステップを踏んで、思い切り腕を振り上げて投げる。
放物線を描く瓦礫は、化物の頭部にぶち当たる。
間近で、はじめて見る。
巨大な身体に四足がつき、大きく開かれた口には大きな目玉が付いている。
化物は──こちらを見ると。べ、っと何かを吐き出した。
それは──胸辺りから血を流した、人間の姿。
「.....」
そうか。
ここにいるという事は。最終的には自分もああなる事なのだ。
それでも──
「.....来い、化物!」
それでも。後悔はない。
なぜならば──これが運命なのだから。
己が選んだ。己が掴んだ。己が欲した。そういう、運命なのだから。
奇しくも──彼女が持つトリオンは。その化物を引き付けるには十分な価値があった。
だから。
化物は、──あの光景にあった。三輪秀次の家からその身体の方向を変え、天王寺恒星を見た。
化物が彼女を追う。
それと同時に──彼女もまた走り出した。
避難する人々とは逆の方角。
化物が跋扈する方角へ向かって。
もう帰ることは不可能な場所へ向かって──。
そのでかい図体をした化物のスピード。動きそのものは鈍重そうだが、それでも生身の自分がその速度に勝てる訳もない。
だから、出来るだけ狭い路地を走っていく。
狭い路地を抜け、家垣を飛び越え、走る。走っていく。
火の手が上がる街の中。
髪の毛や服がチリチリと焦げていく感覚に襲われながら。走る。走っていく。
化物は路地を形成する家々も、家垣も、破壊し、踏み尽くし、追っていく。
背後を見るな。
前だけを見ろ。
恐怖に身を竦むよりも早く走り出せ。
まだだ。
まだまだ。
足はまだ死んでいない。
このまま逃げて。
少しでも先に。少しでも前に。
それだけ──あの未来が実現する可能性が狭まっていくのだから。
──ワァァァァァン!
それは。
泣き声だった。
己の視界の外側から聞こえてきた、そんな──
──ママァァ!
前だけを見ろ。
前、だけを。
そう言い聞かせてきたはずなのに──。
見てしまった。
そして
左側の視界が、潰れた
化物が吹き飛ばした瓦礫が、左目に。
ぼやけた視界に見えるは。
自分よりも更に、幼く小さな子どもの姿。
その頭上に──化物の足が迫ってきている光景が。
──ああ。
──私は。
これが。
これが、私の運命の果てなのか。
私の意思が選んだ未来の果てに。変えると決断した先が。
別の幼い命を犠牲にする帰結だったのか。
避難する人々の逆を行けば、犠牲になるのは自分だけで済む。
そんな無意識の”甘え”が、ここにこういう状況となって眼前に現れてしまった。
私が連れてきた化物に、幼い命が食い殺される。そんな結果が。
「──逃げて!」
子どもを突き飛ばした左腕が、そのまま化物の足に巻き込まれ。
圧迫と共に骨も肉も神経すらも磨り潰される感覚が、左腕を起点に全身に襲い掛かる。
「....」
終わり。
化物の顔が、近付いていく。
「.....」
あの子は──。
突き飛ばされたまま、腰が抜けている。
畜生。
──私は。一人を救おうとして。そして一人を犠牲にしてしまった。
何が運命だ。
何が──
「──本当に」
化物の、眼球が斬り裂かれる。
その先に。
「──無茶するお嬢ちゃんだ」
──サングラスを額に置いた、あの男が現れた。
物語は、この話の冒頭に巻き戻る。