シンヱヴァンゲリオンの刹那の閑話にして残酷な結末に至る物語。

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残酷な天使のテーゼ

報われた未来もなく。

 

予定調和の過去もなく。

 

この物語の結末は、ただただ残酷なものとなることを保証しよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

浜辺の波打ち際で膝を抱える少年がいる。

 

線の細い横顔に、茫とした瞳。

 

それでも表情が穏やかなのは、自分が何かしらを成し遂げたことを知っているから。

 

 

 

父の求めた永遠を、息子は希望の槍で粉砕した。

 

それは善悪の彼岸を越えた争い。

 

壮大すぎる親子喧嘩と言ってしまえば身も蓋もないが、その果てに父は息子へと語った。

 

『落とし前をつけなければならない』

 

自戒か自虐か後悔か。

少年の感覚では、そのどれもが正しく、どれもが間違っていたような気がする。

 

されど、父を打倒した息子として、その意味を引き継がねばと思った。

結果として、玉座は確かに受け継がれた。

 

誰も認識すら出来ない戦いの果てに。

 

 

粛々と受け継がれたその力を用い、少年は重ねられてきた世界の全てを()()()()()()()()

それは少年だけにしか出来ないことであり―――そこでようやく彼は、己の成したことを理解出来たのかも知れない。

 

〝これが僕の贖罪だ〟

 

 

かくして、少年は神話となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その世界の音は潮騒だけ。

寄せては返す波の青も、急速に透明感を増す。

 

それは、少年の周囲の光景も同様だった。

ゆっくりと色彩を失っていく輪郭は純白へと溶け、やがて音も動きも途絶えるだろう。

 

膝を抱えたまま、少年は鷹揚にその変化に身を任せている。

 

色と熱を失っていく世界。いずれは完全なる無へと至る(きざはし)

ゆえに少年が座すその場は、ゴルゴダの丘に違いなかった。

 

間もなくその丘で神は処されることになるだろう。

執行人も観衆もなく、懺悔も祝福も存在しないままに。

 

だが、それが、それこそが、少年にとっての『落とし前』だった。

 

アディショナルインパクトは、力の振るい手の贄を持って代価とする。

その贄こそ少年の母親が肩代わりしてくれた。

しかし、次なる新世紀の創始者として、その起点として、少年は消えゆく世界に一人取り残されることになる。

 

 

 

ゴルゴダの丘(空間)が消失するまでに齎された時間は永遠の刹那。

この期に及び残酷なのは、消えゆく神となった少年は、同時に人の王としての存在でもあったこと。

 

それは神ならぬ身の戯れと呼ばれる思考だった。

自身の葬式を自分で眺めてみたいと思うような矛盾する要求。

 

周知の通り、今の彼に過去へ戻ることも未来へ進むことは許されない。

ただ無限の円環へのピリオドと、来るべき新世紀への始まりの点でしかない。

決して線には成り得ず、未来永劫交わることのない原点。

 

だが、何ものにも干渉できない特異点であるからこそ。

神としての属性を持つ彼には、過去の幾多の世界を掌握することが可能だった。

 

超然たる神は、膨大な因果の糸のそれぞれを観測することが出来る。

少年の力で編み直されたそれは、大きく膨らんで収斂し、彼の消失を終着とする。

その先にあるのは(エヴァ)の存在しない新世紀(ネオン・ジェネシス)

 

―――全てが消える前に、存在したであろう可能性とその世界を眺めてみたい。

 

それは果てしなく無意味で、この上なく有意義な欲求だったのかも知れない。

神として消えようとする少年の無限の愛(アガペー)と、人の王としての残滓が織りなす矛盾の螺旋。

 

 

少年の左手が、半ば無意識に掌握を繰り返す。

 

なんら覚悟を定めたわけでもない。

ただそうあれかしと及ぼした思考は、天地創造の速さにも似て実現される。

 

やむを得ないことだろう。

神に至らんとする彼をして、この刹那は長すぎた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

□■□

 

 

 

 

 

 

 

 

「こらシンジ! さっさと起きなさいよ!」

 

自室の扉が勢いよく開き、金髪の少女が飛び込んで来る。

対して、シンジと呼ばれた少年は、机に向かい合ったまま、少女に向けた背をビクリと震わせた。

 

「…アスカ。ドアを開けるときはノックしてっていったよね?」

 

少女の名を呼んで、シンジはそう苦言を呈する。

 

「なんだ、起きてんじゃん」

 

しかし、アスカは全く意に介した様子もなく、少年の肩に顎を乗せて、その手元を覗き込んでいた。

シンジの手元―――机の上には、複雑な造形の模型がある。

 

「アンタ、朝っぱらからまたそんなケッタイなモノを造ってたわけ?」

 

「…早起きした時間をどう使おうが僕の自由でしょ」

 

頬を擽る少女の髪の感触に辟易しながら、シンジはそう言い返す。

 

「これだって、今度のコンテストに出すんだ。次こそ入賞して見せる…!」

 

少年が作成に勤しむその模型の造形は、SF的な戦艦か何か。

両手を広げた鳥のようで、何か別の生き物のようなフォルムが、アスカがケッタイと表現した所以。

 

「ふん! そんなのばっか造っているから、あんたは根暗だなんだって噂されてるのよ!」

 

「僕の趣味のことなんだから放っておいてよ! それに、そもそも噂をばら撒いているのはアスカじゃないか!」

 

「そんな根暗なシンちゃんに、プレゼントを上げるわ」

 

にっこりとしたアスカが机の上に置いたのは、A4サイズより大きな包み紙。

 

「…なに、これ?」

 

「あんたバカァ!? 今日は何の日だと思っているのよ?」

 

言われてシンジは小さな卓上カレンダーに視線を走らせる。

今日は2月14日。聖バレンタインデー。

 

「根暗でオタクなシンジくんはどうせ一つも貰えないでしょうから、この幼馴染にしてスーパー美少女であるアスカちゃんが上げちゃうわけよ」

 

ふん! と鼻を鳴らし、髪を搔き上げてアスカ。

 

「…自分でスーパー美少女なんて言うかな」

 

「って言っても当然義理だからね? そこ、勘違いしちゃ駄目だからね?」

 

念を押してくるアスカに、ブツブツ言っていたシンジの頬は綻んだ。

 

「うん、ありがとう、アスカ」

 

そう返され、そっぽを向きつつアスカは腕を組む。

 

「お返しは期待しているからね? 五倍返しが相場なんだから!」

 

「でも…」

 

「でも?」

 

「どうせなら、学校で渡してくれればいいのに。でないと、僕は本当に誰からも貰えてないことになっちゃうだろ?」

 

「………」

 

「あ、ひょっとしてこれだけ大きいと、鞄に入らないから学校へもっていくのも大変だったり?」

 

「…色々と察しろこのオオバカァ!!!」

 

 

 

 

 

 

□■□

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

少年を真っ赤な顔でポカポカと叩き続ける少女。

傍目にも仲の良さそうな二人が織りなす青春は、これも一つのあり得たかも知れない物語。

 

 

 

 

我知らず頬を緩ませながら、神となる少年は異なる可能性へと視線を転じていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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凍えそうな月が浮かぶ空。

その光が投げかけられる公園のベンチに、一組のカップルが腰を下ろしている。

 

「大丈夫? 寒くない?」

 

ちらちらと降ってくる雪に、青年が隣の女性を気遣う。

 

「うん、大丈夫よ」

 

そう応じた女性の金髪の上を、雪が溶けることなく滑り落ちている。

 

「ところで、なんでわざわざこんなところに呼び出したワケ?」

 

はーっと自分の両手に息を吹きかける彼女に、青年は懐から何かを取り出す。

手袋でもカイロでもない。それは四角い箱だった。

 

何ごと? と軽く目を見張る女性の前で、青年は箱を明ける。

銀色の光は視界に弾け、女性は思わず息を呑んだ。

間髪入れず青年は驚いたままの女性の左手を取る。

有無を言わさず薬指に嵌められたそれは、まるで身体の一部のようにぴったりと納まった。

 

「結婚しよう、アスカ」

 

青年―――碇シンジは言った。

 

「……ッ」

 

女性―――惣流アスカ・ラングレーは軽く目を見張った。

 

返事を待つシンジを横に、アスカは自分の左手を矯めつ眇めつする。

銀色の指輪を己の青い瞳に反射させる横顔には、明らかな笑みが浮かんでいた。

 

しかし、指輪ごとギュッと拳を握ると、長い睫毛を伏せてしまう。

 

「…アスカ?」

 

「シンジ。あたしが子供が嫌いってこと、前に話したわよね?」

 

「アスカ、それは…」

 

「うん、アンタと結婚するのは問題ないわよ? でも、子供が出来たりしたら、あたしは…」

 

いつの間にかシンジの手が自分の手に重ねられていることにも気づかず、アスカは深く深く溜息をつく。

 

「きちんと育てられる自信がないの。下手をすれば虐待しちゃうかも知れない」

 

「それは、アスカの子供時代が関係しているから?」

 

シンジの優しい問い掛け。

涙目になったアスカは唇を噛む。

 

母である惣流・キョウコ・ツェペリンはエヴァ弐号機に魂を奪われ、廃人となって死んだ。

壊れた母親にそれでも見て欲しいと努力を続けたアスカにとって、報われなかった早すぎる幼年期の終わり。

ゆえにアスカは親の情愛というものを知らない。

知らずに成長した人間に、果たしてまっとうに子供が育てられるものだろうか?

アスカの懸念はそこにある。

 

口にしておいて、深い後悔がアスカの胸中をよぎる。

半ば泣きそうになりながら顔を上げた先にあったのは、見慣れ過ぎたシンジの穏やかな表情。

 

「ねえ、アスカ。君に、僕の子供の頃のことも話したよね?」

 

シンジの幼少時代も、アスカと酷似している。

求めた母性は注がれず、父親からも放擲されていたところまでそっくりだ。

 

「うん。知っている…」

 

分かっているからこそ、アスカの顔は更に歪む。

まっとうでない二人が一緒になったとして、子育てに対する不安は二乗されるだけではないのか?

 

もはやくしゃくしゃに表情を歪めて、青い瞳にそう疑問を載せて訴えてくるアスカ。

しかしシンジは動じない。

むしろ春風のような温かさを込めて、アスカの拳を覆う手に力を込める。

 

「だけど、君と僕のマイナス同士を掛け合わされればプラスになると思うんだけど、どうだろう?」

 

きょとんとした表情が、涙に塗れたアスカの顔に浮かんだ。

続いて、くっくっくという笑い声とともに、華奢な肩が震え始める。

 

「え、えーと…?」

 

戸惑いの声を上げるシンジに、アスカは目尻の涙を拭いながら唇を尖らせた。

 

「カウンセラーとしては落第点よ、そんなの」

 

「相変わらず容赦ないね…」

 

若干凹みつつ、それでもアスカが元気を取り戻してくれた方がシンジは嬉しい。

そう思い笑おうとしたら、いきなり抱き着かれた。

耳元で甘い声がささやく

 

「でも、プロポーズとしては百点満点を上げるわ」

 

「…ッ!」

 

シンジも抱きしめ返す。

 

「ありがとう。ありがとう、アスカ…」

 

「ううん、それはこっちの台詞よ。ありがとうね、シンジ…」

 

 

 

 

 

 

□■□

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雪が舞い散る月下の元。

彼と彼女が交わした永遠の誓いは、決して溶けることはないだろう。

 

これも、あり得たかも知れない未来とその始まり。

 

 

 

 

 

 

 

どこか寂し気に、それでも満足げに微笑んだ少年は、更なる世界へと思いを馳せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは3億165万5722もの世界を見渡した頃に感じたものだった。

 

 

 

 

無限とも思われる平行世界。

ならばその世界に展開される可能性も無限に等しい。

 

にも関わらず、少年の観測した世界には共通項が存在する。

ゆえに、違和感を抱かずにはいられない。

 

 

観測した過去と未来を時間軸とした膨大な世界の数々。

ありとあらゆる可能性が存在して然るべきだ。

 

しかし。

 

目にした世界の全てに惣流・アスカ・ラングレーが存在するのは当然としても。

 

なぜに、全ての世界で碇シンジと密な関係を構築しているのだろう?

 

 

 

 

その違和感に気づいたとき、少年はハッと顔を上げる。

心当たりがあった。

むしろ神たる身である彼は、既にその答えを知っていた。

なのにそのことを確認することが躊躇われたのは、いったいどのような禁忌が作用した結果か。

 

 

 

それでも、おそるおそる少年は目を凝らす。

見るべき世界は只一つ。

 

少年が直近で接した因縁深い世界。

同時に、彼にもっとも因縁深かった彼女を送り返した世界でもある。

 

 

『第三新東京村』

 

地面に突き立てられた看板も、どこか懐かしい。

そしてその村外れには、エヴァの剥き身のコックピットらしい残骸が転がっていた。

その残骸をけたぐり倒している赤い姿。

むちむちのプラグスーツを纏ったアスカである。

 

彼女は何か叫びながら残骸を蹴り飛ばす足を止めない。

挙句、破損したパーツを全力で投げつけている。

憤怒で染まった表情で、何かしらを叫んでいるようだ。

 

 

それを眺める少年は、無意識に音声をミュートにしていたことを奇跡的なことだと思う。

奇跡という概念を果てしなく卑近なレベルに引き落としつつ、それでも少年は彼女が何を怒っているのか知らねばならないと考えた。

 

ゴクリと少年は生唾を飲み込んだ。

神のくせに。

 

 

『あんのバカァああああああ!! あたしだけとっとと送り返して、何考えてやがるのよッ!?』

 

 

解除直後の凄まじい怒声。

 

 

『ぬぅわぁにが、「好きといってくれてありがとう」よ! カッコつけてんじゃねえわよ、バカシンジがッッ!!』

 

 

とても精神年齢28歳に達した女性のものとは思われぬ罵詈雑言の嵐。

 

思わず首を竦めてしまいそうになる少年。その瞬間、別の男性の声が飛び込んできた。

 

『何やっているんだアスカ! そ、それにその格好…!?』

 

あのアスカの後を託した青年、相田ケンスケ。

 

―――これでどうにか取り成してくれるだろう。

 

『ああ、ケンケン。詳しく話したいんだけど時間がない。だから、今までありがとうね』

 

『え?』

 

言うが早いが、アスカはケンスケの背後に回り込む。

そのまま軍隊式の奥襟締めで彼を昏倒。

 

―――楽観に傾いた天秤は、一瞬で粉砕された。

 

 

ケンスケを地面に横たえて、アスカは空を仰ぎ見る。

 

その透徹した眼差しに、少年は背筋をぶるりと震わせた。

 

万が一にも見えているはずはない。

あまりに直近の世界ゆえ、その因果の隔たりは天と地、いや、天とコキュートスほどの距離があるはずだ。

にも関わらず、少年はアスカに睨みつけられたように感じた。

 

背筋に冷たい汗が滲む。

その瞬間、3億165万5722もの世界に散らばるアスカが一斉にこちらを見たのも、決して偶然ではないだろう。

 

 

『…そこに居るのねぇ…』

 

 

舌なめずりするような声に、少年の全身は粟立つ。

 

馬鹿な。なんで僕が今さら…?

 

続けて、神ですら予見できない光景が彼女の手元に展開する。

 

ミリミリと音を立てて歪む空間。

そこから出現したあり得ないものに、少年は目を見張った。

 

全てを改変(破壊)する希望の槍。

少年を神の領域へ押し上げた創世の輝き。

 

それを、なぜに、彼女が…?

 

沸きあがる疑問ごと切り裂くように、アスカは腕を振るう。

煌めく絶対概念の刃は、易々と時間と空間の壁を切り裂く。

 

だが、それだけだ。

やはりあの槍は、少年が振るったほどの権能を持っていない。

時空の狭間を高密度で覆う因果の糸が、絶対不破の硬度を持って刃を跳ね返す。

因果を繰る術がない以上、彼女が神への道を辿る術はないのだ。

それでも彼女は槍を振るうのを止めない。

全てが水泡へと帰すシジフォスの岩だというのに。

 

そのことを知悉するが故に、少年の眼差しには神の憐憫が混じる。

決して彼女は神の階まで至れず、彼は唯一のまま世界を閉じるしかないのだ。

 

 

もはやそれは確信ではなく運命。

神の定めし運命は、間違いの存在しない予定調和。

粛々と結末まで至る筋書きは、決して書き換えられることはなく。

 

 

だから。

 

だからこそ。

 

少年は驚きに目を見開いていた。

弱々しい声で呻く。

 

あり得ない光景と評するのも、呻き声を上げたのも、やはり人としてのリアクションでしかあり得ない。

 

 

まさか、業を煮やした彼女が、切り裂いた時空の狭間に身を躍らせるなど。

彼女が、その身一つで因果の海を進もうとしてるなど。

 

例えるなら因果の糸は鉄条網。

触れれば肌に食い込み、触れた存在そのものに影響を与えてくる。

だからといって引きちぎれば、その因果にまつわるもの全てが破断する。

そしてそもそも、絶対に切断されないからこその因果。原因が無ければ結果は生じず、その逆もまた然り。

 

 

しかし、赤い姿の彼女は、その強固さを全く意に介した様子もない。

因果の糸に絡まりながら、じりじりと歩を進める姿はさながら破壊神(ジャガーノート)のよう。

 

斬らず、千切らず、因果を纏い、彼女は天を目指してくる。

歩くたびに口から迸る怒声は、雷神の鉄槌のように世界に轟く。

 

余りにもあんまりな光景に、少年は震えあがるも、人としての情動を神のそれへと切り替える。

 

彼女がなぜあんな姿となって力を振るえるのか?

 

神の叡智はすぐに答えに行きつく。

それは少年が既に持っていた記憶でもある。

 

 

かつての世界でも、少年は神に押し上げられようとした。

だがそれも失敗し、只人として浜辺に打ち捨てられる。

全ての人間の魂を一つの器に収束させるという計画を拒否し、彼が望んだのは人が人を認識できる元の世界。

 

結果、浜辺にはもう一人の少女が横たわっていた。

 

原初の人間。

始まりの二人。

アダムとイヴ。

 

あれも一つの決着と結末であり、新たな時代と世紀の幕開けでもあった。

 

あの世界の因果は一際強力だった。

それらの因子は、先刻、父と決着をつけた世界へも強烈に紐づいている。

 

アスカに別れを告げたことに、あの世界の因果が織り込まれていたことは否定できない。

何より、いま少年が座している浜辺こそ、あの赤い海の幻影にして結実だ。

 

 

アスカという存在とは、やはりどうしようもないほどの確固たる因縁で結ばれていることを知る。

だが、今の彼女が神に等しい力を振るうことは、どうしても解せない。

 

 

全能の脳裏に困惑を浮かべて、少年は顔を曇らせる。

人としての振る舞いが許されるのであれば、全力で遁走していたことだろう。

しかし、元よりこの場所から逃げるという現象と意味が存在しない。

 

 

 

因果の糸は無数の光線となって彼女に絡み、極彩色を織りなす。

先ほど言及したとおり、因果は決して切ることは出来ない。

もはや吸収するようにそれらを引きずり進むアスカの中には、膨大な因縁が流入しているはずだ。

一本一本がそれぞれの世界丸ごとに相当する情報量。かつて存在し、今に至るまでの膨大すぎる人間の思考や記憶。

只の人間の器に取り込める道理はない。

そんなことが可能なのは、自分と同じ〝神〟、もしくは同等、それに近しい存在でなくてはならないはず。

 

全く唐突に、少年は解答を知る。

 

かつては浜辺に横たわる二人。不完全な人間。アダムとイヴ。

そしてイヴは、アダムの骨より作られた。

 

あの時の因縁と概念が引き継がれていたとするならば。

 

アダムが神となったのならば、アダムより作られたイヴはどのような存在へと置き換わる?

 

 

…〝天使〟。

 

 

祖は神の権能より作られし御使い。

決して神を越えることはない。

されど、もっとも神に近い力を持つ。

 

ゆえに神に反旗を翻し、遥か煉獄の彼方へと堕ちた天使の逸話はあまりにも有名。

であればこそ、膾炙した伝説を梯子へと変え、彼女は天へ、自分の下へと至ろうとしているのか。

 

少年の喉がカラカラに干上がる。

 

あまりにも人間的な感覚を無意識で無視し、少年は神としての権能を行使した。

 

たゆまずこちらへと向かってくる堕天使へと放ったのは福音でも裁きの雷でもない。

 

それは有体に言えば、謝罪。

あらゆる過去をひっくるめて打ち込む言霊は、もはや土下座を概念化したものと評しても過言ではない。

ただこのやり取りを客観視できる存在がいたとするならば、その光景は決して神々しいものではなかった。

どう控え目に見ても、ハリウッドのB級ホラーモンスターに、生存者が手あたり次第に近くのものを投げつける様子に似ていた。

 

唯一神へと至った少年は自身を俯瞰する術を持たない。

滑稽などと考える思考は存在せず、そのくせに絶望的なまでの恐怖に襲われていた。

 

少年へと矛盾と突きつける少女は、とうとう神の座する場所まで迫る。

天地開闢に比肩する膨大なパワーを身体に纏ったその姿は、いっそ主従を逆転させてしまうかと見紛うが如く。

 

だが、少年はやはり神だった。

怯えていても、情けなく腰が引けていても、腐っていても神である。

せいぜい威厳を示すように、鷹揚に少女へと笑い掛けていた。

 

「アスカ、本当にごめんね」

 

嘘偽りない少年の気持ちにして、神の言葉。

それはさながら神託を告げる鳩の如く少年と少女の周囲を飛び回り―――少女にむんずと掴まれて地面へと叩き落された。

 

 

一瞬で少年の顔が引き攣る。

対して、むちむちの身体に虹色の光帯を纏った彼女はこう答える。

 

「わかったわ。許してあげる」

 

ほっと少年は胸を撫でおろし、その途中で笑顔を凍り付かせた。

 

「―――なんて、あたしが言うと思った?」

 

少女は笑っていた。清らやかで、爽やかで、神々しくて、この上なく邪悪な笑顔。

一転、少女の身体が光る。

彼女にまとわりついていた因果が収斂していく。

 

あり得ない光景に目を見張る少年。

茫然とする神の前に再び降臨した彼女は、その様相を変えていた。

成長した28歳の彼女ではない。

ボロボロの赤い衣に白い包帯を巻きつけた姿は、まったく14歳の頃の彼女だった。

その小さくなった身体に秘められた膨大な力に慄きながら、少年の唇から言葉が零れ落ちた。

 

「…アスカ」

 

初めに言葉ありき。

名を呼ばれた少女の身体にさらに力が満ち、彼女は片目を包帯で覆ったままニヤリと笑う。

 

「さあ、きっちりと落とし前を付けて貰いましょうか」

 

神と相対する天使の図。

実態として、東映ヤ〇ザ映画の手打ち式に酷似している。

 

「………」

 

少年は動揺する。

だが、それでも必死に神としての威厳を保つべく胸を張った。

 

「うん。だから僕はこのままこの世界で、次の世界への起点として消えることにするよ」

 

微笑む。

それは取り繕う必要もない事実にして神事。

 

「それが僕の落とし前だ。僕がしたことに対するケジメなんだ」

 

己が口にする神託なれど、僅かながら自身を納得させようとする努力が滲む。

もう二度と彼女に会えないと思っていた。

けれどこうやって再会できている。

…そのプロセスは神としての自分の想像すら絶するものだったけれど。

 

こうやって消え行く前にもう一度言葉を交わす機会を得たのは、間違いなく福音(エヴァンゲリオン)だろう。

 

少年はもう一度微笑む。

超然と神たろうとする意識の端で、急速に減していく人としての意識が囁く。

 

アスカとはああやって別れたけれど。

きっと未練だったんだろうな。

 

でも、それも果たされた。

もうこれで思い残すことなど…。

 

「さあ、アスカ。もとの世界へと戻って。そして、今度こそ君だけは幸せに…」

 

宗教絵画的な笑みを浮かべて、少年は半目を閉じた。

そうしてから急に見開かれた瞳に映る少女の顔は近い。

 

いつの間にか眼前に迫ったそれは、喉元へと剣と突きつける動きそのものだ。

そして事実、彼女の瞳は、神へと反旗を翻した明星の如き輝きを湛えている。

 

頬が上がる。

彼女の口角が、凶悪なまでに持ち上がる。

いっそ牙が生えてないのは不思議なほどの笑顔を見せて、アスカは告げてくる。

 

「そんなことであたしが許すと思う?」

 

「…………ッ!」

 

シンジは震えあがった。

なぜなら彼は見てしまったのだ。

 

アスカの破壊的なまでの笑顔の上を、流星のように駆け巡る幾多の顔と記憶。

見知った顔もあった。知らない人の顔もあった。

その人たちの記憶もあった。胸に秘められた思いもあった。

 

そんな膨大な因果という大流を一身に集め、どうして彼女は平然と笑っていられるのか。

 

―――敵わない。

 

一瞬でもそう思ってしまったのが少年の敗北。

ただしく始まるは堕天の儀式。

 

されど、敗北しても少年は神だった。

神である以上、この聖域という起点がある以上、決して投げ打つことは出来ない少年の義務がある。避け得ない消失に対する業がある。

 

それを承知しているからこそ、少年は踏ん張る。意地を張る。

 

自分は、間違いなく目前の少女を愛していた。

愛しているからこそ巻き込むわけには行かない。

 

まさにそれは神の慈愛として―――。

 

「!?」

 

少年は目を見張る。

近かった少女の顔が自分に密接していた。

唇が重ねられている。

 

驚きつつも受け入れた次の瞬間。

 

「痛ッ!」

 

少年の唇から、悲鳴と血が迸る。

少年の血を己の舌先に乗せて、少女は笑う。

 

 

 

 

 

神が血を流している。

かくしてここに神殺しが成立する。

 

 

 

 

 

 

「ア、アスカ、何を…」

 

唇の痛みとは別に、残った感触は人肌の暖かさ。

 

…人肌? 人の肌の、温度…?

 

そう認識したシンジは、もはや神ではない。

ただの少年へとなり下がっている。

 

少年の血を唇から滴らせ、少女はやはり笑っている。

 

それからアスカは、茫然とするシンジにもう一度近づくと、再び唇を重ねた。

ただ重ねるだけではない。ぬるりと血まみれの舌を差し込む、より密着性と粘性の高い口づけ。

重厚で、淫靡で、それでいて聖なる契約を交わそうとするかのような祈りにも似た接吻だった。

 

「…ぷあッ!」

 

ようやく解放され、シンジは戸惑った表情を浮かべるしかない。

頬を染める少年を見て、アスカはニヤリと囁きかける。

 

 

 

 

 

 

 

「―――大人のキスよ。帰って続きをしましょ?」

 

 

 

 

 

 

 

え? とシンジが思う暇もない。

むんずとアスカに腕を掴まれた彼は、とてつもない勢いで引き込まれていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

それは、たわんだ因果の糸の反転。

それは、マイナス宇宙の修正。

それは、燃え尽きたはずの奇跡の再燃。

 

そしてそれは、天にまします神が残酷な天使に敗北して堕ちていく、絶対の結末の物語―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

誰もいなくなったゴルゴダの丘に、一体の巨人が出現する。

そこから転がり出たメガネをかけた少女は、色を無くしていく世界を見回した。

 

「あれ? おーい、ワンコくん! どこいったのー?」

 

少女はしばらくそうやってキョロキョロしていたが、やがてその姿も色を無くし、消え行く世界へと飲み込まれて行く。

 

何も、無すら存在しない空間。

それでもそこに、メガネだけがしばらくふよふよと浮き続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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