pixivに投降した作品をまとめたものです
一応タグに残酷な描写ってつけときましたけど、別に表現は残酷じゃないと思います。
アイドルが亡くなるという点には注意してください。

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私が大好きな偶像を壊すまで

 透の足が全く動かなくなり、車椅子での生活を余儀なくされた。

 とある小説の一節に、少女の綴ったこんな言葉がある。

『憧れの人が見る影もなく落ちぶれてしまったのを見て、「頼むから死んでくれ」と思うのが敬愛で、「それでも生きてくれ」と願うのが執着だと思っていた。』

 そしてその言葉は、こう締められていた。

『だから私は、遥川悠真に死んでほしかった。』

 つまり、その少女が抱いていたのは、少女が感じていたのは。少なくとも少女にとって敬愛だったのだ。

 対して、私が透に抱いていたものは、紛れもなく執着だ。

 その言葉は正しかったんだ、と思った。

 だって私は、浅倉透にそれでも生きていて欲しいのだ。

 

 1

 

 浅倉透と出会った時。

 まだ幼い私は、「かっこいい」だとか、「かわいい」だとかを感じるような感性は備わっていなかった。

 その時は透のことを、浅倉のことを透「くん」と呼んでいて、周りの人たちも透くんと呼んでいた。透には自分が女子と言う自覚も、男子と言う自覚もないのだろうか。性別が男子か女子かなんていうのは、小さいころには些細なことで、透のその在り方は男性的と言うか、かっこよく見えた。だから私は透のことを女子と認識していながらもくんという敬称をつけていて、周りも同様だった。

 

 

 

「とおるくん」

「お、どうしたの? まどかちゃん」

 とおるくんがみんなに混ざらずに鳥さんと遊んでいるのに気付いて、わたしはそう声をかける。

 とおるくんは、何を考えているのかわかんない。わたしはまだちっちゃいし、誰かのことをわかるなんて言えないんだけど、少なくともみんなはみんなで遊ぶことにこだわっていた。

「あの、あっちでみんなで遊ばない? おにごっこしてるの」

「あ、それを伝えに来てくれたんだ」

「うん、そう」

 わたしにはそれが不思議だった。だって、みんなで遊んだほうが楽しいもん。

「おっけー。それじゃあいこっか」

 とおるくんは、遊ぼうと誘ったら参加してくれる。運動は結構できるし、参加したらわたしよりよっぽど活躍する。どんなことでも。

 こういう遊びをする時にできない子が埋もれていくのは、まだわかる。だって、おにごっこでずっと鬼だったりするのは、わたしは嫌。

 とおるくんがそのあぶれた子たちと遊んでいるのなら、まだ理解はできる。遊び方は運動だけじゃないもん。そうじゃない。とおるくんははとさんに餌をあげたり、一人でどこか空を見上げていたりする。もちろん、最初からわたしたちと一緒に遊んだりもしていたけど、いつもわたしたちがみんなで遊んでいるのに対して、とおるくんは気分屋で自由だった。わたしたちは、少なくともわたしは、みんなでおにごっこをしたりトランプをしたり、とにかく、みんなで一緒にいたいと考えていたから、わたしはとおるくんのことを不思議に思っていた。

 そうじゃないとおるくんが不思議で、知りたいと思った。それは小さいなりの、小さな探求心の芽生えなのかもしれない。

「まどかちゃん?」

「あ、ご、ごめん!」

 ボーっとしているのをとおるくんに指摘されて、私は慌ててしまう。

「どうしたの? 考え事?」

「ち、違うの。なんでも、ないの」

「ふーん」

 とおるくんはそこで会話を打ち切った。それは単純になんでもないって思える子供心なのか、わたしのことを慮ってくれたのかは、わからない。

 

 2

 

 小糸と出会ったのは、透がきっかけだった。だって、トシが違うのにわざわざ話すようになることなんてあんまりないし、家が特別近くても、わざわざ他学年と話そうとはならない。少なくとも、私はそうだった。

 

 

 

「とおるくん?」

 わたしは見慣れない子と遊んでいる透くんに話しかけた。透くんに興味を持ってから、わたしはとおるくんのことをあんまり誘わずに、とおるくんの行動を横目で見ることが増えた。それでみんなとドッジボールなどをしている時に、注意が逸れて顔に当たったりもした。

「まどかちゃん」

「誰? その子」

「ぴぇ……」

「あ、ご、ごめん。別に怒ってるわけじゃないの」

 わたしは素直に疑問を示したつもりだったけれど、その子にとってはわたしの言葉は強く聞こえてしまったみたい。素直に謝る。

「この子はね――」

「い、いいよ。わたしから言うから!」

 その子は強くとおるくんを牽制する。それは、とおるくんに任せたら自分と言う存在を誇示できないから、というようにも見えた。

「わ、わたしは、こいと。ふくまるこいと、って言います」

 声は尻すぼみに沈んでいって、なんていうか、ちょっとショックだった。わたし、そんなに怖いだろうか。

「わたしはまどか。ひぐちまどか。よろしくね、こいとちゃん」

「う、うん」

 わたしはこいとちゃんと握手する。それで――と、わたしはとおるくんに向き直った。

「どこで知り合ったの? とおるくん」

「え、あったじゃん。この前さ」

 とおるくんに言われて、わたしは記憶を手繰る。

「……あ。この前の運動会?」

「そう」

 確かに、みんなでやることだから他学年の子と話す機会なのかもしれない。わたしは同じ組の子だったり、同じ組でなくても同じ学年の子としか話していなかった。

「偶然こいとちゃんのお母さんと話す機会があってね。それで、こいとちゃんともちょっと話したの」

「そう、なんだ」

 偶然話す機会ってなんなんだろう。とおるくんの親の繋がりなのかな? わたしはそれを聞くことはできなかった。

「と、とおるちゃん」

「何? こいとちゃん」

「その……まどかちゃんとは、同じ組の?」

「あ、うん。そう」

 わたしに直接聞けばいいのに。そう思ったけど、わたしもとおるくんに、こいとちゃんとどこで出会ったか聞いたんだった。似た者同士なのかもしれない。

「せっかくだから、まどかちゃんも一緒に遊ぼう」

「何してるの? ……っていうのは、見ればわかるよね」

「そう。おままごと」

「こいとちゃん、大丈夫?」

「も、もちろん! こういうのは、みんなでやる方が楽しいもん!」

 わたしはとおるくんとこいとちゃんに混ざって、三人でおままごとをした。

 びっくりしたのは、とおるくんのことを、こいとちゃんはとおるちゃんと呼んでいたこと。わたしの学年のみんなは、とおるくんのことはくん付けで呼ぶ。やっぱり、学年が違うと見え方も違うのかな、と思った。

 

 3

 

 私はそれから小糸と透の三人で遊ぶことが増えた。結局、波長が合うという話なのだろう。私が透に対して不思議に感じていたのも、言い換えれば透のことが好きだから知りたいと感じていたんだと思う。これはLoveではなくLikeの好きだ。念のため。

 

 

 

「まどかちゃん、最近何してるの?」

「……え」

 こいとちゃんと知り合ってから、こいとちゃんととおるくんとわたしの、三人で遊ぶことが増えた。それはつまり今まで遊んでいた子たちと遊ぶ機会が減ったという意味でもある。ゼロではない。だが、それはとおるくんと同じだ。わたしはそれまでそのグループでいつも一緒になって遊んでいたから、そのグループから離れるとこういった会話が起きるのも自然と言える。

 直截的に付き合いが悪いね、と言われるよりも少し心に来る。何をしているかくらい、わかっているはずだ。みんなが運動場でおにごっこをしている横で、わたしたちが砂場で遊んでいたこともある。

「それは……」

「あ、ごめんね。別にそれについて何を言いたいわけじゃないよ」

「えっ?」

「前から、とおるくんのことを遊びに誘いたいって言ってたり、とおるくんのことを好きなのはわかってたから」

「すっ……」

 好きなんかではない、というのは言葉にならなかった。だって、同じ女の子を好きになるなんて、あり得ない。

 後になって思えば、彼の言葉はLoveを指すものではなかったのだと思う。けどその時のわたしにとって好きというのはそういう意味なのだ。彼はきっと、わたしに比べてオトナだったんだって思う。

「ほら、でもやっぱり遊ぶ機会減っちゃって、ぼくたちも寂しいなって……ごめんね。まどかちゃんのこと、悪く言いたいわけじゃないんだけど」

 それは、単純に言葉選びの問題だったのだろう。彼に悪気があったわけではないのだ。

 それでもわたしがみんなと遊ぶ機会が減ってしまったのは事実で、少し申し訳ない気分になった。

「……ごめん」

「わ、わ! 謝らないで! 別に悪く言いたいわけじゃないんだって!」

「……でも、そうだね。みんなで遊ぶように、こいとちゃんととおるくんも誘ってみる」

「本当!? 嬉しいな」

「こいとちゃんはいっこ下だから、優しくしてあげてね」

「うん! 待ってるから!」

 そう言って、手を振って彼はいつものグループ――わたしの以前いたグループに戻っていった。

「まどかちゃん?」

「あ、とおるくん」

 そのタイミングで現れたのか、会話を聞かれていたのかはわからないが、わたしが会話を終えた頃に、とおるくんが後ろから話しかけてきた。

「こいとちゃん、今日いないんだって」

「あ、そうなんだ」

「風邪みたい。後でお見舞いに行けたら行きたいな」

「そうだね。わたしも親に相談してみる」

 わたしととおるくんは、お互いに親に送り迎えをしてもらっていた。とおるくんと家は近かったし、とおるくんがこいとちゃんの親と親交があるなら、わたしもとおるくんについていけばいい。

「ところでさ」

「?」

「さっきの話」

「ああ……聞いてたんだ」

「別に、盗み聞きするつもりはなかったんだけどね」

 会話の邪魔をしたくなかったから出てくるタイミングを伺っていた、ということらしい。別に、聞かれて困ることでもないし、いいんだけど。

「こいとちゃんがよかったら、あの子たちとも一緒に遊ぼうね」

「うん」

 ただ、わたしから透くんに相談する手間が省けたというだけだった。

 

 4

 

 小糸は別段体調を崩しやすい人間ではなかったけれど、見舞いに行ったという経験なら幾度かある。この時は小糸のお見舞いに行ったということよりも、初めて透と同じ車に乗ったということに、なんだか緊張してしまった、というのが印象に強い。

 小糸には少しバツの悪い話ではあるけれど、私は透のことが本当に好きだったのだ。その好きがLoveかLikeかなど、些末な問題だ。私は透に対して入れ込んでいた。耽溺していたと表現してもいい。初めて透の車に乗って、初めて透のお母さんと会話をして。それだけのことが、私にとってはすごく大きなことだった。

 

 

 

 わたしはその時初めてとおるくんの家に行った。わたしの家は近くのマンションで、とおるくんととおるくんのお母さんははわたしの家の前まで迎えに来てくれた。

「それじゃ、いこっか」

「うん」

 とおるくんと手を繋いでとおるくんのお母さんについていく。手を繋ぐというのは初めてだった。同じ幼稚園で遊ぶことはあっても、外で関わることはあんまりないのだ。だから私は手汗が酷くないかとか、そんなことを考えてしまう。

「まどかちゃん? どうしたの?」

「な、なんでも、ないっ」

 わかりやすい誤魔化しだったけれど、とおるくんは詮索しない。どうでもいいって考えられてたら、ちょっと嫌だ。なんていうか、天邪鬼だなー……わたし。

「まどかちゃん、ほら乗って」

 わたしはとおるくんの家まで着くと、車に乗るように促される。四人乗りのその車に乗り込むととおるくんが隣に座った。こいとちゃんの家まで、お母さんが連れて行ってくれるらしい。

 初めて乗る自分の家のものじゃない車は、少し中の匂いも違うな、と思った。

「透が友達を連れてくるのは初めてね」

「え、連れてきてよかったの」

「……ダメって言った記憶はないんだけどね」

 そういうのは子供から来るものだと思ってたのよ――。

 そう言ってとおるくんのお母さんは車を走らせた。

 別にたいした距離ではない。大した距離ではないけれど、幼稚園児二人を歩いて行かせるには少し不安が残る、ということらしい。

「円香ちゃんは、透と同じ組なんだよね」

「あ、は、はい」

「いつも透と仲良くしてくれて、ありがとね。この子、少し他の子と違うというか、あんまり友達を作ろうとしないみたいで。こんなに顔はいいのにね」

 最後のは冗談だろう。わたしは、とおるくんの顔も好きだけど、と自分の中で補足して。

「お母さん」

 隣ではとおるくんが少しむくれた顔をしていた。とおるくんのそんな顔を見たのは初めてで、わたしは少し驚いた。いつも飄々としていて、こんな顔も見せるんだ、と新鮮な気分になった。

「いえ……そんなことは。とおるちゃんはすごく良い子ですし」

 敢えていつもと違う呼び方をする。男の子扱いしているようには思われたくなかった。

「ま、まどかちゃん」

 横を見ると、透くんは顔を赤くしていて。

「~~っ」

 わたしはそんな透くんを見て、恥ずかしいことを言ったんだと赤くなる。そんな大したことではないけど、わたしも透くんも感受性は豊かな方なのかな。

 とおるくんのお母さんがニコニコ笑顔でいるのを見て、わたしはもっと恥ずかしくなったし、とおるくんも同じようだった。

 

 家は本当に大した距離ではなくて、こいとちゃんの家には五分かそれくらいでついたと思う。

 車を停めて透くんがこいとちゃんのインターホンを鳴らす。

「こいとちゃんのお見舞いに来ました」

 とおるくんがそう言うと、それほどの時間が経たないうちに家の人が出てきて、中に通された。

 とおるくんのお母さんは車の中で待っているらしい。曰く、一人でも暇は潰せるから、だそうだ。わたしにはまだ考えられない。

 軽く口頭で説明されると、「小糸」という札のかかった部屋までたどり着くことはできた。

 コンコン、ととおるくんは扉をノックする。

「こいとちゃん、いる?」

「ぴぇ……とおるちゃん!?」

「入っても平気?」

「う、うん! 大丈夫……!」

 透くんは部屋を開けると、小糸ちゃんの部屋に踏み込んだ。

 わたしがその時考えたのは、そういえばとおるくんの部屋には入ったことがないな、ということだった。さっき初めてとおるくんの家まで行ったんだし、それは当たり前なんだけど。

「お見舞いに来たよ。じゃーん」

 とおるくんはお見舞いの品――お菓子を取り出す。わたしもそれにならって持ってきた鞄からお菓子を取り出した。

「わ……! ありがとう!」

「たいしたことじゃないよ」

 本当に、たいしたものではないのだ。親にねだったものだし――喜んでくれたよ、ありがとうって、親にもう一度言わないとな、って思った。

 こいとちゃんは体調を崩しているし、わたしたちがこいとちゃんに対してできることなんてあんまりなかった。こいとちゃんがいなくてちょっと寂しかったよ、とか。そんなことを話しただけだ。

 わたしたちは、こいとちゃんの親におじゃましましたと挨拶をして、家を出る。とおるくんの車に乗ると、お母さんは「よかったね」と声をかけてくれた。

 わたしたちは声を揃えて「うん!」と言って、声がかぶさったことに赤面した。

「めんこいなあ」

 とおるくんのお母さんの言葉の意味は分かんなかった。でも、多分今のわたしたちに伝えるつもりはない言葉だったのだろう。

 そのあとはとおるくんの家に車で連れて行ってもらった。行きの逆だ。わたしはとおるくんと、とおるくんのお母さんと一緒に家まで連れて行ってもらった。

 わたしの心臓が、爆発してしまうんじゃないかというくらい、緊張する一日だった。

 こいとちゃんには申し訳ないけれど、こうやって二人で行動するということは今までほとんどなかったのだ。こいとちゃんととおるくんが遊んでいるのを見て、とおるくんとよく遊ぶようになった。もしかすると、わたしがひとりでいたら、とおるくんは声をかけてくれたのかな。わたしが初めて見かけた時、こいとちゃんととおるくんは、二人で遊んでいたから。

 そんなことを考えても仕方ないし、こいとちゃんに申し訳ない。だけれど、ともかく、とおるくんと二人で何かをするというのは初めてのことだった。お母さんはいたけれど、あくまで子供二人で、ということ。

 

 5

 

 運命という言葉は、綺麗すぎると思う。あるべきことが、あるべき形に収まったというだけのこと。私は今はそう考えている。世の中には偶然もあれば必然もある。偶然も必然という考え方はあるけれど、私の視点から見て偶然ならば、それは偶然だ。そこにある因果が見えていない限りは。

 私は引っ越すことになった。それも、透と同じタイミングで。そこには、親同士の意志は介在していたのかもしれない。私が透と話すようになってから、透の親と私の親は多少なり会話の機会があったから。

 そこに示し合わせがあったかどうかは、私は聞かなかった。偶然だと、運命だと思いたかったのだ。そう思う程度には、私は乙女だった。

 

 

 

「わたしね、引っ越すことになったの」

 お母さんにその話を聞いて、わたしはとおるくんと話す開口一番にそう告げた。

 近くに引っ越すことはわかっていたけれど、わたしはとおるくんを驚かすためにそう告げた。慌ててくれたらいいな、なんて下衆なことを考えた。

「え、まどかちゃんも?」

「あれ?」

 思っていた反応と違う。ていうか、え?

「とおるくんも、引っ越すの……?」

 わたしのは、近くに引っ越すだけだから。そんなことを言う前に、疑問が口をつく。

「うん。でも、近くだよ。マンションじゃなくて、一軒家になるの」

「な、なんだ……よかった」

「よかった? まどかちゃんも一緒なの?」

「うん。近くの一軒家に引っ越すの」

「そうなんだ」

 どのあたり、ということは聞かなかった。だって場所なんて、わたしは言われてもわかんないから。

 いつか誘われるときになったら場所がわかる。それくらいの認識だった。

「引っ越すならさ、最後にまどかちゃんの家で遊ばない? まどかちゃんの家、大丈夫?」

 あの時こいとちゃんのお見舞いに行くときに、わたしたちは互いの家を知った。それ以来、とおるくんの家で何度か遊ぶことがあったのだ。

 最後、という言葉にわたしはチクリと胸を刺される思いがしたけれど、その言葉に他意がないのはわかっていた。

「うん。聞いてみるね」

 とおるくんとそんな会話を交わしながら、こいとちゃんが来るのを待った。

「あ、来た。おーい」

「こいとちゃん、走らなくていいよ」

「ご、ごめんね! 待った?」

「全然。それじゃ、遊ぼっか」

 

 家が完成する過程にも差異がある。わたしの新しい家は、とおるくんの家より先に完成した。最後に、わたしの家で二人で遊ぶことはちゃんとできたから、後悔はなかった。

 隣の家は建設途中で、誰が引っ越してくるんだろうとわくわくしていた。もし、近いトシの子だったらとおるくんに紹介できるかな、なんてことを考えたりもした。

 そして、トシの近い子、というのは正解で。

 とおるくんに紹介することはできない子がやってきた。

「……え」

 隣の家の人が建設途中の家を見に来た時、わたしはなんとなく人が来たなってのを感じた。感覚的なものだったけれど、それでも気になって窓の外を見ると、その感覚は正解だった。

「とおるくん!?」

 わたしはそこに見知った顔があることに気が付くと、ばたばたと二階の遊び道具がおいてある部屋から出ていく。

「円香、急にどうしたの」

「と、とおるくんが!」

「ああ……」

 お母さんの言葉の続きを待たないまま、わたしはとおるくんと話すために、ぱっと靴を履いて出ていった。靴下なんて履く余裕なくて。

「あれ……え、まどかちゃん?」

「と、とおるくん……引っ越しって、ここ!?」

 わたしは、大して走ったわけでもないのに、慌ててしまったせいで息が切れていた。

「まどかちゃん……ここ?」

 とおるくんはわたしの家を指差していった。

「そ、そう……びっくりした」

「ぼくもだよ。隣同士なんだね」

 なんて運命的なんだろう。わたしが魅力的に、素敵に感じている女の子と、隣同士の家だなんて。

「まだだけど、ぼくがこの家に住むようになったら、たくさん遊べるね」

「うん……!」

 嬉しかった。わたしの胸はそれでいっぱいになって。

「ごめん、家は見に来ただけだから、すぐ帰るけど」

「あ、うん……大丈夫」

「それまでの短い時間だけでも、一緒に遊ぼう」

「……! うん!」

 わたしはとおるくんを家に招いて、少しの時間だけれど一緒に遊んだ。これからこういう時間が増えるって思うと、嬉しいな。

 

 6

 

 透の家が完成して、隣同士に住むようになった。

 それからは毎日のように遊ぶようになった。小糸たちと学び舎の外で遊ぶようになったのは、小学生になってから。それまで透と遊んでいたのは幼稚園で透に誘われた時くらいだった。それは、先に語ったように私の家で遊んだ時も同様だ。

 

 

 

「王手」

 わたしととおるくんは、覚えたての将棋をして遊んでいた。二人でもできる遊びは他にもあったけど、どうやらわたしたちは頭を使ってやる遊びが嫌いではないみたいで。

「う……どうしよう」

 逃げても逃げても、王手が続く。わたしたちは真面目に定跡を学んだわけではないし、我流というか、幼稚園児なりに脳を使っていた。

 わたしたちの勝負は、どちらが先に王手をかけるか、というゲームだった。わたしたちはお互いに、王手がかかると盤面全てを見ることができなくなる。もともと視野を広くというわけではなかったけれど、王手になるとそこから逃げる手段ばかり考えるようになってしまう。

 偶然逃げ切れたとしても、盤面の状況は悪くてひっくりかえせない、というのがわたしたちの将棋だった。

「……負けた」

「いえーい。ぼくの勝ちだね」

「くっそー! もう一回!」

 将棋をしていると、時間がすぐになくなってしまう。それでもとおるくんと遊ぶ時間は楽しくて、休みの日なんかはお昼ご飯の時間が終わって夜ご飯の時間になるまで、ずっと二人で将棋をしたりもしていた。

 お互い、見るのはあんまり好きじゃない。学ぼうという意欲がないのだから、当たり前といえば当たり前なんだけど。

 だから幼稚園でこいとちゃんと遊ぶときは、違う遊びをしていた。あと一人いれば、四人で回したりして遊べるのかな。

 そんなことを考えた。

 

 7

 

 小学生に上がった。それはひとつの区切りだ。何かが変わる瞬間だ。

 それは特に誰かに示唆されたものではなく、その環境に適応したという話なんだと思う。

 

 

 

「小学生になるんだね、わたしたち」

「うん」

 小学生に上がる頃から、呼び方も変わった。わたしはとおるのことを「とおる」と呼び捨てにするようになって、とおるはわたしのことを「まどか」と呼ぶようになった。もうひとつ言うと、とおるは自分のことを「わたし」と呼称するようになった。

 小学生になる、というのはひとつのターニングポイントなのだ。何かを変えるにはうってつけの時期。

 それは小学生が中学生に上がる時、中学生が高校生になる時も同じなんだろうなと思う。

 互いを呼び捨てにするのは、わたしたちが仲のいい証明、関係性の露出のひとつなのだろうか。呼び方が変わるのは、別にお互いに変えよっか、といって変わるわけではない。どちらかが呼び捨てにし始めて、「合わせようか」と互いに変わるものだ。とおるがわたしのことを呼び捨てにし始めたから、自然にわたしもとおるのことを呼び捨てにするようになった。

 だから、何かを狙って呼称を変えたわけではなかった。

 バチン、という音が響く。わたしたちは棋士のまねごとをして、一手一手に音を鳴らす。それは不器用で、綺麗なパチリという音は鳴らないけれど。

「こいとちゃんとも、一年間お別れなんだ」

「そうだね」

「まあ、なんとでもなるよ。まだ若いし」

「何歳のセリフなの、それ……」

「6歳」

「そういうことじゃなくて……」

 将棋をしながら、雑談ができるようになった。毎日のように遊んでいれば、多少はやり方も掴めてくる。

 入学式は明日だ。でも、どういう気持ちで入学式に臨めばいいのかなんてわからない。だからわたしは、いつも通りとおると遊ぶ。どんなことがあっても、とおると友達ということは、変わらないのだ。

 ……友達。そう、友達だ。わたしたちは友人関係であって、それ以上の関係にはなりえない。とおるのことは好きだけれど、それは愛しているの好きではない気がする。そんなことを考えるなんて、わたしはませている。

 

 そして、特に何があるわけでもなく入学式が終わる。幼稚園時代から一緒の人もいるし、知らない人ももちろんいた。その中で何人かとあいさつをして、とおると手を繋いで帰った。

 互いの依存を意識し始めたのは、この頃からだ。

 

 8

 

 透と別のクラスになった。それは当然だ。私と透は、別に運命の糸で結ばれた、離れられないような関係ではない。何があってもずっと一緒だなんて、無責任に口に出せるような関係ではない。

 だから怖かったのだ。透が、誰かに取られるんじゃないかって。

 「私の透だ」。なんてことを言うのは烏滸がましい。けれど、透が別の人と話していることに、無性に苛立ったことを覚えている。

 

 

 

 授業を終えると、わたしはとおるのクラスに行く。行く道は分団登校で一緒だけれど、帰り道は特に規定はない。

「……」

「おまたせ」

「うん」

 わたしはとおるが友達と話し終わるのを待って、とおると一緒の帰り道を歩く。

 とおるの友達に口を出すのは、よくないことだ。だから我慢する。だけれどチクチクと胸を刺すような痛みがした。とおるは、わたしだけのものじゃないと言い聞かせてもその気持ちはなくなってくれない。

 この気持ちを表す言葉が思い浮かばない。とおるの友達は何人いてもいい。けれど、わたしが一番でないと気が済まない、この気持ちを表す言葉が。

「――」

「――」

 わたしたちは、今日の授業ではどんなことをしたとか、そんなことを話す。そんな会話をしている中で、とおるが突然あることを言い始めた。

「まどかはさ、クラスの子と仲いいの?」

 それは、皮肉にもわたしの聞こうとしていたことと同じ内容で。

 そして、わたしと違ってとおるの目に下心はなかった。

「別に……普通だと思う」

「普通かー」

「とおるは?」

 ここしかない、というようにわたしは質問を返す。この流れなら、自然。

「ん? わたし?」

「わたしに聞いたんだから、とおるも答えるのが筋でしょ」

「それもそっか」

 そう言うと、とおるは「んー」とうなって。

「仲良くはしてると思うよ。でもやっぱり、まどかが一番かな」

「……」

「あー……なんか恥ず……今のなし」

「別に、否定しなくてもいい。わたしも同じだから」

「えー、まじ? よかったー」

 なんていうか、この。

 無自覚すぎると思う、とおるは。

 

 9

 

 小学一年生になって変わることはあったけれど、結局のところ、私と透の交友関係に大きな変化はなかった。前述したように、互いにとっての一番は変わらなくて。

 だから、休み時間に遊ぶときも常に透と一緒だった。よく考えれば、この時から私から透に対しても、透から私に対しても、依存していた部分があったんじゃないか、って思う。

 そして、小糸が一年生になり、私たちが二年生になる時が来る。

 

 

 

 わたしはこいとが小学生に上がったということで、とおるとこいとの家まで歩いた。

「こいとちゃんいますか」

 インターホンを鳴らすのは、二人でいる時はいつもとおるだ。理由があるわけではないけれど、先頭に立つのはいつもとおるだった。わたしはとおるの横に立ちながら、とおるのうしろについていた。

「と、とおるちゃん!?」

 わざわざ親に話してアポイントなんて取ってなかったから、こいとは驚いた声を出す。

「まって! すぐ出るから!」

 そう言うとインターホンから感じられる雑音は切れ、少ししてこいとが家の扉を開ける。

「やっほ」

「ど、どうしたの……?」

「小学生になったということで、お祝いでもしようと」

 じゃーん、ととおるはお土産ですと言うようにお菓子を見せる。以前にもこんなことがあったなと思い返した。そうだ、こいとが風邪を引いた時にも、わたしはとおるとこいとの家に行ったんだ。

「そ、そう……ありがと。とりあえず上がって」

「うん」

「おじゃまします」

「あ、おじゃまします」

 二人で家の中に入る挨拶をして、こいとの部屋に案内してもらう。こいとの部屋の場所は覚えていたけれど、こいとに案内されるのは初めてだ。

 こいとがわたしたちと同じ立場で座っているこいとの部屋は、前に来た時より少し狭く感じた。

 それも当然か。わたしたちもあれから時間が経って、成長している。いつも互いの家で遊ぶようになったおおるの家では、感じられない変化。

「それじゃあ、こいと」

「うん」

「小学校入学、おめでとう」

「おめー」

 パーティ用のクラッカーとかはない。そういうの欲しいと親に言ったら、まだ危ないと言われたから。

 友達と一緒にいる時間は楽しい。それだけでよかった。

「入学式、どうだった?」

「あ、うん……普通」

 こいとと幼稚園時代一緒に過ごしていて、わかったことがある。彼女は、自分に自信がない、というか、卑屈になりすぎる部分がある。

 だから、心配している。それは隣のとおるも一緒だ。

「何かあれば、わたしたちに相談してね。いつでも力になるから」

 とおるはそう言った。それはわたしも同じ気持ちだ。

「う、うん……! 何かあったら、ちゃんと言うから……!」

 小糸はそう言うけれど、それでもわたしたちは心配――

「とおるちゃんもまどかちゃんも、何かあったらわたしに相談してね!」

「「――!」」

 その言葉が来るのは想定外だった。とおると顔を見合わせる。

 幼稚園時代、遠くで見ていても周りに流されるばかりだったから。わたしたちが守ってあげないといけない存在で。

 そんな心配はいらない、とでも言うように、こいとは胸を張った。

「……うん。その時は、よろしく」

「そだね。よろしく」

 小学生になって、こいともひとつ強くなっているのかもしれない。

 そのあとは少し雑談をして、持ってきたマグネット将棋盤でこいとに将棋を教えた。見る立場がつまらないと感じていたのは、もう過去の話で。将棋の打ち方を知っていくうちに見る立場になってみたいと考えるようになっていた。

 こいとは飲み込みが早くて、わたしたちが驚くスピードでルールを覚えた。それは幼稚園児と小学生の差なのかもしれないけれど。

 

 10

 

 雛菜と出会った時のことは、今でも忘れられない。それは透や小糸と出会った時とは違って、ある程度固まった関係性の変化だ。その時は、ずっと「三人」でいるんだろうなと思っていた。

 それが「四人」になることなんて考えていなかったから、驚いてしまうのは自明ではないだろうか。

 

 

 

「はい! いちかわひななで~す! 小学二年生! 小糸ちゃんと同じクラス!」

「「……」」

 なんていうか、こいとがこの人を連れてくるとは思わなかった、っていうのが正直なところ。それは、隣に居るとおるも同様のようで、少しびっくりした顔をしていた。

「ん、よろしく。いちかわさん」

 それでも、とおるは物怖じすることはなくいちかわさんに手を差し伸べた。

「はい~よろしくお願いします~! あ、でもひななのことは「ひなな」って呼んで欲しい! こいとちゃんとおんなじように!」

 物怖じしない性格だ、と思った。こいととは対照的。

「あ、そっか。そうだね、それじゃあよろしく、ひなな」

「はい~! あ、その~……」

「あ、ごめん。こっちは自己紹介してなかったね。わたしはとおる。あさくらとおる」

「はい、よろしくお願いしますね~~~!」

 手をブンブンと振って親愛を示すと、今度はこちらを向いた。

 ……少しやりにくい。

「ん……わたしは、まどか。ひぐちまどか。よろしくね、その……ひなな」

 やりにくいからと言って、逃げるわけにはいかない。わたしはとおるに倣った挨拶をする。

「はい~! よろしくお願いしますね~~~!」

 一応先輩なんだけど、という雰囲気ではない。あくまで敬意をもって、明るく接してきているだけだ。

 ただ……。

 正直、この関係が長く続くことはないだろうな、と思った。

 タイプが違いすぎる。わたしととおるとこいとと、ひななでは。

 

 11

 

 雛菜とのファーストコンタクトは、最悪とは言わないまでも良いものではなかったと思う。

 小糸は雛菜と一緒に帰るようになった。仲のいい友達ができたのはうれしかったけど、あくまで接続は小糸にあって、小糸と雛菜、小糸と私と透の組み合わせになるものだと思っていた。

 当然、それは隠せるようなものではなかったのだと思う。人の感情は、好意より悪意の方が表出が露骨なのだ。

 

 

 

「雛菜ちゃんのこと、苦手?」

「……そんなこと」

 雛菜と出会って一年ほどたつ頃に、そんなことを聞かれた。

 透が風邪をひいて、私が小糸を迎えにいって透の家に向かう途中。

 苦手意識があるというのは本当だった。でも、小糸の友達を否定したくはないのも本当だ。

 だから誤魔化そうとして、小糸の視線からは逃げられないと観念した。

「ごめん。正直少し苦手」

「そうだよね。あ、でもね、円香ちゃんのことを悪く言いたいわけじゃないんだよ」

「それはわかるけど……私が悪いのも本当」

「悪くはないと思う」

「っ……」

 小糸は私の方は向いていない。これは透の家に向かうまでの雑談でしかない。だから直接目を合わせているわけではないのだ、それなのに小糸の言葉は強く私に響く。

「いい子なの……雛菜ちゃんは。確かに、苦手な子も多いんだけど」

「うん……」

 あけすけというべきか。雛菜にも隠していることくらいあるんだろうけど、それを感じさせない気安さ、明るさ。それがなんとなく苦手だ。異性受けしそうだとも思った。

「だからね、きっと雛菜ちゃんのことを知ってくれたら、円香ちゃんも雛菜ちゃんのことを好きになってくれると思うんだ、わたしは」

「……そうかな」

「うん、思い違いだったら、ごめんね」

 そして、私たちが透の家に向かう公園に通りがかる頃に。

「あ! 円香ちゃんと小糸ちゃん~~~! やっほ~!」

「……えっ」

「透ちゃんが病気にかかったって、わたしが教えてあげたの」

『雛菜ちゃんのことを知ってくれたら――』

 つまり、ふれあいの一環と言うわけなのだろうか。

 小糸は、私が思うより随分強かなのかもしれない。

 

 12

 

 結局雛菜との関係は長く続くことになった。小糸と雛菜、小糸と私と透という小糸による接続ではなく、私と透と小糸と雛菜、という四人が出来上がった。

 人と人の関係なんてものはそういうものだ。個人の意思は移り変わる。結局小糸の言う通りだっただけの話だ。

 幼稚園が違ったとはいえ、雛菜の家はそれほど私たちと離れているわけではなかった。もしかすると小学生に上がる頃に引っ越していたのかもしれないけど、わざわざ聞こうとも思わない。

 言いたいのは、とにかく、四人で帰る機会が増えた、ということだ。

 

 

 

「~♪ ~~♪」

 いつも一緒というわけではない。学年が違えば時間割も違う。そもそも、同学年の透とも毎日一緒に帰っているわけじゃないし。

 ただ、六年生と五年生になると大して時間割も違わなくて、待ち合わせをして一緒に帰る日が、週に三回程度あった。

「雛菜、何歌ってるの?」

 先頭に立って軽くステップを踏みながら鼻歌を口ずさむ雛菜に聞く。雛菜の口からは何度か聞いているけれど、知らない曲だった。

「あれ、円香ちゃん知らないの?」

 流行ってるアイドルグループの曲だよ、と雛菜は答えた。

 周りを、つまり透と小糸の方を見る。

「聞いたことある」

 と透。

「わたしは、聞いたことない、かも……」

 と小糸。

「……本当に有名なアイドル?」

「円香ちゃん失礼~~~! これから有名になるの!」

 つまり、まだ流行っていないじゃないか。

「まあ、雛菜が好きなら私も調べてみようかな」

 透が言う。

「そうだね、私も」

 私はそれに賛同して、

「わ、わたしも……!」

 小糸もそう言った。

「あは~♡ それじゃあ今度CD一緒に聞こう! 透ちゃんのおうちで遊ぶときに持っていけばいい?」

 雛菜がそう言った。そこでみんなで音楽鑑賞会、ということか。

「うん。平気」

「は~い! それじゃあ今度遊ぶときに持ってきま~す!」

 そう言って、次に遊ぶときに雛菜がCDを持ってくるということになった。

 

「はい! 持ってきたよ~~~!」

 透の家に四人で集まると、雛菜はそう言って鞄からCDを取り出した。透は既にCDプレイヤーを部屋に持ち込んでいて、CDはすぐにプレイヤーに挿入される。

『~~♪』

 流れてくるメロディは明るい。そりゃあ、アイドルソングなんだし、暗いわけはないのだけれど。

「いい曲だね」

 一番と二番の間に、透が言う。

「うん、私も好き」

「わたしも……」

「あは~♡ でしょでしょ~?」

 雛菜は胸を張る。確かにいい曲だ。音もいいし、男性に媚びているという印象も受けなかったから聞きやすい。

 数分経って曲が終わる。

「あ~終わっちゃった~。何度でも聞けるけど、曲が終わるたびにあ~あって気分になるんだよね」

「それは、ちょっとわかる」

 区切りと言うのは少し悲しい気分になるのだ。二度目、三度目があるからとその感覚が拭えるわけではない。

 二曲目が始まって、また終わる。

「どうだった?」

 雛菜が聞く。仮に合わなかったとしても、雛菜の前で言えるわけはない。ただ、良い曲だと私は思ったので、素直に言えた。

「よかったよ。途中でも言ったけど」

「私も」

「わ、わたしも」

「あは~♡」

 そのあとは、曲を聞きながら四人で遊んだ。ちなみに、将棋は私たちの中で雛菜が一番強い。一番最後に始めたわりに、何故か勝てない。おどけてはいるけれど、根本のところでは頭がいいのだろうな、なんて風に思った。

 

 

 

 13

 

 アイドルに興味を持ったのは、今思えばあの頃だったのかもしれない。そうじゃなければ、透がアイドルをやるってなっても、ついていくって考えにはならなかったかもって思う。

 そういえば、人の呼び方の話をさっきしたけれど、何故か、巻き戻って今がある。

 中学二年生の頃だった。透が私のことを「樋口」と呼ぶようになったのは。

 

 

 

「あ、おはよう、樋口」

「……」

 その時まず、その呼び方をされたのはいつぶりだったろうか、と記憶を探った。

 ……うん、そんな記憶はない。私が透に初めて名前を呼ばれたときは、「まどかちゃん」だったはず。

「あれ?」

「あ、ごめん。おはよう、浅倉」

 いつもなら、「おはよう」の一言でいい。浅倉と付加したのは、どうして樋口って呼ぶの? という意図とがあった。

「ん」

 とお……浅倉が歩き出して、私はその隣に並んで歩調を合わせる。

 いつも通りだった。何かがあったようには思えない。

「……」

「ん? どしたん」

「なんで急に名字呼び?」

 結局直接伝えた。というか、別に何かを聞くのに委縮する必要なんて必要のない仲なのだ。

「むっふっふー」

 透は……浅倉は何かを含んだ笑いを見せる。

「な、何」

「それには海よりも深く山よりも高い理由があるんだよね」

「なにそれ……」

 父母の恩は山よりも高く海よりも深し、という言葉の引用だろうか。まあ、言わんとすることはわかる。

「まあ、いいや」

「うん」

「この前ドラマ見たんだよね。刑事ものでさ、なんか二人のコンビがすっごいアクションで犯人逮捕に動くの」

「うん……ああ」

 浅倉の言いたいこと、わかった気がする。

「それでその二人のコンビが名字で呼び合っててさ」

「それで、私たちも名字で呼ぼうってこと」

「そういうこと。すぐ合わせてくれてよかったよ」

「まあ、別にいいんだけど……」

 浅倉、浅倉。別に呼びにくくはないけど、今まで透と呼んできたので少し違和感がある。

 まあ、透が飽きるまでのことだろって思って、その時は特に気にしなかったし、合わせることにした。

 

 14

 

 そして今がある。と言ったように、今でも透は私のことを樋口と呼ぶ。

 同じように、私も透のことを浅倉と呼ぶ。もう、透はドラマのことなんて覚えていないかもしれないけれど、それでも私を樋口と呼ぶ。樋口呼びになれてしまったのだろうか。私も、透のことを浅倉と呼ぶのに慣れてしまっていた。こうしてモノローグでは透と呼ぶけれど、透と声に出すよりも、浅倉と発話する方がなんだか気楽だ。つまり、透との関係を端的に表すのなら、「相棒」と呼べるものなのだろうか。

 それは、なんとも固定したくはない関係性だと思う。

 

 

 

「透先輩、なんで円香先輩のこと名字で呼ぶの?」

 しかして、疑問が生まれるのは至極当然のことだった。透の家に四人で集まっていると、雛菜が言い出す。

 最初からそうならともかく、小糸と雛菜に関しては、私たちが家が隣なことも、幼稚園に通う頃から関わりがあることも知っている。それを知っている人間が他にいないわけではないが、私たち四人は距離が近いし、「質問がしやすい」という意味でも、雛菜から質問が来るのは当然のことだった。

「それはね――」

「ストップ」

 私が答えようとすると、浅倉は私を制止する。

「じゃあ、クイズにしよう。どうしてそう呼ぶことになったと思う?」

 ……あぁ。

 そうだ、浅倉はそういう遊び心のある人間だった。

「え~~~? 意地悪ですね~」

「面白いでしょ、そっちの方が」

「う~ん」

「何か、深いわけでもあるの……?」

「内緒」

 そんなもんないよ、と口を挟みたくなった。とはいえ、そんな口を挟むほど無粋な人間ではない。

「樋口、ちょい」

「何……」

 浅倉は立ち上がって部屋の外に行き、私を手招きする。

 私は考えている雛菜と小糸を置いて浅倉の隣に立つ。扉を閉めた。

「これは、秘密にしよう」

「……すぐばれると思うけど」

 正直、理由としてはかなり安直だ。ドラマの影響で呼称を変える遊びなんてのは、十人いたら九人は思いつきそうなものだ。

「まあ、誤魔化してもらって」

「別にいいけど……」

「よっしゃ」

 部屋に入る。雛菜と小糸は何か会話していたけれど、既に解答は得たのか期末テストの話をしていた。

 部屋を離れていた時間は長くない。でも、そんなに考えて答えを出す問でもなかったかと思い直した。

「答えは出た?」

「うん、一応ね~」

「ほぼ、間違いないかなって……!」

「おー」

 私と浅倉はベッドに座る。まるで上座と下座みたいだな。普段は四人でおしゃべりしているから気にならないけど、こうして二体二の構図になるとそんな風に思った。

「ずばり、ドラマの影響で呼び合うようになった! この前、そういうドラマ見たもん!」

「……」

 ずばり、どんぴしゃだ。動揺が顔に出ていないか不安だった。

「さぁ、どうだろうね」

 浅倉は答えた。

「え~~~!? ずるくないですか~~~!?」

 浅倉以外が言えば、それが答えなんだと確信できるような言い回し。ただ、他ならぬ浅倉透だからこそ、そのはぐらかしが通用したように思えた。

「ふふ、これは樋口と私の秘密だから」

「……秘密って言っちゃうんだ」

「えへ」

 ぺろりと舌を出す。

「かわいくない」

「えー」

「ぶー……」

 秘密は守られた。うん、別に秘密にする必要はないんだけど。

 

 15

 

 だから、私と透の呼び方のことを知っているのは、未だに私たち二人だけだ。厳密には雛菜たちの解答は正解だったのだけれど、私と透が認めていないのでふわりとしている。

 いつか教える時が来るのだろうか。今聞かれたら教えてもいいと思うけれど、もう割り切っているのか二人からの言及はあれ以来なかった。

 そして私たちは、時間が流れると自然に高校生になる。

 

 

 

「一緒の学校に通えてよかった」

「……ん、私も」

 幸いにも学力はそれほど離れていなかった。だから、合わせたわけではなく互いの第一志望校がここで、無事に合格した。

 どちらかが滑るということがなくてよかったと思う。小糸と雛菜は同じ学校に来るだろうか。けど、小糸は私立の中学校に行っていることもあって、この学校に来ることはない気がする。わからないけど。

「クラスは……」

 学校に来て、張り出されたクラス表を見る。ひだから後ろから数えても前から数えても大して変わらない。浅倉の名前も見るために前から確認する。

「うぉ、同じだ」

 浅倉がそう言う。浅倉の目の方向を確認すると、確かに私と浅倉は同じクラスだった。

「……私も」

「一緒だね、イエーイ」

「うん、イエーイ」

 浅倉の左手と私の右手をタッチ。教室に向かう。

 訪れた教室は、中学生の頃より幾分大きく感じられた。精神性の問題か、実際に小さいのかは比較対象が近くにない以上わからない。

「誰もいない」

「少し早かったかもね」

 時間にはかなり余裕があった。私が席について本を取り出すと、浅倉に声をかけられる。

「あれ? 樋口本なんて読んでたっけ」

「中学生になると一緒に居られる時間も減ったから、趣味程度にね」

「どんな本?」

「小説」

 文学書や哲学書なんかも面白いけれど、小説という舞台で活劇を行うキャラクターたちが、私は好きだった。楽しみ方の種類が違うから、比較するものではないのかもしれない。

「へー……って、カバーで表紙見えない」

「あんまりじろじろ見られたくないから」

 見られて恥ずかしいわけではないけれど。

「えっと、それで何の小説? 誰?」

「……アンデルセンの短編集」

「アンデルセン……聞いたことある」

「有名な作家だから。人魚姫くらい知ってるでしょ」

 そう言って目次の人魚姫と書かれた欄を見せる。他にも、赤い靴やマッチ売りの少女など、有名な作品が並んでいた。

「あー、リトルマーメイド」

「……そう。それ」

 あんまり同列には扱ってほしくなかったけど。でも、変に拘りを見せたくなかったので認める。

「へー。私あんまり小説読まないんだよね。機会あったらなんか勧めてよ」

「ん……わかった」

 浅倉は携帯を弄りはじめ、私は短編集に目を通す。何度か読んでいるから、滑るのも早い。

 少し経つと人が増え始めて、入学式をそつなく終え――私たちの高校生活が始まった。

 

 16

 

 私の人生の分岐点、それは高校二年生のことになる。

 浅倉がアイドルを始めて、私と雛菜と小糸もアイドルを始めた。今までは四人を表す呼称が「仲のいい友人」だったけれど、「ノクチル」という明確な呼び名ができた。

 アイドル活動をしていくのは不安だったけれど、この四人なら何とかなるだろうという楽観視もしていた。

 実際、いろいろ事件は起こっても、ノクチルとして活動するのは楽しかったのだ。一学年違う小糸や雛菜と関われる機会も、間違いなく増えた。

 

 ――けど。

 強い幸せがより強い不幸を呼ぶことを、当時の私はまだ知らなかった。

 もちろん、幸せが幸せのまま終わることもあるだろう。

 失う痛みが、より強くなるという話だ。

 

 17

 

 私は図書室で、一冊の本を手に取る。

 今日は透はアイドルの活動で地方に出ていて、雛菜と小糸は時間割の都合で先に帰っている。

 本を読むのは嫌いじゃない。ただ、四人の時間が心地よくて、読む機会はそれほどあるわけではなかった。

 チャンスだ、と思い図書室へ行き、一冊の本を手に取る。

 作者の名前は、斜線堂有紀。本のタイトルは、「私が大好きな小説家を殺すまで」。

 その本を選んだ意味は特になかった。なんとなく手に取った本がそれだった、という、本当にそれだけの理由だ。

 その本の書き出しに魅了された。

『憧れの人が見る影もなく落ちぶれてしまったのを見て、「頼むから死んでくれ」と思うのが敬愛で、「それでも生きてくれ」と願うのが執着だと思っていた。』

 本の内容を鵜呑みにするなんて馬鹿げている。それなのに、私はその書き出しに心を奪われた。

 本を読み進めているうちに、どんどん時間は経過していく。私は図書委員に「そろそろ閉館ですよ」と言われるまで、その本に飲み込まれてしまっていた。

「すみません。これ、借りて帰ります」

 学生証を見せ図書委員のアナログな紙に貸し出しの旨がメモされて、私は本を鞄に詰め込んだ。

「返却期限は二週間です」

「わかりました」

 

「……ごちそうさま」

 家に帰って、ご飯を食べる。本を読むのに集中したかったから、まだあの本の続きは読んでいない。

 

 お風呂を出て、自分の時間が始まる。私は本を取り出して、適当な紙を挟んだ本の途中から読み始める。

 時計の針は進んでいき、私は一時間程度経過したところでその本を読み終えた。

「……くだらない」

 読み終えて一言目の感想が、それだった。

 本当にくだらないと思っているか、と聞かれても、私は「くだらない」と答えただろう。

 陳腐で、人情に満ちた話だ。

 ……くだらない。

 それでも、私はこの小説のことを忘れることはできないのだろう。

『憧れの人が見る影もなく落ちぶれてしまったのを見て、「頼むから死んでくれ」と思うのが敬愛で、「それでも生きてくれ」と願うのが執着だと思っていた。』

「……」

 訪れては欲しくない未来に、私は目を瞑った。

 

 

 私たちは大学生になった後もアイドル活動を続けた。それはアイドルとしてしっかり結果が出ているという意味で――

 そして、物事を長く続けるということは、それに対する執着が大きくなるってことだ。

 

 

 18

 

 これは、アイドル活動を始めてしばらく経つ頃、まだ高校生だった頃の話だ。私たちがまだ、楽しくアイドル活動をできていたころの、一幕だ。現実逃避と思われるかもしれない、幸せな回想だ。

 

「浅倉、時間」

 そう言ったのに、浅倉はコンポに手を伸ばす。

「……浅倉、休もう」

 二人で自主レッスン。無暗にやってもいけないからと、練習時間をあらかじめ決めていた。

『~~♪』

「……っ。……っ」

「……時間だっての」

「いてっ」

 私は浅倉の頭を軽くはたく。

「少しは休んで。練習は大切だけど、それで体壊してたら意味ない」

「ちぇー」

 二人で部屋の隅に歩いて、そこで腰を下ろす。

「すごい真面目になったよね、浅倉」

 タイミングを疑っていたわけじゃないけれど、なんとなくそう言った。

「えー何それ。私ずっと真面目じゃん」

「それ、アイドルになった頃の自分を見て言える?」

「んー……言える。あぶなっ」

 二度目の攻撃は避けられた。

「暴力はんたーい」

「テキトーなこと言うからでしょ」

 アイドルになった頃は、みんな、四人で一緒にいられるという点に執着していた。少なくとも、四人とも「アイドル」に対してとことん真面目だったという記憶はない。むしろ、そう、不真面目に――遊びのような感覚だった気もする。

 自主レッスンの時間は徐々に増えた。変化が起こった時期を考えるなら、全員WINGに挑戦を始めた頃からだろうか。今では休みの週でも事務所に顔を出して練習に励むようになっていた。仕事での調子に乗っているとも言える態度は、鳴りを潜めた。

「なんていうか……てっぺんが、夢物語じゃなくなってきた感じがするから」

「……最初は、ただの夢だった?」

 私は浅倉に問うた。それは私自身、少しずつ実感を得ていたことだったから。

「はは。そこまで乙女じゃないからさ。現実が見えてるつもりだった」

 現実――アイドルは、全員がトップアイドルになれる――てっぺんに立てるわけじゃない。

 浅倉は、周囲には誤解されることもあるけれど、現実主義者だ。と、私は思っている。今言ったように、夢見がちな乙女である時間なんてものは、既に過ぎ去ってしまったのだと思う。

「でも……プロデューサーはなんかマジだし、がんばんないとなって」

「それは……そう」

 彼は愚直だ。愚直に前を向いて、私たちを押し上げようとする。その期待は重責だけれど、その重さは不思議と不快じゃない。

「よし、休憩終わり。やろ、樋口」

「うん」

 この時間は楽しい。なあなあで始めたアイドル活動だけれど、始めて良かったと今なら思う。

 そうしなければ、浅倉と今ほど仲が良くなかったかもしれないし、小糸や雛菜と関わる機会は間違いなく少なかったから。

 私はこの現状に満足していた。この時間が長く続いてほしいと、そう祈る程度には。

 

 19

 

 挫折というものを味わうことなく生きてきた人間なんて、きっといないだろう。

 大なり小なり、人は諦めることで生きてきた。

 小学生の頃、男子が戦隊もののヒーローに憧れるように、女子がプリキュアに憧れるように。それは、時が経つと自然に実現不可能だと知り、諦めていく。

 諦めには、もう一つの種類がある。

 それは、実現可能と思われていたことが不可能へと変わっていくことだ。可能と思われていただけの不可能、ではなく、可能性のあることが不可能になること。勉強を怠って第一志望に受からないことは、自身の努力不足として捉えればこれに該当する。もしかすると最初から不可能な目標だったのかもしれないけれど、そんな判断基準なんてどこにもありはしない。

 ノクチルとして活動していたのが、一つの事故によって形が崩れることは、後者だ。

 もしかしたら、違う可能性はあったのかもしれない。でも、そんなのはたらればだ。今の私たちの現状から目を逸らしたところで、何も救われない。変わることなんてあり得ない。

 それが起きたのは、私が大学二年生になって、浅倉の誕生日を終えた後。太陽が燦燦と照り付ける夏のことだ。

 

 

 

「……っ!」

 透が事故に遭ったと聞いて、私は家を飛び出した。

 まず最初に母親に連絡が行き、いの一番に隣家に住む私に伝えられた。透の家の車はないから仕事か、若しくは既に病院へ向かったか。私は急ぎ足で近くの駅まで走る。これほどに電車が来るのを待ち遠しく思ったことはなかった。

 電車に乗っても、早く目的地に着けと気持ちがはやる。そんなことを思っても何の意味もないというのに。小糸からの電話がかかってきたけれど、電車の中だからごめんねと念じて切る。多分、透の件だろう。

 電車が目的地に着くと私は周囲に煙たがれながらも無理に抜け出して走り出す。「あれ、アイドルの樋口円香じゃないか?」「あれ、本当だ」なんて声がしても、気にしてはいられなかった。自然にしていれば目立たなくても、周囲から浮いた行動を取れば気付かれるんだな、と思った。

 地図のアプリではバスを使うように指示されていたけれど、バスなんて待っていられない。地図の案内を徒歩に直して私は病院へと走った。

「円香!?」

 病院の前まで着くと、知っている人影を見つける。

「……はあっ……プロデューサー……?」

「そんな汗かいて……透の見舞いだな」

「っ……そうです。向かうなら、早く行きましょう」

「ああ。でも、とりあえず落ち着け。透だって、慌てた様子で来られたら気に病むだろう」

「……そうですね」

 息を吐いて心を落ち着ける。彼に見られていると思うと、何故か少し緊張した。

「落ち着いたか? タオルは?」

「そんなことで頼るつもりはありません」

 そう言って私はとっさに持ってきた鞄を取り出す。中身は確認していないけれど、確か、小さなタオルが入っていたはず……。

「……」

「ないのか?」

「少し待ってください」

 鞄を漁る。パっと見つからなかったけれど、それは確かにあった。

「ありました」

「そうか」

 そういうプロデューサーは、早く透の元へ行きたいと急いているようだった。私のせいで……少し、申し訳ない気持ちになる。

 汗を拭いて病院に入る。プロデューサーが浅倉透の見舞いですと伝えると、看護師さんは資料を探しに行って、「浅倉透さんですね、少々お待ちください」と言われ、調べた看護師さんに「まだ面会はできません」と言われた。それはそうだ。透は事故に遭ってからまだそれほど長い時間が経過したわけではない。申し訳ありません、日を改めてまたお越しください。なんて言われれば、私も彼もすみませんと謝るしかなかった。

「……無事、なんですか?」

「命に別状はありません」

 その言葉はどこまでも事務的だ。それは、病院に勤務する人間として間違ってはいないのだろうと思う。

 私と彼は頭を下げると踵を返し、病院を出た。

「……少し、冷静じゃなかったな」

「……はい」

 外に出ると車を降りた雛菜と小糸の姿が見えた。誕生日の遅い雛菜はともかく、小糸は三月のうちに免許を取っていた。私は、自分が自由に使える車はなくて、親が休みの日にドライブできる、というくらいだ。

「と、透ちゃんは……!?」

 小糸と雛菜は私たちのところに走ってきて、小糸が私たちに訊く。首を振るとまるで死んだみたいだな、と思って、今日は会えないという旨の言葉を伝えた。

「……亡くなったわけじゃないんだよね?」

 今度は雛菜が訊く。そういうわけじゃないと私が答えると、雛菜は胸を撫でおろした。

「また明日、ここに集まろう」

 私がそう言うと小糸と雛菜、プロデューサーもわかったと応えた。

 時間を決めた後、私は小糸の車に乗り込み、プロデューサーとはそこで別れた。

 

 20

 

 三人の車はいつもより重かった。普段は、四人で乗る車。一人分の穴が、私たちの心を苛む。

 車の重さと私たちの心の重さが、反比例するみたいだった。

 

「二人は、透のこと聞いてる?」

 三人で車に乗って、私は二人にそう聞いた。

「円香先輩、聞いてないの?」

「……透が事故に遭ったってことを聞いた瞬間、家を飛び出してた」

「あは~……円香先輩らしいか~」

「それじゃあ、どういう事故かって言うのも……」

「……知らない」

「そっか……雛菜ちゃん」

「……ん」

 運転している小糸は、説明を雛菜に任せる。雛菜は訥々と語り始めた。

 要約すると、透は交通事故に遭った。透は青信号を渡っていただけ。轢き逃げ犯は既に捕まっている。だいたい、こんな感じ。

「轢き逃げ……」

「最悪でしょ~? 透先輩、何も悪くないのに」

 雛菜は、言葉尻を伸ばす癖がある。その伸ばし方も、その時の気分で変わる。今の雛菜は、わかりやすく気分が落ち込んでいた。

 これは必要のないことなのかもしれない。だけど触れる。私は雛菜の友達だから。そう思い、雛菜に話しかける。

「無理しなくていいよ」

「っ……」

「私は雛菜じゃないから、全部分かってあげられるとは言わないけど」

 けど――。

「辛いってことだけは、私だって同じだから。……ごめんね、言いたくなかったでしょ」

「……うん」

 私は雛菜の顔を胸に寄せる。雛菜のすすり泣く声が、私の耳に届いた。

 

 私より先に、雛菜の家に着いた。

 泣き止んでいたけれど、雛菜の目はまだ赤かった。けど、そんなのを感じさせないくらい明るい声で話す。

「それじゃあ、また明日ね! よろしく、小糸ちゃん!」

 腫れぼったい目で言われても、無理をしているのが丸わかりだ。でも、私たちはそれには触れない。触れて欲しくないのなら、触れてあげないことも優しさなのだから。

「それじゃあ」

「また明日ね、雛菜ちゃん!」

 

 そして小糸は、私を家に送り届ける。

「それじゃあね、また明日。今日はありがとう」

「うん」

 短い会話を終えて、私は小糸と別れる。

 家に入ると、親に透のことを聞かれた。まだ会えていないからよくわからない。そう答えることしかできなかった。

 

 21

 

 次の日、私と雛菜は小糸の車に乗って病院に向かった。病院の方は、日を改めて、という言い方をしていたから、今日会えるかどうかはわからない。それでも、会えるまで毎日来るつもりで、三人で病院に向かう。

 果たして、その日に透との面会が叶うことになった。

 

 三人で病院に向かい、プロデューサーと待ち合わせる。

 病院に入って、四人で待合室に座る。一日経つことで、お互い冷静になってきていた。

「円香、透のこと、聞いてるか?」

「……ええ。概要は、雛菜に教えてもらいました」

 そう言うと、雛菜はビクンと肩を震わせる。彼女の名前を出すのは、良くなかったかもしれない。こういう言い方をしてしまえば、彼女に記憶を――違うか、情報を思い起こさせる。

「……そうか」

 その後四人に会話はなかった。次に彼が声を発したのは、看護師さんに呼び出された時だ。

 はい、と彼が応え、私たち三人も追従して立ち上がる。

 看護師さんは、笑顔で病室を伝える。その笑顔は作りものであっても陰りがないのを見て、浅倉が事故に遭っているのにと少しイラついた。私は子供だ。看護師さんに、悪意なんて欠片もないのに。

 着くと、病室は個室だった。私が開けますとプロデューサーに進言すると、プロデューサーは二歩三歩と下がる。私一人譲るにしては過剰だ。小糸と雛菜にも先に行かせる、という意味だろう。二人はその意味を汲んで、プロデューサーの前に立った。

 コンコンとノックをする。

「誰ですかー」

 そんな声が聞こえた。いつもと何も変わらない、扉越しでもわかる、友人の声色。

「私。小糸も雛菜も、プロデューサーもいる」

「んー。いいよ、入ってー」

 その返事を聞いて、私は扉を開ける。別に重厚な扉と言うわけではないのに、そのドアは妙に重かった。

「……」

 浅倉は、足にギプスをつけ、ぐるぐると包帯を巻いていた。その姿は痛々しいのに、浅倉が飄々としているから、そんな感想をあまり抱かせない。

「ごめんね。ドジ踏んだ」

「……浅倉が悪いわけじゃないでしょ」

「それは……」

「雛菜、聞いたよ。轢き逃げだって」

 雛菜が口を開いた。昨日雛菜から聞いたこと。雛菜は、自分の口を開きたくはないだろう。それは昨日のことでも、さっきの態度でもわかる。

 それでも発言した。それはつまり、克服しようという意志だ。

「横断歩道を渡っていたら、信号を無視してきた車が思いっきりはねたって。透先輩は、何も悪くないよ」

「あー……はは」

 バレてたか、なんて風におどけてみせる。その余裕が、私には理解できない。

「……平気なのか?」

 プロデューサーは問う。

「うん、平気。命に別状はないってさ」

「そうか……」

「でも、ごめんプロデューサー。これは、言っておかなきゃいけないよね」

「え?」

 その言葉の続きは予想できる気がした。聞きたくない、認めたくない。

 でも、聞かなければいけないことだ。認めなければいけないことなのだ。

「……うん」

 浅倉は一つ息をついて、告げる。

「足、もう動かないみたい。一生」

 

 22

 

 その言葉を聞いた時、私の頭には二つの考えが浮かんだことを覚えている。

 ひとつは、それが冗談なんじゃないかという楽観視。もうひとつは、透がこの状況で嘘をつくはずがない――つまり、もう透の足が動くことはないんだという諦観。

 前者なほど世界は甘くない。それでも私は信じたかった。

 冗談なんて言うなと笑わせて欲しかったのだ、私は。

 

 

 

「……足が、もう動かない?」

 私は絞り出すように声を出す。浅倉は頷いて、

「うん。足を切る必要はないっぽいけど、それでもこの足は、私にとってはもうただの[[rb:玩具 > おもちゃ]]みたい」

 脚のあたりをぽんぽんと叩きながら告げる。彼女の様子は、足が動かない人間のソレじゃない。気丈というべきか、彼女はいつも通りに振る舞いながら、理解が追い付かないことを飄々と答える。

「だから……もう、アイドルとして踊ることはできないかな」

 浅倉ははにかんでみせた。その笑顔は、アイドルとして浅倉透の培ってきた経験に裏打ちされる完璧なものだ。だからこそ嫌だった。こんな時くらい、自分を曲げて私たちに泣きついてもいいのに。

「透……」

「ごめんね、プロデューサー」

「……アイドルのことなんてどうでもいい。そんなこと、俺が言えるはずがないってわかってて言ってるだろ」

「わかってる」

 浅倉は私が聞いた時と同じように頷いた。

「三人もいるのに、そんなこと言えるはずないよね」

「っ……透……」

 泣き崩れたりはしない。けれど、プロデューサーは顔を抑えて一歩後ろに下がる。雛菜や小糸を盾にして、自分は後ろに下がった。

 それが悪いことだとは、私は思わない。

 彼の立場では、心配の言葉をかけることすらビジネスに絡んでしまう。だから、会話の権利を、私たち三人に譲ったと表現して構わないだろう。

「……いつ退院できるの」

 私は話の流れを変えるように浅倉に尋ねる。使い物にならない脚に、いつまでも拘っているわけにも行かない。

「そんなに長い間入院するわけじゃない」

「き、期間は? 期間はどれくらいなの? 一週間? 一か月?」

 小糸も雛菜も私も、入院なんてしたことない。だから小糸は尋ねた。長い間じゃないという一言だけでは、指針すら立たない。

「体はすぐに問題なくなるみたい。あとは車椅子を使う練習とかがあるみたいで……早くてひと月くらい」

「そ、そっか……」

「透先輩……」

「何? どうしたの、雛菜」

「透先輩の足が動かなくなったのは、悲しいです。それは、ノクチルとしてとか以前のことです。……透先輩は、その足にアイドルとしての価値しか見ていなかったんですか?」

「ちょ、雛菜……」

 その話は、さっき私が打ち切った。だから私は浅倉に無理に答えなくていいと声をかけようとしたけれど、浅倉は私を手で制した。

「ごめん、雛菜。そういうわけじゃないよ。ただ、四人には伝えなくちゃいけないことだった。プロデューサーがいたから、そういう言い方をしただけだよ」

「……なら、いいんですけど」

「ごめんね、今日、オフなのにわざわざ」

「そんなこと気にしなくていい」

 これは私の言葉だ。友人のために動くことを、億劫だなんて思わない。

「わ、わたしもだよ。透ちゃん、そんな心配しなくても平気……!」

「雛菜も。透先輩、雛菜たちは透先輩と、そんな浅い関係でしたか?」

「そんなことないよ。……ごめん」

 雛菜の言葉は強い。普段のふわふわした雰囲気なんて見えない、真面目な顔をしていた。雛菜は強い人間じゃない。それは、自分を保つために、必要に応じて在り方を変えているのだ、と、思う。

 つまりは、方法が変わったという話だ。

「……俺もだ、透。俺は、アイドルとして以外にも……なんて言ったら、下心が透けて見えるけど。でも、透のために動くことが嫌だなんて、俺は思わない」

 うつむいた顔のまま、プロデューサーは言った。

「うん……ありがと」

 五人は、何も話さなくなった。何を言っても、浅倉を貶める。だから、誰も何も言わない。

「また、見舞いに来るから」

 沈黙に耐えかねたわけじゃない、そう自分に言い聞かせながら私は発言する。

「おー。ありがと」

「行こう、雛菜、小糸。……プロデューサーも」

「……はい」「うん……」「……ああ」

 私は最初に病室を出た。三人は、私の後に続いて出てくる。

「明日、また来るから」

 私は浅倉に背を向けたまま手を振った。

「待ってるよ」

 浅倉はきっと手を振り返してくれたのだろうけれど、私は振り返ることなんてできなかった。

 三人も同様に浅倉に別れの言葉を告げて、私たちは病室から離れた。

 

「……何を言うのが正解なんだろうな」

 病院の庭。カシュ、という音を鳴らし、プロデューサーはコーヒーの缶を開ける。三人も各々自販機で買った飲み物を開けた。

「……そんなの、私にはわかりません。特に、プロデューサーのあなたは、かけられる声もないでしょう」

「そう、だよな……」

 そしてそれは、同じノクチルである私たちも同様だった。何を言っても、「アイドルでいられなくなったこと」が頭に過ぎる。

 ただの友人でいられればよかったと考えたのは、アイドルを始めた頃以来だ。あの時、ノクチルという響きに奇妙な違和感を覚えたことを覚えている。

「アイドルじゃなくなった透先輩かー……昔に戻った、わけじゃないよね」

「……時間は進んでるよ。考え方も、状況も。全部違う」

「……ですよね」

 そういえば、浅倉はアイドル活動を続けてね、とは言わなかった。浅倉は事実を述べただけで、これから何をしたいというようなことは何も言っていない。

「透ちゃん、わたしたちにアイドルをやめないで、とは言わなかったね」

「……そうだね」

 何を言っても重い。関係のないことで茶化せる雰囲気でもない。

「三人は、続ける意志はあるのか?」

 俯いたまま、プロデューサーは問うた。三人で顔を見合わせる。

「……私は……」

 二の句が継げない。私はどうしたいんだろう。浅倉のいないノクチル。それでも浅倉はどうしても絡んでくる。

 浅倉がいないから、ノクチルを辞める。

 浅倉がいないから、浅倉の想いを継いでノクチルを続ける。

 私は浅倉の意思を、全ての判断を委ねている。

 それは、自分で判断することを恐れているからかもしれない。浅倉は、免罪符でもなんでもないのに。

「……ごめん。急に聞かれても、困るよな」

「……すみません」

 隣から、雛菜はまだ何も言ってないよなんて言葉は聞こえてこなかった。つまり、まだ悩んでいるのだ、雛菜も。

 小糸の方を見ても、俯くばかりで何も言わなかった。

「……俺は帰るよ。俺がいても、邪魔だろうし」

 プロデューサーは立ち上がり、駐車場の方へ向かって行く。

 当然、後には私と小糸と雛菜の、三人が残された。

「……わたしたちも帰ろうか」

 空気に耐えかねたのか、小糸が言う。私と雛菜は頷いて、小糸の車に乗った。

 話すことなんて何もなかった。雛菜の家で雛菜を下ろし、私の家で私を下ろし、小糸は自分の家へ車を走らせる。

 その日も、親に透のことを聞かれた。

 うんざりだ、なんて思っちゃいけない。けれどどうしても、うざったく感じてしまう。

 ――私はどうしたいんだろう。

 答えを急いでしまうのは、私の悪い癖だ。

 「急に聞かれても困るよな」と言ったプロデューサーの言葉を胸に抱いて、私は睡眠をとる。

 浅い睡眠だ。寝る前から、その確信があった。

 

 23

 

 悪夢、というものは、生きていれば必然として何度か見るものだと思う。自分が死ぬ夢が吉兆なんて言われたりもするけど、それは悪い夢を無理矢理いい夢だと思いこませようとしているからだ。自分が死ぬ夢がいい夢なはずがない。

 その日の夢は当然、透に起きた事柄に関連する。

 

 

 

「……っ」

 目が覚めた。私が車に轢かれる夢。

 透と雛菜と小糸とプロデューサーが慌てた顔で私の病室に来て、会話をする夢。

 その時に私の口をついて出た言葉があった。

『私がいなくなっても、ノクチルは三人で続けてね』

 ディティールは全然覚えていないのに、その言葉だけは頭に焼き付いていた。

 

 私は起き上がって、顔を洗い歯を磨く。ランニングに行こうと、私はスマホを開いた。

『浅倉、起きてる?』

 そんなメッセージを送ろうとして、はたと気付く。透は入院中だ。来れるわけがない。

 スマホの画面を閉じる。着替えて、一人でランニングに出かけた。

 いつもの道。違うのは、いつも隣で走っていた浅倉がいないこと。話し相手がいないからか、それともむしゃくしゃするからか、いつもより早いペースでランニングを終えた。

「円香ちゃん」

 家に帰ると、花に水をやっている透のお母さんと鉢合わせた。

「円香ちゃん、ランニングの帰り?」

 肩に巻いたタオルで汗を拭きながら私は短く応える。

「ええ。そうです」

「……ごめんね、一人で」

「いいですよ。お母さんが悪いわけじゃ、ないですから」

 そういう私の表情は硬い。その自覚があった。

 だって、透がいなくて寂しいのは本当だ。だから、お母さんが悪いわけじゃないというのは本当でも、「いいですよ」の言葉は、半分嘘だった。

 頭を下げて自宅に戻る。汗を流し、服を着替える。

「……そうだ。休みだけど透のお見舞い行かなきゃ」

 部屋着に着替えるわけにも行かないな、と思って、外に出られる服を着る。

 今日はどうするか、という旨のチェインを二人に送る。既読はすぐについた。二人とも、行くつもりだと応える。

『今日は私が運転する』

 親に許可は貰った。休日で車は空いていたから、その車に乗り込んで小糸と雛菜の家に行く。

 

「お見舞い、迷惑じゃないかな~?」

「雛菜、ちょっと弱気すぎ」

「う……」

 雑談をしながら病院へ向かう。それほど遠い病院ではないから、30分もしないうちに病院にたどり着いた。

 

「浅倉、いる?」

「いないわけないじゃーん」

 ノックをして声をかけて、浅倉の病室に入る。昨日と違うところはない。昨日見た景色と、ほとんど変わらない景色が私たちを迎える。

「そうだ。私、退院したら車椅子に乗って生活するっぽい」

「……車、もう運転できないね」

「うわ、そうじゃん。えー……まだ一年くらいしか乗ってないのに」

「……」

 言葉に詰まって、私は椅子にどかっと腰を下ろした。なんていうか、気を使いすぎるのもよくない。

「我が物顔で座るじゃん」

「疲れたし、運転」

「小糸ちゃん来た時はそんなことなかったよ」

「小糸と私は違うから」

「言うね」

 浅倉が笑う。私もつられて笑った。二人は、まだどうすればいいのかわからないのか、表情が硬い。

「……あんまり気を使いすぎるのもよくないよ」

「そうそう。自然体でいてくれた方が嬉しい」

 私が言うと、浅倉も同意する。

「……ごめんなさい」

「……ごめんね」

「謝んなくていいって。そんな、死ぬわけじゃないんだし。ほら、椅子は三つあるから。座って座って」

 浅倉が椅子を指差す。小糸と雛菜は大人しく椅子に座った。雛菜はいーっと、無理矢理にでも笑顔を作る。小糸も、似たようなしぐさを取った。

「そうだ、浅倉」

 訊かなければいけないことを、訊くことにした。

「何?」

「ノクチル、どうしてほしい?」

 それは昨日プロデューサーに訊かれたことで、答えの出せなかった問い。浅倉が、答えを出してくれることを、期待する。

「それは三人で決めてよ。私はもう、舞台を降りてる」

「……そう」

 そう言われるような気がしていた。だから、殊更にショック、と言うわけではないけれど。

 でも、判断を委ねられるというのは、少し怖い。

「と、透ちゃん!」

「小糸ちゃん?」

「車椅子っていうのは……どこにあるの?」

「んとね。まだここから動いちゃいけないんだよ。だからお手洗いも……」

「言わなくていいから」

 そこまで言えば、言わんとすることはわかる。女同士だし、ダメとは言わないけど……。

 これは最低限のモラルの問題だ。小糸は軽口のつもりで言ったのだろうか。それは、成功と言えるだろう。

「まだ、体悪いんですか?」

「んー……特別酷いわけじゃないんだけどね。ただ、まだここから動かせてくれない。太るー」

「……退院した時、スタイル崩れてたら幻滅するかも」

「えー。私のせいじゃないし」

 そのあとは、少し雑談をして、昨日のように病室を出た。待合室でプロデューサーとすれ違う。

「……よろしくお願いします」

 他に適切な言葉はあっただろうが、私の口からはそんな言葉が出て、私の体は彼に頭を下げていた。二人も私に倣う。

「ああ。入れ替わりになるな」

「そうですね」

 雛菜と小糸を家に送り届けて、自分の家に戻る。

「透ちゃん、どうだった?」

 今日も聞かれた。不安なら、自分も行けばいい。荒んでいく自分に、またイライラする。

 

 24

 

 それからは三人で示し合わせることもなく、各々自分のタイミングで見舞いに行くことになった。もちろん同じタイミングで行くこともあったけれど、各自の意思、各自のタイミングで訪れた方がいいという結論になった。二人で話したいことも、各々にある。

 その日の前日、明日はいけないという旨の連絡をしたけれど、偶然にも予定が雲散霧消し、透の見舞いに行けることになった。サプライズのつもりで、何の連絡も入れずに。

 

 

 

 毎日のように訪れた浅倉の病室は、まだ近づくたびに気後れする。浅倉の表情こそいつも通りだけれど、その姿は痛々しい。傷があるわけではない。傷があるわけではないけれど、彼女の包帯の撒かれた足を見るたびに、どうして浅倉がこんな目に合うのだ、という気持ちになるのだ。

 何度目か覚えていない透の病室の前に立って、ノックをしようと手を構える。

 その手が扉を叩くことがなかったのは、中からの音を聞いたからだ。

「……っ……。っ……!」

 浅倉のすすり泣く声が、ドア越しに聞こえてくる。

「……」

 当たり前だ、なんて他人事のように思った。浅倉にとってアイドルというものは、切り離せるようなものじゃなくなっていた。

 仮にアイドルでないとしても、足の不自由というのは致命的な欠陥なのに。アイドルということを前提条件に考えてしまう私も、随分、毒されている。

 声をかけたらよかっただろうか。泣かなくていいよと慰めてあげればよかっただろうか。

 けれど、私にそんな勇気はなかった。

 ――触れて欲しくないのなら、触れてあげないことも優しさなのだから。

 浅倉が事故に遭った日、泣いた雛菜に対して抱いた感情を思い出す。

 トン、と額をドアに当てた。音は立たないように、気付かれないように。それでいて、「透」の感情を少しでも理解したいという思いを込めて。

 少しの時間が過ぎた後、私は踵を返す。

 その日、浅倉に会うのはやめた。

 これは逃げじゃない、なんて言い訳はしない。私は弱い。浅倉に向き合うことから、確かに私は逃げた。

 ――いつかは向き合わなければいけないことだろうというのは、予感ではなく確信だというのに。

 

 25

 

 憧れの人が見る影もなく落ちぶれてしまったのを見て、「頼むから死んでくれ」と思うのが敬愛で、「それでも生きてくれ」と願うのが執着だと思っていた。

 ――だから私は、遥川悠真に死んでほしかった。

 

 26

 

 高校時代に読んだ作品のことを、どうしようもなく思い出してしまう。斜線堂有紀の名前も、私が大好きな小説家を殺すまでという作品名も、未だに鮮明だ。そして、あの言葉も。

 一語一句間違えることなく言葉にすることができる。それを口に出さないのは、まだ現実が認められていないからだ。だろうか、と疑問にしたかったけれど、それは疑問にすることが憚られた。

 私は、浅倉透と言う存在に執着している。浅倉透には、何があっても生きて欲しい。

 生きて欲しいと願っているのに、私は浅倉に何をしてあげられるのか、一切の目途が立っていない。

 ピンポーンというインターホンが鳴る。客が誰かはわかっていたから、特に目はくれずに「今行く」と告げて玄関へ向かう。

「ま、円香ちゃん! ……来たよ!」

 言葉に詰まるのは、きっと透への後ろめたさからだろう。

 扉を開けると、小糸と雛菜の姿があった。普段は透の家に招くから、私の家で話すことはそう多くない。

「上がって」

 私は二人を家に入れて部屋まで連れて行く。いつも四人いるはずの場所が三人になると、どうしても空白を意識してしまう。

「……空気おもーい」

「ひ、雛菜ちゃん……!」

 空気を読んでいない……というわけではないだろう。これは雛菜の気遣いだ。そうでもしないと、きっと空気が固まったまま、話がいつまでも始まらない。

「遊びたくて呼んだわけじゃないよね。円香先輩」

 このように。

「……ん」

 あくまでそう言った体を取っただけだ。作戦会議じゃないけれど、これからどうするのか――そういう話だ。

「今まで通りにはできないから。ノクチルを続けるのか、とか。そういうことを話そうと思って」

「雛菜、透先輩がいないのにやりたくないな~……」

 透がいない場所では、雛菜はこれまで通りだった。自由奔放で、自分の意思をはっきり告げられる。やっぱり雛菜は、こっちの方がいい。

「……小糸は?」

「ぴぇ!? わ、わたし……!?」

「そう」

「わ、わたしは……わたしは、続けたい。雛菜ちゃんとは反対になっちゃうけど、透ちゃんの分まで、ノクチルとして……」

 透のことを慮るならどちらが正解なのか。透が私たちに選択権を委ねた意味は、予想できるものとして三つ。

 ひとつは、やめるのか続けるのか、私たちが透の思うようにしてくれると信頼したから。ひとつは、私たちの意思でノクチルをどうするかを選択することが透の望みで、どちらだとしても受け入れられるから。……最後のひとつは、透自身どうすればいいのかわかっていないから。

 ……だから、透の考えがどうだったとしても、私たちが選択して、その選択に納得してもらうしかない。

 雛菜は続けないことを選んだし、小糸は続けることを選んだ。確かめられる答えは一つ。それが正しかったのかどうかは、後になってからわかることだ。

「円香先輩は~?」

「……」

「誘ったのは円香先輩なんだし、答えはあるんですよね?」

「……うん」

 答えはある。叶うなら、三人が同じ方向を向いていればいいと思ったけど。

「私は――」

 二人の視線が私に集中する。

「――私は続けたいよ。ノクチル」

 用意していた答えを告げるだけなのに、私は妙に緊張した。生唾を飲み込んで、二人の反応を眺める。

「……そっか~」

「ほ、ほんとに……?」

「嘘ついてどうするの」

 心配性なのはわかるけれど、そんな風に言われたらムッとなる。これでも、私はどうするべきかずっと悩んでいたのに。

「きっと、こうなるんじゃないかなって気はしてました。だから文句はないですよ」

 雛菜はそう言う。表情に不満が滲んでいるということもなく、私たちに素直に賛同してくれているようで安心した。

「ところで、ずっと聞きそびれていたことがあったんですよ」

「何? ……何かあったっけ」

「透先輩と円香先輩、互いを名字で呼びますよね? それはどうしてなんですか?」

「……ああ」

 透と円香。その呼び名を変えたのが中学生の頃。理由は今でも覚えている。本当にしょうもない、中学生のお遊びみたいなもの。

「円香先輩は、透先輩のいない所では『透』って呼ぶじゃないですか。だから、余計にわかんないです、ふたりのこと」

「……」

 理由など忘れてしまったと誤魔化せばいいのだろうか。幸いというべきか、呼び方を変えてからもう何年も経つ。誤魔化そうと思えば、忘れたの一言で誤魔化せるはずだ。

「本当に大した理由じゃないよ」

 けれど、私は結局、話すことにした。別に隠すほどたいそうな理由でもないのだから、構わない。それで今更透が怒ることもないだろう。

 

 ――。

 

「……それだけ」

「……ええ……」

 雛菜は呆れたような顔で。

「そ、そういう理由だったんだ……!」

 小糸は形だけでも驚いた様子を示してくれた。

「小糸ちゃん、わざわざ驚かなくてもいいのに。円香先輩」

「何」

「しょうもなさすぎ! です!」

「……大きな声出さないで」

 私は耳に手をやった。

「別に、二人のことどうこういうつもりもないですけど……そっかー。そういう理由かー」

「……そう」

 少しの沈黙。私はふと気になったことを聞いてみる。

「雛菜は、私と透のこと、先輩って呼ぶよね。それはどうしてなの」

「え~? 円香先輩と透先輩は先輩じゃないですか~?」

 ……答えになってない。

 私もずっと嘘をついてきたのだし、何か理由があるのかもしれないし。

 私はそれ以上の言及はやめにした。

「ところで、二人の学校のことだけど――」

 私は話題をアイドルからズラし、しばしの雑談に興じる。雑談の間は透のことを忘れて楽しむことができた。二人の笑顔を、久々に見た気がする。

 

 ……そんなのは、全部ウソで。

 

 私たちの脳裏には透が過ぎり、楽しい話をしているはずなのにその表情は強張り、貼り付けた笑顔が互いに痛々しかった。

 早く透に退院してもらって、四人に戻りたいと願った。

 しかしその願いは、三人でのノクチルは鈍いと認めているようなもので。

 選択は正しかったのか。答えが出るのは、まだ先になる。

 

 27

 

「……浅倉」

「樋口。昨日ぶり」

 病室に入ると、様子だけはいつも通りの浅倉が迎えてくれる。

「そろそろ退院?」

「ん。私、車椅子を使う才能があったみたい」

「なんて無駄な才能……」

「無駄じゃないよ。これからずっとお世話になるのに」

「……そうだね。ごめん」

 言葉を間違えたらしい。

「ところで、今日は遊び道具を持ってきたの」

「おお。やった」

「面会時間、長くなったからね」

 最初は面会できる時間も短かったけれど、最近は浅倉の拘束時間も長くないのか、一緒に居られる時間が増えた。

「ほら」

「おお、将棋盤」

 だから私は、家から将棋盤を持ってきた。もちろんそんなしっかりした奴じゃなくて、マグネットで持ち運びやすいやつ。

「時間はある?」

「余裕」

「よかった」

 私は椅子を机を跨いだ位置に置く。ちょうどいい台があってよかった。

「……ひそかに練習してたり?」

「してない」

「よかった」

 私と同じ言葉を話すと、浅倉は自分の陣地に玉を置く。

「ちょっと」

「病人は労わってよ」

「……ごめん」

「ああ、ごめんごめん。そういう意図じゃなかったんだ。……本当、ごめん」

 失言だったことにはすぐ気付く。二人の間に重い空気が流れる。

「……やろっか」

「……」

 流れた空気を断ち切ろうと、浅倉は声を出す。

「私が振るね」

「……マグネット」

「あ」

 その言葉は見当違いだったけれど、幾分私たちの間の空気は和らいだ。

 私は手を出す。浅倉も同様に握った手を私に向けた。

「「最初はグー――」」

 私のだした手はパー。浅倉は、グー。

「私が先手」

 ちなみに、プロでは先手と後手で勝率の差はほとんどないらしい。囲碁では後手にはコミというハンデが設けられるし、カードゲームだって先手はドローできないような縛りがあったりする。

 ただ、私たちは素人だから。純粋に先手を取った方が勝率が高くなる。

 浅倉は振り飛車党で、私は居飛車党だ。細かい性格は、私たちはいつだって相違する。

 

 ――。

 

「だは、負けた」

「私の勝ち」

 戦績は五分五分だったから、いつだって私たちの勝負は白熱する。今日は、私の勝ちだ。

「それじゃ、私は帰る。将棋、置いとくから自分で遊んでて」

「え、いいの」

「だって家にあるでしょ。ちゃんとしたやつ」

 脚はないし、それほど高級なものではないけれど、私の家にはマグネットよりはまともな将棋盤が置いてある。

「あーそっか。私も早く帰ってパチンって打ちたいなー」

「もうちょっとでしょ。退院するの待ってるから」

「おー」

 私は浅倉の病室から退室した。

 

 病院を出て、自販機前のベンチに腰掛ける。私は以前、入院した透が飲めるようになったと言っていたコーヒーの缶を購入する。

「……苦」

 やはり、私の舌には合わない。子ども舌と言われたらきっとそうなのだろうと、大学生にもなるとそろそろ認めなければならない。

「玉……」

 将棋のことを思い返す。そうだ。玉は、いつだって浅倉透にあった。先手は、先立つのは、いつだって私じゃない。

 そしてそれは、もう過去にしかないものだった。

 透は、選択権を失ってしまったのだ。選択権は私に、小糸に、雛菜に譲渡された。

 しかし、選ぶ権利が私たちにあるからと言って、選ぶ必要は私たちにはなかったはずだ。

 けれど――

『――私は続けたいよ。ノクチル』

 私は、選ぶことを、選んだ。ノクチルという[[rb:路 > みち]]を、続けることを選んだのだ。

 浅倉透に、背中を見せるために。

「……私たちが選んだ道なんだ、これは」

 呟いて、飲み終えた缶を握りつぶした。

 自販機横のリサイクルボックスに缶を投げ捨て、私は車に向かった。

「全ての道はローマに通ず、だっけ」

 私たちの選んだ道は、相応しい道に通じているはずだ。

 

 28

 

 私たちはあの後、プロデューサーに話をするように連絡をした。三人とも大学生活が忙しかったけれど、活動再開するなら早い方が良いと、その日は大学を休んだ。三人とも頭は悪くない。一度くらい欠席したってきっと取り返せるし、しっかりと大学内でコネクションもある。保険のようだけれど、そうでも言わないとプロデューサーは納得しない。

 そして連絡の数日後、私たちは答えを伝えようと283の事務所を訪れた。

 

「アイドル、続けたいです」

 直球に、私はそう告げた。後ろには雛菜と小糸がいる。

「……そうか。透がいなくても、三人でやる意思はあるんだな」

「はい」

「……」

 プロデューサーは顔を下げて、押し黙る。

「……何か言ったらどうなんですか」

 その様子を見かねて私が問いかけると、プロデューサーは顔を上げた。

「浅倉透が――センターでリーダーの透がいなくても、続けるって意思が――いや、意志があるんだな」

「そうです」

 二人に目を向けると、二人も頷いて応える。

「そっか……よかった……」

「なんで、貴方が安心するんですか。人が減って三人のユニット、それもリーダーがいなくなったユニットなんて、貴方から手を切ってもよかったはずです」

 そう悪態をついてしまうのは、不安に思っているからだ。続けたいと言いながらも、三人で今までのように駆け上がれるのか不安だった。

「俺は……違う、俺も社長もはづきさんも、お前らを見限るつもりなんてなかったよ。もう三人とも、立派なアイドルなんだから」

「……」

 そう言われると安心します。そんな風に言うのは私のキャラじゃないからやめた。でも、その言葉に安心していたのは事実で、きっと顔は綻んでいたことだろう。

「ただ、それでも透の穴は大きい。続けるって言うならレッスンは厳しくなる……それでも、やるんだな」

 確認はさっきしたはずです――そう告げる前に、雛菜は私の前に出た。

「プロデューサー」

「雛菜?」

 雛菜はプロデューサーを見下ろす。そして、机をダンと叩き、言い放った。

「バカにしないでください! 三人でも、絶対トップアイドルになって見せますから!」

「……ふふっ」

「小糸ちゃん、なんで笑うの!」

「いや……嬉しいなって」

 小糸が笑っているのを見て、自然、私も声が漏れる。

「円香先輩も!」

「ふふ」

「はは……」

 プロデューサーも、そんな様子を見て笑う。

「雛菜、真面目なんですけどー!」

 事務所に、そんな声が響いた。

 

「啖呵、切っちゃったね」

「もう後戻りなんて出来ませんから」

 事務所を出た後、小糸は雛菜に話しかけた。あれはきっと、私たち三人、全員思っていたことだった。

「透先輩が嫉妬するくらい、透先輩がいた時よりも、人気アイドルになっちゃいましょうね!」

「そうだね」

「うん」

 二人で応えるのと同時に、三人のチェインの音が鳴る。同時と言うことは、つまり、そういうことだった。

「透ちゃんからだ」

 どういう内容だろう、そう思って三人でトーク画面を開く。そこには――

『退院日が決まった』

「「「!」」」

 私は素早く『いつ?』と打ち込む。

 既読はすぐに三つついた。

『一週間後』

 

 29

 

 時の流れは止めることはできない。当然、透はずっと病院にいる訳じゃない。

 あの連絡からきっちり一週間後、透はあの連絡の通りに退院することになった。

 そして、透が退院する。

 それは何かが始まるきっかけで。

 私の、私たちの物語が、終わりに向かい始めるような。

 そんな錯覚を覚えた。

 

 私たちは、透のいないノクチルで、よくやっていたと思う。

 活動休止していたノクチル。透が不慮の事故に遭った件はとっくに雑誌ですっぱ抜かれていて、復帰後の初ライブでは、「リーダーを失い、大きな穴が開いたユニット」として扱われた。ライブに来てくれていた人の数も、目に見えて減った。「浅倉透」を見に来ていた人は当然そうだし、「四人」でのノクチルを見に来ていた人も、三人のライブには来たがらないのだろう。

 けれど、私たちはそれでも諦めなかった。一度は減ったファンたちも、徐々に増えていった。それこそ、透のいたころと同じか、それ以上になるくらい。

 

 私は大学を卒業して、一人暮らしを始めた。透と隣の家ではなくなったけれど、近い場所だ。歩いて、透の家に行くくらいは容易な距離のアパートを借りて暮らし始めた。

 透が病院を出ても、何もなかった。私たちはアイドル活動を継続して、時折透に会いに行く。

 そんな関係が続いた。

 

 30

 

「そっか」

 私が透にアイドルとしての話をすると、透はいつだって、はにかんで微笑んでくれる。

「うん」

「嬉しいよ。私がいなくても、三人でやっていけてるみたいで」

 それが皮肉のように感じてしまうのは、私がひねくれているせいか。

「ねえ……透」

 私は再び、透のことを名前で呼ぶようになっていた。透も、私のことを円香と呼ぶ。

 

 雛菜たちに話した後、透には呼称のことを話したことを伝えた。すると透は、

「ごめん、負担になってたかな」

 と告げた。

「なんか、それに慣れて、元の呼び方に戻すタイミングも掴めなくて」

「……私も同じ」

「元に戻そうか。……[[rb:円香 > ・・]]」

「うん……そうだね、透」

 そうして、私たちは互いを、昔と同じように「透」「円香」と呼び合うようになった。

 それだけだ。劇的に進展するというわけではなく、元に戻っただけの話。

 それだけなのに、再び透の前で面と向かって名前を告げられることに、強い高揚を感じたことを覚えている。

 

「ねえ……透」

 私は問いかける。

「何?」

「私たち、続けて良かったのかな……」

「どうして? 円香たちが決めたことに、私が文句を言う権利なんてないよ」

「権利じゃない!」

 私は声を荒げる。透は驚いたように目を見開いて、私を見る。

「私は、透がどう思っているのか、それを聞きたいの。透、私がノクチルをどうしてほしいか聞いた時、言ったよね。『それは三人で決めてよ。私はもう、舞台を降りてる』。って」

「うん、言った。言葉通りの意味だよ」

「私は、そんな透の優しさが嫌なの……透は、どう思ってるの? アイドルを続けられないことに対して……はぐらかすばっかりで」

「円香……」

「透は、嫌な顔をしない。私たちの話を聞くと、喜んでくれる。笑ってくれる。でも、本当のところは、どうなの」

 解答次第では、私はどうしてしまうかわからない。

 きっと正解は、透に私たちのことを話して、透が喜んで。そんな関係が続けばよかったんだと思う。

 けど、聞いた。それじゃあただのベターな結末でしかない。私は透のことを知って、四人にとってのベストを選び取りたい。

 私は今、ベターを捨てた。だからこの先に待っているのは、バッドエンドか、ベストエンドか。

 どちらかしかないんだ。

「私は……」

 ゴクリ、唾を飲み込む音が聞こえる。まるで永遠のように感じる時間だけれど、実際には数秒か、数十秒の短い時間だ。

「私は、羨ましいよ。三人がアイドルを続けられて、私だけリタイアしてしまったことが」

「……」

「だって、私何も悪いことしてない! 事故に遭った後、悪い夢なら醒めてって、ずっと願ってた! けど、これは紛れもない現実で。もう、手遅れで。全部、終わってしまったんだって思った」

 この時に思ったのは、斜線堂有紀の小説の一文。

『憧れの人が見る影もなく落ちぶれてしまったのを見て――』

 それは、彼女が事故に遭った姿を見た時に、予感していた。

 そして今、彼女は平静を失い――落ちぶれてしまっているんだと、私は確信をする。

「……ごめん」

「謝らないでよ。私が惨めになる。三人がアイドルを続けてくれたのは、嬉しい。嬉しいけど、私の心は軋むんだ。でも、アイドルを続けてくれなかったら、私には、喜びはひとつも残らなかったと思う。だから、これでいいんだよ、円香。これで、いいんだよ……」

「透……」

 透は私に体重を預ける。なんと声をかけてあげればいいのだろう。見る影もなく落ちぶれてしまった彼女に、私はどんな声をかけてあげればいい?

 ああそうだ。私が浅倉透に抱いていたのは、きっと執着ではなかった。

 執着しているのなら、浅倉透の願うまま、こんな質問なんてしなくてよかった。

 でも、私が願うのは透の死ではない。

 押し上げるのだ。透が、私の理想でいられるように。

 私は、幕居梓の思想を認めてなんかいない。

「透」

「……何? 下手な同情とか、いらないんだけど」

「アイドル、もうやめるから」

「は?」

「アイドルはもうやめる。って、言ったの」

「……何、それ。話聞いてたの? 私は、三人の話を聞いているから、少しでも喜びを感じられる。だから」

「それは透が私たちに移入して、逃げようとしてるだけじゃないの!?」

 私は透の言葉を遮る。車椅子に乗る透の胸倉を掴んで、私は顔を近づけて大声で言うんだ。

「っ! 円香に、五体満足の円香に、私の何がわかるって言うんだよ!」

「知らない! でも、そんなの透じゃない!」

「私は円香の理想でも何でもないんだよ! 私がアイドルを続けた三人に移入することの、何がいけないの!?」

「っ……でもっ」

 そこで言葉が途切れる。私の胸を衝いたのは一つの言葉。

 ――私は円香の理想でも何でもないんだよ!

 ピシ、という音が聞こえた。

 まるで偶像が壊れるような、そんな錯覚。確かな心の亀裂を、私は感じた。

「だから……円香たちはそのままでいて?」

 透は、私の肩に手を置く。今にも泣きだしそうな透の姿を見て、私は何も言えなくなる。

「っ……ごめん……」

「わかってくれたなら、いいんだ。私こそ、すごく我儘かもしれないから」

「私が……悪いんだよ。ごめん、透」

「いいよ、ごめんね、こんなことになって」

「……謝らないで。惨めになるから」

 私は透の部屋の椅子に座り込む。さっきまでの迫力は、既に失せていた。

「それじゃあ、私は帰るね」

「うん、また」

「また」

 言って、透の部屋を出る。パタンという音が鳴って、私と透の世界は隔絶された。

 私は、透の部屋のドアに体重を預ける。

 まだ、ベターに戻れるだろうか。

「……いや」

 少なくとも、知ってしまった。透の気持ちを知った上で、私はどうすればいいんだろう。

 私が透に願うのは、何?

「……そんなの、すぐに答えが出るわけないよ」

 私は、幕居梓を認めない。

 それが執着でなくても、それが敬愛だったとしても。

「死んでほしいなんて、思えるわけない」

 ぽつりとつぶやいて、私は透の部屋を離れた。

 

 31

 

 私にとっての偶像は壊れてしまった。

 まるで、憑き物が落ちたような気分。決して良い気分ではなかった。

 その憑き物があるからこそ、私はこれまでノクチルでいられたのだ。

「円香先輩、調子悪いんですか~?」

「……そんなこと」

 言いかけて、やめる。彼女たちに言い訳をして、誤魔化しきれる自信はなかった。

「少し、悩みごと」

「悩んでるなら、相談してくださいね~。言い難いこともあるでしょうから、無理にとは言いませんけど~……」

 そんな優しさを見せてくれる雛菜がありがたい。

「ありがとう。言えるようになったら、言うから」

「誰かに吐き出すと、すっきりするっていうから……だから」

「わかってる、小糸」

 だからと言って、誰かに話せる悩みでもなかった。

 以前、私が透に抱いていたのは、間違いなく執着だった。それがあの事故をきっかけに変化して、今の透に抱いている感情が、迷子になっている。

 透に一度、アイドルを辞めてしまうと告げた。でも透は続けてよって言うんだ。

 透のためを想うのなら、アイドルはやめられなかった。

「ごめん。……続き、やろっか」

「はい~」

「うん」

 もう戻れない。でも、進む先も見えていなかった。

 

「一緒に暮らそうか」

 それから幾ばくもしないうちに、私は透にそう告げた。

 透はどうして? とは聞かなかった。ただ頷いて、お母さんに聞いてくると部屋を出ていった。

「……ふう」

 なんて無理な処置だろうか。

 壊れてしまった偶像は、本人に直してもらうのが一番だ。本人が、その輝きを一番理解している。私の認識ではどうしても歪んでしまう。

 それでも、彼女はもう戻らない。足は治らないし、歪んだ精神性の大本は断てない。

 だからというわけではないが、彼女と暮らすことで何か変化が起きればいいと思った。偶像でなくてもいい、理想でなくてもいい。結局、私は彼女に執着している。

 幕居梓とは異なる感情で、私は浅倉透に執着しているのだ。

 きっと、私も戻れないほどに歪んでしまっている。

「円香」

「透。どうだった?」

「うん、一緒に暮らそっか」

「……よかった」

「隣の家より、もっと近い距離に居られるね」

「うん」

 そうして、私と透は同居することになった。

 

 32

 

 円香と暮らすことになった。きっかけは、彼女が一緒に暮らすように打診してきたからだ。

 お母さんに話すと、お母さんは円香ちゃんならいいよと許可してくれた。彼女が既に一人暮らしを始めていることは知っているか聞いたら、本人から聞いたと聞かされた。

 私が円香を拒否する理由はない。だから、私は彼女の申し出を受ける。

 行動は早かった。数日後から、私と円香は一緒に暮らすことになる。

 

「今日も仕事? 行ってらっしゃい」

 私がアイドルをしていたころより忙しいのは本当らしい。自分がアイドルをやっている立場だったから、彼女たちがテレビやライブでの露出が増えたと聞かされても、彼女らの出演する番組をチェックしていても、いまいち感覚として掴めなかった。けれどこうして一緒に暮らして、アイドルとして外に出ていく彼女の姿を見送ると、ああ私の時より忙しそうだと思う。あの時は学生との両立もあって、プロデューサーも調整してくれてたんだな。

「昨日も言った通り、今日は帰ってこれないから」

「おっけー」

 足の感覚はないままだ。だから一人だと少し不便だけれど、彼女の家には小説も多く置いてあって、退屈したりはしなかった。彼女はどんな本でも好きに読んでいいというから、私は円香がいない時、彼女の部屋で本を漁る。実業之日本社、角川、東京創元社……いろいろな出版社の作品があった。私は彼女の部屋にたくさんある本を読んで時間を潰す。

「ん」

 ピンポンという音が鳴る。今日は雛菜か。私が一人の時は、どちらかが泊まりに来てくれていた。今日は、雛菜が来てくれたらしい。

「今空けるね」

「よろしくおねがいします~」

 彼女の姿を確認すると、私は玄関先まで車椅子で向かい、部屋の扉を開けた。危ないからと、円香にはインターホンに反応してすぐに部屋に向かわないよう釘を刺されている。

「いらっしゃい、雛菜」

「はい。今日はよろしくおねがいします」

 雛菜に車椅子の操作を代わってもらう。リビングにつくと、雛菜は部屋のソファに腰を下ろした。

「今日はありがとね」

「いつものことですから~。雛菜も透先輩と会えればうれしいですし」

「そう言ってくれるとこっちの肩の荷も下りるよ」

 適当な雑談をする。

「そろそろ料理作りますね」

「うん」

 三人とも、大学時代で時が止まっている私に比べて、料理が随分上手になった。ちょっと嫉妬。

「透先輩の家に来た時、いつも円香先輩の残した食材で料理してますけど~、何か食べたいとか外に行きたいとか、あればいつでも行ってくださいね~?」

「ああ、そうだね。今度また、二人でご飯食べにいこっか」

「やは~! 透先輩好き~~~!」

「ふふ」

 四人でご飯を食べに行くことはあったけれど、確かに二人でどこか外に出かけるということは、足を壊してからしていなかった。

 円香と、雛菜と、小糸ちゃんと。誰かに介護されないと生活できないこの足は恨めしい。もちろん、以前樋口に告げたように、アイドル活動ができなくなったことも。でも、何より……。

 暗い考えは追い出して、今は雛菜との時間を大切にすることにしよう。

 

「透先輩とお泊り~」

「いつもしてるでしょ」

「何回でも嬉しいも~ん!」

「そっか」

「そうです!」

 夜になって、電気を消して。少しだけ会話をして私たちは眠る。朝になって、雛菜は家から出ていって、また一人になって。

「ただいま」

「おかえり」

 そして、円香が帰ってくる。

 

 33

 

 透と同居しているうちに、私の中で燻るものがあった。

 私はあの作品を読むことで、透への感情は執着か、敬愛か。どちらかだと思っていた。小説に影響されるなんてばからしいけれど、私にとって透はそんな存在で正解だろうなと思っていたのだ。

 けど、違った。私が透に抱いていた感情は、たった今はっきりした。

「透」

「何? 大切な話って」

「うん。二人で話したいことが――って、いつも二人で生活してるか」

「そうだね。内緒話なら、いつでもできる」

 私は決定的な一言を告げようとして生唾を飲み込む。この感情が間違いだったら、大変な恥だ。間違いなんかじゃないと思ってはいるけれど、やはりしり込みする。

「……透」

「何?」

「好き」

 私は、その決定的な言葉を透に告げた。私が透に抱いていたのは執着でも敬愛でもない。

 恋だ。私は透に恋していた。

「……あー」

 透の返しの第一声はそれだった。呆れているのだろうか。

「私と一緒に暮らそうって言ったのは、それを切り出すため?」

「それは……違うよ」

 透への感情が迷子になってしまったから。透に対する感情を整理するために、何を思っているのか……いや、何を想っているのか知りたくて同居を提案した。

 その感情が、恋愛感情だったというだけの話だ。

「私と暮らすうちに、自分の心に気付いちゃった?」

「……なんか、すごく露悪的な言い方じゃない?」

「はは。別にそんなつもりじゃないよ」

 透は、ちょっと待ってねと言った。それは解答に悩んでいるのだろうか。断ったら、この家にはいられないというような。

 それじゃあ半ば脅しだ。

「……私も、円香のことは好きだよ」

「……」

「でも、これが恋愛感情なのか、私にはわからない。だから……」

「……」

 透の言葉を黙って聞く。

「だからさ、円香」

「……何」

 黙ってないでよという無言の圧に屈して、私は口を開く。

「私が円香のことを、恋人として好きなんだって、証明してみせて?」

 透はそう言った。延命のつもりだろうか。その気はなくとも、この家に住まうという意味だろうか。

 そんなはずはなかった。透はそんな回りくどいことはしない。

 透も迷っているのだろう。それなら、無理に押すこともない。いや、押さなきゃ透と恋仲にはなれないのだけれど。

「ごめん、急にこんなこと」

「いいよ。すぐに答えられなくてごめん」

 そうして、私と透の関係は変わらないままだった。

 関係は変わらなくとも、知られてしまった。以前、透の足への感情を私が聞かされた時とは、状況としては逆なのかもしれない。

 

 34

 

「……あれ」

 その時に目を惹いたのは、彼女の本棚に似つかわしくない作品。その作品はひとつぽつんとあり、隣の二冊が他出版の作品だったから気になった。

 彼女の本棚は手前と奥の二段組で、奥にある作品は手前の作品を取らないと見つからない。隠していたわけではないだろう。奥に置いてある作品もいくつもある。

 ふとその本を手に取った。

 タイトルは、「私が大好きな小説家を殺すまで」。作者の名前は斜線堂有紀。

 メディアワークス文庫……円香、こんなのも買うんだ。

 この文庫は確か結構ライトよりのレーベルだったはずだ。私別に詳しいわけではないんだけど、確かそうだった。普段お堅い文学等を読んでいる彼女にしては意外だ。

 私はその本を手に取って、静かに読み始めた。

 

 ……。

 

 面白かった。今まで円香の部屋で読んでいた本とは少し趣きが異なるけれど、それでも面白いと感じる。

 何より、一番最初にある文章が秀逸だった。

『憧れの相手が見る影もなく落ちぶれてしまったのを見て、「頼むから死んでくれ」と願うのが敬愛で「それでも生きてくれと願うのが執着だと思っていた』

 なるほど、と思った。小説に影響を受けるとは少し違うと思う。ただ、考えていたことが言語化されたような感覚。

 憧れた人間が、落ちぶれてしまう――。

 なるほど、今の私には、大変含蓄のある言葉だ。

 

 35

 

 果たして、その後私と透は付き合うことになった。形としては、透が折れた形だ。私は熱心にアピールしていたわけではなかったけれど、答えを先延ばしにすることに疲れてしまったのか、それとも自分の気持ちに気付いたのか、それはわからない。

 透と恋人――それはつまり、同居ではなく、同棲になるだろうか。思わず頬がほころぶ。

 前者だったとしても、透に私を好きになってもらって行けばいい。私はそう考えていた。

 

 付き合うようになってから、外に出る回数が増えた。雛菜や小糸も誘っていたけれど、割合としてその数は減っていった。デートだからだ。もちろん、雛菜や小糸のことは今でも好きだし、頼ることはある。ただ付き合い始めてから、二人の時間がより濃くなったと表現するべきだろうか。一緒に過ごしている以上、時間は変わらない。

「私なんてもう忘れられてると思うけどなあ」

「ダメ。こういうのは、最低限のマナーだから」

 私は透にマスクと帽子をかぶせる。浅倉透は既に人々に忘れられてしまったかもしれないけれど、私はまだ現役アイドルのままだ。私に気付いて透に気付いたら、話しかけてくる輩も増えるだろう。こういうことはしっかりしておくにこしたことはない。

 食事に行ったり、カラオケに行ったり、足が不自由な透とだと少し行く場所は限られるけれど。楽しい日々だったと思う。

「円香、あーん」

「……恥ずかしいでしょ」

「はは、誰も見てないって。ほら」

「ん……」

「円香、なんかエッチな顔」

「っ! 透……!」

 そんな日々が、続けばいいと思った。

 きっと、これが私の望んだ日々だったのかもしれない。

 透の怪我に感謝したくはないけれど。そうでなければ、彼女への恋心に気付くことは、なかったと思うから。

 

 36

 

 少し、日は遡る。

 その日は小糸ちゃんがやってきた。

「透ちゃん」

「小糸ちゃん、いらっしゃい」

「う、うん……」

 どうしたんだろう。何か、あっただろうか。

「透ちゃん、一個、いい?」

「どうしたの?」

「円香ちゃんと付き合うんだって、聞いたよ」

「!」

 円香が漏らしたのか。四人には、きっと言わなければならなかったことなんだろうけれど。

 四人のチェインへの連絡はない。個人的に円香が伝えたのだろうなと納得して、私は頷いた。

「びっくりした?」

 私はおどけて小糸ちゃんに話しかけた。

「ちょ、ちょっとだけ……。でも、いつか、その時が来るかもな……とは、思ってた」

「へえ……」

「もちろん、最初は驚いたよ! でも、円香ちゃんと透ちゃんなら、そんな関係になってもおかしくないなって」

「……」

「雛菜ちゃんも、円香先輩なら仕方ないか~って」

 私がどこの馬の骨とも知らない男と恋仲になったら、彼女はどうしていたのだろうか。

 それは怖いので聞かないでおいた。

「二人が恋人になっても、一緒に四人で遊ぼうね」

「……うん」

 ノクチルという名前で結びつかなくても、幼馴染という縁は深いものだ。円香と私が付き合っても、それは変わらない。

「あ、そうだ」

「? どうかした?」

「小糸ちゃんは付き合ったりしてないの? 雛菜と」

「ぴ」

「ぴ?」

 妙な音を出して小糸ちゃんは固まった。そう、得てして一度固まった後のアクションは、大きいものだ。

「ぴぇええええっ!?」

「わっ」

 突然大声を出した小糸ちゃんに、私は驚いた。足は動かないから、飛びのいたりはできなかったけど。

「な、何!? 急に、何!?」

「え、いや……だって」

「それとこれとは全然違うよ!」

「でも、そんな焦るってことはさ」

「違うったら、違うもん!」

「……」

 これ以上は藪蛇になるかな。

「ごめん」

「わかってくれたなら、いいよ」

 私たちの恋バナはそこで区切りがついて、そのあとは、いつも通りだ。

 

 37

 

 成すべきことを成す。小説でよく聞く言葉だ。

 私には、為さねばならないことがあった。

 

 

 

 38

 

「……透?」

「どうしたの、円香。どうかした?」

「どうかしたって……何を……」

 私は、円香の背中に包丁を突き立てていた。奪うことは簡単だった。私は円香の家で一緒に暮らしている。仕事でいないうちに凶器を拝借するなんて、造作もないことだ。

「どうして……」

「どうして? ……ははは」

 思わず笑いが零れる。こんな結末、私だって望んでいなかった。

「円香が変わっちゃったからだよ、私が事故に遭ってから」

 彼女は変わってしまった。私の隣に立って、私と一緒に歩んできた親友、そして――現在の恋人。

 私が事故に遭ってから、彼女は目に見えて変わった。私に対して同情の目を向けるようになった。世界に対して、絶望したような顔をするようになった。

 私の円香は、そんな弱い存在ではなかったはずなのに。

 私の足が、彼女を壊してしまったらしい。

 私はもう、そんな円香が見ていられなかった。

 そうだ。

 円香は、私にとっての偶像のようなものだった。崇拝の対象。

 あの言葉を借りるのなら、敬愛の対象だ。

 それこそ、円香は私にとっての[[rb:偶像 > アイドル]]だったのだ。その感情は恋ではなかった。「好き」という感情とは異なる。

 そんな風に壊れてなお、彼女は私の偶像であり続けた。いつか、私の敬愛する樋口円香に戻ってくれることを祈った。

 けど、そんな願いが叶わないと知ったのは、彼女の告白を受けた時だ。

 その時、私にとっての円香が完全に歪んだ。崩壊したと表現した方が正しいだろうか。

 だから壊すのだ。その偶像を、歪み切った偶像を、見ていられないほどに歪んでしまった偶像を。

「……透」

 円香は、焦点のあっていない目で私を見据える。急所を一突きにされた円香は、もう長くはなかった。

「好きだよ、透……ごめん、透……」

 それは独白か。それとも、私に向かっての言葉か。

 円香は私に手を伸ばす。後者だったろうか。

 私は、その手を払いのける。円香は目を伏せ――そして、静かに息を引き取った。

「……[[rb:円香 > アイドル]]は、そんなこと言わないよ」

 なんて虚しいのだろう。私の中に残ったのは喪失感だけだった。

 でも、やらなければ、私が私でいられなかったのだと思う。

「あの作品のタイトル、『私が大好きな小説家を殺すまで』……だったっけ」

 それなら、私と樋口の物語は、何と形容するべきだろうか。

「『私が大好きな[[rb:偶像 > アイドル]]を壊すまで』……かな」

 鮮やかな伏線回収というには、少し回収までが早すぎるかもしれない。

 けど、まだ終わりじゃない。

 偶像を壊した私には、罰が必要だった。

 それは、逃げと形容していいのかもしれないけれど。

 私は、机に広がっていたノートに、少しメモをする。そして、円香に刺さった包丁を引き抜いた。

「円香……ごめんね」

 そして――自身の胸に包丁を突き刺した。

「っ……」

 私は、円香という偶像を壊した、背信者だから。

 罪には、罰が必要なんだ。

 

 EX

 

「あれ、円香は?」

 プロデューサーがそう言って、雛菜は時間になっても円香先輩が来てないことに気が付いた。

「へ~? 雛菜何も聞いてないけど~……小糸ちゃんは~?」

「わ、わたしも、何も……どうしたんだろ」

「無断欠席なんて珍しいな……二人はレッスンしててくれ。俺は円香の家に行ってくる」

 プロデューサーは駆けだそうとする。少し胸騒ぎを覚えて、彼を引き留めた。

「あ、ちょっと待ってください」

「どうした?」

「もし、体調が悪いなら、雛菜たちが行くべきだと思うんです~。だから、プロデューサーはいつも通りのことしてていいですよ~」

「そうか? 雛菜がそう言うなら、別に構わないけど……」

「はい。レッスン終わった後、みっちり円香先輩は叱っておきますから~」

「ああ、よろしく」

 そう言って、彼は別の仕事に移っていった。いつもギリギリの仕事をしている彼に、余計な仕事は増やせない。

「……どうしたんだろ」

「円香先輩おっちょこちょいなところあるから~。寝坊じゃない~?」

「だと、いいんだけど……」

 心にざわつきを覚えていたのは、雛菜だけではなかったらしい。

「大丈夫だよ」

 これは、小糸ちゃんに向けて言った言葉で、私に向けての言葉でもあった。

 

 雛菜たちはレッスンが終わった後、一度帰ってから、円香先輩の家に向かった。彼女の暮らすアパートには、車が置ける場所がなかったから。

「円香せんぱ~い」

 祈るように、私はそのインターホンを押す。数秒待つが、反応はない。中で、歩いているような音も聞こえなかった。

 合鍵はあるけれど、許可もないのに使うのは憚られた。開けてしまっていいのだろうか。雛菜は、決定的な何かを見てしまわないだろうかと不安に思っている。

「……どいて、雛菜ちゃん」

「こい――」

 小糸ちゃんは雛菜を押しのけると、彼女の家に合鍵を挿し込んだ。

「逃げちゃダメだよ、雛菜ちゃん」

「……」

 小糸ちゃんは扉を開ける。”ソレ”は、すぐに目に入ってきた。

「「っ……」」

 そこにあったのは、ふたつの遺体。

 衝動だった。雛菜は、ふたつの遺体に駆け寄る。

「円香先輩! 透先輩! どうして、どうして!?」

「……ふたり、とも」

「雛菜たちを心配させるための演出? そんな、包丁まで持ち出して……」

 そんなはずはないと思いながら、雛菜は彼女たちの心臓に耳を当てた。当然、鼓動は聞こえてこない。

「……雛菜ちゃん、これ」

 小糸ちゃんは、机の上を指差した。雛菜はそれを覗き込む。

『浅倉透が、樋口円香を殺しました』

 告発文のようなものだろうか。死体が、自分を告発だなんて、聞いたことないけれど。でもその筆跡は、円香先輩のものじゃない。透先輩の文字だった。

 透先輩の手には、包丁が握られている。

 円香先輩を殺したのち、自分の胸に突き立てた。それが、浅倉透の描いたプラン?

「……ふざけないでくださいよ、透先輩」

「ひななちゃ」

「雛菜たちに何も言わないで、何リタイアしてるんですか! 変なことしてないで、早く戻ってきてください!」

 雛菜が突然出した大声に、小糸ちゃんは一歩退いた。

 でも、

「雛菜ちゃん」

 彼女は雛菜に、強く言を放つ。

「意味、ないよ。そんなこと……」

「わかってるよ小糸ちゃん、わかってる……わかって……」

 雛菜はそこまで言って、耐えられなくて涙を流す。

「うあああああ……円香先輩……透先輩……」

「……透ちゃん、円香ちゃん……」

 小糸ちゃんの姿はもう、涙で像が曖昧だったけれど。

 きっと彼女も、泣いているのだと思う。

 

 ひとしきり泣いた後。雛菜たちは今後のことを考える。

「警察に連絡……だよね」

「そう、だね」

 理由も告げないまま、事実だけを遺して透先輩と円香先輩は死んでしまった。

 それじゃあ、感情の向かう先がないじゃないか。

 なんて、身勝手なんだろう。

「この前、透ちゃんと泊まった時に」

 警察に連絡しようとすると、小糸ちゃんが話し始めた。

「わたしと雛菜ちゃんは付き合わないの? って聞かれたの」

「……なんてひどい軽口」

「そう、なんだけどね。もしかしたら、私たち二人がいなくなっても、二人は仲良くしていてねって……そういうことなのかなって」

「考えすぎだと思うけど……でも、雛菜は四人じゃなくなっても、二人でも。小糸ちゃんとはずっと一緒だよ」

「……うん」

「恋人じゃなくてもね」

「……うん」

 プルルル、という音が鳴って、警察に繋がる。死体があると雛菜は震える声で話した。

「……どうしてこうなっちゃったんだろ~」

「透ちゃんの考えてることなんて、わかんない」

「だよね~」

 涙を目に溜めながら、軽口のようなテンポで話す。現実逃避に近かった。

 雛菜は透先輩の書き遺したその文章に目をやる。

 そこには小さな文字で、「罪には罰を」と書かれていた。

 

 ……それなら、最初から罪なんて犯さないで下さいよ。

 

 EX2

 

 その後のノクチルについて、語る必要はあるだろうか?

 わたしと雛菜ちゃんの二人になったノクチルは、解散することになった。円香先輩が抜けたという事実じゃない。わたしたちには、もうあの四人であったことに拘る理由がなくなったからだ。

 わたしはメディアへの関りを辞め、会社でOLとして働くことになった。雛菜ちゃんはメディアの仕事が肌に合っているらしく、タレントとしてテレビに出ている。

 わたしたちがアイドルを始めた時に、この結末は決まっていたのだろうか。それとも、透ちゃんの事故がなければ、わたしたちはまだ幸せでいられただろうか。

 すべてたらればだけれど、望まずには、願わずにはいられない。

「……壊れてしまった歯車は、二度ともとには戻らない」

 誰に聞かせるでもなく、わたしはひとり呟いた。

 

 



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