ㅤ 作:Trefoil Knot / 試行存在
「エヌ。一つだけ、教えて欲しい」
「何かな。もし、"どうしてABSに参加したのか"とかだったら──もう、手加減はしないよ」
「この世界の名前。考えてみたけど、世界の名前を知ってる人なんて思い当たらない。国の名前でも、星の名前でもなく──世界の名前。知ってこい、と言ったんだ。じゃあ、君は知っているよね」
「君、テストを出してきた教師に答えはなんですか、って問うのかい?」
「考えてみてわからなかったらね。だから、教えてくれるかな、先生」
問う。問いかける。
正直な話、エヌが本気になれば、僕なんか一瞬で細切れだと思う。僕の身体で唯一無敵と言えるのはこの骨の手だけだし、異能である「終わらせない」「停める」なんかはまだ育ち切っていない。何より反応できない速度で来られたら異能も防御もない。
だから、手加減されている。ちゃんと手加減してくれている。
エヌはこっちと話す気があるんだ、って。
刀。エヌの持つ刀。コレは多分、この世界のものじゃない。そんな荒唐無稽な話、自分で出すのもどうかと思うけど……この骨の手に「終わらせ」られないモノなんて、この世界には存在しないはずなんだ。だって、限素には等しく「終わり」が訪れるんだから。
だというのに……その刀身を掴んでも、罅さえ入らないなんて。
そんな物質は、この世界にはあり得ない。いや、目の前にあるんだからあり得はするか。けどこの世界では作り得ないんだ。そんなものは。
前に彼女は言った。
──"私は世界の敵になる"、って。
でも、ABSに入ってやっていることはずっと人類への敵対……人を殺して、人殺しを助けて。あの時エヌが噓を吐いたんじゃないか、って考えたけど、ううん、違うんだって。そう考えた。
「君は世界の敵になると言った。でも、大量殺人が世界への敵対行為になるとは思えない。だから──逆なんだ」
「逆?」
「大量殺人が世界への敵対行為になるとは思えない、っていう、僕の常識が、逆なんだ」
そうだ。
人を殺して「終わらせ」て、あるいは世界の「終わり」を早めて。
それを敵対行為ではない、と認識している僕の方がおかしいんだ。僕には知らない事がある。僕には知らなきゃいけない事がある。それを知らないから──僕はエヌの行為に違和感を覚える。
だから、教えて欲しい。
君が敵対すると言った、この世界の名前を。
「……そうか。正直な話をすると、私は君の事を道化だと思っていた。君と出会った時から──つまり、最初から」
「酷いなぁ。エヌと出会ったのって、……あれ、いつだっけ」
「そもそもがおかしいと思わなかったのかい? 君は18歳。私は16歳。君は大学一年生で、私はまだ高校生なんだ。それがなんで、共に行動している? 君と私は幼馴染ではないし、中学や高校を共にしたわけでもない。そんな奴が、どうしてあのショッピングセンターで君を庇い──ABSに入ったと思う?」
「……」
指摘されて、ようやく気付く。
そんなオカシイ事に何故気付けなかったのか。
簡単だ。そういうことなら、そもそも初めからエヌは。ABSに入った、んじゃなくて──。
「嘘だ。イアン、騙されるな! エヌは嘘を吐いている!」
「っ! ああ、面倒だなその眼!」
「忘れちゃったよ。エヌとの出会い。──ってことは、"終わった"んだね。僕達の周りの、誰かが」
多分、そうなんだ。
その"終わった"誰かが、エヌと僕らを引き合わせたんだ。
知らなかった。忘れていた。それを、そんな簡単な──辻褄が合わない、みたいな風に話を振ってくる、っていうことは。
「答えたくないんだ、この世界の名前」
「私が君の事を道化だと思っているのは本当だよ。──そして」
骨の手にかかる力が軽くなる。
エヌが刀を引いたんだ、と思った時にはもう遅かった。型も何も無い、優雅ささえ忘れてきたような横薙ぎ──ソレが、僕の身体を。
「君への殺意も、本物──ッ!?」
「"停めた"よ。いつもの君のソレだったら見えないけど、そんな大振りな攻撃は流石に見える」
「なら──致命傷じゃなければいいんだろう」
肩口がぱっくり切れた。
構えとか姿勢の変更とか、狙いを定めるとか。
そういう必要動作の一切が見えない斬撃。ほらやっぱり、やろうと思えば簡単に殺せるんだ、僕なんて。
「答えてよ、エヌ。この世界の名前。君が敵になると言ったこの世界の名前!」
「……! この期に及んで、まだ言うのか。もう気付いただろう、私に答える気が無いって! そして、答えなんか言う前に、君を殺すつもりだって事くらい──わかっているだろ!」
「それも嘘だな、エヌ。お前はイアン程度なら難なく殺せる。そんな激昂しなくたって、もっと冷静に在れる。いいや、今でさえ冷静だ。お前はただ──何か事情があって戻るのを拒む少女、を演じているだけだ」
「ビーダ! 遊んでないでコイツも相手してくれ! イアンはどうでもいいけど、コイツは──私の逆鱗を踏み過ぎる!」
「えー!? オジサン歳だから耳聞こえなーい!」
「お前から死ぬか!?」
救助者は一か所に固められている。大吾は本当に凄いな。藍沙とエウリス・ビーダの符術、エヌの剣圧が飛び回って、僕が「終わらせた」床がボロボロな中──やるべきことを全部やりきっちゃうんだ。
流石だ。それに加えてこっちへの加勢までして。
じゃあ僕も、やるべきことをやろう。
早くしないとね。強がってるけど結構痛いんだ。肩口斬られて痛がらない人間はそんなにいないと思う。
「エヌ」
「……なんだよ。私は今すこぶる機嫌が悪い。手加減も出来ずに殺してしまいそうだ」
「わかったよこの世界の名前」
「──へえ?」
これほど拒否するんだ。
ということは、それほど──知られたくない名前なんだろう。僕に知られるとデメリットのある名前で、それが、それこそがエヌの行動理由になっている名前。
「君の名前だ。君の、
首が飛んだ、と思った。
世界が一瞬で真っ白になって、いつの間にか僕は自分の身体を見下ろしていて。
恐ろしい形相のエヌが刀を振り下ろしていて。
思った、じゃないか。
飛んだんだ。首が。事実。
──でも。
「……!?」
「ぅ……げほっ、こふ……ふ、ふぅ……」
「イアン、君、それは……
「あはは、僕もそう思うよ。出来ると思ってなかったし、まさか本当に首を斬られるとは思ってなかった。覚悟が足りなかったね。道化。確かにそうだ」
それは紛れもなく、紛う方なき致命傷だ。
だから僕は──僕を「終わらせない」。生命活動の停止と「終わり」は同義じゃない、なんて小学生でも知っている事だ。だから僕は。
「
「よ、っと」
拾う。ちょっと操作が難しいけど、うん、上手く行った。
それを首のトコに乗せて……あー、くっつきはしないか。じゃあ僕はここまでなのかな。
「エヌ。君の名前を教えてくれ。本当の名前を教えて欲しい」
「……嫌だ」
「じゃあ、やっぱりそれが世界の名前で合っているんだね。ほら、見ての通り僕の命は幾ばくも無い。"停めている"からといって、意識がいつまで続くかはわからない。だから早く教えて欲しい」
「教えた所で、君は世界の全部を知らないだろう」
「知らなくていいよ。僕は僕の知っている世界を"終わらせない"。それだけでいい。元々そんな正義漢じゃないしね。全世界なんてどうでもいいんだ。僕は僕の世界を"終わらせない"。だから、君の名前も知っておかなくちゃいけない」
意識が遠のいていくのを感じる。
生命活動の停止と「終わり」が同義でないのは散々述べたけど、だからこそ「終わらせない」異能は生命活動の停止を止められない。今、この、首から上にある血液が。脳の限素が交換されきったら──オシマイ。その前に世界の「終わり」を止めて、あとはみんなに任せよう。
「わかった。わかったよ。死者への餞は私の国の文化でもある。今から私の本当の名前を言う。……一瞬しか言わない。それで聞き取れなかったら君の負けだ。聞き取れても、君の意識が途切れたらそれで終わりだ。君とすれ違う──その瞬間に。君を細切れにする時に、言う。それが最後のチャンスだ」
「ありがとう」
「君を殺す相手に礼を言うか。ああ……いいよ。ようやく君は、私の癪に障った。あの国の。あの世界の──私を助けようとした奴らを思い出す」
エヌが構えを取る。
居合切り、という奴だ。僕も一応骨の手を前に出すけれど、これは防御じゃなくて。
ただ、差し伸べるように。
「ヒノモトが巫姫、
祈りを捧げるように、目を瞑ったエヌが。
もう、後ろにいた。
縦と横。斜め。入っていく。世界に線が入っていく。
眼球さえも細切れにされたのだろう。ああ、でも。口を残してくれたのは──本当に優しい。
身体は勿論頭蓋……脳さえもグチャグチャになった僕は、ホントは考えるなんてこともできないはずなのに、それを口にする。
聞いた。ちゃんと聞いた。
彼女の名前。
──"
──"停まれ。もうこれ以上、「終わるな」。"
それが。
僕の、最期。
「イアッ……!?」
「イアン君!?」
「おー。なんだ、死んだのかよイアン・エンハード」
刀を鞘に納める音によって、気付いたのだろう。
大吾は見ていたはずなのに気付くのが遅れた。見えなかったから。少し離れた所で符術合戦をしていた父子は。
「あ──」
「悪いね、殺したよ。そして──やっぱりとんだ道化だった。"世界の終わり"はイアン程度の異能で停められる段階にない。そんな事にも気付けず、自分の命をかけて……愚かだね」
「ッ!」
「おっと」
鋭利な槍、だろうか。
真っ黒な符術の結界が、エヌを刺し貫かんと殺到する。一つ一つに込められた
避ける。避ける避ける避ける。恐ろしい数の槍を、エヌはひょいひょいと避ける。
「おや、込められているのは復讐心か? 君、そういう事する娘じゃなかったと思ってたんだけどな」
「うるさい──折角好きになれる相手を見つけたと思ったのに! 殺すとか、奪うとか……許せない」
「何を……ん?」
「っと、オイオイなんだこの負荷──あー! アレだ、イアンの手! 骨の手!」
槍を避けるエヌと追い縋る藍沙。
その様子をつまらなそうに、横槍も入れずに見ていたビーダが、突然かかった圧に場違いな声を上げる。
彼の指差す先。
そこには彼の言う通り、骨の手があった。
それは藍沙の結界をパクって創り出したビーダの結界……体育館を囲う結界の底面にまで落ちていて、そこから「終わり」が広がっている。
「これは、ちょっと不味いか?」
「不味いレベル999! おいエヌ、あの手早く切り刻むか"終わらせろ"! でないと──」
「無理だよ。アレに私の刀効かないし、今は槍を避けるのに手一杯だし」
「"終わる"ぞ! この国の地盤にクソでけェ穴が、いやそれどころじゃねえ、あの手から──この星が終わる!!」
そもそもの話。
骨の手。「終わり」を纏うこの手が、イアンの手首を侵食しない理由には、彼の異能があった。
では骨の手自身はどうだろう。これほどの「終わり」を纏って──これほどの「終わり」に群がられて、どうして「終わらない」のか。元の持ち主である実験体の子供は、何の異能も持っていなかったというのに。
「あーっと、えーと。やべえ、やべェな。ここに来て出たぞ想定外のことに弱いおじさんの本質。俺アドリブマジで嫌いなんだよ!」
「じゃあどうにかしてみるから、君の娘をどうにかしてくれないかな。というかどうなってるんだいこのリソース量。そろそろ千人分くらいの保有量に達しそうなんだが」
「おゥけィそっちの方が幾分楽だ! おい藍沙! こっち向けタコ娘ヌォア!?」
ビーダの元にも出現する黒の槍。翳す手は二つ。大吾、じゃない。
両の手だ。エヌに集中するためか、見ているのはエヌの方だけだが──ビーダにはノールックのまま、その槍を出現させている。
「大吾くん!」
「──ああ、わかった!」
何が分かったのか。
大吾は、救助者を全員纏めて持ち上げ──骨の手によって「終わらせ」られたビーダの結界を抜け、体育館の外に出て行く。
彼の目は心を読む域にまで育っている。だから、わかったのだろう。藍沙が何を求めているのかを。
「へぇ、一人で私達の相手をするってことだ。あの一行の中で一番弱い……いや、一番弱いフリをしていた君が!」
「ちょいちょオジサンに運動させんなって~! つかもう諦めて良いか俺。別にもうやる事ねェしな。諦めて死ぬかこれ。めんどくなってきた」
「構わないよ、ビーダ。娘に殺されて無様な惨殺死体になるといい」
「冷てェなァおい!」
一番弱いフリ。か弱いフリをしていた──最も巨大なリソースを有す、女の子。
陽下藍沙。アイサ・ビーダ。
あらゆる知性体が美味しそうな果実にしか見えない中で、唯一見つけた。
食欲の湧かない──普通っぽい、けどちゃんと意思のある男の子。
唯一好きになれる男の子。唯一食べる気の起きない男の子。
それを、こんな簡単に奪われるなんて。
「──許さない」
私のモノを奪ったお前達を、絶対に。
符術に込められたリソースが、更にどす黒くなったのをエヌとビーダは感じ取った。
さぁ、復讐劇の始まりだ。
その歪んだ独占欲の果てを――。
「こんにちは。御機嫌よう、蒔菜さん」
「こんにちは。お久しぶりですね、アズさん」
仕事場に行く前に会っておきたい相手。
そう。
ヒトヅマである。
「どうぞ、上がっていください」
「あら、それじゃあ遠慮なく」
「そろそろ来る頃合いだと思っていましたので、お茶の準備も出来てます」
「あらあら、まるで未来が読めるみたい」
「ただの勘ですよ」
陽下蒔菜さん。藍沙ちゃんのお母さんで、ビーダの奥さん。
先日私が生き返らせたヒト。人妻。
粗茶ですが、といって出されたお茶。お茶菓子もあって、いやホントに準備の良い事。
「此度は何用ですか……という、無駄な問答はやめておきましょう」
「私は好きなのだけれどね、無駄な問答」
「時間はあまりないので、手短に。藍沙の事ですよね?」
「ええ。彼女について……彼女の持つ異能と、その経緯と。そして──貴女の身に起きた事について」
そう、私がここに来たのはそう言う理由。
ジュニちゃんにも忠告されたし、初めから藍沙ちゃんは何か含みがあったし。それについてをよく知る人物といえば、やっぱりお母さんでしょう。
「まず、私の身に起きた事から話します」
「お願いするわ」
「私は藍沙に記憶を奪われました。研究者としての日々。夫と出会ってからの日々。あの家にコアのみの存在として縛り付けられていた間の日々。それらの記憶を、根こそぎ」
「記憶を奪う異能、ということね。成程、それであの保有量か」
恐ろしい異能だ。
記憶とは、心にリソースを吐き出させるためのフックの一つ。増幅も減少も記憶によって左右されるところが大きい。それを奪うなんて異能は、本来は私達の敵……なんだけど。
異能って、無が出所のはずなのよねぇ。
だから無が与えた……それを与えるに足る運命を持っていた、という事になる。こんな、一般家庭……あ、いや、全然一般家庭じゃないけど、平和な国に生まれた娘さんが。いやまぁ確かに平和な国とは言い難い人死にの多さはしているけれど。そういうことじゃなく。
「貴女はどうしてそれを覚えているのかしら」
「全てバックアップしてありましたから。アズさん、貴方が作ってくださったこの肉体の構成限素は動物的なモノですが、
「……藍沙ちゃんは、人工子宮から?」
「そうなります。研究所は初期段階で"終わって"しまったので他に成功例はいないと思いますが。……そもそも、私達の研究所は"終わり"に対して、他の研究所とはまた違ったアプローチをしていました」
情報を引き出すためにスルーしているけれど、そもそもの蒔菜さんは人間じゃない、というのは。
……妖魔、ということじゃないわね。特殊な方法を用いない限り、妖魔と人間のハーフというのは生まれ得ない。その特殊な方法は私しか知らない。いやまぁ錬金術なんだけど。
そうじゃなくて、そう……動物的な、と言った。
だから。
「成程、貴女はアンドロイドの類、かしら?」
「いえ、デザインベイビーの類です。最大限にまで強化された限素を持つ模倣限素生物。それが私達であり、そんな私達は"終わり"に対し、"終わり"に対抗する異能を持った子供を創り出そうとしていました。異能が遺伝しない事は勿論知っていますが、それでも、と。異能を持つ者達から細胞を集め、培養し……それを私の子宮で産み落とす。それで出来たのが藍沙になります」
「……私、他人のこととやかく言えたコトしてないんだけど、結構不味い領域にまで踏み込んだわね、貴女達」
「はい。だから研究所は突然"終わった"んだと思います。後から夫に聞かされました。異能とは無が与えるものであり、無……この世界の外側で、無限にリソースを貪り食う怪物にとって不都合なモノは消されやすい、と」
「いやまぁそれは間違いではないけど、言い方が……いえ良いのだけど」
ビーダはわかりやすい説明をした方だろう。
あ、ビーダといえば。
「今の話を聞く限り、藍沙ちゃんにビーダの遺伝子は入っていないの?」
「いいえ。流石に異能者達の細胞だけでは無理だったので、ちゃんと結婚、及び性行為はしましたよ。ですが、藍沙を産んだ時点で私には明らかな不調……限素生物を模した体ではありましたが、その機能に飲食や排泄といった動物的な行動の必要はなかったはずなのに、それらを感じるようになったのです。夫はそれを聞いて"人間に近づけたのかもしれねェな"などと言っていましたが、私にはわかりました」
「"終わり"ね。強化された生体の限素組成が弱化されて、人間に近づいた、と」
「恐らくは。寿命の加速、という事なのでしょう。夫のいう事に嘘はないのです。藍沙を産んですぐ、私は死にました。急激に身体能力が低下し、老い、"終わり"……その後は無様にも符術協会に捕獲されたので、貴方の知る通りの末路となります」
成程成程成程。
無にとって不都合な異能の創造。それを限素生物の身で辿り着く、か。
やっぱりいるじゃない。ワズタム以外にも、妄執の果てに至境を掴み得る賢者、というのは、どこにでも。
ま、ホントに賢者なら手出しはしないんだけど。
「それで、藍沙ちゃんはあんなになったのね」
「はい。私達の研究は成功していました。藍沙には異能が宿り──その異能は、他者から記憶を奪う、というもの。奪えば奪う程知識が増え、世界が広がり、あの子の保有するリソース量は凄まじいものになっている。けれどそれはリソースを奪ったから、という事ではなく」
「色んな人の考えを、世界を、無理矢理に自分に詰め込んで……そんなことしたら、グチャグチャになるわ。倫理観も世界観も価値観も恋愛観も人生観も、とにかく色んなモノが、色んな風に見えて……おかしくなってしまう」
そんなの幼子が、いいえ、18の子でも耐えられるわけがない。
世の中にどれだけの人間がいて、どれだけの記憶を有していると思っている。どれほど千差万別で、どれほど有害な思想に満ちていると思っている。
それを奪い、取り込み──自分の諸観念に取り込んで、知識として植え付けて。
そんなコが普通なワケないじゃない。ホント、耄碌したものね、私も。
「……藍沙が私を蘇らせようとした本当の理由がこれです」
「そうか。異能は対象が見えないと使えない。だから、見えるようにしたのね」
「はい。あの子は足繫く私の元に通っていましたが──来るたび来るたび、そのリソース保有量も、そして価値観も、変わって行っていました。そして私の──死者の記憶まで奪い」
「多分だけど、殺人者の記憶も奪っているわね」
「お願いがあります。アズさん」
蒔菜さんは、かしこまって。あらたまって。
頭を下げる。
「藍沙を――止めてください。あの子にもう、誰かの記憶を奪わせないでください。そのためなら」
「殺しても構わない、って? やめてよ、親に子の殺害を頼まれるのは結構堪えるわ。それに、そういう異能なら……私は相性が良いし」
「相性、ですか?」
「ええ。ま、心配しないでいいわ。止めても止めなくても同じだし」
だって、「世界の終わり」はもうすぐそこだ。
記憶を奪う異能。成程確かに厄介だけれど──はてさて、私の記憶には、どうでしょうね。
「うん。聞けたい事は聞けたし、そろそろ私は行くわ。お茶とお茶菓子ご馳走様」
「……アズさん」
「何かしら」
「お元気で。実は私――限界なので」
言って。
蒔菜さんは、消えた。
文字通り――黒白の粒子となって。
「……とっくに限界だったのに、幽霊よろしく未練で留まってたのね。そうか、記憶を奪われた時点で……あの言い分だとかなりの量。もしかしたら全部、かもしれない。倫理観の終わっている藍沙ちゃんなら不思議じゃない。そんな──リソースを生産できなくなった心で、"終わり"を跳ねのけられていたのは……バックアップしていた記憶のおかげ、か。それを今全部出し切って……んもう」
やめてよね、そういうことするの。
私は『箱庭』に、TKに全てを注いだつもりだったのに。
そういう――希望を見せてくるような行為。ホント、やめてほしい。
また人と、出会いたくなってしまうから。
「いた! アズ――助けてくれ!」
「え?」
新居である陽下家を出ようとした――その瞬間。
大吾君が。大吾・ウェイン君が。
窓ガラスを、いつぞやかの世界で創作されていた飛蝗騎乗者よろしく手足をクロスさせた状態で叩き割って入って来た。
そして詰め寄り。
「"世界の終わり"の前に世界が"終わる"──アンタにとっても不本意のはずだ! だから助けてくれ!」
そんなことを言ってきた。