五本指筆頭「中指」のヤムザは生き残りたい 作:他人の不幸
膨大な魔素が肚の中で蜷局を巻く。
内側から溢れ出るように。己を苗床にして何かが生まれ落ちるかのような、抗いようもなく身体が造り変えられていくようなーーそんな膨大な力の渦に呑み込まれて未熟な精神が悲鳴を上げるのが分かった。
先程、咽を通して胎内へと滑り落ちた宝珠がじりじりと熱を孕む。結局、最初からクレイマンは己の事を何一つ、信頼などしていなかったのだと思い知ると絶望が胸を焦がした。所詮は私も、傀儡の中の一つに過ぎなかったのだ。
「あが……ッ!!」
苦しい。ぼこぼこと音を立てて身体が膨張する。痛みよりは熱さに近い衝撃が全身を駆け巡り、のたうち回っていると皮膚から青い鱗が生え始めた。それは瞬く間に全身を覆い尽くし、ある形を形成し始める。大空を泳ぐ怪物。
『
天空の支配者とされ、本能のまま殺戮を繰り返すとされる怪物は正真正銘クレイマンの奥の手だったのだろう。もし任務に失敗しても敵を殲滅出来るように。
ーーふざけるなと、そう思った。
私は使い捨ての駒じゃない。こんな最期を迎える為に忠誠を誓ったんじゃない。私は、こんな惨めな終わりを迎えねばならないのか、と。
抗おうと四肢に力を込める。けれど、力の差は歴然。濁流の中、並みの人間が踏ん張る事すら出来ずに流されていくように。為す術なく己の意識が
私は、最初から仕える主を間違えたのだ。
お前はお人好しが過ぎるから、相手は見極めろよとあれほど言われていたのに。
ーーお人好し?残忍で悪徳を極めたとされるこの、私が?
刹那、脳裏に過った光景にぽかんと口を開けて呆けた。
黒髪黒目の青年が此方を見ている。肩を竦め、早くしろとでも言いたげに。
その姿を自分は知っていた。誰よりも知っていた。お人好しと彼は言うけれど、自分だって頼られたら嫌と言えぬ損な性格をしている癖に。温厚で平和主義者なーー
「さ……」
ーー悟、と考えるよりも先に手を伸ばしながら呟いた言葉は、骨さえも溶かす黒炎に呑まれて消えて。
そして、……ーーそして。
「ーーあがッ!?」
「ヤ、ヤムザ様!?」
急速に浮上した意識についていけず、つい条件反射で身動ぎするとつるりと尻が椅子から滑り落ちた。そのまま受け身も取れずに尾てい骨を強かに打ち付ける。
炸裂する痛み。油断していた所に容赦なく襲い掛かってきた衝撃に身構える暇もなく身体が硬直する。訳も分からないまま取り敢えず顔を上げると其処にはクレイマン配下の五本指筆頭とされる男が寝惚けて転倒するとは思わなかったのだろう、部下が有り得ないものを見たような顔で此方を見ていた。視線が合うと恐ろしい速度で逸らされる。空気が一瞬にして張り詰め、しんと辺りが静まり返った。いや、これは相当恥ずかしい。
「だ、大丈夫ですか……ヤムザ様」
「ばかおま、………!」
醜態を晒し羞恥からか、硬直していた上司に思わずといった様子で声を掛けてきたのは女面鳥身の魔人だった。
豊かな翼は赤褐色。下半身は鳥で茶髪の長髪を一つに束ね、三つ編みにしている。記憶力が良いのと気が利く点を評価し側近に抜擢したばかりの、まだ日の浅い部下であった。
対して焦ったように女を制する男は爬虫類のような鱗を持つ痩軀の魔人。三白眼に縦割れした瞳孔。金色の双眸はぎょろりと蠢き、唇からは二つに裂けた舌が見え隠れしている。白髪を短く切り揃え、強靭な尻尾がバランスを取るようにゆらゆらと揺れていた。
氷結魔剣士の名を冠する彼等の上司は言っちゃ悪いが卑劣で残忍な性格をしている。
傍に置いても役に立つ事から肉壁として採用され、側に侍る事を許された男は上司の機微に敏い魔人だった。故に男は刹那の後に女の首が両断される姿を幻視する。重ねて言うが己の上司は悪逆非道で残虐な性格の持ち主だったので。
せめて往生しろよ。と早々に見捨てる構えを取り、触らぬ神に祟りなしと来る惨劇から意識を逸らすように書類整理に勤しむ男。
血に濡れたカーペットと死体の廃棄。新しい人員の配置など追加された予定に頭を悩ませている男は、故に。
「ああ。ーー問題ない」
何て事ないように差し伸べられた部下の手を取った上司の有り得ない姿に我が目を疑った。なんなら二度見までした。え、誰この人。
何度でも言うが、男の上司「中指」のヤムザは悪徳を極めた下衆野郎である。部下には高圧的な態度で接し、己の腕を過信した傲慢野郎でおまけに屑である。己の失態を目撃した者を生かすなどまず有り得ないし何ならこの前、三分遅刻してきた下っ端を谷底に蹴り落としていた。だから問答無用で瞬殺されると思ったのに。ーーなにこれ天変地異?
動揺の余り明々後日の方向に意識が飛んでいる男を置いて部下の手を借りて姿勢を正したヤムザは先程見た光景を思い出し、続いて自分の居る場所を再確認して更に眉間の皺を深くしていた。元より悪人面とされた顔がより凶悪になる。
傀儡国ジスターヴ。
魔王クレイマンの統治する国。
地を照らす凝ったシャンデリア。ダークレッドのカーペット。壁一面の本棚に、散乱した資料など書類の数々。
壁に立て掛けてあるのは主人から賜った氷結魔剣だろうか。こんな風に無防備にも武器を手放すのは己のテリトリーでのみーーであるならば、考えるまでもない。此処は己の通い慣れた執務室であった。
ーー私は一体、何を見た……?この
「くそ……ッ!」
貫くような痛みが走る。
酩酊したような感覚も未だあり、考えが上手く纏まらない。
二つの記憶の保有。別世界の日本人としての記憶。だが曖昧で虫食い状態だ。嘗ての名前も思い出せぬ。悟と言う名の友が居た事と、今とは正反対な善人だった事くらいしか何も覚えていなかった。
「ぐ、……」
感情がついていけずに頭を抱える。眩暈と吐き気がした。
酷い矛盾感に胸を掻き毟りたくなるような気持ち悪さ。分からないことだらけに、考えなければならない事も沢山ある。
けれども、先程見た光景は何なのかはーー
ユニークスキル『
それは数多に分岐する未来のーー最も辿る可能性の高い未来を予知する能力。『未来視』よりも上位の精度の高い
焦燥感に身体が震えた。何故ならば数々の修羅場を潜ってきた経験が告げている。これは転生直後に獲得していた筈のユニークスキルなのだと。そしてヤムザとして生きてきた記憶が語っている。このスキルは嘘をつかない。私は主に裏切られ、駒の一つとして殺されるのだ、と…!
このままいけば抗いようのない【死】にぶわりと冷や汗が滲み出る。
スキルを経て変化した己のなかの何かが極端に【死】を恐れ、危惧していた。死ぬのは、嫌だ。ーー
「ーーッ!」
反射的に壁に立て掛けた氷結魔剣を掴み取り、おのれクレイマンめと地面に叩きつけようとしてーーぞっと駆け巡った怖気にのろのろと腕を下ろす。
クレイマンの待つスキルーー『
ユニークスキル『
「………ッ、ッ!!」
それだけは嫌だった。虫けらのように殺されたくない。万が一がある限り迂闊な行動は取れない。……取り、たくない。
力尽きたように椅子に腰掛け、腕を組んで沈黙する。
最早、そこに嘗ての「中指」ヤムザの姿はなく。訝しむ部下の目にも明らかな程に彼の中では変化が起こっていた。