俺は世界で唯一人、彼女の横に立つ事を許されない人間だ。
彼女がどんなに頑張っていようとも、
彼女がどんな苦難に直面しようとも、
彼女がどんな偉業を達成しようとも。
俺はそれを決して否定する事はないが、だからといって肯定する事もしてはならなかった。
それをしてしまえば、それこそ彼女が成したことの全てを否定する事になるからだ。
何故そうなのかといえば、答えは簡単だ。
彼女が走り始めるその瞬間、彼女を拒絶したからだ。
自分の元で学び鍛えたいとやってきた彼女をあろうことか、彼女の才覚の無さを理由に拒否した。
はっきり言って、当時の俺は増長していた。
前年度で卒業した担当が結構な成績を残した事で、選り好みが出来る身分だと勘違いをしていたのだ。
選抜レースにおいて、彼女の走りには入学したてにしては確かな技術を持っていた。
彼女は一般家庭の出であり、特にレースクラブ等にも通っていなかったそうだ。
更に言えば誰か個人に師事したのでもないのだとか。
なので選抜レースで見せた走りの技術力は、全て独学で身につけたものだ。
それ自体は大したものだと、それを見抜ける者であれば言うだろう。
しかし身体能力、総合的な速さについて関して言えば、一般のウマ娘と比べればある程度優れてはいるものの、中央のトレセン学園としてはよくいるレベルのものでしか無かった。
そして俺を含めスカウトに来ていたトレーナー陣は、後に黄金世代と呼ばれる程才覚に恵まれたウマ娘達に夢中だった為、彼女に見向きもしなかったのだ。
かく言う自分も才覚を示した(巧妙に隠していた)黄金世代の一人に目を付け口説き落とす事に躍起になっていた。
だから根気良く勧誘し、それが上手くいって漸く一息つけたところにやって来た、ひと目見て黄金世代のウマ娘達より格落ちしていると見受けられる彼女に対して言ってしまったのだ。
「お前に一流、超一流の才能はない」
と。
走る為に生まれてきたような存在であるウマ娘に、走る才能がないなんて最大級の罵倒・侮辱もいいところだ。
言い放った直後に失言だったと悟るも時すでに遅し。
彼女の耳は後ろに引き絞られていて、その眼光は鋭く、拳が握られていた。
その時点で俺は身の危険を感じた。
「俺は元からある才能を伸ばす育成は出来るが、才能が無い子を勝たせるような育て方は出来ないんだ」
思い返せばこれも、育成方針ではなく言い訳でしかなかった。
ウマ娘はただの人間よりも、遥かに優れた身体能力を有している。
例えばその力をもって本気で殺し合いをすれば、成人男性であろうとも死は免れない。
だからトレーナーを目指す事において最初に学ぶのは、ウマ娘の機嫌を著しく損なわせてはいけない、という事だ。
大人数や武器を使った争いなら兎も角、個人規模の諍いにおいては圧倒的強者なのだ、ウマ娘は。
だが人類にとって幸運だったのは、個人差はあるとはいえ、基本的にウマ娘は種族全体で見ると穏やかな傾向にあり、勝負事に熱くなる事はあれど、争いそのものは好まなかった。
だからこそ、そんなウマ娘が我を忘れる程激昂させたとなれば一大事となる。
人間がウマ娘と種族的には仲睦まじい関係を築いてきたのは、様々な利点の他にも我が身可愛さというのも少なからずあるのではないか。
そういう考えが頭の隅に思い浮かべつつ、改めてこの状況を見ると、
……死んだかな、俺。
やはりそう思うのだった。
幾ら身体能力が優れていようとも、その感性は年頃の女の子のそれだ。癇癪でも起こされたらそれで終わりである。
しかし目の前のウマ娘は暫くすると、堪えるように息を吐き、拳を解いた。
「――そんな私じゃトレーナーなんて付かないだろうから、名義だけでも貸してください。他の担当ウマ娘の当てウマに利用してくれても構いませんから。嫌とは言わせませんよ?」
そこから出てきた言葉は予想外が過ぎるものだった。
言い換えれば、一人でトゥインクルシリーズを駆け抜けると宣言したのだ。
その為に俺を利用すると言った上に、逃げ道まで塞いできた。
今この場で思い付いただけではないのだろう。選抜レースからこの時まで幾らか期間があった。一回や二回断られた程度でこの考えに至るとは考えづらい。前々からある程度考えていた筈だ。そこに俺の迂闊な発言があったことでこれ幸いにと実行に移したのだ。
兎に角、俺は彼女の脅迫もとい提案に乗るしか無かった。
この失言一つで、今後のトレセン学園、引いては社会的立場が無くなる可能性が大きいのだから。
「分かった。契約しよう……」
こうして、俺達の微妙な関係は始まったのである。
存外、彼女との関係はビジネスライクというか、波風の立たない静かなものだった。
先の失言をダシにこちらに言う事を聞かせようとする事もなく、基本的にはもう一人の担当のトレーニングに便乗するだけで、傍目からは普通のウマ娘とトレーナーの関係にしか見えないだろう。もう一人の、本命とも言える担当のウマ娘も今の所、多少訝しんではいるが特に何も言ってくることもなかった。
例えばこんなやり取りがあった。
「――という訳だから、今後は暫くフォーム改善とスタミナ作りに注力していこうと思う。じゃあ、今日のミーティングは終わりだ」
「りょうかーい。……っと、ねえねえトレーナーさん」
「うん? どうした?」
「彼女の分はしないの?」
「あ、ああ。えっとそれは……」
「私のはいいの。先に終わらせてるから」
「え、いつの間に?」
「あなたがサボってる時に。それに詳しくはLANEでそれぞれ個別に資料貰ってるでしょ?」
「それはまあ、そうなんだけどさ」
しれっと彼女は言っているが、俺は彼女に資料を送るどころか、作った事すら無い。
つまりはそういう事だ。
打ち合わせした訳でもないのにスラスラと言葉が出る辺り、中々頭の回転が早い。
兎も角、俺との契約の経緯を吹聴するような性格ではないというのは、俺にとってとても助かる話だった。
その後も、ギクシャクした関係ではあるものの、彼女とは上手くやってきたつもりだった。
幸い、と言えるのか、彼女と本命のウマ娘は脚質は違えど距離適性はほぼ同じであり、育成法も流用が効くものだった。
なので俺は本命のウマ娘の良い刺激になると彼女を宛てがい、彼女は現役トレーナーの生の育成法を参考にして自身を鍛えられるという、良好、とは言えなくても悪くない関係を築いた。そう思っていた。
だがそれは盛大な勘違いだと気付いたのは、もう取り返しの付かない時期に至ってからだった。
最初に違和感があったのは、書類や手続き関係以外で初めて彼女が俺に頼ってきた時だった。
「トレーナー、あなたがトレーナーになる為に使った参考書やトレーナー業で使う資料を見せて欲しい」
彼女が言う事に最初は戸惑ったものの、俺は少し舞い上がってしまっていた。
なんせ出会ってから半年程経って、初めて頼られたのだから。
俺はその望みに喜々として叶えた。
別に困る事ではないし、嫌いな相手という訳でもないのだ。半年も一緒にいれば情も沸くというものだ。
だからだろう。こちらに声を掛け、用が済んで離れていくまで、彼女は一度も笑顔を見せなかった事に気付いたくせに無視してしまったのは。
それからまた月日は経ち、才能ある新入生をスカウトしつつ、クラシック本戦が始まった。
皐月賞。俺が育てたウマ娘と育てなかったウマ娘の初の対決でもあった。
対比してみると、彼女達は正反対の見た目をしていることがよく分かる。
彼女は担当と比べると上背もあり肉付きもよく、芦毛と真反対の黒毛を後ろで縛った長髪、同じく勝負服も真逆で、黒をベースに赤色が差し色、フリル等余計な装飾のないノースリーブに長ズボンと言った出で立ちだ。
二人共掛かっている様子もなく、適度な緊張感を持ってゲートに向かっていった。
特に彼女に関しては初のGⅠという事もあり、少し心配していたが杞憂だったようだ。
ファンファーレが響き、レースが始まった。
ここでも彼女達の違いが出た。
担当は逃げ、対し彼女は差しで脚質的には先行も適性ありといった所。
レース自体は担当の作戦勝ちだった。
徹底した幻惑逃げを駆使して、他のライバル達を振り切って勝利を飾った。
それに比べ、彼女は九着と凡走となってしまった。
途中までは悪くなかったが、作戦ミスか地力の差が出たか、最後まで届くことはなかったのである。
残酷な事かもしれないがこんなものだろうと、ある意味安心した。やはり俺の観察眼は間違いではなかったのだ、と。
また時は進んで、菊花賞の決着と共にクラシック戦線が終わった後。
俺は担当であるクラシック戦線を走り切った二冠馬ウマ娘に迫られていた。
「ねえねえトレーナーさんや、そろそろいい加減教えてくれても良いんじゃないかなー?」
最初はなんでもない風を装っていたが。
「彼女の事だよ。二人して何か隠してる、というより仲が悪いよね?」
「…………」
正直、痛い所を突いてきたなと思うと同時に、とうとう来たかとも思った。
それも当然な話ではある。今まで散々ギクシャクした仲を見せてきたのだから。
それにどうやら夏合宿中に何かあったらしく、彼女の事を気にする様子が多くなっていた。
「あまり、言いたくはないんだけどな」
仕方ないので正直に話した。それはもう最初の暴言も含めて。
そうしたら、
「トレーナーさん、それは無い。無さすぎ。よく殺されなかったね? あとこれ絶対他で言ったら駄目だよ? 私だから蹴られてないだけで他のウマ娘だったら確実に蹴り飛ばされるよ」
と言われ小一時間ほど説教を受けた。当たり前である。なので愚か者のそしりは甘んじで受け入れた。
「それで、ちゃんと謝ったんです?」
「いや、それが……」
「は? まだ? 本気で馬鹿なんじゃないですか!? 早く謝った方がいいですよ!」
「それは、そうなんだが」
「仕方ないなー、一肌脱いであげますよ」
という訳で、そういう事になった。
この日はもう時間が遅いので無理という事になり、次の日の放課後にそれは実行に移された。
「なあ、少し良いか?」
「なんですか?」
軽めのトレーニングの後、愛バに二人目の担当を早めに切り上げさせて、彼女と二人っきりになったチームルームにて。
ウマ娘達がトレーニングに励む喧噪がどこか遠くに感じる中、俺は意を決して謝罪を口にする。
「あのさ、あの時の事、そして今までの事、本当にすまなかった」
頭を下げて放った言葉を受け、彼女は目を見開いて硬直した。
無理もない話だ。いきなりこんなことを言われたら動揺もすると思う。
「急だし、今更かもしれないが、これまでのような中途半端な関係じゃなく俺とい――」
最後まで、言わせて貰えなかった。
彼女に胸ぐらを掴まれた俺は、そのまま強い衝撃と共に壁に押し付けられ締め上げられた。
「――ぐっ、な、なにを」
「今更ッ! 今更そんな事を言うの!? あの時私を全否定したあなたがッ!!」
脚が浮く。時に自動車すら持ち上げるウマ娘の力なら容易い事だ。しかしそんな事は今問題ではない。
「私が、どんな想いで今までやってきたと思ってるんだ! 今の私はあの否定から始まってるんだ。それを言った本人が謝罪一つでなかったことにする気!? 舐めるのも大概にしろ!」
激昂。正に激昂という言葉が似合う有様だった。
いつもは静かな彼女が、ここまで感情を露にするのを見るのは初めての事だ。
そして漸く気付いたのだ。自分がとうの昔に取り返しのつかない事をしていたと。
彼女は怒りに満ちていた。ただ、その瞳だけが泣きそうな程揺れていることを除いて。
暫く、そのままの体勢が続いたが、徐々に彼女の力が抜けていく。
「どうして、どうしてもっと早く言ってくれなかったんですか。もう一年早ければそのまま受け入れられたのに……」
「ゲホッ。一、年……?」
「私が今の私になると覚悟したのが、それくらいなんですよ」
手を離した彼女はそのまま俯き、力なく心情を零す。
「……私の戦績、覚えてますか? 特に勝利数」
「ああ、デビュー戦の一勝だけ、だったな」
「今まであれだけ走ってもそんなものです。ええ、才能が無いなんて初めから知ってましたよ」
彼女は吐き捨てるように言う。
「ついでに言えば運もありませんでした。知らないでしょ、あなたに声をかける前にどれだけ断られたかなんて」
こちらが知る由もない、彼女だけが知る事だ。それも分かってはいるのだろう。それでも言わずにはいられないのだと思う。
今、俯く彼女がどんな表情をしているか伺う事はできない。
悲しいのか、悔しいのか、辛いのか、俺はそれを知る資格すらない。
「それでも、GⅠに出走できる程強くなったじゃないか」
「それをあなたが私に言うなんて、馬鹿馬鹿しいとしか思えませんよ。まあ、そんな事はどうでもいいです。それよりも、私と同じか、より戦績の悪いウマ娘ってどうなると思います?」
「……その後の進路は兎も角、大抵はリタイアしてレースから離れるな」
「ええ、私はそんな彼女達の後ろ姿を何度も見てきた。何度も何度も。そしていつしか思ったんです。彼女達の分も走ろうって。同じ負け犬を代表して、誰にも文句を言わせない勝利を掴んでやるって」
それが、彼女の走る理由になった。他にもあるだろうが、それが大部分を占めたのだ。
「私は負け犬のまま走ると決めたんです。だから直接あなたの手は借りない。借りるものか。借りて、たまるもんか」
「すま……いや、分かった。それなら、気が済むまで好きにすると良い」
「ええ、そのつもりです。あなたは黙って見てろ」
そう言って、彼女は部屋をあとにした。
俺はというと、扉が閉まると同時に壁に背を預けながらへたり込んでしまった。
俺は彼女の覚悟を全く理解していなかったらしい。
当たり前だ。今まで近くにいたくせに、彼女を見ようともしていなかったのだから。
「大の大人が情けない」
ただ、それだけの事だった。
初手で特大の地雷を盛大に踏み抜いて二度踏みまでするトレーナーの図。
負け犬ちゃん、根性賢さなど精神面や頭脳面に補正がある感じ。
だから他のステータス(肉体面)を集中して鍛えられる、とも。