虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会に所属する上原歩夢と高咲侑の幼馴染、天野進一は舞台美術に情熱を注ぎながら歩夢のライブステージを作りたいと夢を抱えていた。
 しかし違う学校に通っているため、夏休みの最中でも部活のある朝だけ顔を合わして別々の登校ルートを辿るのみ。

 ところが部活が終わった頃に、彼のスマートフォンに歩夢からのメッセージが届く。
 ライブの相談がしたい、という一文で淡い期待を胸に、進一は彼女の下へ急行する。

 ――途切れた物語が、ゆっくりと走っていく。もう一度、その先を進むために。

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青春はまだ終わらない

 白い雲が漂う青空を背景に、蝉の鳴き声が物語を盛り立てる季節。空気が焼き焦げていない朝方、ワイシャツと黒い学生ズボンに身を包んだ青髪の青年が、音の辻褄(つじつま)が合わない鼻歌を奏でつつマンションの出入り口から姿を現す。容赦なく照りつける日差しがない上に、風が適度に吹き抜けているため、いつまでも拭えないような暑さも軽減されている。

 

 いつも通りであれば、きっと――青年は階段下に目を向けると、付近に薄紅色の髪が印象的な少女が誰かを待っているように(たたず)んでいた。クリーム色のベストと水色のブラウス、白のチェック柄が映えるグレーのスカートという制服姿でいることから、彼女もまたこれから学校に行くということが分かる。今日も練習なのかと見当をつけながら、青年は淡々と階段を降りていった。

 

 スニーカーの底で踏板(ふみいた)を鳴らす音から彼が近づいたことに気づき、少女はにこやかに笑って挨拶をする。「おはよう、進一くん」彼女が見上げた先にいる青年――天野(あまの)進一(しんいち)も元気よく返し、「(ゆう)は?」とまだこの場にいない幼馴染の名前を口にした。

「まだみたい」目の前にいる薄紅色の髪が目を()く幼馴染――上原(うえはら)歩夢(あゆむ)は緩やかに首を振って示す。小学校の時から侑という少女が一番最後にやってくることだけは、高校生になった今も変わらない日常。そして進一、歩夢、侑という三人の幼馴染という関係性が唯一繋ぎ止めている象徴でもあった。

 

「あいつ、いっつも待たせやがって」

 

 呆れたように嘆息(たんそく)を吐くと、進一は先程までいた出入り口の方へ視線を移し悪態をつく。もう少しで来るはずだからと、苦笑いする歩夢の顔が傍目(はため)で見えるが、彼の(うち)ではただ自分達を待たせている苛立(いらだ)ちだけがある訳ではない。というよりも、歩夢を待たせていることに立腹(りっぷく)しているのであって、自分自身のことは勘定(かんじょう)に入れていないのだ。

 

 通っている学校が違うだけではなく、通学に使う手段も異なる。お台場方面にある虹ヶ咲学園へ向かう彼女たちは、バスで登校しているため、時間はあまり贅沢に使えない。だから、歩夢を待たせるのはどうなのかと、苦々しい表情を浮かべる。

 

 ――と、ここまでは真っ当なことを考えているが、本音は歩夢が悪い男に声をかけられないか心配なだけ。幼い頃から彼女は可愛い、とにかく可愛いと心底から思っている進一にとっては、歩夢が一人でいるところが怖くて仕方がない。人一倍心優しくて誰にも温厚に接する歩夢のことが好きすぎるがあまり、もはや父親のような心持ちになってしまっているが、当の本人からすればどうでもいいこと。

 

 過保護だろうが、何だろうがもう一人の幼馴染が来るまでは、ずっと彼女の(そば)にいるつもり。たまに遅刻しないのかと問われても、バイクを飛ばしていけば問題ないと言い張る。可愛い歩夢を一人にすることが何よりも堪えられないことなのだから。

 

「お待たせ!」

 

 毛先が緑に染まった黒髪を二つに結んだ少女が、軽快に勢いよく階段を降りていく。制服をキッチリと着こなしている歩夢と違い、ベストを着用しない代わりにブラウスの裾を出し、黒のニーハイソックスという組み合わせで活発そうな印象を与えていた。浮かべている笑顔も発した声も元気がいいもので、基本的に落ち着いている歩夢とは正反対。

 

「おせぇぞ!」

 

 駆け下りてくるもう一人の幼馴染――高咲(たかさき)(ゆう)に進一はしかめっ面でたしなめる。「ごめんってば!」申し訳なさそうに笑ったかと思えば、侑の緑瞳(りょくとう)からは殺意のような視線が彼の赤い双眸(そうぼう)を突き刺す。

 

 歩夢に手を出していないよね。出す訳がないだろ、むしろ歩夢を守ってたんだ。

 

 アイコンタクトだけで交わされる会話は、歩夢には全く意図が通じない。いや、二人がそんな会話をしていることさえ知らないし、気づいてもいないのだ。ただ不思議そうに彼らの様子を見守っているのみ。

 

 ただ彼らは互いを嫌っている訳ではない。歩夢のことが好きすぎるという一点のみが濃く重なったが故に、けん制し合うように火花を散らしているだけ。けれど歩夢という可愛い幼馴染を守るという意味では、お互いの長所を認めて協力関係を築き上げているのだ。

 

 音のない熾烈(しれつ)鍔迫(つばぜ)り合いが続くように思われたが、つと進一は左腕につけている腕時計を見やる。時計の針は、もう少ししたらバスが到着するだろうという時刻を示す。「そろそろ行こうぜ」歩夢が遅刻しないように、あっさりと切り上げて、進一は自分が使うバイクを置いている駐輪場へ歩き始めていく。

 

「今日もバイク、なんだよね?」歩夢の(かたわ)らを通り過ぎる間際、彼女に声をかけられ足を止める。そして肩越しに顔を向けると、おうと頷いて反応し、「お前らはバスだろ?」と問いかけた。

 こくりと歩夢が首を振ったところで、「早くしないと乗り遅れるぞ」と一声かけて進一は愛車を取りに行こうとしたが、背後からあっけらかんとした声が届く。

「大丈夫」後ろを見なくても楽観的に言ってのける人物は一人しかいない。「最悪、進一に乗せていってもらうから」

 

「バイクは三人乗りできねえし、まだ二人乗りもできねえよ!」

 

 振り返ると同時に強勢(きょうせい)にツッコミを入れ、進一は侑を睥睨(へいげい)する。免許を取ってからもうすぐ一年を迎えようとしているが、この夏を越えてからではないと誰かを後ろに乗せることはできない。そのことを何度も聞かされたからか、侑は「分かってるよ!」と笑いつつ真っ直ぐバス停の方へ向かっていく。

 

 彼女の隣に歩いている歩夢も「進一くんも運転気をつけてね」と言って手を振ると、進一に背を向ける。二人の幼馴染が遠のく姿を見送り、ようやく進一の足は愛車を停めている駐輪場へ(おもむ)き始めた。

 

 中学校を卒業するまでは一緒に登校していた日々、けれど高校から別々の学校へ進学した上に、通学路も正反対。おまけに歩夢と侑はバスに対し、進一はバイクで通っているから共に過ごす時間は減る一方だ。

 

 分かっていたことだが、少しだけもの寂しさがある。さらに、今年の夏からスクールアイドル同好会という部活に所属した二人の楽しそうな表情を見る度に、また距離が遠くなったような気がした。それは仕方のないことであり、彼女たちや自分には追いかけたい夢があるのだから、いつまでも同じ道を進むという訳にはいかないだろう。

 

 けれど、せめて一緒にスクールアイドルのライブを作ることができたら――という気持ちは“わがまま”だから胸の内にしまっておく。賑々しくしながら協力して作品を制作するのも、幼い頃でもうおしまいだ。

 

 駐輪場に辿り着くと、迷いなく愛車が停まっているところへ。駐車している場所からバイクを移動し、進一はリュックの外側にある大型ポケットにしまっているフルフェイスのヘルメットを取り出して被る。

 そしてシートに跨ってエンジンを作動させ、ギアを一速に入れてエンジンの回転数を上げて、バイクをゆっくりと発進。ゲートを通り抜けて道路へ出ると緩やかに速度を上げていく――賑やかなあどけない思い出を置いていくかのように。

 

 

 

 

 学校に到着すると、進一はバイクを駐輪場に置いて、校舎内にある部室へ。夏休み期間のため、校内に生徒や教師はあまりおらず、廊下も教室も蒸し暑いまま。グラウンドからは野球部やサッカー部の活気溢れる声が、蝉の鳴き声と共に賑々しい夏の様相を盛り立てる。

 

 軽やかな足取りで部室の前まで辿り着くと、何の迷いもなく扉を開く。目の前に映るのは、絵具で汚れた床や机、適当に並べられた彫刻像、そして自由に創作している部員。進一が所属している部活、美術部は今日も冷房があまり効かない美術室で黙々と活動をしていた。

 

 進一が挨拶して入室すると、反応できるメンバーだけで返事をして、後は自分の世界に。部長と一つ二つ言葉を交わして、彼も適当な席に着いてリュックの中にあるスケッチブックを取り出す。ぱらり、ぱらりとページをめくると、多種多様なステージのイメージスケッチがいくつか描画されていた。

 

 元々演劇部で舞台美術を専門にしようと思っていたが、美術部で様々な作品に触れて作るのも楽しいと感じて兼部するように。覿面にある絵は、全て彼が想像して描き出したもの――その中には演劇部に使われたものもある。

 けれど、本当は演劇でだけでなく、もっと広く舞台に関わりたい。例えば、スクールアイドルのライブ――歩夢がスクールアイドルを始めたと聞いて、真っ先に花開くステージが思い浮かんで描いたものの、紙の中から未だに出番はないまま。正直に言えば、歩夢のステージを作ってみたいと思っていたのに、他校の生徒である自分が関わっていいのか分からなかった。

 

 もやもやとした心模様になったのは、夢の輪郭(りんかく)がはっきりしているから。幼い頃に、地面に描いた大きな花のステージを、花が似合う可愛らしい幼馴染に素敵だと笑顔で言ってもらった。だから、いつか彼女のステージを作りたいと。

 

 しかし、軽率に他校の学生が参加していいような気がしなくて、頭を抱えているのだ。気がつけば、二年の夏休みも終わろうとしているというのに。夏を過ぎれば、互いが進みたい方向へ歩いてしまうから、離れていく現実が嫌でも目に入る。

 いくら悩んでも仕方のないことだと、進一は軽く嘆息(たんそく)を吐いた後、スマートフォンを取り出してワイヤレスイヤホンを耳に装着。動画サイトに公開されているスクールアイドルのライブを流し、彼女らの挙動や演出に注視していく。どんな仕組みを持つ舞台なら、どんな演出をしやすいステージならあの子達は輝くのだろうかと思いながら。

 

 後ろで、またスクールアイドルの動画を見ていると言われても、気にしない。部長や他の生徒に話しかけられても、穏和な対応で見ている理由を話す。演劇部にも役立つかもしれない、と。

 嘘は言っていないが、思考の優先順位度が違う。たまに次の公演の際に使いたいと思った道具や演出はあれど、ほとんどはライブのためのもの。

 

 つと思い出すのは、虹ヶ咲学園と藤黄学園の合同演劇祭で主演を務めた少女の歌劇。彼女もスクールアイドルだと聞いていたが、演劇と上手く噛み合わせて歌い切ったのは、感嘆した覚えがある。こちらの演劇部もそんな風にできたら面白そうだが、当分ないだろうなと役者を中心としているメンバーの顔を浮かべてアイディアを奥にしまった。

 

 一通りライブを見終わったら、ペンケースから鉛筆を取り出してまっさらなページに建物のようなものを描き出す。もちろん描き起こしているのは、スクールアイドルのステージ。

 演劇だけではなく、他の舞台にもイメージを膨らませて描くのは、やはり楽しい。全く調律が取れていない鼻歌を流していることさえ忘れるぐらいには、描きたい世界に没頭していた。

 

 大部分が完成したところで一旦筆を休める。その頃には演劇部の大道具や小道具担当のメンバーも美術室に顔を出しており、美術部としてはなく演劇部として活動もし始めていく。

 演劇部の部員数はお台場随一(ずいいち)の生徒数を誇る虹ヶ咲学園よりは劣る上に、完全分業ができるほどの人数がいる訳でもない。しかし、全員が兼業するという少なさはなく、何人かはどちらかを専業としている。進一は舞台のイメージスケッチができる上に、大道具から小道具、衣装まで作れるぐらいに手先が器用であることからほぼ裏方のみ。

 

 とは言っても、役者として演じることを捨てたことはない。もし演じてみたいという役があれば、オーディションに参加し、掴み取ることだってある。ただこの舞台の土台や道具を作りたい欲求に駆られることが多いため、機会は少なくなる一方。

 けれど、演劇関連で思い悩むことは滅多にない。自分がしたいことを存分にできている上で、仲間と一緒に舞台を作り上げているから。

 だからこそ、侑達と共に歩夢のステージを作ることができないのが歯がゆく、心中は曇天一色だった。

 

 

 

 

 空が橙色に変わった頃、どちらの部活も終わったところで進一はスマートフォンを取り出し、チャットアプリを開く。部活やクラス、仲の友人らで組んだ様々なグループチャットの他に、個人でやりとりしている人間のユーザー名が画面表示される。その中で気になったのは、歩夢からの新規メッセージ。

 

 タップして彼女との個別チャット画面に切り替えると、ライブの相談がしたいから今から家に遊びに行ってもいいかという質問が映し出されていた。何度字を追っても、今から歩夢が家に来るということが書かれていることに驚いて、慌ててスマートフォンを落としそうになるぐらい夢ではないかと錯覚(さっかく)してしまう。

 

 当然、夢ではない。そしてガラスも割れることはなかった。

 

 来ても大丈夫、と意気揚々(いきようよう)に進一の足取りは軽やかだったのは言う間でもなく、奇妙なリズムで刻んだステップで歩きながらバイクを置いている駐輪場へと向かう。もしかしたら、彼女のステージ作りに関わることができるかもしれないという淡い期待を胸に秘めながら。

 

 

 

 

 バスで帰宅している最中、彼の返信を歩夢は可愛らしいケースに収められたスマートフォンの画面で眺める。スタンプではなく、簡潔に文章で打ち返しているのが、真面目な幼馴染らしいと思うと笑みが(こぼ)れた。

 

 つと窓の外を見ると、雲が少しだけ厚いものの、薄いピンク色の空が広がっていく。まだ夕日は落ちそうにない。

 

 思い返されるのは、三人一緒に公園で遅くまで遊んでいた幼い頃のこと。活発な二人に振り回されることは多かった上に、比較的運動は得意ではなかったから、ついていくのは大変だった。けれど侑と進一は自分のことをちゃんと気にかけてくれたし、無理をさせるようなことは全くなかった――むしろ転んで膝を擦りむいたぐらいで動揺しつつも手厚い保護を受けていたような気がする。

 と言っても、大きく取り乱したのは進一だけだったが。分かりやすいぐらい慌てる彼がいたおかげか、歩夢が痛みで泣くことはなかった。何せ、泣くタイミングがなくなるぐらい、なだめなければいけなかったから。

 

 今となっては懐かしく、微笑ましい思い出。だが、その先は何もない。

 中学三年生の時、彼の口から自分達と違う学校を進学希望にしていたことを告げられ、当たり前だと思っていた日常があっけなく崩壊。そして高校生になった今は、別々の通学路を歩くのが当たり前になってしまった。さらには侑までもが音楽科に転科すると来たものだから、ますます幼馴染としての距離は遠くなる。

 

 この先はきっともっと離れていくなるだろう。けれど、何も交わさずに疎遠(そえん)になってしまうことほど、寂しいものはない。

 

 スマートフォンを胸に抱いて、力強く握りしめながら改めて夕焼け空を見る。紺色が少しずつ侵食しているが、それでも空は焼かれていた。

 燃えるような夕暮れを目に映す歩夢の(うち)に決意の炎が揺らめく。今だからこそ、一緒にステージを作ることができるはず――まだ夏は、終わっていない。

 

 

 

 

 約束した相手を待たせないように、バイクを走らせて帰宅した進一は駐輪場に愛車を止めると、大急ぎでマンションへ向かう。建物の出入り口前にある大きな階段の近くに、ピンクの髪と可憐な(たたず)まいが印象的な幼馴染の姿があった。けれど、いつも隣にいる少し小柄な少女がいない。

 

 疑問も頭の片隅に置きつつ、進一は息を切らせながらも、待たせたなと謝罪を口にする。首を横に振って、歩夢は待っていないという意を示すと、大丈夫なのかという心配の声をかけた。

 

 胸中では彼女の優しさが染み渡って感情が爆発しそうになるが、何事もなかったかのように装って平気だと気丈に言う。今から好意を向けている相手が自分の家に上がってくるのだから、背筋は伸ばさないと。

 

 彼の心中を知ってか知らずか、歩夢は良かったと安堵(あんど)の言葉を吐きつつ柔らかい笑顔を浮かべた。どこか苦味を混ざって見えたのは、進一の言動が困惑させるものだったのか。それとも他に原因があるのかは、進一には見当がつかない。

 代わりに、ずっと不思議に思っていたことを(たず)ねる。侑は一緒じゃなかったのかと。同じ学校で同じ同好会にいるものだから、二人並んで帰ってくるというのが当たり前だったような。

 

 すると、歩夢は芯の通った声で転科の手続きをしていると告げた。ああ、なるほどと進一は頷いて納得する。スクールアイドルフェスティバルという大きなイベントを開催した後、音楽科への転科試験を受けて合格したという話を侑本人から聞いたことを思い出す。

 

 初めて聞いた時は、合格発表直後だったから水くさいと何度言ったことか。一応幼馴染の間柄(あいだがら)という理由もあったが、何よりも夢を追いかけていく彼女も応援したかった。だから、転科試験を受けたという話を耳にしても、その背中を押すことに躊躇(ためら)いはなかったのだ。

 

 夏が終われば、また遠くなる。蝉の声が少しずつ弱くなっていく中、進一は一抹(いちまつ)の寂しさを抱えたまま歩夢をエスコートして階段を上っていく。分かっている、これが大人になるということを――せめて、去りゆく季節に一瞬で永遠の思い出が作れれば、と密かに願いを込めて。

 

 

 

 

 進一に連れられるまま歩夢は彼の家に着くと、玄関に入ってすぐに自室に待つように言われて部屋へ通される。青を基調とした色使いながらも、様々な色が転がっていた。書籍や雑誌が乱雑に積み上げられた床上、適当に脱ぎ捨てられた部屋着が置かれているベッド、机の上も参考書やアイディアをまとめた付箋だらけで整理整頓ができているとは言い難い。

 

 昔からものを片付けられないところは相変わらずだと苦笑いを零しつつ、手に持っていたスクールバッグを床に置き、少しだけ書籍類の山を崩して通路ができるように整理し直す。本棚に収納されている書籍や雑誌の列が所々抜けているのは、カーペットの上に置かれているからだろう。なるべく全て収まるように本棚にしまい、足元に積まれていた山は低くなるないし、なくなっていた。

 

 つと机の上に目をやると、散らかっている本の合間に何かしらの絵が描かれた紙一枚が見えた。少し好奇心に駆られ、(うずたか)く積まれた参考書の山を崩落しないようにズラし、埋もれた絵を発掘する。

 

 可愛らしい花があちらこちらにステージ上で咲き誇り、風に運ばれた花びら達が舞う。センターポジジョンには見覚えのある姿――自分が衣装に身を包んで踊っている様子が描かれ、手元でライブしているような躍動(やくどう)感が溢れて、今にも自分の歌声が聞こえてくるような気がした。

 

 ああ、今も昔も絵が上手だなと思いつつ、幼い頃から言っていた舞台美術デザイナーの夢を追いかけ続けているのだと知って穏和に微笑む。と同時に甦る小さい時の心覚え――彼が地面に描いた大きな花が目を()くステージを見て、心の底から感動したのを。今と比べて全く形になっていない、舞台とはかけ離れたものだったが、そのステージが綺麗で可愛らしくて胸が高鳴ったのを忘れていない。

 

 彼の想いがたくさん込められたステージに立って歌いたい――一緒に夢を叶えたいという気持ちがまた心の温度を上げていく。ちゃんと想いを伝えなきゃ、花が枯れてしまう前に。

 

 決意を新たにしたところで、両手でお盆を持った進一が器用にドアを開けて入ってくる。そして歩夢が机の前にいることや机上(きじょう)の参考書が動かされていたことに気づき、穏やかな語勢で何を見たのかと問いかけた。

 

 勝手に物を動かしたことや絵を見たことを謝り、歩夢は改めてイメージイラストを眺めていたことを話す。昔、地面に描かれた大きな花のステージを思い出したということも含めて。罪悪感もあるが、これから想いを口にするという緊張感で体が強張って発する言葉に力がない。

 

 どこかおぼつかない歩夢の返答に、進一は少しだけ目を見開いて驚嘆(きょうたん)の表情を浮かべた。やがて快活に笑い飛ばして、参考書が移動されたことや絵を見られたことを許し、思い出話を広げる。確かに昔描いていたものを描き直したのだと、懐かしむかのように赤紅の双眸(そうぼう)を細めていきながら。

 

 やはりあの時の――鼓動が一瞬だけ力強く脈打ち、すとんと腑に落ちた。ことさら彼が思い描いたステージでライブしたくなり、左手が自然と拳を握り始める。たったの一歩だけでもいい、踏み出せ。「わ、私、進一くんの作ったステージに立ちたい」

「へ?」突然のことで、今度は目を丸くしてしまった進一。信じ難いことが聞こえたような様子で、そこから答えが出てこない。

 

 一つ息を吐いて、本音が伝わるように歩夢はもう一度言う。「私ね、進一くんの想いが込められたステージでライブがしたいの」柔和な金糸雀(かなりあ)色の瞳は真剣な眼差しで、彼の驚嘆(きょうたん)している様を映す。急ぎすぎているかもしれない、けれど伝えたいことは伝えたい――動き出したら止めてはいけないのだから。

 

「ごめん、それはできない」

 

 数拍置いて返ってきた言葉は不承だった。「いつライブをやるかは分からねぇけど、今描いても組み立てるのには間に合わねえかな」伏し目がちで申し訳なさそうに進一は告げる。どこか踏み出せない様子で迷っているようにも見えたが、断られた歩夢は「そっか……ごめんね」と素直に引き下がった。

 

 一緒にライブを作っていきたいという自分のわがままを押し通すわけにはいかない。だから、眉尻を下げて笑って謝罪の句を述べるしかなかった。それ以上は無理を強いることになり、どちらとも気持ちがいいものにならないのが目に見えている。

 

「いや俺の方も悪かった」と進一が言ったきり、二人の間に沈黙が流れていく。重くのしかかるような気まずい雰囲気の中、ただ彼女らは押し黙るだけ。「ジュース飲むか? 一応冷えてあるけど」しばらくして進一が口を開くが、やはり空気は軽くならなかった。

 

「ううん、大丈夫」

 

 緩慢とした動きで首を横に振り、歩夢は断る。「あんまり長居しちゃいけないから、帰るね」浅慮(せんりょ)だった自分へ忸怩(じくじ)たる思いが込み上げてきて胸が苦しくなっていくが、笑って誤魔化す。誰もが同じ方向を見ているわけではないことを、今さら深く思い知りながら。

 

「お、おう」相変わらず要領を掴めないでいる進一は戸惑い気味に頷き、「家まで送ろうか?」と提案した。互いがぎこちない挙動で互いの様相を(うかが)っているからか、円滑だった会話も滞る。

 

「すぐ隣だから大丈夫だよ」

 

 彼の家に来訪して帰る度に言われる言葉に、心中では少しばかり安堵(あんど)して歩夢の笑顔はわずかに柔らかくなっていく。彼女が住んでいる部屋の両隣に侑と進一らが住んでおり、用があればベランダに出て談笑することもある。それぐらい距離が近いのだから言わなくてもいいのに、といつものなら思うのだが、今回ばかりはその言葉に救われた気がした。

 

 床に置いていたスクールバッグを肩にかけると、進一が進路を確保しており、彼にお礼を言ってから立ち去る。そして彼の母親にも挨拶をして、玄関を出た。何となく空が暗く感じたのは、きっと気のせい。

 

 一方、ぼんやりと歩夢を見送った進一は、今のがライブについての相談だったのと気付いて愕然(がくぜん)とする。そして自分が口にした言葉へ後悔するしかなかった。何で、想いを正直に伝えなかったんだと。

 

 

 

 

『……で、歩夢の誘いを断ったんだ』

 

 スマートフォンのスピーカーから侑の声が耳に届く。口調こそ穏和ながらも、そこはかとなく真剣さが混ざっているが故の静かな迫力がひしひしと伝わる。非があるとすれば、こちらにあるのだから致し方なしと言えば、その通りだが。

 

 歩夢が帰った後、しばらくして侑に電話をかけた進一は先程までの事情を話し、改めて頭を抱える。「正直、やらかしたと思ってる」どうして判断を誤ってしまったのか、思い出すだけでも後悔のあまりに絶叫しそうな気持ちに駆られていく。けれど、もう夜中だということもあり、自制して乱れる心を抑えるように机に顔を押しつけた。

 

 誘ってくれた時、物凄く嬉しかったのは確か。だが、他校の自分が関わっていいのか分からないという迷いが、ここぞとばかりに出てしまって気がつけば不承していた。本当は誰よりも関わりたかったのに。

 

『やらかしたって問題じゃないね、これは』

 

 彼女の冷静な声音が聞こえてくる度に、余計に自分が取った行動が悔やまれるものだと歯噛みするしかない。断る理由は、ないに等しいのに。だからこそ、悶々(もんもん)とした気持ちが(うち)に広がって、何も見えなくなっていく。

 

「マジで断らなきゃよかったー!」

 

 心の曇天を無理やり晴らすために少し声量を大きくしてみるが、やはり後悔ですぐに埋まる。「けど、今から描くっつても間に合いそうにねえんだよな」言い訳としか形容できない言葉を吐き出し、歩夢が見ていたステージのイメージスケッチを一瞥(いちべつ)。そのまま実現するには現実的ではないし、新しいものを描くとしても作り上げるという期間も踏まえて厳しいだろう。

 

『今まで描いたもので、演劇部で使ってなくてライブに使えそうなものってある?』

 

 演劇部の経験や堅実的な思考が邪魔をして、全く振り切れなかったところに差した一筋の光明。「あるにはあるんだが、あの絵じゃできそうもねぇんだよなぁ……」もう一度花びら舞う舞台のイメージイラストを見るが、やはり期間や技術的なことを考えると難しい。だけど、形にするなら今手元にあるこのステージにしたい――あの日地面に彼女の前で描いてみせた夢の片鱗(へんりん)だから。

 

『あの絵?』と侑が小首を傾げていそうな様子で(たず)ねる。「写真送るから待っててくれ」一旦スマートフォンの画面をホームに戻し、写真アプリを起動して、見やすいようにイメージスケッチの紙を撮影。そして通話画面に戻ったら、最小化ボタンをタップして侑との個人チャットを開き、先程撮った写真を送る。

 

 最小化ボタンを再度押して元に戻すと、『へぇー、すごくいいじゃん!』画像を見たであろう侑の反応が耳朶(じだ)を打つ。『このステージに歩夢がライブをする……ときめいちゃった!』さっきと違って、声音は弾んで明るい調子で興奮している(さま)が聞き取れる。

 

「ありがとうな」

 

 幼馴染からの賛辞(さんじ)を素直に受け止め、進一も笑って返す。「けど、完全再現は流石に無理だ」すぐに真面目な口調になり、裏方としての意見を口にした。イメージスケッチを見つめる赤紅の双眸(そうぼう)は、隅々まで構図を注視する。大がかりな仕掛けや現実的ではない造形が混ざっているため、実現させるにはそれらを削ぎ落さないといけないことは明白だ。

 

 そうなんだ、と侑は一瞬だけ落胆の声を発するが、即座に切り替えて提案する。

『簡略化したら、いけそう?』彼女もまた真剣な声音になり、なるべく相手の意を()み取ろうとする姿勢が(うかが)えた。

 

「多分いけると思うけど、どう簡略化していいのか分からん」

 

 電話越しにいる相手の機転の良さに驚嘆(きょうたん)しつつも、何度もイメージスケッチを見返して答える。削ぎ落さないといけない部分は明瞭(めいりょう)だが、舞台として成り立たせるには問題が山積み。そもそも彼女のライブが――「ってか、歩夢のライブっていつだよ?」

 

『夏休み最後の日曜日』

 

 返答を聞いた瞬間に、机上(きじょう)にあるカレンダーへ目を向けた。当日は部活もアルバイトの予定は入っておらず、準備期間も演劇部や美術部の行事がないため、時間を調整すれば参加できる。曇っていた(うち)に晴れ間が見え始め、話の続きに耳を傾けていく。『今回のはミニライブだから、そんなに大きな規模じゃなくて大丈夫だよ』

 

「土台とパネルだけ作ればどうにかなりそうだな」

 

 手元にあるステージに視線を落とし、少しだけ立体図を頭に浮かべる。かなり形は簡略化することになるが、実現できるなら今はそれだけでいい。「あとは演出だな……そこは歩夢が決めるところだろうけどよ」課題となるのは恐らくそこだろう。ただ自分はあまり(たずさ)われない分野なのが、痛いところ。

 

『そうと決まれば、明日から打ち合わせだね!』

 

 普段通りの快活な調子に戻り、侑の楽しげに笑う声が伝わる。『明日、ニジガクに来れる?』他校の学生をあっけらかんと誘うところは、流石自由な校風が特徴的な虹ヶ咲学園の生徒と言うべきか。

 

「行けるんだが……俺が関わって大丈夫なのか? 他の学校だけど」

 

 歯切れの悪い返答になってしまったのは、やはり気がかりな違う高校に在籍しているという“壁”があるから。「スクールアイドルってさ、普通は同じ学校の奴が準備してライブするもんじゃねえの?」特に詳しいわけでもないが、大体彼が耳にしたスクールアイドル像は同じ学校で作り上げるものだった。

 

 イベントがあれば、異なる学校の生徒同士で交流することもできるが、今回は個人で行うライブ――それも大規模ではない小さなライブ。そこに(たずさ)わる隙間がある気がしない。

 

『そんなの関係ないよ』間髪入れず、侑がその壁を壊す。『スクールアイドルが好きで応援したい人に、学校が同じとか違うとか関係ないって!』明るくも力強い言葉、それは虹ヶ咲学園の同好会のみならず他の部活や違う学校のスクールアイドルと一緒にスクールアイドルフェスティバルという大きなイベントを作り上げた彼女だからこそ言えるもの。

 

 いつもはいがみ合っている、とまではないが歩夢のことになると対立しがちになるのだが、協力すると言った時の彼女ほど頼もしいものはない。そんな幼馴染の言葉を受けて、いつまでも壊せなかった玻璃(はり)が砕け散り、進一の中で踏ん切りがつく。「すまん、変なこと聞いちまって」曇り空の切れ間から光が差し込んでは、あっという間に薄青が澄み渡る空が見えた気がした。

 

『いいって、平気』変わらず侑は、元気よく返す。『じゃ、また明日』

「また明日な」

 

 約束を改めて交わし、通話が切れる。スマートフォンの電源を落とし、カレンダーとイメージスケッチを交互に見ると、進一は短い息を一つ吐いて楽しそうに笑みを零した。あまりにもくだらない悩みだったと自嘲(じちょう)の意も含めつつ、これから共にステージを作っていけるという未来に、ただ楽しみしかない。

 もう一度自分が思い描いたステージに目を向ける。夢への一歩を後押しするように中心にいる少女が微笑んでいた。

 

 

 

 

 一方、侑は電話を切ると、(おとがい)を上げて一息吐く。無機質な天井を見て思い返されるのは、転科の手続きをし終えて帰宅していた頃に届いた歩夢からのメッセージ。スクールアイドルフェスティバルを終えてから、歩夢が次に掲げていたこと――進一ともステージを作っていくという目標を成すために、彼と交渉したところで失敗したと結果報告が送られてきた。

 

 仕方ないと割り切る彼女がそう簡単に諦める気がしないと思い、なおかつ進一がそうそうに断ることなんてしないことを考えると、きっと二人はすれ違っているはず。だから、自身が調整役を買って出て、改めて彼と話してみて承諾が返ってきた。他校との壁はあるが、それでもスクールアイドルが、応援したい人がいるのであれば関係のないこと。

 

 スクールアイドルが好きな人はもちろん、スクールアイドルを知らない人にも楽しんでもらえるように他の学校のスクールアイドルと共に作り上げたイベント――スクールアイドルフェスティバルを開催したからこそ、彼が悩んでいたことだって理解できた上に壁を打ち壊した。けれど、そこに至るまでの一歩を踏み出せたのは歩夢が、一緒に始めようと言ったから。夢を見つけたきっかけは違う人だが、それでも進むことができたのは紛れもなく彼女だった。

 

 だからこそ、恩返しも含めて進一と通話して交渉した訳だが――つと左手に握っていたままのスマートフォンを見やり、今回話した結果を言わねばならないと思い立つ。そして彼女の個人チャットを開いて通話ボタンをタップして電話をかける。一、二回の電子音が鳴った先、相手と繋がったことが分かるとすぐに口を開いた。「もしもし、歩夢?」

 

『あ、侑ちゃん』

 

 スピーカーから聞こえる歩夢の穏やかな声。だが、微かに憂いを帯びた声色になっていたのは、やはり先程の進一との一件が気掛かりだっただろうか。『……進一くんのこと、どうだった?』数拍空いた後、恐る恐る訊ねるところは予想通り。

 

 だから、侑はなるべく明るい調子のまま告げる。「参加したいって言ってたし、明日ニジガクに行くって」彼女が不安にならないように丁寧に言葉を選びつつ、先程の会話を思い出しながら笑いかけていく。「やっぱり一緒に作りたいんだよ、歩夢のステージ」明確に聞いたわけではないが、それでも否定や不承ではなく模索(もさく)と承諾の言葉が彼の口から出たのは確か。それどころか、通話中に見たステージを描いた絵を撮影した写真から、より夢を抱えていることを知った。

 

 話を受けて、歩夢は閉口したのか何も返答しない。侑もそれ以上は何も言わず、黙り込む。

 スマートフォン越しに沈黙が流れ、どことなく倦怠感(けんたいかん)が漂う。けれど、長くなることはなかった。

 沈思黙考(ちんしもっこう)を経て納得したのか噛みしめるように、そっかと歩夢は呟いて『ごめんね、侑ちゃん』と謝罪を入れる。声音にはまだ憂慮(ういりょ)残滓(ざんし)があるが、幾分(いくぶん)か朗らかな口調になっていた。

 

「いいって、多分あいつも気を遣ったんだと思うからさ」

 

 彼女が少しだけ元気を取り戻したことに、ひとまず胸を撫で下ろしつつ、侑は活発な語勢で返す。あまり歩夢の暗い顔を見たくない、可能な限りは考えられることは考えて力になりたい。何かを始める時にいつも足踏みしてしまって、結局見送ってしまう臆病な自分を引っ張ってくれたのは歩夢だったから。

 

「それよりも進一の送ってくれたステージのイラスト、すごかったよ!」

 

 まだ重たい雰囲気を吹き飛ばすように、先刻見たイメージスケッチを思い浮かべながら弾んだような語気で話題を切り替える。「あのステージで歩夢を歌うところを想像したら、ときめいちゃったよー」ふと甦るのは、幼い頃に公園で遊んでいたところ、彼が地面に描いた花が大きく描かれたステージの絵。その上に歩夢が立った時、胸が高鳴ったことを今でも覚えている。

 あの時はどうして心(おど)ったのかは分からなかったが、今なら分かった気がした。きっと柔らかい色が溢れる景色の中にいる歩夢は可愛くて、眩しいんだと。

 

『だから、あのステージで歌ってみたいって思ったんだ』

 

 決して強い語調で言ったわけではないが、芯の強さを感じさせる声が聞こえてくる。『あと、最近三人で集まる機会なんてなかったから……』続いた言葉はもの寂しさを音にしたもの。この先の未来も考えてのことだと理解しているからだろう。何せ三人とも高校二年生で侑は音楽科に転科し、進一は夢を追いかけるために専門分野の勉強、歩夢とて大学進学を視野に入れて動き出さねばならぬのだから。

 

「夏休み終わったら、もっと集まる機会はないかもしれないね」

 

 それは侑も痛いほど分かっていた。それぞれがそれぞれの道に進むということは、集まる距離が広がっていくということ。だからといって、疎遠(そえん)になるわけではないが、やはり気軽に集まる時期はなくなっていくのが想像に容易い。

 

 しかし、まだ高校二年生の夏――共にライブを作っていくのであれば、機会は少なくないはず。今目の前にあるのであれば、こじ開けてでも叶えたい。やらずに後悔はしたくないから。

 

『けど、まだ終わっていない』再び歩夢の声音が力強くなる。誰よりも諦めの悪い彼女らしい静かな決意が、耳朶(じだ)を打つ。『今度のライブは絶対に成功させたい』

「私も、歩夢がいいライブにできるように協力するよ」

 

 アイドルではなくサポーターとして道を選んだ侑だからできること――夢を追いかけている人を応援して、その人の夢が叶うように助力し、ライブを盛り上げる。できないこともあるし、決してスポットライトが当たるわけではないものの、誰かが夢を追いかけている姿は応援したくなるのだ。

 現に夢を追っていた人の背中を追って、音楽という道に辿り着き、今度はその分野で皆に恩返ししたい。きっと自分にできることは、たくさん転がっているはずだから。

 

『明日から練習はもっと頑張らなきゃ』

 

 穏やかに笑い立てる歩夢に、侑は少しだけ苦笑いを(こぼ)す。歩夢はいつだって頑張っているよ、と口に出したいのをぐっと堪えて誤魔化すために笑うしかなかった。その言葉をかけるのは、まだ当分先なのは分かるし、今言っても彼女は頑なに否定するのが目に見えている。

 

 少しばかり他愛のない話を重ねていき、歩夢が眠くなったというところで電話を切った。画面に表示されている時計を見ると、日付が変わる頃合いではないにしろ、それなりに夜が深まっている時刻。明日は進一と会う約束があり、寝坊はできないため、侑もスマートフォンの電源と電灯を消して、ソファに横になる。

 

 間もなく(まぶた)が閉じて見えたのは、三人で遊んでいた幼き日。もう今ではあの頃のようには、はしゃいで遊び回れないだろうけど、今だからこそできることがある。彼女の(うち)には感傷(かんしょう)という言葉は見当たらなかった。

 

 

 

 

 翌朝、雲がゆったりと風に流されていく穏やかな薄青が広がる空の下、進一はバイクを走らせる。穏和な乗り心地を楽しみながら向かっている先は、自分の学校ではなく歩夢や侑が通っている虹ヶ咲学園。昨日、侑と電話で約束した打ち合わせをするために、まだ熱されていない空気をその身で受けていく。

 

 もう既に心は(おど)り上がっており、何にも縛られていなかったのなら最高速度で道路を突っ走っていたところ。大好きな歩夢のステージに関われるのだから、気分が有頂天にならない訳がない。フルフェイスヘルメットの下は、満面の笑みがそのまま湛えられていた。

 

 最寄りの駐輪場まで到着すると、空いているところにバイクを停めて、そのまま虹ヶ咲学園へ。調律が外れた弦楽器のように奇怪な音階を鼻で歌いながら軽快な足取りで正門前に(おもむ)くと、ジャージ姿の侑が元気よく手を振って出迎えた。背は高くないものの、快活で大振りな動作をするため、昔から見つけやすかったことを思い出して進一も笑って手を振り返す。

 

 合流してからは、事務室で来校手続きを行い、彼女の案内で会場の予定地へ歩きながら学内を見学する。お台場周辺の学校で最も大きいだけあり、学科ごとの建物はもちろん、その他の専門施設も充実していた。流石、生徒の好きなことを全力で応援するだけあると進一は舌を巻きながらただその風景を眺めるだけ。

 

 噂に聞いていた以上の学内に圧倒されていると、ふと前を歩いていた侑が足を止めた。振り返ると同時に「ここが会場になる予定の場所だよ」と告げ、両手をいっぱいに広げて改めて会場の場所を示す。校舎をバックにした緑が映える中庭は夏休み中という期間だけあって人通りは少ない故に、虹ヶ咲学園特有の広大さを象徴しているかのよう。

 

「どれぐらいの寸法でやるのか決めてんのか?」

 

 周囲を見渡しつつ、進一は真面目な口調で訊ねる。野外ライブをするには十分な広さだが、使うステージの幅や機材を置く場所によっては許可が下りない可能性もある上に、準備期間も足りない場合もある。申請はもう通してあると思うが、当日までに完成できなかったら、せっかく彼女のライブを見に来た人たちに申し訳が立たない。

 

「ちゃんとどれぐらいのスペースでやるかは決めてあるよ」

 

 質問されることを見越してか、侑はスクールバッグから一枚の紙を差し出す。彼女から用紙を受け取り、そこに書かれた図面や数字を目で追い、「ホントに小規模なライブなんだな」簡単な感想を呟く。大々的に披露するというよりも、ファンとのふれあいを重要視したようなステージの大きさであり、機材の量も多くない。

 

「準備する期間とか確保できた場所の問題がね……」

 

 苦笑いを浮かべる侑の語勢も普段の活発さが消えていた。急遽やることになったのだから、他にも練習や公演する部活の折り合いもつけなければならない――自由だからこそ、衝突もまた可能な限り避けて、他人の自由を侵さないしないようにするということだろう。いくら敷地が大きい虹ヶ咲学園でもライブによる影響は考えるだろうし、外部から人が自由に出入りする分だけ計画もまた綿密(めんみつ)にしていかなければならないことが容易に考えつく。

 

 事情を把握しつつ、変わらず数字を見て何となくスケールを想像していたところ、ふと進一は疑念を口にする。「にしても、何で歩夢は急にライブすることになったんだ?」制作に誘ってもらった時は全く考えていなかったが、今にして思えば少し急すぎるのではないかと。「スクールアイドルフェスティバルをやった後なのによ」ライブを終えたばかりというのに、どうしてこうもすぐに次のライブを開催しようと思ったのか、本人がいなくとも彼女のことを知っていそうな侑なら答えてくれるはずだとつらつらと疑問を並べ立てる。

 

 彼の言葉を受けて、侑は(おとがい)を上げて空を見る。入道雲が堂々と薄青の舞台に立ち、緩やかな夏の風が彼女の髪を撫でていく。横顔に浮かぶのは、微笑(びしょう)――信頼を寄せた、温かな笑みが(こぼ)れていた。

 

「多分やり残したくないんだよ」

 

 遠くを()せるように、侑の声が爽やかな涼風(りょうふう)に乗る。「夏が終われば、私たちはバラバラになるからさ」その言葉の意味は、幼馴染という間柄である彼らだからこそ重くのしかかっていく。けれど、不思議と空気は重苦しくならず、むしろ新たな道へ進んでいくための決意で熱されていくばかり。

 

「だとしたら、悔いが残らねえようにしねえとな!」

 

 未だに空を見上げる侑の横顔を見て、進一は掌に拳を打ちつけて意気高らかに言葉を継ぐ。「っし、気合い入れてステージの図面を描いてくるぜ!」そして力こぶをつくった右腕を叩き、語勢強く宣言。赤紅の双眸(そうぼう)は、紅蓮の炎を宿したように熱誠(ねっせい)な眼差しを彼女へ向ける。

 やり残したくない、後悔したくない気持ちは同じ。昨日まで他校の自分が関わっていいのかと悩んでいたが、今はもう何も迷いはない。だから、前を向ける。

 

「私は演出のことを歩夢と相談するよ」

 

 青空へ憧憬(しょうけい)を輝かせている緑色の瞳は、彼の目と合わせて快活に細めていく。「うーん、今からどんなステージになるのか、想像したらときめいちゃうよ!」一度体を伸ばすと、元気いい声が中庭に響いた。浮かべているいたずらっぽい笑みは、子供の時から変わらない。

 

「あ、侑、図書室まで案内してくれよ」進一も溌溂な笑顔で返し、侑に頼み事をする。「そこで資料見ながら描くからさ」案を煮詰めるには、似たようなコンセプトを持った舞台美術の資料や他に使えそうなモチーフがないかと探すしかない。小さな世界に花を敷き詰めるのだから、最も想いが伝わる形で開花したいのだ。

 

 幼馴染の考えていることが察していたらしく、こくりと頷いて侑はついてきてと歩き出す。図書室までの道のりは、ライブの話で花開いていた。

 

 

 

 

 進一らがライブステージ制作のために設計を練っていた頃、学校の屋上では歩夢がライブに向けた練習に励んでいた。基礎体力づくりはもちろん、ダンスの完成度も高めるためにライブで披露する楽曲の振り付けを体に染み込ませていく。

 いくら小さなステージでも手を抜くことはできない。今回のライブは大きなライブではないが、それでも歩夢にとってはスクールアイドルフェスティバルと同じぐらいに重要な舞台。みんなの夢を乗せたステージであることには変わりないのだから。

 

 何度も同じステップを繰り返し、額から流れ落ちる汗が数えきれなくなってきた頃、ようやく休憩に入る。リズムを刻んで彼女のダンスを見てくれた小柄な少女が、眩しい笑顔とともにタオルとスポーツドリンクを差し出す。

 ありがとうと優しく礼を言い、歩夢は受け取ってベンチに腰をかけて息をつく。空を見上げると、やや厚い雲がゆったりと流れているが雨が降る気配はない。けれど、朝方よりも少しだけ日差しは遮られていた。

 

「順調に仕上がっていますね」隣に先程ダンスを見てくれていた小柄な少女――優木せつ菜が座り、声をかける。「これならいいライブができると思います」濡羽(ぬれば)色の双眸(そうぼう)は快活ながらも優しく細められ、上を見ていた彼女の横顔を映す。

 

「でも、まだまだだよ」

 

 首を横に振りつつも、歩夢の目にはまだ薄青が差し込んでいる。「もっと私の想いが届くように、したい」静かに告げられた言葉は、普段の彼女からは少しだけかけ離れた力強さがあり、未だに空を見つめる金糸雀(かなりあ)色の瞳は決意に満ち溢れているかのように揺るぎない光が(たた)えられていた。

 そうですかとせつ菜が満足そうに頷いてからは、わずかに訪れる沈黙。「どうして、ライブをしようと思ったのですか?」話柄は切り替わり、問いから始まる。

 

「実はね、ずっと前から立ってみたいステージがあったの」

 

 答えは、歩夢の胸に抱えていたものを簡潔に披瀝(ひれき)したものだった。「侑ちゃん以外にも、一人だけ幼馴染がいてね」せつ菜にとって初耳の情報だが、話は彼女の驚嘆(きょうたん)に構わず続いていく。「その子が描いた作ったステージを歌ってみたいって」そう言って思い描いたのは、懐かしき幼い頃に描かれた花咲くステージと彼が楽しそうに笑う姿。あの時は全く想像できなかったが、スクールアイドルになった今、明確にあのステージに立つという夢が生まれた。

 

「今まではあの子にも部活があるからダメかなぁって思ってて、遠慮しちゃってたけど」

 

 一緒にステージ作りをする機会はあったが、演劇部の公演や歩夢自身の問題により、まだ実現できていない。「スクールアイドルフェスティバルをやってね、やっぱりやりたいことをやろうって思ったの」おぼろげだった輪郭(りんかく)をはっきりとさせた形で披露できたあのイベントの後、ようやく決心がついて今に至る。

「だから、急遽ライブをしようと」一区切りついたところで、せつ菜が相槌(あいづち)を打つ。「素敵なことだと思います」感激したと言わんばかりに、満面の笑みで歩夢のことを見つめていた。

 

「そう、なのかな?」

 

 初めて空から目を離して濡羽(ぬれば)色の瞳と向き合い、少しだけ困ったように眉尻を下げて小首を傾げる。「でも、やりたいって思ったことは止めちゃいけないよね」すぐさまはにかむように笑ってみせる姿は、元来の穏和な性分な故か。以前、(うち)でせめぎ合っていた己の本心を解いてくれた言葉を、恩人の前で再度口にして改めて正直になろうと心が動く。

 

 熱意を感じ取ったのか、せつ菜は力強く首肯(しゅこう)して、今度のライブは歩夢さんたちにとっていい形になるように私も手伝いますと、強勢(きょうせい)に宣言する。ひたすら真っ直ぐで炎の塊のような熱量を持つ彼女に、歩夢はありがとうと感謝の言葉を伝えた。

 

 

 

 

 空の色がほんのりと橙色に色づいてきた頃合い、侑は進一が新たに描き直したステージ案を元に実現できそうな演出をまとめ、歩夢がいるはずだと思われる場所へ向かっていた。既に同好会の練習としては終わっているが、まだ練習をしたいから居残っているとのこと。いつになくやる気に満ち溢れている彼女を支えようと思う反面、その気合いが空回りしなければいいなと密かに胸騒ぎを覚える。

 

 普段あまり表立つことは避け、自分よりも他人の意見を優先するが、歩夢は自分で決めたことをやり通す意志の強さを持っている。とにかく途中で投げ出すということをしないのだ。それが彼女の美点だが、同時に自身を苦しめる(かせ)にもなり得てしまうのが悩めるところ。

 

 明確な目標を持っている時は顕著(けんちょ)で、あみぐるみや手編みの小物類などを作っている際に夜更かしする回数が増え、寝不足で少し体調を崩していた時期もあった。進むペースこそはゆっくりかつコツコツと毎日積み重ねるから問題ないように見えるが、凝り性なところがあるが故に細かなところで時間を費やしてしまうことも知っている。

 だから、放っておけないのだ。本人も分からぬ内に無理してしまっているような気がして。

 

 つらつら考えたところで、そんなことはないと首を横に振って打ち消す。流石に根を詰めることはしないだろう、しないはずと。

 いくら頑張り屋な彼女だからといって、自分の限界を超えるような無理を強いることはないと思いたい。しかし、どこかで拭いきれない不安があり、未だに悶々(もんもん)としている。

 

 何度もふわりと浮かんでくる憂いを振り払いつつ、目的の部屋へ到着する。扉に付いてる小窓やわずかに空いている隙間から光が見え、音楽に合わせてダンスシューズが床を擦る音が耳朶(じだ)を打つ。

 

 耳に届く楽曲は、間違いなく歩夢が歌って踊っている曲だ。頑張っている姿、いやステージで踊っている姿も想像すると先程まで曇っていた心模様が晴れていく。これから今胸に抱えている資料を見ながら世界を広げて、彼女の可愛いところがまた一つ知られていくということに、相好(そうごう)が崩れてにこやかな笑みを浮かべてしまう。

 

 ドアを開けようと引手に触れようとした瞬間、何かが床上と衝突する音が聞こえた。小窓から様子を(うかが)うことはせず、弾けたように扉を開けて部屋に飛び込むと、眼前には足首を押さえて横たわる歩夢の姿が。

 

 思わず彼女の名を叫び、駆け寄る。当の本人は「大丈夫だから」と何事もなかったかのように上体を起こして苦笑いで返した。けれど表情が固いのは、どう見ても足を痛めたからだろう。

 微かに聞こえた呻きの声は紛れもなく歩夢のものだと、侑は分かっていた。だから躊躇(ちゅうちょ)する間もなく、保健室に行こうと告げる。例え軽度のものだったとしても、今ここで何も処置せずにいれば悪化してしまうことだってあり得るのだから。

 

「平気だよ」頑な返答で、歩夢ははねのける。「すぐに痛み引くと思うから」金糸雀(かなりあ)色の瞳は痛みを抱えていることさえ忘れてしまいそうなほどに、強く真っ直ぐ憂いに帯びた侑の顔を映し出していた。

 知っている。彼女が本当に痛いときは平静を装うことを。そして奥に隠してある意固地な部分をここぞとばかりに全面に出して、何でもないと押し通そうとすることを。

 

 だが、侑もまた譲らずに、放っておけないと口にする。ここで無理しても意味がないと、冷静に、丁寧に。いくらダンスの完成度が増したところで、負傷を抱えてしまっては今無理やりでも全力で踊りきっても、その後の道のりが険しくなっていく。

 

 否、そうじゃない。絶対に怪我を隠したままでライブすることを望んでいないのだ――今この場にいない彼もきっと自分と同じように無理をしないで欲しいと、正直に願いを伝えるだろう。

 確かに、夏が終わると一緒にライブを作って行う機会は少なくなるかもしれない。しかし、可能性がなくなったわけではないのだ。

 

 だから、侑は静かに告げる。みんなの夢のために、我慢している歩夢は見たくない。紛れもない本心をそのまま目の前にいる幼馴染にぶつけた。

 

 沈黙が二人の間に降り注ぐ。互いの顔を映し出す瞳は、一寸たりとも動かない。

 頑な静謐がせめぎ合い、言葉どころか(しわぶき)一つも空気を伝う暇もない苛烈な意志の衝突へと発展。

 

 けれど、侑の言い分に納得できるところがあったのか、先に歩夢の方が諦めたように嘆息(たんそく)を吐いた。いや、元から分かっていたことをようやく飲み込めたと言った方が正しいか。

 

 時間が足りない。ぽつりと呟かれた彼女の言葉。

 

 侑は何も言わない――きっと歩夢自身が誰よりも理解している。言い出した本人だからこそ、焦っていたのだろうと察するには容易い。

 焦燥(しょうそう)を振り落とすためにも一旦は落ち着いた場所で話をした方がいいと思い、侑は保健室まで運ぶと言うが自分で立てると断られる。宣言通り、歩夢は自力で立ち上がったものの痛みが走ったのか、顔をしかめて(くじ)いた方の足を庇うように体重を無事な片側に寄せた。

 

 そのまま歩くのは厳しいだろうと目に見えている上に放っておけないため、侑はおんぶすると強引に押し通し、歩夢を背負って部屋を飛び出していく。だが、彼女は問題を一つ見落としていた――今いた部屋から距離がある保健室まで体力が持つどうか、ということを。

 

 

 

 

「やべぇ、ここどこだか分かんねえ」

 

 校内を彷徨(さまよ)う進一は、改めて虹ヶ咲学園の広大さを思い知る。「侑には問題ねえって言ったけど、これは予想外だわ」手当たり次第、歩いていけば何とかなるだろうと思っていたが、大間違いだったと気づくにはいささか遅すぎた。

 

 侑から図書館で待つように言われたのだが、閉館時間が差し迫っていたため、彼女にスクールアイドル同好会の部室に行くと連絡して向かうことに。しかし部活棟まで行くのにどこのルートを通れば最適か、なんてことは初めて来た上に校内地図を見てない彼が分かるはずもなく、当然の如く迷子になってしまったのだ。さらに夏休み期間に加え、ほぼ部活の練習が終わって帰宅している時間帯ということも相まって、道を(たず)ねることさえできなかったという始末。

 

 もう流石に電話して迎えに来てもらおうかと考え始めた時、ふと侑が自分を呼ぶ声が聞こえた。最初は疲労による幻聴かと思っていたが、少しずつ音の明瞭(めいりょう)さが増していく内に、実際に呼びかけられているのだと気づく。

 

 声がした方に向くと、侑と歩夢の姿が。けれど何か様子がおかしい――侑が歩夢を背負っていて、かなり息を切らしていた。すぐさま彼女たちのもとへ駆け寄り、進一は詳しい事情は何も聞かないまま侑と交代し、歩夢を背負って大急ぎで保健室へと向かう。

 

 体力自慢というわけではないものの、演劇部で重いものを持ち運ぶことが多かったことからか、進一の足取りに変化はない。むしろ案内のために先行している侑を追い越さないように調節しているほど。保健室を目指していく内に途中からは並走して分かれ道の度に訊ねながら走っていたのだが。

 

 広大な学内を走り回って、ようやく保健室に到達する。鍵が開いているだけでなく、養護の先生もいたことにより、すぐに歩夢の足を手当てすることができた。

 やはり捻挫(ねんざ)の可能性があると言われ、足首を固定して冷やし、歩夢はベッドの上で休むことに。安静にする彼女のために、侑が荷物を取りに行き、残された進一は事情を改めて聞く。

 

「歩夢、無理はしちゃいけねえよ」

 

 練習中に足を挫いたことを知ってからの第一声。「怪我をしたら、元も子もねえだろ」穏やかな声音と裏腹に、進一の表情は険しかった。

 今さらキャンセル、というのも気が引けるところがあるのだろう。だが、無理をして悪化させるぐらいなら自分の夢は今叶わなくてもいい。

 

「大丈夫」首を横に振って、歩夢は頑なに意志を通す。「やっと三人集まれたから、頑張りたいの」

「俺は嫌だぞ」

 

 即座に返した言葉は、苛立(いらだ)ちを多分に含んでいた。「歩夢の気持ちはすげえ分かるし、嬉しいんだよ」可能な限り、声を荒げないように丁寧に発するが、眉間に皺が寄っていくばかり。「けど、その後もライブができねえってなったら、嫌に決まってんだろ」赤紅の双眸(そうぼう)は鋭利に細められ、金糸雀(かなりあ)色の瞳を射貫(いぬ)く。

 

 自分達と一緒にライブを作り上げたいという気持ちは同じで、心底嬉しい。けれど、その先もやりたいのに今回だけで終わりになってしまうというのは、あまりにも悲しすぎる。ならば、目の前のあるライブなぞ、今すぐに止めてしまえと心が暴れ出してしまう。

 

 荒れた言葉が表に出てこないように、進一は奥歯を噛みしめて眼前にいる歩夢の表情を見つめる。彼女は揺らぐことはないと言わんばかりに、真っ直ぐと彼の顔を瞳に映していた。

 

「終わらせないよ」静かに波打つ音吐(おんと)は、力強く耳朶(じだ)を打つ。「絶対、今回だけにしない。約束する」柔和かつ朗らかな様相は鳴りを潜め、歩夢は真剣な眼差しを向ける。

 

 普段とは違う様子に、進一は少しだけ目を開いて驚く。彼女が何かしらに一生懸命に取り組む姿を目にしたことは、いくらでもある。けれど、今目にしている熱誠(ねっせい)な瞳は、かつてないほどに鋭利で力強い。

 

 いつの間にか知らない歩夢がいるようで、わずかに動揺する。今の彼女は上原歩夢なのだろうかと。しかし、疑念を振り払って返答を口にする――直前、ドアが開かれた。

 

 来訪者、というよりかは戻ってきたというべきか、二人分の荷物を持った侑の姿を認める。彼女はお待たせと言った直後に、歩夢と進一の間に流れる空気に異変を感じたのか、小首を傾げて様相を(たず)ねた。

 何でもないと二人同時に返答するが、微妙に刺々しい雰囲気は拭えない。だが、侑は深く追求することはなかった。代わりに、歩夢の着替えを持ってきたことを言い、彼に退出を命じる。

 

 素直に応じた進一は、自分の荷物を持って外へ出る。多量の窓が設置された建物内は解放感溢れる景色が広がるはずなのだが、厚い雲が少しばかり多い故にか、どことなく鬱屈(うっくつ)した雰囲気を漂わせていく。雨が降っていないだけ、まだいい方とも言えるが。

 ほんのわずかに歩夢とすれ違っているような気がする。些細(ささい)なズレが歯車を狂わせていき、彼の本心と彼女の決意が上手く交わることができない。

 

 微妙な意見の相違が、あまりにも大きな隔たりだということだろうか。

 再び苛立(いらだ)ちが込み上げてくるのを喉元に抑えながら、進一は先程言おうとした言葉を振り返る。約束すると言われた時、それでも不承を返すつもりだった。

 当たり前だ、誰かの夢のために誰かが無理せねばならぬのならば、そんな夢なんて捨ててしまった方がいい。優先すべきは、この先も続けられるようにすること。だから、反対していたのだ。

 

 けれど、(うち)にいるもう一人の自分が(ささや)く。彼女を信じ切れていないからではないのかと。そんなことはないと振り払えなかったのは、それも紛れもない本心だったから。

 

 いつまでも落ち着かない心中をなだめようと試みて少し時間が経った後、侑たちが部屋から出てくるのを目にする。歩夢の歩様(ほよう)(くじ)いた足を庇っているはいるものの、支えがなくても歩けそうではあった。だからといって負担をかけるわけにはいかず、進一はすぐに彼女を背負おうと――したが、断られてしまった。

 

 バス停までなら問題ないと伝えても、自分で歩けると返答されて、進一は次の句を継げなくなる。確かに一人でも歩けるだろうが、今は負荷をかけないようにするのが優先だろう。

 

 助けを求めるように侑へ視線を送るが、彼女もまた首を横振った。きっと先程、助力を申し出たのだろうが同じように断られたと読み取れるほどに、眉尻は下がって緑色の双眸(そうぼう)諦観(ていかん)したように暗くなっている。

 まだ何か説得できるはずだと黙考(もっこう)するも、これ以上歩夢を納得させられるだけの言葉は持ち合わせていないと心が折れて、諦めの嘆息(たんそく)を吐く。けれど放っておけないため、進一はバス停まで一緒に行くと言って、彼女らと共に学校を出た。

 

 ゆっくりと歩いて辿り着いたバス停にて、家の近くにある個人病院がまだ開いているはずだと伝え、進一は侑たちと別れる。つと空を見上げると、雲が厚く夕焼け空があまり見えなかった。

 

 

 

 

 小さな騒動から一夜明け、侑は一人だけで通学路を歩いていた。誰よりも練習をしたいと思う歩夢の姿がないのは、昨日の顛末(てんまつ)が影響している――軽度の捻挫(ねんざ)であり、大事にはならなかったもののライブまでの練習時間が欲しい今としては大きな痛手。直接聞いた訳ではないが、きっと彼女の心中は穏やかではないだろう。

 

 けれど、歩夢は戻ってくると信じて、侑は今日もライブの準備をするために学校へ(おもむ)く。同好会の部室まで辿り着くと、それぞれが挨拶してから歩夢の容態を(たず)ねる。

 

 怪我のことについては、昨夜に同好会のメンバーや進一にも伝えており、グループチャットの方はかなり動揺が広がっていた。だから、質問攻めになることは予想しており、なだめるように彼女らに返答していく。

 

 やがて賑々(にぎにぎ)しい波は収まっていき、グループ別に練習するために散って、部室には侑ともう一人だけ。その人物も部屋から退出すると思い、侑は短く嘆息(たんそく)を吐いた。思っていた以上に疲労がのしかかっていたことに驚嘆(きょうたん)しつつも、もう一度思考を巡らす。

 

 歩夢の怪我が原因で進一が制作から抜けようとしているのではないかという疑念――個人チャットで彼と会話していた時に、ライブを中止した方がいいと書いていたことを思い出す。恐らく荷物を取りに行っている最中に、歩夢と揉めたのだと察しがついていた。何せ、あの二人も意外と喧嘩が多いのだから。

 多少の怪我や体調不良でも進一はすぐに休めと進言するが、これぐらい大丈夫だと歩夢が意地を張る。進一が彼女を大事に思う気持ちは分からなくもないが、いささか行き過ぎているところも否めない。自分も言えた口なのかは、置いておくが。

 今回ばかりは侑も休んで欲しいと思うが、まだやれることがあるならやって後悔をしたい。歩夢が諦めていないのなら、自分も諦める道理もないのだから。

 

「侑さん?」名前を呼ばれ、弾けるように顔を上げると、目の前には部屋を出たはずのせつ菜が戻って来ていた。

 驚嘆(きょうたん)する侑を目にし、せつ菜は謝罪をしてから質問を投げかける。「歩夢さんと何かありました?」少しだけ愁眉(しゅうび)が寄っており、黒い瞳が不安そうに見つめていた。

 

「ううん、何もないよ」

 

 首を横に振って、平静を装う。嘘は言っていない、だが問題が発生しているのも事実だ。最も一緒に作りたい人が離れていく可能性があるのが、悩みの種。

 何か言いたげだったものの、せつ菜はそれ以上言及することはせず、話題を切り換える。「歩夢さん、大丈夫でしょうか」

「大丈夫だよ」即答して、侑は真っ直ぐ見つめ返す。「絶対に戻ってくるはずだから」

「そうですね。ただ少し心配です」

 

 首肯(しゅこう)はするが、せつ菜の眉尻はまだ下がったまま。「かなり熱が入っていたので、もしかしたら……」あまり暗い雰囲気をしたくないと配慮したのか、その先から言葉はなかった。

 

 彼女が言わんとしていることは分かる。怪我をしたことにより、責任感や罪悪感でさらに自分を追い込んでしまうのではないかと。歩夢の場合は、モチベーションを下がるよりもそちらの方が勝るのは目に見えていた。

 なおかつ確実に進一はことさら反対して、ステージ作りから離れるだろう。決していいとは呼べない状況を、どう説明したものか悩むところ。

 

 今抱えている問題を話そうか迷っている侑に、察しがついたのかまたせつ菜から話柄(わへい)を切り出される。「もう一人の幼馴染さんと何かあったのですか?」

「……え?」何故、せつ菜が進一のことを知っているのか分からず、侑はただ目を見開くのみ。話した覚えはない。だから、どうして話題に挙がっているのが不思議でならなかった。

 

「歩夢さんから聞いたんです」

 

 ほんの少しだけ、せつ菜の相好(そうごう)が崩れる。「侑さん以外にも幼馴染がいると」理由を聞いて、侑は納得した。ならば、ことさら心配していることも見当がつく。

 

「詳しいことは分からないけど、二人とも喧嘩したみたい感じで」

 

 昨日に起きたことを言える範囲で告げる。無理に聞きにいっても気持ちの整理は、まだできていないはず。本人達から話してくれるまで待っているから。

 相槌(あいづち)を打ったせつ菜は、やはり質問を重ねなかった。代わりに、もう一人の幼馴染さんはどんな方ですかという問いかける。声音は、穏やかで優しい。

 

 重苦しい話を続けても息が詰まるだけだと思い、侑も気分転換するように朗らかに話し始める。中学まで同じ学校に通っていたこと、今は高校で演劇部と美術部を兼部していること、そしてずっと小さい頃から舞台美術をやりたいと言っていたこと。彼との思い出をかいつまんで話をすると、昔がどれだけ一緒に遊んでいたのか懐かしく思う反面、歩夢が焦る気持ちも分かるような気がした。

 もしかしたら、もう共に何かを作り上げることはないかもしれない。この機会を逃せば、次はいつになるのだろうか。今しかないと思ってしまうのも無理もないと。

 

「大切な人なんですね」

 

 ぽつりとせつ菜が零す。「皆さんの想いがすごく詰まったステージですから、ぶつかり合うのも仕方ないのだと思います」すとんと喉元に詰まっていたものが落ちた音が聞こえた。

 

 分からなかった訳でも、知らなかった訳でもない。けれど、どうしたら平穏に収まるだろうかと妥協点を探していた。だから頭を抱えていたのだと気づく。

 互いを、三人を、大事だと想っていたのは一緒。大切に想う気持ちが衝突することは時にある――幼馴染であって、仲間でもあるのだから。

 悩みの種が弾け飛んで消えた先、侑は活発な笑顔を浮かべる。「だから、いいステージになるよ」緑色の瞳には、晴れやかな空模様が広がっていた。

 

 

 

 

 数々の作品や材料が眠っている美術準備室は、埃が重々しく漂う。窓を開けても空気が循環(じゅんかん)できていないのは、風の通りが少し悪いのか。

 

 鬱屈(うっくつ)した部屋の中、進一は壁に背中を預けて座り、呆然(ぼうぜん)と目の前に置いてある作品群を眺める。悩んでいる時は、何気なく美術作品を見たり、小説を読んだりすることに時間を費やす。すると、いつの間にか心が軽くなり、悩んでいたことへの解決策がするりと思いつく。

 だから膨大な数の芸術品が保管してある美術準備室に立ち寄って様々な作品を見ているのだが、気が晴れずに重いため息をついて項垂(うなだ)れた。思い返すのは、昨日のこと――歩夢が“今回だけにしない”と言った時、口にしようとしたのは不信の言葉。

 

 彼女のことを信じられなかった自分が、一番信じられなかったのだ。どうして背中を押してあげることができなかったのだろう。大丈夫だって励ますのが最も必要なことだったのではないか。

 けれど怪我のことが気がかりであることも本音。せめぎ合って、結局前向きな答えが出せなかった自分が情けない。また鉛のようなため息が地面に落ちる。

 

 悶々(もんもん)とした気持ちではステージ制作も進まない。今日も打ち合わせがあるというのに、彼女を応援できていない自分が参加していいのかという迷いが生まれて、動き出すのが億劫(おっくう)になる。

 時間ギリギリまで(うち)にあるをどうにかせねばとさらに焦り出したところで、扉が開く音が聞こえた。「まだ、そこにいたんだ」視線を扉の方へ向けると、走ってきたのか肩で息をする侑の姿が。

 

「打ち合わせの時間じゃねえだろ?」侑を通して美術準備室の使用許可をもらっているため、彼女がここに辿り着くことには全く疑問に思わなかった。しかし息を切らしてまで急いでくるということは、何かあったのだろうかと疑念が湧く。

 

 進一の心中を知ってか知らずか、少し呼吸を整えてから侑はゆっくりと部屋の中へと踏み出す。「昨日、歩夢と何かあったでしょ?」隣まで歩み寄って座り込む。彼の横顔を見つめる眼差しは真剣だ。

 すぐ近くに感じる熱誠(ねっせい)な視線に、進一は観念したように一つ嘆息(たんそく)を吐くと、彼女が荷物を取りに行っている間のやり取りを話す。怪我のことやこの先のことが、ぶつかってしまったことを。

 

「俺さ、歩夢が言った言葉が信じられなかったんだ」

 

 今回限りにしないと約束する、と言われても彼女のことが心配で首を縦に振ることができなかった。「いや怖かったんだよ。俺の夢が原因で、あいつが傷つくのが」ようやく胸の中で巣食っていた不安が吐露し、幾分(いくぶん)か心が軽くなったような気がする。

 

 分かっていた。歩夢が誰よりも諦めが悪いことを。

 だから、怖かった。それ以上傷つくことを。

 彼女にはずっと朗らかに笑って欲しい。これからも元気にライブして欲しい。

 

 折り重なった願いは、いつしか上原歩夢を縛ろうとする枷になっていたことに気づき、進一は改めて頭を抱えた。忘れていたのだ――上原歩夢という少女が、強かったことを。

 

「それだけ歩夢のこと、大事に思っていたってことでしょ?」

 

 もう一人の幼馴染は、彼の想いを認めた。「知っているよ。進一が歩夢のこと、すごく大好きなことぐらい」小さい頃からの付き合いがある彼女は、進一から目を離して穏やかな声で告げる。

 否定ではなく肯定をされ、進一の胸中は安堵(あんど)に満たされていく。今抱えている想いは間違いではなかったと。だからこそ、迷いはなくなった。

 

「歩夢はさ、ずっと歩いているよ」誰よりも歩夢の隣にいた少女の言葉に、進一は目を見開く。「転んだって、自分で立ち上がって、また歩いているから」知っていたけれど、知らなかったこと。もう誰かの影に隠れているのではなく、一人の人間として自立していたことを重ねて頓悟(とんご)する。

 

「まずは謝らねえといけねえや」

 

 心のどこかで対等に向き合えていなかったことを自覚し、バラバラになった色が一筋の光になって彼の双眸(そうぼう)が強く輝く。「それからとびきりいいステージを作って、歩夢を驚かせるぜ」ゆっくりと立ち上がった後、侑に向かって浮かべた笑みは、いたずらっぽくもありながら頼もしさを感じさせた。

 

 

 

 

 一方、歩夢は自室で安静にしていた――足を(くじ)いた故に、ベッドの上で大人しくするしか他はない。細かい手作業もので幾分(いくぶん)窮屈(きゅうくつ)な気分を紛らわしていたが、少しずつ手が止まってしまう。

 風邪を引いた訳でもないのに一日中ベッドの上に過ごすというのは、もどかしくなる。さらには晴れやかな夏空が自分の部屋から目にすることも手伝って、気持ちは滅入(めい)っていく。

 

 今すぐにでも練習をしたい。

 大切な人たちが協力してくれるだからこそ、いいライブをしたい。

 数少ない機会を、これからもあるかどうかも分からない今だから、後悔したくない。

 

 (うち)を渦巻く数々の思いが重なり合って、暗く黒くなる。けれど昨日帰宅している途中で言われた侑の言葉を思い出して、心を落ち着かせた。

 今だからこそ、ゆっくり進んでもいいんじゃないかな。進一と別れた後、バスの車内でぽつりと彼女が発した一言。

 耳にした瞬間、歩夢の中で力みが消えた気がした。いいライブをしなければならないという責任感に駆られ、ずっと足早に進もうとしていた――足元を確認する手間さえ惜しんで。

 だから、今は安静にして怪我の様相を少しでも良くすることに専念する。万全な状態では臨むことはできなくても、それに近づけるだけの努力はしたいから。

 

 静かな部屋に響く着信音。スマートフォンを手に取ってみると、昨日喧嘩……というよりかは少しすれ違いを起こした相手の名前が表示されていた。

 時間帯的には忙しそうに思えるが、疑問を片隅に置いて通話ボタンをタップして応じる。「どうしたの、進一くん?」

 

『昨日のことを謝りたくて、電話をかけたんだ』

 

 穏和な語勢の音吐(おんと)耳朶(じだ)を打つ。『今、大丈夫か?』優しげ声音が耳に届くものの、普段の快活な調子ではない。

 原因は何となく分かっているからか、歩夢の二つ返事で快諾する声もわずかに躊躇(ためら)いが混じる。大きな衝突ではなかったが、笑い飛ばせるほど軽いものではないから、少しだけ気を遣ってしまう。

 昨日の一件から微妙に遠慮がちな雰囲気が、スマートフォンを挟んで二人の間に漂う。

 

 何を言い出せばいいのかが分からないという逡巡(しゅんじゅん)ではなく、今踏み出していいのかという迷いが一瞬間の沈黙を生んだ。

 けれど刹那(せつな)の空白を埋めるように、意を決して歩夢から話題を切り出す。「それよりも進一くんの方は大丈夫なの?」きっと今頃は侑と打ち合わせをして、ステージ作りに集中しているはず――中止の判断になったのか分からないが故に手が進んでいなかったのなら話が別だが。

 

『まだ打ち合わせの時間じゃねえから、問題ないぜ』時間の心配を放り投げるような軽い笑い声が聞こえた。『怪我の方はどうだ?』穏やかさはそのままだが、少しだけ明るさを取り戻した彼の問いかけが戻ってくる。やや重たかった空気が、いつもの軽快さを持ち直し始めていく。

 

 視線を包帯を巻いた自分の足へ。足首から足の甲まで覆った白が痛々しさと違和感を与えるが、同時に保護しているという安心感も覚える。「歩くのはまだ大変かな……でも、昨日よりは良くなったよ」部屋の外へ向かう際に不意に体重を預けてしまった時は痛みが走るが、固定して冷やしている故に幾分(いくぶん)か楽になっていた。

 ステージに立つ時はきっと痛みとの戦いになるだろう。だが自分で決めた以上は、やり通したい。

 

 短い呼気がスピーカー越しに聞こえた直後、進一が口を開く。『昨日、歩夢のことを信じられなくて、ごめんなさい』真剣な声音で述べられた謝罪に、歩夢はほんの少しだけ驚嘆(きょうたん)するが、謝る時の言葉は幼い頃から変わっていないことに気づいて口元を綻ばせた。本当に謝りたい時は、いつもその言葉だよね、と。

 

「私の方こそ、心配かけてごめんなさい」

 

 侑の言う通り、焦る必要はなかったのだと改めて実感する。「進一くんや侑ちゃんが協力してくれるから、絶対いいライブにするって焦っちゃってた」距離は遠くなるかもしれない、けれど変わらないものだってあることを彼の言葉を聞いて心底感じ、()き物が落ちたような気がした。

 全力で走ることはとても大事なことだ。しかし大事なものを抱え込んでなりふり構わず突っ走って転んでは意味がない。

 むしろ大事なものだからこそ、ゆっくりと進もう。気持ちを新たにして、前を向いて。

 

『俺もさ、怖かったんだよ』静かに紡がれる彼の本心。歩夢はただじっと耳を()ますだけ。『信じたら、もっと歩夢が無茶するんじゃねえかって』声が微かに震えており、このことを口にすれば裏切ったという証明になるのでは、という恐怖がひしひしと伝わってきた。

 確かに身近にいる親しい人間から信じてもらえないことほど、寂しくも悲しいものはない。やはり怪我のことでは信じてもらえなかったんだと、少しだけ歩夢の気持ちが沈む。

 

「心配してくれて、ありがとう」

 

 だが口にしていたのは信じてくれなかったことへの不満ではなく、自分の身を案じてくれた感謝。「でも、やっぱり私ライブがしたい」彼の不安も含めて大事なものを抱えて進みたいと思いつつ、歩夢は芯の通った語気で告げる。どこからか温かい風が吹き、心を包み背中を押している気がして、決意がゆっくりと前へと進み始めていく。

 

『分かってる』

 

 彼女の穏やかながらも譲れない想いが伝播(でんぱ)したのか、進一も温和な語調で理解の意を示す。『だから、待ってるぞ』力強く伝えられた言葉は、確実に歩夢の決意を後押しするに十分。

 うんと相槌(あいづち)を打ち、待ってくれる嬉しさに双眸(そうぼう)を細めながら歩夢は戻ってくると約束を口にする。返答は信じているという言葉――ようやく二人の色が重なりあった。

 

 

 

 

 和解の電話から数日後、カウントを取る声とステップを踏むスニーカーの音が虹ヶ咲学園の屋上を小気味よく占領する。溌溂とした調子でせつ菜がリズムを口にしつつも、丁寧な足運びをする歩夢の挙動に目を配っていた。まだ怪我が治りきっていないのか、どこか動きに硬さが見え、少しだけダンスをしている少女の顔も強張っているよう。

 

 彼女の様相を見て、少しだけ数を重ねてから休憩に入る。「足の具合はまだ大丈夫そうではなさそうですね」歩夢にタオルやドリンクを手渡しつつ、せつ菜は愁眉(しゅうび)を寄せて口を開く。

「まだちょっと痛むかな」差し出されたものを受け取り、汗を拭いながら歩夢は少しだけ顔をしかめるが、すぐさま朗らかに笑った。「けど、このぐらいは平気だよ」

 

「だからと言って、無理は禁物ですよ」

 

 流石に一気に背伸びすることはないだろうが、限界のラインをギリギリまで踏み込みそうではあると感じながら、せつ菜はたしなめる。「痛みが酷いようでしたら、絶対に休んでくださいね」他のメンバーが心配していた様子を思い返し、改めて釘を刺す。今怪我を押してライブをしようとしているのだから、ことさら侑や彼女らの幼馴染が心配する気持ちも理解できる。

 現状を分かっているが故にか、歩夢は眉尻をやや下げて苦笑いして了承した。途端、つと下の様子が気になったのか、立ち上がって欄干の方へ近づく。

 

 せつ菜もつられて見に行くと、大急ぎで大通りを横切る少年少女の姿があった。遠くからだが黒髪を二つ結わえているところを見るに、女子生徒の方は侑だと推測し、その隣にいる見慣れない男子学生は時折話題に挙がっていた幼馴染だと料簡(りょうけん)を立てる。

 

「お二人とも、楽しそうですね」賑やかに通り過ぎていく彼らを目にし、せつ菜は満面の笑みを浮かべて楽しげに声を弾ませた。活発に裏方が活動している様を見ると、自分のステージではないものの、つい心が躍ってしまう。ライブに携わる人々の大好きが詰まっているから、ワクワクが止まらない訳がない。

 

 隣で幼馴染たちの様子を見守っていた歩夢が、柔和に頷いて呟く。「やっぱり歌いたいな」ぽつりと零した想いは、確固たる決意を芽吹かせていた。「みんなが作ってくれたステージを、込められた想いも全部花開かせたい」もう満開の時期は近いだろうと予期させるような、力強い宣言が耳朶(じだ)を打つ。

 

 前向きな歩夢の言葉に、せつ菜は満足そうに首を縦に振る。「私もお手伝いしますので、どーんとみんなの大好きを爆発させましょう!」彼女の熱い想いに負けじと、拳を突き上げて高らかに告げた。ならば突き進むだけだと、猛々しく燃え盛る炎のように心を熱くして。

 

 熱烈な好意へ歩夢は素直に礼を言い、「早速手伝って欲しいことがあるんだけど、平気?」と質問を投げかける。相変わらず表情は柔らかいものの、金糸雀(かなりあ)色の双眸(そうぼう)に決意を表すかのように強い光が宿っていた。

 真剣な眼差しに応えるように、せつ菜も気勢溢れる態度で快諾する。彼女の意を認めた歩夢は、短く息を吐いてから眉尻を上げて熱誠(ねっせい)な面持ちで口を開く。「実はね――」

 

 

 

 

 練習や会場設営にそれぞれ集中し、迎えたライブ当日――進一はバイクではなく、侑や歩夢と一緒にバスで会場である虹ヶ咲学園へ。中学生以来だと三者三様に笑って、思い出話を通り道で花咲かせる。

 

 もう来ないと思っていた、懐かしい光景。隣で並んでいる幼馴染たちを見て、進一は少しだけ泣きそうになっていた。けれどほんのわずかに(おとがい)を上げて彼女らにバレないように堪えながら、いつもの快活な調子で賑々しく歩く先を彩っていく。まだ泣くのは早い、夢が叶った瞬間にまでとっておきたいから。

 

 会場まで辿り着くと、歩夢はリハーサルの準備、進一と侑は機材の運搬やチェックで分かれる。そのまま平穏無事にライブを迎えることができると思っていたが――「歩夢がいない!?」驚嘆(きょうたん)する進一の声が中庭で響き渡る。

 

 こくりと頷き、侑は眉尻を下げて力なく話す。「リハーサル終わった後は、部室で休憩してたけど……」本番まで時間が差し迫っている中、忽然(こつぜん)と歩夢の姿が消えた。

 

 詳しく経緯を聞くには、昼休み中に一緒にご飯を食べた後、飲み物を買いに行ったきり帰ってこないとのこと。怪我している足に負担をかけないように、侑が買いに行くと告げたのだが断られ、そのまま部室の外に。もしかしたら他にも用があったから自分から買いに行ったのかもしれないが、ギリギリまで遅くなるようなことは滅多にしないはず――何か大事に巻き込まれていなければの話だが。

 

「電話とかは?」恐らく几帳面な彼女なら携帯を忘れることはないだろうと(たず)ねてみたが、侑は首を横に振る。「分かった。俺も探すぜ」これ以上訊ねても意味よりも歩夢を探す方が先決だと判断し、即急に進一は手伝いを申し出た。

 お願いと侑も快諾し、探して欲しい方角を見て任せたと言い、走り始める。進一も任せとけと威勢よく返事をし、駆けていく。不穏なことが起きないで欲しいと願いつつ。

 

 

 

 

 少し時間を(さかのぼ)って――リハーサルも終わり、昼食も済ませた後、歩夢は自動販売機の方へと練習着姿で一人歩いていた。怪我をしているから休める時に休んで欲しいという侑の好意を断って自力で動いていたのは、一人だけの時間が欲しかったから。ゆっくりと今日踊るステージをしっかりと心に焼きつけたい――淡いピンク色を中心に彩られた花が溢れるバックボードは、いつか見た地面に描かれた花を思い出して、ふわりと温かい風に包まれたような気がした。

 

 夢がもうすぐ叶う。緊張と興奮が混ざり合って、心も体も爆発したように動き出しそうになる。

 けれど今は落ち着かせる時間。普段なら侑や進一などらと話している時は安心感を得るのだが、今回は逆に気持ちがはやってしまう。

 だから一人だけの時間を設けるために、あえて侑の懇意(こんい)をやんわりと首を横に振って自分だけで自動販売機まで歩いていた。

 

 時折窓の外を見ると、空が快く晴れている様が目に映る。紺碧(こんぺき)が際限なく広がっていくが、恐怖はない。自分自身も踏み出していけそうな気がしていたから。

 

 深々とした青空に目を奪われていたら、声を耳にする。気になって聞こえた方向へ顔を向けると、一人の少女が泣きながら母親を呼んでいた。

 彼女に歩み寄って声をかけると、お母さんがどこかに行っちゃったと涙まみれの答えが返ってくる。迷子だろうかという予想は当たり、なおさら放っておけない気持ちが湧き立つ。

 一緒に探そうと提案し、少女と共に学内を歩いていく。本番まで、まだ時間は余裕があるはず。ただ侑たちを心配させないように連絡は入れよう。

 

 ――と思っていたが、スマートフォンを部室に置いたままだと気づき、頭を抱える。けれど部室から距離が離れてしまい、今さら戻ろうにも時間がかかるのが目に見えている。

 

 つと少女の顔を一瞥(いちべつ)すると、不安そうな表情で顔が強張っていた。無理もない、虹ヶ咲学園の広大な校内にただ一人残されるのは恐怖を覚えるだろう。

 人気のない森閑(しんかん)とした雰囲気が流れていることも加わり、ことさら幼き少女が怖れを抱くのは至極(しごく)当然。昼間の時間帯ならともかく夜中であれば、歩夢も歩きたくはないと思う。

 

 だからこそ、彼女を手を握りしめて優しく声をかけ続けた。大丈夫、絶対会えるよ。脳裏には二人の幼馴染が泣き出した自分を励ましたり、慰めたりしていた年少の頃が浮んでいく。

 

 迷子の少女と同じぐらいの年頃、怪我したことで泣いたことはなかったものの、事あるごとによく涙を流していた。その度に侑や進一にたくさん助けてもらったなと申し訳なさと感謝の念が入り混じり、苦笑い。泣きっぱなしの小さな時代を過ごしてきたから、しっかり者の歩夢として幼馴染たちを支えて恩返しがしたい、と思っていた。

 

 花が咲き誇るステージに立つ日に思い返すのは、当時お気に入りだったヘアピンを失くし、いつになく大泣きして彼らを困らせてしまったあの日。前髪につける前にどこかで落としたらしく、気がついたら手元にはなかった――大事なものだからとことん探したものの、見つからなかった時のショックは大きかったのは今でも覚えている。

 

 その時だった。侑が懸命になだめているところ、進一が地面に大輪の花が印象的なステージを描いた。つい最近見たイラストよりも簡素で粗削(あらけず)りなものだったが、歩夢の目には輝いて見えた。

 ああ、なんて素敵なステージだろう。心に焼きついて、離れない光景。いつかこの中に飛び込んでみたい、幼き頃特有のぼんやりとした夢だったが、今ははっきりと目の前に現れている。

 

 大切なものはずっと昔から抱えていて、忘れていない、消えていない。だからこそ、今日という日を大切にしていこうと、心に決めた。

 

 昔話の欠片を織り交ぜて少女と話をしていき、会場から少しだけ遠い通りまで辿り着く。しかし人影は見当たらない――と思いきや、見知らぬ女性がこちらに向かってくる姿が遠目で確認できる。

 隣からお母さんと呼ぶ声が聞こえ、女性も名前で呼び返す。二人が親子だと気づくと、歩夢は自然と結びを解いていき、少女が自ら手を離して母親の方へ駆け出した。

 

 微笑ましい親子の会話を交わした後、母親に礼を言われて大したことはしていないと謙遜。少女にも感謝の言葉を告げられ、優しく相好(そうごう)を崩す。長話はせず、いくつか訊ねられたことを答えたのち、母親は改めて歩夢に礼を言い、娘を連れて来た道を戻っていく。

 

 姿が見えなくなるまで、歩夢は柔和に双眸(そうぼう)を細めて見送りつつ、過去の自分が問いかける。今まで誰かに支えられた分、わずかでも恩返しができたのかな。できたのかは分からないけど、誰かの手助けになることはこれからもあるよ、と少しだけ胸を張って穏やかに笑った。

 

 

 

 

 その頃、進一はまだ歩夢を見つけられずに奔走(ほんそう)していた。怪我のことがあるから、できれば遠くにいて欲しくないと願いつつ、ひたすら地面を蹴り続ける。呼吸がやや苦しくなって、速度が落としそうになるところ、もうひと踏ん張りと鞭を打って保つ。

 

 幼い頃、歩夢が迷子になったと大騒ぎして侑と二人で探していたこともあったと、つと思い返す。あの時は彼女が自分達よりも一つか二つ年下の子の面倒を見ていたため、いつもより少しだけ遠い場所で遊んでいた。見つけた時は、半べそ状態で歩夢を困らせてしまったような気がする。

 

 彼女は優しい。本当に誰とも笑顔で物腰柔らかく接するから、いつの間にか距離が縮まっている。だから、たまに誰かのために遠くに行くこともあった。

 変わっているようで変わらないところ。年を重ねてもあの頃のままだと、少しだけ口の端が上がった。もう焦る必要も、怖れる必要もないと過去の自分が背中を押しているような気がして、心も体も加速していく。

 

 息を切らしながら、会場から離れた通りに到着し、ようやく歩夢を見つけた。彼女が繋いだ手の先には小さな女の子の姿が。そして奥の方から女性が彼女らに駆け寄っていくのが見える。顔立ちからして、少女の母親だろう。

 恐らく迷子になっていたところを歩夢が見つけて、一緒に探していたのだと料簡(りょうけん)を立てる。ならば戻ってこなかったのも納得がいく――どうして連絡が取れなかったのは、分からないところだが。

 

 親子と歩夢の会話の終始を後方から見守り、またねと優しく少女を見送る歩夢の背を見て、呟く。「歩夢、大きくなったな」三人の中で一番背が低かった少女の面影を残しつつ、今では侑より大きくなった背丈を見て、改めて彼女の成長を感じた。もう守られるだけの存在ではない、共に歩み進む仲間なのだと。

 

「進一くん?」歩夢は振り返り、反応する。目の前に彼がいたことで事態を察したのか、申し訳なさそうに眉尻を下げて謝る。「ごめんね、急にいなくなちゃって……」

「心配したぞ」相好(そうごう)や口調を一瞬だけ険しくした後、進一の表情と声音は穏やかだった。「皆が待ってるぜ」告げるべき言葉はそれ以上必要ない。全ては終わった後からだ。

 

 本番がもうすぐだと理解しているらしく、歩夢は真面目な顔つきで頷く。そして進一が次の句を継ぐ前に、彼の手を取って走り始めた。

 突飛な彼女の行動に進一は驚愕し、手を引かれるまま足を動かす。平静を取り戻して制止の声を上げようと思ったが、つと握っている手の感触に意識を傾けてしまった。いつから歩夢の手はこんなにも大きくなったのだろうかと。

 

 記憶の中にあった彼女の手は、もう少し小さかったはず。それこそ、自分が握り潰してしまわないかと不安になるほどか弱い手つきだった。けれど今はしっかりと自分の手を握りしめる力強さもあり、進一よりは小さいものの大事なものを包めるような大きさを感じる。

 思っていた以上に、変わっていた。だが不思議と寂しいと思うことはなく、ほんの少しだけ相好(そうごう)を崩す。もう本当に子供ではないのだな――まるで子の成長を見守る父親のように。

 

 とはいえ、このまま彼女を走らせて足の怪我を悪化させるわけにはいかないため、呼び止めた。歩夢の足が徐々に速度を落としていき、やがて止まる。振り返った彼女の顔色は悪くないものの、痛みから強張っているのが読み取れた。

 急がなくてはいけないというのに、制止を強く声出したことへ歩夢は小首を傾げて理由を(たず)ねる。しかし進一は言葉ではなく行動で応える――あっさりと彼女を抱きかかえると、しっかり掴まっていろと有無を言わさないまま再び走り出したのだ。

 

 もちろん歩夢からの抗議は出るが、先程のように痛みを抱えたまま走るよりは賢明な判断だと息を切らしながら返答してはねのける。涼やかな風を浴びて冷静さが戻ったのか、歩夢はライブがあることを口にして、改めて彼に会場まで運んでもらうことを頼む。やはり申し訳なさが立ったらしく、感謝と謝罪の言葉は併存していた。

 お安い御用、口の端を不敵(ふてき)に吊り上げて進一はさらに快足を飛ばす。会話が途切れた後、沈黙を肩で切って走り続けた先、会場が見えてきた。

 

 

 

 

「あ、歩夢先輩来ました!」

 

 ステージ裏の待機所にて、侑は歩夢たちが来るのを待っていると、吉報が飛んできた。声がした方に顔を向けると、進一が歩夢を抱きかかえて、こちらに向かって走ってくるのが視認できる。

 

 彼らが到着すると、抱えられていた歩夢は下ろされて自分の足で立つ。見たところ、大して問題がないような様子――流石に元から怪我を抱えているから多少は無事な方に体重が寄っているが、今朝見た時と比べても顕色はない。

 安堵(あんど)したように小さく息を吐いて、「待ってたよ」と侑は微笑みかけた。対して、歩夢は眉尻を下げて「ごめん」と謝る。たしなめるような言葉があっても、誰も彼女を譴責(けんせき)することはなく、温かく迎えながらステージに向かう支度をするように促す。

 

「じゃあ、行ってくるね」

 

 深呼吸を一つして、歩夢は進一や侑へ朗らかに力強く告げると、幼馴染たちに背を向けて準備しに去っていく。足取りに不安を感じることはなく、怪我を抱えているという懸念が軽減して見送る二人の間に緩やかな空気が流れる。後はステージ上で何も起きないことを祈るばかり。

 

 ようやく一安心したところで、侑が口を開く。「歩夢にお触り禁止って言ったよね」表情こそは平静そのものだが、声音が鋭利な切っ先のように進一を突き刺す。基本的に彼らは、けん制し合っている仲であり、暗黙の了解がいくつもある――今回の歩夢に直接触ることもその一つ。

 

「さっきのは、勘弁してくださいって」

 

 破ってしまったことに気づいて、進一は先程の頼もしい態度から一変して情けない語調で頭を下げる。「足の怪我を考えたら、あれしかなかったんです」敬語になっているのは、声からしてかなり琴線(きんせん)に触れてしまったのだと察し、少しでも許しを請おうとへりくだっているから。

 

 昔から歩夢関連で釘を幾重(いくえ)も刺されているため、普段は彼女に抱きつくことはおろか、手を繋ぐことさえ禁止。衝動的に動こうとすると、度々侑に阻止されるのがお決まり――結果、彼女がいようがいまいが歩夢と一緒にいる時はあまり接触することはないように己を律している。

 ただ先日の一件は緊急時であったが故に、許されたと言えば許された。だから今日も仕方ないことだと許容して欲しいと、頭を下げるだけ。

 

「冗談だよ」侑の笑い声が降ってくる。顔を上げて目を見合わせると、彼女は優しげな語勢で「ありがとう」と伝える。怒られている訳ではなかったのかと胸を撫で下ろし、進一も破顔(はがん)して「おう」と頼もしく返した。昔から大好きな歩夢のことだから、助けたいに決まっていると。

 

「私たちも行こうか」

 

 観客席の方へ目を向けた侑の瞳は宝石のように輝いていた。もうすぐ想いが花開くのだから、楽しみな気持ちは進一も痛いほど理解している。

 だから二人はときめきを胸に、客席へと歩いていく。花咲く瞬間を最も輝いて見える場所で見届けるために。

 

 

 

 

 薄っすらとオレンジ色が紺碧(こんぺき)を侵食し始めた頃合い、ステージ前には人が集まっていた。大規模な会場ではない故に、大勢で活気溢れている訳ではないが、それでも彼女の晴れ舞台を今か今かと待ちわびている。

 

 舞台裏で演壇(えんだん)に上がる直前、華やかなドレス調の衣装に身を包んだ歩夢は、心を落ち着かせるために目を閉じて深呼吸した。心臓の鼓動が、いつもより早くなっている――やはりステージに立つことは、緊張して慣れない。

 さらには(くじ)いた方の足が痛む。テーピングテープで固定しているため、多少の運動は平気だが踊るとなると不安が強くなる一方。悪化するのではないかと、ブレーキがかかり始めていく。

 足元の影が濃くなったような気がした。今踏み出そうとしたら、きっと底なしの穴に落ちてしまいそう。恐怖で足が固まって、一歩も動けない。

 

 ――と、以前なら怯えていた。けれど今は温かな風に包まれ、前に進める。大丈夫、皆の夢を叶いに行こう。

 

 (まぶた)を上げて、堂々とした面持ちで歩夢は前を向くと、ゆっくりと一歩ずつ三人の想いが一つになった場所へ。ここまで歩いてきた自分が、一緒に歩んでくれた仲間が、背中を押してくれているようだった。

 

「――虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会の上原歩夢です! 大切な人たちと作り上げたこのステージで、私の、私たちの想いを歌います!」

 

 

 

 

「歩夢って、もうあんだけ大きくなったんだな」

 

 曲が始まり、数日間で作り上げた舞台上で踊る歩夢の姿を目にした進一は感慨(かんがい)深げに呟く。普段は引っ込み思案であまり表に出たがらない幼馴染が、いつの間にか大勢の前で歌を披露するとは、中学までの自分に言ったら驚くだろう。

 歌詞に込められた想いを丁寧に歌い上げる姿に、彼はただ感動していた。夢が叶った達成感よりも、上原歩夢という少女が成長して真っ直ぐ歩んでいく姿勢が、目に焼きついていく。

 

「うん、知ってる」

 

 隣に立つ侑は楽しげに頷いた。彼らの視線の先には、モニターも大がかりな装置もない簡素な作りのステージと懸命にパフォーマンスをする歩夢の姿が。

 彼女の背後にそびえ立つバックボードは淡いピンクの花が力強く咲き誇り、その花びらたちが優しい風に運ばれていく様が描かれ装飾されている。歩夢自身が持っている魅力と世界観だけ構成されたステージだからこそ、中心に立つ少女の華やかさがより一層目立つ。

 

 少しだけ相好(そうごう)が硬かった進一も笑う。「やっぱり可愛いよな」いつもの明朗快活(めいろうかいかつ)な調子を取り戻し、ライブをとことん楽しんでいた。歩夢は可愛い、昔から絶対に変わらないこと。

 

「でしょ」と自慢げに侑は言ってのけ、両手に持っているブレードライトを大振りに振っていく。中央にいる少女は、彼らの応援に応えるかのように朗らかに笑って歌う。怪我を考慮してなのか、想いを伝えることに主軸を置いた落ち着いた振り付けは普段より活発さがない分、花が空高く咲こうとする力強さを感じた。

 

 サビに入ると同時に、花びらにも()した紙吹雪が舞う。バックボードのデザインも相まって、本当に花びらが風に運ばれていくようにも見える。

 

 進一がステージデザインを考えていた時に、侑から出されたアイディアが上手く絡みつき、見事満開な花が一つ生まれた。「私ね、今度は自分で作曲して恩返ししたい」自分が考えた演出を見ながら、侑は静かに宣言する。「その時はさ、またステージ作ってくれる?」彼女の瞳は、淡いピンクで彩られた可愛らしい歩夢に釘付けで一寸たりとも動く気配はない。

 

「ったり前だ」頼もしい返答をする進一も全く侑の横顔を見ようとしなかった。「いつまでも待たせんなよ」契り代わりに拳を突き出し、いたずらっぽい笑みを浮かべた。時間は有限、だが彼女の曲と歩夢の世界観を持つステージを絶対に作りたいという欲求はずっと湧き立つ。

 

「分かってるって」軽快ながらも芯の通った声音で告げ、侑は彼の拳に自身の拳を軽く打ちつけた。と同時に、歩夢が最後の歌詞を伸びやかに歌いきる――まだ青春が終わる足音は遠い。

 

 

 

 

 ライブが終演し、撤収作業も終える頃にはすっかり日は暮れていた。幼馴染三人はバスに共に乗車、最後列の大人数席に座り、先程のライブ談義に花を咲かせる。

 

「歩夢、振り付け変えた?」と侑が訊ねたら、こくりと頷いて歩夢が「せつ菜ちゃんと相談してね」と柔和に微笑んで返答。「だから、振り付けが少し変わってたんだな」と進一が相槌(あいづち)を打って、感想を伝える。まるで昔三人で映画を見に行った時だねと三人はまた笑う。

 

 自宅付近のバス停に降車して、マンションの出入り口にある階段前まで歩くと、進一が足を止めた。「今日はありがとうな。歩夢も侑も」二人と向き合って、穏やかに双眸(そうぼう)を細めて相好(そうごう)を崩して感謝の言葉を口にする。きっと叶わないだろうと思った夢が叶い、また今度協力する時はもっと素敵なステージにしたいという夢ができたのだから。

 

「私こそ侑ちゃん、進一くん、ありがとう」歩夢も嬉しそうにはにかみ応える。彼女の隣にいる侑は流れに逆らうように少しだけ目を逸らすが、歩夢に見つめられると(しわぶき)一つ払って、言う。「歩夢も進一もありがとう。やっぱり二人を見て、私も自分の夢を叶えたいって思った」夏が過ぎた後に新天地へ向かう侑は、決意を緑色の瞳に(たぎ)らせ、強い光を宿す。

 

「またライブ、やろうね」

 

 屈託のない笑顔を浮かべた歩夢が言った言葉。侑も進一も躊躇(ためら)いなく首を縦に振る。これからも叶えたい夢に変わりないのだから、迷いなんてない。

 約束を交わした三人は幼き日と同じように階段をゆっくりと上る。進一は二人と子供のように笑って話しつつ、(うち)で密かに想い、誓う。

 

 地図を見ても迷うことはあるだろう、何気ない段差で転ぶこともあるだろう。だけど、どんなに果てしない道だとしても、夢が決して逃げないことを知っている。だから今日もらった勇気を胸に、未来へ共に進もうと。




 最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

 この度は男のオリ主も交えてニジガクの話を書いてみたい――というのもありましたが、元々その手の話に好印象を持っていなかったのをどうしたら自分なりに捉え直すことができるのか思考実験がてらに書き出しました。

 基本的にニジガクの小説を書く時は、同好会のメンバー同士が和気あいあいとしたり、切磋琢磨したりする百合ものを書いていたので、この作品はかなり新鮮な気持ちになりました。
 正直、天野進一くんのキャラクター性に助けられたところも大きいですが、意外と楽しかったので彼を交えた短い話も機会があれば書きたいなと思っています。

 では、この辺りで筆を休めます。
 改めまして、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


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