二度目の天皇賞秋に挑むサイレンススズカの話。
ゴールだけを目指してひた走る彼女の瞳には何が写ったのか。それを見守るお話。

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yours

「私には走ることしか出来ませんから」

 

 私は走ることしか出来ない。

 

 そう思ったのはいつの事だっただろう。

 まだ田舎にいた時、私以外は誰もいない。私だけの世界。

 走って走って。

 辿り着くのは喧騒のないどこまでも孤独な原っぱ。

 小鳥の囀りや芝を駆け抜ける風。青い空に緑の木々。全てが私だけの物。

 大きく息を吸って青い空気を取り込む。冷たい空気が身体中を巡っていく様な錯覚。そして熱くなった青かった空気をゆっくりと吐き出していく。

 この世界に私が溶け込んでいくように。

 

 スーーーー……、、ッッ。ハーーーーっ。

 深く呼吸をする中で青い空気は私の体を巡り、この景色の一部としてくれる。そんな気がする。私がここにいることも自然である様に。

 

 ようやく、二度目の熱を吐いた。

 落ち着いていくはずの心臓は冷たい空気を取り込み加速した。鼓動が速く。

 このままだと死んじゃうのかしら。なんて思うけれど。好きなものを目にしているときに死んでしまうのならそれも悪くはないわ。

見渡す景色の前には些細なこと。この景色、私の大好きな譲れないもの。

 いつかこの景色の果てが、この先が見れるように。辿り着ける様に。

 忘れない様にと胸に刻んで景色を追い求めたのが私の……サイレンススズカの始まり。

 

 

 その景色を求めて走るのも好きになった。走っている時は周りのことを全て忘れられる。私しかいなくて問いも答えも言葉も何も無い私だけ。

 私と世界しかない。朝も昼も夜も。明るい時でも真っ暗な中でも私だけ。

 そんな世界を走っている時だけは私は私になれた。サイレンススズカの要る場所は此処だと。

 この場所が私に必要で、私はこの場所でならどこまでもいけると信じられた。

この走りなら「果てまで駆け抜けられる」そう思えた。

 

 いつの日か父と母がレースに出てみたらどうだ。と勧めてくれた。でも私はレースに興味はなかった。私は私の好きな走りを続けていれば求めていた景色が観れると思っていたから。走れる場所があれば良かった。

 一人で走っているだけで良かった。

 小さな街のレースや学校でのレース。色んなレースに誘われるようになった。

 気づいたらトレセン学園に進むことになり、本気で競走バとして走ることが楽しくなっていた。此処で見られる景色なら私は終えられるかもしれないわ。

 

 

 死ぬまでこの景色を見続けるのは幸せかもしれないと。

 速さと景色その二つを求めて走り続けたい。

 スピードだけを求めてきた走りだけは誰にも負けたくないと。

 私だけの景色を求めてきた誰にも譲りたくないと。

 

 【サイレンススズカ】は何処までも走るのが役目なんだと思っていた。

 

 死に場所というには物騒かもしれないけど

私はきっと、そう……きっと

 サイレンススズカが終われるところ。私自身が納得できる場所を探している。

 

「ねぇトレーナーさん」

 

 私に夢と呼ばれるものはありません。走って走って……走り続けた景色のその先。私が焦がれたものを見る為。そのために走っています。

 

「私が走ってる理由ってそんなものなんです」

 

「ねぇ……トレーナーさん」

 

 

 

 私たち、ウマ娘にとって大切とされるデビューからの三年間、クラシック戦線。今後のレース人生を左右すると言われる大事な期間。

 トレーナーさんには迷惑をかけたと思う。重賞でも勝ち星を挙げられず、ジュニアとクラシックは終わりを告げた。

 そんな中、迎えたシニア初戦。

 トレーナーさんからの指示はひとつだけ

 

「好きに走りなさい」

 

 好きに走るとはどういうことだろう。聞き返そうとしたけれど言葉は上手く出なくて、

 

「君に楽しんで走って欲しいんだ」

 

 楽しんで走る。

 

「ゴール板で待ってるから。いってらっしゃい」

 

 返す言葉が分からなくて浮かばなくて……絞り出した言葉は

 

「行ってきます」

 

だったと思う。その日から私は異次元の逃亡者と呼ばれるようになった。

 

 

 バレンタインステークスから始まったシニアの一年。変わった事といえば異次元の逃亡者と呼ばれるようになった事ぐらい。

 中山記念、小倉大賞典、金鯱賞。

 どれも変わらなかった。それは今日も変わらないみたいで、ファンファーレが鳴り響く……

 

 ゲートに一歩、二歩。近づくたびに音が色が気配が消えていく。

 周りの子が秘めた熱意。盛り上がり続ける歓声。

 

 全て消えていく。

 足元から広がる色褪せた灰色の世界はどこに私を連れて行こうとしているのだろう。私の景色はこの先にあるのかしら。

 灰色のゲートは私の前を重く。

 

 少しずつ、少しずつ。

 視界が狭く、いつも通り。深く吸って……、大きく吐く。

 ピリリと引き締めるような寒さが私の輪郭を撫でている。風が少し強いのかしら。

 

 少しずつ。少しずつ。

 指先の感覚も、吸い込んだ空気、芝の匂いも消えていく。場上に出た時落ち着かせた心臓がまた高鳴り始めた。

 そして私の鼓動だけが響く。

 

 音は少しずつ、加速して。

 私の体から溢れ出ているんじゃ無いかと思うぐらい、大きくなった。

 

 ドクンドクン。

 ドクッドクッドクッ……

 跳ねるたびに大きくて重くそして速く。落ち着いて欲しい、思うたびに跳ねる鼓動は加速し続けて、灰の中で鼓動だけが私を満たしている。

 

 

 開いた。

 

 

 重くガコンッ。という音が響いたんだろう。私には心臓の鼓動しか聞こえないから分からなかったけれど。私の世界この灰の中には私しか居られない。

 ゲートが空いたら走る。何処までも気が済むまで、私が元に戻るまで。

 

 気がつくとレース場は歓声に包まれていて、目指そうとしていたゴール板という装飾の施された終着点はとうに過ぎている。私が立っていたのは、ありもしないコーナー手前。

 

 

 あぁ、やっぱりいつもと変わらない。

 歓声と私の名前を呼ぶ声に引き戻されるように、何処か俯瞰して見えていた世界がグンと近づいてくる。大外、視界のすみっこから私めがけて彩は帰ってくる。

 今日も私は灰の中を走っていた。いつの日かこの景色の先が見えるのだろうか……

 

 走り終わるたびに憧景だけが胸を焼く。

 

「君の走りは孤独で……」

 

 私の心の奥底で、絶えないようにと。絶えず、いろがくべられる。

 

 

 

 私が初めて興味を持った相手、私のトレーナーさん。

 普通の人だと思うのは本当に最初だけ……普通の人だったらこんな風に声をかけて来るはずないわよね。やっぱりあの人は変な人だと思うわ。

 今でも忘れない。焼きついて離れない。沈む太陽、赤焼けた空。大きな影が私の足元まで伸びていた黒い影。影の先には知らない人。

 ウマ娘ではないからトレーナーさんか整備の人か。

 その景色を思い出すと色が鮮明に、夕焼けに土の匂い。直前まで走っていた私の体が覚えている熱を蘇らせる。彼も私の方へ動き出す。何度も繰り返しみたい動き、同じ言葉を

 

「君の走りは孤独で

 そして誰よりも自由だ」

 

 その言葉は私の心に強く残った。

 私に走る以外の意味があるんだろうか。

 その答えはまだ……

 

_______________________

 

 時に世界には天才と呼ばれる者が現れる時がある。

 そんな彼らの中に一つだけ共通しているもの、それは常識というのは壊せる壁だということ。

 

 彼女【サイレンススズカ】もその天才達の一人なんだと思う。

 

 ウマ娘の世界には速さは与えられた才能、スタミナは努力で伸ばせる才能。と言われることがある。

 彼女の速さの才能は限界ギリギリ。ウマ娘の種族、その存在を壊してしまう一歩手前まで発揮して走っている。普通では辿り着くことがなく、たどり着いてしまったものは悉く……その足を奪われる。

 

 走るために生まれ、ゴールだけその光を目指してひた走る。

 

 そう言われる彼女達は走りつづけた先に答えを探しながらも辿り着いた瞬間にはそこには居られない。

 彼女もきっとそこまで辿り着いてしまうだろう、いつかきっと。

 スズカには速さの他にも突出した物が備わってしまっている。最初から持っていたのか、それとも今までの中で備えたのか。どちらか分からないがここトレセン学園に来た頃には既に持っていた。備えられてしまっていた。

 全てを気にしない、ただ自分だけ。自分の世界とそこでの走り方を。

 異質で他の誰も持ち得ないその才能は集中力のその先にあるもの。特定の条件、状態、自身のコンディションから踏み込むことが許されるそれはゾーンと呼ばれる。

 極地の一つ、自分の限界を超えた先の力でいつも通りを超えるためのもの。身体の異常や疲れ、パフォーマンスが下がることを気にすることが無くなりただ一つの目的、その為に命を燃やすことが出来るその才能を彼女は持ち得てしまった。

 

 彼女は

「走ることしか出来ないから」

と、

「走らない私には意味がないだからサイレンススズカは走るんです」

と。

 ウマ娘。彼女たちは走る為に生まれて瞳に焼きついたゴールの彼方を目指し駆ける。

そういう運命。なのだという。

 勝ちたいという欲がさらに彼女達をレースへと駆り立てる。

 

 誰より先へ、まだ誰も到達できていない走りの先へ。

 

 彼女は負けたくはない、譲りたくない。とは言うものの勝ちたいというのは聞いた事がない。

 あくまで勝ちたいんじゃなく彼女がスズカが見ているものを誰にも譲れない……だけなのだろう。勝ちは求めていないけど勝ちじゃないと納得できない。なんとも面倒くさいと思うし、大変だ。

 

 走るしかできないという彼女のその繰り返される言葉はもはや狂気も宿っていると思う。

 景色を求め、さらに自分を昂らせてくれる景色。何かを感じた景色のその果てが見たい。そのためにレースに出ると。

 その彼女は一度僕に問いかけてきた事がある。

 

「貴方は私を芝の上で殺してくれますか?」

 

 何も言えなかった。

 彼女を掬い上げる術が見つからなかった。

 

 

「ふと…考える事があるんです」

 

「私は、私だけの景色を求めて走っています」

 

「その最中、何かが見える前に光に包まれる時が……」

 

「その光を超えると私が求め続けている景色が少しだけ見えるんです」

 

「でも、きっと……その景色の速さを続けていると壊れてしまう。いつか……ガラスのようにポッキリと音もなく、崩れて消えてしまう」

 

「私たちにはレースを引退するという選択肢があります。これ以上は走れない、故障してしまった、何かがきっかけでターフに立てない。だからレースから離れるという選択があります」

 

「でも私にはそれが意味のないことのように思えてしまって……今しかないから。私の求めたものは、ずっと求め続けたものは今しかないから……」

 

なんて寂しそうに笑うんだろう。

 

「今しかできない走りに執着しているんです」

 

「私は故障とか引退とかどうだって良くて

私の……。【サイレンススズカ】の最後は芝の上でありたいと、

 いいえっ!私は芝の上じゃないと終われない」

 

 強い意志を感じるのにどうしてだろう。

 どうしてこんなに不安になるのだろうか。どうして今、何かしなければ彼女が届かないところに行ってしまうと予感がするのだろうか。

 

 沈黙を破るのは怖かった。

 

 そんなに難しく考えなくていい。

 悩むのは当然。だけど、いや君の悩みを理解はできないけど一緒に考えることは出来る。スズカは独りじゃない。

そう言うだけで少しは足しになるかもしれないと思うのに。

言葉にするのが怖くて。言葉が無力なのを知ってしまった僕は、僕の言葉が彼女に届くと思えなくて。迷った。

 死を覚悟しながら走る彼女は止まったまま。動き出す時を待ちながら僕は祈る。

 彼女がいつか気がついて、意味があったって、次を見つけられるように。

 僕は願って祈ってその背中を見送るしかできないから。待つしか出来ない。待っているのも自分の傲慢かも知れないけど。どうかいつか……

 長すぎた沈黙。どうやら僕の自問自答はスズカにとっても相当に長いものだったらしく、彼女は再び話し始めた。

 

 

「死にたいなんて思ってませんよ。それでも私が、【サイレンススズカ】が死ぬ場所は決まっています」

「……」

「私芝の上で終わりたいんです」

 

焼けていく空を見つめた彼女の瞳は夕焼けを移さない碧色に澄んでいて。

 

「果てが、最後がない物語って辛いと思うんです。終わりがなくずっと続く」

 

 一呼吸おきながらスズカは続ける。

 

「幸せかもしれないけど、自由すぎて切なくてそんな走りを続けるのはちょっとだけ辛そうで」

 

 壊れ物だと思っていた。彼女は壊れてしまっているのだと思っていた。ガラスのようで透き通ってもし掴んでしまったならパラパラと音を立てて崩れてしまいそうなスズカ。

その彼女が透き通った瞳で僕を見つめていた。僕を通してさらにどこか遠くを見ているかの様な顔で。

 

 

「ねぇ……トレーナーさん。」

 

「貴方は私をレースの上で殺してくれますか?」

 

「最後の瞬間まで私をレースに出してくれますか?」

 

「私はレースで見える景色が好きなんです」

 

 うん。知ってる。一番側で君を見てきたんだから。

 

「彼処が私にとって最初で最後の居場所だと思うんです。サイレンススズカはレースでしか生きられない」

 

そんなことはないよ。君にはもっと多くの物が…君は走りに魅入られ過ぎているだけ、時間が足りないだけなのに。

 

「走ることしかできませんから」

 

 走りしか見えていない彼女に走るのをやめろなんて言えない、抑えて走れなんてもっと。

 だから僕はゴール板の前で祈る。スズカがここまで走り切って帰ってきますように。

 

 

 

「遅くなったけど宝塚記念おめでとう」

「ありがとうございます。でも負ける気はしなかったんです」

「そっか。強いね」

「走りで負けるわけにはいかないので」

「じゃあ次のレースを決めようと思うけど出たいレースはある?」

「強い子が出るレースならなんでも。どんなレースでも逃げ切って見せます」

 

 強い子が出るレース。GⅠかGⅡか。この後のローテーション、トレーニング期間を考えると。それにスズカは中距離が強い。宝塚もそうだし、中距離。できれば左回りがいいな。そうなると……

 

「ねぇスズカ」

「はい」

「スズカは興味がないかもしれないけど……リベンジしたくない?」

 

 首を傾げそんなことは考えた事もなかったという様に僕を見つめてくる。でもその瞳に宿る力は早く戦わせろと燃えていて、尻尾もまだ見ぬレースを楽しみといっているみたいに左右にぶんぶん揺れる。

 

「リベンジですか?」

「去年君は完成しきっていない走りで出て、そして負けた」

 

どうやら甘い当たる節があったらしい。口元に手を持っていき考えているのかと一緒に萎れていくウマ耳に注目する事数秒。ピンと耳が跳ねた。

 

「……秋の天皇賞ですか?」

「うん。今の君なら十分に渡り合える」

「負けません。今度こそ」

「じゃあ出走権を取りに行かなきゃね。次のレースは毎日王冠、GⅡだ」

「えぇっと。たしか、芝左回り、1800mの東京レース場」

「その通り君の得意な左回り。そして君の得意な距離だ」

「スズカ。楽しんでおいで」

「逃げ切って見せます」

 

 毎日王冠の幕が上がる。

 

_______________________

 

 トレーナーさんが辛そうに私の走りを見るようになったのを覚えている。

 あの顔はそう。始まりの日にしていた顔。眉間にまゆげを寄せあげ、垂れ下がった目尻には今にも溢れてしまいそうな雫。

 

 どうしてそんな顔をするんだろう。

 

 初めて会ったときにもしていたその顔。

 辛そうで、泣きそうで……そんな顔で私を見つめている。

 どうしてバレンタインステークス以降俯いているのだろう。

 どうして勝ち続けているのに悲しい顔なんだろう。最初は笑ってくれていたのに。いつから私を見て辛そうに笑うのだろう。

 レースではゴール板の前で大きく手を振って歓声を上げてくれていたトレーナーさん。

 

 今は……。違う。

 眉間に皺を寄せ怯えた様に手を合わせる。私のトレーナーさんはいつもゴール前で手を合わせている。

 私の手より一回り以上大きいゴツゴツとした手で。私の背より遥かに大きなあの背中を丸めて。両手を合わせている彼はとても小さく見える。まるで怯えているかのように縋るように小さく蹲って合わせた手。それを挟んだ二つの瞳がじっと私を【サイレンススズカ】を見つめている。

 

 その理由を私は知らない。

 

 

 ファンファーレは止まらない。ゲート入りが始まって……そして私はまたモノクロのゲートを抜けてゴールに駆ける。

 

 

 

「サイレンススズカ!この優駿の揃ったレースで見事に勝利を重ねた!!」

「影さえも踏ませてなるものか!そんな意思を感じさせました」

「これで秋の天皇賞への優先出走権を手に入れました!天皇賞も期待出来ますね」

 

 戻りゆく世界はゆっくりと私を取り込み始める。風に芝、歓声。

 レース場を包み込む割れんばかりの声援が遅れて私に届いて、その中に溢れる私の名前が響いてくる。色を戻した芝の上でゆっくりと風を吸い込んだ。掲示板が点滅しながら数字を刻む。

 

「私勝ったのね」

 

 遠く通り過ぎてしまったゴール前には手を合わせたまま顔を上げたトレーナーさんと目があった。

 眉間に皺を寄せたままの顔で。

 

 私はその意味を知らない。

 

 

_______________________

 

「スズカ昨日はお疲れ様」

「はい」

「次は天皇賞を狙っていくことになる」

「はい」

「一ヶ月後、東京レース場。芝、2000m、左回り。昨日のレースより400m長くなるが、今の君なら余裕を持って走り切れるだろう。宝塚の時に近い調整をしながらスピードトレーニングをしていこう」

「はい」

「君の得意な左回り、それに君の得意な距離。2000mのレース感を取り戻しながら……」

「はい」

 

 スズカが上の空なのはたまにあるけれど、今日のはちょっと違う。空や景色に想いを馳せているんじゃない。

 

「スズカどうかしたの?」

「どうもしません」

「本当に?」

「はい。私は何も変わりません」

 

どこか遠くを見つめる碧色の双眼が僕の瞳を見た。僕を通してどこかを見るのではなく、僕を見ていた。

 

「でもトレーナーさんは変わりました」

 

 僕が?

 

「辛そうな顔をするようになりました。どうしてですか?」

「そんな顔してた?」

「酷い顔です。レース直後は特に」

 

彼女の独白が続く。

まるで返事は求めていないと言わんばかりにつらつらと言葉を続ける。

 

「レースが始まる前、ファンファーレが鳴り響くといつも同じ姿勢で視線を下げるんです」

 

「トレーナーさんは私の走りを……レースを見てませんよね」

 

……

 

「いつからか分からないんです」

 

「私は負けてませんよ?」

 

 いつから僕は彼女の走りを見てなかったんだろう。

 

 

 スズカは笑って走らなくなった。楽しめていないんじゃ無いかと思った。楽しみ方を忘れてしまったのかと。

『走ることしかできないから』

 そう呟く君から走ることをやめさせる事なんて出来なくて。それが悪い方に進んでいるんじゃないかと。君がいつか光の果てに辿り着いてしまうのではないかと。怖くて見てられなかったんだ。

 ごめんねトレーナー失格だ。

 

 

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「トレーナーさんゴール前での仕草、なんなんですか?」

「願い事……かな」

「何を祈っていたんですか?」

 

 聞いたら戻れなくなると思った。私の事だとサイレンススズカの為の行動だと理解したのに答えを求めてしまった。その答えは私が知らなくて良かった事なのに。

 

「君が無事で、笑って戻ってきますようにだよ」

「それはいつも?」

「今年のスズカは速い。速くなり過ぎている。それがどこか怖い」

 

 私を見つめていた瞳が震えた。

 

「いつか君が芝の上で死にたい、と言ったあの日の言葉がレースの前日から、いや次の目標を決めた瞬間から僕の中で反響し続ける。今にも君がダメになるんじゃないかと」

「トレーナーさんは優しいですね。勝手に走らせておけばいいのに」

「僕には何も出来ないから。止めることもできない。優しさなんてないよ」

「トレーナーさん。レースに絶対はありません。天皇賞が私の終わりになるかも知れません。それでもきっと芝の上なら私に悔いは残りません」

 

それでも。それでも私は

 

「でも今走ったら私は悔いが残ります。私のせいで苦しませて、辛くさせてごめんなさい。でもこれからのレースは天皇賞は、私を見てください」

 

「お願いします。私を見て」

 

 

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 どうやって帰ったのかも、スズカになんて返事をしたのかも覚えていない。スズカに返事は出来なかったんだろう。

 レースをちゃんと見ていなかったという罪悪感に、彼女は僕のことを気にも止めていないという甘さが覆された。

 全部忘れて吐き出してしまいたい。

 

 私を見て。

 

 そんな事言わせたらいけないと。

 返事も返せない僕はきっとサイレンススズカを導くトレーナーとしては失格だ。次のレースでスズカとの三年間は終わる。此処で終わりにするのは彼女の為か自分の心の為か。

思いや願い、夢というものは必ず叶うというわけではない。そんなことは分かっていても願わずにはいられない。願うことしかできない僕は彼女のために何をしてあげられるんだろう。

 夢を見ず、それでも夢の中を走るスズカ。

 今年最後のレースを見るのが僕にできる唯一の事なんだろうか。あぁ……頭が痛い。

 

 

 

 スズカと向き合ったあの日から半月以上。肌を撫でる風が冷たくなって、土が多くの落葉した色に染まる。

走る彼女達にはさらに冷たく感じられるだろう。

 こんな鮮やかな彩りの道を木々の間を彼女は楽しんで走るんだろうか。

 天皇賞は待ってはくれない。片手で数え切れる程度しか日は残っていない。

 彼女は今走る事を楽しめているのだろうか。

 

 

「スズカ今日もお疲れ様。ちょっとだけいい?」

「はい?どうかしましたか?」

「スズカは今走るのが楽しい?」

「どうでしょうか……望んだものは届かなくて追いかけています。私には走り続けることしか出来ませんから」

「そっか」

 

どうか彼女がどこまでも走り続けられます様に。望んだその場所に辿り着ける日まで。

 

「ねぇスズカ天皇賞には府中の魔物が居るって話聞いたことある?」

「いえ聞いたことないです」

「トレーナーの中じゃ有名なんだ。府中の魔物。東京レース場の芝2000m。大ケヤキには魔物が潜んでいて、一番人気、一番速く大ケヤキを越えようとしたウマ娘の足を掴む。ってね」

「掴まれたらどうなるんでしょう?」

「分からない。でも良いことにはならないだろうね」

 

 その逃げ足で、掴まれる前に逃げ切れるように……君が、サイレンススズカが何処までも果てまでも駆け抜けられる様。

 そんな願いを込めた。

 

「だからこれお守り」

 

 吸い込まれてしまいそうな真っ黒い石のペンダント。彼女の両手に乗せた。

 

「持って走ってくれる?」

「わかりました。必ず。」

「ありがとう、僕も目を逸らさない。だから楽しんで走ってきて。待ってるから」

 

 ペンダントを大切そうに壊さない様にそれでも確かに握りしめたスズカの両手からは、ギュッと音がした。

 

「私勝ちますね」

 

 結局僕が出した答えは君の無事を祈って三年間走り切らせる事。祈るしか出来ないスズカが無事である様にと。レース中の僕らの無力さは身に染みている。孤独に走り常に先頭、誰のことも気にせずに、ただ独り走る。そんな戦いに僕が出来ることなんて何もない。

 ただ、そんな走りを見ていて欲しい。そう願われるのであれば背を向けることは出来ない。彼女を蔑ろにする選択肢はあの日あの夕景に全て捨ててきた。

 それでも何もできない僕はあそこで祈りを捧げる。いつか彼女が、いつまでもきっと彼女が走り続け、駆け抜けられますように。

 

 

_______________________

 

 ザワザワとうねり広がり大きくなっていく歓声が漏れてくる。明るく黄色い声のはずなのにここに響いてくる声はどれも重く感じる。

 秋風は肌を冷たく撫でて、背中を潰そうとするプレッシャーは増して。重い。今までで一番足が重い。

 でも走りたい。今日だけは走り切って戻って……駆け抜けたい。

 ここは私にとって通過点のはず。私はまだ先に行ける。

 トレーナーさんからのペンダント。貰ったその日から付け続けた。最初はいつもと違う重さがあってソワソワしてしまったけれどもう体の一部の様。胸の前で両手を合わせるとあの人が渡してくれた暖かさが身体を包む。

 

 大丈夫私は負けない。逃げ切って見せます。

「走る事しか出来ませんから」

 逃げ切るところちゃんと見ててくださいね。ゆっくりと地下バ道に差し込む眩い光の中に向かって歩き始めた。

 

 

 歓声が鳴り止まない。

 秋風が通り過ぎた。

 みんなの熱意が伝わってくる。

 響き渡るファンファーレ。

 ゲートに入っていくウマ娘。

 待ち受ける一番のゲートに私も。

 

 少しづつ色褪せる。私の視界には色のないゲートだけ。ゴール板にはトレーナーさんがいるのだろう。今日は笑ってくれるだろうか。

 

 

 

 ガコンっ!!

 大きく重い音が響いた気がした。

 

 

 走れ!

 走って証明するの……私は走る事しか出来ないんだから、どこまでも走る!

 

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「今、スタートです!各ウマ娘一斉に走り出した!」

「みんないいスタートを切りましたね」

「当然ハナを行くでしょう一番人気の期待を背負ってサイレンススズカが大きく前に出る!」

「後ろも懸命について行ってますが、はやくも縦長の展開か」

「最初からここまで飛ばしていると掛かっていないか心配になりますね」

果たして1000mの標識はどのくらいで通過していくのか

「サイレンススズカの前半1000mのタイムは57秒4?!」

「57秒4すごいタイムですね。ここからどういったレース展開になるんでしょうか」

「まもなく第3コーナーに入りますが、もうどれだけ差があるかわかりません!7.8.9…いえ、10馬身近く差がある様に見えます」

「これはレコードが期待できます。後続も続いていますが以前差は広がるばかり、これは苦しいか」

「大ケヤキを超えてサイレンススズ…カ、あれ?」

「……スピードは変わらない様に見えますが、フォームが崩れてしまっていますね。あの姿勢、何があったのでしょうか」

「サイレンススズカ故障でしょうか?!一体大ケヤキの裏側では一体何が!やはり府中には魔物がいたのか?!」

 

 

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「魔物がいたのか?!」

 

 その声だけゆっくりと聞こえてきた。聞こえてきた声をどこか他人事の様に聞いていた。レースは今どこまで進んでいて、私はどこを走っているのか。前には誰がいるのか、後ろはどこまで迫ってきてるのか。

 見飽きているモノクロの世界が変わっていく。私の視界を真っ白に。空気が重い、足が痛い?

 モノクロでも良好に見えていた視界も狭くなって、白い光。光に包まれてしまった。

 私はまだ走れているのだろうか。

 私はまだ……走れるのだろうか。

 走る事しか出来なかったはずなのに。

 私が今何をしてるのか分からないこの状況。死に場所が此処だったのだとしたらあのまま私はレース中にヘマをして芝の上で終えられたのかもと。

 何故かストンと納得、理解した。

 あぁ死んでしまうの?ここが終わりの景色なの?

 こんな日に限って、トレーナーさんが見ている時に限って哀しみを背負わせてしまいました。

 それが強く残って……後悔は後からやってくる。その言葉の意味も理解してしまう。

まだ見たいものに辿り着けていないのに、まだまだ先はあるはずなのに。

 そんな事を思ってしまう。やっぱりまだ走っていたかったし、此処では納得できない。

走る事しか出来ない私。

 走り続けた先の意味を知りたい、走り続けた先にはまだ見ぬ景色。あの日サイレンススズカが走り始めた理由があるんじゃないかと。その理由ぐらいは知りたかった。トレーナーさんが祈らなくてもいい走りを、彼を安心させたかった。

 

 

 

後悔は願いへと。祈りもまた願いへと。

奇跡は願い走り続ける者の元へと。

 

 

 

 パキリとヒビの入る音がして、内から弾け飛ぶようにパンッ!!と鳴り響いて、後ろから声がした。

「此処で待ってるから」

「祈ってるんだ」

 この三年間ずっと後ろから見守って声を上げていてくれた声だ。

 

 

「楽しんで走って」

 いつもどんな時でも背中を押してくれていたのはトレーナーさんだった。不思議と温かい背中は彼のおかげだった。

 レースは自分だけの世界で私独りで走っていると思っていた。でも何も言わずにずっと見守ってくれていて、私は一人で走っていなかった。

 

「スズカ!!走れ」

 

 金色に光る足跡が見えた。

 何処までも広がる空が見えた。

 私が走る芝が見えた。

 

「私はまだまだ走れる!!!」

 

 足の感覚は消えたまま。それでもその光に重ねるべき足は何故かわかった。

左だ。

 左足を大きく前に、踏みしめて身体もさらに前へ。感触は無い。それでも確かに私は今左足で芝を踏んだ。

 手を振って右足を前に。加速してもっともっと。この光から逃げる様に。光から逃げる。そんなことはできない。光はこの世界で最も早いものだから。光から逃げれる物なんていない。出来るのなら……そう。

『異次元の逃亡者』

 私、サイレンススズカだけだ。

 

 

「いけーーーーーースズカぁぁぁぁ」

「っっっっ、!!!いきますっ」

 

 

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「手応えがなくなっている様に見えますね。あれはどうなんでしょうか」

「あぁーーっと?!サイレンススズカ!かなりの前傾、これは転倒か?!」

「後続がジリジリと差を詰めてきました」

「まだリードしているがサイレンススズカ!果たして走れるの……か

 

 レース場の熱、上がり続けたボルテージが消えた。部屋の明かりのスイッチを触ったかのように。

 一瞬で消えた。泡のようにそこには何も残らない。

 渦を巻き一つの塊の様な歓声。サイレンススズカを追っていた解説に実況。

 

 全てが消えていた。

 彼女の崩れ落ちそうな前傾姿勢。次の一歩を踏み出してしまうのを止めてしまいそうなほどの格好。そこからの加速、その走りを観客全てが観ていた。目が離せなくなっていた。

 

 

 逃げは勝ちの定石ではない。

 逃げは最初から最後まで自分の速度で走り続けてゴール板まで揺るがずに自分の走りをする。後ろなんて気にせず前だけを追って。

最終に加速する逃げが今、レース場を走っていた。

 逃げの定石が、逃げという走りの常識が崩れていく音。それからも逃げるかの様に彼女……異次元の逃亡者、サイレンススズカが駆け抜けた。

 

 

 実況、解説、観戦者。レースを共に走り彼女を追いかけるウマ娘達。このレースを見届けている全ての人達。

 みんなにはどう見えていたのだろう。知る術はないけれど私には笑って走る彼女が見えた。笑顔で楽しんでレース場を駆けるスズカ。

 彼女の瞳が七色の光を吸い込んで虹のように輝いている。

 

「綺麗だ」

 

 みんなにはこの景色……彼女の瞳の美しさを……サイレンススズカがどんな風に見えていたのだろうか。

 

 

「サイレンススズカ!まさか、まさかの!爆発的な加速!!此処に来て大ケヤキからの崩れた姿勢!そこから爆発しました!」

「あんな走り見たことがありません!」

「後続が縮めていた差がまた広がっていく!2バ身から3.4…5!どんどん広がる!止まらない、止まらないぞサイレンススズカ!」

「このまま最後まで走り切れるのでしょうか?後続もスパートをかけてきていますが」

「縮まらない!止まらない!最後まで駆け抜けていく!サイレンススズカ!!」

 

あぁ……綺麗だ。

 

「サイレンススズカ!今ゴーーーール!秋の天皇賞、見事に栄光を飾った。サイレンススズカ!」

 

おめでとう。

 

 

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 レースを駆け抜けて、ゴール板を駆けた彼女。走り切って疲弊したはずの身体を休ませることなく観客席に手を振りながらスズカはしっかりと笑っていた。

 その足取りはゆっくりとそれでも確かに一歩ずつ此方に。

 

「トレーナーさん見ていてくれましたか?」

「見てたよ。おめでとう、そしてありがとう」

「お礼を言うのは私の方です、トレーナーさん。ずっと支えてくれていたんですね。ありがとうございました」

 

 その言葉になんて返したか覚えていない。その後の事も。

 覚えているのは今回のレースには後悔はなかった事。

 スズカが無事に帰ってきて泣いてしまいそうになったのを堪えた事。

 ウイニングライブでのスズカが輝いていて、瞳には虹がかかっていた。

 

 それだけ。

 

 

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 天皇賞が終わってからというもの取材やURA賞に取り上げられたりと皮肉なことにレースに向けてのトレーニングより忙しかった。

 書類は片付けても片付けても終わる兆しがなく、寮の帰宅時間に帰らなければならないスズカが申し訳なさそうにする始末。

そろそろ多少の休みは欲しいなと思いはするものの、まだまだゆっくりとできる日までは遠そうだ。

 今年はクリスマスも書類と戦わなければいけないかな。と覚悟を決めているところにスズカがやってきた。

 

「トレーナーさんお疲れ様です。これお疲れでしょうから」

 

 差し出されたのはチョコとエナジードリンク。僕が良く口にしているものだ。買いに行く時間もなかなか作れなかったから正直助かる。

 

「ありがとう。助かるよ」

「はい、どうぞ」

 

 手渡しした後そのまま目を上に下に。こちらの様子を伺うかの様な素振りで耳を伏せている。尻尾もすらっと垂れているから恐らく何か悩みか話か……さてどうしたものかな。

 えっーーと。その……

 と続いてやがてゆっくりと顔を上げ視線を合わせてスズカが口を開いた。

 

「今年はもうレースが無いんですよね」

「うん」

「トレーナーさんはまだ忙しいと思いますが、少しだけ私と出かけませんか?」

「どこに?」

「何処でもいいです…トレーナーさんの気分転換になれば」

「じゃあ……散歩でも行く?」

「はい、大丈夫です」

「そうだよね、スズカは歩くのはあんまり好きじゃ……え?」

「散歩行きましょう。トレーナーさん」

 

スズカが散歩?

スズカは常に走って歩くのも早歩きや駆け足。ゆっくりと歩くなんてなかなか見ないのに。僕と散歩?人に合わせて?

……

え?本当に?

驚きを隠せずにボーーっとしていた僕に休ませる事なく追撃がきた。

 

「知ってますか?寒空の下では星が綺麗に輝くんですよ」

 

 

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 スズカの後を追って外に出た空には、静かででも確かに空を輝やかせる星の海が広がっていた。

 見惚れていると遠くに響いていく足音。相変わらずスズカは歩くのも速い。

 

「スズカ待って、早いよ」

「トレーナーさんが遅いだけですよ」

 

そんな風に戯けながら此方を振り返るスズカ。耳はピンと星を刺していて尻尾が揺れる。君の仕草は綺麗な景色の中だと良く動く。

 

「そんな事ないって君が速い。速すぎるんだよ」

「私ちょっと走りすぎたのかもしれません走ってばっかりだから歩き方わからないんです」

「スズカらしいや」

「ここで待ってますから早くきてください」

「はいはい」

 

 ゆっくりと彼女の隣まで。部屋での作業ばかりしていた身体には秋の夜空の寒さは沁みる。

 

「それにしても珍しい。スズカが走りの事以外で話しかけてくるのも、出かけようなんて言うのも」

「はい。後悔のないようにしていきたいと思ったので」

 

 星を見上げながら彼女は言葉を続ける。

 

「死に場所なんて考えずにまだまだ必死に走ろうと、それに最後はいつか訪れるものですから。探さずそこまで駆け抜けてみようと思って」

 

 遥彼方、何光年先に光る星を見上げた彼女の瞳が輝き始めた。

 

 

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 トレーナーさんを気分転換に連れ出した秋の夜は想像以上に寒かったけど一面に広がる景色が全て忘れさせてくれた。

 星の海が広がる空。静寂だけが満ちている。

この景色が好き。隣にいる暖かい優しさが好き。

 トレーナーさんが祈り続けていてくれたから私は奇跡を起こせました。あの瞬間私はもう走れませんでしたから。

 貴方のおかげ。

 

「トレーナーさん」

「どうしたの?」

「トレーナーさんの願いの色は私の足元を照らす黄金に輝いた綺麗な色でした」

 

 私しか見てないと思いますけど。

 きっと私は芝の上でなら納得ができると思うんです。そこでなら【サイレンススズカ】は納得して……満足して終われると。でもそれは今じゃないと思ったんです。

 いつか必ず来るならそこまで必死に走ろうと死に場所なんて考えないで懸命に後悔のなレースをしようと思って。

 

「今日までのレースは後悔ばかりでした。だからこれからは今を踏みしめて走りたい。悔いのないレースをしたい」

 

「だって私の残した軌跡は七色に輝くって分かったから」

 

 トレーナーさんは優しく私を見つめています。始まりの景色とは違う、嬉しくそうな顔。辛そうな顔より私は好きです。

 私の終わりはまだまだ先だと思うけど……この人の見ているところでなら私は納得出来る。私の最後を見守る人はきっとこの人なんだと思う。そうであってほしいと。

 

「ねぇ……トレーナーさん」

 

「最後まで私の走り見ていてくださいね」

 

 終わるのならきっと、いいえ。

 

 私は……。ここがいい。

 

 

 知りたくなかった

 一人じゃ見れない景色があるなんて。

 

 知りたくなかった

 後ろで支え続けてくれる人のありがたさなんて。

 

 知りたくなかった

 この人の隣の景色がこんなにも鮮やかでキラキラだったなんて。

 

 

 ゆっくり誰かと歩くのが良いなと思う日が来るなんて

 知りたくなかったなぁ。

 

 

 この人の隣を譲りたくないなんて

 この場所は誰にも譲れないなんて

 こんな気持ちが溢れてしまうなんて

 

 知りたくなかった。

 

 

 ここでなら死んでも良いと思えるなんて

 知りたくなかったなぁ……

 

 

 

 誰もいない景色こそが特別で……。

 私にとって譲れないものだと思っていました。

 でも、今は……今のこの景色は、私にしか見つけることが出来ない……私だけの景色。

 

 

 星の海が広がる寒空。静寂が満ちた世界に星よりも輝いている月。

 

 ここがいい。

 

「トレーナーさん」

 

「月が綺麗ですね」

 

 彼が私の指差す先を見た。彼の瞳が月の光を一杯一杯に集めて輝いて、その瞳にその瞳のキラキラとした輝きに吸い込まれて。

 虹に見惚れた私は勝手に口が動いた。

 

「死んでもいいわ」

 


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