懐かしい夢を見ていた。
当時...毎日が充実していた。心の底からそう思っていたし、今でも思い返せばとても充実していたと感じる。
高校卒業後に上京し、親元から離れての大学生活を満喫しながら、仕送りがある中ではあるものの様々なアルバイトを転々とする生活の楽しさは当時でしか味わえない特別なものだった。
幸い人間関係にも恵まれ、円滑な学生生活を送っていたある日、友人からある誘いを受けた。
...それが全てのハジマリ。俺の中の歯車が狂った最高で最悪の瞬間だった。
「なぁ、今度『ウマ娘』のレース見に行かねぇか?」
なにも特別な意味があった訳ではない。ただ友人は俺に話題の一つとして切り出しただけ。だから当時何も知らなかった俺は特に考えずにボールを返した。
「ウマ娘ねぇ...いいけど俺見てもわかんねぇぞ?」
「なら尚更見に行かね?面白いぞぉ!」
ウマ娘、それは俺達のような人間と少し、けれど大きな違いがある生物。人間のように2足歩行をし、人間と同等の知能を有し、人間とほぼ同じ生活を行う種族。差異があるとすれば、耳が目よりも上部にあることや、立派な尻尾を有している事と、人間では考えられない程に肉体が発達しており、その身一つで時速6,70kmの速さで自走する事ができる事だろうか。...あとは娘と言われているように女しか存在しない。
そんなウマ娘だが、彼女達は持ち前の身体能力を活かし、競い合う事を本能としているらしく、彼女達の存在は長い年月をかけてスポーツ分野に浸透していた。
勿論、人間と身体能力に明確な差がある以上同列にはできない事から、ウマ娘用に設けられた種目で彼女達は日々競い合っている。それが友人が言っていたレースだ。...しかし。
「そうかねぇ...?でも俺スポーツに興味ないんだよな」
自分で言うのも気が引けるが、俺はインドアタイプであり、汗水垂らして己が全力を出しきらんとするハツラツとした世界とは無縁だった。でもそんな事は友人も十分承知している。
「んな事知ってるよ。だから一回見に行こうぜ?俺の師匠が今こっち来てて会える事になったんだよ!」
彼の師匠...ということは。
「ははーん。その師匠さんの育てた子見ようってか」
「当たり!な?悪くないと思うんだが」
友人は小さい頃からウマ娘に関心があったらしく、高校卒業後は俺と同じように上京し、ウマ娘向けの様々なトレーニングスクールに手当り次第アタックし、トレーナー資格の勉強をする傍らで先輩のトレーナーに弟子入りをしていた。
「でもなんで俺を?」
「んなの思いつきだよ、思いつき。どうせ暇だろ?今週の土曜だから行こうぜ」
これに俺は―――――首を縦に振ってしまった。
もし、あの時に戻れるなら...その時俺は首を横に振るだろう。
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「み...さ..」
声が聞こえる気がする。だがハッキリと聞き取れない...雑音として処理されてしまうような不鮮明な声。
「..りか...さん!」
しかし、だんだんと声が鮮明になっていく。
「緑川さんってば!」
「っ!」
自分の名前が呼ばれるのと同時にバシッと肩を叩かれ、その衝撃で一気に意識が覚醒する。反射的にあたりを見まわすと見慣れた事務室であり、自分が居眠りをしていた事を理解した。
「やっと起きましたか」
「あ、あぁ...すみません。つい」
俺を起こしてくれた張本人に間の抜けた返事をし、壁にかけられている時計を見ると針が16時丁度を指していた。14時過ぎまでは記憶があるから2時間も寝てしまっていたらしい。これは不味い。
日頃このようなヘマはしないのだが、今日はどこか空気が心地よかったし、気が緩んでいたようだ。俺はスイッチを切り替え、起こしてくれた彼女、駿川たづなに平謝りをしながら未処理の書類へ目をやる。
彼女は俺の働くトレセン学園――正式名称、日本ウマ娘トレーニングセンター学園。ウマ娘達が己を磨くために門をくぐり、切磋琢磨する日本最高峰の養成機関。その理事長秘書をやっている大ベテランだ。なぜ彼女がこんな所にいるのかは疑問だが、まぁ今はどうでもいい。
「大丈夫ですか?」
「えぇ...申し訳ありません。業務中に」
「いえ。緑川さんは日頃から真面目に働いていらっしゃいますから、少しくらいは...」
本当は駄目なんですけどね、と可愛らしくウィンクするたづな。...少しあざとい気もするが、自分のような一事務員にこうして話かけてくれるというのは少しありがたい、と思うのはチョロすぎるだろうか。
「うなされている様でしたので起こしちゃいましたけど...ちゃんと休めていますか?業務内容がご負担でしたら仰ってくださいね?」
「...お気遣いありがとうございます。私は大丈夫ですので」
正直最近寝付きが悪く、満足に睡眠もとれていないが、原因も禄にわかっていない。だから俺はなんてこと無いように誤魔化すが、たづなの表情は優れない。
「そう言って無理してるの、他の方から報告来てるんですからね?」
「え゛...」
一体誰が...とも思ったが、俺が配属しているココは自分を入れてもそう多くはない。チラッとこの場にいる同僚に目を合わせるとサッと逸らされてしまった。
「ここは残業代などを出し渋る所ではありませんが、体調管理に支障をきたすレベルまで行うのはやめてください」
「...わかりました」
他に人もいる前でくどくどと矢継ぎ早に指摘をしてくるたづなさんに戦々恐々としながら、早くこんな公開処刑終わってくれ、と心の中で念じていると不意にあるものを差し出された。
「これは...?」
「栄養ドリンクです。本当はこんなのに頼っちゃいけないんですけど...」
「ありがとうございます」
ラベルには『タフネス』と印字されていて、見るからに元気が出そうな外見だ。
「美味しいですね」
「美味しいって思うということはそれだけ体が疲れてる証拠です。ゆっくり休んでくださいね?」
「あ、はい...」
クスクスと笑いを堪えている同僚を恨めしく睨んでいるとそれを遮るように目が笑っていないたづなが立ちはだかる。あまりの威圧感にまた説教される...と身構えたが、そんなことはなく。彼女は軽くため息をつくとずっと脇に抱えていた茶封筒を渡してくる。
「遅れましたが本題です。これをお渡ししますので、目を通したら生徒会室へ行ってください」
「生徒会にですか?」
理事長室ならいざ知らず、生徒会...となるとなにかの事務処理の応援なのだろうか?
「それでは私はこれで失礼します。...本当に無理はなさらないでくださいね?」
「あ、はい。ありがとうございました」
パタパタと去っていくたづなを横目に早速渡された封筒を開けて内容を確認する。
「...なるほどね」
ざっと読み終わると俺は深い溜息をつきながら冷めきったコーヒーをゴクゴクと胃に乱暴に流し込む。
「やってくれたな」
頭を掻きながら見るからに不機嫌になった俺が足早に事務室を出ていくのを、同僚は間抜けに口を開けながら俺が出ていった部屋の入口をポカーンと眺めていた。