トレセン学園は生徒やトレーナー、はたまた俺のような事務員にも寮を充てがってくれている。流石に生徒達とは違い、トレセン学園の敷地内ではなく、徒歩10分程離れた利便性の高い郊外に位置しているが、駅にも近いため不自由に思ったことは一度もない。
今日も俺はその寮から学園へ出勤中だが、いつもと違い少し早めに寮を出た。理由は...
「...うわ、もういる」
俺は現在進行系でストーキングされている。と、いっても犯人は判明しているし、害がないことも十分理解しているが、あまり気分がいいものではない。...これで1週間だぞ。暇なのだろうか...。
最初は偶然だと思った。ルドルフに呼び出されたあの日の翌日、俺が昼食の買い出しに外に出た時や帰宅時などにその日によってタイミングは違うが、後ろからついてくる人影――いや、ウマ影があった。
正直相手にしたくなかった事もあり、振り返ったりはせず、見通しの悪い路地などに備え付けてあるミラーなどから犯人を見てみれば...それはあのテイオーと呼ばれていたウマ娘だった。
俺としてはなぜストーキングされているのかもわからないし、彼女とは全くと言っていいほど接点がない。それこそ名前も知らないレベルだ。けれど彼女はジーッと俺の事を監視している。...どうしたものか。
やれやれ、とルドルフに相談してみるかと思った矢先だった。
「あら、緑川さんではありませんか」
急に声を掛けられ身構えていなかった俺は肩を震わせて振り返る。すると目の前にはテイオー...ではなく、トレセン学園指定のジャージを纏ったメジロマックイーン。俺がルドルフの次に関わりたくないウマ娘がいた。
「おや...おはようございます」
「えぇ、おはようございます」
彼女はメジロマックイーン。今年トレセン学園に入学した1年生であり...俺を救ってくれた恩人でもある。
なのになぜ関わりたくないのか、それは俺が彼女の厚意に甘えるだけ甘えて何も返せていないからである。ハッキリ言えば後ろめたいのだ。最も彼女がそれを気にしているかは知る由もない。
「どうされました?」
「いえ、トレーニングですか?」
「はい。寮に戻ろうとしていた所で緑川さんのお姿を見かけましたので」
俺が無言で固まったから不審に思ったのか彼女は可愛らしく小首を傾げる。
彼女は名家と名高いメジロのウマ娘で、メジロ出身のウマ娘は代々優秀な結果を残しており、彼女もその期待を背負いながらこの学園で鍛錬を積んでいる。
そんな彼女になぜ救われたのか。それは俺の家が関係する。
俺の家、緑川家の先祖は数百年前に商人として成功し、莫大な富を築いたらしい。俺の父や祖父達も代々家系と会社を守り、本当であれば俺もそうなるはずだった。...ウマ娘という奇跡を目の当たりにしなければ。
俺はあの日ウマ娘を間近に感じ、何もかもが新鮮で、ガキのように目を輝かせていた。だから調子にノッたのだろう。友人やその師匠の前で素人の癖にこれから走る彼女達を見てペラペラと一丁前に出場している子の印象を並べながらレースの予想をしてしまった。普通であればそんなものしたって意味はない。ベテランだって読み間違う事はあるし、走っている本人達でさえ意識していない些細なキッカケで180度結果が変わってしまう事も多々あるだろう。
けれど俺は的中させてしまった。
人気順ではなく、所謂大穴と言われる人気が下から数えたほうが早いような子が1着をもぎ取るという結果を。
勿論俺自身は当たり前として、友人達も奇跡だと言って一緒に笑っていた。しかし、その場に居合わせていた第三者に呼び止められて比喩なしで人生が変わった。当時俺は知らなかったが、友人達がその人を見た瞬間、刻が止まったかのように固まっていたのが印象的でよく覚えている。
その人は俺が1着を取ると予想していた子のトレーナーであり、偶然俺達の近くでレースを見守っていた。彼は有名なトレーナーの様で、俺に興味を持ったらしく、色々と質問された。
やれトモがどうの、芝がどうの...正直初めてウマ娘のレースを食いついて見ていた俺にはサッパリな内容ばかりで、答えになっていない答えをしてしまったが、それでも彼が満足そうな顔をしてこう言ってきた。
『坊主いい目を持ってるな。お前の才能が気に入った。どうだ?俺と一緒に来る気はないか?』
いきなりご挨拶なスカウトで、友人達と一緒に度肝を抜かれた。それが俺とメジロ家との縁ができた瞬間―――このトレーナーは後にルドルフと知り合うスクールの看板トレーナーの顔を持つ一方で、メジロ家のウマ娘を担当していたトレーナー界の大物、青山トレーナーだった。
「――――それで...聞いてますの?緑川さん?」
「あ、すみません。なんでしょうか?」
「もう...まだ寝ぼけていますの?危ないですわよ」
眉を八の字にし、呆れているマックイーンとの出会いはそこから、それこそ彼女が小学校に入学したか怪しい時からの付き合いになる。青山トレーナーがメジロ家に教えにいくのに同行し、いろはを叩き込まれる合間にメジロ家の屋敷にいたマックイーンの遊び相手をしたのが最初。
それから『あの一件』が起こるまでずっと彼女の屋敷に通い、青山トレーナーと一緒にメジロ家のウマ娘を見ていた。そう、あくまで俺は見ていただけ。
一流の青山トレーナーに扱かれていて多少のトレーナーの真似事はできるが、相手が名家のお嬢様達だった事もあり、俺は雑用に徹していた。これについてはスクールでも同じようなものだったから何も思う所はなかった。だが、マックイーンはそうもいかなかった。
幸いマックイーンは俺に懐いており、ある程度大きくなってからは、
「将来はお兄ちゃんを専属トレーナーにしますわ!」の一点張りで、周りの言うことなど全く聞かなかった。流石に今はそんな暴走する事はなく、鳴りを潜めているが、今となってはもう彼女が何を考えているかは全く読み取れない。それぐらい彼女は昔と違い、メジロ家という名のドレスを完璧に着こなしてしまっている。...だから俺はそれに甘え、何も気が付かない、何もわからない様に振る舞い、質の悪い延命をずっと続けているし、これからもそうするだろう。
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お兄ちゃん――緑川さんとはもう5年以上の付き合いになります。彼は私より上の世代のメジロ家のウマ娘を鍛えていた青山トレーナーの付き人でした。当時お屋敷でする事がなく、時間を持て余して散歩していた私とお屋敷内で迷子になられた彼と鉢合わせしたのが最初でしたっけ。
懐かしいですわ。今でも当時彼と撮った写真は宝物のように大切に飾っています。...こんな事本人に知られたらどんな顔をするでしょうね。
ですが今の彼は―――別人のように変わってしまいました。昔のように気さくに話しかけてくれる事もなくなり、言葉遣いも丁寧に...大人になったと言えばそれで終わりなのでしょうけど、やはり私としては昔のまま壁のない距離で貴方と過ごしたいものです。でもそれを伝える事は致しませんし、できません。あんな顔を見てしまっては...何も言えなくなってしまいます。今はただ、貴方と同じ空間にいることができる。それだけで十分なのですから。
あれは確か...私が小学2年生の頃でした。彼が大学を卒業すると同時に就活をするという話を聞いた頃の事です。私は当時、将来は彼にトレーニングを見てもらう気満々でしたから、トレセン学園に裏口で採用してもらう為にお祖母様にお願いをした事がありました。今考えればメジロ家の娘として最低な事をしたと猛省していますが、結果的にはあれで良かったと思っている自分もいます。ここトレセン学園にはキャリア育成兼人材確保のためにトレーナー資格獲得の補助も職員向けに行っているのは先輩方から聞いていたので知っていましたから、彼を採用して頂き、私が入学するまでの間に資格を取って頂けるように最大限のサポートもメジロ家の方々にお願いするつもりでいました。あぁ、勿論彼は私がそんな事をしていたなんて事は知りません。
ですが、ある日。一枚の手紙がじいやから渡されました。
紙はひどくシワがつき、何度も何度も字を消しては書いてを繰り返し、言葉をなんとか絞り出した、そんな跡が残った手紙。勿論それを書いたのは彼でした。
手紙には、
『マックイーンへ。ごめんな、俺はもう...君の願いを叶えられそうにない。君は俺を専属トレーナーにすると言ってくれたけど、俺の家がそれを認めなかったんだ。なんとしても俺を跡継ぎとして囲っていたいらしい。だから俺は...君のトレーナーにはなれない。』
その時の事はもう思い出したくない程に取り乱しましたわ。世間を禄に知らない私はじいやに手紙の内容を噛み砕いて教えてもらいながら、お祖母様の所に駆け込み、どうにかならないかと縋り付きながら訴えました。
ですがお祖母様の表情を見てわかってしまいました。どうにもならない事なのだと。
それでも諦められなかった私は青山トレーナーを経由して直接彼と話をする機会を作って頂きました。...仮にトレーナーの道が潰えたのだとしても、最後のお別れが手紙なのは嫌でしたから。
そして約束の日当日。現れた彼は嘘のように変わり果てていました。目にひどい隈ができ、所々絆創膏や包帯で痛々しいと言う他ない程に弱りきっていました。後の話では、自暴自棄になり、自室で目に見える家具などを破壊し、その時に負った怪我だったとか...。加えて彼はしきりに私にはこんな姿見せたくはなかった、と。だから手紙で伝えたと言いながら、彼の姿を見て泣いてしまった私の頭を撫で続けてくれていました。
そんな私達の姿に、この場を用意して下さった青山トレーナーが居た堪れなくなったのか、野暮用をしてくるといい出ていってしまいましたっけ。トレーナーが帰ってくるまでの間、二人っきりだった私は、どうして彼がこんな事になってしまったのかを思考停止寸前の頭で一生懸命言葉を選びながら聞いたのです。
そしたら、彼はもう心が折れてしまっていて、機械のように感情の籠もっていない声で教えてくれました。
まず彼が当時緑川家で複数人いた後継者の内の1人に過ぎなかった。しかし、他の有望だった後継者候補は家を出たり、急死してしまったりなどの不運が重なり、最年少であった彼が継がなかった場合、彼の親族達から非難、糾弾されるのを恐れた両親が強引に自らの経営するグループへ彼を入れてしまおうと画策していた。
けれど彼には夢があった。ウマ娘に関われる仕事、その一つの候補がトレーナー業であり、青山トレーナーとの師弟関係や、マックイーン達との縁もあって彼自身も前向きに目指そうと一歩を踏み出した矢先だったのは間違いない。
そんな時に突然実家に呼び出され、今まで後継のこの字も言われた事のなかった彼に対し、両親が発した無慈悲な言葉―――
『トレーナーなんて馬鹿げた仕事目指さずにウチで働きなさい。それがお前の役割だ』
一般家庭と比較しても遜色ない普通の家庭関係だった彼にとって突然言い渡された無慈悲な宣告。やっと見つけた道にレールを敷こうと準備をしていたら突然やってきた親に道具や資材を取り上げられ、お前の道はこっちだ、と連日のように会社を継ぐ事の説得――という名の洗脳を受けた彼の精神は簡単に限界へ達してしまった。
産まれたのが自分より早かったというだけで勝手に家を出て自由を手に入れた他の候補者への嫉妬。保身に走り、我が子を守るでもなく、焦るように日々呪詛の如く会社を継ぐことの素晴らしさやメリットを提示し、トレーナーへの道を潰してくる憎き親。逃げ場のなくなった彼に残ったものはそう多くなかった。今日この場に来れたのも、頭を冷やしてよく考えろと偶々開放されたからであり、次いつマックイーンと会えるかも不明だった。
私は彼の境遇を聞いて声が出ませんでした。私にとっての彼は、いつも楽しそうに笑っていて、青山トレーナーとトレーニングについてミーティングをしている横顔を眺めるのが好きだった私にとっては、受け入れがたい現実でした。でもこのままだと彼はいなくなってしまう―――例えではなく、この世から...。そう幼いながら直感した私は青山トレーナーに言うことができた為、直ぐに伝えようとした時です。タイミングよく青山トレーナーが帰ってきました。
「青山さん!あのっ!」
「待て待て。...おい坊主」
「...なんですか?」
焦る私をたしなめ、トレーナーが取り出したのは2枚のメモ用紙。それにはそれぞれトレーナーの字で何かが書かれていた。
「選べ。選ぶなら...手を貸してやる。選べないならここまでだ」
「えっ?」「......」
一体なんの話なのかと思い食い入るようにメモ用紙を覗くと、片やトレセン学園の電話番号が書かれた物と、パスポートと書かれた物であった。
「あの...青山さん?これは...?」
「俺は近い内に海外に行く。お前が着いてくるってならパスポートを取れ。それかトレセンにいる俺の知り合いにお前の事を託すから、そこで上手いことやれ」
「っ!」
トレセン学園!その時私は小躍りしたくなる程晴れやかな気分になりました。私にとっては将来設計通りのコース。選択して貰えるのならこれ以外ないと、私は興奮しながら彼の方へ勧めようとしました。
「ねぇ!おに...あぅっ...」
でもそれは出来ませんでした。彼の表情に変化はなく、ただ力ない目で目の前に置かれたメモ用紙を焦点が合ってるのかも怪しいまま眺めている...というよりただ目が偶々そこを向いているだけとも言える状態でした。
そんな状態なのに私欲を優先して勧めようとした私は...自分に幻滅しましたわ。これでは彼を追い詰めた両親と同じではありませんか。
そんな自分に嫌になった私は一度引いた涙がまた溢れてきてしまい、止まらなくなってしまいました。
端から見れば、ボロボロの青年が力なく座っている横で少女が号泣し、それを無言で眺める1人の大人。異様としか名状できませんわ。
そしてどれだけ時間が経ったか、体にある水分をあるだけ出したのか、泣いても涙がでなくなった頃、ずっと黙っていたトレーナーがため息をつきながら言いました。
「時間だ坊主。...答えないならもういい。後は好きにしな」
そう残すと彼の前においていたメモ用紙を回収し、荷物を持って私達に背中を向けた時、私はほぼ無意識に体が動いていました。
「おっお待ち下さいまし!」
「...なんだいマックちゃん。俺は忙しいんだ」
「ご、ごめんなさい...ですがっ彼はっ...」
なんとか繋ぎ止めなければ。ここでトレーナーが行ってしまっては本当に彼は頼れる人がいなくなってしまう。そう頭の中でけたたましいまでのサイレンが鳴り響き、なんとしても着地点を見つけろと頭をフル回転させました。
「俺だって何も思わない訳じゃない。ただ、本人が動こうと思わなければどうにもならない事だってあるんだよ」
「っ...」
けれどそんなに上手い話はない。これが物語であればピンと妙案が浮かぶのだろうが、現実はそんなに甘くない。
「じゃあな」
「っ...そんな...」
目の前が真っ暗になるとはこういう事なのだろうと察しました。とりつく島もなく、文字通りの絶対絶命。私自身も心が折れて膝から崩れ落ちる、そんな時でした。
「マック...イーン...」
「っ」
それはほんの偶然でした。少しでも彼と距離が離れていたら、いくらウマ娘といえど聞こえなかったであろうか細い声。
「ごめ....んな」
「っ!....青山さん!!お待ち下さい!!!」
もう頭の中なんてぐっちゃぐちゃで、当時何を思ってこの結論に至ったかなんて、今では検討もつきません。ですが...これで良かったと胸を張って言うことはできます。
「今度はなんだい...」
「...私!メジロマックイーンが、彼を婿として招き入れますわ!!!」
「はぁ!?」
自分で発言した意味を当時完璧に理解していたかといえばそれはNOでした。ですが、ここで言わなければ一生後悔すると思ったのは事実です。
「私はメジロです!メジロと縁が出来るのであれば、相手方も納得するのではありませんか?!」
「おまっ、何言ってんだ!バカなこと言うんじゃないよ...」
「私は本気です!」
「おいおい...たかが小学生がそんな大見得きるんじゃない」
「それで彼を守れるなら安いものです!」
「......」
我ながら酷い有様でしたわ。メジロのなんたるかもわからない娘が責任も取れないような事を次々と平気で口走るんですから。トレーナーもどう言葉を選べばいいかもわからず押し黙ってしまいました。
すると、
「落ち着きなさい。マックイーン」
「っ」
凛と響く馴染みのある声...それは私にとって一番尊敬し、そして一番助力を欲していたお祖母様だった。
「婆さん!?どうしてここに...」
「彼の事が気になりましてね。...ここは私に任せてください。メジロとしての話になりそうですから」
「...わかりました。何かあれば遠慮なくご連絡を」
トレーナーはそう言い残しチラッと彼と私を交互に見た後、足早にいなくなってしまいました。呆気にとられた私は、お祖母様の
「よく頑張りましたね、マックイーン。かっこよかったですよ」
そう温かい言葉を掛けてくれた事に安堵し、私はそこで気を失ってしまいました。
その後はお祖母様が動いて下さったようで、気がついた頃には全てが片付き、彼は暫定ではあるものの、私の婿という事になりました。勿論、法律的な問題もありますから、内輪的にそうなっている、というだけではありますが。
彼の家の方もメジロが出てきたとなっては何も言えないらしく、二つ返事で事が済んだというのを数年後にお祖母様からそれとなく教えられました。...それなら最初から事を起こさないで欲しかったですわ。そのせいで彼は...変わってしまいましたから。
この一件以来彼は笑う回数も極端に減り、家の事についての話題はタブーとなる他、私や周りの人にまで壁を作るようになり、今までのような関係ではいられなくなってしまいました。一応、トレセン学園に彼が就職するまでの間に彼が日常生活に復帰出来るようにメジロ家総出でサポートもしましたが、完璧とは言い難く、報告によれば過労気味になってもお構いなしの自己犠牲が度々起こるとの事。
じいやによれば、トレセン学園という居場所を確保した私達への恩返しだとの事ですが...私からすればそんなもの必要ありません。貴方が居てくれればそれでいいのです。そして――――
『またいつの日か、あの時のように心の底から笑っている貴方が見たい』
そうそう。一応私の婿ということになってはいますが、強制ではないのです。それでは彼らと同じになってしまいますからね...。ですが、いつか必ず振り向かせて差し上げますわ!